趣味は引用
千年のろい歌

 タイトルに意味はない。なんか更新していなかった。理由その1。先々週あたりからバルガス=リョサの『緑の家』(新潮文庫)を読みはじめたが、生活に創意工夫の才を欠くため電車のなかぐらいしか読む時間がとれなくて、ぜんぜん進まなかった。きのう読み終わったからいまこうして書いている。理由その2。創意工夫の才を欠(以下略)


■ そんなある日の電車、むかいの席に白い帽子と白いシャツ・黒い半ズボンの制服を着た小学生が座っており、次の駅で、彼のとなりに母親の手を引いた男児が座った。男児、小学生に興味津々な様子で突如話しかける。
「ねえ なんさい? ぼく よんさいだよ」
何という社交性。小学生の緊張が伝わってきて車両内の温度が上がった。
「…8才」
母親は笑っていたが、男児のほうは追及の手を緩めない。
「じゃあ、くるまのうんてん できるの?」


■ 黒田硫黄の新刊(2ヶ月連続)

 http://kurodaiou.blog57.fc2.com/blog-entry-44.html
 (ファンサイト「黒田硫黄の仕事」
というわけで、「あたらしい朝」単行本第1巻は来月発売です。
9月発売の短編集「大金星」も、多様な雑誌に載った多様な短編が詰まった濃い一冊になりそうです。ご期待下さい。

 ネットを見てて欲しくなったものがプラス数回のクリックで手に入るこのご時世、これだけ待たされる体験はむしろ貴重ではないかと思うことにするほどに、私は待っていた。ところで、あのブログを書いてるのはだれなんだ。


■ それでも「崖の上のポニョ」は見た
 
 賛否両論って、ふつう「賛」の人と「否」の人に分かれるということなのだろうが、ことこの映画に関しては、私のなかで賛と否が入り乱れている。いまだ落ち着かず。
 自分で見るまでは何の情報も欲しくなかった人間なので、一応下に隠す。
のろまな子
■ 先週末からカゼをひいていて、これが治らない。カゼひくことじたい4、5年ぶりで、かえってそれがよくなかったのだろうか。体がカゼの治しかたを知らないような。いまも咳が止まらず、ガラガラうがいをしている最中にも咳が出て、鼻の奥がツンとなってプールに思いを馳せたりしている。水道水でも不思議と同じ感覚がするのだった。
 
■ ゲホゲホいいながら、そろそろ出るはず、と本屋に向かい、たしかに出ていたトマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』の新装版(ちくま文庫)を手に入れた。旧版より値段は200円ちょっと上がっている。
 amazonだと書影がないので、筑摩書房のサイトにリンク。どういう表紙だよ、と思ったが、これも旧版と同じく、大竹伸朗の作品を使っている(旧版の表紙も左下で見れる)。
 → http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424563/

 そもそも『スロー・ラーナー』は、ピンチョンが作家見習いの時代に書いた短篇小説5作(「小雨」、「低地」、「エントロピー」、「秘密裡に」、「秘密のインテグレーション」)に、書き下ろしの序文をつけた本で、原著の出版は1984年、つまり73年に『重力の虹』を出したあと、ながい沈黙を続けていた時期に発表されたわけだから、もう想像するしかないのだが、当時の読者のおどろきと当惑はいかほどのものだったんだろう。結局、小説の新作は、さらに6年後の『ヴァインランド』になった。

 今回の新装版には、あたらしい「解説」がついており、それが(1)高橋源一郎、(2)宮沢章夫、の2本立てだった。どんなサービスかと思った。これは買うだろう。
 もっとも、なかば予想していたが、源一郎氏の解説は、数行の付記はあるとはいえ、『スロー・ラーナー』の単行本が出版された際に筑摩書房のPR誌「ちくま」に掲載されたものの抄録だった。
 これは「ピンチョンのもう一つの顔」という題の名文で、私は『タカハシさんの生活と意見』で読んだのだが、それがきっかけで本屋へ『V.』を探しに行ったのだった。そのご、古本で単行本版『スロー・ラーナー』を買ってみたら、この文章は挟み込みの栞として再録されていたのだから出版社の人もよほど気に入ったんだと思う。すごくやさしい文章なのだ。
 その解説文のなかで、源一郎氏が「『スロー・ラーナー』の最大の読み物」かもしれない、というのは、ピンチョンじしんによる「序」だった(みんなそう言う)。それぞれの作品を書いた当時の空気を濃密に書き込み、自分のもっていた関心とねらいを詳述したうえで、それをいまの目からきびしく批評していく、たいへんに饒舌なピンチョン文体の30ページになっている。
《「小雨」では登場人物たちが大人になるまえのやり方で死を扱っている。彼らは避ける。遅くなってから寝る。婉曲な言い方を探す。死ということを発言するときには、ジョークと混ぜて言おうとする。最悪なのは、それをセックスと結びつけることだ。お気づきになるだろうが、話の終りに近く、ある種の性的な出会いが起こるように見える――テクストから全くわからないことだが。言語が急にあまりに凝ったものになって読むに耐えない。》

《[…]ぼくらはさまざまな方角から刺激を受けていた――ケルアックとビート作家たち、『オーギー・マーチの冒険』におけるソール・ベロウの語法、ハーバート・ゴールドやフィリップ・ロスのそれのような新しい声――それで少くとも二つの全く別な英語がフィクションにおいて共存を許されることを知った。許される! こんなふうに書くことがほんとにOKなんだ! 何ということだ! その効果は刺激的で解放的で猛烈に肯定的だった。それは、これか/あれかの問題ではなくて、可能性の拡大だった。ぼくたちは意識的にいかなる総合を求めて模索することもしなかったと思う――すべきだったかとも思うが。》

《ぼくらは過渡期の一点にいた。文化的時間の奇妙なポスト・ビート的推移である。ぼくらの忠誠を誓う方向は分裂していた。[…]ぼくらは見物人だった。パレードは行ってしまったあとで、ぼくらはすでに何から何までまた聞きで知ろうとしていたのだ。当時のメディアがぼくらに提供しているものを消費するのだ。だからと言ってぼくらがビートの姿勢や小道具を取り入れないということにはならなくて、結局はポスト・ビートとして、アメリカ的価値観についてぼくらがみな信じたいと思っていることを、やはり健全に、立派に肯定する、その確認がいっそう深められるようになる。》

 宮沢章夫の解説は、完全な書き下ろし。「速度の内側から見る世界」という、こちらも不思議な題になっていて、しかし最後まで読めばこの比喩が、どうしてピンチョンの小説は変なのかという素朴すぎる疑問への適切な答えに思えてくる。ピンチョンがロードランナーとワイリーコヨーテのコンビに執着するところに宮沢章夫は注目しているが、この偉大なコンビが登場する小説といえば源一郎氏の『優雅で感傷的な日本野球』であるわけで、あれもまた「速度の内側から見る世界」だったかもしれない。

■ で、その宮沢章夫の「富士日記2.1」を見に行って、唐突な知らせにおどろく(「July. 9 wed.」分)。いくらなんでも働きすぎだったんだと思う。一読者として、ほんとお大事にと思うのだった。「宮沢章夫」の名前も知らなかった私が最初に古本屋で『牛への道』を買ったのはいったいどうしてだったのかわからないが、むちゃくちゃ面白いエッセイじゃないかとおどろきながらどんどんページをめくっていったらとつぜん『重力の虹』の書評が出てきてまたおどろいたのだった。まったく、なんでもかんでもつながっている。
 
■ 『スロー・ラーナー』、訳者である志村正雄の「解説」は旧版にさらに手が加えられているようで、私はこの人の丁寧で生硬な文章が好きだからこれもうれしい。で、中身の短篇はこれから読む。まえに読んだときの印象では、解説で志村氏からいちばんの低評価を下されていた「秘密のインテグレーション」が、私はいちばん気に入ってました。



タカハシさんの生活と意見タカハシさんの生活と意見
(1996/05)
高橋 源一郎

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優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)
(2006/06/03)
高橋 源一郎

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牛への道 (新潮文庫)牛への道 (新潮文庫)
(1997/04)
宮沢 章夫

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イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』(1982)
espiritus

木村榮一訳、国書刊行会(1989)

《バラバースは海を渡ってわたしたちのもとにやってきた、少女クラーラは繊細な文字でそう書きつけた。その頃から彼女は、なにか大きな事件が起こると、ノートにつけるようにしていたが、その後誰とも口をきかなくなると、日常の些細なことも書きとめるようになった。それから五十年後、わたしはそのノートのおかげで過去のできごとを知り、突然襲ってきた不幸な時代を生き延びることができたのだが、当のクラーラは自分のノートがそんなことに役立つとは夢にも思わなかったにちがいない。バラバースがやってきたのは、聖木曜日のことだった。》p7

 手を触れずに物を動かしたり屋敷に住む精霊と話したり、超常の力をもつクラーラと、その家族の話からはじまる『精霊たちの家』は、奇想天外なエピソードが洪水のように流れ込む日常生活を語り継いで、家のなかから外へ外へと広がり、クラーラの娘、さらにその娘へと3世代をまたいで、何十年と続いていく。それでも、最後まで家族の話である。
 読みはじめるなり無茶苦茶おもしろく、めくってもめくってもおもしろいのでおどろいた。時間さえ許せば一息で読める、そんな気がした。実際には、おもに電車のなかで1週間かけて読んだ。
 
 もの静かながら、おそろしく芯が強いクラーラを筆頭に、その結婚相手で、粗野で短気でエネルギーの固まりのようなエステーバン・トゥルエバや、それぞれの親、兄弟姉妹、乳母、使用人そのほか一族郎党を巻き込んで、次から次に、あちらでもこちらでも、さまざまな騒動が起こる。そのすべてがパワフルで、「いや、待てよ」と立ち止まる間もなく非現実になだれ込む。そんな進みかたであっても、なおかつ、次第に時間は流れ、クラーラは徐々に表舞台から退いていく。
 登場人物が年をとり、世代交代がなされる、ということにしみじみしてしまったのは、彼女があまりにいいキャラだったからだろう。10歳にして「もう誰とも口をきくまい」と決心し、9年のあいだ沈黙を続けたあとでようやく発した言葉が「近々結婚するわ」だった、という1エピソードだけでもおなかがいっぱいだが、それはほとんど、この小説の序章にすぎない。以下は、中盤で彼女が「市内の地図を床の上に広げ、振子を三十センチのところでゆらゆら揺らしながら義理の姉の居場所をつきとめようと」する場面。
《[…]午後のあいだずっとその方法を試みたが、分かったのはフェルラがまだ住むところを決めていないということだけだった。振子では居場所をつきとめられないと分かったので、本能に頼って馬車を走らせて捜してみたが、これもうまく行かなかった。三脚テーブルにも相談してみたが、入り組んだ市街のどこかにいるフェルラのところまで案内してくれるような導きの精霊は姿を現わさなかった。念力で呼びかけても応答はなかったし、タロットカードを使ってもはかばかしい結果は得られなかった。そこで、ごくありふれた方法を用いてみることにした。女友達のあいだを捜しまわったり、御用聞きや彼女と付き合いのあった人たちに尋ねてみたが、あれから一度も見かけていませんね、という返事しか返ってこなかった。》pp132-3

 太字にした箇所以降に私は笑った。最初にやろうよ。
 2段組みで400ページを越える長篇だが、要所要所でクラーラが一族に関する「予言」をつぶやき、語り手も「その意味が明らかになるのはこれから○年後、□□が××したときだった」みたいに煽ってくれるので、そのたびに本の長さが引きしめられるようだった。なるほど予言ってこういうふうに働くのかと思った。
 それにまた、彼女をはじめその娘ブランカ、孫アルバという女性3人の人生遍歴が中心になっているために、じゅうぶん1冊の長篇の主人公になれそうなエステーバンが、あくまで「クラーラの夫」、「ブランカの父」、「アルバの祖父」として、距離を置き眺められるように描かれているのもおもしろい。
 クラーラと結婚するより前から、エステーバンは自分の地所の開拓に心血を注ぎ、農場として発展させる。ここの小作人たちと彼とのあいだのいざこざは何度も繰り返し語られて(ボルシェヴィキどもめ、と彼は怒り狂う)、つねに強権を発動する地主の姿に笑わせられるのだが、後半にいたって様子が変わってくる。
 もともと、南米の一国を舞台に、破天荒な人物と何かを突き抜けた挿話の大盤ぶるまいでありながら、はるか遠くのヨーロッパで戦われた二度の大戦についても言及があるというふうに、『精霊たちの家』は、幻想の一方で現実の歴史にも片足を置いている。エステーバンが保守党の議員として国政に加わるあたりから、小説は急角度で歴史へ向かっていく。そうなる前、この小説の基調になっているのは、これくらい奔放な書きぶりだった。
《[…]入り組んだ道を通ってこっそり国境を越えてやってきた何組ものインディオたちがジャン・ド・サティニのために働いていたのだ。彼らは、身分証明書のたぐいはなにひとつ持っていなかったので、人間であるかどうかも分からなかったし、口数がすくなく、粗暴で、何を考えているか分からないところがあった。》p247

 後半になると、これとほとんど変わらない筆致で、政治・革命・民主化・弾圧・拷問などなどが怒濤のように描かれていくのである。夢のようなヴィジョンに代わって、陰惨な火の手があがり、実際に発生する(それに幾つも発生する)苛酷な出来事の前に、精霊の力はほとんど無力である。
 ここを書くために前半があった、と読んだらあまりに失礼だろう。正直、私は本篇のあとの「訳者あとがき」を読むまで、作者のイサベル・アジェンデが南米は南米でもどこの国の人で、どんな家柄だったか知らなかった(ウィキペディアにだっていくらか書いてあるのに)。そんな人間にも、家族の話が、家族の話のまま国の話になっていく、これだけの物語を夢中になって読ませるのだから、小説というのはおもしろくて危険なものだとつくづく思った。
イランと鰐

 駅を出て、何も考えずに煙草の自販機にお金を入れてボタンを押したら「taspoでタッチしてください」。買えず。タスポ効果的だよタスポ。
 
 そんなこととは関係なく、先週、早稲田松竹で見たアニメ2本のこと。
「ペルセポリス」と「カフカ 田舎医者」。土曜日(6/28)とはいえ、午前中からけっこうな入りだった。私も行ったわけだし。
 
 まず「ペルセポリス」(2007)
 何の予備知識もなかったが、これは、イラン生まれでいまはフランスに住んでいる女性が描いたコミックを原作とする、自伝アニメだった。公式サイトがここにある。感想…… 立派な半生だった。

 次に「カフカ 田舎医者」(2007)
 これも知らなかったんだが、「田舎医者」だけでなく、山村浩二傑作選だった。映画館の紹介ページくらい読んでから行け、という話である。

 上映されたのは「校長先生とクジラ」、「頭山」、「年をとった鰐」、「子供の形而上学」、そして「カフカ 田舎医者」。
 ぐるんぐるん絵が変容していくほかの作品に対し、唯一、紙芝居っぽかった「年をとった鰐」が、いちばんの衝撃。原作は有名な絵本で、有名だけど未読(→これ)。
 とにかく、鰐の動きがすごかった。長い胴体の前後にひと組ずつ短い脚がついている、そんな動物の身の運びが、ごく少ない(たぶん)絵で表現される。あんなものやこんなものを口に入れ、アゴを動かす鰐。体の向きを変える鰐。岩に登る鰐。そして蛸。
 誤解されるかもしれないが、「こんなにエロくていいのだろうか」と考え込んだ。“声優”ではない“朗読”に、ピーター・バラカンを選んだセンスにも敬服する。
 鰐のショックが冷めないままだったので、「カフカ 田舎医者」は、DVDでもういちど見直したい。TSUTAYAにあるんだろうか。
 早稲田松竹での上映は7/4(金)まで。


「年をとった鰐」&山村浩二セレクト・アニメーション   カフカ 田舎医者
現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ

 6/29(日)、東大の本郷キャンパスまで行ってきた。小雨。

 (このイベント→ http://www.l.u-tokyo.ac.jp/genbun/latinamerica.html

 会場は階段状の大教室だったが、開演15分前に入ってみると、8割がた埋まっている。はじまってからもポツポツ人が入って、結局、ほぼ満員になった。学生が多かったのかどうか。年齢も国籍もいろいろだった模様。

 第1部は野谷文昭+桜庭一樹の対談。
 休憩後の第2部では、この2人に沼野充義・柴田元幸が加わる。
 
 前半は、『赤朽葉家の伝説』の作者としての桜庭一樹に、野谷文昭がインタビューするような感じで進む。野谷文昭、壇上にあがってマイクをいじりながら最初の一声が「フィデル・カストロという人をご存じですか?」だったので笑った。そんなのありか。
 私は『赤朽葉家』を読むのが間に合わなかったので(先週はアジェンデ『精霊たちの家』を読むのでタイムアップ)、聞いてしまっていいのかという気もしたが、どうだろう、熱烈な桜庭読者であれば「もう知っている」話が多かったのじゃなかろうか。私には面白かったわけだが。辺境(南米)から都会(ヨーロッパ)に出て、外からの視点で故郷を再発見する、という構図を、鳥取 → 東京に重ねる話が何度も繰り返されていた。
 南米小説の特質とは、みたいな突っ込んだ話にはあまりならず(そうなると私はついていけなくなるし)、あれらの小説を読んで、こういう書き方もありなんだ、と教わってきたという桜庭一樹の読書遍歴など。
「じつは、ヴァージニア・ウルフも勝手に南米の抽斗に入れている」という発言が「それは正しい」とお墨付きをもらっていて、さすがだと思った。
(たしか、ガルシア=マルケスはかなりウルフを読んでいたとか)

 第2部も、マジックリアリズムという言葉は研究書ごとに定義がちがうから深入りしないようにしましょう、みたいな姿勢で進む。南米と言ってもいろいろあるわけだが、限られた時間では(それに、私みたいな一読者も参加できる開かれたイベントであるからいっそう)、『百年の孤独』はやっぱりすごい、という話に終始した感。あの無茶苦茶に有名で、さんざん引用されてきた冒頭の一文、
《長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。》

 柴田元幸がこれを取り上げて、いきなり「長い歳月」を設定するこのような書き出しは、北米の作家にもイギリスの作家にもできない、みたいなことを言っていて面白かった。この発言があった途端、まわりの人たちが揃ってノートにメモっていたのも面白かった。

 桜庭一樹が、読者には海外小説を読むような気持で自分の小説を読ませたい、日本を舞台にしても、それを外国のように見るだろう未来の読者に向けて私は書いている(大意、ちょっとちがっているかも)みたいなことを言っていたのを受けて、質疑応答で、壇上の教授3人に「翻訳するときは未来の読者の目を意識しますか?」という質問が出た。「翻訳者は現代の読者しか考えません」(たしか沼野充義)。
 それでも、現代の言葉をばんばん使うかというとやはりちがって、20年だか30年は残ると思われる言葉だけ吟味して使うという方針を立てている野谷文昭は、口語表現の多い作品を訳した際、「ウザい」「キモい」を使いたくなったがそこはぐっと抑え、ただし「マジで?」だけは使ったという。「あれは残ります」。なるほど。

 あと、読む速さにけっこうちがいが出る『百年の孤独』と『族長の秋』で、書く速さはどれくらいちがったのか、とか、ガルシア=マルケスの何がすごいって、まだ生きてるのがすごい(南米は神話になるのも速いのか)、とか、変な小説を書くうえで辺境 → 都会の移動が必須のわけではなく、たとえば岸本佐知子を見ろ、とか。最後に、4人それぞれがお気に入りの南米小説から一部を朗読して終了。雨はまだ降っていた。
 
 東大は広かったがトイレは小さかった。休憩時間、一緒にさまよって別のトイレを見つけてくれた男の方に感謝。とりあえず私は、買ったまま部屋に積んである南米小説を、月に1冊くらいは読んでいこうと思った。