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大江健三郎『宙返り』(1999)
宙返り 上  講談社文庫 お 2-9 宙返り 下  講談社文庫 お 2-10
講談社文庫(2002)


 小説のはじまりは1990年代後半の日本。ただし作中の出来事は、少なくともその10年前に端を発している。
 ある宗教団体の一部が過激化し、無差別テロを計画した。それを知った教団の指導者である「救い主」は、先手を打ってマスコミを集め「教義はぜんぶ冗談だった」と公言、積み上げてきたすべてを台無しにすることで事態を収拾した。それでも信仰をたもとうとする少数の信者や、急進派の残党をよそに、「救い主」本人は隠遁、沈黙する。
 それから10年がすぎ、「救い主」から「師匠」に呼び名を変えてなぜか再び活動をはじめようとする指導者のまわりに、立場も思惑も信仰もさまざまな人びとがあらわれる。引き起こされる事件と奇跡。その他もろもろ。

 大江健三郎じしんが「最後の小説」にするつもりだったらしい連作長篇『燃えあがる緑の木』の3部作(1993-5)は、作中でそれまでの作品のほとんどに何かしら触れ、それによってぜんぶを取り込んだことにしようとしたのか、えらく強引なもので、全篇にむりやり感が漂うおかしな小説だった。集大成ってそういうものだろうかと思った。

 そして、小説やめるよ宣言を撤回して(小説やめるよ宣言をやめるよ宣言として)発表された『宙返り』も、やはりおかしな小説だった。
 いつも以上にゴツゴツした文章はまず相当に読みにくく、読んでいる最中は時おり苦行をしているような気分にさえとらわれたが、読み終えたあとから考えてみると、あながち辛かったばかりでもない、という気持になってくるから不思議である。
「せっかく読んだんだから、つまらなかったとは言いたくない」というのではないと思う。ではどんな気持かというと、それはやっぱり「変だ、これはぜったいに変な小説だ」ということになる。

『宙返り』の「変」にはいろいろある。
 それぞれの方向でそれぞれに息苦しく思い詰めた登場人物のせいで、また、てんこ盛りの様相を呈する陰惨な事件のせいで、さらには、場合によっては執拗すぎるくらい執拗な描写を一部分に塗り重ねるのに、ほかの一部分はまるごとスキップしたりしてこちらを混乱させてくる叙述のせいで、「とても一言ではまとめられない」という印象がじわじわと生まれてくる。
 いや、何よりも感想を書きにくくさせるのは、この小説のなかで宗教について、そして信仰について語られる、膨大な言葉である。私にはそれを咀嚼する歯が1本もない。乳歯さえまだ生えていなかったと思い知らされた。
 だからといって、教団の中心である「師匠」(パトロン:神のヴィジョンを見る人)と「案内人」(ガイド:「師匠」の見たビジョンを言葉で説明する人)の二人組が、あわせて「小説家」の役割を果たすことになる、みたいな読みかたも安易すぎる気がする。
 
 なので、いちばん「?」とおかしな気持になった箇所だけメモしておく。
 それは、「この人はどうして、女物の下着でブラじゃない方を“パンティー”と表記することに固執するのだろう」という問題ではなくて(これはまた別の長い物語である)、小説内でのフィクションと現実の重ねかただった。

 小説に書かれているものごとは、すべてフィクションである。そこは疑いようがない。いくら現実にある事物であっても、たとえば小説のなかに出てくる「東京」は、現実の「東京」とはちがう。ちがっていていい。その意味で、小説のなかにはフィクションしかない。
 ところが、現実に存在するもので、しかも場所としての「東京」のようには一般的・中立的ではない、特殊なもの(実在の人物など)が小説に登場してくると、そこだけ浮いて見えてしまう。まるでフィクションのなかに現実が混ざっているように感じられてしまうのだ(そんなはずはないのに!)。
 どうも、特殊なものであればあるほど、「これはたしかに現実の世界にあるものだけど、ここでは“フィクション化された現実の事物”であるから、つまりはフィクションであるよね」という判断が、うまく働かなくなるようなのである。

『宙返り』は、きっと、オウム真理教の事件に触発されて書かれたのだろう。ただし、現実のオウム真理教をモデルにした教団(フィクション)を中心にするようなやりかたはとっていない。
「師匠」の教団は架空のもの(フィクション)であり、いっぽうのオウム(現実)は、作中にもオウムとして登場するのである。で、この“作中のオウム真理教”を現実の側に置くのか、フィクションの側に置くのかが、読んでいる私にとって難しくなってくる。

「もちろんフィクションだ、だって小説なんだから」という判断が、まずある。これはまちがいない。でもそこに、「しかし現実だ」というゆるぎない実感が対立する。本来ありえないはずの混乱が、どうしても生まれてしまう。するとどうなるか。
 宗教活動を再開する旨の記者会見をおこなった「師匠」に、ある新聞記者が「どうしてオウム以後に?」と疑問をぶつけるところがある。
[…] 気になることはあるんですよ。この国の社会には最近も、ハルマゲドンを戦い抜くと主張した宗教団体があるからです。のみならずかれらは、サリンガスによる無差別テロを市民に向けてやった。あれをもう忘れたという人間は、この国の社会にいないでしょう。
 ところがそのオウム真理教も、教祖がインドで修行をして、最終解脱者となったと宣言した時点で、信者は三十五人だった。それが翌年には千五百人になった。のちに幾つもの犯罪に実行犯として加わった幹部たちも入信しています。さらに次の年、富士山総本部が完成する年には、信徒は三千五百人を突破して、宗教法人にもなりました。[…]
 三十五人で出発して、十年たらずのうちにそれだけのものになりました。連中の主張するハルマゲドン戦争が実現していたとしたら、地下鉄でのサリン散布の死傷者四千人どころじゃすまなかった。》上巻pp338-9

 わざわざ細かい数字を出して念が押されている。これはたしかに「現実」にあったことの引き写しだ。それが小説(フィクション)のなかに書いてある。
 このことのどこが変なのかといえば、作中の出来事を時間順で並べると、

「師匠」の宗教団体によるテロ計画(失敗)
  ↓
 オウムの事件
  ↓
「師匠」の教団の再結成

 と、こうなるはずで、じゃあ『宙返り』のなかのオウム(現実?フィクション?)は、この教団(フィクション)がやろうとして、しかし不発に終わったテロ計画を参考にしなかったのだろうか、という疑問が生まれてくるのである。だって、参考にしないはずがないじゃないか。
 そして、参考にしたのであれば、作中のオウム(フィクションのはず…)の活動は、現実とちがった進みゆきを見せなくてはおかしい。
 なのに、そうなっていない。作中のオウムは、「師匠」の教団が存在しない現実世界のオウムの盛衰を、さっきの引用部分に見られるように忠実になぞるだけだ。

 やはり、参考にしなかったのか。でもでも、それはあまりに不自然である。それでは、参考にしたけど結果は同じだったというのか。そこらへんはいったいどうなっているのか。
 まさかこの作品においてオウムは取るに足らないものだったのか? イヤそんなことはありえないし…… そもそも、この疑問は疑問として成り立っているのだろうか…… と混乱が深まっていく。
 読者をこんなふうに悩ませるこのような小説の書かれかたは「変」で、「おかしい」。

 念のために書いておくが、「変」で「おかしい」という私の感想は、「まちがっている」「こんな書きかたは誤りだ」という意味ではない。
 この「変」で「おかしい」書きかたによって奇妙な混乱が生まれ、こっちまで「変」で「おかしい」かもしれない疑問に包まれて、いったい自分はどうしてこんなことを考えているのか途方に暮れた、ということである。
 こちらを途方に暮れさせる部分、それが小説でいちばん面白いところだと思う。

 過去作から続いて登場する架空の登場人物や架空の地所といった点で、ほかの作品と地続きになっている部分もあるいっぽう、『宙返り』の少なくとも一部では、フィクションのなかに現実の事物を持ち込むやりかたが、ある意味で乱暴なのだった。
「ある意味で」と書いたのは、そこのきしみから生まれる上述したようなおかしな効果が作品の全体に寄与しているのか、それともその場限りのものにすぎないのか、いまひとつ見定めがたいためである。

 現実にあるものを小説に持ち込み、そこに生まれる異和を足場にして、現実の世界ではもちろんない、かといって完全にフィクションの世界でもない、第三の世界が立ちあがる――うまくすればそういうことが起きるかもしれない。
 これは私の気のせいでしょうか、と思っていたのだが、ほんとうにそんなことを起こしてしまうのが、次作『取り替え子』にはじまる3部作なのだった。

続き
「モンキービジネス」2008 Spring vol.1 野球号

 本屋に行ったら、柴田元幸責任編集の「モンキービジネス」vol.1が、平積みになっているのを発見する。「なんでもう出てんだよ!発売は4月18日だったんじゃないのかよ!」 今日が19日であることも発見する。嗚呼。
 
モンキー ビジネス2008 Spring vol.1 野球号モンキー ビジネス2008 Spring vol.1 野球号
(2008/04/18)
柴田元幸

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 で、買ってめくっているんだが、ポップな(て言うんでしょうか)表紙と裏腹に、めちゃめちゃに濃い文芸誌だった。何が濃いって、意気込みが濃い。
 出版社ヴィレッジブックスのサイトには「特設ページ」までできていたくらいで、そこでも読めるこの巻頭言からも、力の入り具合がわかろうというものだ。「海外・日本の新しい小説やエッセイを中心に、新しくない小説やエッセイなんかもちゃっかり混ぜて、こっちが面白いと思う文章を並べた雑誌にしたいとは思っている」。いいと思う。

 まだぜんぶを読んではいないが、今回は「野球号」ということで、小川洋子×柴田元幸の野球対談や、人脈を活かした、アメリカ作家による野球談義などが並んでいる。柴田元幸は3年まえ、日本人大リーガーについてのインタビューをポール・オースター相手に敢行していたという。オースターいわく、「ずいぶん話題を限定したインタビューだなあ」。
(とは言いながら丁寧に答えている。あと、『博士の愛した数式』はオースターも絶賛。田口犬男の野球詩も面白く、私は何年かぶりで「ヤクルト・スワローズ詩集」なんて単語を思い出したこれに入ってるやつです])。

 特集の部分は全体の分量の5分の1くらいにすぎず、あとは川上弘美や小野正嗣や、バリー・ユアグローと目白押し。川上未映子が、尾崎翠の「第七官界彷徨」について書いた文章に怯える。岸本佐知子の日記フィクションはますます快調だった。
《二月四日
「分数アパート」なるものの噂を聞く。二階建てで上下に五個ずつ部屋が並んでおり、たとえば上の階に警官が住んでいて下の階にも警官が入ると、相殺されて両者が消える。[…]》p113

 古川日出男やダニイル・ハルムス(「飛ぶ教室」2007年冬号でも紹介されてた)、カフカの漫画化はこれから読む。
 
 そんなように盛りだくさんなわけだが、最初に目次を見てもっともおどろいたのは、柴田元幸によるハーマン・メルヴィル「書写人バートルビー――ウォール街の物語の翻訳掲載。おお、ついに、という気がした。
 
 これは『白鯨』の作者であるメルヴィルが残した短篇のなかで、いちばん有名な(というか、唯一有名な)作品で、何度読んでもこちらを落ち着かせてくれず、毎回、「なにかすごいことが書かれてある、それが何かはよくわからないが」という気分になってしまうお話である。書かれたのは1853年だ。

 小説は、法律事務所を経営していた男の手記というかたちで、かつて彼のところで働いていた奇妙な筆耕・バートルビーについての回想になっている。語り手に雇われてから、はじめのうちこそ真面目に仕事に勤しんでいるように見えたバートルビーは、書類を書き写す以外の仕事を拒み、次にその仕事も拒み、あとは何から何まで拒んでいく。追い出そうとしても出ていかない。翻弄される語り手。
 バートルビーという人物は、底が見えないというか、底だけでできている気さえする。地名その他の細かい書き込みをはぎ取り、語りの温度を冷ませば、カフカにも近づきそうだ(じっさい、「カフカの先行者」とも言われているらしい)。
 しかし、大長篇の『白鯨』なら文庫で3種類が選べるいまの日本で、この「バートルビー」はなかなか読めなかった。私は国書刊行会から出た2巻本のメルヴィル短篇集乙女たちの地獄』の上巻で読んだけど、おなじ国書のバベルの図書館」版(第9巻は品切れだし、岩波文庫に入っていたのも絶版だ。わりと最近まで手に入りそうだった、八潮出版社というところの版も、もうだめなようである。

 柴田元幸はこないだの「Coyoteで、ちらりとこれをアメリカの「最重要短篇」と言っていたのだが、その「バートルビー」を読むには、ジョルジョ・アガンベンの『バートルビー 偶然性について(月曜社)を買うのがいちばん手っ取り早い、ということになっていたのではないかと思われる。
 これはイタリアの哲学者アガンベンが「バートルビー」を扱った論文で、当の短篇が入手困難である状況をかんがみた訳者の高桑和巳は、「バートルビー」じたいも自分で翻訳し、論文と併せてこの本に収録したのである。立派だ。
 しかし正直に告白すれば、私には、アガンベンの論の展開は壮大すぎてついていけなかった。ほかの哲学者の人も、このような本で「バートルビー」論を書いているらしい。でも、小説に基づいた現代思想って、あたまがふたつないと読めなくないか。みんなどうやって読んでるんだ。
 小説の表面をカタツムリみたいに這うだけの文章は思想とは呼ばれないのだろうけど、そういうものの方が(もしあるんなら)私は読んでみたいと思っているし、それは結局、小説そのものを読んでいればそれでいい、ということになっていく。で、翻って小説を読むのがいかにたいへんかということで、またヘコまされるのである。
 それでも「バートルビー」が、定価924円(税込)の文芸誌中の一篇として載っているのだから、そりゃ私は「モンキービジネス」を買う。買うに決まっている。今回は、買ってから掲載に気付いたわけだが。
 そして、読んでみた感想。
 
 「バートルビー」は「バートルビー」だった
 
 当たり前である。
 私は小説の冒頭、バートルビーが登場する前に、語り手が事務所のあった建物の説明をする部分が何とはなしに好きなので、そこを書き写したい。
《私の事務所はウォール街-番地の二階にあった。一方の端は、建物を上から下まで貫いた、大きな採光穴の白い内壁に面していた。この眺めは、どちらかといえば生彩を欠いた、風景画家たちの言う「活気」に乏しいものと思えたかもしれぬ。だがそうだとしても、事務所のもう一方の端に目を移せば、少なくとも対照のようなものは得られた。そちらの方角の窓からは、堂々たる高さの、年月と恒久的な日陰のせいですっかり黒ずんだ煉瓦壁が、何ものにも遮られず見渡せたからである。そこにひそむ美しさを引き出すには小型望遠鏡も無用であったが、近眼の見物人の便を図って、壁は我が事務所の窓ガラスまで三メートル以内まで押し出されていた。周囲の建物がどれも非常に高層であり、私の事務所は二階にあるため、この壁と我が事務所の壁とに挟まれた空間は、巨大な四角い貯水槽に少なからず似ていた。》p152

 壁の説明は冗談なのか本気なのかといえば、「きっと本気だ」と感知されるからこそ生まれる面白さだと思う。「小型望遠鏡」。
 今回あらためて読んでみて、バートルビーは相当おかしいわけだが、語り手だってけっこうおかしい、というのがつよく感じられた。彼は、鉄の意志で何もしないことを選ぶバートルビーを追い払いたいのだが、そうすることに良心の呵責をおぼえ、この男になんとか手をさしのべるためのエクスキューズを編み続ける。
《より高尚な考察は抜きにしても、博愛の念はしばしば、きわめて賢明かつ分別ある原理として機能し、それを有する者にとって大いなる防衛手段になってくれる。人はこれまで、嫉妬の念ゆえに殺人を犯し、怒りゆえ、憎しみゆえ、利己心ゆえ、自尊心ゆえに殺人を犯してきた。だが、慈しみと博愛ゆえにおぞましい殺人が行われたというのは聞いたことがない。とすれば、単に自己利益だけを考えても、もっと適切な動機が思いつかぬのなら、人はすべからく、激しやすい人間はとりわけ、博愛と慈悲に走るべきなのである。》p188

「博愛と慈悲」を選択肢として、そっちに「走るべき」なんてアドバイスを、私はほかに読んだことがない。そしてやっぱり語り手は、(本人の自覚はともかく)バートルビーに良心以上のものを揺さぶられており、つまり本気でバートルビーに反応した、ただひとりの人間なのだった。

 あと、買おう買おうと思いながら忘れかけていた、この本を思い出した。

バートルビーと仲間たちバートルビーと仲間たち
(2008/02/27)
エンリーケ・ビラ=マタス

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追記:
最後のページに次号の発売日がたいへんわかりやすく大書されているのもいいと思った。
 モンキービジネスvol.2眠り号は、
 7月20日発売です。

 すぐ来そうだ。「眠り号」はますます楽しみである。
経過報告
 ジーン・ウルフ「新しい太陽の書」を読んでいる。
 まだ、第1巻『拷問者の影』を読み終えて、第2巻『調停者の鉤爪』の真ん中を越えたあたり。なにしろウルフであるから、「いま面白く読んでいる部分も、ほかの部分と照らし合わて考えれば、裏の意味とかたくさん見えてくるのかもしれない」という思いがつきまとう。かえすがえすも、この「かもしれない」がキモだと思う。だいたい、
《[…]真相は、わたしがいわゆる完全想起力という呪われた能力の持ち主の一人だということである。われわれがあらゆることを覚えているという、愚かな申し立てを時々耳にするが、必ずしもそうではない。たとえば、わたしはウルタン師の図書館の棚の配列を思い出すことはできない。しかし、多くの人が信じてくれる以上に、思い出すことはできるのだ。幼年時代にたまたま通り過ぎたテーブルの上の品物の位置とか、ある場面を以前に心に思い浮かべたことがあるとか、そして、その思い出した事柄が、それについての現在の評価とどのように異なっているか、というようなことさえも。》『調停者の鉤爪』p98

 語り手がこんなことを口走る小説を、すらすら読んでしまっていいはずがない。じじつ「!?」となる箇所もポロポロ出てくるし、「おまえ、そのうえ夢まで見るなよ」と言いたくなる。しかし、なにしろ初めて読むのであるし、今回は「それでも、立ち止まらない」ことにした(読み直しは「新装版」でやればいいや、と思っている)。そうすると、いまはただ押し寄せてくる流麗なストーリーを、「ああ、おれはまさにいま、現在進行形でいろいろ見逃しているのだろうな」と感じながらどんどんうしろにながしていく、という格好になってきて、これはこれで贅沢なのにはちがいなく、ゾクゾク震えてページをめくるのだった。
 たぶんねじれているだろう小説を読む側の私が、はっきりねじられてしまっている。不健全である。それにしてもセヴェリアンって誰なんだ。
 
 で、それよりも前、3月後半から4月あたまは、なぜか大江健三郎ブームになっていた。『燃えあがる緑の木』(1993-5)よりあとの小説はぜんぜん読まないまま、いつか読む気になるときを待っていたのだが、われながらとつぜん『宙返り』(1999)の上下巻に手を伸ばし、それから“古義人3部作”と呼ばれる『取り替え子』(2000) → 『憂い顔の童子』(2002) → 『さようなら、私の本よ!』(2005)まで、まとめて読んだ。
 夜中に思い立って部屋の大掃除をするような取り組み方で、それまでの読まない期間はなんだったのかと思えるほど何気なく読んでしまったのだけれども、4作続けて読み終えてみれば、あと残るのは去年刊行の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』であって、なんだろう、高校から読みはじめた大江のペースに「とうとう追いついた」感が、すごく意外である。この気持、わかってもらえるだろうか。そうか本当に現代の作家なんだな、と初めて実感されたというか。『臈たし~』を読んでないんだからまだ追いついていないんだが(あと、『二百年の子供』[2003]というのもあった)。

 で、その大江健三郎は、やはりどうかしている小説家だった。私の考える大江の長篇不動の第1位は『洪水はわが魂に及び』(1973)なのだが、いまも生きて書いている人に「不動の第1位」とか言っててはいけないんじゃないか、という気にさえなった。「新しい太陽の書」読書の合間を見つつ、ちょっとメモしておきたい。たぶんする。
春眠
「眠」という字を見つめると眠くなるのは私だけか。

■ 隣の駅の改札を抜けたところにある本屋には、今月23日(水)から新装版の刊行が始まる「新しい太陽の書」シリーズの第1巻、『拷問者の影』(ハヤカワ文庫)のポスターがばーんと貼られており、小畑健の手になる新しい表紙は柳下毅一郎ブログのこの記事で見ることができるわけだが、というかもうamazonでも見ることができるわけだが(→これ)、くだんの本屋ではそのポスターの隣に海道尊『ジーン・ワルツ』のポスターがどーんとばかりに貼ってあって、一瞬混乱する。あれはわざとなのじゃないかと疑われるのだった。
 ともあれ、2年だか3年だか前に復刊されたとき4冊まとめて買ったまま積んである天野嘉孝表紙の旧版を、私は23日までに読もうと思った。

■ 23日より前、14日(月)には、河出の世界文学全集でブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』が出る。1年くらい前に感想を書いたけど、いまなら「めくってもめくってもおもしろい」の一言。あと「全裸」。おすすめ。

■ さらにそれよりも前、今週の11日(金)には、宮沢章夫の演劇「ニュータウン入口」が、NHK教育の「芸術劇場」で放映される。22:30-0:45の予定(→これ)。
 公演の録画放送は何ヶ月か前にNHK-BSでやっていたが、こんどのは新作映像などを追加して再構成したものらしい。「富士日記2.1」に予告編映像がある(「Apr. 3 thurs.」分)。

■ ところで、宮沢章夫は筑摩書房の「Webちくま」「テクの思想と、その展開」というエッセイを連載していて、毎回笑わせてくれる。とくに最近の第41回から第46回まで続いた、「『問題解決プロフェッショナル[思考と技術]』を読む」は抜群によかったので「バックナンバー」をたどって読んでみてほしい。こういう視点でものを書いている人が「ニュータウン入口」を作ったと思うといよいよおもしろい。
あ、ありのままにこの1週間のことを

■ いちばんうろたえたニュース:

 新潮社、「トマス・ピンチョン コンプリート・コレクション」を刊行

 私はこれ、「悪漢と密偵」の4/4分で知ったんだけど、そこで引っ張られているブログの記事の情報源である「考える人」2008年春号の広告ページを立ち読んで確認したところ、刊行開始は2009年春、訳者陣はたしかこうだった。
 『V.』(1963、小山太一・新訳)
 『競売ナンバー49の叫び』(1966、佐藤良明・新訳)
 『重力の虹』(1973、佐藤良明・新訳)
 『スロー・ラーナー』(1984、佐藤良明・新訳)
 『ヴァインランド』(1990、佐藤良明)
 『メイソン&ディクソン』(1997、柴田元幸・訳し下ろし)
 『アゲインスト・ザ・デイ』(2006、木原善彦・訳し下ろし)

『ヴァインランド』池澤夏樹の世界文学全集にも入るわけで、なんだろう、改訳して装幀だけ変えるんだろうか。
 私がこのブログ(の前の、ウェブ日記)を始めたのは、『競売ナンバー49の叫び』の読書日記を書くためだったので、あれがずっとほったらかしのままこういうニュースを聞くと、びっくりというより動揺する。まったく勝手な動揺だが。しかし、シリーズタイトルは「トマス・ピンチョン全小説」でよくないか。
 2006年に「ガルシア=マルケス全小説」が発表されたとき、これはもうまちがいなく予定から1年、2年とズレていくんだろうと思ったのに、あれは意外にもきちんきちんと刊行され、もう完結した。あっちのトップバッターは最新作の『わが悲しき娼婦たちの思い出』だった。ピンチョンのほうは刊行の順番についてまだ何もわからないのだけど、まさか『メイソン&ディクソン』から来るのだろうか。個人的には、『V.』から原著の発表順で出してほしいと思う。
(『メイソン&ディクソン』が最初に出たとして、それを読んでほかのも読みたくなった人は、現行の国書版『V.』や筑摩版『競売』を買いたくなるはずで、その際の葛藤とか逡巡を想像すると胸が痛む。これも勝手だが)

 あとピンチョンは、この記事でもちょっと触れられていた。

 「作家への確信、名作生む マシュラー氏」(読売新聞)
 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080327bk01.htm


■ 「早稲田文学」復刊される

 出たんだ、と知って次の日買いに行く。正式には「第十次早稲田文学復刊1号」か。まだほとんど読んでいないが、若島正&いとうせいこうの、ナボコフとチェス対談は面白かった。amazonでも買える。
 
早稲田文学1早稲田文学1
(2008/04/01)
川上 未映子蓮實 重彦

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 ついでに「WB」vol.12も、もらってくる。ロブ=グリエはちょっとかっこよすぎるだろう。川上未映子には、「国歌斉唱のご依頼」さえあったらしい。


■ 柴田元幸は文芸誌まで創刊するという

 柴田元幸×ヴィレッジブックス「モンキー・ビジネス」
 http://www.villagebooks.co.jp/villagestyle/monkey/index.html

んで、それのイベント@青山ブックセンター。

 『モンキービジネス』創刊記念 トークショウ&サイン会
 http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200805/200853.html

 ふたりとも働きすぎだと思う。で、青山ブックセンターといえば、

藤本和子×岸本佐知子のブローティガン対談に行ってきた

 4月5日(土)、17時より。考えてみたら、キレキレのセンスを持った女の人が年齢を重ねた姿、というのをこれまで見たことがなかった。藤本和子氏のことである。まだ印象が強すぎて敬称略にできない。
「ハードカバーの『芝生の復讐』は、もしかすると品切れなのかなあ」(大意)などとおっしゃるので、会場中が心のなかで敬意あふれるツッコミを入れたと思う。脱線しても話を忘れても、出てくる言葉のいちいちに迫力があった。
『アメリカの鱒釣り』と『愛のゆくえ』以外はブローティガン作品が読めなかった2003年、河出文庫に入った『西瓜糖の日々』を持ってミスドの椅子に座り、最初のページをめくったときのことを私は当分忘れないだろう。文章読んで周囲の音が消える、って経験はなかなかない。なかなかないけど、本当にあるのだった。


リチャード・ブローティガンリチャード・ブローティガン
(2002/04)
藤本 和子

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[追記]
ピンチョンニュース、「悪漢と密偵」で引っ張られていた元のブログであるところの「考えるための道具箱」をいま見たら、続きがアップされていた。
これ→「◎ピンチョン、その2」
私が書くことなかった。なんだか申し訳ない気持になった。
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