2008/11/29

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [13]


《脱出したときはもう夜は更け、あたりは真暗で食べられる根を捜すことはできなかった。》p157

 前回の最後に引用した部分の終わりの1行、こちらに目まいのするような想像を呼び起こす「私」の疑念をクライマックスにして、「私」が映像の壁に閉じ込められるシーンは終わる。あのあと、あっさり「私」はモーターの停めかたを発見し、スイッチを切って無事に逃げ出す。
 ということは、やはりあのシーン、機械の機能の拡大適用でこちらをおどろかせるネタのひとつだったのだと思われる。
 実物の壁の上に偽の壁を映写して二重にする、しかも偽の壁は壊しようがない(なぜなら、偽の壁は完璧な映像であるから……!)。ここが「太陽と月がふたつずつ」と並んで面白いシーンだったことをもう一度書いておきたい。

 しかし場面は戻って、壁に閉じ込められるよりも前、「私」が太陽でも壁でもなく、複製された人間について考えていたころの論述を読み直しておく。これはこれでおかしいのだ。
「私」は、そもそもの発明者ではない立場から、モレルの機械が生み出す映像について、もしかするとモレル以上に考えを深めている(岡目八目的に)。いや、どちらの考えのほうが深いかなんて、もはやモレルと直接意見を交わすことのできない「私」の一人称手記からでは判断がつかないものである。岡目八目というより、あと出しジャンケンかもしれない。
《人間を永久に保存しようというモレルの試みの方向は、おそらくは意識的なものではなかっただろうが、大筋において賛成できる。彼は感覚の保存だけに仕事を限ったのだ。そして、思いちがいはしたけれども、真実を予言した――人間が、外側から捉えられた人間だけが現象するであろう、と。こうしたすべてを通して、私が昔から信奉していた理論が証明されたと言わなければならない。人間の身体のまるごとすべてを生かしておこうという企てはなされるべきではないのだ。》pp137-8

私が昔から信奉していた理論」。「私」もどうやら不死について一家言あったらしいことは、これまでもたびたび触れられてきた([9]の後半~[10]あたり)。
 モレルは、自分の発明(完璧な外観を備えた模擬像)には、意識が宿っていると考えた。「私」はそうは思っていない。あれは意識を欠いた、外観だけの像だと。この点だけなら、「私」の言うことはまっとうである。
 モレルにストップをかける「私」は、しかし、猛スピードでモレルを追い越す。「私」の考えるところでは、人間を記録する=不死にするうえで最も不可欠な条件は、“その記録像が意識を持つこと”である。
《思うに、不死性なるものがわれわれの手から失われてゆくのは、死への抵抗手段にいかなる進歩も見られなかったからである。死への抵抗ということになると、一番はじめに頭に浮かぶ考え、肉体全体を生きたまま取っておきたいという初歩的な考えに、われわれは依然として固執している。意識に関わるものだけの保存を求めれば、それでいいのではなかろうか。》pp26-7

 モレルの機械を改良していけば、オリジナルの人間が被写体になったときに抱いていた考えや感覚が映像にも保たれているか調べることができるはず、と「私」は考えを進める。
 ということは、結局、「私」はモレルより慎重なだけで、進んでいきたい方向は同じであるように見える。モレルも「私」も、不死を夢見るという一点で共通している。来るべき完全な機械がつくり出す映像は、われわれの考えたことや感じたことを、再生されるたびに考え感じるだろう。
《そのとき、生きることが、死に備えるための貯蔵庫となるだろう。しかしそのときでさえ、映像が生きているとは言えない。本質的に新しいものは、映像にとっては存在しないも同然なのだから。映像が知ることができるのは、すでに考えたことや感じたこと、あるいはかつて考えたことや感じたことの組合わせ、ただそれだけのはずである。》pp138-9

そのときでさえ、映像が生きているとは言えない」のは、映像の言動はすべて反復にすぎないからだ。しかしおそらく、モレルにとっても、「私」にとっても、この生きていない映像が不死なのである。
 言い方を変えれば、この二人は、あるいはこの小説は、生きていない映像(コピー)を不死にすることによって、被写体の人間(オリジナル)も不死にしたいのである。
 そのためには、という問題に、話はようやく戻ってきた。


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2008/11/28

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [12]



 さて、そもそもモレルの機械は、地下室に無防備に置かれていたのではなかった。それは小説のずっと前に書いてあった。

 島に渡り、この建物(「博物館」)に住みはじめた「私」は、食料が隠されていないかと地下室へ降りたとき、あるきっかけから、壁の奥にもうひとつ部屋が隠されているのに気が付いてその壁に穴を開け、向こう側に入り込んだ。そこにあったのが(食べ物ではなく)給水ポンプと発電機だったのである。
《壁面と天井と床は水色の陶製で、何もかも、漂う空気さえも(この部屋には、上の方にある、木の枝のあいだに隠れている明りとり以外に陽の光のさし込む場所はなかった)滝の泡のような、深い透明な青さに浸されていた。
 モーターについてはまるで知識のない私だが、それを始動させるのに手間はかからなかった。雨水が尽きるとポンプを動かす。機械が単純で、どこも故障していなかったということも、私自身がその機械を動かせたということも、思えば驚くことばかりだった。》p30

 だから、停まっていた機械を作動させ、「連中」を出現させたのは、じつは「私」自身だった。自覚のないマッチポンプである(とはいえ、永遠に同じ映像を繰り返し再生させるこの機械こそマッチポンプなのだが)。

 話を100ページあとに戻すと、ふたたび「私」は地下室の奥、自分で開けた壁の穴をくぐり抜け、機械のある空間に入りこんだ。「私」の前で、停止していたモーターが動き出す。
《私が開けた壁の穴に背を向け、腰を下ろして待った(青く滑らかな陶器の壁が、この穴で途切れているのを見ると、心が痛んだ)。
 こうしてしばらくのあいだ放心したかのように、じっとしていた(いま考えると信じられないようなことだが)。やがて、緑色の機械が作動し始めた。》p148

 そしてどうなるかというと、こうなる。
《さて私は帰ろうとして、うつむき加減に歩いた。壁に目をやったとき、方向を見失ったと感じた。自分の開けた穴を捜した。しかし穴はなかった。
 奇妙な目の錯覚にちがいないと思い、それがつづくかどうか、一歩脇に退いてみた。それから、まるで盲人のように腕を伸ばし壁のあちらこちらを触ってみた。私が壁に穴を開けたときに落ちた陶製タイルと煉瓦のかけらを床から拾いあげた。長いこと壁のその部分を触っていたが、結局は壁が元どおりになっていることを認めるしかなかった。》p149

 何が起きているのか? 「これはもしかして……!」と、読んでいる私には思い当たる。その推測が正しいことを、語っている「私」のほうで保証してくれるまで数ページかかる。このタイムラグのあいだにおぼえる興奮というのは、まさしく読んでいる最中にしかない、読書の醍醐味だと思う。
「私」は、最初に壁の穴を開けたときに使った鉄の棒で、“なぜか穴の塞がってしまった壁”をたたく。
《何度もたたいた。絶望感がつのるばかりだった。この陶製タイルの壁面は内側からでは壊すことができないのだ。どんなに強く、へとへとになるほどたたいても、堅い壁に響き渡るだけで表面にひびさえ入らない。青い七宝のかけらがほんのわずか飛び散るようなこともないのである。》p150

《私はまた、たたき始めた。壁のかけらが飛び散ることもあったが、はっきりしたものであれ微かなものであれ、とにかく凹みらしいものの出来ることはまったくなかった。私の視覚では捉えぬほど迅速に、壁は元どおりになり、私がここに入るために穴を開けた場所がそうなっていたように、すごい堅牢さを取り戻してしまうのだった。》p151

 何が起きているのか? 戸惑う「私」を描いた4ページ弱の最後では、「私」の語りのうしろに、一瞬だけ作者の態度が透けて見えるような気がする。「もうお気付きでしょうが」とでも言わんばかりに、「私」の口を借りて真相が明かされるのだ。
《私は声に出してこう言った、あるいは、はっきりと認識した――ここからは出られないだろう。私は魔法をかけられた場所にいるのだ。そう口にしたとき、私は急に自分が調子に乗って演技をやりすぎたペテン師のように思われて恥しくなった。そして、私がすべてを理解したのはそのときだった。
 この壁は、――フォスティーヌ、モレル、水槽の魚、ふたつの太陽の一方、ふたつの月の一方、そしてベリドールの本と同様に――機械が映し出したものなのだ。》p152

 まえに、太陽がふたつになっている場面におどろいた。あれは、「実物の完璧な複製を作ってしまう」というモレルの機械の単純明快な機能を、無制限に拡大適用させたところに出てくる異常な事例だった。
 今度も同じである。そして今度は、読んでいる私は(太陽の時とはちがって)もう機械の機能を知っていたのに、こんなことが起きると、やはりおどろくのである。「そういう使いかたまでしちゃうのか」、かつ、「当然、そう使うはずだよな」と。
《この映像の壁は職人たちがつくった壁と重なっている(それは機械が撮影し、そして同じ壁の上に映しだされた壁そのものなのだ)。最初に壁を壊した、あるいは取り除いた場所にも、映像の壁が残っている。とにかくこれは映像なのだから、いかなる力をもってしても、穴を開けたり取り除いたりすることはできない(モーターが働いているかぎりは)。
 最初の壁をすっかり取り壊してしまえば、モーターが停まったとき、機械の置いてあるこの部屋はすっかり開け放たれた状態になっているだろう。それはもう部屋というようなものではなく、隣の部屋の一角と化しているだろう。そして、モーターが動き出すと、ふたたびあの通り抜けできぬ壁が出現するということになるのだ。
 モレルは、このように二重の壁で保護することによって、自分の不死を守りつづけるこの機械を、だれの手も届かぬよう隔離することができると考えたにちがいない。p152、太字は引用者

 まったく不意を衝かれた。衝かれたあとで「やっぱり」と思う種類の衝かれかただった。
 おそらくそのせいで、私は上の引用部で太字にした部分よりだいぶ前にある、「とにかくこれは映像なのだから、いかなる力をもってしても、穴を開けたり取り除いたりすることはできない」という一文を読み飛ばしそうになる。なんという強引な進めかただろう。しかしその強引さには、それでいいからそのまま進んでくれ、と思わせる魅力がある。この場面、この流れで、この部分に置かれたこの無理やりな説明には、確固としたリアリティができてしまっているのだ(それこそ、「私」を囲む決して壊れない壁のように)。
 
 これほど用心深かったモレルの唯一の誤算は、機械の動力である潮の干満の調査が不充分で、永久に動き続けると思っていた発電機がたまに停まってしまうことだった。いまではもう順調に動き出してしまったモーターを停止させるにはどうすればいいかを必死で考えながら、「私」は機械のそばでこの手記を書いている――ということも抜かりなく記されている以下の引用部の几帳面さに私は笑ったが、爆発的な喚起力を持っているのはその次、最後の1行である。
《モレルの不死は、このモーターの作動に依存している。モーターは非常に頑丈に出来ていると推測して間違いあるまい。したがって、鉄棒でぶっ壊してやりたいという衝動は、抑えたほうがよさそうだ。ただ、疲れ果て、残りの空気を浪費してしまうだけだろう。自制するために、書くことにしよう。
 それにしても、もしモレルがモーターまでも映像化することを考えていたとしたら……。pp155-6、太字は引用者


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [11]


《孤独な人間は、機械をつくったり、情景を定着させたりすることはできないものだ。ただ孤独という不幸を知らぬ人びとのために、不充分ながらもそれら機械や情景を文章に書いたり、描いたりするだけである。》p136

 モレルの不死論の要は、「完璧な模擬像は、完璧なので、魂・意識を持つ」ということだった。だから、そんな模擬像ができれば、実物の不死が約束される。ここに必要な条件として、[8]で書いたのはこういうことだった。
 完全なコピーの完成をもって、オリジナルが不死を達成したとするためには、オリジナルは消えないといけない。
 小説のこれから先の展開が何となく見えてきたような気がする。しかしまだまだ考えられることがある。

 たとえば、モレルの機械の仕組みは、「こういうものです」と与えられる、一種の“原理”だ。その機械からはじまる不死のプロセスも、まずこうなるから → 次にこうなる、と矢印で示される“原理”である。そして、そこに組み込まれている前提、上で太字にしたことだって“原理”なのは同じである。
 しかし、小説のなかで“原理”というのは、それだけでは示されない。一定の期間の現実を記録・保存して再現する機械、という原理は、このような描写を通して示される。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 ここ、もう3回目の引用になる。
 モレルの機械の仕組みをまだ知らず、どうしてこんなことが起きているのかわからなかった初読の際にぶつかったときからこの部分にはしびれたし、仕組みを知ってから読み直しても、その印象は減じない。それはこの描写が、「機械の原理の具体例」にとどまらない強度を持っているということだろう。ここだけで自立してしまうくらい生々しい(描かれているのは直射日光なんだけど)、と言っていいと思う。
(「第二の太陽」のほうがずっと強烈、というのは、ここで再現されている太陽が記録された時期は、「私」が手記を書いているいま現在よりも夏に近かったということなんだろうな――などと改めて考えてしまう)
 だからこの部分の面白さは、じつは原理による説明を必要としない。ここにあとから原理が補完され、「なんという発想だったんだ」ということになるのだが、そういった説明が特になく、べつにここだけでもよかったのだと私は本気で思う。
 
『モレルの発明』の面白さを語るとき、後半で明らかにされる発明(原理)が面白いのはもちろんだが、その原理によって引き起こされる出来事(その原理によって引き起こされていたと事後的にわかる出来事)の描写が、それだけでも充分すぎるくらい面白い、ということも強く言っておきたい。引用ばかりなのはそのためでもある。
 そして、いま書いたことを逆方向から証明するものとして、次にまた奇怪な出来事が起こる。つまり、この小説のなかを無茶苦茶なものにしている、モレルの発明という原理が明されたあとで描かれるにもかかわらず、「それならこういうことだって起こるだろう」というこちらの予想を軽々と越えてしまう、無茶なシーンが出てくるのである。モレルの演説を読んで、「これでもう、ネタは割れた」と思ってしまった自分が小さく見える。

 まず、連中の正体を知った「私」からは、かつてはあれほど感じていたおそれが消えている。ここの変化も面白い。
《どうにか、映像に苛立ちや嫌悪を感じなくなった。もうそれに悩まされることはない。いまでは増水を怖れる必要もない、博物館で快適に暮らしている。よく眠り、たっぷりと休息を取って、おかげで、かつて私を追跡する連中を巧みにはぐらかしてこの島に到着したころの落着きをふたたび取り戻した。》p134

《別に動揺もせず、単なる物体としてのフォスティーヌを眺めることに慣れつつある。好奇心から、この二十日あまり、彼女をつけ回している。面倒なことはほとんどないが、それでも、たとえばドアが――鍵がかかっていなくても――開かなかったりする(撮影されたときにドアが閉まっていれば、映写されたときもそうなっていなければならないからだ)。[…]
 部屋に引込むときフォスティーヌはドアを閉める。私がドアに触れずに部屋に入ることができるのは、ただただドーラとアレックがフォスティーヌと一緒に部屋に入ってゆくときだけであろう。しばらくすると二人は部屋から急いで出てくる。[…]
 次の機会には恐怖を克服して、フォスティーヌ、ドーラ、アレックと一緒に部屋に入ってみよう。
 そうやってなかに入ったら、幾夜もフォスティーヌのベッドの横の床にござを敷いて過ごすのだ、そして、そうした添寝がわれわれの習いとなるのだとはつゆ知らず、安らかに眠る彼女を眺めながら、私は感動に浸るだろう。》pp134-5

 同じ人間ではないことがわかった「連中」の立ち回る建物のなかで、安心して暮らすようになった「私」。彼の発揮する好奇心は変態的だろうか、健全だろうか。私は後者だと思う。それはともかく、あるとき、モレルの機械が動きを停める。「連中」は、というかフォスティーヌは、消えてしまう。
 とはいえこの機械は、潮さえ満ちればポンプやシリンダーが連動して発電が再開され、動き始めるのだった。それを知っている「私」は、「機械の仕組みを解明しようと考えて、地下室に赴いた」。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [10]


《私は黄色い紙片を読み続けた。》p131

 モレルは、自分の発明の先に、結果として不死の実現を見ていた。そこで肝心なのは、“完璧な複製”だった。[8]で書いた、このフローである。

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 モレルではない「私」のほうは、“現出”に希望を見出す。
《私は、もはや生きていない人びとについて考えてみた、――いつの日か、波動を漁[すなど]りする者たちが、彼らをふたたび地上に呼び集めることであろう。この私自身でさえ、何か出来るのではないかという幻想を抱いた。もしかしたら死者たちの存在を再構成するシステムを発明できるのではないか。たぶん、モレルの機械に、生きている被写体からの(疑いもなく、より強い)波動を受信するのを妨げるような装置を取りつけることで、それが可能となるだろう。》p132

「私」の解釈するところだと、生きている者は、姿や音声、感触という様々な波動を発しており、それを保存して再現するのがモレルの機械である。
 ここで、死者たちの姿や音声、感触も「何らかのありようで、どこかにありつづけている(p132)とするならば、機械はそちらの波動も受信して、死者を目の前に現出させる(=よみがえらせる)ことができるはずだ――これはこれで、不死の話なのだった。
《不死性は、あらゆる魂のなかに――すでに塵に返ってしまった人間のなかにも、現に生きている人間のなかにも――芽生えることが可能となるだろう。しかし、何ということだ! そうなったら、もっとも最近に死んだ者たちまでもが、より古い死者たちと同じように、亡骸の森さながら、われわれの眼前にびっしりと姿を表わすだろう。》p132

 モレルのほかにも、ここに無茶を言っている人がいる。かくして、モレルの発明を真ん中に置き、モレルと「私」によるふたつの不死論が渦を巻く、『モレルの発明』はそういうかたちをとってきた。

 ……と勢いで書いてみたが、改行のあいだに「言い過ぎた」と考え直した。というのは、モレルの不死論に較べて、「私」の不死論はいまひとつ弱いというか、浮ついているのである。それは前提が前提の役割を果たしていないからだ。
 死者たちの姿や音声、感触が、不滅のものとしてどこかに残り続けているならば、モレルの機械で不死が実現する。これでは、万物不滅という土台があれば不滅が実現する、と言っているわけだから、「私」当人以外にとっては堂々めぐりでしかない。「私」の考える(しかも、以前から考えていたという)不死の試みは、一瞬の熱にすぎないと思う。
 そして不可解なことに、「私」の不死論がぱっと燃えあがって消えたあとでは、モレルの不死論が今までより確たるものに見えてくるのである。もちろん納得なんかしないつもりでいながら、あちらには説得力があった、と考えている自分がいる。騙されたような気分だが、実際、騙されたのである。
 
 するとこう言えるのだろうか。『モレルの発明』のなかで、その全体を物語る「私」は、結局のところ、モレルの不死論に奉仕している、と。
 であれば、モレルという人物は、モレルだけでなく、「私」を含んでいると考えてもいいのではないか。
 いっぽう、この小説が一人称の手記であるという点にあくまでこだわる場合、モレルという人物は「私」を通してしか見えてこない。だからモレルの不死論を(「私」のものとは別のかたちに)成形しているのは「私」である。
 であれば、モレルという人物は、モレルだけでなく、「私」を含んでいると考えてもいいのではないか。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [9]



 前回の最後に書いたふたつの「先走り」を読み直してみて、気になった。私は本当にああいうことを、最初に読んだときに、あの時点で(モレルの演説が済んだ125ページあたりで)思いついていたんだろうか。
 ふたつとも、[1]を書きはじめる前から、ぜひ書こうと思っていたことではある。だけど実際に思いついたのは、あのあたりを読んでいたときではなくて、小説を読み終え、あれこれ考え直してからだったのかもしれない。いまではもう知りようがない。
 そんなことを気にするのもどうかしている、と思わなくはない。どうせなら、いろいろ考え尽くしてからすっかりまとめて感想を書くほうがずっと読みやすくなるだろうし、なにより、あらすじでこんなに長くならない。

 でも私は、小説を読んでいる最中にどんなふうに気持が動くのかを記録しておけないものかと考えて、結局、あたまから順に書きはじめたのだった。

 いつもそんな書きかたができるわけではないけれども(工夫がないせいで面倒すぎる)、これについてはそうやって書いてみたい、と思うくらいに『モレルの発明』を読み進めるのは面白かった。だから、「自分はこんなふうに読んだ」というメモをつくっておこうとしたのである。やはり、すでに読み終えているのに、読んでいる最中のことを思い出しながら書く、というのが無理なのか。過程にこだわるなら、読みながら書くべきだった。
(だいたい、初読の際のリアルタイム感想だけが“本当の”感想、なんて考えるのもおかしいわけだし、もっと目的にかなう書きかたはきっとある)

 だけど、これもまた変な言い方だが、こういうときに「何かを取り逃した」と思い知るからこそ、逆に、「小説というのは、読んでいる時間の中にしかない」みたいな保坂和志や高橋源一郎の極論が、私にもちょっとはわかる気がするのである。誤解かもしれない。

『モレルの発明』に戻る。
生命ある再生物をつくるためには、生きている被写体から送り出されるものが必要です。私は生命そのものをつくるのではない。
 レコードに潜在的にひそんでいるもの、私がスイッチを入れ、蓄音機が作動すれば現れ出るもの、それを生命体と呼ぶことはできないでしょうか?[…] いや、皆さんだってこれまでに何度となく、ひとの運命についてみずから問いかけてきたのではないか、昔から変わらぬ問いを繰り返してきたのではないですか。――われわれはどこへ行くのか? われわれの生はいったいどこに埋もれているのか?p120

 モレルはこんなことまで言っていたのだが、このあと、聞いていた仲間と仲違いがあって(あとで触れると思う)演説は途中で終わる。その演説原稿を盗み取り、博物館から低地に帰った「私」には、さすがにさまざまな心境の変化が訪れる。
《私は、あの連中と、飽くことなく繰り返される彼らの活動に嫌悪感を、いやほとんど吐き気を覚えた。彼らはしばしば丘の端に姿をあらわした。人工の幽霊の出没する島に住む、これ以上に耐えがたい悪夢があるだろうか。しかも、そうした像のひとりを愛してしまうなどというのは、幽霊を愛するよりまだ悪い。(だがもしかしたら、われわれは愛する人が幽霊として存在することを、いつも心のうちで願っていたのではないだろうか。)》p127

「私」は演説をどのように受け取ったのか。上の引用を見る限り、くだんの発明をモレルの戯れ言としてではなく、事実として認めているようである。それはそうだ。あれだけ無茶な体験をして、実在するのにこの場にいない「連中」から脅かされ続けてきたのだから。そのうえで、引用最後のカッコ書きはいよいよ面白い。何の気なしに思いつきをぼろんとさらけ出してしまったような格好でこんなことが書いてある、というところがこの小説の魅力だと何度でも思う。
 しかし、モレルの言うことをすべてそのまま呑み込んだわけではない。「私」はモレルの演説原稿を何度も読み返して、彼の言っていることをいくらか整備する。つまり、語り手の「私」がモレルと一緒になってこの小説『モレルの発明』の言っていることを編み直すわけだが、こう太字にしてみると何かいわくありげながら、一人称小説なんだからこれはまったく普通のことだった。
 けれども、「私」の進めた思索は普通ではない。
「私」の考えでは、電話やテレビは、この場にいないもの(不在)を、この場に現出させるだけである。それに対して、写真・映画・蓄音機は、この場にいないもの(不在)を現出させるだけでなく、保持しておくことができる。ここにちがいがあり、真の意味での記録とは後者であるが、どちらにも共通しているのは現出の機能だ、ということになる。なんだか逆戻りしているところが気になるが(分類した上でもう一度まとめる、という順序が謎)、先を読めばその謎は解け、そのせいでますます変なことになる。
《したがって、不在を阻むための機械とは、例外なく現出の手段なのである(写真やレコードを所有する以前に、まず撮影し録音しなければならない)。
 同様にして、いかなる不在も、最終的には空間的なものに他ならぬと考えることも不可能ではない……。もはやこの世に生きていない人間の姿、感触、音声も、おそらくは、何らかのありようで、どこかにアリ続けているはずなのだから(万物不滅……)。
 このとき、私の研究課題である希望がひそかに息を吹き返し、私は、博物館の地下室に行って、あの装置を調べてみなければと思う。》pp131-2

「私」は、モレルの敷いたレールを利用して、また別の方向へ進んでいくようなのである。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [8]


生命ある再生物をつくるためには、生きている被写体から送り出されるものが必要です。私は生命そのものをつくるのではない。
 レコードに潜在的にひそんでいるもの、私がスイッチを入れ、蓄音機が作動すれば現れ出るもの、それを生命体と呼ぶことはできないでしょうか?p120

 モレルは自分の発明を不死の発明だという。

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 ここの流れは彼にとっては一直線だったのだけれども、待て待て、と言いたくなるところがいくつもある。
 たとえば上の(2)。これまで「私」がさんざん身をもって体験してきたように、生身の人間は模擬像と関わりを持つことができない。モレルが言うには、触れば触れるし、匂いや重さを感じることもできるらしいが、写真にうつった人物や映画の登場人物と話すことができないのと同じで、どれだけ実物に似ていても、模擬像と意思の疎通を行うことはできない。彼らはただ、記録された一定のシークエンスを繰り返すだけである。
 だったらどうして、彼らに「意識がある」ことになるのか。「魂がある」とわかるのか。その根拠は何も語られない。「こんなに似てるんだから」という勢いだけでモレルは飛躍するのである。
《もしわれわれが、われわれの周囲の人間に対し、意識とか、人間をものから区別する一切の所有を認めるとすれば、私の装置がつくりだした人間たちにはそれがないと断定することができますでしょうか。いかなる有効かつ精緻を極めた論理をもってしても、それは不可能なはずです。》p119

 モレルはこう言っていたけれども、むしろ逆だと思う。彼の発明した模擬像は、なんというか、見事なくらいチューリングテストの真逆になっている気がする。そのほかの部分ではまったく生身の人間と同じなのに、意識だけがない、そんな存在なんじゃないか。
 それなのにモレルは「意識がある」と断言する。その断言だけで充分に面白いのだが、じつは断言のなかでもう1回飛躍しており、そこがますます面白い。
 さっき書いたものをもう一度貼り付けると、

(1)完璧な模擬像をつくる
(2)完璧なので魂・意識が宿る
(3)何度でも再生できるから、永遠に再生を繰り返せる
(4)事実上の不死である

 模擬像が完璧なら意識が生まれる、とするモレルの考えが正しいとしても、(1)(2)からすれば、できあがるのは「完璧な複製」のはずである。しかしモレルは、「実物があって、その複製ができる」とは考えていないようなのだ。絶対それが自然な筋道だろうに、そちらには向かわず、別の方向に飛ぶ。
 実物の、ある期間の行動を永遠に反復する複製が完成すれば、実物が不死になったことになる――これがモレルの考えである。自分(オリジナル)の複製(コピー)ができれば、自分は不死になるという結論は、明らかに歪んでいる。このように考え切るためには、“複製が完成する”ほかに、もうひとつ不可欠な条件があるはずだ。それは、“実物が消える”ことではないか。

 ……すこし先走りすぎたので、別のことを書く。
 ある一定の期間の、まったく同じ言動を反復する。傍から見ていて、どれだけ好意を抱いたとしても、属している場所が別なのでこちらからは働きかけることができない。モレルの機械でつくられるそんな存在とは、映画や小説の登場人物みたいなものじゃないだろうか。たとえ「連中」が実生活の一部分を再現しているのだとしても、第三者からすれば、虚構を演じているのと変わりはない。「連中」と「私」の関係は、フィクションと受け手のモデル図のように見える。
 しかも、モレルのつくった作品(反復されるフィクション)の受け手である「私」は、一歩引いて眺めると、手記という設定をもつこの小説の書き手でもある。さっきまで受け手の位置にいた「私」を作り手の側にスライドさせると、受け手の位置に立つのは、小説『モレルの発明』を読んでいる、この私、ということになるのである。
 ……こちらも先走りすぎた気がする。「どう書いても先走る」んなら、つまり、佳境ということかもしれない。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [7]



《われわれには、ものごとは一定のやり方で展開してゆくものだとか、この世界には漠然とした整合性のようなものがあるはずだと期待する習慣がついている。ところがいまや、現実は私のまえで変容をとげ、非現実的な姿を現わした。ひとは眼覚めのとき、あるいは死ぬとき、夢のなかの恐怖やそれまでの人生で気にかけてきたこと、そしてまた、身につけた性癖から自分を解き放とうとして、すくなからず時間をかけるものだ。あの連中に恐怖を感じるという習慣を捨てることは、いまの私にとってはけっして容易ではない。》p108

(ネタバレ進行中)

“モレルの発明”が明らかになった時点から考えると、そこより前で、たいへんなことが起こっていたことがわかる。たとえば前回も引用した、こんなところ。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 つまり、太陽や月までも、モレルの機械によって記録され、それが再生されているのだ。そのせいで、いまこの場にある本物の太陽にプラスして、再現された太陽(本物とまったく同じ)がもうひとつ、「私」の頭上に輝いている。あるいはまた、こんなところ。
《ホールを通りかかったとき、二週間前に私が持ちだしたベリドールの著書の幻が眼にはいった。緑色の大理石の同じ張り出し机、その机の上の同じ場所にある。ポケットをさぐってみた。本を取り出し、机の上のとくらべてみた。二冊の同じ本ではなく、同じ一冊の本が二重にあるのだった。二冊とも、PERSEという言葉を雲状にかこむ空色のインクはかすんで不明瞭になっているし、見返しの下の隅のところが斜めに破れている……。》p104

 この小説のなかで働いているシステムは、合理的に説明された。あるひと続きの現実を完全に記録して、再生する機械。これが影響を及ぼす範囲を無制限に拡大した結果、合理的なシステムによって、無茶苦茶な状態が生まれていたのである。
 このように、“説明がされた時点から、さかのぼっておどろく”ことのできる小説は面白い。つまりは謎ときの面白さ、ということになるのだろうが、『モレルの発明』は、この謎ときをもって終わりになるのではない(ページ数でいえば、これでだいたい半分を過ぎた程度だ)。モレルの演説より先は、「私」の目の前に記録された過去が再現され、現実が二重化するこの異常な空間を、ネタが割れた状態で、いわば内側から描いていくのである。
 しかしその前に、この時点で考えられることをもっといろいろ考えておきたい。そうしないともったいないからだ。

 この小説が一人称の手記という体裁を採っている以上、モレルによる機械の説明(つまり、語り手「私」と読者の私から見える、モレルたちについての説明)も、「私」の聞き書きというかたちで示される。説明を過不足のないものにするために、「私」はモレルの演説原稿まで盗み取ってきたことになっているのは前回も書いた。わざわざそんなエクスキューズまで設けないといけなくなるのが一人称に特有の面倒くささだということは、べつにこの小説を読む前からわかっている。
 しかし今や、その面倒くささ、煩瑣な手続きが目に見えることが面白くて仕方がない。こんなことをこうやって伝えようとしているのか、と。
 さっき「説明を過不足のないものにするために」、と書いたが、「私」によって記録されるモレルの説明は、あちらこちら過不足ばかりである。熱意ばかりが先行して、納得してもらうべきほかの仲間に、疑念や反感を生んでしまう。しかし実際にページの上にあるのは、その偏った演説だけなのだ。それを読むしかない。
(以下、引用を示す《 》のなかで、さらに太字の《 》でくくった言葉が、「私」がモレルの演説原稿から書き写したものである)
《口を閉ざしたモレルは、眼をぎょろつかせ、薄笑いを浮かべて、身をふるわせた。それから、熱のこもった調子で続けた。――
友情に甘えて私のやったこと、それは許可なしにみなさんを撮影したということです。もちろん、ありきたりの撮影ではない。私が最近発明した技術による撮影です。われわれはこの写真のなかで永遠に生きることになります。この七日間のわれわれの生活が完全に映しだされている情景を想像してみて下さい。われわれが登場しているのです。われわれの行動すべてが記録されたのです。
「何て恥知らずな!」黒い髭の出歯の男が叫んだ。
「まさか、冗談でしょう」ドーラが言った。
 フォスティーヌは笑いもしない。怒っている様子だった。
ここに到着したとき、皆さんに知らせることもできた、われわれは永遠に生きつづけるだろう、とね。しかし、もしそう申しあげていたら、われわれはたえず楽しそうにしていようという気になって、結局すべてを台無しにしてしまったかもしれない。時間をできるだけ有効に使おうという意識に縛られていなければ、どんな一週間であろうと、われわれがともに過ごす一週間は楽しいものになるだろう、そう考えたのです。そうではないでしょうか?
 そうしたわけで、私は皆さんに楽しみにあふれた永遠を差し上げたのです。pp110-1

われわれはこの写真のなかで永遠に生きることになります。」 そして、「私は皆さんに楽しみにあふれた永遠を差し上げたのです。
 モレルが望み、達成したとみずから言い切るのは、“永遠を手に入れること”なのである。どうしてそうなるのか。
 次の引用はとても長いが、私が前回からここまでかかって書いてきたことをモレルが自分の口で言っているだけに、どこも省略できない重要部分である。
実際のところ、ものの再現はそれ自体ものではあるが――たとえばある家の写真が別のものを表わすものであるように――、再現された動物や植物は、動物でもなければ植物でもない、私はそう思っていました。私のつくりだした人間の模擬像には、明らかに、(映画の登場人物と同じように)その人自身の意識は欠けているであろう、と私は確信していました。
 ところが思いがけぬ事態に出会いました。いろいろ苦労を重ねたのちのことですが、個々の機械の性能がうまく調和するように組合わせているうちに、私は再構成された人間そのものに遭遇したのです。しかもその人間は、映写機のスイッチを切れば姿を消すのですが、そのままにしておくと、撮影された過去の情景に対応する時間だけ生きていて、その時間が過ぎてしまうと、同じ情景が最初から繰り返される。まるで、終ればはじめに戻るレコードやフィルムのような感じなのです。その上、再構成された人間は、現に生きている人間とまったく区別ができないほどです(彼らは別の世界を――たまたまわれわれの世界と隣接してしまった別の世界を動きまわっているように見えるのです)。もしわれわれが、われわれの周囲の人間に対し、意識とか、人間をものから区別する一切の所有を認めるとすれば、私の装置がつくりだした人間たちにはそれがないと断定することができますでしょうか。いかなる有効かつ精緻を極めた論理をもってしても、それは不可能なはずです。
 さまざまの感覚を整合的に集めると、魂を出現させることができます。これは当然予期すべきことでした。視覚にとってマドレーヌがいる、聴覚にとってもマドレーヌがいる、味覚にとてもマドレーヌがいる、嗅覚にとってもマドレーヌがいる、触覚にとってもマドレーヌがいる。このすべてがそろったとき、そこにはマドレーヌそのひとがいるのです。》》pp118-9、太字は引用者

 徐々に助走をして、最後の段落で飛躍する。「さまざまの感覚を整合的に集めると、魂を出現させることができます。
 この機械でつくりだした模擬像は、自分の完璧な再構成であるために、そこには魂が(当然、自分の魂が)宿る。自分の魂を持った模擬像が永遠に映写されるのなら、すなわち、自分が永遠になるとモレルは言う。不死が実現するのである。
 この、“結果的に不死になる”という筋道には、「よくそんなことを思いついてくれたもんだよ、あまりに面白いので信じてあげたい」とモレルに賛成してついていきたくなる気持と、「いやいや、絶対まちがっている」と踏みとどまる気持の両方が生まれる。そして、読んでいる私を「これからどうなるんだ」と引っぱるのは、前者よりも後者の気持であるように思う。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [6]


《いまとなってみると、真の状況は、私がこれまでのページに書いてきたものとはちがうように思われる。私が経験している状況は、どうやら私が経験していると信じている状況とはちがうらしい。》p97

(今回こそ、ネタをバラす)

 この島に起きているのはどういう事態か。
 最初のほうからあからさまに怪しかったのは、[4]でも触れた発電機である。博物館の地下にあるこの機械は、海のほうにあるポンプとつながっており、潮の干満を利用して水力でモーターを動かし、発電する。
「連中」が一時的に消えてしまったとき、ちょうど発電機は停まっていた(海が凪だったため)。「私」が人力でモーターを起動させ、電気を復旧させて地下室を出ると、「連中」も復活していた。
 だからどう考えても、彼らは電気に関係があるのだ。
 では、その彼ら、「連中」じしんについてはどんなことが書かれていたか。
《彼らはほんの数年前に流行ったのと同じ服を着ている。それなりに魅力的ではあるが(私の見るところ)徹底した軽薄さの表われである。》pp20-1

 そしてまた、タイトルにもなっている「モレル」だが、これが誰なのかは、実はかなり前半で明らかにされていた。「私」が片思いに落ちてしまった美しい女、それがフォスティーヌ。どうやっても「私」に気付いてくれない彼女に言い寄っていた、若い男。そちらがモレルである。「私」は盗み聞きをしているうちに名前を知ったのだった。
 そのモレルは、ある日こんなことを言っている。
《「何と不幸なんだ、わかり合えないなんて。もう期限までわずかしかない。三日、それを過ぎると、もう全部どうでもよくなってしまう。」》pp61-2

 フォスティーヌとモレル、ふたり揃って「私」のことは無視するのだから「当てつけか」という嫉妬が生まれるのはもっともだが、それから一週間後、「私」は前回と同じ丘の上で、同じふたりの会話に反復をみて奇妙に思う。
《「いやそれとも、お互い理解し合えるかもしれない。もう期限までわずかしかない。三日。何と不幸なんだ、わかり合えないだなんて。」
 私の意識のなかでゆっくりと、しかし現実のなかでは精密に、フォスティーヌと髭の男の言葉と動きが一週間前のふたりの言葉と動きとに一致した。》p68

 ここに「むごたらしい永劫回帰」、というキツめの言葉が続く。
 さらにまた、こういう記述もあった。
《彼らの現れた次の日にふたつの太陽とふたつの月が見えたのである。[…] 第二の太陽――おそらくは本物の太陽の映像だろう――のほうがずっと強烈であることを確認した。昨日と一昨日とのあいだに、気温がものすごく上昇したように思う。まるで新しい太陽が春に酷暑をもたらしたかのようだ。夜はすばらしく明るかった。白夜のような光線が大気のなかに反射していた。》pp85-6

 言動の反復と、複数化した太陽・月。そこにどうやら、電気の力が関係しているらしい。
 そこまではわかる。これがどういうことなのか、何が起きているのか、正解は、ほかならぬモレル本人の口から明かされる。もちろん、モレルが「私」に向かって教えてくれるわけではない。ある夜、例によってたまたま博物館に紛れ込んでいた「私」が聞き耳を立てているそばで、モレルはフォスティーヌを含む「連中」の全員をテーブルに集め、長い演説をぶつのである。おまけに、彼が演説で読み上げた原稿までも「私」は手に入れ、持ち帰って手記に書き写すのである。
 そこから判明する事情をざっくりまとめると、こういうことだった――

 カメラ・映画は目に見えるものを記録(保存)する。蓄音機は耳に聞こえるものを記録(保存)する。これらの科学的手段によって、視覚的・聴覚的な不在は解消された。写真によって視覚像は再現されるし、レコードによって音声は再現されるのだから。
 発明家であるモレルは「論理的にさらに先へと進ん」だ。すなわち、人物でも動物でも物体でも何でも、対象のありようを、その視覚像も音声も匂いも触感も、すべて記録できる機械を開発したのである。
 記録した像は、やはり彼の機械を使って、そのままどこにでも映写できる。映写された像は、もとの対象と寸分たがわない実在感を持つ。というかこの機械は、対象を構成する要素のすべてを再構成するのだから、映写される像はそのまま実在なのである。よって“映写”は“対象の再現”になる。記録して、保存して、再現するこの機械一式が、モレルの発明だった。

 ということは、語り手「私」にとってはともかく、読んでいる私にはこのようなことがわかる。
 いつだかわからない過去に、モレルをはじめ、「連中」がこの島を訪れた。一週間、楽しく遊んで暮らすあいだじゅう、モレルはこっそり、自分たち全員を撮影していた。この七日間は、のちのち何度でも再現できる一種のフィルムに記録される(七日目の夜、モレルは全員を集めて「実は」と自分のしたことを明かす。その演説の様子も記録されている)。
 その後、この七日間を記録したフィルムは、博物館地下の発電機で動く映写機にセットされ、電力が通うと自動的に再現されるようになっていた。繰り返し、何度でも。
 何も知らないまま島に来て、偶然、発電機のモーターを回した「私」の前に現れた「連中」は、本物の人間ではなくて、機械によって記録され、映写されていた偽の像だった。しかし偽の像とは言っても、傍から見る限り、本物と何のちがいもないのである。こちらから一切、はたらきかけることができないという点を除いては。
 彼らに「私」が見えないのは、写真に写ったモデルに(あるいは、スクリーンに映った俳優に)こちらが見えないのと同じである。「私」が発電機を動かしたとき、機械の再生(=彼らの再現)がはじまった。「私」はリピート再生される彼らの姿に怯え、逃げ回っていたのだ。
 何度目だかわからない“七日目”の夜の再現に「私」はたまたま居合わせて、何度目だかわからないモレルの演説を聞いた。それがn回目の演説だったとすれば、翌日からはn+1回目の“一日目”が再生されはじめ、島には彼らがふたたび再現されていくのだろう。3Dホログラム、ただし実体のあるホログラム。それが彼らの正体だった。

 しかし混乱している「私」は、すんなり事情を飲み込めるわけではない。モレルの演説を書きつけた部分で「私」が何度か繰り返すのは、「モレルの偉そうな喋り方が気にくわない」みたいな不満なのである。


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2008/11/20

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [5]



 隠れ場所(海辺の低地の茂みのなか)に戻って落ち着きを取り戻してから、「私」はまた手記を書きつける。
《おとといの夜、煌々と明りのついていたあの部屋で何を考えていたか、いまになって思い出した。あの闖入者たちは何者なのか、私と連中はどういう関係にあるのかを考えていたのである。
 いくつかの説明ができそうだった。》p87

「私」のひねり出した仮説を列挙してみよう。

(ア)自分は疫病にかかり、幻覚を見ている(=「連中」は妄想の産物)
(イ)変な食べ物をとっていたせいで、自分の体が「連中」からは見えないものに変質してしまった(ただしこれだと、蚊やねずみには自分が見えている点は説明がつかない)
(ウ)「連中」は宇宙人で、彼らの眼と耳は人間と働きがちがう
(エ)自分はいま、精神病院にいる(無人島に渡ったことじたいが妄想)
(オ)この島は煉獄もしくは天国で、「連中」は死人の一団である(そして自分も、彼らと段階はちがうがやはり死んでいる!)

 かなり頑張っていると思う。自分の知覚・実感さえ疑っている(しかも幾通りにも疑っている)のだから。そして、妄想なのかどうか、という以前に、このようにいくつもの可能性を思いついてしまうということじたいが、熱病に浮かされてでもいないと出てこない勢いであることはたしかだ。常軌を逸した「連中」を、自分に納得できる範疇に囲み込みたい「私」のほうもまた、常軌を逸しているのである。とりわけ(オ)の発想に導かれて、「私」は相当おかしなところまで踏み込んでしまう。
《こうして想いをめぐらしていること自体が、やがてまぎれもない幸福感をもたらした。私は、自分と闖入者たちとの関係を、たがいに異次元に属する人間同士の関係だと見なして、それを証明するものをいくつも積み重ねてみた。何かとんでもない災厄がこの島に襲いかかり、そこに住む死者たち(私とそしてこの島の生きもの)はそれを自覚できないでいる、そのあとで連中がここに侵入してきたということだってありえよう。
  私が死んでいるとしたら! そう考えるとわくわくした(まんざらでもないし、文学的ではないか)。》p90、太字は引用者

 ただし、ここまで奔放に想像を広げられる「私」にも、疑いを向けることのできない前提がある。“自分は罪を犯し、終身刑を宣告されて当局に追われている身である”、というのがその前提だ。「私」にとって、ここだけは揺るがない。無条件で受け入れていて、不自然なくらい確固としている。そのほかの要素は、上記の選択肢に見られるように、どんなふうにでも動くというのに。
 それは単に、この島に来る前のことだから「私」にとって疑いえない真実なのだ、という納得の仕方も一応は可能だが、以下のような内省を続ける人間にこちらが納得してあげることは、果たして可能なのかどうか。
《人生を振り返ってみた。夕方にはいつもパライソ遊歩道で遊んでいた、むしろ退屈な子供のころのこと。逮捕される以前の、今日とはまるで別人が送っていたかのような日々。長い逃亡生活。この島で暮した何カ月もの日々。死が私の人生に介入したかもしれぬ機会が二度ある。[…]p90

 自分はもう死んでいるのかもしれない。では、死んだのは人生のどの時点でだろう? この思索の進めかたは、どれだけ控えめにとっても、どうかしている。
《そんなことを長いあいだ考えつづけていたので、うんざりして、だんだん論理的ではなくなった。闖入者が現れるまえに私が死んでいたということはありえない。孤独を感じているのだから、死んでいるはずがない。私が生き返るためには、まず証人を抹殺しなくてはならない。みな殺しにするのは簡単だろう。私が存在していないのだから、彼らは自分が破滅させられるということに気がつかぬだろう。》p91

だんだん論理的ではなくなった」とあるが、そのあとがすごい。当人以外にはつながりがひとつも見えないことを、この語り手は言いつのるのである。
孤独を感じているのだから、死んでいるはずがない」という断言には、どこにも根拠がない。そこに続けて、一見正反対に見える「私が生き返るためには、まず証人を抹殺しなくてはならない」が来る。
証人」とは、読者には知らされていない「私」の罪の証人だと思われる。とすると、ここでの「生き返る」は、じつは肉体的な死からの復活ではなく、罪人からの再生、いわば“社会復帰”として受け取れる、比喩的な意味での「生き返る」だろう。ということは、やっぱり「私」は、自分が死んではいないと考えているのである。
 しかし、次の「私が存在していないのだから、彼らは自分が破滅させられるということに気がつかぬだろう」になると、「私が存在していないのだから」は比喩的にではなく、文字通りに自分が死んでいる・この世に居場所を持たない、という意味に変わってしまっている。だからと言って、どうしてそこから「(自分が死んでいるのなら)彼らは自分が破滅させられるということに気がつかぬだろう」とつながるのか、ここはまったくこちらの理解を越えている。
 
 こんな感じで無根拠・非論理的に雪崩を起こしていく推論をひと続きにして綴ることができるのは、語り手「私」が、自分で「精神が不安定だ」と繰り返しているからだ。
 手記というのは変なものだと思う。書き手が追い詰められればられるほど、その内側はやりたい放題に広がることができるのである。そしてこの小説には、“手記の外側”は存在していない。


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2008/11/19

ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [4]


(考えてみると、前回は『モレルの発明』のネタまでたどりつかなかった。今回はちょっとは触れると思うので、同じように一応の注意をしておきます。
「ネタバレあり」)

 話を戻す。
 語り手「私」を無視する「連中」が、ある日、きれいに消えてしまったのだった。「私」は丘をのぼり、博物館まで足を運んで、その事実を確認する。
 この博物館の地下には発電機があって、以前は「私」も使っていた。いま建物の電気は消えている。ということは、やはり「連中」は実在し、彼らがここの電力を使い切ったのだろう。一応、幻覚だった可能性を考えつつも、「私」はふらふらと階段を下り、結果、ここまでで最大のピンチに遭遇する。
[…] せめて地下室に降りていったことを正当化し、あいまいな気持に折り合いをつけるために、発電機を動かそうと試みた。何度か弱々しく爆発したあとで、室内に静けさが戻ってきた。外では、杉の枝が嵐に揺れ、天窓の厚いガラスにたたきつけられていた。
 そこからどうやって出たのか、もはや思い出せない。一階に上がったとき、モーターの動き始める音を聞いた。光が斜めにさっと流れ、たちまちあたり一面を照らし出すと、私はふたりの男の前に立っていた。ひとりは白い服、もうひとりは緑色の服を着ていた(料理人と召使だった)。[…]
 まるで私の足音など聞こえなかったかのように、まるでこの私が存在しないかのように、ふたりは静かな声で話し続けた。》pp74-5

「連中」が戻ってきたのである。しかも今度は彼らの真ん前に「私」は出てきてしまい、それなのに相変わらず、無視されている。おそるおそる、「私」は博物館のなかの食堂を盗み見て、12人もの人間がテーブルを囲み、もの憂げに会話しているのを聞く。
 この短い時間のあいだに、彼らはどうやって帰還したというのか。そんなことは不可能だ。「私」は動揺したまま階上の一室に忍び込み、電気を消そうとするがスイッチは動かない。どうすればこの危機から逃げ出せるだろう?
《そんなことを考えていると、ドーラの顔が覗いた。彼女の目は私を通り過ぎた。明りを消そうともせず、行ってしまった。
 私は恐ろしさのあまり震えていた。》pp81-2

 自分の心拍で足取りも乱れてしまうような、それでもじっとしていられず動くしかないような、このあたりの「私」の書きぶりにはほんとうにハラハラさせられるのだが(盗み聞きの成果で、ちゃんと「連中」の名前を学習しているのもいい)、それが最高潮に達するのは脱出するシーンである。
《ホールに入ると開け放した窓が眼に入り、それとほとんど同時にイレーヌと、そのかたわらに先日の午後幽霊の話をしていた女の姿が見えた。反対側には、あの毛深いしかめっ面の青年が、開いた本を手に、フランス語の詩を朗読しながら、私のほうに歩いてきた。私は一瞬立ち止まったが、それから断乎たる態度で、彼らのあいだを、ほとんど触れんばかりに通りすぎ窓から飛び出した。落ちたショックで脚が痛かった(窓から下の芝生まで三メートルほどもあった)。何度もころびながら崖ぞいに駆け下りた。だれかが見ているかもしれないなどと気にするゆとりはまるでなかった。
 […] 論理的にはありそうもないことかもしれないが、博物館では、たぶん、だれも私の姿を眼にとめなかったのではないか、という気がする。これで丸一日たつが、だれも私を捜しに来ない。こんな僥倖がかえって怖い。》pp84-5

 そんな「僥倖」があるはずがないのは、「私」もわかっているのである。それ以外の事情を考えるのが恐ろしすぎるので、自分に「僥倖だった」と言い聞かせている。そう受け取ることで、「怖い」という感情に落ち着こうとしている。そのような機微が読み取れるのだから、手記という形式は見た目よりずっと波瀾万丈である。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [3]


《思うに、不死性なるものがわれわれの手から失われてゆくのは、死への抵抗手段にいかなる進歩も見られなかったからである。》p26

(ここから、『モレルの発明』の中心にあるネタを書いていきます。この小説に興味を持ち、かつ、「自分でおどろきたい」と思われる方は、以下はお読みにならないほうがよいのかもしれません。もっとも、この小説を実際に読む面白さは、たんなるネタばらし程度ではびくともしないのはまちがいないと思う)

 奇妙な状況の只中に放り込まれている語り手「私」には、さらに次々と理解しがたい出来事が降りかかる。ある日、「私」は丘の上が無人になっていることに気付くのである。
《胸をどきどきさせ、何度かものかげに隠れたりしながら、博物館じゅうを歩き回ってみた。しかし、まるで孤独に覆われたかのような家具や壁を見ただけで、ここにはだれもいないと納得できた。それだけではない、いまだかつてここには人などいなかったのだとさえ納得できたのだ。》pp71-2

 20日前、「連中」が到着して「私」が逃げ出したときから、博物館のなかは何も変わっていない。そのとき食べかけだった食物はそのまま腐っており、ほかの人間が生活した形跡はいっさい見あたらない。
 とすると、彼らはやはり「私」の妄想だったのだろうか。上の引用のような記述は、いかにもそのことを告げている――とは、私には思えなかった。その反対だ。
 前回書いた分では、「妄想に見えないからこそ、妄想として読んでみると、かえって面白い」と私は考えていた。その読みかたが、このへんで無理になってきたと感じる。なんとなれば、いなくなった以上、彼らはいたのだ(=妄想ではなかったのだ)と確信されるから、である。ねじくれた推論のようだが、ああもはっきり「影もかたちもなくなった」と書いてあるのなら、このように読むほうがむしろ素直ではないだろうか。そして、このほうがきっと面白いはずである。
 つまり、私の読みかたは、「連中」を(a)「語り手の内部から外部に出てしまった、位置のずれた妄想として読む」から、(b)「妄想ではなく、実在のものとして読む」に変化した。
 しかし、これが小説を読んでいる最中の面白さだと思うのだが、(a)が(b)になったからといって読みかたはきれいに更新されず、(b)のほうを正しいと認めながら、(a)の印象もあたまに残したまま先を読むことになるのである。
 これは、(a)と(b)の折衷案をさぐりながら読む、というのではない。ぜったい折り合わないふたつの読みかたを共存させて読んでしまう(しかも、片方はどうやらまちがいのようだとわかっていながら、消去できずに読んでしまう)のであり、なぜなら、この小説のここまでの部分が、そんな未練たらしい・合理的でない・勝手な読みかたを、誘っているように感じてしまうからである。
 いや、それは単に、私が最初の読みかたを捨てられない意地っ張りだから、なのかもしれない。それでもいいのである。私を意固地にさせるきっかけがこの小説にはある、ということだし、そのせいで私の「連中」に対する想像はまとまらず、落ち着かない気持が引き延ばされるのだから。
「妄想なのか? それとも実在しているのか? ああもうどっちなの?」という宙吊りの感覚には、手放さないでいられる限り手放したくないスリルがある。「まだわからない」が、いちばんぞくぞくする答えなのはまちがいないだろう。そして、語り手「私」を追い詰めているのも、まさしくそのスリルなのである。

 とはいえ、『モレルの発明』は、実際に書かれていることからいえば、「わからない」のままうやむやに逃げ去ってしまう小説ではない。先回りしていってしまうと、「連中」の正体ははっきり説明される。謎には解答が与えられるという、これはそんな種類の小説である。
 私のしていた、矛盾するあれこれの想像のすべてをねじ伏せる格好で示される解答は、しかしそれでも、そこまでの想像のすべてを打ち消しはしない。解答に説得力がないのではなくて(そのうち引用するからおわかりいただけると思う)、それが出てくるまでに小説がはらんでいる、“こっちの想像力をざわつかせる感じ”が強すぎるのだ。
《ここに書きつけていることは本当であって、怨恨からでっちあげをしているわけではない……。水槽の部屋のとなりのあの緑の部屋から蓄音機を運び出して、男も女もベンチや草の上に坐り、あらゆる樹々を根こそぎ倒してしまいそうな暴風雨のまっただなかで、会話を交わしたり音楽を聞いたり踊ったりしているのだ。》p41

「連中」が姿を消してしまう前の一場面である。こんな短い文章に私の心は騒ぐ。ざわざわする。それは彼らが「妄想だから」ではないし、「実在の何かだから」でもない(だって、この時点では解答がない)。
 奇妙な状況が、「~だから」の理由がないまま描かれているというまさにそのことによって不穏な感触が生まれているのであり、それは解答から理由が与えられた時点で消えるものではない。だったら、このような場面のひとつひとつにも、そこからかき立てられる想像のひとつひとつにも、解答と同じ価値があるということになる。


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ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 [2]



 語り手の「私」はどうやら、何かの罪を犯して逃げているらしい。知人のつてで、ひとり無人島に渡り、丘の上に残されている豪華な建物(「博物館」)に引きこもって暮らしていたのだが、島の生活が100日を数えた翌日、前触れもなく、たくさんの男女がにぎやかに上陸してきた。ほうほうの体で「私」は低地に身をひそめ、「この信じ難い出来事の証言を残すために、これを書く」という。
《あの連中は私を捜しに来たのではないと思う、たぶん私のことなど見たこともない連中だろう。仕方がない、こんなふうに逃げ隠れするのが私の運命なのだ。》p18

《彼らの出現がどうにも説明がつかぬまま、あんなふうに見えるのは、昨夜の暑さのせいで頭がおかしくなった結果だ、とでも考えたくなってしまう。でも、あれは幻覚でもなければ心象でもない。明らかに本物の人間だ、すくなくとも私と同じ正真正銘の人間である。》p20

 極限状況下での手記、という設定が明らかになるのは、すべて「私」の語りを通してであるので、どこまでが客観的な事実なのかはわからない。追い詰められているのは思い込みじゃないのか? ほんとうに「捕まったら死刑」なのか? 手記はどこまで手記なのか?
 なので、これはいわゆる“信頼できない語り手”もののようだ、と臆断し、ということは、やってきた「連中」が本物なのか、それとも「私」の空想の産物なのかはどこまでいっても判断がつかないばかりか、逆に事実と妄想が渾然一体になるのを目指していく類の小説なんじゃないかと思われて、そういうのは嫌いじゃない、決して嫌いじゃないが、でもその趣向は「またか」の範疇にある――なにしろ70年近く前の小説だからこんなふうに言うのは酷かもしれないが――、などという構えでもってページをめくることになる。
 
 しかしそのような半信半疑の姿勢は長くは続かない。「私」の行動も、それを綴る語り口もあまりにドタバタと切迫していており、半信半疑ではついていけない、ついていくにはひとまず「私」を信用するしかない、ということになるからだ。もちろんそれでも、簡単には騙されないぞという意識をあたまの片隅に自覚しながら読んでいくのだが、それが“自覚”から“自覚しているつもり”に変わり、“自覚しているつもりだった”になってしまうまで、ページ数も時間もあんまりかからなかった。事態がどんどん変になっていくからである。
 博物館でどんちゃん騒ぎに興じる男女たちを恨めしげに眺めていた「私」は、徐々に接近を試み、観察を続け、あろうことか、毎日ひとりで夕陽を見に出てくる女性に懸想してしまう。
《私の希望は、たぶん、あの釣をしている男たちや、あの髭をはやしたテニス服の男に触発されたものにちがいない。今日、見かけはテニスプレーヤーみたいなその男と彼女が一緒にいるのを見て気持がいらいらした。別に嫉妬しているわけではないが、昨日も彼女に会えなかったのだ。あの岩に行こうとしたが、釣をしている男たちがいたので近づけなかった。彼らから声をかけられることはなかった。見られる前に逃げ出したからだ。》p35、太字は引用者

 100パーセントの嫉妬であるが、それはともかく、大事なことが書いてあるのは最後だった。「彼らから声をかけられることはなかった。見られる前に逃げ出したからだ」。これが変である。
「私」がうっかり「連中」に近づいても、ぎりぎりで向こうは気付かなかった、というこのような出来事は何度も起こり、それは彼らが「私」の空想、実際には存在しないことの証拠になりそうなものなのに(つまり語り手「私」の信頼できなさを示す証拠になりそうなものなのに)、不思議とそうは受け取れないような書きかたになっている。いくつか引用する。
 大潮に襲われたある日、とても海辺の低地に潜んでいるわけにはいかず、「私」はやむなく、「連中」が占拠している博物館まで避難する。当然、彼らに見つかってしまうのではないかと「私」は恐れる。読んでいる私も恐れる。
《司祭が朝食をとったり着換えをしたりする控えの間にいると(博物館を占拠している連中のなかには、司祭も牧師も見かけたことがない)、突然、ふたりの人間が眼の前に姿をあらわした。どこからかやって来た、というより、まるで、私の視界あるいは想像の世界にふわっと出現してきた……というふうだった。私は祭壇の下の赤い絹地とレースのあいだに身を隠した。思いきりの悪い、ぶざまな隠れようだった。姿を見られずにすんだ。その時の驚きがまだつづいている。》pp39-40

 うまく隠れて難を逃れた、のでは絶対にない。「私」は「連中」から不意打ちされているのに、不意打ちしている彼らのほうは、これっぽっちも「私」に気を留めないのである。なぜなのか理由はわからないが、事実として、両者のあいだには越えられない壁があるようなのだ。
 そしてまた数日後の夕暮れ、思いつめた「私」は丘の上で、ついにあの女性の前に飛び出してしまう。その結果はこんなである。
《だしぬけにすぎたかもしれない。しかし、彼女の心の平静さは乱れなかった。まるで私が眼に映らないかのように、彼女の眼差しは私を無視したままだった。
 私は諦めなかった。
「お嬢さん[セニョリータ]、どうか聞いてください」》

《もう一度「セニョリータ」という言葉を繰り返した。言葉をかけるのを諦めて夕陽を見つめることにした、この静けさを共有することでふたりの気持が近づくのではないかと期待して。また話しかけた。自分の気持を抑えようと努力すると、声はくぐもり、きざな感じが増してしまう。また数分間、沈黙が流れた。[…]
 私の言葉が聞こえず、私の姿が眼にとまらない、というのとはちがう、まるで耳があっても聞くことの役に立たず、眼があっても見ることの役に立たないとでもいうようだった。》pp46-7

「私」と「連中」には、決定的な距離がある。「連中」が「私」の妄想の産物だとしたら、この状況はあまりにおかしいのじゃないだろうか。自分の妄想から相手にされない、ということになってしまうのだから。
 しかし、「だからこれは妄想ではない」とするのはまだ早い。というか、もったいない。この場合、「それでも妄想」と考えたほうが面白いのである。
 ふつう、小説のある部分について「ここは語り手の妄想っぽいな」から「いや、きっと妄想にちがいない」と判断がつくと、その見極めによって、妄想じたいは一気に色褪せる。しかし上の引用部のように書かれている『モレルの発明』では、事情が逆になってしまう。
 この奇妙な「連中」は、語り手とのはっきりした隔たりのために、妄想には見えない。だからこそ、あえて「私」の妄想だと決めつけ、その線で読んでみると、引用部などでは、「私」は、ひとりだけ妄想の蚊帳の外に置かれていることになる(自分の妄想なのに!)。逆から言うと、「私」と同じ次元にない妄想が(「私」の内部にとどまらず)外部に実体化してしまったように見えてくる。
 この構図は、かなりおかしい。“実際に存在する人物が、外にいる”場合よりも、“妄想なのに、外にいるかのように読めてしまう”ほうが、事態としてずっとめずらしく、面白いだろう。読んでいる小説が、なるべく面白く読める読みかたを、私は採りたい。書かれていることを曲解しているのでは決してなく、この小説にはそのような想像を許す余地がある、ということである。
 では、この読みかたで当たっているのか。小説はまだ3分の1も進んでいない。


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モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
アドルフォ・ビオイ・カサーレス

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2008/11/15

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(1940) [1]


清水徹・牛島信明訳、水声社(1990)


 この本の巻頭にはボルヘスによる「序文」があるのだが、そこはさらりと読み飛ばして本篇にすすむと、小説『モレルの発明』はこんなふうにはじまっている。
《今日、この島に信じられぬことが起きたのである。早くも夏になっていた。プールのそばにベッドを置いて、遅くまで水浴びをした。眠ることなど、とてもできない。プールから二、三分あがっているだけで、凪のむんむんする暑さから私を保護してくれるはずの、身体についた水が、汗にかわってしまう。明け方、蓄音機の音で眼をさました。博物館に戻って身のまわりのものを取ってくるゆとりもなく、崖をつたって逃げた。私はいま、島の南の低地の、水草の茂みのなかにいる。蚊の群れに悩まされ、海水というか汚れた流れに腰までつかりながら、あのようにあわてふためいて逃げ出したのは馬鹿げたことだったと思い返している。》pp17-8

 何が起きているのかわからないので、これでは読んでいくしかない。そして徐々にわかってくるのは、語り手であるこの「私」も何が起きているのかわかっておらず、読者以上にとまどっているということである。

 これからしばらく、この小説について、最初に読んだときの気持の動きを思い出しながら、なるべくそれに沿って書いていこうと思う。ということは、趣味の引用に加えて、おそらく大部分があらすじの紹介になってしまうのだが、なぜそんな長くなりそうなことをするのか。
 いちおう理由はある。この小説が面白かったのは、読んでいる最中の自分の気持の移り変わり(これからどうなる? 何が起きているのか? もしかしてこういうことか? それともこういうことか?etc.)が面白かったからで、それはほかのどんな面白い小説でも同じなのだが、とりわけこの『モレルの発明』の場合には、小説の展開に自分の気持の展開が組み込まれていくような不思議な感覚があった。読んでいるあいだ、小説のあとを私がついていくだけでなく、ときには私のほうが小説より前に出ているように感じることさえあったのである。
 そんな錯覚まで含めたすべてが『モレルの発明』から発していて、この小説を読んだせいで生まれた気持の動きはまだ続いている。そこのところを忘れないよう文章にしておこうと考えると、書きかたは自然、引用しながらあらすじをなぞることになるのだった。いいかえると、私は小説に翻弄されるのがほんとうに好きなんだなあと思った次第。
(今回、引用部のページ数は自分の読んだ旧版のものです。下に貼った新装版の現物を確認していない私には、そこに異同があるかどうかは不明)


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