2008/10/23

夭逝するよりはまし


『モレルの発明』『ロクス・ソルス』を“原案”にしたという、クエイ兄弟の映画「ピアノチューナー・オブ・アースクエイク」(音が出ます)を、先日、渋谷のイメージフォーラムまで見に行ったのだった。が。
 
 場内が暗くなり、長い長い新作映画の予告ラッシュに耐え(体感20分)、いよいよ本篇がはじまって話が動きだしたあたりで早くも眠り込み、あとはときどき起きてはまた眠り、というのを何度か繰り返しているうちに映画は終わっていた。100分くらいあったらしいが、体感では10数分。
 なので、映画がどれほど・どんなふうに“原案”に沿っていたのかはぜんぜんわからなかった。というか、どんな映画だったのかも不明。ピアノチューナーが出てきたのは見た気がする。アースクエイクはいつ起きたのか。DVD待ち。何をしに行ったんだ。
 
 いちおう、目を覚ますたびにスクリーンを見続けようとはしたんだけど、そこに映っているのはなんだか夢のような映像(ぜんたいに紗がかかってるみたい、女優の肌がすごくきれいに見えるので監督は変態だと思った)で、そのまま溶けるように眠ってしまうのだった。
 これはあながち私のせいだけじゃないだろうと負け惜しみ的に思うのは、スタッフロールになると目はぱっちり覚めたからなのだけれども、そこで流れてくる女声の歌は、字幕によると

 神は愛するものに眠りを与えたまう
 
 だそうで、なんというか、愛されすぎるのも考えものである。神だけに。


■ それで寂しく『モレルの発明』を読み直してみたらやっぱりすごいので、どこがどうすごいか忘れないようにたくさん引用しておこうと思った。
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2008/10/18

ちょっと追記


 こないだ読んでたまげた『モレルの発明』、なんでいま新装版なのかと思ったが、ググっててわかった。
 たぶんこれ、この、クエイ兄弟の新作映画がきっかけ。
 
「ピアノチューナー・オブ・アースクエイク」→公式サイト音が出ます
 
 原案が、『モレルの発明』+『ロクス・ソルス』(レーモン・ルーセル)だと書いてある。それに合わせた新装版と見た。
『ロクス・ソルス』! あれもまた、見苦しいほどすすめたくなる小説。決して読みやすくはないのを我慢して読んでいくと、次第にどの一文を見ても多幸感に包まれるようになるタイプの。
(それなのに私は、いまだに『ロクス・ソルス』というタイトルがちゃんとおぼえられないのだった。さっきも『ルクス・ソルス』と書いていた)

 公開は10月18日(土)、って今日か。これは行く。きっと行く。いつ行こう。

 しかしながら、このふたつが「原案」では、どんな映画もありえると思った。


モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)
(2008/10)
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2008/10/14

先週から


「内田樹の研究室」を読んでいたら、先週のノーベル文学賞がらみの記事があった→「ノーベル文学賞の日」2008.10.09
 内田樹は、今年も「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」の予定稿を書いたという。
「もし受賞したとして」という原稿を、3年にわたって求められ、引き受けて書き続けているという営為は、なんか面白いと思った。ほかで見たことがない。無償の愛、みたいな。ちがうか。ちがわない。
『村上春樹にご用心』(2007)も、受賞したとの仮定に乗った祝辞で始まっており、そんな本は見たことがなかった。あれ以上のつかみはなかなかないと思う。ところで、
《追記・残念ながら、村上春樹さんのノーベル文学賞受賞はなく、ル・クレジオが受賞することになった。
電話をかけてきた某新聞社の記者は「ル・クレジオって、ご存じですか?」と訊いてきた。まわりにいた記者たちの誰も名前を知らなかったそうである・・・
かわいそうなル・クレジオ。
1970年には大学生たちのアイドルだったのに。》

 うちにも、古本屋で見つけた絶版本が2、3冊あるけど、読んでなかった(どうせ復刊されるんだと思う)。近所の古本屋の棚には、常時、5冊くらい置いてあって移動がない。かわいそうなル・クレジオ。

■ それでル・クレジオを読んだかというとそうではなく、日曜日はアドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』を読んでいた。これがめちゃめちゃ面白い。冒頭から引き込まれ、それでもちょっと斜に構えて読んでいったのに、次第にそれどころではなくなった。興奮のうちに読了。まだ冷めない。
 で、本の中身もすごかったんだけど、同様に「うわあ」と思ったのは、この本を買ったのは何年前だろうということで、おそらく私はこの古本(出版社名は「水声社」の前身の「書肆風の薔薇」になっている)を、少なくとも10年前に買っている。ずっと積んだままだった。きのう手に取ってほこりを払い、読んでみたら、たいへんな小説だった。
 それであらためて、本って「待ってくれる」んだなあと思われたことである。だから、ル・クレジオもいつか読む。
 
■ で、そのとんでもない『モレルの発明』、もしや絶版なんだろうかと思ってamazonで見てみたら、この10月に新装版が出ていたのでのけぞった。
 これ。
    →『モレルの発明 第2版 (フィクションの楽しみ)』

 ぜひとも読まれたい。ほんとおすすめ。人にこんなにすすめたくなるのは、『ディフェンス』『ペドロ・パラモ』以来、というレベルでのおすすめ。見苦しいほどすすめたい。

■ うえで書いた近所の古本屋に行くと、ル・クレジオは1冊もなくなっていた。読んだことないけど、おめでとうル・クレジオ。
2008/10/11

江川卓・亀山郁夫共編『ドストエフスキーの現在』(1985)


JCA出版

 23年前に出た、ドストエフスキー論集。だから「現在」は「23年前」である。
 ドストエフスキーの、23年前。意味のない言い換えであった。目次をメモ。
山路龍天:
 『悪霊』ノート ―スタヴローギンをめぐる図像論分析の試み―
津久井定雄:
「悪霊」の町はこうして燃え始めた ―「情報構造論」の試みとして―
亀山郁夫:
 スタヴローギン ―使嗾する神―
井桁貞義:
 ファウスト伝説のなかの『悪霊』
諫早勇一:
 分身の現在 ―ドストエフスキイの『分身』と現代の分身たち―
渕上克司:
 ドストエフスキーへの心酔と反逆 ―レーミゾフの場合―
萩原俊治:
 ポリフォニーについて
長屋恵一:
 『罪と罰』のそっくりさん
伯爵・神山宏
 ムイシュキンの魔性
安藤厚:
 「道化」と「僭称」 ―『悪霊』の創作過程から―
鈴木淳一:
 教養小説『未成年』への招待
望月哲男:
 決疑論の展開 ―『カラマーゾフの兄弟』の一面―
左近毅:
 革命する超人の弁明 ―ドストエフスキイにあてたネチャーエフの手紙―
小岸昭:
 角をもった王子 ―『悪霊』と第三帝国―
江川卓:
 ドストエフスキーの現在

 おお、あの人が、という名前もちらほらあるけれど、ここで何より目をひくのは太字にした伯爵・神山宏だろう。爵位? それは爵位なの? しかも扱ってるのがムイシュキン(公爵)なのでちょっと笑える。そんな態度で読んでいたわけだが、ところで、編者あとがきにこんな部分があった。
《編集上とくに注意をひいたのは、集まった原稿の約半数が、多かれ少なかれ『悪霊』をテーマに扱っていたということである。政治の季節から遠くへだたった現在もなお、ドストエフスキーに対する関心が『悪霊』に集中したという事実は、あまりにも興味深く、[…]p295

 それってつまり、『悪霊』がそもそもそれだけの話ではなかった、あるいはぜんぜんそういう話ではなかった、ということでいいんじゃないだろうか。
(なかには、たんに書いてる人が「政治の季節から遠くへだたっ」ていない場合もあるように見えたけれども)
 去年出た、こんな本ではどうなっているのかちょっと気になった。

 で、収録されているなかでいちばん面白く読めたのが「江川卓  ドストエフスキーの現在」だったのは、これがインタビューから起こした原稿なので読みやすいのと(インタビュアーは亀山郁夫)、専門家だけに向けたものではないことをいちばんはっきり意識して、間口を広くとって書いている(喋っている)からだと思う。
[…] たまたまその時レニングラードを案内してくれた人が、後に国外に亡命してしまうマルク・ベヴズネル君という大変優秀な、文学のよくわかる青年で、是非「ソーニャの家」を見てもらいたいと案内してくれ、それが「ソーニャの家」と名付けられた由来を話してくれたわけです。ソーニャの部屋は、片隅が鈍角で片隅が鋭角という奇妙にいびつな部屋だと小説には書かれていますが、二〇世紀の研究者たちが一生懸命捜して歩いたら、まさしくそういう部屋が見つかった。そして、恐らくドストエフスキーはこの部屋に来たことがあるに違いないという結論になった、というのですね。つまり、ぼく自身もそれまで考えていたように、ドストエフスキーの幻想がこのいびつな形の部屋を生み出したんじゃなくて、いびつな部屋に身を置いた感覚が、ドストエフスキーに小説的幻想をささやいたのだ、ということになったわけです。マルク君としたその話が、ぼくの中のドストエフスキー像を逆転させたようですね。ちょうどその頃、ピーサレフの『生活のための闘い』を読んで、ラスコーリニコフは決して理論のために殺人をしたのではなく、病気で貧しかったから殺したのだ、と言っているのにも妙に共感して、その線で『罪と罰』を訳し直してやろうという気概を持ったわけです。》p274-5

 なんだか新鮮だった。ちなみにインタビュー中で「いま書いている途中なんです」と言っているのが、あの『謎とき『罪と罰』』である。『罪と罰』、私は新潮文庫でしか読んでないけど、『謎とき~』を面白いと思うからには岩波文庫版も読むべきかと、まえから何度も考えていることをまた考えた。
2008/10/08

今日の3点


■ 「ミランダ・ジュライ」+「新日曜美術館」というワードで検索して来られる方が何人かいて、もしやと思って調べてみたら予想通りだった。
 10月5日(日)、NHK教育の「新日曜美術館」で、横浜トリエンナーレ2008が特集されたんだそうである(→番組サイト)。私は知らなかった。
 ミランダ・ジュライの作品も映ったのかどうか(→公式の紹介。これではどんなだかわからない)。
 放送を知らなかったことを、なぜか反省する気持になった。ほんと、なぜ。


■ 穂村弘インタビュー
「WEB本の雑誌」のインタビューコーナー、「作家の読書道」の第83回に、穂村弘が出ていた。
 http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi83.html
《――チャンドラーに関しては。

穂村 : 中学生ぐらいの時から読んでいました。原文がどうなっているのか分かりませんが、清水訳って、無意味なことがいっぱい書かれてあるんですね。例えば自分がいて誰かがいて、お互い飲み物を飲んでいる。二人のグラスを手に持ってお代わりを注ぎにいく途中で、どっちがどっちのグラスか分からなくなる。そういった、小説の筋とはまったく関係ないけれど、でも実際に起きることが書かれてある。僕が思春期の頃に混乱していた感じというのは、そのグラスがどっちがどっちか分からなくなる感覚が極端に肥大してしまって、小説でいうストーリーや対人的な会話にあたる部分が見えなくなってしまう感覚だったんです。色盲検査表の中には図形や文字があるけれど、それを消しているノイズとされている部分に飲まれてしまうような。だから友達に「おはよう」と言われても、反応が悪かったんですよね。》

 このあと、アニメ版「ルパン三世」1stシリーズの話も出てくるんだけど、わりと最近、その全23話を通して見ていた私には、思い当たるふしがいろいろだ。無駄の省きかたがすごく格好よく見えるわりに、別種の無駄がいっぱい入っているのだった。ただし、穂村弘が取り上げている、
《番組の冒頭で峰不二子がシャワーを浴びながら鼻歌を歌っている。隣の部屋でルパンと次元がそれを寝転がって聞いていて、しばらくしてから次元が「ちっ、ヤな歌だぜ」と言う。》

 このシーンは微妙にちがう。朝食の準備で釣りに出ていたルパンと、外で射撃の練習をしていた次元が合流してアジトの前まで帰ってくると、前夜から泊まっていた不二子の、シャワー中の歌が聞こえてくるのである。そして「ヤな歌だぜ」と続く(第2話「魔術師と呼ばれた男」)
 ・・・ものすごくどうでもいい。書いてみたかっただけです。
 
■ ↑こういう無駄をこそ省くべきだが、ところで、その上、ひとつめの引用に出てくる「色盲検査表」という言葉はすごいと思う。何かがむき出しだ。それって、歌わせといて「ヤな歌だぜ」と言わせるセンスにも通じる何かである気がしてならない(一般名詞のはず、念のため)。


■ ようやく、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を古本で見つけたので読んでみた。去年からさんざん言われているように、文章がうつくしくてまずおどろく。
「文章がうつくしい」なんて、小説を読んだ感想にはおいそれと使えない言葉なのに、いま平気で書いてしまったのは、私がこの新書を「小説とは別」と捉えているからなんだろうか。しかし、これを読んでいていちばん連想されたのはリチャード・パワーズであって、パワーズが小説でなかったらこの世に小説なんかあるのか、というのは言い過ぎにしても、いや、重ねて言い過ぎを続ければ、『生物と無生物のあいだ』は、『われらが歌う時』よりも、パワーズっぽいのである。無茶苦茶だ。逆に言えば、それくらいの水準でしか私はそれぞれを読めていないということになる。それはそれでたしかなことだ。

■ それでも検索してみると、よく見るブログがヒットした。「東京猫の散歩と昼寝」より2件。
 →「小説と無小説のあいだ」(2007.06.19)
 →「読書と無読書のあいだ」(2007.06.28)
2008/10/04

そんなイルカ


 山崎まどか氏のブログ「saltwatertaffyの日記」を見たら、手元のお茶をこぼしそうになった。この記事のせいだ。
 → http://d.hatena.ne.jp/saltwatertaffy/20081003
 
 なにしろ私は、「ユリイカ」2008年3月号で知った件の小説を、先週読んでいたのだった。こういう偶然ってあるのか。

 まえに感想書いた→これ、「ユリイカ」でのすばらしすぎる紹介を再掲:
《―― これは今の日本で受けそうですよね。高学歴低収入の男の子が主役で。彼は故郷に帰ってピザ・ハットで働いているんですけど、やさぐれていて、ジュンパ・ラヒリがすっごく嫌いなの(笑)。別れちゃった女の子のこととかうじうじ考えている合間合間に「ジュンパ・ラヒリ、何だそれは? 名前か?」とかジュンパ・ラヒリへの呪詛が出てくる(笑)。そんな感じで田舎で暮らしているうちに、急に熊がでてきて、車のドアをはずされて地下の国に拉致られちゃう。それで熊の住んでいる地下世界にはイルカも住んでいるんですけど、その熊とイルカがやたらと彼の日常にからむんです。イルカは生きる理由が見つからないとかそういう形而上的な悩みですさんでいて、いろんなセレブリティーを誘い出して殺しているんです。ウォン・カーウァイとか(笑)。うまく説明できないんですけど、一種の青春文学なんですね。》p188

 今回の記事からも:
高学歴低収入のフリーター男子と友だちが一人もいないティーン女子と腹いせにイライジャ・ウッドを殴り殺すイルカと村上春樹的「やれやれ」病に取り憑かれた瞬間移動が出来るクマの物語

 ちなみに私の当てにならない印象では、「暴力的な森見登美彦みたいなものを想像していたら、予想以上に切ない話だった」。スカスカな感じが沁みる。あとハムスターとかも出てきます。
 
 タイトルはどんな意味なんだろうと不思議だったんだけど、それは最初のほうでわかる。主人公のAndrew君がはじめてクマに連れられて地下世界に降り、そこにある崖に座っていると(どんな地下だよ、と思っていたのだが、そうかこれって Tao Linなりの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』か)、大槌を持ったイルカがやって来る。
《Andrew stands. The dolphin has a sledgehammer. Andrew looks at the sledgehammer; the dolphin slaps Andrew's face. More dolphins come from the corridor. The cliff is crowded. More dolphins come; a dolphin is crowded off the cliff; as it falls it goes, "EEEEE EEE EEEE!" Andrew laughs a little. Two more dolphins fall and the cliff is not as crowded anymore.》pp35-6

 イルカはもしかするといちばん切ないキャラなのだけれども、ともあれ、だれかTao Linにこの絵を教えたらいいと思う。



Eeeee Eee EeeeEeeee Eee Eeee
(2007/04/01)
Tao Lin

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2008/10/02

日記


■ 家に帰ってまず最初にすることが「パソコンの電源を入れる。そしてネットを見る」以外にありますか、と、友達がビールを手につぶやいたのはたしか先々週の土曜日で、空いたグラスや小鉢や灰皿がごちゃごちゃ置いてあるテーブルを囲んだ一同、そうだそうだ!ぼくも、わたしも!と強くうなずくなかに自分も入っていたのだが、しかし先週の私はあんまりネットに立ち入らず、本を読んで夜を過ごしたのだからわからないものである。
 
■ 読んだなかでは、とくに青木淳悟の既刊2冊、四十日と四十夜のメルヘン(2005)いい子は家で(2007)が面白かった。
 どちらも出たときに買って読んで、よくわからないなりに面白がっていたけれども、再読してみたら、最初のときよりさらに面白い。それでいて、やっぱりよくわからないままである。
『四十日と四十夜のメルヘン』収録の表題作は、いちばん読みやすいだけあって面白さもいちばんつかみやすく、最後まで読んだらそのまま最初に戻り、続けてまた最後まで読み返していた。読めば読むほど面白い箇所が増える。
「面白い」「面白い」でちっとも具体的じゃないが、とりあえず、「どこが面白いんだかわからないまま読んでいくのが面白い」タイプの面白さである。何のことだかわかるまい。

■ で、きのうから、その青木淳悟を発掘した保坂和志の新刊小説、世界の奏でる音楽を読んでいる。これがもう、すごい。まだ半分も越えていないあたりだが、おなじく買って読んでいる最中の友達と「ここがすごい」「ここもすごい」とメールしながら本を読むなんて経験はなかなかない。
(この本は、小説の自由(2005)小説の誕生(2006)に続き、保坂和志が小説をめぐって考えるプロセスを記録した3冊目になる。これでいちおう完結、らしい)
 いま自分が読んでいるものに引っぱられながら考えをすすめていくやりかた(積極的な受動性、という言葉がこれまで読んだどこかにあった気がする)は相変わらずながら、他人の小説を読んでみせる手際に、なぜだか今まで以上に熱がこもっているように見える。
 そのいっぽう、“小説論”ではなくはっきり“小説”として書かれている「K先生の葬儀実行委員として」という短篇は、初出時に雑誌だかネットだかで目にした「あれはすごい」という噂にたがわない、妙なものになっていた。不穏な雰囲気で帯電しているような感じ。
 しかししかし、それ以上にすごかったのは、そのあとに来る「涙を流さなかった使徒の第一信」と題された第4章で、きのう読み終えたここの部分があんまりすごかったので、今日はあたまを冷ますためにキーボードを叩いている。
 
■ 「涙を流さなかった使徒の第一信」は、保坂和志が最大の尊敬をささげる小島信夫の死に際し、涙も出ないし悲しくもならなかったのはなぜだったんだろう、というところから始まって、いつにも増して手探りのまま書きすすめられていく。「読んでるこっちはボロボロ泣ける」とか「胸を打たれる」とかではぜんぜんなく、ただ、話のすすめかたの迫力に圧倒される。逸脱というか、「なぜそこからこの話になるのか」という転換(ただし書いている当人のなかではつながっていることも確信させられる)が何回もあり、どうなっちゃうんだと思うあまりに読むのがやめられない。
 わりと前のほうだが、小島信夫や親族の死から、文字と記号の話をしていたのに、139ページでとつぜん自宅の周囲にいる外猫たちの話に変わって(というか、外猫たちの話が否応なくあらわれて)、ページをめくった次の140ページに「外猫の系図」が出てきた瞬間の「!?」という異様な感触は、ほかで感じたおぼえがない。すごい。
 それでいて、おどろくべきことに、最後には結論めいたところまでたどりつくのだが、出た結論を本人が「ぜんぜん足りない」と思っているのが生々しく感じられるあたりもまたすごい。

■ 「すごい」「すごい」じゃバカみたいだが、ものすごく重たい何ものかが、差し迫った感じではちきれそうになったまま、どうどうと音を立てて流れ去っていくみたいなこの40ページの塊りの前では、自分がバカに見えることなんか何ほどのものでもない。
 まだ300ページも残っているから、これ並みにすごい章がまだあるのだろうか。そして、それに自分は「すごい」と反応できるんだろうか。結局、あたまは冷めないのだった。


小説、世界の奏でる音楽小説、世界の奏でる音楽
(2008/09)
保坂 和志

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