2008/09/29

『ディフェンス』メモ

《――あの最後の日に、老人が鼻から大きく息を吸い込むところを見せた長い熱戦の後で、ルージンは何かが自分の中で解き放たれ、何かがはっきりと見えるようになったのを知り、チェスの視界を厄介にも曇らせていた頭の中の近視が消え失せたのを知った。「ふむ、ふむ、これはドローだな」と老人が言った。老人は壊れた機械のレバーを動かすみたいにクイーンを何度か前後に動かしてから、こう繰り返した。「ドローだ。チェスの千日手だよ」 ルージンもうまくいくかどうかレバーを試してみて、ごそごそ、ごそごそとやってから、じっと座ったまま、視線をこわばらせて盤を見つめた。「きみはたいしたものになるぞ」と老人が言った。》p55

 ナボコフの『ディフェンス』新装版を読んだ。
 この小説がすごいのは、作者が、書いている小説を完璧にコントロールしていることだ。もちろん、どんな方法でどこまでやれば完璧なのかをこちら(読者)の側から測れるわけがないので、いま書いたことは、読んでいると「ああ、作者が完璧にコントロールしている」と感じられるということ、作者が読者にそう確信させることをこそ、私はすごいと思っている、ということになる。
 ナボコフが「まえがき」で自画自賛する第4章、70ページにある一段落なんかを堪能し、ほかにも何度も仕掛けられる曲芸みたいな時間の飛ばしかただとか、山ほどある細かい照合だとか、そしてもちろん、小説の進行に従って主人公・ルージンを追い詰めていく手際の容赦のなさだとかに、読んでいるあいだは平伏してしまう。すすんで平伏するのをもって、読むのを楽しんでいる。そして読み終えてから、「これってすごく閉じているよな」という気もするのだった。
 変な言いかただが、ルージンがこの小説から(ナボコフの意図から)出られないように、これではナボコフもこの小説から出られないように思う。緻密な設計だとか周到な配置に基づいた作りかたは、どれだけ上手にやっても、いずれ先細りなんじゃないかという予感もする。

 いや、もちろん、この予感は遅いうえにまちがっていて、じっさいのナボコフの『ディフェンス』以後の作品を(そんなに読んでるわけではないけど)先細りしているとはまったく思わないわけだし、念のためもういちど最初から最後まで読み返してみれば、やっぱり『ディフェンス』は面白い。そしてその面白さは、こちらからは手の触れようもない、ガラスケースに入った鑑賞品としての面白さ、というのとはちがうと感じる。
 だいたい、作者ではないこの自分が面白いと感じる・感じられるという一点をとっても、作品が「閉じている」と言ってしまうのは当たらないように思うのだ。それで考えてみるに、最初に書いた、
 
 この小説がすごいのは、作者が、書いている小説を完璧にコントロールしていることだ。

 というこの素朴な感想が、ほんとは合ってなかったんじゃないかと疑ったのである。じつはコントロールしていない、というのではなくて、すごさの根っこはそこではないんじゃないか、という意味で。
 じゃあ何が本当のすごさなのかというと、私にうまくまとめる言葉はぜんぜんないのだけれども、“作者が超絶技巧でもってじぶんの意図を実現しおおせる小説”と、“書いていくうちに作者がじぶんの意図しないものまで書いてしまう小説(そこを狙って=意図して書いていくものも含め)”という、同じ「小説」といってもほとんど別の表現形式みたいなふたつのタイプがあるとして、両者をいっしょくたに何かを言おうとする・何かが言えると思うのはまちがっており、一読者としてはどちらもそれぞれに面白がっていればいい――とたいていの場合は思っているが、それでいいのか疑うこともたまにはあったりする。だいたい、いまの二分法が正しいとも思えない。何かは、何かは言えるんじゃないのか。

 でもいまはこれ以上何も書けないので、『ディフェンス』から引用する。ひとつめはライバルとのチェスの試合。ふたつめは、神経の参ったルージンが目をさます前後。私の考えがどう変わっても、この文章芸にゾクゾクするのは変わらないと思う。
《ルージンは念には念を入れて指そうと決めた。最初のうちはまるでミュートをはめヴァイオリンのようにそっと、そっと進行した。両者は用心しながら布陣を敷き、あれこれの駒を丁寧に進め、狙いがあるようなそぶりはまったく見せなかった――もし狙いがあるとしてもまったく常識的なもので、そのあたりに逃げ場所をこしらえた方がいいよと相手にほのめかす程度にすぎず、相手はそれがまるでつまらない冗談みたいに微笑み、しかるべき場所を強化してほんのわずかに前進するだけだった。そして、なんの前触れもなく、弦がやさしく鳴り響いた。それは対角線を制しているトゥラーティの駒だった。しかしただちにかすかな旋律がルージンの側にもそっと現れた。一瞬幻の可能性がふるえ、それからまたすべては静寂に戻った。トゥラーティは退却し、引きこもった。そしてまたしばらくのあいだ両者は、まるで前進する気がまったくないかのように、自陣の手入れに専念した――手を入れ、組み替え、整える。そのときまた突然に火花が散り、すばやい音の組み合わせが轟いた。二つの小隊が衝突し、どちらもすぐに一掃されたのだ。一瞬の、達者な指の動きで、ルージンが取り除いてそばのテーブルに置いたのは、もはや実体のない力ではなく重くて黄色いポーンだった。》pp138-9

《そして幾世紀もの暗黒が過ぎると――地上ではたったの一晩だった――光がふたたび生まれ、突然何かがまばゆいばかりの光を放ち、暗闇が分かれて、消えゆく影のような枠の形で残るだけとなり、その中央には輝く青い窓があった。その青の中で小さな黄色の葉が輝き、斑の影を白い木の幹に投げかけ、その木が下のところで樅の木の濃い緑の前足に隠れている、その光景が突然生命に満ちあふれ、葉は震えだし、斑点が幹に忍び寄り緑の前足は振動して、ルージンがそれを支えられずに目を閉じると、輝く振動は瞼の裏に残っていた。ぼくは昔あの木々の下に何かを埋めたことがある、と彼は思って幸福にひたった。そしてそれが何だったのかをもう少しで思い出そうとしたときに、頭の上でがさごそいう音と穏やかな二つの声が聞こえた。彼は耳をすまして、自分がどこにいるのか、何か柔らかくて冷たいものが額の上に乗っているのはなぜなのか、理解しようと努めた。しばらくしてふたたび目を開けてみた。白衣の太った女が手のひらを彼の額にあてている――そして窓の中には同じ幸せな輝きがある。》pp161-2

 うえに書いたことは、以前の感想を逆順にしただけかもしれないと思った。


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日記


■ 9/20(土):

 10時前から高田馬場の早稲田松竹「ノーカントリー」。混んでいた。
 ああ、これはすごい。公開時に見にいけばよかった。連続殺人鬼が追いかけてくる。はじめて追いつかれるシーン、沈黙が続いたあとの一撃で、体が文字通りビクリとなった。ただの電話のベルもめちゃめちゃまがまがしく響く。緊迫しすぎ。そして終わり方に茫然。
 生身なのにターミネーターみたいな殺人鬼がとにかくこわい。なんかの象徴としてとらえられれば落ち着くんだが、あんな変な武器とか(圧搾空気を発射するボンベ?)特殊な行動倫理では無理だ。なにより髪型がこわい。

 見終わってどっさり疲れる。映画館を出て芳林堂に行ったらナボコフ『ディフェンス』新装版が平積みになっていたので買う。喫茶店で別の本を読みつつ、こっちも半分まで読む。
 
 5時、映画館に戻って「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」。満員。
 ああ、これもすごい。公開時に見にいけばよかった。20世紀はじめの石油王、その突撃人生。「極端」で「過剰」で「偏って」「歪んだ」人間。
 それといちばん激しくぶつかる、変なカルト宗派の神憑き預言者もすごかった。この2人が対決する場面は芝居のなかで芝居がされている感じ。聖書を知らない私には見えない工夫とかたくさんあったんだろうが、最後、ボーリングのレーンがある部屋のシーンはもう、歪みすぎて笑っていいんだかなんなんだか。そしてやっぱり、終わり方に茫然。
「ノーカントリー」の殺人鬼も、見た瞬間にわかる“ヤバい人”になっていたが、こっちの青年預言者も顔つきからしていかにもヤバい。俳優ってすごい。なにより髪型がこわい。

 見終わって8時、またも疲労困憊。「髪型がこわい2本、ってことか」と考え込みつつ、近くで飲んでた友達に合流。
「社長のワイシャツ」「『ポニョ』はすげえ」「3次元からはじめよう」「『新しい太陽の書』が3組」「香川県だけは」「一緒に成長したいタイプ?」って、もう何の会話だったかわからない。
 うっかりビールを飲んでみたら眠った。帰宅0時。


■ 9/21(日):
 
 寝ていた。



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ディフェンスがもう出るよ


 8月の最初のころからずっと『百年の孤独』を読み返していて、電車のなかでしか読まないので1日数ページずつしか進まなかったのが、それでもさっき、あと10ページまでこぎつけた。アウレリャーノ・ブエンディーア!


■ ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』の、改訳新装版がそろそろ出る
 
 もう出ているのかもしれない。若島正訳、河出書房新社→書影あり
 べつだん分厚くもなく、読みにくくもなく、それでいてあれはほんとうにすごい小説だと思うので、ぜひ読まれたい。旧版で読んだとき、「不器用だけど一生懸命」というナボコフがきっといちばん嫌ったであろう態度で感想を書いていたので、一応リンク。3年前か……
  → ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』(1930,1964)

『ロリータ』のほうが豊かだし、『青白い炎』のほうがエンターテイメントしてるけど、『ディフェンス』も何かの結晶なのはまちがいない。その何かがいいものか邪悪なものかはともかく。


■ あと今月買わないといけないものはなんだろう
 
 9/22 黒田硫黄『大金星』(講談社)
 9/25 リン・ディン『血液と石鹸』(早川書房)
 9/29 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)
 
 しぼりにしぼってこの3冊。なぜしぼらないといけないのかと。理不尽。


■ 今週末-来週の早稲田松竹
 
 公開時にそれぞれ話題になって、見たいなあと思いながら見に行けなかった2本が、早稲田松竹でまとめて上映される。
 
 9/20-9/26 「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」+「ノーカントリー」
 
 しかし158分+122分てなあ。単独でも見応えがあるから話題になったんだろうに。体力のある人がうらめしい。どうするか考えつつ、これから部屋で『百年の孤独』を読んでしまおうと思う。アマランタ・ウルスラ!
2008/09/17

百閒の続き

…前回


 内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』の続き。もう漱石も芥川も関係ない。
 
 百閒の書いた文章のなかには、ときどき、なんというのだろう、感覚を即物的に写しとったような部分があらわれる。
 たとえば――と言って、前置きが長くなるが、百閒には「迷走神経の過敏症、或は神経性心悸亢進症」という持病があったらしい。発作が起きると動悸が高まる。苦しい。何かのはずみですぐ治ることもあれば、治りそこねて結滞が続くこともある。
 陸軍の砲工学校で教師をしていた時分の百閒は、ある日、授業中に発作を起こす。軍医室の下士官が来てくれたが、脈を見ておどろき、百閒を置いて医者を呼びに行ってしまった。
[…]仕様がないなと思ひながら、苦しいのを我慢して、一人で医務室まで辿りついた。
 その後からすぐにさつきの下士官が這入つて来て、私を診察室のベッドに寝かした。さうして向う向きになつて、薬瓶の一ぱい列んでゐる大きな硝子戸棚の前に起つて、何かしてゐる。その後ろ姿を見ながら寝てゐると、段段動悸がひどくなつて、肋の内側がいたみ出した。何だか気分が悪いなと思ふ途端に、急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、ほつとすると、その拍子に発作がなほつてゐたのである。
「あつ、なほりました」》「竹杖記」 p214

「神経性心悸亢進症」の発作を起し、しかもそれがとつぜん治った、という経験がなくても、これを読むと、「耳から何か抜けて行つた物がある様な気持」は、わかる気がするのである。
 特異な感覚がふつうの言葉で書いてある。手で触ることができないもの、それも「感情」とか「内面」ではなく、それこそ「感覚」を、手で触れられるものであるかのように言葉にしてしまう。なんだろう、この書きぶり。

 ところで、これが筒井康隆だとどうなるか。
 思いついたのでメモすると、「薬菜飯店」(1987)という短篇がある。語り手の「おれ」が入った中華料理屋は、身体に直接に作用してその場で悪いところを治してしまう料理を出す店だった(『ジョジョ』第4部に出てくるトニオの店の元ネタである。言わずもがな)
 眼に効く鮑の料理を食べると、とたんに涙が流れ出て視力まで良くなるとか、鼻に効く蛤料理を食べると鼻水が洪水になって鼻づまりが治るとか、軽いところからはじまって、徐々にグレードが上がり、煙草の吸いすぎである「おれ」の、汚れきった喉と肺、さらに胃を治す料理が出てくる。食べて飲んでしばらくすると――
《腹はすぐに鳴りはじめた。と同時に、首の左右の根っこの部分に大きな塊りのようなものがゆっくりとこみあげてきた。それは次第にふくれあがりはじめた。手でさわってみると、顎の下の左右がお多福風邪のように大きく腫れあがり、瘤ができている。さわったり押したりしない方がいいのだろうな。血のめぐりが悪くなって眼がまわりはじめ、吐きたい気分になってきた。や。気管支の方からも何かやってきたぞ。まっ黒けの、何やら機関車の如きものだ。臭い蒸気を吐いている。さらに胃の方からも酸性のピンポン玉がいくつか這いあがってきた。頭がぐらぐらする。何やらえらいことになりそうだ。顎下腺から、ちゅるちゅるとチューブから押し出されるように毒の粘液が口の中へあらわれた。続いて舌下腺からも、耳下腺からもだ。気管支の方からやってきた機関車がピーと蒸気を吐き、ごうごうと音を立てて口と鼻から噴出した。だばだばだばだば、だぼだぼだぼだぼと、その黒く重い粘液はバケツの中に音を立てて落ちていった。その直後、おれは胃からきた塊りを口からがっと吐き出した。次いでがっ。がっ。がっ。がっ。がっ。
 おれは恐慌に襲われた。鼻と口から際限なく粘液が噴き出るため、呼吸ができないのだ。》
 
[…]彼女はおれの上半身を起し、背後からおれの背中を握りこぶしで力まかせに叩くと同時に、膝でおれの腰骨の上をいやというほど蹴りあげた。
「ぐわっ」
 驚くべき大きさの、タールの塊りの如きまっ黒けのものがおれの口から吐き出され、バケツの中でごろりと転がった。それだけで、バケツの中はほとんどいっぱいになってしまった。》
『薬菜飯店』(新潮文庫、1992) pp27-9
 
 ええと、さて。百閒の場合だと、
《急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、》

とあったように、あの文章は、実際にあった感覚を描写するための、あくまで「様な」のたとえばなしだった。そのたとえがうまいので、自分では感じたことのない感覚が、「百閒には実際にあったんだろうな」と、わかった気になる。

 筒井の文章だと、「大きな塊り」だとか、「瘤」、「毒の粘液」、「タールの塊りの如きまっ黒けのもの」は、たとえではない。実際にあったものとして描かれている。いや、ここの順序は逆で、実際にあったものとして描き出されているから、「作中で実際にあったもの」ということになっている、のである。同語反復ではないと思う。
 結果、実際にはないはずのもの(並外れた吐瀉物)と、実際にはないはずの行為(並外れた嘔吐)に、私は手触りと実感までおぼえる始末だ。
 筒井の場合に起きているこの作用(書かれたことで、事物が作り出される)が、百閒の場合にも起きていると考えるとどうなるか。

 じつは百閒は百閒で、上の文章でもって、実際には存在しないもの(感覚)を存在させてしまっているのじゃなかろうか、という気がしてくるのである。
 胸の中を動く苦しい塊り。それが耳の内側にぶちあたる衝撃。
「この感覚はわかる気がする、すごいなあ」くらいでスルーして、本当にいいのかどうか。
 そして、これだけながなが書いてしまえば、事の正否はともかく、スルーではもはやない。
2008/09/15

内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(1969)

私の「漱石」と「龍之介」 (ちくま文庫)
ちくま文庫(1993)

 内田百閒が、師であった夏目漱石と、友人だった芥川龍之介について書いた文章のあれこれをまとめてできた本。
 
 岡山の中学生時代から尊敬していた大作家の門人になり、遠巻きに眺めながらますます尊敬が高まって、そのくせものすごい強引に借金を申し込んだりもする、漱石との付き合いを書いた文章も面白いけれど、いろいろ引用してみたいのは、芥川についてのほうだった。
《規定の課目数の試験も受けられないので、一年目の講義は殆ど未修了、体の好い落第で四年の学生生活を送つた、その四年目の希臘羅馬文学史の時間に、コット講師が鉛筆の尖つた所を指に挟んで、軸を踊らせながら、自分の鼻をこつこつ敲いてゐる。さうして、頻りにあてる学生の名前が珍しいので、私はいつの間にか覚えてしまつた。コットさんは、アキユタガアワと呼んだのである。》「竹杖記」 p208

 ちくま文庫から全24巻で出ている『内田百閒集成』、私はあれを半分くらいしか読んでいないのでたいしたファンではないのだけど、読みはじめたころに思ったのは、「随筆と小説では、同じ人が書いたような気がしない」、ということだった。よくよく読んでみれば、ユーモラスな随筆の底にも、小説にあふれる不気味な雰囲気がちらちらのぞいているような気もしてくるのだが、しかし、『阿房列車』『冥途』の作者が同じ、というのは、私にとっていまだに謎である。
 それで、故人の思い出を綴った文章なんていうものは、ふつう随筆に近いものになるだろうと考えられるし、じっさい漱石についてのものはたしかにそうなっているのだが、芥川のことを書いた文章は、はんぶん随筆に踏みとどまりつつ、ところどころで小説に(もちろん、百閒の小説に)片足を突っ込んでいるような印象があった。
 芥川という人間のありかたが百閒の小説の雰囲気と似ていた→ゆえにふたりが友達になったのも当然、というわかりやすい話なのかどうかはわからない。だって、ここで私の目の前にあるのは「百閒がとらえた芥川」なんだから。ともあれ、芥川の姿を書くと百閒の文章は小説になってしまう、という感じ。これなんてどうだろう。
《それから数日後に、もう一度会つたときの芥川は、半醒半睡の風人であつた。薄暗い書斎の床の間の前に据ゑた籐椅子に身を沈めて、客の前で昏昏と眠つた。不意に目を醒まして、曖昧な応対をしたりした。
「そんなに薬を飲み過ぎては、身体の毒だよ」
「いいよ。それに、こなひだ内からおなかを毀してゐたものだからね」》「湘南の扇」 p229

 この日のことを書いたのはほかにもある。
《私は芥川の死ぬ二日前に会つてゐる。その時は麻薬の量が足りなくて、まだ目をさましてゐたところなのであつた。勿論私はさう云ふことを知らないから、お酒の酔つ払いの様で、べろべろして、変な芥川だと思つた。》「河童記」 p233

「べろべろして、変な芥川」という書きかたの即物的な感じもすごいが、ここでぎょっとするのは「麻薬の量が足りなくて」だった。
 芥川の自殺の方法と言ったら、「睡眠薬」の過剰摂取、ということになっていると思うが、百閒がこれらの文章を書いていた時代では(あるいは百閒の用語法では)、「睡眠薬」は「麻薬」なのである。そこに思わずつまずいた、という以上に実のある感想ではないのだけど、それでしげしげと「麻薬」の文字を見ていると、だんだん不気味な気持になってくる。なにより「麻」という字のあやしさがずるい、って、これもよくわからない感想だが、いまふたつ並べた引用のひとつめは、ページをめくると
《その時会つた本屋の人が、二十四日朝の電話口に出て、私に悲報を伝へた。
「芥川さんがお亡くなりになりましたが」
 私は、どんな返事をしたか、ちつとも覚えてゐない。
「まだ御存じないと思ひまして」
「自殺なすつたのです」
「麻薬を沢山召し上がつて」
「左様なら」
 芥川の家に行つて、奥さんに一言お悔やみを述べた様な気がするが、はつきりした記憶ではない。》pp230-1

 となっていたりして、「麻薬を沢山召し上がつて」だといっそうあやしさが増すのだった。静かにおそろしい、とか、ひっそり不気味、というだけでは、私の受けた印象と何かがちがう気がするので、ここで「左様なら」も付け足した百閒はすごい、ということにしておきたい。いやこれもちがうんだが。

続き…
2008/09/12

町田康『爆発道祖神』(2002)

爆発道祖神
角川書店


 先月出た、町田康の新作長篇『宿屋めぐり』をはやく読みたい(ある友達によれば「筒井の『脱走と追跡のサンバ』に思い切りドライブをかけたような作品」だそうで期待は高まる)んだけど、部屋には買ったまま読んでいない町田康の本が何冊かあるのでそちらから読むことにした。
 
 で、まずは『爆発道祖神』。
 自分で撮った写真と、たぶんそれに触発されて書かれた文章で3ページ。それが72回分ある。ひとつひとつは短いんだけど、何と言えばいいのだろう。
 
 「毎回、混乱している」
 
 そんな紹介があるものか。こういうときこそ引用であろう。
《先ほどから往来に立ち個性を大事にしたいと思っている。
 個性。辞書に拠れば、個人を他の人から区別しうる固有の特性、つまり、例えば、猿と文鎮はこれ、別のものであって、猿には猿の固有の特性があり、文鎮には文鎮の固有の特性があるのである。そのことによって人は、猿を見て、あ猿だな、文鎮を見て、ああ文鎮だな、と思うのであり、そこのところをないがしろにして、猿だか文鎮だか分からないような個性のない猿がいた場合、その猿は机上で文鎮のように使用される可能性もあり、それは猿にとって不快なことだろうし、使用する側にしたって、非常に場所をとるうえに、もぞもぞ動いたり、甚だしい場合に到っては、そこいらで随意に用便するなどして、ちっとも文鎮としての用をなさぬ猿に対して激しい敵意、憎悪、怒りを感じるだろうということはこれ、火を見るよりも明らかなのである。
 こういう不幸を避ける意味でも個性ということは大事で、そういう訳で先ほどから自分は、どうすれば自分を他の人から区別できるか、知恵を絞っているのであるが[…]
「誰とも区別のつかぬ俺が空を見ている。」 p173

 感想を付け足すのも野暮だけど、まず、「往来に立」つ人はいくらでもいるし、それは「個性を大事にしたいと思」う人の場合も同じだが、両者を足して「先ほどから往来に立ち個性を大事にしたいと思」うことができるのは町田康のほかにいないと冒頭から確信させられる。
 つぎの段落も仕組みは似ていて、いきなり「」と「文鎮」を並べていることこそがそらおそろしく、そこから「猿だか文鎮だか分からないような個性のない猿」が飛び出し、その猿が「机上で文鎮のように使用される可能性」にまで言及して「ちっとも文鎮としての用をなさぬ猿」の姿を描き出すのはむしろ論理的な流れでありながら、合間に「それは猿にとって不快なことだろうし」と猿への気遣いを忘れないところがやっぱりただならぬ町田康、と、上の引用をもういちど繰り返していく格好になってしまう。「こういう不幸を避ける意味でも」て。つくづく、すばらしい。
 だいたい、タイトルからして「爆発」と「道祖神」を足しているわけである。どんなわけだ。どうしてそれが足せたのか真剣に気になる。

 このエッセイだかなんだかわからない文章の一群、初出は朝日新聞の夕刊だそうで、連載期間は1998年4月~99年9月と書いてあった。ということは、宮沢章夫の『青空の方法』、あれも朝日の夕刊で連載(99年4月~01年3月)だったから、この2本は半年ほどかぶって掲載されていたことになる。おそるべきは朝日。
 
 あと、こんなものを見つけた。
 放映時期は不明だが、「くっすん大黒」より前なんだと思う(音が出ます)
 「町田町蔵創作の秘密」
   http://www.youtube.com/watch?v=1JjXPuEMOBo
2008/09/10

入不二基義『哲学の誤読』(2008)

哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する!
ちくま新書

 こないだ竹内康浩『東大入試 至高の国語「第二問」を読んでいて、そういえばわりと最近、似たような本があったよと思った。それがこの本。
 こちらは、大学入試の「現代文」として出題された哲学の文章を、文学部で哲学を教えている著者が本気で考えて設問に答えてみた、という趣向。
 取り上げられる問題の素材は、以下の人たちが書いたものである。
 
 野矢茂樹 「他者という謎」
 永井均 「解釈学・系譜学・考古学」
 中島義道 「幻想としての未来」
 大森荘蔵 「『後の祭』を祈る」

 薄くない新書の300ページ近くを使って読み解かれるのは、この4人の文章に傍線を引いたり空欄をあけたりして作られたわずか4題で、それぞれがせいぜい5ページ程度におさまる1つの問題文+設問に対し、筆者は平均70ページを費やして読解をこころみる。どうかしている。「入試」とか「現代文」とかの周囲にたちこめる、「いまさらそんなもの、ねえ」という雰囲気を払拭するのは、このどうかした情熱である。
《本書の素材は入試問題であるが、あくまでもそれを哲学の文章として読解し、哲学的な視座から読み解く。この点をことさら強調するのは、哲学の文章であっても、入学試験という文脈内では、評論文(あるいは論説文)の一種とみなされて、哲学的な姿勢とは異なる別種の構えで読み解かれるということが、起こるからである。同一の文章であっても、入試という限定されたゲームの中で読まれる場合と、哲学という独特のゲームの中で読まれる場合とでは、違った様相を呈する。
 とはいえ、国語の問題文として解答するために読解することも、哲学の文章として読解することも、同じ「読解」である。[…]
 私は、その連続をたどったうえで、両者の距離を測定してみたいと思っている。あるいは、その両者のあいだを、自在に行き来してみたいとも思っている。》「はじめに」 pp9-10(強調は原文)

 正直、ここのちがい(国語の問題文として読む/哲学の文章として読む)は、あとのページを読んでみても、よくわからない。相手が哲学の文章なら、ちゃんと読めば、それは哲学の文章として読み解かれる、ということか。当たり前である。というか、当たり前のはずである。
 また本書では、いわゆる「赤本」その他、大手予備校の作成した模範解答も俎上にあげられて、その「誤読」が追求されたりもするのだが、目的は揚げ足取りではなく、著者は、解説者たちそれぞれの誤読が生まれた予断・偏見も足がかりにして、問題文によじ登っていく。
「確信犯的に馬鹿をやる」というのはよくある言い方だけど、ここにあるのは「確信犯的に真面目をやる」姿なのかもしれず、一文一文を指でたどるように読む著者は、模範解答の誤読ばかりか、さらには設問の作り方からうかがえる出題者の誤読もえぐりだし、あるいはそこに、自分のしていた誤読もぶつけることで、問題文から可能な限りの意味を引き出していく。
 問題文と対話するためには、何でも利用する。これはやっぱり変な本だと思う。変な本は楽しい。
(野矢茂樹の文章を読むところでは、設問のひとつが「解答不能」になってしまう。そこまでいくとちょっと感動さえするのだが、いちばん多い平凡な誤読は問題文を「人生論」として読んでしまう姿勢から生まれるもので、これは竹内康浩もずいぶん文句を言っていた。竹内本とこちらの本で、いちばん似ているのはそこである)

 本書のあとでは、出題者も、模範解答の作成者も、そしてもちろん受験生も、誤読の地雷原を歩いているように見えてくる。私はもう、今後一生、受験生になることはないはずなので、こんな感想を書いていられる。大人になってよかった。
 著者はこういう本を書いている人でもあるらしく、選ばれた問題のうち3題は時間を扱ったものだった。とりわけ永井均のが面白かったから、著者のものと合わせて読んでみたいと思った。



追記1:
 こないだ書き忘れていた。竹内康浩の本で唯一もの足りなかったのは、著者じしんは例の「第二問」の「解答」を示していないという点で、「第二問」はあくまで出発点だとしても、出発点なんだから最後に戻ってきて200字作文してみせてもいいんじゃないかと思った。もちろん、あれを200字にまとめるのは無理であり、その無理をどうにかする曲芸が見たかった、くらいのリクエストである。「自分でやれ」という話ではある。
 こっちの『哲学の誤読』では、各々の読解のまとめてとして、すべての設問に著者が解答をひねり出しているからその点もばっちりなのだが、エッセンスみたいな答えそのものよりも、そこまで煮詰めていく過程のほうがずっと面白いのはまちがいない(「傍線部のカタカナを漢字にせよ」にまで答えているのはギャグのようにも見えた)。
 だからなんだ、結局、どっちでもいいのだった。

追記2:
 中島義道の文章をもとに作られた問題(早稲田の第一文学部で出題)は、ほかの3題に較べるとずば抜けて簡単にできており、受験生にやさしいんだか逆にきびしいんだか、いかがなものかと思われる。著者も、設問が問題文のレベルと釣り合っていない、と苦言。
2008/09/08

竹内康浩『東大入試 至高の国語「第二問」』(2008)

東大入試 至高の国語「第二問」 (朝日選書 846)
朝日新聞出版


 げんなりするタイトルだがだまされてはいけない。
 というのは、私じしん、↓ここにある書評を読んでいなければ、この本が書店で並んでいても目が上滑りするか、目がとまっても、タイトルにげんなりするだけで終わっていたかだろうと思うから。
 
  紀伊國屋書店「書評空間」2008年08月11日(阿部公彦)
 http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2008/08/post_27.html

 ここに書かれてある通りで何も付け足すことはないんだけど、なんでも東大入試の「現代文」には、1999年まで、独特な200字作文の「第二問」があったという。何十年かぶんの過去問を定点観測するように見ていくと、そこでは、ちょっとどうかしているくらいに繰り返し繰り返し、「死」にまつわる文章が取りあげられていた。そこで著者は「第二問」を代表するいくつかの問題文と真剣に向きあい、問題を読みほどいていく。
 これだけ聞くと「なんだかなあ」という印象は否めないけれども、本書いちばんの勘どころを、上にリンクを貼った書評がきれいにまとめているので、孫引きになるけど以下にコピペしてしまう。

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