2008/08/30

吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(1937)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)
岩波文庫(1982)


 初版は1937年。「日本小国民文庫」という子供向け叢書の最終巻として刊行された。戦後も手が加えられ、この岩波文庫版はたいていのブックオフに置いてある。というのは、この本、中学・高校で読書感想文の課題図書に指定されることがすごく多いらしいのだ。そこで私も、8月末になって夏休みの宿題にとりかかる、そんなつもりで読んでみた。
 
 まずすごいのはタイトルだが、そのわりに主人公のあだ名は「コペル君」といって、なかなかキャッチーである。
 東京の郊外、お母さんとふたりで暮らすコペル君は、小さな中学2年生(旧制)。成績優秀、元気いっぱいで友達も多いが、「いたずらが過ぎる」ので級長に選ばれたことはない。お父さんのいないコペル君を見守る存在として、叔父さんがひとりいる。
[…]叔父さんは、お母さんの本当の弟で、大学を出てからまだ間もない法学士です。コペル君も、よく叔父さんのうちに遊びにゆきます。二人はたいへん仲よしなのです。人並み以上背の高い叔父さんと、小さなコペル君と、二人が並んで散歩しているところを、近所の人はよく見かけます。原っぱで二人がキャッチボールをしていることもあります。》p7

 小説は10章に分かれ、毎回まず、コペル君が身のまわりであったことを叔父さんに伝え、次に叔父さんがコペル君への手紙として長いコメントをよこす、というパターンで進む。
 なにしろこんなタイトルであるから、弱いものいじめはいけない、とか、先生の言うことはちゃんと聞く、とかいった道徳的な教えばかりが続くのかと思ったが、たしかにそういう話もあるものの、決してそれだけではない。
 だいたい、「へんな経験」と題された第一章からして意外なものだった。

 霧雨の降る日曜日、銀座にあるデパートメントストアの屋上から街を眺め下ろしていたコペル君は、人がゴミのようだ 何十万、何百十万という人間が、それぞれの意志を持って生きているということに思い至り、奇妙なおどろきに打たれる。
《コペル君は、何か大きな渦の中に、ただよっているような気持でした。
 「ねえ、叔父さん。」
 「なんだい。」
 「人間て……」
と言いかけて、コペル君は、ちょっと赤くなりました。でも、思い切って言いました。
 「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」》p16

 コペル君が説明しようとしてうまく言葉にできなかった感慨を受けて、その夜、叔父さんは手紙を書く。人間の社会を分子の集まりと見ること、そして自分もそんな分子の一つだと気付くこと、それは天動説から地動説への転換みたいな大きい発見なのだ、と。
(この日、それでもって「コペル君」というあだ名が生まれたのだった)

 つまり、叔父さんが教えることは単なる道徳ではなくて、いや道徳ではあるのだが、それはコペル君にとっての“あたらしい知識”とセットになって与えられている。
 甥の発見に、科学という知で裏付けをおこない、世界の見方を教育していく。そんな叔父さんの方法が新鮮に思えた。
 それでどんどん読んでいくと、叔父さんの影響で、コペル君はみずから発見の種を探すようになり、ある日、ついに大発見をものにする。叔父さんに会うのが待ちきれず、コペル君は大急ぎで手紙をしたためた。まとめるとこんな感じである。

 叔父さん、聞いてください。僕はすごい発見をしたのです。
 子供のころに僕が飲んでいた、粉ミルクの缶。いまでもお菓子を入れるのに使っているあの缶のことを、こないだ夜中に目がさめたとき考えました。
 あの粉ミルクは、オーストラリアで作られたと書いてあります。ということは、オーストラリアの牛から僕までの間には、牛の世話をして乳をしぼる人→工場に運ぶ人→粉ミルクにする人→缶に詰める人→鉄道に運ぶ人→汽車の人→港の人→船の人、さらには日本についてから荷おろしをする人→運ぶ人→売る人、広告する人、小売りの薬屋の人→薬屋の小僧、というふうに、長い長いリレーが続いていることになるでしょう。
 つまり、工場や汽車を作る人まで考えれば、何千何万という顔を見たこともない人たちが、粉ミルクの缶を通して、僕につながっているのにちがいありません。そして、これは粉ミルクだけの話ではなく、家にある時計も電灯も机も何もかも同じであって、どの品物のうしろにも、たくさんの人間がぞろぞろつながっているのです。
《だから、僕の考えでは、人間分子は、みんな、見たことも会ったこともない大勢の人と、知らないうちに、網のようにつながっているのだと思います。それで、僕はこれを「人間分子の関係、網目の法則」ということにしました。
 僕は、いま、この発見をいろいろなものに応用して、まちがっていないことを、実地にためしています。[…]pp87-8

 叔父さんからの返事はすぐに届いた。

 コペル君。発見をいちばんに打明けてくれてありがとう。君の手紙を読んで、僕は本当に感心した。自分ひとりであれだけ考えていったのはたしかに偉いことだ。しかし、あれを読んで、ぜひ君に考えてもらいたいと思ったことがあるから、いくつか申しあげるよ。
《君は、「人間分子の関係、網目の法則」という名前より、もっといい名があったら言ってくれ、と手紙に書いたね。僕はいい名前を一つ知っている。それは、僕が考え出したのではなくて、いま、経済学や社会学で使っている名前なんだ。実は、コペル君、君が気がついた「人間分子の関係」というのは、学者たちが「生産関係」と呼んでいるものなんだよ。》p89

 あ。
 巻末の解説で、丸山真男が念を押している。
《私は思わず唸りました。
 これはまさしく「資本論入門」ではないか――。》p312

 叔父さん、叔父さんは、そうだったのか。さっき、人間=分子の発見のところで、コペル君は「ちょっと赤くなりました。」とあったが、ここでもだいぶ赤くなっている。ときは1930年代後半。何かざわざわする。
 ――などと茶化したように書けるのは、いまが2008年だからであって、「大学を出てからまだ間もない法学士」である叔父さんが、ここからはじまる考えかたを、理想でも夢でもなく、地動説や万有引力と同等のあたらしい知識=人の幸福の裏付けとなる科学として、熱っぽく甥に語り伝えているのを見ると(叔父さんのレクチャーはじつに9ページ続く)、なんだか果てしない思いがするのだった。コペル君にとってたったひとりの叔父さんは、きっと何千人、何万人といたのだろう。

 この叔父さんを「真面目」とするならば、ひどく「不真面目」な態度でこの本を読んでしまったことになるが、『君たちはどう生きるか』というタイトルの大書された表紙をもういちど見るとき、むしろ私は、叔父さんはどう生きたのか、それが気になって仕方がなかった。そしてこの本が終わったあと、コペル君はどう生きたのか。
 皇帝暗殺者になる。それはまた別の話である。
2008/08/28

あたらしい

 黒田硫黄の新刊が出ていた。『あたらしい朝』第1巻。

 第二次大戦中、なりゆきで海軍に入ったドイツのワカモノが世界を経めぐる話、のようにはじまっているけど、この先どうなっていくのかはわからない。「水柱にはさまれた/次は当たるぞ」とか、山のような缶詰をゲットして大殊勲とか、そういう漫画。この作者は女の子が少ないままにはしないと思うが、さて。

あたらしい朝 1 (1) (アフタヌーンKC)あたらしい朝 1 (1) (アフタヌーンKC)
(2008/08/22)
黒田 硫黄

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 ふたりいるワカモノの片方が乗った仮装巡洋艦(ずるい)というのが面白いなあと思っていたら、第1巻の最後ちかくで艦は横浜にやってきて、現実の事件と接続されるのでおどろいた(→ネタバレ)。はやく続きが読みたい。

 それで、本人じゃないにしても本人に近い人がやっているっぽいブログ「黒田硫黄の仕事」に行ってみたところ、なんかすごいことになっていた。

◆2008年
8月22日…あたらしい朝 第1巻
9月22日…短編集「大金星」
10月…大日本天狗党絵詞<新装版>第1巻
11月…大日本天狗党絵詞<新装版>第2巻
12月…大日本天狗党絵詞<新装版>第3巻(完)

◆2009年
1月…茄子<新装版>第1巻
2月…茄子<新装版>第2巻(完)
3月…あたらしい朝 第2巻


 これはもう勝手な決めつけ以外の何ものでもないんだけど、私も含め、黒田硫黄が好きと公言しちゃうような人間は、たぶんおそらく『茄子』第1巻最後の「ランチボックス」に妙な思い入れがあるんじゃないかと思う。
 そういう人にしか通じない話だが、186ページで連発される擬音の数かずは、はじめて読んだときからあたまを離れない。
 
「コー モヘー」「ペケペケペ だん!」「しゃぐしゃぐしゃぐ」「ズリャ がちょい」「ビクッ」

 順に、女の子が眠っている→目覚まし時計で4時15分に起きてスイッチを切る→はんぶん眠ったまま米を研ぐ→外からドアの鍵が外されてノブが回る→女の子おどろく、というコマで発生している音なんだけど、こんな耳をしてるからこそ、そのあと女の子と男の子が河原でキャッチボールするときのものすごい会話が書けるんだなあと思った。

「有野兄は何してんの?」「銀行員」「まじ!/すごいなそれは」「すごいだろう」「何が?」

 ちなみに黒田硫黄は、5年前の「ユリイカ」で特集されたときに「作風はマイナーなのにネットで名前を検索するとすごくヒットするからメジャーだよね」みたいな話を振られ、このように受け流していた。
黒田 それはネットで日記を書く類の人にピンポイントで当たっているということで、それは全然メジャーじゃない(笑)。》

「ネットで日記を書くの人」というのが実にいい。
2008/08/21

「モンキービジネス」2008 Summer vol.2 眠り号

モンキー ビジネス 2008 Summer vol.2 眠り号
ヴィレッジブックス


 1ヶ月前の発売なので、もうネットのあちこちで言われているのを何度も目にしたし、目にしてないところでもさらに何度も言われているのだろう感想を、私も言いたい。すなわち、「表紙がすばらしい」。
 上のように画像で見るのと実物とでは色合いが少しちがうが、どちらもすごくいい。藍色の部分に書名の白いアルファベットが重なっているところは、不二家のミルキーに似ていると思う。自分ちにあるというのに、書店で平積みになっているとじっと見てしまう。私は大丈夫か。そんな人間の感想を以下に。


「眠っているのは誰(何)か」

 今号は「眠り号」ということで、巻頭は喜多村紀+きたむらさとし+柴田元幸の3人による鼎談。これが面白い。「夢」の特集ではなく「眠り」の特集なんだよ、とさりげなく注意がうながされて、「眠り」というのは〈わたし〉がいなくなっている状態じゃないだろうか、というあたりから話がすすむ。
 […]「眠っているのは誰なんだろう」と思い始めた。眠っているのは私なのだろうか、と。つまり、どこまでを〈わたし〉とするか、という問題でもあるんだよね。
 人間の活動や行動には随意と不随意とあるじゃないですか。そのうち、随意の部分を〈わたし〉だと考えるとすると、生まれてから死ぬまで、案外〈わたし〉というのは、不随意的なものもいっぱい含んだ肉体に寄生してるだけなんじゃないかと。
〈わたし〉は自分をコントロールしてると思っているけど、実はけっこう小さいものじゃないか。例えば、眠るときには、ある意味で〈わたし〉を捨てちゃうわけだし。》pp10-2

 喜多村&きたむらの2人(兄弟)は画家なので、“〈わたし〉の不在”を感じさせる絵があれこれ引用されて語られる。柴田元幸がL・S・ラウリーという人の絵(→こんなの)を「混んでるキリコ」みたいと評するのを読んだら、もうそうとしか見えなくなった。

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2008/08/15

帰京

■ 帰ってきた。月曜よりも2㎏増えた。実家のほうが涼しかった/暑かった、みたいな言い方をしがちだけど、そのあいだの東京の気温を体験してないんだから意味がないと思った。
 
■ 実家の本箱から発掘した、岩波文庫の中島敦『山月記・李陵』を帰りの電車のなかで読んでいた。この文庫本に入っている短篇、「悟浄歎異」が「モンキービジネス」第2号に掲載されていたのを読んで、むしょうに読み返したくなったので。
 この本、正確に高校2年の夏(ちょうど今ごろ)に読んだ、と思い出せるのは、もともと、その年の1学期に現国の教科書で「山月記」を読んで本屋に行ったからだった。素直な学生!
 こういうことをいちいちおぼえているのもどうかと思う。
 そのくせ、ほとんど記憶になかった「名人」という短篇も、再読したら面白かった。紀昌という男が弓の名人になろうと志し、当代一の名手・飛衛の門をたたく。
《飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込んで、其処に仰向けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡[まねき]が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。》p102

 こういうところをいちいち書き写すのもどうかと思う。

■ 好きで読んでいるブログ「空中キャンプ」の人が、わりと最近になって、岸本佐知子のエッセイをほめにほめている。
 これ(→2008-06-03)とか、これ(→2008-08-13)とか、ほかにもいろいろ。めろめろになっている。そのめろめろ具合はすごくよくわかる。
 とくに、このエントリ(→2008-08-07)にあった、
こんなにわけのわからないエッセイが書ける人は、日本にふたり、宮沢章夫さんと岸本さんだけである。

 これには「だよね!そうだよね!」と思わず興奮した。出された感想に全力で相づちを打ちたくなる、という興奮には格別なものがあると思う。めろめろになっているのは私か。

■ もうずいぶん前、はじめて「空中キャンプ」を読んだとき思ったのは、「この人はぜったい宮沢章夫のファンだ」ということだった。宮沢章夫の読者には、“文章まで似てくる”人が一定数存在する。面白い。
 ついでに書けば、どういう人かまだよく知らないころに岸本佐知子のウェブ日記(@白水社)を見たときには、「この人はぜったい筒井康隆のファンだ」と思った。それが事実なのはあとで知れたんだけど、ほとんど見た瞬間にわかったのである。ああいう直感はどこから来るのか――って、「文章から来る」のに決まっているのだが。ある意味おそろしいことである。
 あといちおう、いぜん書いた感想(→『ねにもつタイプ』)。
 
■ 岸本佐知子御大のエッセイは、ここで1本読めます。
  →「みんなの名前」(@筑摩書房特設サイト)

■ ネットにつないで、よく見るところの更新4日分をチェックして回ると、30分くらいで済んでしまった。すると、私は毎日、何にあれほどの時間を費やしているのだろう。
2008/08/11

読中日記(6)


■ リチャード・パワーズ『われらが歌う時』は読み終えた。読みながらひしひしと思ったのは、私が想像していた以上にオバマってすごいんだな、ということだった。
 
 まあ、そのことは「訳者あとがき」にも書いてあった。以下、ちょっとだけ内容に触れる。

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2008/08/06

読中日記(5)


■ 私を家まで乗せて帰ってくれる電車のホームに降りると、昼の落雷の影響で下り路線のダイヤが乱れまくっていた。運転再開から間がないらしく、やがてやってきた電車のなかは洗濯機の脱水槽みたいになっていたのであきらめて駅を出て(どうしてあれで人死にが出ないのか、こういうときいつも人間って頑丈だと思う)、ミスドで小一時間『われらが歌う時』を読んだ。


■ ネタバレにならないよう説明なしで書くと、読んでる私はどうせ「私」が作曲するんだろ、それで世界がひっくりかえるんだろ、と思ってページをめくっているのだが、さてどうなることか。下巻、350ページ前後からものすごくスピードがあがっている印象。時間の流れかたが変わり、場面も飛ぶように移る。
《声楽について私が持っていた知識はどれも間違っていた。ただ、幸運なことに、その知識はほとんどゼロに近かった。音楽についてこれまで学んできたことは何もかも忘れ去れ、とまではジョナは言わなかった。家を出て、学校に行くようになってから身につけたものだけを忘れればよかった。
 ジョナは私に口を開けと命令し、驚いたことに、あの音が私の口から出てきた。アンダンテで四拍ほどの長さだった。次にそれが八拍になり、さらに十六拍に延びた。それぞれの音を長く延ばす練習に丸一週間費やした。そして、翌週も同じ練習を続けた。その内、何週間練習していたのかも忘れるようになった。交互に発声し、音が混じるようにした。危なっかしい声音を兄の精確無比な声音に合わせるのが私の仕事だった。私が持っている音域全域をくまなく試した。別々の周波数がくっきりとしてきて、焦点が絞られてくるのを感じた。自然の力だった。明日を目指して私たちはユニゾンで延々と歌った。至福とはどういうことを言うのか忘れてしまった。
「何に驚いてるんだよ?」とジョナが言った。「できるに決まってるだろ。生まれ変わる前の世界では、毎晩こんな感じで歌ってたんだから」》下巻、p384

 ところで、私じしんはまったくの音楽音痴(←変な表現)なので、連日ここで引用しているような部分に正しく驚けているのか、ぜんぜん自信がない。
《楽譜ほど奇妙なものもないだろう。時間の指標なのだ。こんなにも突拍子もないアイデアを思いついた人物がいたなんて、ほとんど奇跡と言っていい。固定された指示を守ることで、同時性を再現できるのだ。流れを作る。その流れは運動であると同時に瞬間でもあり、連続体であると同時に断面でもある。あなたがそれをやっている間に、あなたとあなたとあなたは別のことをやっている。楽譜は旋律そのものを記録するわけではない。旋律の動くポイントとポイントの間の空間を記述するだけだ。そして、ある一つの曲が全体としてどのような総計に達するのか調べるためには、それを演奏する以外に方法がない。》p394

 ここでは音楽の話に重ねて――いや、音楽の話ですよね。それにしてもパワーズは真面目だ。今日は450ページまで読み、残りはあと100ページ。


■ ミスドを出て駅の様子をうかがうと、ふつうの満員電車程度まで回復していたので乗って帰る。隣の男性が読んでいた「AERA」の見出しのひとつ、「中国人のセックスを笑うな」というのはあまりにずるいと思った。
(よく見ると、この見出しには元ネタがそのまま入っている)

(6)
2008/08/05

読中日記(4)


英語青年 2008年 08月号 [雑誌]

■ 汗と雨に濡れて部屋に帰ると、こないだamazonで注文した「英語青年」2008年8月号(ミルハウザー特集)が届いていたので読む。雑誌じたいが薄いから、特集とはいえ小ぶりだが→目次、「揺らぎながら光を鈍く沈ませる空気」という佐藤亜紀の文章が面白い。最後まで読むとミルハウザーの書きぶりが見事に抽出されていて「なるほどなあ」と舌を巻くのだけど、じつは、そこにいたるまでの枕も読みどころである。こんなふうにはじまる。
《ケーブルテレビ局コメディ・セントラルでやっているアニメーション『サウスパーク』に、主人公たちの担任ギャリソン先生がその特殊な性癖故に職を追われ、小説を書き始めるというエピソードがあった――それもただの小説ではない。グレート・アメリカン・ロマンス・ノヴェルだ。
 そうか、と私は頷いたものであった。君らもあれはうざいと思ってたんだ。》p11

 ここから佐藤亜紀は、どうしてアメリカ作家は「偉大なるアメリカ小説」、アメリカについての小説を書きたがるのだろうという話を、ほとほとうんざりした調子で書き連ねる。あなたたちの祖国に対する関心なんてこっちの知ったこっちゃないよ、と、全体の分量の3/5がうんざりに費やされ、それに較べてミルハウザーは、と続くのだった。
《ピンチョンにしてもエリクソンにしても、リチャード・パワーズの果てまでが、延々とアメリカについて[…]語り続けているのは奇怪なことだ。》pp11-2

■ あはははは、と笑うのは、もちろん私がいまパワーズのアメリカ小説、『われらが歌う時』を読んでいるからで、まだ下巻の350ページくらいだから、もう数日間は、アメリカを描いて描いて描き続けるこの長篇を読んでいると思う。『われらが歌う時』は音楽の小説で、それと同じくらい、人種の小説だった。よもや、あのパワーズの小説を読んでいて、「おれはいまフォークナーでも読んでいるんだろうか」という気持になるとは予想していなかった。
《「子供たちには人種の壁を越えるようにと教えることにしました」
 父親が娘を振り返り、鼓膜が破れてしまったかのように、首を左右に振る。何か無慈悲なものが彼の頭の中にしみ込んできた。「またか?」
「四半世紀経つ頃には」とデイヴィッドが始める。黒人親子はどちらもそれを無視する。
「選択をしたんです」 どの単語も、ディーリアにとってさえ、過大評価されているように聞こえる。「それに名前をあたえたりはしない。それは、子供たちが自分でやるでしょう」 欲しいものなら何であれ。「皆が人種の壁を乗り越えた未来を念頭に置いて、子供たちを育てることにしたんです」
「壁を越えるだって?」 博士はその問題の言葉を、患者の症状を復唱する時のように、自ら発音してみる。「つまり、白人として育てると」》下巻、pp202-3

 あ、いや、ぜんぜんフォークナーには似てないな。何世代ものあいだ、周囲の「一滴でも黒人の血が混ざれば、子孫はみな黒人」みたいな圧力にぎりぎりと苛まれてきた一家が、音楽と物理学で小説を(世界を)ひっくり返す展開を期待して私は読んでいるのだけど、それは見たことのないタイプの「偉大なるアメリカ小説」を期待しているということでもある――のかどうか、つまり、読んでいる最中の小説に自分が何を求めているのかは、最後まで読んでみないことにはわかりません。
《[…]そのコレクションも一貫性がなく、あらゆるジャンルをカバーしていた。何らかの法則に従ってレコードを整理しているようだったが、私にはそれを見つけ出すことができなかった。数回目の訪問で私はついに降参し、正解を求めた。彼女は恥ずかしそうに笑うと、「幸せの順番に並べているの」と答えた。
 私は彼女のコレクションをもう一度見た。「曲がどれほど幸せかってこと?」
 彼女が首を振って「私をどれだけ幸せにしてくれるかっていう意味よ」と言った。
 「ほんと?」 彼女は申し訳なさそうにうなずいた。「並べかえたりはするの?」と言って私はさらにもう一度コレクションを見遣った。見る見るうちに、コレクションが彼女の心の動きを実録する巨大なヒットチャートに変化した。
 「もちろん。取り出してかけるたびに、別の場所に戻すわ」
 これまでも彼女がレコードをかけるところを見てきていたが、それは完全に見逃していた。私は笑い声を上げ、私の笑い声の効果を彼女の顔の上に発見するや否や、自分を呪った。「でも、どうやって探しているレコードを見つけるわけ?」
 気が狂っているのかと言わんばかりの表情で、彼女は私の方を見た。
 「ジョゼフ、自分が好きなもののことはちゃんと分かっているわよ」》下巻、pp231-2


(5) (6)
2008/08/04

読中日記(3)


■ 自分でもよくわからない何ものかに義理立てする気持で「日の出ているあいだはクーラーをつけない」ことにしているのだが、さすがに今日はしんどかった。煮える。あと少しで日の沈む夕方6時ころ、先に私の意識が沈んだ。3時間後、畳のうえでぐだぐだになって目覚める。自己満足も皆無なので、つぎの週末は朝からキンキンに冷やしたい。

■ そんななので、パワーズ『われらが歌う時』もあまり進まず。下巻の半分くらい。黒人女が白人男と結婚するに際し、「私」たちの両親に立ちふさがった問いが、数十年して「私」の前に戻ってくる、みたいな書きかたに翻弄される。妹がああいう方向に進むとは意外だった。父親がそっちの仕事をしていたのは予想通り。
「私」の兄がメトロポリタン歌劇場のオーディションを受ける数ページには、ちょうど、歌声を「ものすごく書く」のと「思い切り省略しちゃう」書きかたの両方が並べられていた(当然、引用は前者の方が長くなる)。
《そこで、あの媚薬のような声音がまたもその効果を発揮した。兄の口から何かが出てきた。このようなものが兄の口から出てくるのを聞くのはこれが初めてだった。八小節歌ったあたりだったが、ジーナ・ヒルズは歌詞の途中ではっと悟ったようだった。[…]ジョナは彼女に魔力をあたえ、彼女はそれをジョナから受け取った。ジョナの引力に誘われて、彼の軌道内に入っていった。歌い始めた時、二人はピアノを挟んで、五メートルほど距離を置いたところに立っていた。四分ほど経過した頃には、二人はうっとりとした表情で相手に見とれながら踊り始めた。彼女はジョナに手を触れようとはしなかったが、触れたいと思っているかのように手を差し伸べたり引っこめたりした。[…]二人の間の最後の距離をジョナは敢えて詰めようとはしなかった。数人の聴衆を前に、白昼堂々、最も危険なタブーを犯そうとしているのかもしれない、と考えるだけで彼女の声はさらに色気を増した。
 ジョナは最初は楽譜を見ながら歌っていた。しかし、場面が怒濤のごとく進行するに従って、徐々に楽譜から目を離して歌うようになり、最後には楽譜など放り出してしまった。ジーナ・ヒルズが高音の長丁場に突入し、彼女の顔が紅潮した。ジョナの荒波のような声は勢いをぐんぐん増していき、ついには、周囲にいる人々は彼らの世界から消え去り、彼らは二人きりで、裸のまま宙を舞い、人間の肉体に可能な、最も崇高な形態に欲望を昇華した。時は一九六七年。いみじくも最高裁が、ジョナはこのイゾルデと同じ肌の色をした女、父と同じ人種に属する女と結婚してよいという判決を出した――全米三分の一の州ではいまだに非合法だったが――年にあたった。》下巻、pp101-2

《ジョナと私はいつものように所定位置に着いた。何度も繰り返してきた動きなので、私は思わず客席に向かってお辞儀しそうになった。ジョナは当たり前のように芝居じみた感じで私の方を振り返ると、こちらを見つめ、息を吸い込み、知覚できないほどわずかに宙に浮き上がると、表の拍子に合わせて、私の手を握り、あそこへ行ってしまい、「時間が静止」した。そして、この曲が名指しする沈黙の中へ帰還して、演奏を終えた。私はピアノの蓋を軽く叩いて、クリスピン・リンウェルを見た。彼は涙目になっていた。私の人生よりも長い歳月にわたって、喜びのために音楽を聴いたことがなかったこの男は、三分間だけ、自分がどこからやってきたのかを思い出していた。》p103

 どっちが好みかといったら、私は後者の「書かないことで、書いちゃう」方にゾクゾクするものだけど、考えたら、前者も歌声を書いているわけではないのだった。当たり前か。


■ 昼ごはんも夜ごはんもそうめんにした。スーパーで138円の「九条ねぎ(刻み)」を買ったらそれだけでおいしいのでおどろく。「九条ねぎ」は「きゅうじょうねぎ」ではなく「くじょうねぎ」と読むのをさっき知った。当たり前か。

(4) (5) (6)
2008/08/03

読中日記(2)


■ パワーズ『われらが歌う時』は、上巻を読み終えて、いま下巻の50ページくらい。金曜の深夜から、調子に乗って朝6時まで読んでいたら、そのあとちゃんと寝たのに土曜の残りはもうずっと眠くて眠くて、あたまのなかに中途半端に水でこねた小麦粉を詰め込まれたような気分だった。
 上巻の後半は大いに盛り上がり、372ページで終わっていても納得できるんじゃないかというくらいに高揚したが、まだまだ小説は続いていくわけなので茫然とする。一家を見舞う最大の不幸。ジュリアード音楽院。予選と本選。伴奏する「私」と歌う兄の家の外ではローザ・パークスがバスの席に座り、キング牧師もあらわれ、下巻のあたまではロサンゼルスが燃える。いっぽうの過去パートでは父親と母親が出遭い、ヒトラーがポーランドに侵攻する。いやいやいや。音楽を文章で描写するところがたくさんあるわけだけど、たとえば以下のように、どうかしているとしか思えない。
《[…]そこでウィルが頭をぴくっと動かし「それ行くぞ、ミックス!」と言ったと思いきや、いつのまにか、彼の指は底なしの空間へ急降下していった。そして、哀調を帯びた細長いメロディを解きほぐすと、その奥に隠されていた中身を取り出してきた。
 私にはウィルの指さばきが残らず見えたし、彼が築き上げていく音も一つ一つはっきりと聴くことができた。オリジナルの譜面には存在していなかったのだが、しかし、地中海人がいない世界においては存在していてもおかしくない、そんな音結合群をウィルの指が構築していった。ウィルの和音の芯はロドリーゴが元になっていた。しかし、目が見えないあのロマン派作曲家にはこのような和音など思いつかなかったはずだ。ウィルが繰り出す旋律は原曲と根っこのところで繋がっていたが、彼の手は吟遊詩人が作曲したテンポの遅い旋律を別の方角に向けた。曲の軌跡はイベリア半島から遠く離れた土地めがけてねじ曲げられて、大西洋奴隷貿易の航跡を辿っていった。彼はある日の午後いきなり玄関口に姿を現した、自分とまったく同じ目鼻立ちの異母兄弟のように、あの甘ったるい懐古趣味の旋律に正面から対峙した。[…]
 自分でも情けない紋切型のメロディしか演奏できていないということが分かっていた。私は無難な漫画的旋律を求めて左手を伸ばした。ウィルの指からほとばしり出る音楽が黒人霊歌だとすると、私のは寄席演芸だった。ウィルはイベリア半島をぱっくり二つに割り、そこに迷い込んだムーア人を残らず解放していった。私はジブラルタル海峡のまっただ中で溺れないようにしながら砂洲か流木でも見つからないかと辺りを見渡していた。ものすごい音を立てて即興していくウィルは、暗くて入り組んだ場所に入り込んでいった。[…]》上巻、p322-3

 とくべつ大仰に見えるところを選んでみたが、それにしたって「書きすぎ」というか「書けすぎ」じゃないか。そして本当に笑うしかないのは、兄の歌声を描写するところだけど、そっちは切り取って引用するのがむつかしい。あと、父親の時間理論。
《「今」という瞬間が複数存在するなら、「あの時」という時間も複数存在しなければならない。しかし、この日曜日―― 一九四九年春――はしっかりと存在している。私は七歳だ。私が会う前に死んでしまった人々を除いて、私が愛している人たちはまだ健在だ。》上巻、p283

 こちらはまだ何の話かさっぱり。たぶんこれが梃子になって作中の時間の流れがミックスされ、その影響は読んでる私にもおよんじゃったりするんだろうとは思う。


→「工事中の8階から生コン、直撃の会社員大けが」
 この事故、変な言い方だが、事故の発想がおそろしい。「こんなことが起きたら嫌だなあ」という想像がまさしくほんとになったというか。

(3) (4) (5) (6)
2008/08/02

読中日記(1)


■ リチャード・パワーズの『われらが歌う時』を、上巻の半分くらいまで読んだ。この本、ぱっと見ではそんなに厚くないんだが、薄い紙を使っているので上下巻ともそれぞれ500ページを越えている。
 今回の主役になる一家の、父親はユダヤ人で母親は黒人。そこに生まれた天才的な歌声をもつ長男と、それにくらべれば凡庸な次男(語り手)の音楽人生がアメリカの60年代を通して語られていくのと並行し、両親の若いころの時代もたどられる。この語り口、なんだかもう横綱相撲だと思われたことである。「私」はときおり回想している時点を飛び越えて悲しい事実をこぼすからどきどきしてしまう。ここまで読んだところでいちばんベタにすごいのは、若かりし母親が音楽学校の入学試験を受けに行った148-9ページだったろうか。アメリカすげえ。「私」たちのまだ小さい妹も、これから活躍しないはずがないので期待する。つまりは家族の歴史が国の歴史に重ねられていくんだろうけど、物理学者である父親がかたわらで「時間は存在しない」とかつぶやいているので気が抜けない。どんな重ねかたを見せてくれるのか。しかし、ときどき別の本やネットでいろいろ確認しながらなのでなかなか進まず。この週末で読めるのかどうか。大急ぎで読んでしまうのがいいことなのかどうかも謎である。


■ 研究社の「英語青年」8月号が、ミルハウザー特集なのをさっき知った。
 
英語青年 2008年 08月号 [雑誌]英語青年 2008年 08月号 [雑誌]
(2008/07/09)
不明

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↑「不明」て。研究社のサイトにあった目次はこちら。佐藤亜紀! そういえば2008年4月号の『ロリータ』特集はまだ買えるのか→目次)。amazonだと売り切れなんだが。

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