2008/06/26

最近のメモ


 雨の日曜日、ひさびさにモスバーガーに行ってみたら、入り口をまたぎ越えた瞬間、幼稚園のときの「おべんとうのじかん」の匂いがした。すぐにソースとタマネギの匂いで消えた。
 嗅覚が引き金になって、あたまのなかの“開けると面倒なことになる扉”が開きかけることがたまにある。この時期だと、そろそろ「蚊取り線香の匂い」もそういうトリガーのひとつだ。でもそれは毎年よくあるので、危険も少ない。
 ときどき、住宅地を歩いていて、知らない家の玄関から「小学生のころの、友達の家の匂い」がしてくることがある。あれはそうとうに危ない。あと、改築している家のまわりで塗料の匂いがするときも、何かものすごく懐かしいものが、あたまの扉から引っぱり出されてくるような感覚がする。忘れていた記憶が出てきそうになる、というのともちがう。もっとかたちのない、大きなものが奥から出てくるというか、逆にそっちに飲み込まれそうになる気がする。まわりの音が遠くなる一瞬。私は子供のころ何をしていたんだ。


■ 青山ブックセンターの、岸本佐知子+川上弘美対談に、行きそびれる

これこれ。→ http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200806/2008622.html
「いっそ立ち見でも」と意気込んでいたくらいなのに、6/22の日曜、気がつくと時計が午後2時半を指していてあきらめた。それからモスバーガーに行ったんだった。


■ どんな踊り子
 
“文豪の名作”ד人気漫画家”! 川端康成『伊豆の踊子』の表紙カバーを、荒木飛呂彦先生が手掛ける!「@ジョジョ」の「2008年06月22日」より)

それはどうだろう。小畑健はこの仕事で食っていけると思う(というか、食うだけならもう仕事しなくていいのか)。これが公式:→「集英社文庫夏イチ2008」
集英社からは出ていないのかもしれないが、荒木飛呂彦には『蟹工船』の表紙を依頼したらどうだろう。「おい地獄さ行ぐんだで!」 ゴゴゴゴ……


■ 榎本俊二『えの素』(講談社)の、完全版が刊行開始

取り急ぎ、6/23(月)発売の「上巻」→amazonを買ってきた。小ぶりの判型。近所の本屋では入り口に平積みだった(それもどうか)。
7/23(水)に「中巻」、8/22に「下巻」の予定。じつは、単行本通常版のおわり2冊を買い損ねていたので素直にうれしい。


■ リチャード・パワーズ!

「悪漢と密偵」「20080619」から。
新潮社 『われらが歌う時 上』 リチャード・パワーズ/高吉一郎訳 7/- \3,360
新潮社 『われらが歌う時 下』 リチャード・パワーズ/高吉一郎訳 7/- \3,465

てっきり、みすず書房が一手に引き受けていたのかと思った。たしかにすごい不意打ち、すごい値段だ。それにしても新潮社か。ずっと待ってるんだけど、ドン・デリーロ『アンダーワールド』の文庫化はまだなのか。
みすず書房は、2000年刊のガイド本、『パワーズ・ブック』で拾っているGain (1998)までを出すのかもしれない。『われらが歌う時』(The Time of Our Singing)は2003年刊の模様。
あと何、佐藤亜紀も新刊だって!?(→「20080625」


■ 「田舎医者」を見に行きたい

早稲田松竹で、山村浩二によるアニメ「カフカ 田舎医者」上映。
6/28(土)-7/4(金)。 →作品紹介のページ
併映の「ペルセポリス」は95分。見る順番を考えたほうがいいのかも。


 そういえば、幼稚園に毎日持っていっていた弁当箱を、私はいまも塩入れとして使っている。ものもちはいいほうだと思う。
2008/06/23

実在しない作家が実在する 続きの続きの続きの続き

バートルビーと仲間たち

前回

 たまたま知ることになった、B・トラヴェン(トレイヴン)という作家のことからずるずる書いてきた。なにしろひとつも作品を読んでいないので、もう書くことがない。『バートルビーと仲間たち』では、映画の件のあとも、少し記述が続いている。
《最後まで正体を明かさなかった作家トレイヴンはフィクションだけでなく現実の世界でも本名を隠すために気の遠くなるほど多くの名前を使っていた。トレイヴン・トースヴァン、アーノルズ、トレイヴス・トースヴァン、バーカー、トレイヴン・トースヴァン・トースヴァン、ベリック・トレイヴン、トレイヴン・トースヴァン・クローヴス、B・T・トースヴァン、レット・マラット、レックス・マラット、ロバート・マラット、トレイヴン・ロバート・マラット、フレッド・マレス、レッド・マラット、リチャード・モーアハット、アルバート・オットー・マックス・ウィーネッケ、アドルフ・ルドルフ・ファイゲ・クラウス、マルティネス、フレッド・ゴーデット、オットー・ウィンケ、レインガー、ゲッツ・オーリー、アントン・ライダーシュダイト、ロバート・ベック=グラン、アーサー・ターレルム、ウィルヘルム・シャイダー、ハインリッヒ・オットー・ベイカー、オットー・トースヴァン。
 国籍は名前ほど多くはないが、それでも少なくはない。彼は自分はイギリス人、ニカラグア人、クロアチア人、メキシコ人、ドイツ人、オーストリア人、アメリカ人、リトアニア人、スウェーデン人だと言っていた。》pp212-3

 この部分、読んだときにはざっと眺めただけだったが、いま、一字一字書き写した私は、この28個の名前の連続に、韻を踏みながらちょっとずつ変化していくような、いわばリズムがあるのに気がついた。
 1969年の死後、彼の伝記を書こうとした作家もいるという。なんて無謀な。
《書きはじめた時点でロサ・エレーナ・ルハン(※トレイヴンの妻)の協力を得たが、すぐに未亡人自身もトレイヴンが誰なのかはっきりつかんでいないことが判明した。さらに、トレイヴンの義理の娘までが、父親がハル・クローヴスとしゃべっているのを見かけたことがあると言いだしたために、収拾がつかなくなった。》

 エンリケ・ビラ=マタスも、というか、ビラ=マタスが小説『バートルビーと仲間たち』の語り手として設定した人物も、収拾をつけていない。ひとりトレイヴンだけが勝ち抜けた感がある。じっさいそうだったんだろう。若いころアナーキスト活動をしていたらしいが、結局よくわからない。いや、もしかすると本当は正確な伝記があるのかもしれなくて(そしてネット上でも読めるのかもしれなくて)、ビラ=マタスが小説を面白くするために嘘をついているのかもしれないが、ここは鵜呑みにして騙されておきたい。『ラブストーリー、アメリカン』の、「ビッグ・ベティとミス・キューティ」から。
《[…]ロロはトラヴェンの小説だけでなく、この作家が繰り返し述べている言葉を気に入っている。作品を作った人間はぜんぜん重要ではない、作家の生涯ではなく作品のみが吟味されるべきだ、そう述べている。むろん、トラヴェンは偏執症的になり、若い頃の生活や犯罪扱いされたかずかずの行動が明かされるのを気にしていた。あれこれの扇動行為を、いまでも彼のしわざと考えられるかどうかは怪しい。しかしながら、自分を虚構化した「誰も知らない男」は、造り手の無意味さを基盤とする哲学に発展した。
 そこが、ロロには意味があった。車を走らせつつ、完全に匿名となり、自分にしか知られていないということは、この世で最悪の条件ではないだろうと、彼は確信した。そういうふうになれば、真実は消滅するだろう。そして人生の冷厳な証拠のみが、もっと大きな真実が残るだけになり、再吟味という不要の苦痛をしないですむ。人生そのものがむずかしいのだ、と、ロロは思った。回顧的な調査は本物の価値あるなにものをも明らかにしない、それをトラヴェンは知っていた。だから最善をつくして自分の起源を隠匿した。》p62

 ここで言われている内容はあまりよくわからないものの、だれでも思うことだろうけど、自分の足跡を力ずくで消し去るのに成功した作家として、B・トラヴェン(トレイヴン)はたしかに存在を刻んだ。ピンチョンでさえ、まだ甘いようである→有名な、「シンプソンズ」に本人役で登場の場面。声が出ます)

 そういえば、トラヴェン(=トレイヴン、って、もうどっちでもいいだろう)と同じく、私が一作も読んでない別の作家に、こういう告白があったのを思い出した。一見、トラヴェンと真逆の態度なのだけど、問題になった自伝についての、さっき見つけたこういう書評(by奥泉光)を読むと、「隠し通す」と「告白する」のちがいって何なのよ、という気にもなってくる。
 こう書いてくると、読んでいる最中は「めちゃくちゃ面白い」とまでは思えなかったビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』は、けっこう面白い本だったような気がしてきた。でもその面白さはビラ=マタスに帰せるものではない気もする。およそ何のまとめもないが、いちおうここでひと区切り。
2008/06/21

実在しない作家が実在する  続きの続きの続き

前回

 (先週土曜の話:)
 新宿TSUTAYAで『黄金』を借りてから、「電脳コイル」のことを考えつつ、三越のジュンク堂に寄った。新宿まで出て来ることがめったにないので、なにか1冊本を買って帰ろうと思った。そう決めると、『バートルビーと仲間たち』のことがあたまにあったから、フアン・ルルフォの本が欲しくなった。
 ビラ・マタスのメモるところによれば、あのとんでもない『ペドロ・パラモ』(→感想)を書いたルルフォがほかに発表したのは短篇集1冊きりで、あとは薄暗い事務所で30年のあいだ筆耕として働き、生涯を終えたそうである。なんというバートルビー。
《「どうして書かないのか、ですって?」一九七四年、カラカスでルルフォはそう言った。「わたしにいろいろな話を語って聞かせてくれたセレリーノおじさんが亡くなったからなんです。おじさんはいつもわたしを相手にしゃべっていました。ですが、とんでもない嘘つきで、おじさんが話してくれたことはすべて根も葉もない作り話だったんです。ですから、当然わたしの書いたものもすべて大嘘です。」》p10

 ルルフォは小説の作者なのか、登場人物なのか。もちろんここでは両方になっている。そんなわけで、エレベーターで7階まで上がり、くだんの短篇集、『燃える平原』(1953)を探してみた。
 しかし「海外文学」コーナーの「ラテンアメリカ」棚を隅から隅まで見ても、見あたらなかった。土曜の9時過ぎのジュンク堂はさすがにすいていた。もういちど、ぜんぶ見直してもやはりない。だめもとで暇そうなバイト風の店員に訊いてみると、「担当の者が確認して参ります」。それでしばらく待っていると、あきらかにバイトではなさそうな別の店員が「これですね」と『燃える平原』を右手に持ってあらわれたので軽く感動した。『燃える平原』の表紙は赤かった。杉山晃訳、水声社刊。

燃える平原 (叢書 アンデスの風)燃える平原 (叢書 アンデスの風)
(1990/12)
フアン ルルフォ

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 日曜の午前中、カーテンを閉め切って映画『黄金』を見た。
 メキシコで食い詰めた貧乏なアメリカ男ふたりが、安宿で知り合った老人の手引きで、奥地のさらに奥へ出発する。一攫千金、金鉱を見つけるためだ。自称・経験豊富な老人は、はじめから「金は人を狂わせる」とうそぶいている。「奥地」といっても、メキシコのそれはひたすらだだっ広い荒れ地が続く。過酷な日差しと強風。列車強盗の山賊も襲ってくる。笑えるほどの困難を乗り越えて、3人はついに金鉱を発見、超人的な働きで砂金を集め続ける。
 ここまでで映画の約半分。あとは予想通り、金を手中にした3人の変化が描かれていく。彼らが何をしてるのか怪しんでやって来る、近くの町の男(秘境なんだけど)。またもあらわれる山賊。山賊を撃ち殺す警察(軍隊?)。インディオのもてなしを受ける老人、狂っていく男。で、金の行方は。
 スタッフロールには、"based on the novel by B. Traven"の文字はあっても、「ハル・クローヴス」の名前は見つからなかった。当然だ。彼は一協力者でしかないのだから。それでも、「ビッグ・ベティとミス・キューティ」、『バートルビーと仲間たち』というふたつの小説から裏話を知った私には、表面的には存在しないひとりの作家の影が、映画の全体を確かに覆っているのを感じた……
 って、そんなはずない。映っていない影が見えるとしたら、ただの考えすぎである。それに、白黒の画面に映るメキシコの日差しはほんとうにまぶしい。太陽に容赦なく照りつけられるメキシコの大地の上、身ひとつで乗り込んだ男たちが、銃の一発での殺したり殺されたりを、目撃したり巻き込まれたりする。面白かった。

 それで今度は『燃える平原』を開いてみると、これもメキシコの話だった。ルルフォがメキシコ生まれなのはさすがに忘れないが、そこを自覚して選んだわけではないので意外な気がした。
 
 こちらは、映画『黄金』で“よくわからない連中”としてひと山いくらの扱いを受けていた、メキシコ原住民の側からの話である。(メキシコのインディオ、という言い方でいいんだろうか?)
 どの短篇も、強烈に乾いている。日差しと風と砂埃。『黄金』のおかげでイメージしやすかった。そんなメキシコで、登場人物はみんな貧しさにあえぎ、不運に打ちのめされ、血や涙をあふれるほど流す。それでも舞台背景のせいか、湿っぽさのひとかけらもない。
 多くの短篇で、人はかんたんに人を殺す。それでも「殺す」ことが軽く扱われるわけではない。殺人にいたる事情は、詳しく書き込まれなくても登場人物に重くのしかかっているし、殺した者は警察(軍隊?)によってまたあっさり銃殺される。非情な決済。
 ハードボイルド、と言っていいのかわからないが、たとえば、一家をみな殺しにして逃げる男と、それを追いかける生き残りだとか(「追われる男」)、病気の兄を無理やり教会まで引っぱっていった妻と弟だとか(「タルパ」)、35年前に犯した殺人の科でついに捕まりそうになった老人の、文字通り必死の命乞いだとか(「殺さねえでくれ」)が、思想やテーマを語るためでなく、ただひたすら即物的に述べられていくのを読んでいくと、この即物的な短篇の数かずが、一転、どんな場所のどんな人間の話であってもおかしくないような広がりをもっているように見えてくる。これは考えすぎではないと思う。
『ペドロ・パラモ』ほどの大仕掛けはなくても、たしかにあの長篇とこの短篇集は地続きだなあと思われたことである(発表は『燃える平原』のほうが2年早い)。
 むしろ、これを読んだことで、『ペドロ・パラモ』の大仕掛けも、いわゆる「大仕掛け」ではなく、生者と死者の入り交じったあのおかしな世界を、ルルフォは即物的なつもりで書いたんじゃないかとさえ、一瞬考えた。
 ここで、今日、最初に『バートルビーと仲間たち』から引用したルルフォの言葉をもういちど。
《「どうして書かないのか、ですって?」一九七四年、カラカスでルルフォはそう言った。「わたしにいろいろな話を語って聞かせてくれたセレリーノおじさんが亡くなったからなんです。おじさんはいつもわたしを相手にしゃべっていました。ですが、とんでもない嘘つきで、おじさんが話してくれたことはすべて根も葉もない作り話だったんです。ですから、当然わたしの書いたものもすべて大嘘です。」》

 あんた、すごいよ。

続き
2008/06/18

実在しない作家が実在する 続きの続き

前回

《ジョン・ヒューストン監督がハンフリー・ボガードの主演で『黄金』を映画化したとき、トラヴェンはかなりの有名人になった。もっとも映画製作の技術アドバイザーを務めたあいだも、ハル・クロウヴという名のトラヴェンの友人という仮面をかぶってはいた。》p62

 上の引用は「ビッグ・ベティとミス・キューティ」から。
 この映画のエピソードは、もちろん、『バートルビーと仲間たち』でも詳しく書かれている。
《ヒューストンは回想録の中で、『シエラ・マードレの財宝』の脚本を書いて一部をトレイヴンに送ったところ、セットの組立から照明、そのほかいろいろなことについて便せん二十枚に詳細なプランを書いた返事がかえってきたと語っている。》p210

 トラヴェン=トレイヴンの原作にもとづいた映画、『シエラ・マードレの財宝』("The Treasure of the Sierra Madre")の邦題が『黄金』だから、ふたつの引用はズレていない。念のため。
(「ビッグ・ベティとミス・キューティ」では、『黄金』の話の前で『シエラマドレ山脈の財宝』という名も出してしまっているので、ふたつの別の作品のように見えてしまう。とはいえそれで困る人もいないと思う)

 ジョン・ヒューストンは、「謎に包まれた作家」本人とどうしても会いたくなって約束を取りつける。しかしやってきたのは、「ハル・クローヴス。翻訳家。アカプルコとサン・アントニオ」との名刺を持った男だった。
《手紙には、自分は体調を崩してそちらに行けなくなった、しかし、ハル・クローヴスは親しい友人で、わたしについてと同じくらい作品のこともよく知っている、それ故あなた方がどのような質問をぶつけても、答えることができるはずですと書いてあった。》

 2週間、クローヴスは撮影に協力し、ヒューストンと交流をもったという。
《[…]そのうち人間の苦しみと恐怖が彼のいちばん好きなテーマだということが分かった。撮影が終わり、ヒューストンが助監督たちと一緒に映画の仕上げにかかったが、そのときにあの男が映画関係の代理人だというのは嘘で、代理人と名乗っているあの男がおそらくトレイヴン本人にちがいないということに気がついた。》

 いい話だと思う。
 何がいいと言って、こんな嘘のような過程を経て、映画はほんとうに完成しているという事実がいい→これ

 そうなるとこの『黄金』を見たくなるのが人情だ。しかし古めの映画だから近所の小さなレンタル屋では置いていなかった。沿線のお店をまわるのもめんどうなので、先週の土曜夜、新宿TSUTAYAまで行ってみた。
 紀伊國屋前の横断歩道を渡り、エスカレーターで4階の洋画フロアにあがると、左側が「クラシック」の「監督別」コーナーで、すぐに「ジョン・ヒューストン」が目に入り、DVDとビデオが何作も並ぶなかに『黄金』もあった。エスカレーターを降りてから見つけるまで、20秒もかからなかった。なんて探しやすい黄金!
 無事レンタルして外に出ると、ああ今日は6月14日(土)、こうしているあいだにも、いままさに、歌舞伎町のロフトプラスワンでは「電脳コイル」ナイトが開催中なんだなあと思い出され、たいへん悔しくなった……と、いきおいで書いてみたものの、そのとき同時に思ったのは、“悔しさに実感が伴っていない”ということだった。
 というのも、私はこれまで、ロフトプラスワンに行ったことがない。すると「電脳コイル」ナイトは、架空の場所の、架空のイベントであるようにさえ思えてきて、そそくさとTSUTAYAの青い袋をバッグにしまった。感情には現実のより所が必要ということか。
 ……しかしながら、と「電脳コイル」のことを考える。メガネで見えるようになる電脳空間にリアルを感じる子供を描いて、「手で触れられるものが本物なの? 手で触れられないものは、本物じゃないの?」とアニメのキャラの口から言わせたあの作品のことを考えるにつけ、行ったことのない場所に感情を込める(=本気で悔しがる)くらいのことをしなくては、全26話を繰り返し見た意味がないのじゃないか。そんなことを思った。そして、だんだん悔しくなった。
 そこから強引な飛躍を何度か繰り返せば、「存在を知らなかった作家に感情を込める(=実在しなかった作家を実在させる)」こともできるようになるのじゃないか。できるようになって何の得があるのかはわからないにせよ。
 
 そして、さらにしかしながら、いまは『黄金』の話だった。

続き
2008/06/16

実在しない作家が実在する  続き

バートルビーと仲間たち

前回

 エンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』(2000)は、変な本だ。
 作家でありながら筆を折った人間、というのは古今東西に意外なほど多くいた。理由はさまざまだが、彼ら、書くのをやめた作家・書けなくなった作家を「否定[ノー]の作家たち」としてリストにする、そんな意図のもとにこの本は書かれた、ということになっている。要になる存在が、ハーマン・メルヴィル不朽の短篇の主人公、筆耕バートルビーなのだった→参考。バートルビーがカナメって、「おい」と言いたくなる。そして、読んでいるあいだもずっと「おい」と言いたかった。冒頭、語り手は、「現代文学に見られる否定の迷宮」を散歩して、ひとりひとりの事情に光を当てていくことに決める。
《[…]そうすることで、書くというのがどういう行為なのか、それはどこにあるのかと自らに問いかけ、また書くという行為の不可能性について探り、世紀末の文学が置かれた予断を許さない――それだけにまた極めて刺激的な――状況に関する真実を明らかにすることができるかもしれない。
 来るべきエクリチュールは、否定的な衝動から、否定[ノー]の迷宮からしか生まれてこないだろう。》木村榮一訳、p5

 この構想からして、すでにもっともらしい冗談のように聞こえる。これは、「働かないことを通して労働の意義を問う」のと、どの程度ちがうのか。あまつさえ、これは小説であるので、じつは語り手じしんも書けなくなった作家、もとい「否定の作家」ということになっており、彼によってメモされる、沈黙した作家についてのエピソードは、どこまで本当なのか、どこから創作なのか、よくわからなくなっている。
(この本を紹介する人間の誰もが触れずにいられないらしいひとコマは、この語り手が「サリンジャーと同じバスに乗った」と言い張るところである)

「否定の作家」として分類される作家(それは作家なのか)には、ソクラテスやランボーもいる。あの『ペドロ・パラモ』を書いたフアン・ルルフォが、そのあとの30年間、何も発表せずに死んだとは知らなかった。これは本当らしい。
 しかし、つぎつぎに列挙される「否定の作家」の大多数は、私の場合、名前も聞いたことがなかった人たちだった。極端なのになると、語り手のむかしの友達だったりする。するとだんだんおかしな気持になってくる。
 ……これまで存在を知らなかった作家の経歴がスケッチされ、その作品が語られて、「彼もまた、書くのを放棄したひとりである」と説明される。ときどき、放棄した理由が語り手によって格付けされる(「自殺」はもっともランクが低いらしい)。いや、おれ、そのひと知らなかったから。そう言いたくなる。
 
 “知らなかった作家が、書くのをやめていた”

 ここに発見はあるのか。私からすれば、“いなかった作家が、やはりいなかった”のと同じである気がする。一貫して、微妙な調子で小説は進む。つまらないというのでもないが、かくべつ面白いというのでもない、変な気持で私は『バートルビーと仲間たち』を読んでいった。何度も「おい」とつぶやいた。やっぱり変な本である。
(ここに柴田元幸の評があるけど→新潮社「波」2008年3月号より、めずらしく「ほめ切れていない」気がする。どうだろう)

 で、『ラブストーリー、アメリカン』収録のバリー・ギフォード「ビッグ・ベティとミス・キューティ」で触れられていた、B・トラヴェンの話だった。前回引用した部分をもういちどコピペする。
《ロロ・ラマーは、エジプトシティーからトロカデロアイランドへ車を走らせながら、B・トラヴェンのことを思った。生きているうちは、出生、本名、家系など、人生の細部をなんとも秘密にしたがった作家である。小説の愛読者だったロロは、いまでもトラヴェンの作品のたいへんなファンだ。『シエラマドレ山脈の財宝』、『死の船』、『綿摘みたち』など。ジャングルシリーズでは、『モンテリアへの進軍』、『ジャングルからの将軍』、『政府』、『カレッタ』などなど。
 トラヴェンが周到に経歴を隠そうとしたのも、然るべき理由があった。生れ故郷のドイツでは急進派のジャーナリストで、活動家でもあったので、指名手配されたのだ。メキシコへ逃れ、一度ならず名を変え、商船の船員になったりマホガニーの森で働いたりして、最後には結婚し、長編短編作家としてメキシコシティーに落ち着く。トラヴェンと妻は、そこでふたりの娘を育てた。ジョン・ヒューストン監督がハンフリー・ボガードの主演で『黄金』を映画化したとき、トラヴェンはかなりの有名人になった。もっとも映画製作の技術アドバイザーを務めたあいだも、ハル・クロウヴという名のトラヴェンの友人という仮面をかぶってはいた。》p62

 この人は「正体を隠そうとした」のであって、「書くのをやめた」わけではないが、『バートルビーと仲間たち』の終り近くでなかなか思わせぶりな紹介がされている。自分を消そうとした意志において、彼も「否定の作家」なのらしい(ふところが深いジャンルである)。こちらではB・トレイヴンという表記になっていた。綴りは"B. Traven"。
《[…]彼の来歴に関してはデータがないし、データが手にはいる可能性がないことが本当のデータなのだ。過去を一切否定することで、彼は現在を否定した、つまり現存在を完全に否定したのだ。トレイヴンは同時代の人たちにとってさえ存在しなかった。彼はきわめて特異な否定[ノー]の作家であり、あれほどまで強く自らのアイデンティティの創造を拒否したという行為の内には強烈な悲劇性がひそんでいる。
「世に隠れたこの作家には」とヴァルター・レーマーは書いている。「アイデンティティが欠如しているが、このことのうちに近代文学の悲劇的な意識、エクリチュールの意識が要約されている。エクリチュールが不十分であったり、不可能であることが明らかになると、それを表明することが基本的な課題になる」》pp208-9

 こういう紹介と、amazonでの検索結果(→96件!)が私のなかでうまく折り合わず、その折り合わない具合が面白いのだが、「翻訳作品集成」で調べてみると、邦訳もあった(→これ)。
 
 大丈夫。この作家は実在している。していた。
 
 しかし私は、何に安心しているのだろう。

続き
2008/06/14

実在しない作家が実在する

 岸本佐知子編訳の『変愛小説集』が面白かったので、部屋にあった『ラブストーリー、アメリカン』というアンソロジーも読んでみた。編者はジョエル・ローズとキャサリン・テクシエというふたり。絶版だけどたまにブックオフで見かけます。
 
ラブストーリー、アメリカン (新潮文庫)ラブストーリー、アメリカン (新潮文庫)
(1995/03)
ジョエル ローズ、

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 こんなタイトルでありながら、翻訳しているのが柳瀬尚紀であることからうすうす想像されるように、「こんなタイトルのアンソロジーに入っているのでなければ、およそ恋愛小説には分類されないだろう小説」ばかりが入っている。だからその点で『変愛小説集』の先輩格にあたる――と言えるかというと、じつは微妙である。退学しちゃった先輩(校内では伝説)、みたいな位置か。
 
 こっちのほうに収録されている作品は、傾向として、内容がどぎつい。容赦なく悲惨だったり血みどろだったり、もしかすると戦闘的フェミニズムだったり(知らないけど)する。そしてあまさず、後味が悪い。「白人女をモノにするための黒人教本」(ドクター・スネークスキン)や、「レイプなんて怖くない」(リサ・ブラウシルド)なんかは、タイトルを内容が裏切ってくれない。編者ふたりの作品も入っているが、どちらもいまひとつ。
 なかなか名前の大きい作家の短篇も入っていて、さすがにキャシー・アッカーには迫力があった(「わが母」)が、ウィリアム・T・ヴォルマンのはなんだか人工着色料のようなけばけばしさで、そこがいいとはどうも思えない(「イエローローズ」)。いっぽう、デイヴィッド・フォスター・ウォーレスが、現代のとんちきな恋物語をジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に重ねて書いた「『ユリシーズ』の日の前日の恋」は、あからさまに異様な文字面になっており、『ユリシーズ』を読んでいない私にも面白かった。
 
『変愛小説集』収録作の半分くらいはいきなり妄想の世界に入っていて、そのほうが「どぎつい」印象は薄くなるようだ。不思議といえば不思議。ちなみに、そちらに入っていた作品のなかで唯一、A・M・ホームズ「リアル・ドール」だけはこっちのアンソロジーにも収録されており、バービー人形と恋に落ちるこの短篇の人気を見せつけられた。どうかと思う。なお、こちらでの表記はA・M・ホウムズ「「ファック・ミー」とバービーはいった」だった。

 しかしながら、『ラブストーリー、アメリカン』でいちばん「!」となったのは、ここまで書いたこととは何の関係もなく、バリー・ギフォードの「ビッグ・ベティとミス・キューティ」だった。作品がとくべつ面白かったというわけではなく、だいたい、どんな話だったかもう憶えていない。血みどろのやつだったかな。ただ、こういう部分があったのである。
《ロロ・ラマーは、エジプトシティーからトロカデロアイランドへ車を走らせながら、B・トラヴェンのことを思った。生きているうちは、出生、本名、家系など、人生の細部をなんとも秘密にしたがった作家である。小説の愛読者だったロロは、いまでもトラヴェンの作品のたいへんなファンだ。『シエラマドレ山脈の財宝』、『死の船』、『綿摘みたち』など。ジャングルシリーズでは、『モンテリアへの進軍』、『ジャングルからの将軍』、『政府』、『カレッタ』などなど。
 トラヴェンが周到に経歴を隠そうとしたのも、然るべき理由があった。生れ故郷のドイツでは急進派のジャーナリストで、活動家でもあったので、指名手配されたのだ。メキシコへ逃れ、一度ならず名を変え、商船の船員になったりマホガニーの森で働いたりして、最後には結婚し、長編短編作家としてメキシコシティーに落ち着く。トラヴェンと妻は、そこでふたりの娘を育てた。ジョン・ヒューストン監督がハンフリー・ボガードの主演で『黄金』を映画化したとき、トラヴェンはかなりの有名人になった。もっとも映画製作の技術アドバイザーを務めたあいだも、ハル・クロウヴという名のトラヴェンの友人という仮面をかぶってはいた。》p62

 B・トラヴェン。読んだことはぜったいないが、なんだかこの経歴にはおぼえがある。それでちょっと考えて思い出した。この作家、こないだ読んだこの本に出てきたのだった。


バートルビーと仲間たちバートルビーと仲間たち
(2008/02/27)
エンリーケ・ビラ=マタス

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 こないだ読んだんならもっと早く思い出せ、という話ではある。

続き
2008/06/12

長嶋有『夕子ちゃんの近道』(2006)

夕子ちゃんの近道
新潮社

《「君は? 失恋でもしたの」唐突に瑞枝さんは尋ねてきた。
「いやまあ、いろいろあって」
「いろいろってなに」
「挫折したんですよ」といってみたが瑞枝さんは深刻な顔をしない。
「いいなあ、挫折できて」私なんか明日試験で、落ちたら午後から打ち合わせだよ、という。いいなあ、という言葉は最初から準備していたかのようだ。》p28

 古道具屋「フラココ屋」の2階、倉庫として使われている6畳間に居候をはじめた「僕」と、まわりの人びとを扱った短篇連作。びっくりするくらい面白い。

 登場人物は多くない。フラココ屋の店長。家主のじいさん。その孫である、朝子さんと夕子ちゃんの姉妹。フラココ屋の常連(でも買わない)瑞枝さん。道路向かいのバイクショップ店員。
 店番の仕事に徐々に慣れていく「僕」が、これらの人びとを少しずつ見知っていく過程を追って、読んでいる私も、この人たちに馴染んでいく。
 美大生の朝子さんが作っているのは何なのか。公然の秘密となっている、夕子ちゃんの趣味とは。瑞枝さんの生活。短篇ごとに移っていく季節。
 読んでいて、もうこのままずっと読み続けていたいと思う種類の面白さなのだが、いったい何が面白いのか。
(あ。もうひとり登場人物がいた。店長の古い友人で、フランス人でありながら、店名を「フラココ屋」とするセンスがどういうものかを理解し、それを「恥ずかしい」と断ずる、フランソワーズという女性)

 もちろん、「僕」によって観察されるのは日常的なうえにも日常的な出来事ばかりで、いわゆる小説っぽい大事件はひとつも起こらない、ということなんかは予想の範疇だし、だけど日常のなかにだって大事件はある、みたいなことだって、ページをめくる前からわかっている。生産性と功利性の世界からちょっとはみ出した人たちの生活が「おだやか」とか「ゆるやか」と形容される雰囲気に包まれて上手に描かれてるんだろう、という見込みは、じっさい読んでみると、たしかに当たる。でも、当たりかたがちょっとちがうのだ。何が面白いのか。
 文章が面白い、といったら身も蓋もないだろうか。周囲の建物の位置関係、フラココ屋の店内の様子、夕子ちゃんの鞄につけられたマスコット、などなどのディテールが、「そうくるか」的な比喩を織り交ぜ丁寧に描かれるいっぽうで、「僕」の背景はほとんど不明なままだ。不思議なバランス感覚で小説は進む。小さいもの、どうでもよさそうなことが、次から次へと的確な言葉にされる。ひとつひとつは小さなヒットでも、それがどこまでも続くと、印象は変わってくる。いつのまにか尋常ではなくなっている。たとえばこういう部分に、「おだやか」でも「ゆるやか」でもない過激さがあると思う。
《駅前に降りると、コンドルは飛んでいくみたいな民族音楽風の曲を演奏するグループがいたが、誰もが素通りしている。僕も脇をすりぬけて、うろ覚えの道をたどっていく。店長の家はけっこうな邸宅だ。[…]》p146

 「コンドルは飛んでいくみたいな民族音楽風の曲」。
 曲についてこれしか書かれていないのは、細かい限定をしないことで、読者のおぼえる「あるある」の間口をひろくしておくためではないし、「つまりは取るに足らない曲だった」という「僕」の判断を示すためでもない、と思う。
 いや、もしかしたらそのどちらのつもりも少しはあるのかもしれないが、なによりここでは、それ以上に細かく書く必要がないから、書かないという基準がしっかりあって、それゆえこれだけで済まされている、という感触をつよく受ける。それはほとんど、頼もしいくらい確固とした基準だ。
(なにしろ、「コンドルは飛んでいく」というカギカッコさえないのである!)

 基準が先行し、それに従って「書くに値するもの/そうでないもの」をふるいにかけていく、というのではなくて、屋外の水道につながったホースの先から水が出る様子や、フラココ屋のコンクリートの床に薬品を塗るモップの動きなんかが最小限の言葉で(かつ、言葉を尽くして)説明されたりする積み重ねのすえに、何となく見えるようになる基準が、この小説にはある。超低空飛行ながら、すみずみまでピントが合っている。そのおかげなんだろう、読んでいると、どんどん気持がよくなる。あたまのなかの風通しがよくなるというか。
 だからまとめていうと、この小説の全篇を通してかたちにされているのは、まわりの人たちと近づきつつも微妙な距離を保っている「僕」の、ひとつの態度なんじゃないかと思うのだけれども、「まとめたから、なんだ」という話でもあるので、もっとぐずぐずと実物を引用しておきたい。
(うえに書いたように、積み重ねがあってこその面白さなので、ここで部分だけ書き写しても面白いのかどうか、すでにこの小説があたまのなかに積み重なっている私には判断しかねるが、これは事情により寝込んでいる瑞枝さんを「僕」が見舞うところ)
《「なにか、食べ物とか持ってきましょうか」
「ううん、一人でやる」瑞枝さんは起き上がった。
「帰ってくれる」でも、といいかける僕を制していう。
「弱っている人は、人前に出ない方がいいんだ」こないだ昼間にテレビで昔のガメラをやっていてね。ついみていたら、やっぱりガメラも海底で一人で傷を治していたよ。
「そりゃ、ガメラはそうかもしれないけど」
「いや、そうじゃなくて私が嫌なんだ」といった後で僕の顔をみつめた。
「嫌っていうのは……そういう嫌じゃなくて。病気で弱っている人をみると、可哀想だし、仲のいい人なら心配だけど、でもそれがどんな親友でも、少しだけうっとうしいじゃない」そして本当は、少しじゃなくて、すごくうっとうしいの。》p96

 たしかに発されている言葉が、カギカッコを平気で越えていくのも面白い。次は、朝子さんの卒業制作を見るためにみんなで大学を訪れて、ついでに学食に寄ったところ。
《トレーを持って列に並び、広くて見通しのいい厨房にいるおばさんから総菜や御飯をよそってもらい、お茶の出る機械に茶碗を置いて、無料のお茶を注ぐ。それらを載せたトレーを水平に持ち、振り向いて少し静かに歩く。皆のいる方へ。そういう動作をかつての自分も繰り返していた。大学生活は、なんのことはない、そんな動作の繰り返しだった。》pp119-20

 何気ない顔をして、ぜんぜん無駄な言葉がない。なかなかこうは書けないだろう。とくに「皆のいる方へ。」のひとことが効いていると思った。
 最後は、たぶん半分以上がフラココ屋の店内で進むこの小説で、美大に行くのと並んで珍しい、相撲観戦に国技館まで行ったエピソード。まだ時間が早いので館内をうろうろしている。
《廊下に出るやまた見覚えのある元力士と行き違う。スタッフジャンパーのようなものを着ているが、今のはもしや、元貴闘力のなんとか親方ではないか。気付いて
「貴闘力が」馬鹿みたいに指差してしまう。店長はよくみていなかったくせに頷いて
「そういえば俺、昔、競馬場で貴闘力をみたことあるよ」といった。
「へえ」どんなだった。瑞枝さんが尋ねる。いやいや、と思う。過去の貴闘力なんかではなくて、本物の貴闘力が直前までこの目の前にいたのに。
「え。他の知らない力士と三人くらいでいてさ。なんか、普通の服きてた」それで? といわれて店長は、その質問とは無関係に小銭入れを取り出した。
「それでって、なんかすごい札束で買ってたような気がする。馬券」
「あなたの回想は、まったくわくわくさせられないね」瑞枝さんは昔からそうだったという感じでいって、売店でビールをもう一缶買った。》p178

 どういうわけか私は「えええ」と声に出していた。なんだろうこの会話。

 なお、この小説が大江健三郎賞の第1回受賞作であるのは知っていたが、自分で読んでみて、ちょっと大江の選評まで見ておきたくなった。なのに講談社のサイトからでは、この賞のことがちっともわからない。どうかと思う。
2008/06/10

イベントとイベントとイベント


■ 青山ブックセンターで、岸本佐知子&川上弘美のトークショーがあるとのこと→これ
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『変愛小説集』(講談社)刊行記念
岸本佐知子×川上弘美トークショー
「ことばと小説への変愛、偏愛」
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■2008年6月22日(日)15:00~16:30(開場14:45~)
■会場:青山ブックセンター本店内奥 洋書コーナー
■定員:50名様
■入場無料
■電話予約&お問い合わせ電話:
青山ブックセンター本店・03-5485-5511
■受付時間: 10:00~22:00
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。
御注意下さい。)
受付開始日:2008年6月9日(月)10:00~
トークショー終了後に岸本佐知子さんのサイン会を行います。

 おお、これはすぐに満員になりそうだと思って、今日(9日)の昼にすばやく電話をしたら「もう満員です」。おお。立ち見とかできないものか。

■ いっぽう、↓は入場無料・事前予約不要。定員はあるのか。
 
 現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ 6月29日(日)
 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/genbun/latinamerica.html
直木賞受賞作家で、無類の読書家でもある桜庭一樹さんと、この4月現代文芸論研究室に就任した、日本でのラテンアメリカ文学研究の第一人者野谷文昭教授がラテンアメリカ文学について縦横に語り、沼野・柴田両教授が(願わくば創造的な)横槍を入れるシンポジウム。ラテンの音楽も流れる予定です。

■ しかし、ほんとうに行きたかったのはこれだった。

 新宿ロフトプラスワン 『電脳コイル』ナイト 6月14日(土)
その圧倒的なクオリティで2007年度の数々の賞を受賞し、多くのファンを唸らせた傑作アニメーション『電脳コイル』。2007年5月からの本放送とそれに続く再放送終了を記念して、まさに最終話放送の夜、磯光雄監督やゲストを招き『電脳コイル』について語り尽くします!

【出演】磯光雄(原作・脚本・監督)・井上俊之(作画チーフ)・平松禎史(絵コンテ・演出・原画)、野村和也(絵コンテ・演出・原画)
【特別ゲスト】東浩紀(批評家)、山口浩(駒澤大学准教授)、杉井ギサブロー(アニメ監督)

 すでにチケット完売の模様。
 結局、「ほかに行けるところがないので東大に行く」みたいな。妙だ。
2008/06/06

アンタッチャブルなもの


■ 「人間のかたちが、ぜんぶ黒く塗ってある絵」。これが私は怖い。子供のころから怖かった。
 自分はこういうのが苦手だ、とはっきり意識したきっかけもおぼえている。
「ナルナルタンタンへそのゴマ!」のフレーズで有名な「まんがなるほど物語」シリーズのどれかで昭和の未解決事件を扱った回があり――いや、さすがにそれはありえないと思うので、たぶん薬品か何かを扱った回だろう――そこで紹介されていたエピソードが、戦前の東京で、銀行にやってきた男が行員と客を毒殺してお金を盗んで逃げた、というものだった。
 その状況はナレーションと2枚の絵で紙芝居ふうに紹介されていた。
 1枚目。銀行の窓口で、身を乗り出して行員に話しかける男。
 2枚目。銀行の床に倒れている行員、客。
 どちらの絵でも、背景の銀行内部はわりと写実的なタッチ(セピア調)。人間は、問題の男も行員も客も、全員がいわゆるアニメ的ではないふつうの頭身で、ふつうの服を着ている。ただし、服から出ている頭と手はシルエットで描かれ、つまり、人体だけが真っ黒なのだった。幼い私は震えあがった。何がへそのゴマか、と思った。
 それ以来、真っ黒な人の絵を見るたびに「やっぱり怖い、まだ怖い」とおびえながら、毎回かならず、芋づる式にこの銀行の絵まで思い出すならいになっている。
 困ったことに、こういう絵は「見る人にわかりやすいように」の親切心で描かれることが多い。非常口を示すマークみたいにシンボル化された図案でも、あの傾いた人が黒で塗ってあったら相当おそろしいと思う。単純なものから呼び起こされる恐怖心は、それじたいも単純なのかどうか。謎である。
(いちおう言っておくけど、真っ黒な人のの話である。そして自分のおそれを観察してみるに、真っ黒/真っ黒じゃない、の判断基準は「目まで塗ってあるかどうか」にあるようなので、人間のシルエット絵が怖い、とまとめるのが妥当であるようだ。実際の人間は関係がない)
 
■ 何の話か。
 そういう黒い人がぞろぞろ登場するアニメ「電脳コイル」を、先日、ついにぜんぶ見終えたのだった(全26話、DVDで9巻。まえにこういうのを書いた)。

 メガネをかけると肉眼では見えないものが見えるようになる、そうやって「見えるようになった、見えないもの」がもうひとつの空間を形成している、という設定の魅力はもとより、とくにアニメ後半は、私にとって「黒い人の絵」との戦いだった。見てない人にはさっぱり通じない話で申し訳ないが、「面白いんだけど怖い」「怖いんだけど見たい」という葛藤に翻弄され続けの1ヶ月だったので、このことだけはメモしておきたかった。
電脳コイル 第9巻 限定版 もっとも、いくら怖いといっても「途中でやめる」選択肢は出てこなかったのはまちがいない。だいたい私は、気に入るとすぐ全肯定に走る人間だけど、どこが面白かったかを箇条書きにするとあまさずネタバレになる気がして何も書けない。本放送の終了から半年経っているとはいえ。
 最後の2話はいくらなんでも急ぎすぎ(せめてあと10分あれば)と思ったが、それも相まって、怒濤の収束劇になっていた。なにより、「あまりに道徳的なので泣けた」のは希有な体験の気がする。立派なアニメだった。またはじめから見直したい、と思うと同時に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(および『羊をめぐる冒険』)の終りかたはどうなっていたか、確認したくなりもした。これは個人的な関心なのでネタバレではないです。

光車よ、まわれ! (fukkan.com) それから、たぶん参考図書だと思って小説『光車よ、まわれ!』(天沢退二郎)を読んでみたら、こちらも一部、黒い人との戦いだったりするからまたおびえた。絵ではなく文章なのに。大学のときに先輩がすすめてくれたので書名だけあたまに引っかかっていたこの児童書、かりに小学校の図書室に置いてあったとしても、私は怖すぎて手に取らなかったと思う。表紙も怖いが中身も容赦がない。いったいに、面白い「子供向け」作品ほど死の扱いが直截なのだよな。


■ で、最初の「まんがなるほど物語」(もしくは「新まんがなるほど物語」)に戻る。なんだかさっきから、あの「銀行の毒殺事件」を描いた絵は、うえで書いた2枚ではなく、もっとあったような気がしてきたのである。
 ……「身を乗り出して行員に話しかける男」の絵と「銀行の床に倒れている行員、客」の絵のあとに、「倒れている行員の横で、お金をかき集めている男」の絵があったような。あるいは、「お金の入ったバッグを持って、前かがみで出ていく男」の絵。いずれにせよ、人体がシルエットなのは共通している。そして、思い浮かべれば浮かべるほど怖くなってくるのも同じだ。
 たぶん、私の創作なのである。自分で捏造した、ありもしない絵におびえているとしたら相当マヌケだ。でも、そういうマヌケなことはよくある気もする。もとの絵は1枚だけだったのかもしれない。もう確かめようのない記憶のなかから、黒い人間はこれからも私をおびやかすんだろうと思う。

■ ↑この改行のあいだに調べてみた。あの事件は帝銀事件だった(→ウィキペディア/→もっと詳しいサイト。名前は聞いたことがあったが、これだったのか。戦前じゃなく戦後だし。リンク先の文章を、出てくる人物に黒い人を代入して読んでたらますます怖くなった。


■ ほんとうは、「電脳コイル」がめちゃくちゃ面白かった、と言いたくて書きはじめたはずだった。とりあえずロマンアルバムでも買おうか。