2009/01/24

「モンキービジネス」 2009 Winter vol.4 の続き

前回分…

 特集以外のページでは、岸本佐知子がいよいよすごかった。「あかずの日記4 八月 タカシ」
「あかずの日記」はvol.1からの連載で、
《八月一日
 明け方、夢の中で甘栗屋の店先に立っている。釜の中でぐるぐるとかきまわされ煎られているたくさんの栗のなかに、もう何百年とすくい上げられることを逃れて回りつづけている長老の栗があり、それがすくい上げられるとき世界が滅亡することを私だけが知っている。私はそのことを甘栗屋に教えようとするのだが声が出ない、焦って口をパクパクさせていつまでも店先に立っていると甘栗屋が私をにらみ「お客さん、買うのか買わねえのか」とすごむ。》p120

 こういうものを楽しく読んできたのだけど、つづく121ページ、「八月二日」からの記述にはドギモを抜かれた。あの岸本佐知子が。育児日記を。鬼気迫る妄想なのか、凝縮された悪意なのか。とにかく私は「離陸する瞬間」を見た気がする。しかも読んでいくと次第におかしくなっていくのだが、おかしくならないまま終わっていたら、それがいちばんおそろしかったにちがいない。
 連載のバックナンバーとも微妙にからみあう展開を見せて、この「日記」はどこまでいくのだろう。できることなら500日ぶんくらいまとめて読んでみたい。帰ってこれなくなると思う。
《ここ「区立まよなか幼稚園」は深夜に開く幼稚園で、不眠症の園長によって営まれている。

  よいこはみんな しっている
  ひるよりよるの うつくしさ
  よるのにおい よるのかぜ
  きのこのほうしの めぶくおと
  おわあこんばんは おわあこんばんは
  みんななかよし なかよしのその
 
 これは「まよなか幼稚園」の園歌。》p125

 なぜか泣きそうになっている自分におどろいた。あ。それと、もしかして、「少年少女号」にもかかっているのか?
 
 
 ナサニエル・ホーソーン「死者の妻たち」(柴田訳)

 メルヴィルと同時代のアメリカ作家、ホーソーンの短篇。これは以前、このときのイベントで朗読された翻訳だと思う。おぼえてないけど記憶はあった。記憶はあるけどおぼえてなかった。
 話じたいは何ということもない(いい話です)のだけど、読みすすめる最中の妙な楽しさは文章の運びからくるんだと思われる。まわりくどさが一周まわって面白い、というか。
《これほどの哀しみに対して、少しでも慰めがありうるとすれば、それはたがいの胸のなかに見出されるものと二人とも思っていた。二人は心をつなぎ合わせ、共に無言で泣いた。けれども、一時間そうやって悲しみに暮れた末、姉妹の一方の、穏やかで物静かな、しかしひ弱ではない性格ゆえに感情を抑えることにも長けた方が、あきらめと忍耐をとくもろもろの教訓を思い出しはじめた。それらの教えは、まさか自分にそんなものが必要になるとは思ってもいなかったころ、信心深さのおかげで自然と頭に入ったものであった。》p161

《少しのあいだ、まどろみが朝靄のように彼女の周りにたちこめ、あたりの輪郭をくっきりと見てとることを妨げていた。不完全な意識とともに、せわしい、熱のこもったノックの音の連なりが二、三度響くさまに彼女は耳を傾けた。はじめはその音が、自分の吸う息のように当たり前に思えた。その次は、自分には何の関係もない音だという気がした。そしてとうとう、それが応じるべき、呼び出しの音であることに気がついた。と同時に、記憶が戻ってきて、痛みが彼女の心を刺した。》p166

 メルヴィル同様、作者当人にどこまで「まわりくどく書く」意識があったのか謎である。まわりくどいと受け取るのは現代の私の感性にすぎないのか。じゃあ、今の目でみれば、ホーソーンたちはあたまのなかがまわりくどかったのか。生きにくいだろう、それは。
 そういうことを考えるのがまた楽しい。まちがっている気もするが。
 こんどはエマソンのエッセイなんか訳してほしい。


 マイケル・エメリック「偐紫田舎源氏――こたつ向け読書案内」

 私はこのタイトルを「偐・柴田・舎源氏」と読みまちがえて、「何シバタだよ」と軽く突っ込んだのだけど、『偐紫田舎源氏』[にせむらさきいなかげんじ]とは、《『源氏物語』を取り入れ、十九世紀の一般読者が初めて『源氏物語』の世界に間接的に触れることができた作品》なんだそうで、出たのは1829-42年。豪華な絵と文章を組み合わせた「合本」なるジャンルの物語らしい。
 これがいかに楽しく、たくらみにみちた本なのかを、マイケル・エメリックはほんとうに面白そうに語るので、紹介されている部分のほかも、もっとのぞいてみたくなった。でも、絵と文がいっしょになっていて、しかもかんたんに入手できるテキストはないんじゃないだろうか。それでも、想像するだけで楽しい本というものはある。
 マイケル・エメリックは日本文学の専門家で、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を英訳したり(Sayonara, Gangsters)、阿部和重の『シンセミア』文庫版に「解説」を書いたりしている。


 アレクサンダル・へモン「アコーディオン」(柴田訳)

 群衆と秘密警察のなかを走り抜ける、皇太子の馬車。
《「妙な人民だなあ」と皇太子は考える。アコーディオンの男のことを妃に話してやろう、と皇太子は決める。聞いたら妃も元気が出るかもしれない。
「アコーディオンを持った男がいるよ」と皇太子は皇太子妃の耳に告げる。まるで皇太子がうわごとでも言ったかのように、皇太子妃は縮み上がる。
「何? 何の話?」
 皇太子は妃の方に身を乗り出す。「アコーディオンをね……」》p100

 たった5ページに、歴史と、歴史の再構成と、家族の話が入っている。これ、もっと読みたい。作者はボスニア=ヘルツェゴヴィナ生まれだそうで、私は知らなかったが、すでに訳書もあった(→『ノーホエア・マン』)。これを読めばいいのか。


 この4つがとくに面白かった。もちろんほかにもいろいろ載っていて、毎号巻末にあるダニイル・ハルムスの短篇も面白く読んだ。
 創刊1周年になる次号vol.5は「対話号」だそうで、なにそのセンス。発売は4月20日とメモ。


モンキー ビジネス 2009 Winter vol.4 少年少女号モンキー ビジネス 2009 Winter vol.4 少年少女号
(2009/01/20)
柴田 元幸

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2009/01/22

「モンキービジネス」 2009 Winter vol.4

モンキー ビジネス 2009 Winter vol.4 少年少女号
ヴィレッジブックス


 vol.3がサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』全訳を一挙掲載した「サリンジャー号」で、次のvol.3.5が『ナイン・ストーリーズ』についての「ナイン・ストーリーズ号」だった(ややこしいな)「モンキービジネス」の最新vol.4は、少年少女号である。

 まず目次を見る。巻頭を飾るのが、柴田元幸が少年時代を過ごした京浜工業地帯をスチュアート・ダイベックといっしょに歩いた日の記録文なのを知って、私は「ちょっと、これはどうか」と思った。
 というのは、「スチュアート・ダイベックと京浜工業地帯を歩く」というタイトルだけから何か「ノスタルジーの予感」めいたものを感じて警戒したのであり、人間だれでも、ひとりの例外もなく、少年(もしくは少女)だった時期をもつ以上、この「少年少女号」が、「(かつて自分が)少年(もしくは)少女(だった頃についての文章を集めた特集)」だったらなんかアレだぞ、という危惧を抱いたのだった。勝手だが。
 かくいう私じしんは、それこそ「どうか」というくらいむかしのことをおぼえていて、ささいなきっかけから喚起される記憶に浸っているだけで半日でも過ごすことができる。
 でも、それは自己愛である。
 そんな自分にうしろめたさ(こんなんでいいのか)を感じるし、そんな個人的回想が他人にとっても面白いとはぜったいに思えない。だから、「私はともかく、他人の記憶なんか知るか」という姿勢をとっておきたい。
 もっといえば、自分のむかしを思い出すのが好きなあまり、気を抜くと他人の思い出ばなしにでも共感してしまいそうな自分がいやなので、「それがたとえ柴田元幸であっても、他人の懐古趣味につきあうのはいやだよ」、と気を張っておきたいのである。

 しかし、よく考えてみれば、柴田元幸こそ、そういったうしろ向きなポーズのうさんくささ(過去に浸ることを通じて、こっそり自分を愛してしまう)に敏感で、そこから全力で逃れたがる人であった。

 いぜん読んだ『つまみ食い文学食堂』は、食べ物の出てくる小説と、食べ物にまつわる自分の思い出をつなげていくエッセイ集だったが、そのときの感想→これでも引用した、こんな告白がいまでも印象に残っている。
柴田 ……旨いものの話をストレートに書くと、結局自分を祝福することになるだけなんじゃないかなぁ。
都甲 何か悪いんですか。
柴田 ぼくの問題なんだけどさ(笑)。
都甲 それは、完璧にカウンセリングみたいですよ。
柴田 何であなたは自分を祝福できないんですかっていう、アメリカだとそういう話だよね。でも、子どもの頃、童話読んで豊かな気分になってた自分を祝福するみたいで嫌なんですよ。でも、給食のクジラを旨いなと言ってた自分は祝福したい気になる。
吉野 それは、給食だから。
柴田 そう、給食だからなんですね。》

 この人なら、まかりまちがっても、他人をまきぞえにして自己愛の落とし穴に落ちたりしないよう、全力で気をくばるんじゃないだろうか。
 そのように気を取り直して、ようやく、「スチュアート・ダイベックと京浜工業地帯を歩く」を読んでみると、それはこちらの危惧を2回転半くらいのジャンプでかるく飛び越えるものだった。

 大田区仲六郷の工業地帯そばに生まれ育った柴田元幸が、シカゴの下町に生まれ育ったダイベックに尋常ではないシンパシーを感じているというのは、これまでもあちこちのエッセイに書いてあった。かつては「これまでの訳書でいちばん好きなのはダイベックの『シカゴ育ち』、あれは他人が書いたと思えない」(大意)みたいなことを述べていたと思う。
 そんなダイベックを連れて、自分の思い出の風景のなかを歩く。目的が「いまの風景を見る」であっても、連れがいるからこそ、「むかしはこうだったんですよ」というかたちで、文章は容易にノスタルジーにすべり込みかねない。そこで柴田元幸は――ネタバレとかそういう話ではないと思うので書いてしまうが――、過去の自分を登場させる。
(1)ダイベックという他人、(2)過去ではない現在の風景、に加え、(3)シバタ少年までも一個の対象にすることで、視点はノスタルジーの外に出る。そうやって、思い出にまつわるふつうの自分語りよりもはっきりと自分のことを書きながら、考察しながら、なんとも周到に、ただの郷愁から身を引き離してみせるのだ。
 だからこの文章は、あきらかに思い出から発しているのに、うしろ向きな感じがしない。自分のことを書いているのにうしろ向きじゃない、というのはすごいことだと思う。過去の自分は意外と自分から遠い、というのが、私には発見だった。
《もちろん僕には、それが過去の僕だということがわかった。いまは平日の午前中で、過去の僕は学校をさぼるような度胸がある子供ではなかったが、たぶん彼がいる時間にあってはいまは平日の午前ではないのだろう。あるいは、時間の外に迷い出てしまっているのかもしれない。だから僕は、彼に声をかけて、これからお昼食べに行くから一緒に行こうよ、と誘うことに決めた。その方が、「かつての君(つまり僕)の目」でスチュアートがここを見ようとしてくれるのも、もっとやりやすくなるんじゃないかと思ったのだ。それに、過去の僕が一緒に行ったら、過去のスチュアートも出てきてくれるのでは……という期待もあった。》p13

 静かに、落ち着いて、しかしけっこう変なことを書いている。

 ながながと「私の勝手な危惧とその理由、それはいかに杞憂にすぎなかったか」を書いてきたが、この「スチュアート・ダイベックと京浜工業地帯を歩く」のあとにつづく「少年少女号」の特集部分を読んでみれば、べとべとのノスタルジーに浸るような人はだれもおらず、たとえ自分の“少年、もしくは少女”時代をネタに書かれたものであっても、ちゃんと距離があるし、あるいは(柴田元幸がしたように)相対化の工夫がされていた。
 すなわち、ここで少年少女について書いているのは、みんな大人だった。

 レベッカ・ブラウン「時代の子供」というエッセイ(小説?)にあった、このフレーズはかなり好きだ。
《お揃いの服を着ている子供は私も知っていたし、どこか悪いところでもないかぎり大きくなったらそういうことはしないものだとも承知していた。》p31

 作家たちから募った「好きな男の子・女の子」というアンケートでは、リン・ディンなんかは、アンケートの回答のくせに短篇のネタと見分けがつかないような文章を返してくる。
 同じアンケートで、長嶋有は尾辻克彦『肌ざわり』から小学生の「胡桃子」を挙げており、『電化製品列伝』を思い出したが、そのコメントは相変わらず目からウロコだった。

 ――だから結局、自分の思い出にこだわりすぎて身動きが取れなくなっているのは、この私だけである。端的に、不健全だ。そして、このようなことを書いているのも、不健全だ。
 本号掲載の、特集以外の作品についてはべつに書く。



(ちなみに、自分の過去のこと・思い出・記憶を書きながら、ノスタルジーには落っこちない、それどころか飛びこえてどこかに行ってしまう、そんな曲芸がもはや当たり前のようになっている書き手として、岸本佐知子がいる。あと、やっぱり記憶を扱いながら、記憶の立ちあがる原理まで扱ってしまうので、かけらもうしろ向きにならないのが保坂和志だ。タイプはちがうが、どちらも「自分から離れる」のだと思う)
2009/01/16

長嶋有『電化製品列伝』(2008)

電化製品列伝
講談社

《別に電化製品が「好き」なわけではない。》p188

 こうやって私は自分の読んだ小説について何かしら書き連ねるブログをやっているわけだけど、おなじようなことをしている全国の何万という人のなかで、この『電化製品列伝』を読み「やられた」と思わない人間はひとりでもいるだろうか。
 いきなりねじれた書きかたになった。本書は、「電化製品が描かれていること」を条件に選ばれた小説作品の、その「描かれかた」にのみ注目する書評集である(一部、映画や漫画も含まれる)。
 いきおい、取りあげられるのは現代ニッポンの(70年代後半からこっちの)作品が多くなるが、ただし条件はもう少しきびしくて、「電化製品がノスタルジーの対象になっているもの」はバツだし、「擬人化されていたり、何かのメタファーとして使われる」場合もだめである。
 つまり、「電化製品が電化製品として、モノとして」描かれている場面にのみ、長嶋有の熱い視線はそそがれるのである。
 そんなことをして何が得られるのか。それは本書の最初に置かれた、あの大ベストセラー恋愛小説を扱った部分を読めばおのずとわかるようになっている。
川上弘美の『センセイの鞄』は二〇〇〇年代の恋愛小説の傑作であり、今なお多くの文芸批評家がさまざまなアプローチで熱く語る、現代の文学史上でも重要な一作といえる。
 だが、この作品の第一話で描かれた「電池」について論じた文章をぼくはみたことがない。》p11

 そういって長嶋有は「電池」について語りはじめる。
 だれも論じていなかった点を論じれば、それだけで意義はある。これはまちがいない。そしてそのうえで、その一点、その電化製品から、小説が丁寧に読みほどかれるのである。
 だれもみていなかった視点を発見する注意力でもって作品を読むのだから、ほとんど当然のように、観察はするどく、説明はわかりやすい。乾電池をめぐる考察(それはそもそも電化製品なのか)、それを扱う登場人物の手つき、といったところから解読される『センセイの鞄』は、まるで乾電池を中心に組み立てられた小説であるかのような相貌をみせる。それはきっと錯覚なのだろうが、いちめん本当のことでもあるのだ。たしかに乾電池はそこに描かれているのだから。
 そんなブレない視線で、伊藤たかみ『ミカ!』の「ホットプレート」や、柴崎友香『フルタイムライフ』に出てくる「シュレッダー」(オフィス家電!)吉本ばなな『キッチン』の「ジューサー」だとか、かわったところではアーヴィン・ウェルシュ『トレインスポッティング』から「電気毛布」といった、さまざまな電化製品にスポットが当てられて、くわしい分析がほどこされる。
 いつも「その家電品の形態と用途、特徴」から語りおこされる説明は、それこそ家電品のカタログを並べてスペックを検討するかのようで、ひたすら具体的である。モノを集めた結果、書評集は具体例のかたまりになった。これもまた当然ではある。
(正直、取りあげられる17作品のうちで私が読んだことがあったのは半分に満たなかったのだけど、それでもぜんぜん読みにくくないのは、この具体性のおかげだろう)

「小説のなかにはほかにもいろいろなことが書いてあるだろうに、どうして長嶋有は電化製品にだけ目をとめるのか」、という問いは、「ほかにもいろいろ書くことがあるだろうに、どうしてその作家は“それ”を書いたのか」、という問いとして裏返すことができる。“それ”は電化製品だけでなく、その作品ぜんたいのことである。
 限られた分量で何かを書くことは、いや、そもそもが限られている言葉でもって何かを書くことは、ほかの何かを書かないことであり、つまり、取捨選択することである。
 そんなことはもうさんざん繰り返し言われているだろうけど、長嶋有がいさぎよく「電化製品の描かれる場面」だけに視野を限り、それでもって作品から、作品じたいより大きい「作者の視線のありかた」みたいなものを再構成してみせる様子には、書くことと読むことにおける取捨選択の勝負、といった気配さえある。いや、勝負というよりは、やっぱり「理解してあげる」かんじだろうか。作家が世界をみる観察、その観察のしかたをこちらはちゃんと観察してあげますよ、というような。
 とりわけ、「グローランプ」を鍵にして干刈あがたの『ゆっくり東京女子マラソン』を論じ、まだ言葉として定着していないような日常の行いを果敢に取り込んだと賞賛する文章は、あくまで具体的なまま、共感と敬意にみちた読みものになっていて、最後の一文はかなり沁みる。
 あと、個人的な好みでは、尾辻克彦の短篇「肌ざわり」で、ブラウン管テレビを消したあとの様子を観察したシーンを取りあげた章は、もともとのテキストじたいが、ほかの小説だったらはげしく馴染まないだろう具体的描写で出来ているだけに(描写というか説明なのだ)、それをさらに説明しようと立ちむかう長嶋有の文章にも力が入っていて、両者のファンである私にはえらく楽しめた。
 そして、作品のセレクトとして「それはもう反則じゃないか」という感想を抱いたのが、高野文子の漫画「奥村さんのお茄子」(『棒がいっぽん』所収)で、それがなぜ「反則じゃないか」なのかを未読のかたに説明するのは至難なのだが、私は長嶋有に指摘されるまで、あの傑作漫画の舞台が「電機店」であることを意識していなかった自分に愕然とした。そしてあらためてあの漫画に愕然とした。
《[…]本筋と無関係の描写のすべてを、かつて自分も見た気がする。
 一二八ページで引用した「ドカーン大売出!」と書かれた札を天井に取り付ける奥村さんを宇宙人が見上げるアングルを、僕は今でも思い出すことができる。自分がみたかもしれない、みたことがないかもしれないけど、よく分かる風景なのだ。
 なつかしい、とか、ほっとするような、とか、ささやかな、といったあらゆる「修辞」を排して、それらの光景「だけ」をダイレクトに届けられた気がする。》p133

 引用した最後の段落は、「奥村さんのお茄子」を凝縮したものであるのと同時に、高野文子の全作品にあてはまる読後感であるように思う(で、この『電化製品列伝』の装画は高野文子なのである)。
 
 なにしろ読みやすいので大急ぎで読もうと思えば読めてしまうが、ゆっくり読むほどに、何気なく書かれているようにみえた観察の細かさに立ち止まり、何度も何度も味わいなおすことができる。それから、説明されている小説を自分で読みなおすこともできる。すごく親切な書評集だと思った。そして、書評の親切とは「具体的であること」か、とも思った。


棒がいっぽん (Mag comics)棒がいっぽん (Mag comics)
(1995/07)
高野 文子

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追記:

 吉田修一『日曜日たち』を扱ったところにこういう部分があった。
《『日曜日たち』では「男たち」のつかうリモコンが実にうまく描かれているが、僕は女性がリモコンをつかう様も好きだ。ノースリーブの女性がえいっと確信をこめて押す。上品な女性が、おずおずと押し込む。疲れた女性がソファに倒れ込んで卓上のリモコンにかろうじて手をのばす。リモコンは「意思」を具現化させる道具だから、意思の表明する瞬間は、それがつまらない意思でも、少し美しい。そしてその美しさはリモコンのフォルムに象徴されている。リモコンは使い手の意思を信号にして発信するわけだが、信号とは赤外線だ。つまり、我々の意思(音量をあげたい、冷房をつけたい)は「直線」になる。》pp36-7

 これはもう、ほんとうに勝手な想像なのだけど、長嶋有もユニクロックは好きなんじゃないだろうか。
2009/01/13

2009

■ そういうものがある、ということはずいぶん前にどこかで聞いたおぼえがあるが、さっきはじめて、「ユニクロック(UNIQLOCK)」なるものを見た。
(↓音が出ます)



 これは2時間でも見ていられる気がする。ひとが感情をあらわさずに整然と動く、というのに自分はすごく弱いのがわかった。繰り返しになってもかまわない、だって時計なんだから。
 人間なのに機械の部品みたい、というよりは、機械の部品みたいなのにやっぱり人間、というところがツボであるらしい。保守的なツボ。
 かくて、人間でできた時計にかどわかされて、広告の一部と化す1月の夜だった。今年もいろいろ遅いブログです。

 あとひとつだけ。

■ 本屋に行ったら「文藝」春号が“特集*柴田元幸”だった→目次)。
 
文藝 2009年 02月号 [雑誌]文藝 2009年 02月号 [雑誌]
(2009/01/07)
不明

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 高橋源一郎との対談があるというので、同じふたりが2年前の同じ「文藝」高橋源一郎特集号→これでやっていた対談の続きみたいだと思ったら、ふたりはこの春、『小説の読み方、書き方、訳し方』という本を出すという。
 たまたま先週の土曜、ものすごくひさしぶりに会った後輩から「柴田元幸が訳したジャック・ロンドン『火を熾す』がすごくよかった」と聞いて、それは読んでいなかったので「へえ」と思ったのだけれども、岸本佐知子との対談はまずそこから入っていた。
岸本 特に『火を熾す』に収録されている「メキシコ人」や「一枚のステーキ」などのボクシングものの迫力はすごいですよね。
柴田 今だったらTKOというルールがあるからあんなすごい死闘にはならない(笑)。僕は小説にはジャック・ロンドンが持っているような「ストレートな物語の力強さ」なんてものはないというふりをずっとしてきたので(笑)、『火を熾す』をやれたのはうれしいです。》p99、太字は引用者

 そんなものは「ある」のか。なんか悔しい。はやくドナルド・バーセルミも訳してほしい。
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