2008/12/16

「髭の女、マダム・フォスティーヌ!」


 ↑タイトルは『モレルの発明』からなんだが、以後はふつうに更新していきたい。この2ヶ月のあいだに読んだものについてはそのうち書く。きっと書く。


■ 穂村弘が、スターバックスのサイトで短歌の講評コーナーをやっていた。
 
 「スターバックス三十一文字解析」
 http://www.starbucks.co.jp/novel/index.html

 週2回更新だと、すごいペースで増えるのであるなあ。
《友「年下、いいかな」
ほ「清潔で、フレンドリーで、知的で、シャイで、優しくて」
友「……」 (思い浮かべている)
ほ「……」 (待っている)
友「いいね」
ほ「いいよね」
友「でも、どこにそんな子がいるの?」
ほ「スタバのカウンターの中」
友「……」 (思い浮かべている)
ほ「……」 (待っている)
友「いるね」
ほ「いる」

そう、いるのです。
あの感じのいい男の子たちは、どこからやってくるんでしょう。》
(第3回)


宮沢章夫の「富士日記2.1」でたまに名前を見かける方のサイトを見ていたら、このような記事があった。モンティ・パイソン。

 「The Monty Python Channel on YouTube」
 http://web-conte.com/blue/200811/22_1635.php
 
 ここに私は英国人の魂を見た、気がする(ちがうと思う)。


■ 内田百閒の『阿房列車』を読んでいる。古本で買った旺文社文庫の3冊(『阿房列車』+『第二阿房列車』+『第三阿房列車』)。
 ちくま文庫の集成で第1巻になっているやつ(表紙が素敵)は読んでいたんだけど、というか、あれが私のファースト百閒コンタクトなんだけど、あれにはほとんど1冊めの『阿房列車』からしか入っていないのだった。よく考えたら、古本で買わなくても、表紙に写真を使った新潮文庫版が売っている。
 筋金入りの頑固で偏屈な老人が、何の用事もないのに列車で旅をする。ただ列車に乗るためだけに乗る列車。列車は線路の上を走るのに、文章は融通無碍に脱線する。
[…] 昨夜の三君に見送られて秋田駅を立つた。十二時三十六分発の四一二列車である。今日の旅程は奥羽本線の横手までで、秋田から二時間足らずしか掛からない。
 横手なぞと云ふ所は、私は名前も知らなかつた。生まれてこの方、奥羽を通つた事もないし、今までに何の関係もなかつたが、不思議な縁で今晩は御厄介になる。横手に降りて何をするかと云ふに、奥羽本線から岐[わか]れて、横手と東北本線の黒沢尻との間をつなぐ横黒線に乗る為である。横黒線の沿線の紅葉は天下の絶景だと云ふ。紅葉を見に行く様では若い者になめられるに違ひない。しかしもう大体その見当だらう。天なり命なりと観念して、横手から横黒線を往復するつもりである。
 秋田を出てから、汽車は暗い空の下を走り続ける。車窓から見る行く手の空は一層暗い。向うから又時雨が来るらしい。》
「奥羽本線阿房列車 前章」

 そんなに“目的”の生まれるのが嫌なのか。でもときおり、真に理想的な小説はこのような姿をしているんじゃないかと思わされる、って、そんな感想ほどふさわしくないものはない。あの文章の面白さはなんだろう。いちど読んだはずの話を読んでいても、すがすがしいほど何もおぼえていない。まえに笑ったのと同じ部分で笑ったあとに、はじめて「ああ、ここにはおぼえがあった」と思うのだった。
 作為のかたまりみたいな小説と、無作為のきわみみたいな小説の両方がどちらも好きなんだけど、私にもうちょっと真剣味があれば、この好みはいっぽうに絞られるのかどうか、というのはときどき考える。考えるだけである。


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2008/12/09

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [18] (了)


モレルの発明 (フィクションの楽しみ)


 最後に私が考えたのはこんなことだった。

「私」の手記を、最も作為に満ちたものとして読むと、こういうことが言えると思う。
 モレルという人物は存在しない。人間を記録・再生する機械を発明したのは「私」であり、彼はその機械で恋人フォスティーヌを含む友人たちと過ごした7日間を保存した。被写体になった人間たちは死ぬ。「私」のしたことは一種の殺人であり、彼は罪に問われて司法の手に追われ、逃げ出した。
 本人的には、友人たちを“不死”にしたのであり、みすみす捕まるのは道理に合わない。だから「私」は別人になりすます。自分があの機械の発明者ではない証拠として、機械のことを何も知らない人間が「連中」(=友人たち)に出遭い、徐々にその正体を知っていく過程を偽の手記として書いていく。手記のなかでモレルの言動として書かれているのは、じつは「私」の言動だった。そして、自分だって被写体だった以上、「私」もやがて死ぬのである。
 もしこれが事実なら、モレルは「私」をオリジナルとするコピーあり、「私」とモレルは同一人物である。しかし、そこまではっきりとは書かれていない。

 逆に、「私」の手記を最も作為のないものとして読むと、こういうことが言えると思う。
 すべては「私」の妄想である。自分が無実の罪に問われて逃亡したことも、それで島に渡ったことも、そこで「連中」に遭遇したことも、そのなかにモレルという人物がいて奇怪な不死論を語ったことも、すべては「私」の狂った頭脳が生んだフィクションである。
 もしこれが事実なら、モレルは「私」の空想の産物なのだから、モレルの言動はすべて「私」が作ったものであり、「私」とモレルは同一人物である。しかし、そこまではっきりとは書かれていない。

 アドルフォ・ビオイ=カサーレスの書いた『モレルの発明』という小説に、手記の書き手として「私」は存在する。これだけは確かである。この手記をどう読むか。
 上に書いたように、正反対の方向でそれぞれいちばん偏った読みかたをしたとき、その両極においてモレルという人物は消え去って、「私」とモレルは重なる。どちらの場合も「そこまではっきりとは書かれていない」以上、このふたつの極のあいだのどこかに、『モレルの発明』は浮かんでいる。そのあいだにあるときにだけ、「私」とモレルは別人として分離して読者の前にあらわれ、共同作業として『モレルの発明』をつくり出す。

 そしてそのうえで、もっと台無しになるようなことを考えれば、そもそもが断章形式で書かれたこの文章の集まりを、統一された手記、一個の作品として読んでしまって本当にいいのかどうかという点も、小説の側では保証してくれないのである。
(小説のなかには何ヶ所か「刊行者からの註」があり、手記の本文に突っ込みを入れている。これは、「手記の信憑性をあげつらう身ぶりによって、もっともらしさを偽装する」巧妙な罠のように見えて、実のところ、「たんに嘘臭くしてしまう」だめな細工であるようにも読める。どちらの意図で突っ込んでいるのか、よく見れば見るほど判断がつかない。二重の作為を感じてしまった瞬間から、片方に決めることはできなくなる)

 だとすると、この手記を手記として成立させているのは、あちらこちらに顔を出す信じがたさ、大小さまざまの疑わしさを乗り越えて、これを手記として読んでいる、この私なのだ。当たり前だが、これは一周まわって戻ってきた当たり前のはずである。
『モレルの発明』をつくり出す作者として、「私」、モレル、のほかに、この本を読んでいる私、も加えてしまっていいような気がしてくる。そうなると、「私」がモレルかもしれないように、私もモレルだったのだろうか。繰り返される7日間という虚構のなかに「私」が入っていったように、私も『モレルの発明』という虚構に加わった。そんな自覚は確かにある。
 妄想だ。しかし、妄想だろうか。これだけ長々と感想を書き続けてきたあとだから、という理由ではなしに、読みすすめる過程がこれだけ面白い小説だから、という理由でもって、そんな気持になってみる自由も、『モレルの発明』は与えてくれるように思われるのだった。楽しい小説だった。

《孤独な人間は、機械をつくったり、情景を定着させたりすることはできないものだ。ただ孤独という不幸を知らぬ人びとのために、不充分ながらもそれら機械や情景を文章に書いたり、描いたりするだけである。》p136
2008/12/07

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [17]


《海水の混じり合う沼地から、私は、丘の上のほうを、そして博物館に住んでいる避暑客たちを眺めている。》p20

 モレルの機械は電気を動力源にしている。その電気は水力で発電される。メカに弱い「私」もうすうすわかっていたが、発電機は海辺のポンプにつながっていて、潮の満ち引きをエネルギーに変える仕組みになっている。

 モレルは周囲の潮の周期に目をつけて、この島を自分の発明の舞台にした。ここなら永遠に発電が続けられ、機械は動き続け、自分たちの模擬像は再生され続けると見込んだからである。
(その見込みはまちがいで、ときどき機械は停止してしまう。潮の調査が不充分だったのだ)
[…]今日の午前中、潮が満ち始めた。映像が出現するまえに私は出かけた。機械の仕組みを解明しようと考えて、地下室に赴いた(こんなふうに潮の干満に弄ばれることがないように、できれば機械の欠陥を補修するつもりだった)。》pp147-8

《機械は潮の力を動力として動く。
 小潮がある程度つづいたあとに、潮が連続して押し寄せ、低地の水車まで達した。機械は作動しはじめ、永遠に映像を送り出すレコードは、そのまえに止まっていた場面から、ふたたび動きはじめたのだ。》p166

 潮によって動く機械が映像(実体のある映像)を生み出し、「連中」の7日間という“作品”を現出させる。そこから閉め出されている「私」は、はじめのうち彼らを生身の人間だと思っていたので、見つからないように逃げ出し、海辺の低地に身を潜めたのだった。
《すべてを奪われて、私はいま、島のなかでもっとも狭苦しい住みにくい場所に閉じ込められている。週に一度海水に覆われてしまう沼地だ。》p18

《この二週間に三度の大潮があり、水があふれた。昨日の大潮では運良く溺れ死なずにすんだ。あやうく海水の不意打ちをくらうところだった。樹に刻んでおいたしるしによると、大潮は今日のはずだった。明け方眠りこんでいたら死んでいただろう。一週間に一度みせる猛烈な勢いでたちまち水位が上がってきた。》p36

 こんなにも住みにくい低地で、「私」はたえず海水におびやかされ、かと思えば「連中」の様子を見に丘の上まであがったりする。活発な男である。そのエネルギーはどこから来るのか。
《昨日の午前、低地に海水があふれた。これほどの大潮はいままでに経験したことがなかった。雨が降り始めて、水位はさらに上がった(ここは雨がめったに降らないが、降り出すと極端に激しく、暴風を伴う)。避難場所を捜さなくてはならなかった。
 滑べる坂、激しい雨、吹き荒れる風、そしておい茂る枝と戦いながら、丘を登った。礼拝堂(島で最もさびしい場所)に隠れようと思いついたのだ。》p39

 海辺(低地)と建物(丘の上)の上下移動を繰り返し、水に浸されながらひとりで手記を書くのが「私」である。「私」の書き続ける手記がこの小説なのだ、という体裁を『モレルの発明』はとっている。
《高潮のときはここでは眠れないし、それ以外の日でも、ほんのわずか水位が上がっただけで眼が覚めてしまう。しかもその時間がいつもまちまちなのだ。この海水浴にはいつまでたっても慣れない。なま温い泥水が私の顔に覆いかぶさり、一瞬息がつまるときがいつ来るか、いつ来るかと考えていると、なかなか寝つけない。》pp130-1

 ここに並べたような部分ばかりをまとめて眺めていると、“潮で発電して映像をつむぎだすモレルの機械”と、“潮に浸されながら手記を書く「私」”というのは、あからさまなくらいはっきりと、重ね合わされているように見える。そのようにしか読めない気さえする。つまりこうだ。

 いっぽうでモレルの装置が作動するのと並行し、もういっぽうで手記を作り出す「私」という装置が作動する。どちらの装置も、目的は“作品”をつくることであり、この場合、つくるとは、記録・保存・再生のワンセットである。すべては「私」の手記に書かれていることなので、手記のほうがモレルの機械をすっぽり包みこむように見えるし、書かれる内容がなければ手記はないのだから、モレルの機械が「私」の手記に動力を供給しているようにも見える。

 機械を発明したモレルのことを、「私」は憎んだり讃えたりしているが、態度はどうあれ、『モレルの発明』という場において、「私」とモレルは共犯関係にある。モレルは「私」のことを知らず、「私」のほうでは自分の手記がもつ意味を知らないが、結局ふたりは同じようなことをしている。そして、切り離すことができない。

(A)機械と「私」のはたらきが似ている
(B)映像を生み出す機械と、それも含めてすべてを提示するこの手記が似ている
(C)機械を作ったモレルと、手記を書いた「私」が似ている

(A)から(B)につなげるのは問題ないと思う。では(A)から(C)にスライドさせるのはどうか。こちらの移行では、(A)は“登場人物が小説に果たす機能”で、(C)は“小説のなかでの立場”なのに、それを強引に混同しているので無理がある。そこで混同させたままにしておくと、どんなことが言えるだろうか。


→[18]


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [16]



 小説は最後まで読んだ。それでは、『モレルの発明』はメタフィクションの傑作ということでよろしいか。
 いや、そんな言いかたではぜんぜん足りないと思うので、ここまで書いてきたのである。

 視点をひとつ上にあげて、“『モレルの発明』という小説じたいが、機械で記録された映像と同様、読むものに向かって永遠に反復し続ける記録となっている…… 最初から読み直すたびに記録の再生がはじまる……”とするような読みかたは(前回の終わりに私が書いたんだけど)、おそらく、この小説をまとめるための読みかたである。
 だけど私(たち)は、小説をまとめようとしながら読んでいるのではないと思う。変な記述から考えを膨らませたり、ああでもないこうでもないと推測したり、あきらかに別のことを連想したりして、読んでいる最中の小説は、まとまるどころがぐずぐずにかたちが崩れている。枠が壊れて内容物がこぼれだし、そのくせ、あちらこちらがびちびちに充実しているような。
 読み終えてからだって、小説を小さくまとめることなしには「視点をひとつ上にあげる」なんて真似はできない。「あげたつもりになる」くらいがせいぜいだと思う。そして、まとめないといけない理由などないんだから、ぐずぐずでごちゃごちゃのものを、ぐずぐずでごちゃごちゃなもののままにしておくのも「あり」だと思う。まとめる能力が足りないんじゃないのか? それもたしかにそうではある。

 読んでいる最中に考えたこと、読み返しながら思いついたこと、ぜんぶを書けるわけはないが、もう少しだけ続ける。私がここまで書いてきたこの小説のあらすじは、ぜんぶ嘘かもしれない、という話だ。

『モレルの発明』は一人称の手記である。だから、書かれていることがどこまで信用できるかは判断不能である……と書いてみて、何も自分だって、そこまでナイーブに読んではいないと思い直した。
 手記のすべての部分を「嘘かもしれない」と疑いながら読むことはできない。「嘘かもしれないが、しかし一応信じておこう」という留保を重ねてページをめくるものである。その結果、ひとつひとつの記述には疑いを差しはさめても、小説全体としては、事実として受け取るべきものごとが読者のなかにある程度(もしかすると相当な量)出来あがってしまう。これは一般論だと思う。
 しかし、どうにもマッチポンプな書きかたになって自分でも嫌になるが、こと『モレルの発明』に対しては、「この手記は嘘じゃないのか」とひとこと言っておかずにはいられない、むずむずした感じをおぼえる。見事に完結した一個の世界を作りあげているいっぽうで、そのような可能性もカットされず無造作に残されているのをスルーしたくない、とでも言うか。

 そもそもの発端、「私」がこの島に来ることになったのは、無実の罪に問われて文明社会から逃げ出したからだった。追っ手が来るかも、というおそれは冒頭から何度も書かれている。
 それなのに、その罪の具体的な内容はいっさい明かされない。一般的には罪であり、ただし「私」の考えでは罪ではないはずの罪、であるような書きかたがされていたがよくわからない。
 これは、「過去のことはもうどうでもよくて、島に来てからの現在のことだけが大事なのだ、なぜなら、この現在こそがいつまでも反復される“永遠”になるのだから」――ということなのだろうか。それでもいいが、考えようはほかにもあると思う。
 そのために、モレルの機械と「私」を並べてみたい。


→[17] [18]


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [15]



《われわれが、時間や空間を越えたものについて何も理解することができないという事実は、おそらくはわれわれの人生が、この機械のあたえてくれる死後の生と、大して変らないということを示唆するであろう。》p139

 自分が不死になるには、自分が消えないといけない。このひっくり返った条件を要請するのは、モレルの意図ではない。モレルが、被写体が死ぬように機械を作ったのではない。被写体を殺すはたらきは、彼の意図を越えた、機械の原理である。
(登場人物の意図だったら小説のなかにあるが、機械の原理は小説を越えている。小説の外から小説を支配している。だから登場人物は死ぬしかない)

 ここまで来ると、この小説の終わりはきっとああなるだろう、という気がしてくる。そして実際、そうなるのである。予想が当たった、というのではなくて、小説最後の15ページくらいは、まちがいなく「読者に当てさせるように」書いてある。それでも「やっぱり」というカタルシスはある。

 自分が一目ぼれしたフォスティーヌは、存在の次元を別にする映像である。それがわかった「私」は、目の前の映像のモデルになった、本物のフォスティーヌを捜しにいけないものかと考える。しかし「私」も勘付いているのだ、モレルの機械で撮影されたモデルはすでに死んでいることに。
 ではどうすれば、自分は彼女といっしょになれるのか。
 
 そもそもモレルは、どうしてこんな機械で一同を撮影しようとした(永遠の記録にしようとした)のだろうか。何度か匂わされているのは、やはり彼もフォスティーヌを好きになり、彼女の愛が得られそうにないので、永久に共にいられるように、自分ともども不死の映像にしてしまうよう望んだ、ということである。本当のところはよくわからない(だいたい、これらを記述する「私」がこのへんの状況を信じたがらず、過剰にバイアスをかけてくる)。
 しかし、「私」の次の行動ははっきりしていた。
《私の下した解決の真にすぐれている点は、死によって、フォスティーヌを永遠に眺めるための必要条件と同時に、その保証までも獲得できるという点にある。》p171

 フォスティーヌにとって「私」は存在しない。どうあってもフォスティーヌを振り向かせることができないのなら、自分も映像のなかに入ってしまおうと「私」は決意する。
 リピート再生されるフォスティーヌの一挙手一投足を頭に入れて、まるで自分が彼女と一緒に行動しているかのように演技をし、その様子をカメラで撮影する。記録された自分の映像を、フォスティーヌはじめ「連中」一同の姿が再生されている島の上に映写していけば、あたかも、「私」は「連中」のなかに入り交じり、フォスティーヌと親しく付き合っているように見えるだろう――生身の「私」が死んで消えたあとでこの島に来る、事情を知らない者の目からは。
「私」の解釈するところでは、いまの機械では、映像に意識は発生しないはず([13])。映像になった自分には意識がない。言ってみれば「私」にとっては、最高にうまくいったとしても、自分の不死は第三者に託されるのである。
 小説のなかに特殊な機械が設定されたことで、登場人物はこんな種類の希望まで持つことができる。ちょっと感動する。撮影を終えた「私」の、こんな述懐を見れば、なおさら感動は深くなる。
モレルの映像をどうしたら消せるだろうかと思い悩んだ。そんなことは考えるだけ無駄だとわかっている。しかしこれを書いていると、そうした悩ましい願望にとらわれてしまう。あれらの映像同士(とりわけモレルとフォスティーヌの映像)が切っても切れぬ仲にあることは私を苛立たせた。しかしいまはちがう、私も彼らの世界に入り込んでしまったからだ。》pp172-3、太字は引用者

 この期におよんで、「何を言ってるんだお前は」と突っ込める余裕があること。これはほんとうにすばらしいと思う。

 ともあれ、このようにして『モレルの発明』は、さっきまで状況を語っていた語り手の「私」自身も含めてひとつの完結した“作品”となり、世界を閉じたところで終わる。本を最初のページから読み直せば、またまったく同じ場面からはじまり、同じ展開をたどって、同じ結末を迎える。
 そう考えると、まったく同じ7日間を繰り返し反復し続ける「連中」を見ておどろいていた小説のなかの「私」と同じおどろきを、小説の外にいる私が体験している気までする。その瞬間、自分も小説のなかに取り込まれたような、逆に小説が世界大に拡大したような感覚が生まれる。一瞬だけ。
 一瞬だけど、これはすごい一瞬だと思う。なぜならこの瞬間、『モレルの発明』という小説のなかに書いてあることが、そのまま『モレルの発明』という本になるのだから。
 
 それくらい素直に受け取ったあとでなら、最後に「私」の期待する第三者――「私」とフォスティーヌが恋人同士だと誤解する観客――というのを、「それはおれのことだったんだ」と捉えておきたくなるが、じつのところ、読んでいる私は、手記を書いている「私」が行った映像の捏造をつぶさに見てしまっている。
 作品(フィクション)の生成過程をリアルタイムで(=ページをめくりながら)追ってしまった私は、「私」が望むような、『モレルの発明』の純粋な観客にはなれない。しかし『モレルの発明』には、そのように不完全な観客しかありえない…… そんな自分を、私は「私」のために申し訳ないとさえ思う。


→[16] [17] [18]


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [14]



 またここから入る。

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 この流れでもって「不死が実現した」とするために必要な条件は、「オリジナルが消えること」である。このことは[8]から何度も書いている。
 永久不滅の完全な模擬像ができた、というだけでは、自分のコピーが生まれたのにすぎない。ここで自分(オリジナル)がいなくなれば、コピーはもうコピーではなく、それが唯一のオリジナルになる。この段階まで来て、本物が永久不滅になる。自分が不死になるには、自分が消えないといけない。

 うすうす予感されるこの道理が正しいことは、小説を読んでいるうちにわかる。そもそも、機械のはたらきがはじめて明かされたモレルの演説の場でもって、同時にそのようなことが匂わされていた。いや、匂わされるも何も、はっきり書いてあった。モレルの口から「私は、自分を含めこの7日間のみなさんを撮影しました」と聞かされた仲間のなかには、危険を直感する者もいたのである。
《ストエヴェールは真剣な表情で答えた。――
「馬鹿だな。気がつかないのかい? チャーリーも撮影されたんだぜ。モレルがザンクト・ガレンにいたとき、シュヴァハター社の従業員が次々に死んでいった。ぼくは死んだひとたちの写真を雑誌で見たから、その人たちかどうか確かめることができる。」
 モレルは身体を震わせながら威嚇するような態度で部屋を出ていった。一斉に叫び声があがった。[…]
「モレルは神経の細やかな男なんだよ。どうしてまた彼を侮辱したりしたんだい?」
「皆、わかっちゃいないんだ」と、ストエヴェールは怒って叫んだ。「モレルは彼の機械でチャーリーを撮影した。そしてチャーリーは死んだ。シュヴァハター社の従業員を撮影したら、そのなかから不審な死を遂げた者が出た。それでいま、モレルはこのわれわれも撮影したと言っているんだ!」》pp122-1

 モレルの発明は、被写体を抹消せずにはおかない。それは“被写体を不滅にする”システムにおいて、原理上、欠かせないはたらきだからだ。そのことは比喩的にでも暗黙のうちにでもなく、はっきりと書いてあるのである。
 しかも、はっきり書いてあるのはここがはじめてではない。もっと前、「私」がまだ、フォスティーヌを本物の人間の女だと思っていたころ、彼女に贈るために花を摘んだことがあった。
《見かけの悪くない花だけを選んで抜き取った。色の淡い花でも動物的な生気がある。しばらくしてから、花を取り上げてきれいに束ねようとした。とても腕に抱えきれぬほど抜き取っていたからだ。だが、もうすっかり枯れていた。》p51

「これはたんに不吉さを暗示する場面ではないだろう」という判断はうっすらあった。つまり、「この小説は、花が何かの隠喩として咲いたり枯れたりするような小説ではないだろう」とは感じていた。そのせいでここは謎のシーンだったわけだが、いまや事情ははっきりわかる。小説をはじまらせたモレルの機械の作用が、そのまま小説を終わらせるように作用していくだろうと思って、私は続きを読んでいく。

「私」が、閉じ込められていた映像の壁から逃げ出した場面まで戻る。
 必死の努力で機械の仕組みを理解して、「私」はスイッチを切り脱出した。努力の甲斐あって、機械一式を自分でも使えるようになっている。
 機械は動力部のほかに、島全体を記録し、それを島全体に投射するカメラ・レコーダ・映写機のセットと、それらの小型版である携帯式のセットから成る。
「私」は携帯カメラを持ちだして実験を行う。花や葉、蝿、蛙を被写体として撮影し、映写するのである。
《被写体となった植物――葉や花――は、五、六時間後に枯れてしまった。蛙は十五時間後に死んだ。
 映像は枯れも死にもせず、生き続けている。
 蝿に関しては、どれが本物でどれが人工なのか見分けがつかない。》p159

 やはりカメラが殺すのだ。実物は死ぬ。残された映像は実物そのものだから、そちらが不死となる。イコール、実物が不死となる。ここにはこの原理が端的に示されている。
 しかしいちばん面白いのは、最後だと思う。「蝿に関しては、どれが本物でどれが人工なのか見分けがつかない」。

 私がこの小説にほれぼれするのは、アクロバティックな不死論のためではなく、この1文の感触のためである。


→[15] [16] [17] [18]


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