2009/03/28

長嶋有『ねたあとに』の続き


…前回の分


 たとえばある年の夏、「私」のほうが先に山荘に来て数日過ごしていたところに、コモローが到着する。
《「全然、暑くないよ」荷物を書生部屋に置くや、すぐに布団の取り込みに加わってくれたけど、コモローはやはり元気がない。
「東京(の気温のこと)?」
「そう」つまらなそうにうなずいたが、布団を両手に持つ動作は、いきなり馴染んでいる。》p201

いきなり馴染んでいる」。まさにそうとしかいいようがないのが、その家の住人の動作である。山荘だって変わりはない。

 こういう“気づき”をもたらす部分はまだまだあるから、いくらでも引用できてしまうが、いちばん「!」となったのを選ぶと、今のところはこれになる。
《トモちゃんは、やはり大きな紅茶カップではない、銀色の、ウイダーinゼリーみたいなのを飲んでいる。みたいなの、というか、ウイダーinゼリーだ。》p291

 そう!ウイダーinゼリーを飲んでいる人は、いつも「ウイダーinゼリーみたいなの」を飲んでいるように見えると自分は思っていたのだと、ここを読んで私は激しく気がついた(変な表現)。たぶん自分ではウイダーinゼリーを飲んだことがないからだと理由はわかるんだが、しかしどうして、そんなかすかな感触を言葉に定着できるのか。

 自分の気持を説明される感覚。
 さらに、未知の気持を既知のように説明される感覚。

 小説も終わりに近い「その七」で、2日に分けて戦われた改良版「軍人将棋」のくだりもすごい。
 やったことのある人はわかると思うが、「元帥」とか「爆撃機」とか「スパイ」とか書いてある駒のすべてを伏せたまま行われる軍人将棋は、プレイヤーふたりのほかに審判が必要で、語り手がその役をつとめることになる。
 駒と駒との勝ち負けを一覧にした表さえあればいちおう審判はできるから、「私」ははじめルールもよく理解していないが、盤上で時間をかけて進行する対局を観察しているうちに、徐々に見かたをつかんでいく。
 語り手がプレイヤーの戦略や読み合いを推測できるようになるのと、局面がじりじり佳境に向かっていくのとが絶妙に重ねられ、文章は坦々としたまま(だって語り手は同じだから)、しかし緊張と熱をはらんでいく(だって、行われているのはまぎれもない真剣勝負なのだから)。
《トモちゃんはコモローの「ニホッヘー」で最強の元帥を失った。だがコモローはそのことを知らない。
 なぜなら。二歩兵が勝てる駒は元帥以外にも数種類あるからだ。コモローは自分が強い階級のどれかに勝った、としか把握できていない。
 コモローもトモちゃんの「軍医」と引き分けて、元帥を失った。でもトモちゃんはそのことを知らない。軍医は、ほぼすべての駒と引き分けるから。[…]
 とにかく、二人ともガッカリやワーイを顔に出さないのではなく、出せないのらしい。
 そういったすべてを、私だけが知っている。不思議な気持ちだ。私が知っているということと、知っているのが私ということの、両方が。》p306

 軍人将棋が「説明」され、それに興奮する小説。
 私はこれまでそんなものを読んだことがなかった。高校3年の秋ごろ、もっと簡略化した軍人将棋で、「なあ、『大将』はどうやって『飛行機』に勝つんだ?」「…飛びかかる?」などと騒いでいた、うすら寒い部室を思いだしもした。
 どんな意味を汲みとれるかは、題材ではなく視線の問題だ。この小説を読んでいると、つくづくそう思わされるのだけど、さらに丁寧なことに、後半、目に見える題材から目に見えない意味を汲みとるまなざしの実演として、もっともくだらないものに見えたあるゲームについて、コモローがえんえんと講釈する見せ場まで、作中に用意されている。どこまで説明好きなんだ。
 それでもそのゲームは、やっぱりくだらないままなのがすばらしい。

 しかも『ねたあとに』には、どうやらほかにも仕掛けがある。少なくともそんなふうに読める余地がつくられている。
 山荘の生活がこの小説のすべてであるために、山荘の生活を観察する「私」の視線は、ときにこの小説への視線にもなっていて、たとえば、コモローひとりだけの遊びとして「ムシバム」というものが紹介されている。
 これは山荘に出た虫の写真だけをアップするブログのことで、ほぼ誰にも求められていない、夏季限定ブログなのだが、「私」がムシバムについて行う考察は、たぶんおそらくこの小説を内側から十全に説明するものになってしまっている。だからそこは引用しないが、この照応はちょっとうますぎて、そんなにうまくやらないほうがむしろ効果的じゃなかったかとまで思った。
 そんな「ムシバム」が、小説の最後半なんかではなく、早い段階であっさり紹介されているのが意外だった。「いいの?」と思うが、言ってみれば、小説のタネ明かしみたいなものを先にしてしまって、それでもこの小説はホラこんなに面白いだろう?という自信をかんじる。そしてじっさい、それでも面白いのだ。であればタネ明かしはタネ明かしでもないというか、たいした意味なんてないのかもしれない。

 それと、「オーエさん」の件。
 唯一起きる事件らしい事件は、コモローの書いた小説を世界的大作家の「オーエさん」が評価し、第1回の「オーエ賞」を授賞してくれることだが、それは山荘の“外”での出来事だから、間接的にしか触れられない。山荘の“中”では、「ケイバ」の出走馬に「ラッキーオーエ」が加わるくらいである。
 それにしても、オーエさんが出てきたから言うのではないのだけれども、小説家が、まるで作家自身であるようなキャラ(コモロー)を作中に送りこみ、その言動を他人の視点から論評したり、友人とおぼしき人たちをどんどん登場させたりして小説の“外”と“中”のキワキワを歩いてみるやりかた、つまり“長嶋有”と“コモロー”が重ならないまま近づき、近づくようにみせて離れていく姿なんて、まるで古義人三部作である。古義人三部作なのに、「ムシバム」で「軍人将棋」である。そこに私は長嶋有の気概を見た、気がする。

 そしてもうひとつだけ、書いておきたいことがあった。
 ひとつも派手な事件が起こらないのが「たまたまそうなった」のではなくて、そういうものを丁寧に取り除く作為のもとにこの小説ができているのと同じように、山荘に集う楽しいメンツも「偶然そこに居合わせた」なんてことはなく、コモロー父子から選ばれた人だけがここにお呼ばれされていることを「私」は隠さない。
 山荘に来たくても招いてもらえない人がいる。
 それにまた、招いてもらったある客は、山荘のゲームで「自分のセンスを試されている感じがして」「すごく緊張した」と小声で漏らす。
 男も女も順番に同じ五右衛門風呂に浸かるのを気にしないとか、カレーの鍋に虫が入ってもOKとか、そういうことではない、もっときびしい基準でコモローは客を選んでいるのにちがいない。そういう意味で、この楽しい空間がかなり選別的で、閉じているのはたしかだと思う。いちばん最初の山荘のルールは、そこにあるのかもしれない。
 どんなグループだってそんなふうに成立しているわけだが、あえてこの点に触れる語り手は、自分は楽しみながらも軽いうしろめたさをかんじている。まるでこの小説が、だれにでも楽しく読めるものではないかもしれないことを気にしているみたいだ。
 だれにでも開かれた小説というのは、だれにでも開かれた山荘と同じく、まだ現実に例がないだろうに、みずからの閉じかたにもわざわざ言及しておくのは、正直だと思う。
 そして、そこも正直に示すことによってこの小説は、選ばれてない人へも歩み寄ろうとしているのだと私は思う。もう詭弁の域かもしれないが、私自身は現に楽しく読んでしまった、つまり「自分はこの小説にお呼ばれされた」つもりでいるわけだから、ここで呼ばれなかった人の側に立つふりをしてもしかたがない。

 だからできるだけ口を軽くして言いふらしておきたい。引用したい部分はまだまだあるが、私が言いたかったのはこれだけだ。
『ねたあとに』はすごく面白い。私がこれだけいろいろ書いたからって、減ってしまう種類の面白さではない。だからぜひ実物を読んでみてほしい。

《向こうからアッコさんが「コーヒー淹れますかー」と間延びした声で尋ねてくる。
 ノムー、ノムー、ノムー。三人で合唱。
「じゃあ、久呂子さん淹れてー」とアッコさん。淹れ方知らずに尋ねたのか。》p249



ねたあとにねたあとに
(2009/02/06)
長嶋 有

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追記:

「ムシバム」は本当にあったのか!!! 出木杉、いや出来すぎだよ!!
http://moon.ap.teacup.com/mushi/(虫が出ます)

私は比較的新参の長嶋読者なんで、知らなかった。
それにしても、↓この記事とか、『ねたあとに』のあとだとじつにクラクラする。
http://moon.ap.teacup.com/mushi/140.html(虫が出ます)


→ さらに追記
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2009/03/27

長嶋有『ねたあとに』(2009)

ねたあとに

朝日新聞出版


 いま数えてみたところ、さしあたって書きたいことは5つくらいあるんだけど、引用したい部分は多すぎてとても数え切れない。
《「コーヒー飲みますか?」居間の会話の途切れた瞬間に、言葉をさっと挟む。誰も飲まないといっても、お湯は沸かそう。無線室の、ヘッドセットをはずして(本当はヘッドセットなんかしてないけど、そんな気持ちで)立ち上がる。元の位置に電話、さっと置いて、くるっと振り向きシンクに。さっそうと歩くつもりで、椅子に腰をぶつけた。
 ノムー、ノムー、ノムー。
 向こうで三人の声は相次いだ。》pp170-1

 小説家のコモローと、その父親のヤツオが夏を過ごす山荘。
 そこだけを舞台に、山荘に招かれた客たち(コモロー&ヤツオの友人・知人)の生活が描かれる。視点はコモローではなく、ゲストのひとりの三十代女性に置かれていて、山荘のあれこれと、そこで過ごす人びとの言動に、淡々とした観察とツッコミを続けていく。淡々というか、坦々とした調子。
 そもそもが避暑用だし、仕事もあるから、「私」が山荘に居られるのは毎年数日しかない。それで「私」が山荘を去るところで章が終わると、次の章は翌年の夏になっている。本格的に、山荘だけなのだ――と強調するのも変で、これはもとからそういう小説なのだけど、そういう小説であることがやっぱり笑える。平熱の文章が舞台の涼しさにもマッチしている。

 軽薄なコモロー。覇気のないヤツオおじさん。しかし山荘のあらゆる備品と暮らしのコツに精通したこのふたりに導かれ、ページが進むにつれて「私」も自在に山荘の中を動き、あちこちの工夫に気づいたりもする。何気なく、山荘の経験値がたまっていくのだ。湿気がひどいので毎日の布団干しは欠かせない。洗濯物を取り込むのにも技がある。この夏、この山荘で初対面、という人との距離をはかる様子も、
《コモローがチョコを大きめに折って残りを私にまわしてきた。
「アッコさんありがとう」台所に聞こえるよう、大きめの声でお礼をいい、一かけ折る。私も「アッコさん」と呼ぶことに決めた(決まった)。》p34

 こんなふうで、細かい観察も、それを文章にするのも、すごくうまい。両方ともうまくないと、どちらのうまさも見過ごされてしまう(当たり前だけど)。
《シンクに戻るとカマドウマがいた。
 どのカマドウマにも実は思うことなのだが、ずいぶん立派なカマドウマだ。》pp41-2

 なにも私は、共感や「あるある」ばかりを求めて小説を読んでいるつもりはないはずなのだけど、文章化されているのを読んではじめて、自分の中にもたしかにありながらこれまで意識していなかった感覚に気づかされる、という体験は気分がいい。
 それは「あるある」の、かゆいところを掻いてもらえるありがたさを越えて、「発見」のおどろきと同じだ。そうか、おれはこう思っていたんだという発見。小さな快感がどんどん積み重ねられる。
(いちばん最初に引用した部分、「コーヒー飲みますか?」への返事がカタカナで表記されているのなんて、見えているようで見えていなかった、まさしく発見の一例だと思う)

 そして、この小説でおそらく半分くらいのページが割かれているのは、夜の山荘で行われるさまざまな“遊び”のシーンだ。
 ここでは既製のゲームは見向きもされず(そもそも、ない)、客たちが巻きこまれるのは、おもにコモロー父子によって考案された、オリジナルな遊びである。
 くだらなくて意味がない。ルールだけは緻密。この山荘にはそういう遊びがごっそり蓄積されているが、「ケイバ」、「顔」、「それはなんでしょう」、などと名前を書いてもさっぱり内容のわからない独自すぎるものなので、作中ではコモロー父子の口を借りた解説からはじまり、やってみた客の反応と感想を通して、もっと詳しい遊びかたが伝えられる。
 さらには、長年のうちに加えられたルール改良の意義まで、「私」といっしょにわかってしまう。小説は、遊びかただけでなく“面白がりかた”まで丁寧に説明してくれるのだ。
 おかげで、まるで自分もいっしょに遊んでいるように読める、と書くのはかんたんだけど、実際にやってみないことにはわからないのが“遊び”だろうに、登場人物が遊んでいるのを読むだけでもかなりの「やっている感」が出ているのだから、この作者の説明の技量と、技量を行使する方向の、両方がそらおそろしい。
(だからこの小説じたいが“遊び”なのだ、と言えるのかもしれないが、個々のゲームも自分でやってみたくなる。「ケイバ」は、麻雀牌を使ったレース。「顔」は、架空の人物の設定を、名前から出身地、性格その他、サイコロでひとつずつ組み立てていく。「それはなんでしょう」は…… それはなんでしょう)

 山荘での生活と、遊びが書いてある。それもやたらと細かく書いてある、というのがこの小説のすべてで、「いい大人が何をしているんだ」という声が仮にあったとしたら、こう答えるしかない。「山荘で、遊んでます」。
 劇的なドラマはない。色恋は、その気配さえほとんどない。虫だけはたくさん出てくる。それなのに、というかそのせいで、読みどころばかりの小説になっているのだから、作中でコモローが放つ言葉を真似して、私も「ザマーミロ!」と言ってみたい。だれに向かってというわけではないけれど、ゆるゆると流れていくあいだ、具体的な手触りが連続し、どこまでもずっと楽しいままなのは、小気味いいというか、いっそ痛快である。

 そんな私は、仲のいい人たちが集まっている空間と、そこに流れている時間に惹かれているんだろうと思う。
 たとえば、客のひとりが先に山を下りたあと、コモロー父子がその人の声真似をしつこく繰り返す。断続的とはいえ50ページは続くから相当しつこいのだが、だんだん誇張が大きくなって、ついには「独自の域まで到達してしまった」と述べられているあたり(p114)など、そうそう、そういう反復と発展の起こる場に自分もいたことがある、という懐かしさと、「いいよなあ」というあこがれが、同時に刺激される。
 そんな細かい過程をわざわざ書くところに、この小説の真骨頂はある。
 以下は、晩ごはんのあと、バームクーヘンを頬ばって、ゲームをしながら携帯電話について話している場面。
《「何年か前に、コモローの友達が、電波がくるかもって屋根にのぼって着信してたよ」とおじさん(友達は、一応いるらしい)。皆で天井を見上げる。当たり前だが屋根の上は(もちろん、数年前の友達も)みえず、電球に虫がたかっていた。》p169

皆で天井を見上げる。」の一文には、ただの「そういうことってあるよねー」ではなくて、読んでいるこっちも、ここにいる4人といっしょに書かれた動作を思わずトレースしてしまう動きがあり、自分でも変な感想だと思うが、あらゆる急展開から遠く離れたこの本のなかで、いちばん小説らしさをかんじた。

…続き
2009/03/20

いろいろ遅い


3年くらい使い続けていたシャープペンシルをどこかに落としてなくした。
たいへんに残念。
「そんな高いシャーペンだったん?」
「いや、100円の」
「じゃあいいじゃん」
そうじゃねえよ、100円だからこそ残念なんだよ! とかいってたら今度は定期券を落とした。ダメージ。


■ 心配するな

管啓次郎のこういう文章を見つけた。なんかすごい。

 「本は読めないものだから心配するな」
 http://www.cafecreole.net/library/coyote1.html

これは書籍版の『コヨーテ読書』には入っていなかったと思ったが、本人のブログ→「Mon pays natal」の2009年2月1日によれば、この春、このタイトルで本が出るらしい。


■ 茄子
 
遅ればせながら黒田硫黄の『茄子』(新装版)下巻を買ってみたら、先月大騒ぎした「アフタヌーン」3月号掲載の“新作”も収録されていて拍子抜ける。

茄子 下 新装版 (3) (アフタヌーンKC)茄子 下 新装版 (3) (アフタヌーンKC)
(2009/02/23)
黒田 硫黄

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■ 対談
 
「文學界」の2002年10月号に載った、高橋源一郎と柴田元幸が海外小説について話す「90年代以降翻訳文学ベスト30」という対談はとても面白く、コピーしたのをたまに読み返しながら、こういう文芸誌の対談って、掲載後はそのまま消えてしまうのはほんともったいないんじゃないかと思っていたんだけれども、そんなことをしているうちにもう6年以上経つのである。小学1年生が卒業してしまう。
 ともあれ、こないだ出た『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』(河出書房新社)を読んでみたら、くだんの対談が収録されていた
 この本じたいが、これまで文芸誌に載った対談3本、プラスこの本のための対談2本、の計5つの対談でできた対談本だった。それにしても長いタイトル。

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方
(2009/03/13)
柴田 元幸高橋 源一郎

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■ ねたあとに

長嶋有の長篇『ねたあとに』(朝日新聞出版)を読んだ。めちゃめちゃ楽しいので3晩に分けて読む(ねるまえに)。あちこちに印をつけたくなるのと、あと、人に話したくなる部分がものすごくたくさんある。なんだか深そうなタイトルの意味からして、じつはものすごくくだらなくて、よい。
 小ネタの詰まったおもちゃ箱、みたいな言いかたはどこかポイントを外しているような気がする。舞台は夏の山荘、ブレーカーの容量が極小なので電子レンジを使うにはほかの機器の電源を落とさないといけない、それで冷凍の肉を解凍するのに明かりも消して、夕闇のなか「レンジ強」ボタンを押すとき「ヤシマ作戦!」と声がかかる――というような紹介も、やっぱりポイントを外しているのはわかっているんだ。

ねたあとにねたあとに
(2009/02/06)
長嶋 有

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■ ついでに

ふとググってみたらこんなのを見つけた。音が出ます。
http://www.youtube.com/watch?v=mDqUTQifof8

「パー璧」が脳内再生されていろいろ嫌になった。
2009/03/16

(8) ミルハウザー「新自動人形劇場」(了)


《新しい自動人形たちは、ぶざまとしか形容しようがない。すなわち、古典的な人形の何よりの特徴である動きの滑らかさの代わりに、そこにあるのは、素人の作ったからくり人形のぎくしゃくとした唐突な動きである。》p135

 何の模倣でもなかった新自動人形は、人形でしかない人形だった。
 ところで、この新自動人形のような文章は可能だろうか。
 つまり、何の描写でもない文章、並んだ文字の向こうに何か対象を思い浮かばせるのではなく、いまページの上に印刷されている文章を文章そのものとして読むほかに受け取りようのない文章を書くのは可能なんだろうか。

 それは端的には、ものすごく下手な文章ということになる。
 だって、そうじゃないか。文字面はごつごつとしてすんなり飲み込めず、あちこちの言葉でつまづく、生硬でぎこちない下手な文章を目で追っているときにいちばん、「これは文章だ」と意識するはずだと思う。
 そしてまた、描写というのをもっと拡大し、何らかの意味を伝えることも「意味の描写」と考えるとすると、何の描写でもない文章というのは、何も意味を伝えない文章ということになる。
 文章は伝達を目的にできているので、どうしても伝わってしまう部分が残るから、「何も意味を伝えない」というのはありえないだろうけど、8割がた失調していれば、そんな文章は“壊れている”ということになる。
 それでいて、新自動人形のぶざまさがきわめて入念に作り込まれたぶざまさで、それによって観る者を惹きつけたように、ただ下手なだけでなく(ただ壊れているだけでなく)、読んで「面白い」とこちらに思わせる文章は、可能だろうか。

 と、なんだか仰々しく書いておいてありがちな連想に着地するけれども、ドナルド・バーセルミだとか、中原昌也の小説のページをめくっていると、ときどきそんな感触をもつ数行にぶつかることがある。あとは、自分ではほとんど作品を追ってないけど、前に読んだこんな本で論じられている作家も、そんな文章を書いて(切り貼りして?)いそうに思う。
 この人たちの文章の、ぱっと見での“下手さ”と、そこから生まれる妙な面白さはわかりやすい。「こんなことができるのか」とおどろく。
 けれどもいっぽうで、ミルハウザーの精緻な描写を読んでいるときにもやはり、私は文章でしかない文章なるものを強烈に意識する。

 名文家と呼ばれそうな作家の手になる「流れるようにうつくしい描写」なんていうのは、うえで述べた「下手な文章」とは対極にあるはずだ。そういう文章は透明であることをめざしていて、眼はその上を滑るように進み、文字の向こうに(というか文字を介さずに)対象が直接見えるように錯覚する。
 ミルハウザーの文章は名文のほうに近い。すらすら引き込まれて読めるのに、しかし透明にはならず、下手な文章と同じように「これは文章だ、言葉だ」と思わされる。これもまた不思議だ。
 ひとまず、それは題材のせいだと考えることができるかもしれない。
 透明ではなくて、形も重さもある「モノ」、人形やデパートの商品やミニチュアなんかを好んで題材にするミルハウザーは、ふつうそういう「モノ」とは思われていない自然の風景や、それこそ人間を描くときでさえ、それら対象を「モノ」として言葉に置き換える。すると対象はモノ化されてページの上にあらわれる、と書いてみると一応の説明らしくなっているような気もする。
(長篇『マーティン・ドレスラーの夢』には、めずらしく人間女性の登場シーンがけっこうあるのだが、その描写はなにか不自然で、人間を3コマ撮りしたフィルムを見ているようである)

 言葉がモノである以上、どんな文章化も対象のモノ化のはずなのだけれども、ミルハウザーの場合が特別に見えるのは、文章に書くよりも前、はじめに対象をモノとしてとらえる、そのとらえかたが偏っているせいだろう。「はじめに」もなにも、読者の私は、書かれた文章から作家の見かたを逆算するしかないのだが。
 こう書くとミルハウザーがひどく非人間的な作家に思われるかもしれない。でも、人形だとか白黒のアニメーションだとか、非人間的なモノにみずから成り代わりたいという願望(まさしく人間にしか持てない願望)までも作品にまぎれ込ませる作家を、いったい非人間的といえるだろうか?
 と、抽象的なことを書いていてもしかたがない。
 そこであらためて「新自動人形劇場」を読み直してみると、何十回と出てくる「人形」という言葉が、描かれる人形と同じに見えてくる。すべての言葉についてこんな見かたをしていては、小説は読めないだろう。ミルハウザー以外の小説を読むときには、言葉とモノの関係をこんなに意識はしていない。しかも私には、このおかしな意識にまたなりたくてミルハウザーの本をめくるという部分も確実にある。

 モノを描く文章がそのモノになっていること。これがミルハウザーの小説を読んでいかんじるいちばんの不思議さだということを書いてきて、もうずっと堂々めぐりになっている。そのうえ、はじめから自分で堂々めぐりになるように書いてきたんじゃないかという気もして先に進まない。すべてミルハウザーを読んでしまったせいである。
 もう終わりにしようと思うが、最後に「新自動人形劇場」の結末を引用する。
《古い自動人形たちはもはや同じではない。かつての劇場を探し出して、やれやれ有り難いと私たちは入っていく。だが、ひとたび新自動人形の不穏さに触れてしまった私たちは、かつての名匠たちの滑らかで完璧な動きにだんだん苛立ちを覚えていく。その見事な模倣ぶりは、私たちにはもはやからくりの玩具としか思えない。それで、疚しい思いを抱えて、私たちは新魔法劇場へ戻っていく。新しい自動人形たちは私たちを、彼らの人間ならざる喜びと苦しみのなかへと導き、私たちの胸を不安な恍惚で満たす。かつての芸術も繁栄を続け、その存在は私たちを和ませる。だが何か新しい、不可解なものが世界に入ってきてしまったのだ。私たちはそれを説明しようとするが、私たちを惹きつけるのはその神秘だ。私たちの見る夢すら変わってしまった。多くのものが非難したとおり、私たちの芸術は邪[よこしま]な退廃に陥ってしまったのか。それともこれは、われらが芸術のもっとも深い、もっとも暗い開花なのか。誰に決められよう? 私たちにわかるのはただ、物事はもはやもう二度と元には戻らないということだけだ。》pp138-9

 ここに詳しく書き込まれている、新自動人形を体験した観客の気持は、ミルハウザーの小説を読んだ私の気持とぴったり重なる。重なるように、この小説はつくられている。まったくもって、どうしてそんなことができるのか?
 ミルハウザーはおそろしい。私にわかるのは「ただ、物事はもはやもう二度と元には戻らないということだけ」なのだ。




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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2009/03/11

(7) ミルハウザー「新自動人形劇場」のまだ続き



 短篇「新自動人形劇場」に出てくる人形を分類するとこのようになる。

(ア)竜や幽霊といった、架空の存在をモデルにした子供向けの自動人形
(イ)人間をモデルにし、正確に模倣することをめざした自動人形
(ウ)人間をモデルにしながら、モデルを超えた動きをしてしまう自動人形
(エ)何の模倣でもない、モデルのない自動人形(自動人形)

 (エ)を体験してしまったあとで考えれば、(イ)と(ウ)は同じものである。モデルの位置に人間が置かれているのは変わりないからだ。そして(ア)にしても、モデルは実在こそしないが、架空の対象を「完璧に再現」しようとする方向において、やはり(イ)と同じである。以下は(ア)について書かれていた部分。
[…] それらはみな、矛盾を恐れずに言うなら、本物の魔女、本物の竜、本物の幽霊、本物の歩く木である。これらのものたちにあっては、ありえないものを正確かつ完璧に表現するために、からくりの持つ力がありったけ動員されている。現実に属するものが、非現実に属するものを喚び起こすために使われているのだ。それは幻想的なるものの模倣であり、存在しないという一点においてのみ現実の生物たちと異なる生き物たちの細心な表出である。》p119

 ハインリッヒ・グラウムは、何の模倣でもないという点で(ア)(イ)(ウ)とまったくちがう、(エ)の人形を作ったが、大事なのは、それによって人形を変えただけでなく、人が人形を見る眼も変えてしまったことである。新自動人形にはモデルがない。観客は人形を人形として見るしかなくなった。
 実際には、ひとくくりに「人形」といってもいろんな方向があるんだろうし、そのなかには、はなから模倣をめざしていない、自立した人形もあるんだろう。そういうもののほうが多いのかもしれない。だからこの人形とモデルの関係や、そこから変化したあたらしい人形観も、この短篇のなかにとどまるはずのものなのだけれども、この短篇を読むことで、作中の観客の一員に読者もなってしまっているから、私も人形を別の眼で見るようになる。そしてこの短篇にあらわれる「人形」というのは、読者にとっては「人形を描写する文章」なのだった。

 ひとりの自動人形愛好家による報告書のような体裁をとったこの短篇は、自動人形の歴史や意味を語る部分がベースになって、そのなかに、グラウムの人形の詳細な描写がある。
 描写というのは、モデルがあってそれを写すというかたちをとるから(そして読む側では、写された文章を読んでモデルを想定する)、ミルハウザーの文章だって、何かの模倣ということになっている。だからそれは、上に分類したモデルのある人形、(ア)(イ)(ウ)のどれかに似ていると考えられる。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。この落ち着かぬ乙女に、私たちは並々ならぬ親密さを感じる。その神秘的な生を、自分の生以上に深く知っている思いがする。上演を締めくくる、長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。》p127

 人間の「完璧な再現」であるエリーゼ嬢の動きを舐めるように写しとっているように読めるこんな文章からすれば、正確な模倣を旨とする(イ)の人形のありかたが、ミルハウザーの文章の理想であるように見える。
 また、エリーゼ嬢も手品師の人形も新自動人形も、そもそもみんな実在しない架空の人形であって、ミルハウザーの描写は架空のモデルの描写であることに気を留めれば、それは(ア)のような、竜や幽霊を「再現」した文章であるとも言える。その“架空の再現度”があんまり並外れているので、まえに私はミルハウザーの文章を、モデルを超えてしまった人形である(ウ)になぞらえて、「対象を超えてしまった文章」なんて書いた。でも前述の通り、(ア)も(イ)も(ウ)も同じものなのだ。

 でも、こんなふうに書いていても堂々めぐりである。
 ミルハウザーの文章を、それが描き出している自動人形に重ねて説明しようというのは、何というか、レシピの文体を、できた料理から推察しようとするのにも似た無茶なふるまいである。しかも料理の場合なら、“レシピ”と独立したところに(鍋の中とかテーブルの上とかに)“料理の実物”ができあがるのに、“自動人形”は“文章”で描かれるのだから切り離しようがない。はじめから重なっているものを別物のようにとらえて、もういちど「重なっている」というのはマッチポンプである。
 しかし、この、対象と文章のマッチポンプに思い至ってから、私は醒めるどころかもっと夢中になるのである。つまり、(ア)の人形を描くミルハウザーの文章は(ア)の人形に、(イ)を描く文章は(イ)の人形に、(ウ)の文章は(ウ)の人形に、みんなそれぞれ重なっているように読める、それが当たり前だと思わせてくれるところまで連れていってくれるミルハウザーの文章があんまり不思議で、何度も読み返したり、ページを明かりに透かしてみたくなったり、そしてまた、堂々めぐりになるのがわかっているのに描写の仕組みを考えたくなるのである。この短篇に限らず、度を越した芸術品をあつかうミルハウザーの短篇を読むと、いつも同じことが起きる。
 だからミルハウザーの描写をキャッチフレーズ的に言いあらわすなら、それは「対象そのものになってしまった文章」ということになるのだが、ひとつだけ例外がある。

 モデルのない(エ)の新自動人形を描く文章は、当たり前だけど(エ)をモデル(架空のモデル)として描くのだから、モデルを持っているという点で、何の模倣でもない(エ)の人形とは重なっていない。

 否定的な意味ではなく、ここにミルハウザーの描写の(というか描写一般の)限界がある、としてみても、当たり前のことを大げさに言い立てる真似にしかならないのかもしれない。
 逆にとらえて、何ものも模倣していない対象(新自動人形)を、文章は描写によって模倣できる、という非対称な事実(まったく当たり前の事実)をそのまま受け入れればいい気もするのだが、この先に何かあるようにも思うのだ。




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーブン ミルハウザー

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