2009/04/25

《その結果、死にやすくなる(笑)》p65

文藝 2009年 05月号 [雑誌]

「文藝」の夏号が穂村弘特集だったので買って読んだ。
(1)谷川俊太郎と穂村弘の対談、(2)角田光代との対談、(3)編集部からのインタビュー、の3本が、読みでがある。ほかに、穂村弘の短歌をもとに黒田硫黄がイラストを描いたりしている。くわしい目次はこちら

(1)に、こんな部分があった。
穂村 我々の日常生活は、水平方向のコミュニケーションのための言語に満ちてますよね。僕も含め、多くの言葉を扱う人間はそういうものに対する反発や嫌悪からスタートする人も多いと思うんです。たとえば居酒屋にいって「マスター、ノダちゃん最近どう?」みたいに言ってる人を見るとピクッとして、「マスターって平気で呼ぶ感覚が許せん」という感じが僕はいまだにあって、「この醜い奴らに自分の言葉を熱湯のようにぶっかけて目を覚ましてやる」と思ってしまう時があるんですよ(笑)。
谷川 すごいな、それは(笑)。》p30

 そして(3)にも。
穂村 高校時代、たとえば喫茶店で一人でぼーっとしているときに、常連が入ってくるなり「マスター、ノダちゃん最近どう?」みたいに言ったりすると、そういう言葉がこの世の中に満ちていることに違和や嫌悪を感じてはいました。そんな風に言えない自分は世界に入っていけないような。一方、塚本邦雄の歌はそこから恐ろしくかけ離れた言葉の連なりで、「そうか、自分が普段取り囲まれている言葉とは全然違う言葉の世界がこの世にはあるんだ」という驚きがあった気がします。》p55

 同じエピソードの繰り返し、というのではなくて、これはこの人の「説明のための例」なんだと思う(だから居酒屋だったり喫茶店だったりする)。ほかにもたくさんの“例”をストックしていて、それを自在に引き出しながら語っている様子が、おそらく明快ではないはずのことを明快に説明していく姿からうかがえてすごく面白い。そんなに明快に喋っちゃっていいの、とも思ったが、この人の本領は短歌なんだから、たぶんいいんだろう。
 言葉をつかう根っこにある野望なんかについて語る(1)(3)にくらべて、女性の正しいほめかたはいかなるものか、とか話している(2)の角田対談はどうなのよと思ったが、しかしやっぱり、あちこち面白い。
穂村 現実の思いがけなさって、楽しい半面とネガティブな半面があるじゃないですか。僕はどうしてもネガティブなほうに対する恐怖が強いんです。未知なことにすごくワクワクするっていう人はけっこういて、エッセイとかでことさらそれを強調して書く人もいるけど、僕はそういうのを読むと傷つけられた気がする(笑)。「見知らぬ人との旅先での出会い最高!」みたいに書かれると、それを最高と思えない自分はダメなのか……。
角田 たしかに。
穂村 角田さんは自分は現実対応能力があると思ってるんだ。
角田 穂村さんよりは、ですよ(笑)。[…] 私は今、ボウリングでハイタッチできるんですよ(笑)。》p36

穂村 親が子どもを受け入れて愛する時には、子どもの個性は基本的に関係なくて、子どもは子どもであればいいわけで、そこには完璧な自己実現というか自己の受容がありますよね。自分が自分であるだけで愛されるという。でも、思春期くらいから、当り前なんだけど、クラスの女の子はそういうふうには愛してくれない(笑)。》p46

 ひとつめの引用での「見知らぬ人との旅先での出会い最高!」というまとめかた、ふたつめの引用での「でも」から「(笑)」までの落とし込みかた。これもストックしてある例なのかどうか、この人なんでこんなに面白いんだろう、と真剣に不思議になるいっぽうで、こんなに翻弄されているのはまさか自分だけじゃないよねと不安にもなる。

 それにしても、と戻ってくるのは(1)谷川俊太郎との対談で、かたちとしては「穂村弘が谷川俊太郎の話をうかがう」かんじになっているが、なかには、谷川俊太郎の書いた短歌を穂村弘が批評するような部分もあり、異分野の名人戦みたいな様相を呈する。
 そこで穂村弘はたびたび、ノダちゃんとマスターの現実を、言葉で覆せるんじゃないかと語るんだけど、世界が先か言葉が先か、谷川俊太郎の姿勢ははっきりしている。
谷川 […] 僕は実際の自然に触れるということはほとんどないんですよ、面倒くさくて。しかし人間が作ったものよりも自然のほうが優れているのは抜きがたくあります。つまり言語を信用していないんですね、最初から。
穂村 ただ言語って、人工物/自然物のどちらとも言い切れないすごく不思議なものですよね。僕はそこに過大な期待があって、何か神様の裏をかくというか、神が初めて見るような詩の一節が自分の手に乗る瞬間が訪れるんじゃないかという妄想が常にあるんです。
谷川 その思いは過去にはありました。吉本隆明の有名な言葉があるじゃないですか、「世界を凍りつかせる一行」だっけ。あれを読んだときは「おっ、これは!」と思ったけど、今はまったく思わない(笑)。
穂村 それは僕にはすごい絶望ですよ(笑)。
谷川 絶望じゃないですよ。だって言葉とはいくらでも戯れることができるわけだから。それできれいなものをいっぱい作れるなんて素晴らしいことじゃないですか。
穂村 谷川さんにそう言われるとショックです。「いけるぞ」とは言ってくれないんですか(笑)。
谷川 だって言語ってそういうものじゃないもの。》pp22-3

 順接か逆説か、つながりももうまく把握できないまま自動的に思い出されるのは、高橋源一郎が『ゴーストバスターズ』(1997)のエピグラフとして引用した谷川俊太郎の詩の一節、
《一篇の詩を書く度に終わる世界に繁る木にも果実は実る》

 であって、ここだけ見るかぎり、そして引用の意図を勝手に忖度するかぎり、この一行は穂村サイドの気がしていたんだけど、書いた本人の口から直接に上のようなことを聞かされると、ただの一読者である私まで何か非常に「ああ…」というかんじになってきて、思わず、穂村弘のもう10年近くまえの本になる『短歌という爆弾』を本棚から出してめくってみたりした。
《あれはまちがいだった。あれはまちがいだった。世界を変えるための呪文を本屋で探そうとしたのはまちがいだった。どこかの誰かが作った呪文を求めたのはまちがいだった。僕は僕だけの、自分専用の呪文を作らなくては駄目だ。ああ、そうか、ともうひとりの僕が思う。三階教室の窓の外には、名前のわからない樹の先っぽが揺れていた。》p251


ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshiラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi
(2003/05)
穂村 弘

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 ○   ○   ○

*《一篇の詩を書く度に[…]》の題は「一篇」、『世間知ラズ』(1993)に所収

*これまでの穂村弘関連:
 ・『もうおうちへかえりましょう』(2004)
 ・「ユリイカ」黒田硫黄特集&「ユリイカ」川上弘美特集(2003)
 ・「神様」(川上弘美と対談)
 ・「本の雑誌」コラム(2004年12月号)
 ・直球勝負(「ちくま」2007年5月号)
 ・『短歌の友人』(2008)
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2009/04/23

ぜんかいのつづき(一応)

《この作家の語り手には、あきらかに女性を裸にしたいという欲望がはたらいているようにみえる。しかしそれは、性的な誘惑によって裸にするのではなく、あくまで、まったく性的ではない状況で、その状況に強いられ、しかし女性自らの意思によって、裸になるのでなければならないらしいのだ(「三か所の二人」「コップとコッペパンとペン」「座長と道化の登場」等)。》p207

「新潮」5月号に掲載の、古谷利裕「中学生以上と小学生以下、現世と冥界――福永信論」を読んだ。
 福永信のこれまでの小説を、「中学生以上の登場するもの」と「小学生以下のもの」のふたつに分けて、それぞれの傾向をさぐっていく。
 タイトルのまんまだ。でも、この「そのまんま」感がふさわしいと思った。
 小説は小説であればいいのでテーマも物語さえも要らない、といった読みかたがただしいと考えてはいても、それこそテーマも物語も蒸発している福永信みたいな小説を読むと、とっかかりがなさ過ぎて不安になってしまう、そんな私のような読者にとって、古谷利裕の書きかたはひとつのお手本みたいなものだ。とっかかりもなにも、目の前の小説を読むのである。
 こないだ『アクロバット前夜』を読んで、語り手の複数化みたいなことを私はぼんやり考えていたのだが、これについては《とはいえ、「語る私」の多重化という主題は、作品形式に自覚的な作家の作品にはありふれており、この作家に固有のものとは言えない。》とあった(p204)。そうか。
 
 取りあげられている福永信の作品のうち、いちばん読みたいと思ったのは「座長と道化の登場」で、これは、試着室の中に入った女性が外で待つ男性に「別れたい」との手紙を渡し、そこに立てこもって出てこなくなる(出てこられなくなる)という小説らしいのだが、実物を読むには図書館に行って掲載誌のバックナンバーをあたるしかなさそうだぞ――と思っていたら、この短篇、『コップとコッペパンとペン』にちゃんと収録されている、ということはすでに私はそれを読んでいる、とあとから気がついた。
 小説の読みかたがどうこう以前に心配することがあるのではないか。
《だがしかし、裸であることによって動きを奪われた存在は、ただ受動的に窮地に追い込まれて困惑しているだけではない。むしろ、この作家の「中学生以上」の系列の作品では、裸で身動き出来なくなった者だけが、視線の一方通行生を破り、相手と対面し、相手と直に触れ合い、形勢を逆転させることに成功する可能性をもつ。》p209


■ もう何年も前の、福永信の文章を見つけた。小説ではない。「log osaka web magazine」という、たぶん芸術関係(アート関係?)のサイトでの連載。
まだ(3)までしか読んでないけど、面白いので貼ってしまう。私も「珍しいキノコ舞踏団」を見てみたい。

福永信の「全地球人に告ぐ」
(1) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.1/fukunaga/fuku_vol1.html
(2) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.2/fukunaga/fuku_vol2.html
(3) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.3/fukunaga/fuku_vol3.html
(4) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.4/fukunaga/fuku_vol4.html
(5) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.5/fukunaga/fuku.html
(6) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.6/fukunaga/fuku.html
(7) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.7/fukunaga/fuku.html
(8) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.8/fukunaga/fuku.html
(9) http://www.log-osaka.jp/movement/vol.9/fukunaga/fuku.html
(9.9) http://www.log-osaka.jp/people/fieldtrips/hello/backnumber/zen9_9.html



新潮 2009年 05月号 [雑誌]新潮 2009年 05月号 [雑誌]
(2009/04/07)
不明

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コップとコッペパンとペンコップとコッペパンとペン
(2007/04)
福永 信

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2009/04/15

福永信『アクロバット前夜』の続きの続き


前回…


 短篇「三か所の二人」について書きたいのだが、ここでまた、前回もちょっとぶつかった、本書ならではの大きな特徴が立ちはだかる。
 引用しづらいのだ。
「おっ」と思ったページの端を折っても、何行目に「おっ」だったのか、印をつけておかないと簡単に見失う(見失った)。
 だから私はこれを書くために、結局また猛スピードのページめくりを繰り返している。何をやっているのか。
 しかしこれは、たかが文字の印刷された紙の束が、現実の行動に作用を及ぼしているということでもたぶんある。
 
「三か所の二人」の中心になるのは「サチ子」という名の女子中学生だが、彼女はたいへんな美少女であるらしいので、男子のあいだではファンクラブまでできている。まあ、そういうこともあるかもしれない。しかし、
《木曜日の午後八時をすぎたこの日、彼らファンクラブの会員は、いっせいに、あしたの予習にとりかかっていた。》
pp12-4の19行

 なぜならこの時間、サチ子が翌日の予習にとりかかるからだ。
 彼らファンクラブの会員たちは、自宅におけるサチ子の行動パターンを曜日別に分単位で調べあげ、それと同じ時間に同じ行動をすることから、無上の喜びをかんじるというのである。
 だから彼らは、サチ子がそうするように九時四五分に予習を終えると、サチ子がそうするようにタンスからパジャマを取り出し、サチ子がそうするように一〇時五分から一一時三〇分まで入浴するのである。それぞれの家で、しかし、いっせいに。これはそういう小説である。
《ファンクラブの会員は全員男子であるため、当然、フロは大嫌いである。トシ夫などは入会前は三日ごとの入浴(それもシャワーのみ)が常だったというから、毎日、しかも約一時間三〇分もの入浴など想像することすらできなかっただろう(それが今では苦にならないどころか、紀州備長炭を入れて湯船の水をマイナスイオン化したりハーブの入浴剤を独自に調合したりして、サチ子をしのぐほどのフロ好きになっているのだった。そのせいか最近のトシ夫の肌はやけにツルツルしている)。》
pp24-32の19行

 くだらなさすぎる状況を、そのくだらなさに足を取られないよう、かんたんな言葉でどんどん書き進めていく。うしろを振り返ったりはしない。しかし脱線はする。大いにする。本筋も脱線も同じスピードで進む。
《会員たちは毎夜目を閉じながら思うのだった。夢のようだ、と。まるでサチ子のすぐそばで、一緒に生活しているようだ、と。》
pp50-2の19行

 サチ子に同一化しようとして、男子全員が同一化してしまっているわけである。しかもこの時間、当のサチ子は入浴していない。夜の学校へ向かったのだ。どうやら先生と待ち合わせがあるらしい。
 しかし、そこで彼女が発見したのは、奇体な格好をした中学生男子だった → 彼がなぜそんな格好をしているのか事情を聞くと、彼と怪しい男性との接触が語られる → するとサチ子は思い出す、今日の午後、学校に来る前にカフェで出遭った怪しい男のことを――
 
 この合間合間に、サチ子のファンクラブ員男子たちの言動や、サチ子の両親のあいだの揉め事なんかが挟まれるが、どの状況を語るどの文章も人を食ったようなバカバカしさで、折ったら「ポキッ」といい音をたてそうな、乾いた調子でテンポよく進む。
 そのすべてを「どうでもいい」と投げ捨てられないのは、これらのアクションが始まるまえ、この短篇の書き出しだけが、例外的に思わせぶりなことを語っているからだ。
《世界にはおなじ容姿の人間が三人いる!/だれもがそれを知っている。だけど、だれひとりとして実際には見たことがない。そのことに人々はもっと驚いてよい。まわりを見渡してみよう。そこにははたして、おなじ容姿をした人物が見つかるだろうか? まず見つけることはできないと思う。[…] 視力の届かない、遠く離れた場所でしか、おなじ容姿の人物は見いだし得ないのだ。それは、まるっきりおなじ外見を持つ三人の人物は、ただ想像の中でだけ出会うことが可能なのだ、ということと、まったくおなじことだ。》
pp108-121の18行目+pp2-3の19行目

 最初にこんなことを言われたら、これはどうにも気にかかる。
 そして、この作品からあえて“謎”を抽出してみれば、サチ子の言う「あなたの話に出てくる男は、私がカフェであった男にちがいないわ!」みたいな部分なのだが、同一人物なのか、たんに似た人なのか、まったくの別人なのか、たぶん“正解”はない。
 その怪しい男だけでなく、2回以上登場してくる、たぶん同じ人間じゃないかと思われる人物を、ほんとうに同じ人物として受け取っていいのかどうか、読んでいる側で自信が持てない。そんな書きかたがされている。
 そういえば、男子中学生二人が電話で話しているときに、少しのタイムラグをはさんでそれぞれの耳に聞こえてくるサイレンが、はたして同じ救急車からのものかどうか、という話がちょっとあった。それには「確かめられないわけだから、どうでもいいことだ。」と断言が下されるのが、いかにも「アンダーラインを引いてください」みたいで気にかかる。
(さらに、あの冒頭もこの断言もミスリードで、いまの私みたいにあれこれ思い悩むようかまされた仕掛けでしかない気もしてくる)

 どうなってるんだ、と考えながらも私の手はページをめくり、ときどき、こちらの足場がぜんぶ崩されるようなやりとりに遭遇する。
《――聞いているんだろうな?/ケン一の不安そうな声が肩にかけた受話器から漏れ聞こえた。テル男はあわてて受話器をつかみ直し、耳に当てた。/――もちろん、聞いているさ。ケイ子から電話があったというのだろう?/――ケイ子? ケイ子だなんて、一言もいった覚えはないぞ。/――今のはケイ子の真似じゃなかったのか、どうりで似てないわけだ。/――似てないのに、なんでケイ子だと思ったのだ?》
pp13-9の26行目

 はたしてこの小説は、どこを真面目に考えればいいのだろうか。
 あれこれ考えているうちにそこまで疑問に思えてくるので、たぶんおそらく、同一化と複数化が何かを起こしているかのような印象はあっても、タイトルである「三か所の二人」から考えて、短篇のなかの“場所”や“人数”を細かく数えあげてやろうという気にもいまひとつなれないでいる。つかみどころがない。
 それでも、というか、そんな状態でいるからこそなのか、この短篇もこの短篇集も、むやみに面白かった。ここに示されているあたらしさや可能性は、まだ自分には見定めがたい。でもこの道の先には、ものすごいアクロバットが待っている――ような気がする――、これはたしかにそんなアクロバット前夜の本だった。

 ところで、今回この感想を書いていて、ひとつ発見があった。私はこの『アクロバット前夜』がとっくに絶版で、だから古本屋で探すしかないと思ってそうしていたわけだが、いまamazonで見たら、ふつうに売っているじゃないか。しかもいま現在なら「在庫あり」。


アクロバット前夜アクロバット前夜
(2001/05)
福永 信

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なお、もっとあたらしい短篇集『コップとコッペパンとペン』の刊行時に行われたインタビューが河出書房新社のサイトにあった(→これ)。
なんでも、“『アクロバット前夜』のタテ書き版”の刊行予定があるらしい。
2009/04/14

福永信『アクロバット前夜』の続き


前回…


 収められているのは短篇が6本。「読み終えて」「アクロバット前夜」「BOYS&GIRL」「五郎の五年間」「屋根裏部屋で無理矢理」、そして「三か所の二人」
 目次には、各短篇が何ページの何行目から始まるかが記されている。
 
 多くは学校を舞台にして、コドモであることになっている男女がどんどんどんどんアクションを続ける。内面の描写とか、周囲の事物への気の利いた観察とかは、ない。一切の深みがない即物的な言葉で、登場人物の反射的な行動が書かれ、そこから連鎖する次の行動がぽんぽん生まれる。
 といっても行動だけが特異なのではなく、簡素にすぎる文章の書かれかたがおおむね特異、部分によってはかなり特異なのであり、たとえばこんなところはどうだろう。
《階段を降りてすぐの曲がり角で、同じように走ってきていたクスノセとぶつかってしまった。クスノセセツコ。君は彼女のことがひそかに好きだろう。かわいいからだ。君はかわいい顔をした女子には、それだけで、本当に弱いんだ。まったく単純だな。》
「読み終えて」pp71-5の2行目

かわいいからだ」って、それはわざわざ書くことなのか。文章が簡素というのは、無駄なことは書かないことだと思うんだが、「書くべきこと」と「書かなくてよいこと(無駄)」の基準がズレている。ズレているのに、振り返らない。振り返らずに、どんどん進む。そこから妙なおかしさが生まれる。
《「セミがずいぶんうるさいナとか、思ってるんじゃない?」/といったのは、五分刈りの頭の男のコだった。裕美のとなりの席の生徒だ。/「ええと、あなたは、伊藤弘さんね」/「もうぼくの名前、覚えてくれたんだ」/伊藤は感激した様子でいった。/「前の学校に、同姓同名の男のコがいたから」/裕美が肩をすくめながらいうと、/「ああ、そう」/ちょっとガッカリしたようだった。/「ごめんなさい。余計なことを、いっちゃったわ」/「イヤ、あやまることなんかないよ。むしろ光栄だな」/伊藤は窓の外を見た。/「出会う前から、ぼくの名前を知っていてくれたなんて光栄だよ」/胸を張り、ヤッホーと叫んだ。/山彦が返ってきた。/「早乙女さん、この学校って、ずいぶんイチョウの木が多いナ、と思ってるんじゃないかな」/裕美は驚いていった。/「心の中を覗かれているようだわ」》
「BOYS&GIRL」pp26-38の12行目

 謹んで申しあげたい。なんだこれ。
 この変なスピード感がどの短篇でも生命線になっていて、じっくり書いたらどうにも成立しようのない「学校内の陰謀」(生徒1人がほか全員から狙われている)とか、度を越したストーキング行為(対象の女子の部屋で、机の下に隠れる)だとかを、それぞれの短篇のなかで成立させている。
 たぶん、設定だけを説明したら「そんな馬鹿馬鹿しい思いつきって、小説になるのか」と相手にされないようなものばかりだ。その人物がどんな顔をしているかはまったく書かれなくても、窓からヤッホーと叫べば「山彦が返ってきた」とまで書かれるこの小説では、そんなものが、ちゃんと(かどうかは知らないが)形になっている。
 もともと雑誌に掲載された短篇は、初出時にはふつうの縦組みだったらしいけど、忙しいページめくりを求めるこの書式に流し込まれたことにより、スピードはより加速することになって、作品には大きくプラスになったと思う。というか、作品をいちばん活かせる書式を探した結果が、この「1行ずつ、横にページをめくらせる」だったんじゃないだろうか。

 で、反射的な行動の連鎖をスピードに乗せてつなげていくこのような書かれかたでもって、「笑える」のと同様に、おかしな効果が生まれていると思う。
 なんというか、登場人物について、その人物がその人物であることの重要性が薄くなっているのだ。
 いや、ことごとしく「重要性が」というか、たいていの小説では「ある」ことになっている(と読者の側で思っている)前提が、うまく外されているようにかんじられるのである。
 ある人物に何ごとか出来事が降りかかる。その人物は何かしら反応する。また出来事が降りかかる。反応する。その反応の連鎖でもって「1人の人物」ができていく、というのはどんな小説であっても同じプロセスだろうが、『アクロバット前夜』の各短篇に登場する各登場人物においては、キッパリと潔く、それ以外の方法では人物ができていない。
 出来事の起こるまえから、そして出来事が起こり、終わっても、その人物は確固たる1人の人物である、という前提がすごく希薄で、いっそ、ないんじゃないかと思われるのである。
「一貫性のある人物が描けていない」という否定的な意味ではなくて、ここにある短篇では、はじめからそこにアクセントが置かれていない、というのがはっきりわかる。そんな約束事に知らん顔、というか。
 そしてその結果、1人の人物が、ことによると1人ではないのじゃないかと思わされることもある。
 収録作でたぶんいちばん短い「屋根裏部屋で無理矢理」を粗雑にまとめると、屋根裏部屋で絵を描いていた青年が、窓の向こうに見える病院の屋上で相撲を取っている友達のところに駆けつけ、さっきまで自分のいた屋根裏部屋を見てみると、いなかったはずの人間が部屋にいて、そちらから青年じしんの声まで聞こえる、みたいな話だが、そのあいだに、鼻パックをさがして転倒したり、いるはずの妹がいないので「また合コンか!」と毒づいたり、といったドタバタを追ったすえにこのゴールにたどり着くと、「なんと青年が分身した!」というよりも、「何気なく、複数化していた」という印象を受ける。特別にすごいことでもなく、「べつに複数いてもいいんじゃないか」くらいの調子で読まされてしまう。
(この感想も私がでっちあげたもので、短篇じたいは、単数にも複数にも関心がないように見えるのだ)

 この、ある人物がその人物から抜け出てしまうような印象だとか、ひとりの人物が同時に2か所にいても気にしない、みたいな書きぶりは、その無造作さも含めて、重要な何かにはげしく抵触しているように思うのだが、私には「ように思う」くらいしか書けない。
 もしかするとこれらの作品は、私が個人的に気にしているあの感じ→参照)の表現にも近いのかもしれず、そうではないのかもしれず、あやふやな感触をうまくつかまえられないでいる。
 ところがうれしいことに、ブログ「偽日記」の古谷利裕が、おそらく『アクロバット前夜』とその後の作品を含む福永信論を「新潮」の最新号に書いたという(→2009-04-07)。
 私の気にかかっていることを古谷氏が扱ってくれている保証はまったくないわけだが、とにかく福永信についてどんなことが書けるのか興味津々なので、これはぜひ読みたい。
(この人の書いた青木淳悟論はすごく面白かった。「青木淳悟がなんか面白いのはわかるけど、でも、あれについていったいどんなことが書けるのか」と思っている人におすすめ。「新潮」2008年2月号に掲載の、「書かれたことと書かせたもの」)。

 で、私のほうはもう1回ぶんかけて、『アクロバット前夜』でいちばん面白かった「三か所の二人」について少し説明したい。

…続き


アクロバット前夜アクロバット前夜
(2001/05)
福永 信

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2009/04/13

福永信『アクロバット前夜』(2001)


リトルモア(装幀・造本:菊池信義)


 ずいぶん探していて、ようやっと古本屋で見つけたので買って読んだ。
 それはもうすごい勢いで読んだ、というのは誇張ではない。

 この小説は、というかこの本は、ほかで見たことのない変なつくりになっている。日本語の小説本だが、本の左側が閉じてあって右開き。本文は横書き。でもそれくらいなら珍しくない。
 想像してほしい。
 まず1ページの1行目を横に読む。左端から右端まで読み、視線はページをぐるっと戻って2行目を左端からまた右へ進む、というのではないのだ。
 そうではなくて、1ページ目の1行目は、そのまま右に、次のページの1行目に続くのである。それもまた、3ページ目の1行目に続いていく。
 各ページの上端、1行目だけを右に右にと追いかけて本をめくり続け、最後、121ページの1行目を右端まで読んだところでようやく、文章は1ページの2行目に戻る。そして今度は2行目だけを追って、私はページを最後までめくることになる。
 より正確には、1ページ目は「目次」で本文は2ページ目から始まり、偶数ページが見開きの左、奇数ページが右になっているから、すると121ページまでたどり着くまでには、59回ページをめくることになる。
 そして1ページの行数は27行なので、単純に計算すると、この本を読了するには59回のページめくりを×27行ぶん繰り返すことになる。
(もっと正確には、ページ最下端の27行目は80ページで途切れているので、この本の「終わり」は最終ページではなくそこである)

 1行が本の厚さと同じだけ続くこのような体裁によって、ふつうの本なら1回しかしない「最後までページをめくる」作業をそれより26セット多くこなすように強制されるこのような体験は、「珍しい」のほかに何を生むのか。

 単純なことに、これがかなり気持いいのである。

 小説というのは原理的に読み飛ばしができないものなのに、「ちゃんと読む」のが「1行読んだら次、の速さでページをめくる」でもあるというのは、それだけで爽快だった。
 私はこれをおもに電車のなかで読んでいたが、ちょっとだけ周囲の目が気になった。こいつは何をしているんだ、と思われていなかっただろうか。
 逆に、この本を読んでいるのが私の隣の人だったら、私は黙って、半歩離れたと思う。「ああ、これは近づかないほうがいいタイプだ」とおそれながら。だって、こんなスピードでページをめくるのは、本に対してする動作ではない。「この人は、本の読みかたを知らないのだろうか?」
 でもそれを言うなら、ふつうの小説本だって、ページ右端の1行を上から下に読み、また上に戻って2行目を上から下へ読み、また上に戻って(中略)左端の行の最下端まで進んだら次のページの右上――という、細かい視線の往復によって1ページが読まれるのである。
 それはあまりに小さく、当り前すぎて意識にのぼらなくなっている動きであるわけだが、あらためて考えると、実にちまちましている。それはそれでせわしないじゃないか。
『アクロバット前夜』で、長い長い1行を読み終えるたびに最後のページから最初のページまで戻るという、大がかりな、そして実際に手を使う往復運動を余儀なくされてはじめて、そんなことに思い至った。
(もしかすると、現行のページ組み・行組みが一般的になったのはたまたまで、本の印刷法はみんな、この『アクロバット前夜』式でもありえたのかもしれない――とまで一瞬思って、「いや、ない」と打ち消した)
 
 ページをめくる際に自分の読んでいる行を見失うと致命的なことになるので、この本の左ページ左端と右ページ右端には行番号が縦に小さく並んでいる(それでも、たびたび見失う)。
 また、この書式では「改行ができない」という問題(ほかで類を見ない問題)が発生するため、それは「/」記号で代用されている。「///」は「1行空き」のしるしだ。
 爽快のためには、異次元の面倒もある。やはり通常の体裁はなるべくして「通常」になったのかもしれない――でもそう思うのはその「通常」の枠から考えているせいかもしれない――と、ここでもまた往復運動を繰り返す。
 こんな読書もあるのである。

 ここまで、本の体裁についてしか書いていない。では中身はどうなのか。
 こんな形で印刷されてしまったら、もう小説はどうでもいい、ということにはならないと私は思った。むしろ逆。そのことについてはあした書く。
 
…続き


アクロバット前夜アクロバット前夜
(2001/05)
福永 信

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本書刊行時の評をふたつ見つけたので貼っておく。

小説集「アクロバット前夜」福永信(毛利義嗣)
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/recom/0106/kagawa/mouri.html

「世界最速の小説」(浅田彰)
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/i010515b.html
2009/04/02

『ねたあとに』のあとに


■ せんじつ長嶋有『ねたあとに』の感想をわーっと書いたけれども、いちばん大事かもしれないところを自分が書き落としていたことに、ググっていて見つけたほかのかたの評を読んでいて気がついた。

 → http://d.hatena.ne.jp/Trou/20090212
   「花と石ころ」より、2009年02月12日)

とくに「2/2」
これが、周到に用意された伏線であったならば、そこには「懐かしい」思いなど生じません。あくまでも、それがほんの思いつきの、読み流される程度の文であったからこそ、それが、遠く離れたページで思い起こされることに心を揺り動かされるのです。この小説には、そういうものがたくさんある。作者すらも懐かしく思い出しながら書いているのではないか、というくだりが。

小説を読むのには時間がかかる。その時間の経過のなかにいると当り前すぎてスルーしてしまうが(してしまったが)、読んでいる小説のなかでも時間が流れている、というのはすごいことだ。すごいというか、奇妙。
ほんとは「それから2年が過ぎた」程度でもすごいことが起きているはずなのに、『ねたあとに』のなかでは、時間が何気なく流れている。つまりちゃんと流れていた。
(「何気なく」の自然さに徹底して逆らうと福永信『コップとコッペパンとペン』になる。不自然すぎて逆に「何気なく」なってしまうあれもすごい)

これを新聞の連載で読んだ人は単純にうらやましい。
 
 
■ うらやましいといえばもうひとつ、
 
 高野文子「ねたあとに」原画展
 http://book.asahi.com/clip/TKY200903210100.html
 
4月2日まで。とうとう行く都合がつけられなかった。
高野文子に200枚の絵を描かせた、というのも偉業なのでは。
行けた人がうらやましい。


■ あと、上記ブログからいろいろたどっていって見つけたのが
 
 「穂村弘氏インタビュー」へのリンク
 http://www.koshinfu.com/homu.html
 
濃すぎるので1週間くらいかけて読みたい。
[…] 自分が俳句は駄目だっていうことを後追いで確認したようなことがあって、なんかの題詠の時に、僕が作った句があって、それが「春風やパントマイムのナポレオン」っていう句なんですよね。それは自分が短歌をやる時と全く同じ感覚で作った句なんですよ。全く同じ体感で作って、その後に歳時記を見ていて、原石鼎の「秋風や模様の違ふ皿二つ」、あれを見て、もうすべてわかった感じがして、もう絶対俺は俳句なんてやっても通用しないんだっていうことが、もう思い知るような感じで自分の中に入ってきて、これは作風の違いとかそういうものじゃなくて、全然レベルが違うっていう感じがしましたね。
 そのレベルの違いと同時に、すごい直感的にわかったことは、この「秋風や模様の違ふ皿二つ」っていうのを作ったやつは、一度もデニーズとかに入ってハンバーグ定食とかを食ったことがない。そうじゃなきゃこんな句は作れないっていう体感で、俺の句は千回以上デニーズに入った人間の、ハンバーグを千個以上今まで食った人間の句だ。結局食い物とか空気とか、それまでのすべてですよね。すべてがもうそこに現れてしまっていてね、彼は彼、僕は僕、っていうふうに納得して自分をごまかせないジャンルがあると。》
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