2009/02/25

(6) ミルハウザー「新自動人形劇場」のまた続き



 ハインリッヒ・グラウムがやったのは、人形にしか見えない人形をつくることだった。それが「新自動人形」である。
 これは、ここだけ見れば単純明快なゴールである。人形は人形、人間は人間。ここに倒錯はない。実際、小説をはじめから読んでくると、ここで急に霧が晴れたような思いがする。「そうだよ、当たり前じゃないか」。私たちは騙されていた。そもそもはこうだったのだ。いまようやく、正しい位置に戻ったのである。
 でもほんとうにそうなのだろうか。
 上のようにまとめてしまうのではなく、ミルハウザーの丹念な文章を追っていくと、“霧が晴れたような思い”こそまぼろしで、従来の自動人形から新自動人形にいたるステップは、倒錯にさらなる倒錯が上塗りされる工程であるように見えるのだ。
 ふつう、人形は何かのモデルを模倣したものとして、何かの代理物として見られる(だから、模倣がうまくできていない人形は“下手な人形”とされる)。これが第一の倒錯だが、これが倒錯であると気づくには、次の段階を待たないといけない。すなわち、模倣の完成度を極限まで高め、人形を人間と見分けがつかなくなる位置にまで押しあげたグラウムが、そのうえで「15センチの人形」-「人間」という嘘の紐帯を絶ち切り、人形を人形として自立させたとき、はじめて第一の倒錯が自覚されるのと同時に、その倒錯はかき消されるように見える
 それでも、生まれてからこれまでつねに自動人形のそばにあり、人間を演じる、人間ではない人形に心を寄せてきた観客たちには、このグラウムの新作が露悪的なまでにはっきり突きつけてくる「人形は人形」という事実は、全面的には認めがたいものである。というか、人間を演じる人形の描写に魅了されてここまで読んできた私もすでに、この明快な人形観を受け入れるには、うしろめたさをおぼえるほどになっている。「そりゃ人形は人形だろうが、しかし」、と。
 おそらくはそのうしろめたさを入り口にして、いったんは人間から遠ざかった人形が、ふたたびこちらの側に入ってくる。人形でしかない新自動人形は、それを見る人間のなかに背徳的な願望を(それこそ非人間的な願望を)呼びおこす。
《四肢をぎくしゃく動かすたびに人形たちがおのれの現実ならざる本性を見せつけるなか、私たちは彼らの魂に引き込まれていく思いがする。私たちは彼らのぶざまさを共に苦しみ、彼らの人間ならざる渇望に心を刺される。自分でもよくわからない形で私たちは胸を打たれる。これら不思議な新参者と混じりあいたい、彼らのからくり人生に入っていきたいと私たちは希[こいねが]う。時おり、私たちは暗い理解を、共犯意識を感じる。ということはつまり、彼らの前にいるとき、私たちは単に人間的なものを、制限でしかないものを脱ぎ捨てられるということなのだろうか? 自分を解き放って、より大きな、より暗い、より危険な領域に入っていけるということなのだろうか?》p137

 ここにいたって、人形でしかない自動人形により、人形と人間の境界が揺るがされるのである。
自分でもよくわからない形で私たちは胸を打たれる。》という一文でもって、読んでいる私は語り手の一人称複数「私たち」と完全に重なり、そこに同化させられたうえでこのような感情に飲み込まれていくのをかんじるのだから、そのみなもとにある「人形は人形」という至極まっとうなはずの受け取りかたも、これはこれで「第二の倒錯である」と言っておかないと危ないんじゃないかという気がするのである。
 そして、そんな気がしている時点でもう手遅れじゃないかという不安もおぼえるのだが、まさにこの不安を求めてミルハウザーの読者は小説を読むのである、と断言してみた。
《こうして新自動人形たちは、私たちにとり憑いていく。彼らは私たちの心に侵入してきて、私たちの内部で増殖し、私たちの夢に棲みつく。彼らは私たちの内部に、新しい、禁じられた、名付けようもない情熱を目覚めさせる。》p137




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2009/02/23

(5) ミルハウザー「新自動人形劇場」の続きの続き



 エリーゼ嬢でもってモデルの「完璧な再現」を成し遂げたハインリッヒが、このあとどのような方向に進むかは予想がつくといっていい。
 すでに「完璧な再現」は済ませてしまったのだから、これからハインリッヒは、かつて手品師の人形で一度だけ犯してしまった「モデルを超えた人形」に再び向かうのではないか、と。
 だって、もしその道を選ぶのでなかったら、残されているのは、モデルを忠実に再現するのでも超えてしまうのでもない、つまり、「モデルのない人形」というおかしなものになるほかないからだ。
 ところが実際にハインリッヒが選んだのは、その奇怪きわまりない、「モデルのない人形」なのである。

 エリーゼ嬢で名声をほしいままにしたハインリッヒは、同じ完成度の人形で公演を次々に成功させる。
《革新というものをすべて、つねに破壊的だとして忌み嫌う者たちですら、しぶしぶ賞賛の念を表わさずにはおれなかった。結局のところこの若き名匠が成し遂げたのは、入念な模倣、という由緒ある流れをさらに一歩推し進めることだったのだから。》p128

 観客は熱狂し、彼の「魔法劇場」に登場する人形へ思い焦がれるあまり、身投げする者まであらわれた。しかし、
《三十六歳、過去十二年にわたって立てつづけに成功を重ねてきたハインリッヒ・グラウムは、突如沈黙に入った。》p130

 名匠が沈黙するのはよくあることらしいが、彼の完璧な沈黙は十年も続く。その間、何をしていたのかは不明である。工房にこもり、ひたすら人形を分解しては組み立てていたというのが“通説”だが、語り手はそれに反対している。
《私自身の、長い熟考の末に達した説は、十年にわたってハインリッヒ・グラウムは何もしなかった、というものである。あるいは、より正確には、何もせずに自動人形芸術の本質をたえず考えていたと言うべきか。》p133

 ともあれ、ハインリッヒは帰ってくる。戸惑いと期待を抱えて「魔法劇場」に集まった観客たちは、三十六分間の公演のあと、さらに戸惑いを大きくして劇場を出ることになった。
《新しい自動人形たちは、ぶざまとしか形容しようがない。すなわち、古典的な人形の何よりの特徴である動きの滑らかさの代わりに、そこにあるのは、素人の作ったからくり人形のぎくしゃくとした唐突な動きである。その結果、新しい人形たちは、人間の動きをごく大雑把な形でしか模倣できない。優美さも欠いていて、古典的な自動人形芸術のあらゆるルールから見て不細工かつ醜悪である。彼らはどう見ても人間には見えない。実際、これら新しい自動人形たちは、何よりもまず自動人形に見える。これこそが、いまや新自動人形と呼ばれるに至ったものの根本的特徴にほかならない。》p135

 たいへんなのは、ハインリッヒの“新自動人形”が、ただの下手な作品ではないということだ。そのぎこちなさは、きわめて技巧的に突き詰められたぎこちなさである(と書いてある)。
 それになにより、以前とは大きなちがいがある。かつてのハインリッヒは、人形に、人間のものとしか思われない豊かな表情を与えていた。それによって彼ら人形は、人間の内面を宿し、それを巧みに表現しているということになっていたのである(表現→内面という逆転)。
 ところが今度の自動人形は別のものを表現する。
[…] グラウムの新しい自動人形たちは、苦しみ、あがく。これまでの自動人形に劣らず、魂を持っているように見える。ただし持っているのは人間の魂ではない。ぜんまい仕掛けの生き物、自己意識が芽生えたぜんまい仕掛けの生き物の魂なのだ。古典的な自動人形師は、私たちにミニチュアの人々を与える。ハインリッヒ・グラウムは新しい種族を創造した。彼らは自動人形の種族、からくりの一族である。創造主グラウムの精神によって宇宙に挿入された新しい存在である。彼らは私たちの生と並行した、だが私たちの生と混同してはならない生を生きている。彼らのあがきはからくりのあがきであり、彼らの苦悩は自動人形の苦悩である。》p136

 そしてこのあとに、この短篇で私が最高にしびれた一段落が続く。
《最近では、グラウムは大人の劇場を捨てて心の故郷たる児童劇場に回帰したのだという説が流行している。言わせてもらえばこれはとんでもない誤解である。児童劇場の人形たちは架空の生き物の模倣である。グラウムの人形たちは何の模倣でもない。彼らは彼ら自身でしかない。竜は存在しない。自動人形は存在する。》





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2009/02/21

(4) ミルハウザー「新自動人形劇場」の続き



 ハインリッヒ・グラウムのキャリアの前半は、ほかの名匠と変わるところはなかった。
 五歳から工房に入り、《七歳にして、六十四の動きをこなす二センチのナイチンゲールを組み立てた》。その翌年には、バランスを取りながら綱渡りをする自動人形を完成させている。しかしながら、
《このどこを見ても、若きハインリッヒを、あまたの優秀な徒弟と隔てるものはなかった。しばしば誤ってそう言われるが、彼は決して神童ではなかった。子供の徒弟のなかには、もっとずっと高水準の早熟ぶりを示す者がいくらでもいて、親方はむしろそれをある種の懐疑心をもって眺めている。機械的細部を徹底して究めることが何にも増して求められるこの芸術にあって、あまりに早い成功は、往々にして若き徒弟に誤った熟達意識を与えてしまう。》p124

 とはいえハインリッヒはそんな落とし穴に落ちることなく研鑽を積み、まず自動人形の「手」のからくりに興味を集中させた。そして、手品を行う自動人形と、十八センチの精緻なグランドピアノで『月光のソナタ』第一楽章をまるまる演奏する自動人形を作りあげる。それから「顔」の研究にさらなる年月を費やして、「エリーゼ嬢」という名の自動人形を完成させたのは彼が二十歳のときだった。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。》(p127 強調は私)

 ものすごいことになっているわけだが、太字にした部分で示される方向ははっきりしている。ついでに引用すると、上演の終わり、
《長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。それは比類ない精神的深みが達成された瞬間であり、ハインリッヒ本人が当時恋愛していた形跡がないことを思えばいっそうの偉業と思えてくる。》(同)

 ここの最後のくだりに「何言ってやがる」と私は笑った。これはぜったい、真面目くさった顔と深刻な口調で馬鹿なことをいうギャグだ。
 それはともかく、先ほど太字にしたように、

(a)「モデル」 → (b)それを再現する「人形」

という関係は、ごくふつうに受け取りやすいものである。もちろんこれは小説なので、(a)「モデル」も(b)「人形」も実在しない。ここにあるのは

(a)「モデル」 → (b)それを再現する「人形」 → (c)それを描く「文章」

 このうちの(c)「文章」だけであり、それがあってはじめて(b)「人形」、さらに(a)「モデル」が存在することになる。書かれたものを“読む”という行為において、上のふたつの矢印が逆転するのだ。これは小説だけでなく、文章表現一般のありかたであるだろう。
 
 話を戻すと、人形は、あくまでそれに先行するモデル(人間)の再現を目標とする。その到達点がエリーゼ嬢だった。
 しかし、じつはこの時点よりも前、十四歳のときに製作した、手品を行う自動人形において、ハインリッヒはある逸脱の徴候を見せていた。
 問題の人形は、それまで一度も試みられていなかった三種の手品を演じたのだけれども、
《そのうちのひとつは、人間の手品師に誰一人再現できる者がいないことが判明して、いささか物議をかもすことになる。手の筋肉組織を、人間の能力を超えた域にまで改造したことを若きハインリッヒは白状し、それに関して軽い叱責を受けた。》(p126 強調は私)

 と、こういうことがあったのである。ここでの再現という言葉は、さっきと方向が反対になっているのに注意したい。人形の動きを人間が再現しようとし、しかも再現できなかった。人間に似せることをゴールとしてもつ自動人形に、人間を超えた動きをさせてしまう。これは、人間をモデルにしながら、モデルを超えてしまった人形なのである。
 それからハインリッヒは“正しい”方向に戻り、人間を「完璧に再現」するエリーゼ嬢を作ったのだが、こちらの手品師ですでにかたちをとっていた「モデルを超えた人形」というありかたは、ただのやりすぎとして忘れてしまうにはあまりに特異である。
 いや、特異というか、そういうものを自分はどこかで見たことがある、という気がしてくるのだ。どこかも何も、いま読んでいる、ミルハウザーの文章がそういうものではないか。もういちど、「エリーゼ嬢」の描写を貼り付ける。
《その十二分間のからくり人生において、エリーゼ嬢は心の葛藤をくぐり抜けるように思える。その葛藤の陰翳の一つひとつが、知性的な目鼻立ちにくっきりと浮かび上がるのである。時にせわしなく、時に気だるく部屋のなかを歩き回って、ベッドに身を投げ出し、窓の外をじっと眺めて、いきなり立ち上がったかと思えばまたいつしか物思いにふける。私たちはこの、大人の知のとば口に立つ無垢に特有の、漠たる憧れと暗い直感に苛まれた少女の魂そのものの内に引き入れられた思いがするのである。完璧に再現されたしぐさ一つひとつが、私たちをますます奥深くに引き入れるように思える。この落ち着かぬ乙女に、私たちは並々ならぬ親密さを感じる。その神秘的な生を、自分の生以上に深く知っている思いがする。上演を締めくくる、長く物憂い、ゆっくりとした、暗い憧れに彩られた欠伸とともに、エリーゼは重たい花のごとくに開いて、その存在のまさしく深奥に私たちを導き入れる。》

 エリーゼ嬢はモデルを「完璧に再現」した自動人形だが、いま見たいのはそこの関係(人間→人形)ではない。もっと大きい意味で、ここに描かれているもの(エリーゼ嬢)と、それを描いているもの(文章)の関係だ。
 このミルハウザーの文章のはたらきが、それによって描かれる自動人形のありかたと、相似であるように見えてくるのである。
 人間を模した人形でも、竜や幽霊の人形でも何でも、これらの自動人形は、小説の外には実在しない。モデルをカメラでじっくり写すようにして、自動人形の姿と動きを丹念に描き出すミルハウザーの文章は、これら架空の対象を、ゼロからつくり出している。
 人形によるモデルの再現も、文章による対象の描写も、本来は“模倣”という同じベクトルをもつ。それでいてモデルを超えてしまった手品師の人形を「モデルを超えてしまった人形」とさっき言っておいたが、それに沿えば、ミルハウザーの文章は「対象を超えてしまった文章」であるように思われる。実在しない精巧な自動人形なるものを、ただの文字を連ねた描写の力でもって、たしかにページの上に存在させてしまうのだから。
 エリーゼ嬢を描いている文章がエリーゼ嬢なのである。

 ――しかしそれだけなら、ミルハウザーは極度に描写がうまい作家、ということで終わりになる。先にも書いたように、実在しないものを文章化することで実在するかのようにみせるのは、文章表現一般のはたらきだからだ。
 もちろんそれだけでもすごいのだが(つまり「だけ」なんて言ってはいけないのだが)、ミルハウザーをミルハウザーたらしめるのは、次の一歩である。
 ハインリッヒ・グラウムの仕事に戻ろう。




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2009/02/19

(3) スティーヴン・ミルハウザー「新自動人形劇場」


[…] ミルハウザーの小説ではよく、きわめて職人的な芸術家が登場し、その芸を見る見る高めていって、世間にもてはやされるが、やがて芸があまりに高度になっていって、大衆から見放されるものの、芸の道はいっそう究められ、もはや自壊するしかないところまで上りつめていく。対象が自動人形であれ百貨店であれ奇術であれ、彼ら広い意味での芸術家の、その危険なまでに精緻な芸に似ているものを作品中に探すとしたら、まっさきに目につくのが作者ミルハウザーの精緻な文章であることは、ほぼ自明の事実だろう。》p277

 これは『ナイフ投げ師』巻末の訳者あとがき(柴田元幸)で、「さすが」というのも無用なくらい的確な評言だと思う。前半にまとめられている筋の運びをミルハウザーの“定型”のひとつとすれば、中篇「J・フランクリン・ペインの小さな王国」『三つの小さな王国』所収)も、長篇『マーティン・ドレスラーの夢』も、おなじ定型を踏んでいる。
 ごく短い、30ページ足らずの「新自動人形劇場」でめざされているのは、この定型を物語として十全に展開することではなくて、定型のなかで起こる「芸」の推移のほうに焦点を当てることだと思う。定型が多くの作品に共通するものならば、ここで具体例として選ばれた自動人形という「芸」のたどる進化と発展の道すじは、ほかの多くの作品と共通するものになるだろう。もしかすると、上の引用の後半にある、「作中に描かれる芸術」と「ミルハウザーの文章じたい」との重なりかたを、この短篇から読み取ることもできるかもしれない。
 とはいえこれから私がやるのは、ページ順にたくさん引用するだけである。だって、それだけでミルハウザーの作法はだれにでもわかるように書かれているのだ。
《私たちの市は自動人形劇場を誇るべくして誇っている。》p115

 短篇はこうやってはじまる。ぜんまい仕掛けのからくりで動く自動人形の劇場が伝統となっている市を舞台にして、いくつものとびぬけた人形をつくったひとりの人形製作者の作風が変化していく様子を分析していくのだが、その前に自動人形とは何かが詳しく説明され、その起源や発展の歴史についての考察がもっともらしい語り口で述べられている。
 それによればこの市には、子供向けから大人向けまで無数の劇場があり、一年間に八百を越える劇団が上演を行っているという。
《わが市の博物館に保存されている十八世紀のからくり芸術にも、たしかに独自の魅力と美しさはあるものの、動きの再現という点では現代の作品に遠く及ばない。この面においてはきわめて急速な発展が生じており、今日の十二歳の徒弟の方が、ごく初期の名匠の上を行ってすらいる。何しろ彼ら徒弟は、五百種類以上の動作を行う人形を作り出せるのだ。そして周知のとおり、過去二世代のあいだに、わが名匠たちは、生身の人間に可能な動作をすべて、ひとつ残らず自動人形において再現してみせた。》p118

《したがって、私たちの芸術は、基本的に模倣を事とする。ひとつ進歩が遂げられるごとに、生の領域をまた一歩侵したことになるのである。[…] これはいわば方法のリアリズムであって、空想や幻想を排除するものでは決してない。まず第一に、児童劇場と本来の劇場、という伝統的な区分がある。児童劇場では、どれほど度しがたい夢想家の想像力も満足させるであろうほど多くの魔女、竜、幽霊、歩く木等々に出会う。だがそれらはみな、矛盾を恐れずに言うなら、本物の魔女、本物の竜、本物の幽霊、本物の歩く木である。これらのものたちにあっては、ありえないものを正確かつ完璧に表現するために、からくりの持つ力がありったけ動員されている。現実に属するものが、非現実に属するものを喚び起こすために使われているのだ。それは幻想的なるものの模倣であり、存在しないという一点においてのみ現実の生物たちと異なる生き物たちの細心な表出である。》p119

 この基本的な図式にあって、「モデル」と「その人形」の関係ははっきりしている。実在するにせよしないにせよ、まずモデルというものがあり、人形はそれにどれだけ似せられるかによって評価される。だから進歩は直線である。
 ただし、評価軸がそれだけではないことも、《自動人形は背丈わずか十五センチにすぎない》という事実によって示される。それよりずっとモデルに近いはずの等身大の人形を作っても、この市では笑われるだけなのだ。
[…] 自動人形の芸術自体がもたらしてくれる快楽の本質という問題がある。この快楽が、部分的には模写の快楽、類似の快楽であることを否定するのは愚かというものだろう。とにかくそれは、完璧に達成された見せかけが与えてくれる快楽なのだから。だがこの快楽はまさに、もうひとつ別の、第一の快楽とは対立する快楽に依存している。あるいは模倣の快楽自体が、実は二つの相対立する部分に分割しうると言ってもいい。》p119

 もったいぶった書きかただが、語り手の言いたいのが極めて当然のことであるのはすぐわかる。というか、自分はそれを前から知っていたとさえ思う。これである。
《この第二の楽しみ、もしくはこの模倣の快楽の第二の部分とは、似ていないことの快楽にほかならない。ひそかな悦びとともに、私たちは見せかけが物それ自体ではないこと、ただの見せかけでしかないことをさまざまな面から見てとる。見せかけ自体が真に迫れば迫るほど、この快楽も増してくる。何しろ私たちはもう子供ではない。自分が劇場にいることを忘れたりはしない。》(同)

 この点をきっちり押さえたうえで語られるのが、ハインリッヒ・グラウムという男の手になる数かずの作品なのだけれども、その変遷を論じるにあたって必要な布石は、ここまでですべて打ってあることにいま再読して気がつき、あらためておどろいている(短篇はここまでで1/3程度)。




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2009/02/17

(2) 前回の続き



 CGと、それ以前の特殊撮影技術。どちらにも詳しくないので、そこにどんな決定的なちがいがあるのか、私にはよくわかっていない。
 だから前回のぶんも今回のぶんも個人的な感想でしかないのだけど(いつだってそうだ)、実写映画の一部として使われるCGは、たぶん、本物になろうとしている。見る側が、本物と区別のつけられない映像になろうとしている。「本物そっくり」ではまだだめで、「え、本物じゃなかったの?」「CGだったなんてウソでしょ?」と思わせるのが、CGのめざしている方向なんじゃないだろうか。CGは、CGとして見られたくない。
 
 それに対して、と勝手に並べてしまうが、たとえばゴジラでもウルトラマンでもなんでもいいけど、そういった巨大怪獣・巨大ヒーローものの破壊シーン・格闘シーンで、舞台や背景として広がる街並みのミニチュアには、一途な本物志向とはべつの目標があったようにかんじる。

 ミニチュアの街並みだって、もちろん、できるかぎり本物に似せようと作られているんだろう。当たり前だ。でもそのいっぽう、どこかの段階で、ミニチュアであることにとどまり、自足しているようにも見えた。
 見る側の私は、それを本物の街並みではなく、ミニチュアとして見ている。本物の街並みを、こういうミニチュアで表現しているんだね、という受け取りかた。小さな雑居ビルと木造二階建て家屋の隣に、さらに小さな赤い自動販売機があって、サイズからいったら太すぎる白の波線でコカコーラの自販機なのが示されている、みたいなものを見ると、「それで充分だ」と思って、ミニチュアを本物の街並みに「見立てて」あげていた。
 もっとも、雑なミニチュアにはそこまでやさしくなれない。ある一線を越えて細かく作り込まれたミニチュアに対してだけ、それを「本物に見立てる材料」としてOKにする転換が起きていた(それだって、最近のCGで描かれた街並みに較べたらずっと雑な作りだったはずだ)。
 
 画面にあるのは「本物そっくりの偽物」でしかなくても、「どうせここに映っているのは本物ではない」と思って見ているのだから、「本物に見立てる材料」としてOKなら、「本物そっくりの偽物」は、「偽物」ではなくなる。
「(ミニチュアなのに)波線まで描いてある!」
「(ミニチュアなのに)電線がたわんでいる!」
 そういう部分に気付いたとき、私はミニチュアをミニチュアとして、ミニチュアという本物として、見るようになる。
 ミニチュアは、はからずも、ここでゴールしているんじゃないだろうか。
 そして、CGが「本物と区別がつかない」地点をめざすかぎり、これはCGにとっての目標にはなりえない。
(CGが「本物の街並み」を再現するのではなく、「本物の街並みを再現しようとするミニチュア」を再現しようとするなら、その倒錯を私は「いい!」と思ってしまう気がする。CGじゃなくてアニメだが、「トップをねらえ!」で、巨大ロボット・ガンバスターの足から出るジェットブースターの噴射炎(?)が、いかにもそれらしい炎ではなく、わざわざ古い特撮物の、しょぼい炎として作画されているところに感激してしまったように。
 これはただのえこひいきかもしれない。「倒錯しているものは、いい」という好みはきっとめずらしいものじゃないと思うけれども。閑話休題)

 大事なのは、私よりCGをよく見ている人になら、CGの進化の方向を「本物になること」とは別であるとして、上で私がミニチュアについて書いた部分をCGに置き換え、CGがCGであることに自足する瞬間を見て取ることもきっとできるんだろう、ということだ。CGを現実の代理物としてでなく、CGとして見る眼である。
 ミニチュアもCGも、まずはじめには「本物でない偽物」として作られるという点で同列にあり、私の見かたが不公平なのはまちがいない。

 でも、いまはこれ以上に話を進めるつもりはなくて、さらにまた、人間の声とボーカロイドの関係なんかに話を広げるつもりもなくて、ここまで書いてきたことは、じつはミルハウザーの短篇を読み直してみる口実だった。
 作品集『ナイフ投げ師』に入っている、「新自動人形劇場」というのがそれである。




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2009/02/14

(1) 映画「幻影師アイゼンハイム」(2006)

幻影師 アイゼンハイム [DVD]
ニール・バーガー監督


 先日、TSUTAYAで借りて見た(→公式サイト)。
 スティーヴン・ミルハウザーの短篇「幻影師、アイゼンハイム」(『バーナム博物館』に所収)を原作にしたもので、「別物になっている、それも、私の苦手な恋愛ものになっている」のをおそれるあまり、去年の劇場公開時には見に行けなかった。
 おそるおそるDVDを再生してみると、「主人公が幻影師」というところはそのままに、原作のうしろにある舞台設定を前に出し、原作に出てこない登場人物をつけたして、原作に出てくる登場人物にも原作にない過去を加え、原作に出てこない事件と原作に出てこない展開を積み重ねる、つまりはぜんぜん別物だったから、かえってふつうに見ることができた。ラストには「なるほど」とおどろいた。
 しかし別物であっても「それはどうか」と思ったのは、「奇術をCGで表現してしまう」ことだった。

 原作は――って、やっぱり原作の話になるのだが――世紀末のウィーンに現れた奇術師が、怪しく物憂げな雰囲気のなか、無い物を在るように見せる幻影の技を高めに高め、徐々に徐々に、生物には越えられないはずの境へ接近してゆく過程を描いたもので、早い段階からそこに不穏さをかんじとった観客の熱狂は次第に激しくなり、たかが一奇術師を相手に警察が動き出す。警察の仕事が社会の風紀と秩序を守ることだとすれば、それはたしかに正当な反応だった。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。》(強調は私)

 そんなわけだから、幻影師の性格はぜんぜんちがっても、映画でも奇術は行われる。何度も、何種類も、行われる。それが多くの場合、「はいCGで作りました」とすぐわかるCGなのだった。なんだか画面から浮いて見えるし、質感もちがう。
 とはいえ、CGだからがっかりする、というのも不思議な反応である。
 舞台上で主人公が鉢に種を植えると、すぐに芽が出てすくすくと伸び、葉を茂らせ実をつける、葉群からは蝶が飛んで出る、なんていう奇術は、作中ではじつは機械仕掛けということになっているが、そんな精妙な機械を実際に作れるはずはないから、CGを使って映像にするのがいちばんいいやりかただったんだろうと思う。
 それなのに、画面を見るとどうにも白けてしまう。
 そして、これがCG以前の特殊撮影技術や、あるいは手の込んだ小道具で表現されていたとしたら、たとえそちらのほうがCGに較べて数段ちゃちなものであったとしても(確実にそうなる)、たぶん私は、ここまで「何だかなあ」とはかんじなかったと思うのだ。
「はいCGで作りました」から来る失望は、ことのほか大きい。CGを作るのだって地道な創意工夫の積み重ねだろうに、そして、そこに費やされた膨大な手間ひまを想像できないわけではないのに、これはいったいなぜなのか。

 私はCGに詳しくないし、そもそも映画もそんなに見ていないのだけど(あるいは、詳しくなくて見ていないからこそ)、きっとCGは万能なんだと信じている節がある。なんでも表現できる、なんでも映像にできる。いまはちゃちな出来になってしまう表現でも、いずれ技術が向上して、本物と寸分たがわない映像にできるのはまちがいない、と思っている。
 そしておそらく、なんでも表現できる(と思っている)ために、CGに対して、なんだか気持が冷めるのである。「だって何でもできるんでしょ、何でもできるものが何でもできたからといって、だから何」。こう書いてみると勝手だが。
 だから、完璧に画面に馴染み、ほかのものとまったく同じ質感を伝えるCGができたとしても、それでも「完璧なCGだから、つまんない」という感想を抱く気がする。

 でもこれも、もう少し考えてみないといけない。
 まず、「完璧に風景の一部と化して、CGと気付かないCG」に対しては、そのような否定的な気持は生まれるはずがない。気付かないんだから。だからそれはそれでいい。「いい」という判断も謎だが。
 では、実写をベースとする映像のなかで、「自分の目ではCGだとわからないが、それ以外の方法ではありえないと思われるので、CGだと判断される映像」には、どんなによくできていても、白けてしまう、ということだろうか。
 しかし、なんだかんだいっても派手な爆発やゴージャスな絵づくりは、少なくとも見ているあいだは、無条件に楽しい(そういう一部分だけを、全篇がCGでできているアニメに近いものとして見ている)。
 そういう問題ではなくて、どうやら自分のなかに、「CGで描いちゃだめなんじゃないか」と思っている対象が、あるようなのだ。
 まわりくどくなってきたが、私が抵抗をおぼえるのは、「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事を、あっさりCGで画面の上に現出させてしまう」こと、のようである。
「あっさり」というのはCGを作る労力を無視して言っているのではなくて、CGで現出させる、というやりかたじたいに対する印象だ。
 そして、まさにその「映画のなかでは実際に起こったことになっている非現実的な出来事」なのだ、“奇術による幻影”は。

 奇術が「現実には存在しないものを、現実に存在するものを使って、存在するかのように見せる」技だとすれば、真ん中を抜かして、画面上に「現実には存在しないものを、存在するかのように見せる」ことができるCGは、やっぱり奇術ではない。
 それなのに、奇術を使ったのと同じ幻影をCGが作り出せるようになったら、そのときCGは、奇術を十全に表現するというよりも、奇術を殺すことになるんじゃないだろうか。
 いや、何か大げさすぎた。言い直す。
 CGを使った映像表現は現代の奇術ということになるんだろうけど、その奇術と幻影師の奇術は、別の種類のものである。「幻影師の奇術」の表現としてCGが使われ、両者が画面の上で同じものになってしまうことに、私は抵抗をおぼえる。
 だって、俳優がじっさいに奇術を演じているのを写したのではないとわかっている以上、どんな方法を使っているにしても、画面上の奇術は、奇術ならぬ「奇術の真似事」だ、という前提で私はそれを見ているのである。だから奇術は「奇術の真似」どまりでいい。奇術を見せてほしいと思っていたら、映画館じゃなく奇術のショーに行く。
 逆に、区別がつかなくちゃ、「おお、奇術を奇術じゃない方法でがんばって表現している」と思えなくちゃ、私は感激できないようなのだ。そんな予感がする。感激はしたい。これはわがまままだろうか?
 これから先、奇術と区別がつかないCGが出てきたら、私は逆に「奇術じゃないのに奇術の顔をしているCGって何様だ」と腹を立てるように思う。
 というかそうなったら、目の前の映像が本物の奇術を写したものなのか、CGでで作ったものなのか区別がつかないわけだから、ものすごく焦ると思う。これもわがままだろうか?
 そんな私は、やっぱり奇術ショーに行くべきなのかもしれない。
 (だけど私は、奇術が見たいだなんて一言もいっていないのである!)

 ――と書いてきて、まったく意外なことに気がついた。いま私の心をざわつかせているさざ波を、「つけるべき区別がつかなくなってしまう」ことに対する困惑と警戒だとすれば、それは短篇「幻影師、アイゼンハイム」のなかで、奇術師の技によってせせら笑われる、国家に忠実な警察署長の困惑と警戒に、気持悪いくらいうまく重なるようなのである。先にした引用を、今度はその続きも加えて、もういちど貼ってみる。
《署長を不安にしたのは、もっと別の何ものかであった。彼のノートには一度ならず、「境界の侵犯」という言葉が否定的なニュアンスをともなって現われる。どうやら彼はその表現を通して、しかるべき区別は断固維持されねばならないということを言わんとしているように思われる。芸術と人生、というのがそうした区別のひとつだし、幻影と現実、というのもそうである。アイゼンハイムはそうと知りつつ境界を侵犯したのであり、したがって物事の中核をかき乱したのである。要するにウール署長は、宇宙の根本を揺るがしたといってアイゼンハイムを非難したわけである。アイゼンハイムは現実の土台を揺さぶったのであり、その結果それよりさらにずっと悪質な行為を行ったのだ――すなわち、帝国を転覆せんとしたのである。なぜなら、ひとたび境界という理念が曖昧で不確かなものになってしまったら、帝国はいったいどうなってしまうのか?》(強調は私)

 小説を読んでいて、感激したりおどろいたりすることはよくあるが、動揺するのはめずらしい。




バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
(2002/08)
スティーヴン ミルハウザー

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2009/02/02

1月後半の本


 黒田硫黄の連作短篇、『茄子』が新装版になって再刊される(上下巻。下巻は2月発売)。
 その記念で、新作が「アフタヌーン」3月号に掲載――という情報を、ブログ「黒田硫黄の仕事」で知ったので、いそいそと買いにいった。
 
「きっとおそらく、だれかの後日談的な話だろう」「じゃあだれがフューチャーされるんだ」「それは3択、いや2択までしぼられる」「どっちになるんだろう」と一人で騒ぐ。
 上記ブログ記事にヒントが書いてあった気がするが、そこは見直さないことにして「アフタヌーン」本誌と付録を十字に縛りつけるヒモを切り、目次を確認、なかほどの16ページぶんをさがす。
 1ページめでおどろいた。
 こちらの「だれだれを見たい」という希望が、予想のひとつ上のかたちで、たしかにかなえられている。こういうのを後日談というのだ、という後日談。
「お前らはこういうのが好きね」と黒田硫黄に弄ばれている気もした。
 新装版の下巻にさっそく収録されるとは思えないので、全『茄子』読者はたぶん必読。


茄子 上 新装版 (1) (アフタヌーンKC)茄子 上 新装版 (1) (アフタヌーンKC)
(2009/01/23)
黒田 硫黄

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月刊 アフタヌーン 2009年 03月号 [雑誌]月刊 アフタヌーン 2009年 03月号 [雑誌]
(2009/01/24)
不明

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■ 奥泉光の新作長篇『神器 軍艦「橿原」殺人事件』(新潮社)を読んだ。
 乱暴にいって、奥泉光の小説は「謎の解決する話」と「解決しない話」に分かれる。今回はタイトルからしてきっと…… いやしかしどうだろう…… と思いながら読みはじめた。
 
 (★以下、内容に触れているかもしれません)
 
神器〈上〉―軍艦「橿原」殺人事件   神器〈下〉―軍艦「橿原」殺人事件

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