2009/06/28

翻訳小説と二人


 6月27日(土)、ジュンク堂新宿店でのトークイベント

 豊崎由美の「翻訳小説新刊リレー対談 Vol.3 ゲスト:岸本佐知子」
 http://www.hakusuisha.co.jp/news/2009/06/_vol3.html
 
 を聞いてきた。

 こういう書店主催のトークショーって、遅刻して途中入場になるのはすごくバツが悪い気がするので余裕をもって早めに着くようにしており、はじまるまでのあいだは席について本でも読んでいようと思うんだけど、持ってきた本にはなぜだかいつもほかの書店のカバーがかかっていて、会場設備の確認とかしている目の前の店員さんに申し訳ないかんじで取り出せなかったり、かといってカバーをむしり取って読むというのも、なにせ周囲はそのようなイベントに来る人ばかりだからおそろしく、この自意識はどうせ一生治らないとあきらめていっそ革製のブックカバーなんてものを買っておくのがよいのかもしれないが、しかしそれだったらそのお金で本の1冊でもほしい、そしてそれには書店のカバーをつけてもらったら、ホラ問題は何も解決していない――とか考えていると店員のかたがマイクで何か喋っていて豊崎・岸本両氏が入場、トークショーははじまった。
 以下、あたりさわりのなさそうなところだけメモ。じつはあたりさわりがあるとわかったら消す。

 私ははじめてだったんだけど、今回「Vol.3」になっているこのイベントは、豊崎さんがホスト役になって海外文学(翻訳小説)好きをゲストに招き対談、そのゲストが次のゲストを紹介する、という方式らしい。
 豊崎さんが聞き出した、岸本さんの海外文学との出会いと読書遍歴は
 
 ・小学生のとき、ルナアル『にんじん』に遭遇
 ・中学で筒井康隆の衝撃
 ・大学でブローティガン

 これらはエッセイなんかでも語られているとおりだけど、『にんじん』にいたっては、実際に繰り返し繰り返し読み込んだ岩波文庫(今の版とは別)を持参、朗読までしてくれた。詳しくは書かないが、『にんじん』の中身も、その実物もすごいものであるのはよくわかった。あとさき考えず、本には果敢に書き込みをすべきである。
 14才の脳にくさびのように打ち込まれた筒井康隆、というのはうれしくなるほどよくわかる。あと、豊崎さんは高2で中央公論社「海」のラテンアメリカ特集に触れて以来の南米読者らしい。筋金らしい筋金だと思った。

 いちばん真面目な表情で語られていたのはブローティガンおよびその藤本和子訳についてで、そのなかで「藤本和子は訳もすごいが訳者あとがきもすごい」という話になり、『アメリカの鱒釣り』(のあとがき)の一節が紹介された。そうなると、部屋に帰ってから本棚の『アメリカの鱒釣り』をひっぱり出さないわけにはいかない。ここだ。
《ブローティガンのことばは完了しない。いつもそれはつぎのはじまりを予期させる。そして、同時に、はじまりは、いつもおわりをのみこんでいる。そして、そこで、わたしたちは、たしかにひとつの現実にふれた、と感じるのだ。
 ブローティガンのことばは幻想的だ。幻想は、人工的に現実を完結させない、と思う。むしろそれは、現実を逆探知する回路なのだ。そして探知された現実は、わたしたちの思想を完結させるものとしてあるよりは、完結しがちなわたしたちの洞察を揺さぶるものとしてある。人工的に現実に終止符を打てると予定する想像力を敵にまわして、ブローティガンはアメリカを描いてみようとしたのだろう。かれの心を惹きつけたのは、アイデアではなく現実だった。現実に近づけば近づくほど、かれの語り口は幻想的になるようだ。》

 本篇のあとに訳者あとがきでこんな文章に出遭ったら、当のその本はもちろん、部屋にある限りのブローティガンをみんな読み返したくなってしまうだろう。
 
 後半は、最近出た翻訳小説から、読んで気に入ったものを二人が交互に紹介してくれた。どれもこれも「こんなに面白かったんだよっ!」と伝えたいあまり、両者とも喋りながら顔がほころんでいるようだった。十二分に伝わる。まずそれを貼る。

昨日のように遠い日―少女少年小説選昨日のように遠い日―少女少年小説選
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世界の涯まで犬たちと世界の涯まで犬たちと
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 このうち、『世界の涯まで犬たちと』は、なんか動物に癒されちゃったりする話なんじゃないかと思って勝手に警戒していたのだが、ぜんぜんちがうようなのでぜひ読んでみたい。レベッカ・ブラウンも、この『犬たち』は体の贈り物とはタイプが異なるそうで、そう聞くとがぜん興味が湧く。
『昨日のように遠い日』は…… ほしい、ほしいんだが、これは以前読んだ雑誌「飛ぶ教室」の特集→これに、訳し下ろしの短篇をプラスしたもので、あらためて買う(買い直す)踏ん切りがついていなかった。二人とも絶賛していたが、収録作中、ダニエル・ハルムスがすごいんだ。かの文芸誌モンキービジネスでも継続的に掲載されているので欠かさず読んでいる。
 
 最後、岸本さんから予告された次回「Vol.4」のゲストはかなり意外な人選だったのでおどろいた。期待。
 
 ところで、「翻訳小説の読者は全国で三千人」とは豊崎さんの持論だが、同日ほぼ同時間に同じジュンク堂の池袋店で

 小野正嗣×陣野俊史「ロベルト・ボラーニョと21世紀の海外文学」
 http://www.hakusuisha.co.jp/news/2009/06/post_161.html
 
 こういうトークショーもやっており、少ないパイを二分するようでいかがなものか。ほんとはこっちにも行きたかったのであるよ。
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2009/06/25

幽霊/-じゃないし (6)


前回…

 6月14日(日)にみにいった「ベケット・カフェ」の続き。
 
 最初に上演されたのは、「幽霊三重奏」のほうだった。事前に読んでおいた"Ghost Trio"である。
 これは「テレビのための劇」であるわけだから、それを舞台の上でやるにはどんな工夫をするのやら。そういう付け焼き刃の興味でいってみたら、まず、舞台と客席のあいだには、天井から白い布が垂れていた。でも布は薄いし、幅も舞台よりだいぶ小さいので、そのうしろもよく見える。
 
 戯曲を読んだ限りだと、縦長の長方形の部屋で、右の壁にドア、そのそばに男が座る椅子、正面の壁には窓、左側に鏡と布団、という配置だった。
 でも舞台は横長である。そこで今回の上演では、戯曲の部屋を90°左に回転させて、客席からだとドアが正面に見える格好になっていた。左に窓、そして右側が、もとは壁のなかったはずの面、ということになる。
 徐々に席が埋まってきたころに、幕のうしろに登場した男の役者がストレッチをはじめた。さまざまな柔軟。あの柔軟の真似を毎日し続ければ、背中全体を覆う私の凝りもほぐれるのじゃないか、しかしそれだけ体を動かすスペースがうちの部屋にはないのだよなと悲しく思いながら眺めていると、ストレッチは次第にエスカレートし、準備体操というにはあんまり激しい動きを見せてくれるのでおどろいた。なにせ壁を走りさえした、と書くに留めたい。

 ともかく、「テレビのための劇」だから、ほんらいはカメラで撮られた映像だけがこの作品の姿になる。なら、舞台であってもカメラは使うだろう。
 だから垂れ下がる白の薄布がスクリーンとして使われるにちがいないと考えていると、はたして右手にカメラマンが登場し、カメラの調整がてらストレッチする男を撮る。その映像は、やはり前面の薄布に映された。
 そのうち男は椅子に座り、さっきまでの奔放な運動がウソのように身を固め、「女の声」が聞こえてきて劇がはじまる。戯曲では3台あったカメラが、ここでは1台で、カメラマンの移動でもって代用するらしい。その人が薄布のうしろで近づいたり離れたりしながら男を映すという作業が客の私たちには見えており、同時に、薄布のスクリーンに映された男の像も見える。舞台の演技と、その実況中継を重ねて見せるんだと理解した。

 ただし、舞台に作られた部屋は、上述のように横向きになっている。それを右側から映しているから、部屋の左で椅子に座る男に向かって、カメラは右から左に移動して男に近づき、また右に下がったりと往復する。
 でも、当然ながらスクリーンには、部屋は縦に映る。そのせいで、舞台の上でのカメラマンの左右運動は、スクリーンでは、部屋の奥にいる男に接近し、また離れるという前後の運動に変換される。
 なんだかうまく書けた気がしない。
 スクリーンのうしろのカメラマンがに動いていくと、スクリーン上の映像はに向かって進む。カメラマンが右に戻ると、映像はぐーっと退く。そのふたつが客席からは同時に見える、ということで、これはへんなかんじである。
 とはいえ、急いで補足する。
 いま、こう書いていると、まるで気分が悪くなるように2種類の動きが交錯していたみたいだが(加えて、それを言葉でうまく説明できないもどかしさがまた気分の悪さを生むのだが)、交錯はたしかに交錯であっても、じっさいに見ているときには、酔うほどの混乱は発生していなかった、と思う。
 交錯の発生源はカメラだが、それを扱うカメラマンの生身の姿も見えているということが、私の視覚に錨を下ろして安定を与えてくれたんだと思われる。
 そう、「カメラマン」は戯曲にはいなかった。スクリーンの映像だけを見るなら、それはおそらくテレビで放映された"Ghost Trio"に近いものだったんだと思われるが、映像を提供するだけではなく、じっさい舞台の上にいて私の目に見えてしまっているんだから、このカメラマンも登場人物になったのにちがいない。この舞台をつくった人たちは、戯曲に忠実に従いながら、登場人物を増やしてみせた、ということになるんじゃないだろうか。それを「幽霊」とか言うのはいくらなんでも安易であるけれども。
 
 暗い場内でこんなふうに考えていられたのは、戯曲が一応あたまに入っていたからだ。読んでおいてよかった、と思うと同時に、読んでしまった以上、「何も知らずに実物にぶつかる」ことはできなかったわけで、両者が両立しないのは当たりまえだがもったいない。
(姿は見えず、マイクを通して聞こえてくる「女の声」は非常にきびきびした響きで、私のイメージとずれなかった。そしてやっぱり、自分が英語を読みちがえていたと気付かされることも数回あり、これまでに引用した部分でも、あきらかなまちがいがいくつかある)
 終わりまで見て、少年が雨のなか何を伝えにきたかはやはりわからず、つまりあれはわからなくてかまわないんだろうが、ぎゅう詰めの客席で息も殺して、私たちはいったい何を真面目な顔で見守っているのだろうと思うとおかしかった・・・ が、前回の「あたしじゃないし、」の感想でも同じことを書いていた。

 それから「あたしじゃないし、」の上演があり、それも終わったあとには、ふたつの劇に出演した役者および演出家、翻訳者のかたがたが舞台に座って、考えていたことを話したり、客席からの質問を受ける時間があった。
 客席のなかに宮沢章夫さんがいて、「あたしじゃないし、」の今回の演出について演出家のかたとしばらくやりとりをしていたが、宮沢さんが話しているあいだ、そのすぐ前の席に座っていた女性がずっと身をこわばらせていて(失礼ながら)面白かった。
 人間は自分のうしろを見ることはできない、とあらためて書いてみると、カメラを使って見たり見られたりのカメラマンや(「幽霊三重奏」)、一方的に喋っているのか聞き手の反応が影響を及ぼしているのか謎の関係(「あたしじゃないし、」)なんかがこじつけ気味に思い出されてくるのだが、ともあれ今回、ベケットの戯曲をはじめて読み、ベケットの劇が上演されるのをはじめて見た。次回があったら無条件で行くつもりでいるが、できれば演目はまたさっぱり意味のつかめないものであってほしい。
 もっとも、戯曲集のなかに「意味のつかめるもの」がいくつあるのかわからない。自分の理解をとおく越えるそんな本が部屋に積んであるのは、ぜんぜん悪いことじゃないだろうと考えながら中野から帰った。雨が降りはじめるまでには、たしかもう数時間あった。



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2009/06/21

幽霊/-じゃないし (5)

The Complete Dramatic Works

前回…

 ベケット、"Ghost Trio"(「幽霊三重奏」)を読み終わったので、次に読むのは――と、どうしてベケットを読んでいたのかには理由がある。
 
 もう2週間くらいまえの話、宮沢章夫さんの富士日記2.1を見ていて、ベケットの芝居を上演している「ベケット・カフェ」というグループ(?)が、6月の12・13・14日に公演を行うというのを知ったのがきっかけだった。
 作品は「幽霊三重奏」(Ghost Trio)と「あたしじゃないし、」(Not I)の2本立て。14日の日曜なら行けそうだったのでチケットを予約した。
 その時点で考えていたのはこういう順番。

 (あ) 部屋にある戯曲集で"Ghost Trio"を読んでみる
 (い) その感想を書きつつ、"Not I"を読んでみる
 (う) その感想も書いてから、14日、舞台を見にいく
 (え) その感想まで書く

 結局、"Ghost Trio"を読んで感想を書くことまではした。それが前回までの更新分。しかし次の"Not I"にはどうにも歯が立たなくて、ぐずぐずしているうちに14日になっていた。
"Not I"、すらすら読める人もいるんだろうが、私には無理だった。ちなみに、こんなである。“口”という登場人物が(というか登場人物の“口”が)最初から最後まで喋り続けていることだけはかろうじてわかる。ぜひともリンク先をひとめ見ておいてほしい。
 
"Not I"は読めないし、"Ghost Trio"の感想も最初の1回分しかアップしてないし、と中途半端な状態ながら、しかしそんな私の事情はどうでもいいので、晴れた日曜の14日、中央線に乗って会場である中野テルプシコールにいってみた。
 中野の駅を南口から出て、ネットで見た地図を思い出し、線路沿いのまっすぐな道路を高円寺のほうへ歩いていくと、そのうち人の並んでいる一角が見えてきて、遠目にもそこだと知れた。日記風に書いているが、今日は21日だから、ちょうど1週間まえだった。
 小劇場とかに不慣れな私には、中野テルプシコールは外観からして迫力あふれる建物で、その時点でもう楽しくなっているのだが、玄関のような入り口でお金を払い、自分のスニーカーをナイロン袋に入れてもらうあたりでうれしくて仕方がなくなった。むろん席は狭い。席というか、幅の広い階段にぎっしり座る。いただいたパンフレットをちらちら読んでいるうちに満席になり、100人は越えていたと思うけど、うしろを向けない(うしろの人と近すぎる)ので人数はよくわからない。やがて満席も超過して、舞台を侵食するように座布団が並べられる。
 劇の上演を見るだけではわからないはずの、"Not I"の冒頭でト書きにあるのはこんな指示だった。
舞台の上は、“口”(MOUTH)以外は真っ暗。“口”は舞台奥、客席から見て右側、8フィートくらいの高さに。ごく近く、下から口にだけかすかに照明。顔の残りは影。マイクは隠す。
“聞き手”(AUDITOR)は舞台の手前、客席から左側に。長身。立っている。性別はわからないようにする。頭から足元まで、フード付きのゆるい外衣をすっぽりかぶる。全身にぼんやり照明。約4フィートの高さの、見えない台の上に立つ。舞台右奥の“口”と斜めに向き合う姿勢だけで、話を聞く様子を表現する。最後までぴくりとも動かない。例外的に、指示のある4ヶ所で少し動作。注を見よ。
場内の照明が暗くなるのにつれて、“口”の不明瞭な声がカーテンのうしろで始まる。照明が消える。カーテン越しに聞き取れない喋りが続く。10秒間。カーテンが上がり始めたら、台本をもとにうまくアドリブで喋り、上がりきって客の注意を引きつけたところで――

 その日の中野テルプシコールにあらわれた“口”は、たしかに口以外を黒い布で隠した女性で、顔の半分以上を覆うその布の下に、ボリュームのあるもじゃもじゃの黒髪がむりやり押さえこまれていた。舞台の右奥に用意された2メートルくらいの脚立をとんとんのぼってその上に立つと、下から脚立を包むようにして大きいゴミ袋のような黒ビニールが渡され、女性はそれを体のまわりに貼りつけた。クリスマスツリーを真っ黒にしたようなおかしなものの頂上近くに、口とその周囲の肌だけがのぞいている。
 対する“聞き手”の女性も、赤サビの浮いた四角い台の上に立って“口”のほうを向いていた(つまり客席には背を向けている)。こちらは口だけを黒布で覆っていた。髪はくすんだ金色だったかな。
(記憶だけで書いているので、事実とちがったかも知れない。以下同じ)

 観客の前でそこまで準備がすむと照明が暗くなり、“口”がおもむろに喋り出すのは、どこかの不幸な女性の一生らしかった。ものすごい早口の、切れ切れでまとまらない言葉でもって、その女が生まれてすぐ親から捨てられ、だれとも口をきかずにひとりぼっちで暮らし、長じて60才だか70才になったとき何ごとかに遭遇した、というような話がまくしたてられる。
 怒ったり、あざ笑ったり、繰り返しの多い譫妄状態の独白の合間合間に、いや誤解しないで、いま話に出しているのは「あたしじゃないってば!」「あの女のことだってば!」と絶叫が入る。
 舞台左手前方の“聞き手”はずっと“口”のほうを向き、いっさい喋らないまま、ときどき“口”の言葉に押されるみたいにして体をくねる。“口”の言葉に反応しているようなんだけど、その“聞き手”の反応が“口”に届いているのかどうかはわからない。いかんせん、“口”に目はないようだし。しかし、“口”はときおり「え? なに? ちがうちがう、あたしじゃない!」みたいに喋るので、耳は聞こえているようだから、お互いに反応し合っているのかもしれない。そうではなく、一方的に喋るのと、好き勝手に身をくねらせる2人の女が舞台の上にいたのかもしれなかった。
 かいもく意味のわからない状態で、おそらく20分ばかり“口”がノンストップで喋り続け、たしか、そのまま終わった。
 今回の台本は、岡室美奈子さんという専門家が訳し下ろしたものだそうで、まるっきり現代の言葉、すばらしく軽くて痛い喋りになっていた。軽いというより、安いの。ひとやま五十円くらいの極安の言葉。切実に喋れば喋るほど、絶望的に安くなり、安いからなおさら絶望的になって、聞いているこちらは笑ってしまう。終わりに近づくと「神さま?」とか言い出して、もうさっぱりわからないながらもずっと引き込まれた。従来の訳を知らないが、これはよかった。もういちど聞きたい。それが無理なら文字で読んでみたい。演劇誌でも文芸誌でも、単発でいいから載らないものだろうか。
 どんな舞台も非日常空間なんだろうけど、そういう、予想していた非日常空間からもはみ出していたような20分。「いや、ベケットならふつう」なのかもしれないが、私ははじめてだったから、自分たち客席にいる全員が聞き手なのに舞台の上にも“聞き手”がいるのは何でだろうとか、これを神妙な顔で見ているわれわれは何なんだろうとか、かなり素朴なことを面白がりつつ、いま思い出しても奇妙な時間を過ごした。見に行ってよかった。

 書きたいままに書いたので順番が狂ったが、この日の上演は「幽霊三重奏」「あたしじゃないし、」の順だった。「幽霊三重奏」については次回書く。
…続き



*「ベケット・カフェ」のブログはこちら
 「vol.2」になっているのは今回が第2回めの公演だったからだと思う。
 きっとあるだろう「vol.3」にもぜひ行ってみたい。
2009/06/19

劇的にメモしました


 きのうの続き。あとで猛烈に後悔する気もするが、しかし、こんなふうに並べたっていいんだというのはひとつの発見であった。


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 断わられているのはサミュエル・ベケット氏。
 なんでも断れる気がしてきた。もうちょっと、断わってみよう。



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余命1ヶ月の花嫁   断る力 (文春新書)



 ずいぶん断わった。あすは断わらないようにしたい。
2009/06/18

断わらない


 ベケットとは関係ない話。
 
 「勝間和代十夜」が面白くて発作的に更新。
 私はさっき、ここから読んだ。
 
 → 「勝間和代十夜」青色28号
第十夜
 
 こんな勝間和代を見た。

 これだけで笑ったが、続きもしっかり(ものすごくしっかり)書いてあってブラボー。
 終わりにその他の夜がリンクされていて、それでようやく流行っているのがわかったんだけど、そこに着くまで「これはいったいなんなんだ」「つか、どこからこんなの書こうという発想が」とおそれつつ読み進めていた時間こそが何ものにも代えがたいと思った。
(こう書いてしまったせいで、まだ知らなかった人から私のかんじた正体不明の感触をいくらか奪ってしまうことになるのは申し訳ない)

 作者の人たちが、元テキストをちらちらにらんではキーボードを叩いている姿を想像すると、なんだか胸が熱くなる。結果できあがったのが「勝間和代十夜」であるのがすばらしいと思う。
 ひとしきり読んできてから、リンクした第十夜をもういちど読み、うまいなあ、まるでほんとの「夢十夜」みたいだなあと思った。よく考えたら、はからずもダブルミーニングになっていた。
2009/06/17

幽霊/-じゃないし (4)


前回…

 ベケット"Ghost Trio"(「幽霊三重奏」)、第3幕の続き。

 男がドアを開けると、そこにいたのは――
開いたドアの先、廊下に立っている少年の全身像。黒いカッパを着て、フードは雨に濡れ光っている。

 いや、いやいやいや。意外すぎて笑った。そんなやつのことは聞いてない。
 最初にあった、細かい舞台設定や登場人物(「女の声」と「男」しかない)の載っているページにも書いていなかったんだから、本当にいきなりの登場である。声を出していた女とも、その声のなかで触れられていた「彼女」とも結びつけようのないキャラとして、子供は予想してなかった。
少年、カメラには映らない男の方に、白い顔を向ける。5秒間。小さく首を振る。顔はあげたまま。5秒間。もういちど首を振る。顔はあげたまま。5秒間。くるっと背を向けて、去る。遠のく足音。少年がゆっくり離れ、廊下の端の闇に消えるまで、同じ位置から撮影。誰もいなくなった廊下、5秒間。

 ふつうに考えたら、男が少年に何か尋ねて、それに対するレスポンスが少年の「首を振る」動作なんだろうと思われる。
 ここまで繰り返されてきた、男の落ち着かない身ぶりを、周囲に何かの気配をかんじているせいかもしれないと私は受け取ってきた。
 いま、少年がやって来たのを読んで、男ははじめから少年を待っていた、それでずっとそわそわしていた、というふうにも考えられるようになった。
 少年は何かを伝えに来たのだろうか。
 その内容はぜんぜんわからないが、「首を振る」んだから(しかも二度)、男の予想・期待に対する否定的な知らせだったんじゃないかと思われる。それはなんだ。
 だいたい、男が待っていたのはこの少年なのか。別の人を待っていたのに(たとえば「彼女」)、代理で少年がやって来て、「その人は来られなくなった」くらいのことを伝えて帰っていった…… あ、でも、少年は来てから去るまでずっとカメラに映っていて、口を開く指示はないから男に何かを説明するわけではない。「首を振る」だけで伝えられる、両者わかったうえでの何かの結果をもたらしたと考えるほうが自然かもしれない。
 
 もっとも、ぜんぶ想像だし、それ以前の問題として、こんなふうに“動作のうしろには当然なんらかの意味がある”と考えてしまってよいのか、というところから不明である。
 男はただ指示されるままに部屋のなかを移動し、たまたまついている廊下に少年が顔を出して単純な仕草をするだけ、そこに一切の事情はないのかもしれない。つまり台本に書いてあるからそう動いているだけ、と。
 
 疑心暗鬼の私をよそに、男は再び、カセットを手に椅子に座る。カメラは全景に戻り、うつむいた男の頭が映って、大きくなった音楽は曲の最後まで続く。
静寂。男、顔をあげる。顔がはっきり見える(2回目)。10秒間。

 カメラはまたゆっくりと全景に戻ってフェイドアウトする。
 "Ghost Trio"(「幽霊三重奏」)はこれで終わりである。

…続き



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2009/06/16

幽霊/-じゃないし (3)


前回…

 ベケット"Ghost Trio"(「幽霊三重奏」)の続き。

◎ 第3幕(Re-action)

 第1幕と第2幕はどちらも2ページずつだったが、第3幕は3ページある。
 ここでは、なんと「女の声」がない。前回までの引用部分では、女の声と区別するため、ト書きは斜体にしていたんだけど、以後はもうト書きしかないので、ふつうに書き写す。
第2幕最後の「繰り返して。」からすぐ続く。近いカメラでとらえた、ドアと男。音楽が聞こえる。5秒間。
頭、手、カセットと順にアップ。少しだけ大きくなる音楽。5秒間。
音楽が止まる。第2幕の2番めと同じ動作(男ははっと顔を上げ、かがんだままドアのほうに向きを変え、動きを止める。)。5秒間。
第2幕の4番めと同じ動作(男、最初の格好に戻り、カセットに身をこごめる。)。音楽、再開。5秒間。

 こんなかんじで、第2幕にあった動作が反復される(○番め、というのは、実際の台本だとぜんぶに細かく付いている番号)。
 ただし、第2幕だとだいたい全景カメラから撮っていたのが、第3幕では近いカメラの映像を使う、という点がちがっている。だから、まったく同じ映像はないんだと思う。
 そしてだんだん、はじめての展開が出てくる。
近いカメラからのショット。椅子、カセット、右手でドアを開けている男。5秒間。
ドアから廊下が見える。グレーの壁に挟まれた、長くて狭い、グレーの長方形(0.7m)。何もない。向こうの端は闇の中。5秒間。

椅子に置かれたカセットを、上からアップで。小さなグレーの長方形が、大きなグレーの長方形である椅子に乗っている。5秒間。

 即物的すぎて、逆に思わせぶりになっている。なんだかドキドキしてしまう。
窓を開けるきしみが徐々に大きくなる。静かな雨音。

 おお、
窓から外のカット。夜。明かりはほの暗く、雨が降っている。雨音がほんの少し大きくなる。5秒間。

 おお! なんかいいかんじである!
 ……でもやっぱり、部屋のなかに戻る。窓は閉まる。何も私だって、ほんとに幽霊なり「彼女」なりが登場すると思っていたわけではないが、ちょっと高揚しただけに残念である。高揚したんだからそれでいい、というのはたぶん正しい。
 それから壁際の布団がなめるように映されたりするので、やっぱり男と「彼女」には何かあったのではないかと考えたいが邪推かもしれない。そうであるともないとも、どこにも書いてない。

 このへんで第3幕の半分である。
 大きな動きではないにせよ、男は動いているし、男が止まっているあいだもカメラは動いているわけで、けっこうぐねぐねと気持悪い映像になっているのじゃないだろうか。
 あるいは「なめらかな映像」になるのかもしれないが、最初から立ちこめていた不穏な雰囲気が、何も起こらないためにずっと持続しているわけで、やはり不気味、気持悪いかんじになるように思う。
 それとまた、「女の声」が消えたこの第3幕で映像がいろいろ動くのは、まるでうるさい監督者がいなくなって、カメラが好き勝手にふるまっているような印象がある。いっぽう、何か厳密な規則に従って動いているようにも思う。どっちなのか、どっちでもないのか。
 「女の声」は、第1幕ではカメラに、第2幕では男に動きを指示しているようだった。映像作品としてできあがったものなら、「女の声」は声として聞こえ、それが第3幕から沈黙するわけだから、かなり大きく変わるわけなんだろう。
 しかしこうやって台本を読んでいるだけだと、「女の声」とト書きとでどうちがうのか、あんまりわからないようにも思う。「女の声」が命令し、命令によってト書きが生まれる、という段階がなくなるのはたしかにそうなのだが。
 じぶんで動くようになったカメラ、それが幽霊っぽいというのはまあ、あるにちがいない。私が読んでるのは、そのカメラへのびっしり細かい指示なんだけど、幽霊が指示通りに動いても悪くはない。
鏡のアップ。何も映っていない。小さなグレーの鏡が(カセットと同じ寸法)、大きなグレーの長方形である壁にかかっている。5秒間。

 で、ようやく男の顔が見える。たしかはじめてじゃなかったか。
鏡に映った男の顔のクローズアップ。5秒間。目を閉じる。5秒間。目を開く。5秒間。うなだれる。頭頂部が鏡に映る。5秒間。

 どんなに地味でも、顔が見えたらさすがに緊張が走ると思うんだが、男はやっぱり最初の椅子に戻ってしまい、いつものポーズで動きを止める。
 しかしだ。
音楽が止まる。第2幕の2番めと同じ動作(男ははっと顔を上げ、かがんだままドアのほうに向きを変え、動きを止める。)。かすかに近づいてくる足音。止まる。小さな音がドアをノックする。5秒間。もう一度ノック、やはり小さい。5秒間。

 男がドアを開けると、そこにいたのは――というところで続く。

…続き



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2009/06/15

幽霊/-じゃないし (2)


前回…

 ベケット"Ghost Trio"(「幽霊三重奏」)の続き。

◎ 第2幕(Action)
女の声:彼は、彼女の声が聞こえると思います。

 第1幕ではじっと座っていた男が、第2幕では動き出す。でもそれは、第1幕で部屋の説明をしていた女の声に指示された動きであるみたい。
男ははっと顔を上げ、かがんだままドアのほうに向きを変え、動きを止める。5秒間。
女の声:誰もいない。
男、最初の格好に戻り、カセットに身をこごめる。
女の声:もう一度。
(男、4行上と同じことをする)
女の声:次はドアへ。
男、立ちあがり、カセットを椅子の上に置いてドアへ。カメラに背を向け、右の耳をドアに当てる。5秒間。
女の声:誰もいない。[5秒、静止] 開けなさい。

 開けてもやっぱり「誰もいない」んだが、何が起きているのやら。
 「女の声」は、この劇のナレーションみたいなものだと思っていた。テレビ用だし。だから、ひとつめの引用、「彼は、彼女の声が聞こえると思います。」に出てくる「彼女」というのは、ナレーションの女ではなく、別の女のことを言ってるんだと思う。
 とすると、この男は、その女、彼女が来るのを待っているのだろうか。あるいは、タイトルが「幽霊三重奏」であるからして、その女はほんらい来るはずのない、つまり死人だったりするんだろうか。
 男が、亡くなってしまった彼女のことをじっと考えていると、なんだか彼女の気配がかんじられてドアの向こうをたしかめている……と考えると、いちおうそれっぽい気がする。
 かりにそうだとして、その女とナレーションの「女の声」は関係ないのか気にかかる。声が「窓へ。」と言えば男は窓の前に立ち、「開けなさい。」と言えば窓を開ける。
 当然、男を演じる役者にはこの女の声が聞こえているはずだけど、劇中の男としては、聞こえていないという前提で動いていると考えるのがふつうだろう。そうでなければこの男、ドアの気配を気にしている場合ではない。
 そうすると、なんだろう、女の声は、役者に演技をつける演出家の声みたいなものか。それを劇中で聞かせてしまうという変わったことをしているのかと思っていると、次の部分はこんなふうになる。
男、布団の枕のあたりで壁に向かう。かかっている鏡で自分の顔を見る。全景カメラからは見えない。
女の声:[驚いて] あら!
5秒後、男は頭を垂れ、鏡の前にうつむいて立つ。2秒間。

 いや、「あら!」て。そんなふうに意外だったりするのなら、この声の女は劇を完全にコントロールしているわけでもないみたい。じゃあなんだ、幽霊の声か。「彼女」の幽霊の声か。いや、いっそ「彼女」とも男とも関係のない、べつの誰かの声だったりするのだろうか。
 あるいは、声が女だから錯覚しているだけで、じつは当の男の内心の声だったり? でも最初に男を「彼」と呼んでいたし、それに鏡で自分の顔を見て「あら!」はないような… まさか鏡にほかの何かが見えたとか? だったら男がもっと反応するはずだし…

 もちろん、答えは書いていない。
 書いてあるのは、とにかく女の声がして、それに従って男は部屋のなかを動くということだけだ。男が動く以外には何も起こらない(だけど、声がして男が動くということは起きている)。
 部屋を一周させられて椅子に戻った男は、じっとうつむいてカセットをつかんでいる。それを3台のカメラは全景から近づき、近づいてまた離れていく。
 最後に、男はまた立ちあがり、ドアを開いて外をうかがう。やはり誰もいない。結局、最初と同じ姿勢で椅子に座り、身をこごめているのが映される。かすかに音楽が聞こえる。
音楽は次第に大きくなる。5秒間。
女の声:止めなさい。
音楽、止まる。全景カメラの映像。5秒間。
女の声:繰り返して。

 「繰り返して。」で第2幕は終わり。
 
 音楽について書き忘れていた。使われる曲にも指示があって、ベートーヴェンのピアノ三重奏「幽霊」なんだそうである。youtubeでさがしたらすぐ見つかった(→これとか)。
 まったく便利だ。が、ということは、もしかして曲だけじゃなく、このテレビ劇も? という誘惑をおさえつつ、第3幕に続く。

…続き




The Complete Dramatic WorksThe Complete Dramatic Works
(1990/10)
Samuel Beckett

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2009/06/13

幽霊/-じゃないし (1)


 読めない本も買うべきである。突然だが。量にしろ内容にしろ、読めない本も買って部屋に積んでおくべきだけれども、「べき」の理由はわからない。やはり、読めない本は買うべきではないかもしれない。
 どちらにしろ、うちの部屋には、何年前だか思い出せないころからベケットの戯曲全集があるのだった。読んでいない。が、表紙にThe Complete Dramatic Works と書いてあるからおそらく戯曲の全集だ。英語のペーパーバックである。読んでいない。私の語学力ではたいていの英語の本は読めないが、それでもちょっとのぞいてみようかという気になったのは、ベケットの戯曲が噂に聞くとおりのベケットの戯曲であるのなら、たとえ英語が読めてもよく読めないだろうから読めても読めなくても読めないことには変わりなく、であれば、私が読んでみてもいいのではないか。読めない本も読んでみるべき、というのはたぶんまちがいない。まちがいかもしれない。ない。

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 本棚から取り出すと、背表紙だけ日焼けで変色していた。それにしてもこの顔はこわい。この顔もいずれ変色すると思うとなおさらこわい。
 見つめているとまた本棚に戻したくなるので目次のページをめくった。「謝辞」のうしろに33の作品が並んでいる。めざすのは"Waiting for Godot"ではなく――ゴドーは「謝辞」のすぐ次に来る――、"Ghost Trio"というやつだ。「幽霊三重奏」。もういちど目次で作品数をかぞえ直してみた。32だった。


"Ghost Trio"

 テレビ用に書かれた戯曲だそうで、最初の放映は1977年4月17日、とある。チャンネルはBBC2。知ったことかと言いたい。
 ぜんぶで3幕。はじめのページに、舞台の物の配置など細かい指示がある。問題は、登場人物というか登場するのが、「女の声」と「男の人物」の2人(2つ)しかないことで、早くも不安である。
 
 横幅よりも奥行きのほうがやや長い、長方形の空間。右側の壁にはドアがあり、その先は細長い廊下につながっている。奥には窓がひとつ。左の壁ぎわには、鏡と、粗末な布団。ドア、窓、鏡の横に男が立つらしい。
 そして何より、手前から奥に向かって、縦一列に3台のカメラが配置されるようである。最初のカメラが部屋の外側から全景をとらえ、2番目は部屋にちょっと入ったところから撮影、3台目はもっと奥にあって、ドアと男・窓と男・鏡と男を間近から写すようである。
 とりあえず順番に、全景カメラ・真ん中カメラ・近いカメラ、と名付けておく。
 
 私は演劇についても戯曲の読みかたについても無知であるし、それを差し引いても何をするのかさっぱりだけど、この戯曲というか台本の本篇(というのだろうか)は7ページしかないのでついていきたい。

◎ 第1幕(Pre-action)
 
 もう脱落しそうだ。ルーズリーフに舞台の図を書いて、だれがどう動いてどうなるか追ってみようと思っていたが、「女の声」と「男の人物」しか出てこないのでは意味がない。声は人間か。
 それともうひとつ、これは「テレビのための劇」なので、戯曲はみんな、シーンというかカットごとに番号が付されていて、ト書きは「どのカメラで、何を、どのように撮るか」の指示になっている(たぶん)。私は文字から「ここはこんなものが映っている、こんな画面になっているはず」と想像しながら読むしかない。
 はじめに全景が写されて(全景カメラ)、女の声がする。
女の声:こんばんは。わたしの声は小さな声です。だから穏やかに話します。[間] こんばんは。わたしの声は小さな声です。だから穏やかに話します。[間] 何が起きても、高くも低くもなりません。[間] 見てください。[間] よくある寝室です。[間] 向こうの端は窓です。[間] 右のドアはないと困ります。[間] 左には、壁に接して布団みたいなものがあります。[間] 明かりについて。ほのかに、くまなく照らされています。光源は見えない。まるですべてが光を発しているような。ほのかな光。影はありません。[間] 影はありません。色について。無色です。みんなグレー。グレーの影です。[間] グレーという色、グレーという色の影、でもいいです。[間] 見たままのことを話してごめんなさい。[間] 音は下げたままで。[間] それでは近づいて見ましょう。[間] 床です。

 こんなにかしこまって喋ってるのかはわからない。もっとくだけているのかも。でも、素っ気ない舞台に聞こえてくる声としてはこんなかんじかなあ、というのが私の限界である。そのくせ、あえて言う。地味。
 このあと、床が映され、壁が映されるのだが、おそらく床のアップ・壁のアップが編集で挟まれるのだと思われる。
床のアップ。滑らかなグレーの長方形。0.7m×1.5m。5秒間。
女の声:ホコリです。[間] この見本で、床をぜんぶ見たことになります。壁。

 と言って、こんども同じ0.7m×1.5mの長方形を5秒映すのである。そして、
女の声:ホコリです。[間]

 って、これは冗談なのか。神妙な顔でくだらない真似をするギャグのようでもあるが、そういえばこの声の主の顔はわからない。声があれば顔はあるのに。そして本当に「ホコリです」なのか不明である。(原文:Dust.)

 そんな調子で、ドアと窓も映される。音楽が低く流れる。窓は磨りガラス。ドアにも窓にも、ノブや取っ手はない。どちらもほんのちょっとだけ開いている。
 最初から、床→壁→床→全景→ドア→窓→布団→窓→ドア→壁→床→全景、の順に映り、シンメトリーのようなそうでないような、そしてようやくほかのものが映る。
女の声:ただひとつ生を示す、座っている人間。
全景カメラから真ん中カメラへゆっくり移行、男とドアが映る。男は椅子に腰掛け、前かがみで顔は見えない。小さなカセットを両手でつかんでいるが、この距離では何だかわからない。低い音楽。5秒間。

 やあ、やっぱり何だかわからないが、不穏でもあり、神妙にふざけている感もある。
 真ん中カメラからいちばん奥の近いカメラに移り、男とドアを映す。《カセットは、いまでは何だかわかる。》 でも何なのか書いていない。
 そっちがそういうつもりなら、ここまで女の声を聞かされてきたわけなので、その声が入っているカセットテープじゃないかと妄想する。でも、カセット(cassette)はたんに「小箱」なのかもしれない。
 男の手、下を向いた頭、隠れた顔が順に映され、それから映像はこれまでと逆に、近いカメラから真ん中カメラ、全景カメラへと移っていき、それに合わせて音楽も低くなって、ついに聞こえなくなる。
全景。5秒間。

 これで第1幕は終わりである。第2幕に続く。

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