2009/05/21

フラン・オブライエン「ドーキー古文書」(1964)

イギリス〈4〉集英社ギャラリー「世界の文学」〈5〉

大澤正佳訳、『集英社ギャラリー「世界の文学」第5巻[イギリスIV]』(1990)に所収


 アイルランドの海岸にある小さな町、ドーキー。ミックとその友達のハケットは、ある日、ひょんな偶然からド・セルビィという男と知り合って自宅に招かれる。正体不明のこの人物が出してきた自家製ウィスキーに二人は舌鼓を打つが、なんでも、そのウィスキーを仕込んだのはつい先週のことだという。
 そんなのありえない、と疑う二人にド・セルビィは言う、自分は「時間を支配した」のだと。ええー、ウソだろー? いやしかし、このウィスキーの芳醇な味わいからすれば本当なのか。なんて奴だ…
 
 えーと、なんだこれは
 だがこの程度でおどろいてはいけなかったのである。
《――わたしを神学者と呼ぶか、あるいは自然科学者と看做[みな]すかは御随意です。彼はやや間を置いてから生真面目な調子で切り出した。わたしは真摯な男ですし、真理への忠実を旨としております。時の本質に関わるわたしの諸発見は実のところ偶然の所産でした。わたしの研究目標はまったく別なところにあったのです。狙いは時の本質とは完全に無縁のものでした。
 ――なるほどねえ。いぎたなく頬ばりながらハケットはがさつな口調で応じた。で、その肝心な狙いってのは?
 ――全世界破壊。》p373、太字は引用者

 たいへんだ。「いぎたなく」ってそんな意味だっけと思わず辞書を引いてしまった自分が小物に思えるこの小説は、こんな調子ではじまり、こんな調子のまま進む。

 ド・セルビィが時を操れる証拠を見せてくれるというので、後日あらためて海水浴場に呼び出された二人は潜水服を着て水に潜り、海底の洞穴まで連れて行かれる。そこに現われた風変わりな人物とド・セルビィは噛み合わない神学論争のような会話を繰り広げ、その人物はどうやらアウグスティーヌスであるようだが二人はスルーする(まあ、スルーするしかないだろうから責めないでやってほしい)。
 それにしたって、全世界を破壊するとは穏やかではない。というか困る。かなり困る。だからミックはそれを食い止めるべく警官に相談しに行くが、フォトレルというその警官はその警官で日ごろからひそかに憂慮していることがあり、それは「長いこと自転車に乗っていると、サドルと尻のあいだで分子の交換が起きて人間は何割か自転車人間になってしまい、自転車は同じ割合で人間自転車になってしまう」ことだった。だから彼は同僚の自転車をたびたびパンクさせてこの同一化を防ぎ、ひいては人類を自転車から救済しようと努めている。
 さあ、はたしてミックは、この警官の協力を得てド・セルビィの野望を打ち砕くことができるのだろうか――といっても、これらの物事はすべてだらだらと、一切の緊迫感を欠いて語られる。登場人物同士の議論の多くは地元の酒場でなされ、たいていの場合、うやむやに終わる。
 奇想は山盛りだし、作品の土台にはあふれる教養があるらしいこともうすうす感じられるのだが、スリルとサスペンスだけはない。もうまったく、微塵もない。そんな小説がいったい面白いのかといえば、これがものすごく面白いのだからわけがわからない。

 そう、わからない、というところに踏みとどまりたい。
 というのは、「このバカバカしさがいいよね」という受け取りかたは玄関だけを見て家ぜんたいを評するようなものだし、「ユーモア」という言葉を使って説明するのも、作品をあまりに矮小化してしまうように思われるからだ。ぜんぜん、くだらなくなんかないのである。
 訳者の解説を見ると、とくに宗教の扱いに関して作品に込められたかずかずの深慮が読み取れなくもないようなのだけど、決してそういうことではなくて(少なくとも、そういうことだけではなくて)、この小説はこの小説のままで何かの極北である気がひしひしとする。
 ふつうだったら大がかりな設備と精緻な装置をもって、入念かつ膨大な手間ひまのすえにかろうじて少量でも析出できれば御の字である何かの核心が、ここではいきなり、素手でつかまれている。そんな印象。その「何か」にあてるうまい言葉が見つからない。
 最初のページにある「主要登場人物」の表からちょっと書き写す。
マイケル・ショーネシィミック
 下級公務員。ド・セルビィの全世界破壊計画を阻止しようと心を砕く。また、死んだと思われていたジェイムズ・ジョイスの生存を確認し、彼をド・セルビィに紹介して文学と科学の二大異才を対面させようと試みる。》
 
ド・セルビィ
 科学者にして神学者。ミックとハケットをアウグスティーヌスに引き合わせる一方、世界を破壊する大気絶滅研究の完成を仄めかして二人を悩ませる。》

 訳者が書いたのか編集者が書いたのか不明ながら、「ド・セルビィの全世界破壊計画を阻止しようと心を砕く。」とか、「世界を破壊する大気絶滅研究の完成を仄めかして二人を悩ませる。」という筆致がまさしくこの小説本篇のエッセンスであり、この小説本篇が、すべての小説なるもののエッセンスである、とまで言ったら、まあ、言い過ぎである。ごめん。
(なお、『ユリシーズ』の作者は居酒屋で給仕をしている)

 こういうものこそが小説だとまでは思わないが、小説はこういうものであってもいいのだということはもっと広く知られてよいと思う。しかしながら、フラン・オブライエンの小説は手に入りにくい。唯一、手軽に買えるのは国書刊行会から出ている『ハードライフ』(1961)だが、これはだいぶ辛気くさいらしくて未読(→その後、読みました
 あとは長篇「スウィム・トゥー・バーズにて(1939)と「第三の警官(1967)が、筑摩書房の『筑摩世界文学大系 68』にまとめて収録されているけど、もともと高かったし絶版で古本はもっと高くなった(あのデカい判型に3段組みの全集本です)。
 図書館で借りて読んだときの記憶からメモると――

スウィム・トゥー・バーズにて」:
(1)下宿で酒を飲む合間に小説を書くボンクラ学生、(2)その学生が書いている小説の主人公である作家が書いている小説の中の世界、(3)よくわかんないアイルランドの伝説や妖精物語、という3つのレベルが混じり合い、ということは「3つのレベル」は厳として存在するわけでもなくきわめていいかげんに往還され、(2)の作中作では、作家は自作の登場人物を自分と同じホテルに住まわせていて、彼が寝ているあいだだけ登場人物は自由に動いて作者の裏をかこうとする、みたいな、もう「いつまでも終わらないでほしい」と祈りながら読むしかない奇作。

第三の警官」:
小説がはじまった時点でだったか、はじまってすぐだったか、とにかく語り手は死んでしまう。でも自分では気づいていない。かくてあとに続くのは、ひたすらヌルい地獄遍歴。なにしろ語り手にやる気がない(語り手の魂が併走して、やはりやる気のないツッコミを入れていたような?)。じつは「自転車と人間がくっつく」ネタはここにも登場する。大事なモチーフだったのか。怪人ド・セルビィも脚注欄に登場し、もう「いつまでも終わらないでほしい」と祈りながら読むしかない奇作。

 やっぱり私は、こういうのこそが小説だと思っているのかもしれない。集英社と筑摩書房には、これら3作をなんとか文庫にしていただけないものだろうか。


 ○ ○ ○

ほかのかたの感想:

 ・「ドーキー古文書」夢天別館

 ・「スウィム・トゥー・バーズにて」、「第三の警官」たこBar


あと、蛇足:
「ドーキー古文書」の原題は"The Dalkey Archive"で、これをそのまま名前にした出版社が「アメリカの国書刊行会」とも呼ばれるDalkey Archive Pressである→サイト
Dalkey Archive Pressは、当然"The Dalkey Archive"を出版していてもう何が何だか。
ここは単行本のほかに"The Review of Contemporary Fiction"という特集形式の文芸誌も出しており、たとえばミルハウザーの特集号が3年前に出ていた。
スポンサーサイト
2009/05/14

素材の味だったり


 何年か前の正月にテレビで見て以来、なんの関係もないとき唐突にフレーズのいくつかが頭のなかに甦り、かといって生活の大抵の時間は忘れて過ごしているからあらためて人に話したりすることもなかった物件を、今日たまたま、ネットにつないでいる最中に思い出したのでさがしてみたら、あっさり見つかった。
 うれしいはうれしいんだけど、いろんなものが無作為に沈んだ得体の知れない沼のようなものである(あってほしい)自分の脳内が直接ネットにつながれているようで、ちょっと変なかんじでもある。
 こうなると、Google様でも届かない自分の直接体験の記憶が逆にますます大切になりそうな気もするが、しかしそんなものが本当にそういう意味で価値があるのかどうかは別の話だ。それとも、こういう逡巡ってもう古いのか。
 ↓とか言いつつ、おぼえてて・さがして・見つけたのはこんなものだけど。

 さまぁ~ず「キノコの話」
 http://www.youtube.com/watch?v=p7pnneyoT1U
2009/05/07

サン・ジョルディの日は4月23日


 今年は去年ほど柏餅を食べていないことに気がついた。意味のない気づきであった。

■ 人に本をあげるのはむずかしい。気に入らない本をあげても仕方がない。この人ならこれを気にいるんじゃないか、と踏んだ場合、すでにその人はその本を読んでいる、という可能性もある。
 ちょっと前、そういうことも考えず、発作的に岸本佐知子の『ねにもつタイプ』を誕生祝いとしてある友達に送りつけた。このセレクトについてどうこう言われたくはない。でもamazonでギフト包装をつけ、確定ボタンをクリックしてから不安になった。
 その友達とじっさいに会う機会が連休中にあったので、もしかしてあの本、自分でお持ちだったんじゃないでしょうか、と訊いてみたところ、予想は的中し、誕生日のまえにちょっと入院したとき自分で買って読み、そのまま病院に置いてきたという。そこに私が送りつけた格好だ。プレゼントとしてあきらかに失敗である。
「置いた本が追ってくる感じだったんですね。それも『ねにもつタイプ』が」
「与えれば与えられるんだな、と思いました」

 そういう意味ではないんじゃないか。そのうち何かおごろうと思う。


■ ついさっき知った。こういう本が出ていたらしい。
 
 
ガルシア・マルケスひとつ話ガルシア・マルケスひとつ話
(2009/04)
書肆マコンド

商品詳細を見る

「書肆マコンド」ってなんだろう、と思ったら、↓このサイトの人が書いたことをまとめたみたい。
 
 ガルシア・マルケス活用事典
 http://members.jcom.home.ne.jp/macondo/index.html

 このサイトじたい知らなかったが、ちらっとのぞくだけでもすごい。ぜんぶ読みたい、ということで、この本はぜひほしい。
 ちょっと高い(3360円)んだけど、出版元であるエディマンのサイトにあるブログを見てみたら、この本、『百年の孤独』の舞台であるマコンド村の美麗な地図が、羊皮紙に印刷されて巻末についているという。
 ほしい。すごくほしい。すごくほしいものは自分で買う。
2009/05/01

2009年04月29日(水)


 こういう雑誌が、よく行くブログの複数で取りあげられているのをみて、私もほしくなった。

 「WALK」58号 日記 あるいは偏執狂的日記特集

 公式な情報はこちら
 水戸芸術館というところが出していて、近くの本屋では置いていないから、新宿の紀伊國屋本店まで行ってきた(通販もしています)。
 雑誌売り場を端から端までさがしてみたが見つからず、「もしや」と上階の美術書フロアもさがしたが見つからない。すると店員さんが通りかかったので訊いてみると、そんなの聞いたことがないという顔で「うちでは取り扱ってないです」と言われる。悲しい気持で道路をわたり三越のジュンク堂新宿店へ。あった。8F雑誌売り場の文芸誌コーナーで、ふつうの文芸誌と一緒に置いてあった。ただ、私の取ったのがそこに並んでいる最後の1冊で、在庫があるのかは不明。次にさがしに来た人が悲しい気持にならないか心配だが、しかし私もほしかったんだ。

 で、部屋に帰って読んでみる。日記の特集なんだけど、日記についてどうこういう話ではなく、すべての執筆者が日記を書いている。だからどこを開いても、全ページが日記。むちゃくちゃなボリューム。まえがきや編集後記にいたるまで「編集人日記」になっている念の入りよう。
 つまりは1冊が他人の生活の具体的なかたまりになっているわけで、そう考えると一瞬ひるむが、とにかく福永信の「多摩センター日記」から読む。
(おお、『アクロバット前夜』のタテ組み版が、5月に出るとか書いてある! みんな買おう。私も買う)

 こういう、自分が興味ある人の日記ならともかく、名前しか知らない人、名前も知らなかった人の日記を読んでも面白いのかというと、どういうわけだか、めっぽう面白い。
 あちこち拾い読みしたり、最初から読んだりしているうちに3時間くらい経っていたが、まだまだぜんぜん終わらない。むちゃくちゃなボリューム(2回目)。この面白さってなんなんだろう。
 もちろん読む楽しさに濃淡はあり、私の場合は「どういう美味しいものを食べてどういう旨い酒を飲んだか」みたいな記述にはあまり心が惹かれず、ほぼ読み飛ばしていくんだが、しょぼい生活(←極端な表現)の記録には、それがしょぼければしょぼいほど、克明なら克明なほど、惹きつけられてしまう。そして結局は、美味しいもの日記もしょぼい日記も、どれもこれも面白く読んでいる。
 他人の日記にどっぷり浸かる、って、人によっては「気持悪い」に分類する行為なのかもしれないが、こういうふうに読まれることに、書いた人はどんなかんじがするんだろうとちょっと不思議になった。

 各執筆者に依頼されているのは、今年の1・2月くらいの日記、だいたい1ヶ月ぶんで、時期が時期なだけに、かなり多くの人が風邪に苦しんでいる。当然、病人は症状の変化を日記に書く(ex.円城塔)。
「冬には風邪が流行る」って、もちろんわかってはいるんだが、私じしんは寝込むほどの風邪は数年に1回くらいしかひかないので、かくも多様な“苦しみかた”を綴った文章を前に、知らなかったこの世の現実をみた思いだった。
 いや、これは自分が健康かどうかという話ではないのかも。
 どれだけ自分が風邪っぴきであったとしても、自分にわかるのは自分の風邪だけで、ふつう、他人の風邪はわからない。それは、ふつう他人の生活は見えないのと同じことで、ふつう、書いた人以外には見えないのが日記のはず(当り前のことを書いています)。
 それが見えるようになっているというおかしな事態がたくさんのウェブ日記で、さまざまなブログで、本になるとこの「WALK」1冊になる。
 そのおかしな事態がどうしてこんなに魅力的なのかはわかんないんだが(おかしいから?)、「この同じ日に、あの人とあの人は何をしていたか」という目で見ると、「同じ場所で接触していた」が面白いのは当然のことながら、そこからひるがえって、「なんの関係もなくそれぞれの生活をしていた」まで面白くなってしまうところに、ヒントがあるような気もする。
 
 下手するとこれを読んで読んで読み直しているうちに連休をズルズルすごしてしまいそうな気配。この本は面白い。しかしそれは避けたい。
 ああ、日記を書くつもりだったのに日記について書いてしまった。ここには生活がない。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。