2008/03/27

近況という名の犬

 タイトルに意味はない。

■ この数日、パソコンに近寄りもせず本を読んで「やればできる」感を味わっていたのだが、きのう26日夜にメールだけでもチェックしておこうと見てみたら、青山ブックセンターから届いていたイベント情報メールに驚愕。

 『芝生の復讐』 リチャード・ブローティガン/著 (新潮文庫)発売記念
 藤本和子×岸本佐知子 トークショー
 http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200804/_200845_1.html
長らく入手困難だったブローティガン『芝生の復讐』の文庫化を機に、翻訳者の藤本和子さんと、藤本訳ブローティガン作品を読んで翻訳家をめざしたという岸本佐知子さんに、ブローティガンという作家について、翻訳について、またその他もろもろについて、対話していただきます。
 ○ ○ ○
■2008年4月5日(土)17:00~(開場16:30~)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■定員:120名様
■入場料:500円(税込)電話予約の上、当日ご精算
■電話予約&お問い合わせ電話:
青山ブックセンター本店・03-5485-5511
■受付時間: 10:00~22:00
■受付開始日:2008年3月26日(水)10:00~
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。)
※トーク終了後にはサイン会を行ないます。

 これは行きたい。てか行く。しかしこれ、定員が1200人であっても瞬時に埋まるくらいのイベントであると私には思われるのであって、こないだ「メールが届かなくなった」などと悪口を書いたのは「もう席はない」というかたちで罰を受ける伏線だったのか、嗚呼めぐるよ因果は、などとやきもきしながら夜を明かす。今日、27日昼に電話したところ、あっさり予約できたうえ「まだ余裕あります」と教えていただいたのは何かまちがっている気がしてならない。
『芝生の復讐』ことRevenge of the Lawn は、古本価格のあまりの高さにブチ切れペーパーバックでめくったが(→これ。小説3作が1冊にまとまっていてお得。これこれも同じ体裁)、ひとつ数ページの短篇が集まってできており、私のつたない読解力でもこの作家の「ポップな非リアリズム」(by柴田元幸)を堪能できた――つもりになれた。はやく藤本訳で読みたい。それにしても、上記リンク先にも飾ってある文庫版表紙のかっこよさは何事だろう(→新潮社のページ)。

 ブローティガンと言えば、宮沢章夫のあたらしい小説「返却」も読んだんだが(「新潮」2008年4月号掲載)、どうして「ブローティガンと言えば、宮沢章夫のあたらしい小説」なのかも含めてまた今度。


■ とか言いつつもうひとつ。
「TV Bros.」の最新号で紹介されていた、こういうサイトをさっき見た。

 「YouTubeで学ぶコーヒーの入れ方」
 http://www.cafefan.net/

 ドリップの最初、その膨らませ方を見習いたい、と思ったりはしたものの、自分がコーヒーは好きだしコーヒー入れるのも好きだけど、“おいしいコーヒーの追求”とか“こだわりの入れ方”はどうも苦手であるのがあらためてわかった。だから“コーヒー道”、“男のコーヒー”、“隠れ家でコーヒー”の類には(もしあるとして)さらに興味がない。きっとこだわった方がいいんだろうが、どうしても、てきとうに入れてほどほどにおいしければそれでいいじゃないかと思ってしまう。
 たしかフォークナーの小説のどれかに、南北戦争に従軍した元兵士の回想のなか、追い散らした敵兵のキャンプ跡から本物のコーヒーを見つけてヒャッホー、みたいな場面があって、ぜったいてきとうに入れたであろうそのコーヒーがやたらおいしそうだと思ったのをよくおぼえているが、それ以外のすべて(タイトルとか)がうろおぼえなので使えない記憶である。でも「使える記憶」って何だ?とも思うのだった。フォークナー読んでそんなこと言っていいのかという気がいまちょっとした。
2008/03/21

対談ふたつ

■ さっき知った話。
 2週間ちょっと前、大江健三郎と伊集院光がトークをしていた。
 トークというか、伊集院のラジオ番組「日曜日の秘密基地」に、大江がゲスト出演したという。知らなかった。知っていたとしても、うちにはラジオがないので聞けなかった。でも、ググってみると記録してくれているブログがあった。ほかの人を介して、というクッションが、この話の内容だとかえってふさわしい気もする。

 大江健三郎v.s.伊集院光1「M17星雲の光と影」
 http://plaza.rakuten.co.jp/norimasa1718/diary/200803030002/

 大江健三郎v.s.伊集院光2 (同)
 http://plaza.rakuten.co.jp/norimasa1718/diary/200803030001/


■ 何の関係もなく、こっちは去年の11月に行われたトークショーの再録。

『灯台守の話』刊行記念 岸本佐知子さん・清岡智比古さんトークショー
 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/talk0711_1.php
清岡:これを言うとみんなから「おまえは馬鹿だ」って言われるんですけど、私も本当にね、自分に習いたかった(笑)。

 やたら面白い。「窓から落とされる語学」。行けばよかった。この記事、2ヶ月くらい前に白水社のメルマガで知ったんだけど、いま白水社サイトに行っても見つからない。もしかして秘密なのかと思ったが、はてなブックマークなんかにも入っているんだから貼っていいだろうと判断。
 
 そういや最近、トークショーの類に行ってないなと思ってメールを調べてみると、今年に入ってから、青山ブックセンターのイベント情報メールが一通も届いていなかったことがわかる。登録し直す。なんだったんだろう。
 
 あと、こんなイベントもあったらしい。

 シンポジウム「トム・マシュラー 出版の極意を語る」「JLPP」)
 http://www.jlpp.jp/news/detail.html?n_id=51&n_type=1
2008/03/19

「Coyote(コヨーテ)」No.26(2008年4月号)

Coyote (コヨーテ)No.26 特集:柴田元幸[文学を軽やかに遊ぶ]
スイッチ・パブリッシング


 大判で表紙がツルツルで写真がいっぱい、「旅行」ではなく「旅」がテーマ、そんな雑誌で柴田元幸の特集。これは、半年くらい前にポール・オースターの『シティ・オヴ・グラス』を、柴田訳「ガラスの街」として一挙掲載した雑誌でもある。
 そりゃ私はミーハーな柴田ファンだが、本人の生い立ちだとか、自宅のグラビアにまで興味があるかといえば「なんかそれはちがう」のである。そう思って歯噛みしている人は日本中にいるだろう。かりに本人がサリンジャー並みのどこへも出てこない人間であったとしても、たとえばバーセルミの短篇「学校」の翻訳『Sudden Fiction2』所収)ひと文字ひと文字が動かないならそれで十分だと思っているわけである。トークショーには行くけど。ところが、ある翻訳家の方のブログで、たいへんな記事が載っていると知りあわてて買ってきた。それはたしかに、90ページにあった。

 スティーヴン・ミルハウザーが、柴田元幸のことを書いたエッセイ。訳してるのは岸本佐知子。

「おれのための企画か。二重三重に」と思ってしまう私のような人間が、やはり日本中にいると思う。“自分の小説を訳してくれる、モト・シバタ”について寄稿している作家は、ほかにもスチュアート・ダイベック、バリー・ユアグロー、ポール・オースターといたが、ミルハウザーのがいちばん感動的である。そう、私は最初の3行で感動してしまった。ミーハーでよかった。
 ほかにも、この雑誌の編集長(新井敏記)による柴田インタビューはたんなる相槌を打つのにとどまらず、答えの先にある話を引き出していて、なにより、柴田元幸じしんが訳したのではない小説についても多くを語らせているところが面白かった。トルーマン・カポーティについての、こんな感想をメモ。
《「ミリアム」あたりは名作ということになっているし、すごくいいとは思うんだけど、主人公は怖がっていてもカポーティが怖がっている感じがしない。操作している感じ。でも「無頭の鷹」は本人もおののいている気がする。》p81

 つまり、この雑誌は「買い」だった。食わず嫌いはいけない。
 反省し、謹んでおすすめする次第。
2008/03/16

大江+高橋:対談「現代文学への通路」(1990)


 こないだ感想を書いた『治療塔』のあと、続く『治療塔惑星』に取りかかる前に、大江健三郎は「現代文学への通路」という題で対談をしている。相手は高橋源一郎。「新潮」の1990年9月号に掲載(125~145ページ)。

 これに限らず、文芸誌に載る対談のたいていは、いちど載ったら載ったきりで、そのまま消えていく。海外文学についての対談なんかは特にそうだ。ものによっては、すごくもったいないと思う。
 この大江+高橋対談は、そのもったいない方だと思うので、以前図書館でコピーしてきたものから、なるべくたくさん書き写してみたい。

 そんな動機だから、以下、かなり長いです。話題としては、「読みの二重性」、「辻褄合わせ vs 裂け目」といった問題をめぐるものになっていく。いちばん多く出てくる固有名詞は「レム」じゃないかと思われる。

 冒頭、高橋源一郎は、SF批評家(森下一仁)が『治療塔』の書評で「戸惑っている」様子を紹介するところから話を始める。科学的な整合性から言えば、『治療塔』は筋が通っていない。でも、それと作品の価値は切り離すべきかもしれない。「どうしても読み方が二重になってしまう」。
高橋 […]サミュエル・ディレーニィというSF作家がいます。大学でSFを教えたりもしているんですが、彼はいつも、いわゆる純文学プロパー、純文学ばかりを読み純文学を文学最高のものと信じる人たちがSFを読む場合にSFの読み方を知らずに読み、見当違いの批判をする、と文句を言っています。つまり、SFにはSF固有の読み方があり、文学作品としての善し悪しを判断する基準とは別の基準がまた存在するわけです。ですから、ジャンルの特性上、いい作品は必ずダブル・リーディングになってしまうんですよ。[…]

大江 「近未来SF」という広告は、優秀な編集者が考えてくれたんですけど、僕は「ジャンルSF」とは考えないで書いていました。確かに、僕がSF読者として読むとして『治療塔』を読むと、もっと真面目にやってもらいたいと言ったと思うんですね(笑)。夜遅く原語や翻訳やらでSFを読んでいる時、しばしば真面目にやってくれと言いたくなるから。科学的に基本的な筋は通してもらいたい。[…]ところが、自分で『治療塔』を書く時、科学的には一応正しいという前提、それもじつは仮の前提ですけれども、それに拠ることは考えないで書いたわけです。[…]》pp126-7

大江 遠い惑星に辿り着くという設定で書かれたSFを読んでいて、いつも行ったら帰れないだろうと思います。[…]僕は太陽系の外の惑星に行くとすれば、帰ってくる座標系はない、と未来を理解しています。ところが僕の小説の場合、帰ってこないと始まらない。帰って来るという設定はSFとして成立しないだろうと思いながら書いたわけです。ところがそうした批評に接しますとね、SF作家は真面目に、科学の原則に従ってやれと読者としては怒りながら、作者としては曖昧なことを書いていると反省するんです。[…]》pp127-8

高橋 […]僕がいま一番説得力があると思うのはパトリック・パリンダーというイギリスの批評家が紹介している考え方です。彼はそのSF評論の中でカウンターでもサブでもなくてパラ、つまり文学という捉え方をしています。文学あるいは「主流派文学」という閉域の周縁にあるジャンル、あるいは文学に対する弁証法的な他者という見方ですね。つまり中心に位置することになってしまった文学は絶えず自分を純化する必要があり、余分なものを外に吐き出してしまう。それがSFやミステリー、普通パラ・ジャンルと呼ばれているものでしょう。これは周縁と中心の関係になるわけですが、文学史を遡ってみれば少し前まで小説というジャンルそのものが文学の周縁にあった。アリストテレス以来の分類には入っていない、周縁に発生したパラ文学だった小説がいつの間にかパラが取れて中心となり、旧来の中心だった叙情詩、叙事詩をも組み込んで自己純化してゆく。その運動の過程で、周縁にSFが生み出されるという構造になっています。ただ、ここで問題なのは、排除された他者もまた、中心の文学が自らを純化するのと同じように、自己純化に向かうベクトルを持っているということでしょう。すると、そこに意味のない対抗関係ができてしまうんです。これがSFというジャンルの難しいところです。ですから、少数の優れた作家は周縁と中心の間を移動します。ピンチョンなどはその典型だと思いますし、レムや筒井さんもそうだと思います。
 パラ・ジャンルの外側には外部の現実が広がり、そこに交通が生まれます。パラ・ジャンルは交通している、もしくは交通すべき文学領域なんです。かつてパラ文学だった時、小説も外部の現実と交通することは自然なことだった。自分自身が中心になった途端に外部を見失ってしまったのではないでしょうか。自らにとって危険な外部は、直接的に外部の問題としてではなく、いつもパラ・ジャンルの問題としか見えないわけで、主流派文学がパラ文学に対し様々な反発を感じるのも当然でしょう。僕にとって興味があるのは、ジャンルの境界を移動する境界侵犯作家です。[…]ところで、僕は、一人のファンとしてはいわゆるゲットーSFの愛好者です。大江さんは海野十三とかジャック・ウィリアムソンというあたりから読み始められたという話を聞いたことがあるんですが、僕は一九五〇年代のハインラインとかアシモフ、ブラッドベリやブラウンから読み始めたSFファンですから、どこかで違いがあると思います。ゲットーSF的な観点でレムやストルガツキー兄弟を読むと、どうしても二重の読み方になってしまうんです。彼らはやはり、ジャンルに内在する可能性と必然性に従って、どこかで文学の中心と触れざるを得ないところまで追い詰められた作家たちなんですね。》pp128-9

大江 […]いまの話で僕に面白いのは、まず、一般にSFは、本当はこんなことはないんだけれども、一応こういう話を作ってみようというところから出発して、その代わり科学的に考えられることは全部誠実にやってみようする。最初に事実生の否定ということがあって、これはつくりものにすぎなということがあって、その上で小説作りに熱中していくわけですね。ところが、純文学の書き手たちは、小説を書くこと自体が、これはすでに真実の再現ではない、ということを忘れている。いつの間にか、小説は本当に真実を反映したり、現実とつながっていたりはしないということを忘れている。それと同時に小説が文学の中心の位置に進んだとも思うのです。しかし最初に小説を書いた人たちは、ああ、小説は贋物だ、これはつくりものにすぎないという認識を一挙になしとげていた。たとえば『ドン・キホーテ』。騎士小説は真実じゃないのに、それを読み耽っているうちに現実と小説が入れ違ってしまった読書好きの田紳を書いている。スターンの『トリストラム・シャンディ』も現実の再現など思ってはいない。小説が始まった十六世紀、十七世紀に、すでに小説は現実とは無関係なつくりものだという認識があった。その上で、しかし小説で語られる世界を一応信じてみようじゃないか、ということだった。二重性の問題は、一般の小説にずっと前からあったものです。それをとくにリアリズムの段階で忘れてしまった。それに対して、SFの人たちは、小説はつくりものだ、つくりものだけれども頑張ろうじゃないかという点で、いつも反省しながら新しいジャンルをつくりだし続けている。いわゆる純文学の作家とちがうSF作家の真面目さはあきらかなんです。》pp130-1

大江 レムとストルガツキー兄弟が僕の読んでいるSFで、高橋さんと重なる部分じゃないかと思います。それから後は僕はよく知らない。それ以前のことには高橋さんの方で関心がないんじゃないかと思うんですけど。レムもストルガツキー兄弟も、両方ともSFは現実とのつながりをまず切ったものだ、メタ・フィクションだということをよく知っている人ですね。レムはじつに奇怪な空想を考えて、それだけの奇怪な空想を提示すれば、SF小説の目的は終わったとしてもいいほどだと思いますけど、レムはそう考えない。奇想の全部を、フットボールの試合の攻め方のモデルづくりのように、ちゃんと布陣しましてね、わあっーと攻めていくわけですね。小説のちょうど半分あたりで奇想が設定されて、それで終わるかと思うと、そこから押し出していく。常識的なしめくくりは不可能に決まっている。[…]》p131

 高橋源一郎はこれを受け、「SFと現代文学」というテーマを仮定したときに思い浮かぶ作品として、(SFのなかでは周縁にあると念を押してから)次の四つを挙げている。

 ストルガツキー兄弟『宇宙終末十億年前』
 レム『天の声』
 ディック『ヴァリス』
 ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』

高橋 […]ではこの四つの作品に共通しているところがあるのだろうか。どれも失敗作と言うのが酷としても、少くともその作家の代表作とは呼べないものです。というのは、普通の意味でのフィクション言語のつながりが途切れてしまっている。読んでいて、バランスが悪い。落ちつかない。その代わり、大江さんがお使いになる言葉を用いるなら、強靱な「構想力」のある作品だと思うんです。いわゆる「いい」文学作品は、まずある疑問なり問題を提出し、それが半分解決され、また未知の疑問が提出され、またそれが解決され、という具合に読者が扉を一つ一つ開けて進んでゆくのが普通ですが、そういう点では全く不親切な作品ばかりなんです。作品の中にたくさん謎が出てくる。それを解決する答えは最後の辺りに出てくるんですが、これが果たして説得力があるのかないのかよくわからない。あまりに巨大な謎に対する奇想天外な答えだからです。通常、我々は文学の善し悪しを判断する際に説得力という言葉を使いますね。文体の善し悪しという規準と並んで、論理的に破綻しているとか説得力がないという言い方をしますがそういう意味での説得力はいまあげた作品には乏しい気がします。つまり、あまりに裂け目が大きすぎて、何をもってしても埋め難くなってしまうわけです。[…]最後に一つ答えが提出されるんですが、これが全く見当もつかないような答えなんですね。だからSFとして説得されたのかどうかこちらには判らない。だが、感動のようなもの、ある大きいものを読んだ、というか大きすぎるものは読めないのだという確信はわきあがってくる。ではこれはSFではなく文学を読んだということなのか。それとも、SFでも文学でもなく読むということが非常に奇妙な経験ではないのか。そんな巨大な裂け目の存在を考えさせてくれる。[…]SFは、奇想が根本になければならないにもかかわらず、同時に認識可能でなければならないという矛盾を含んでいます。さっき言った通り、とんでもないアイディアを妙に理詰めに説得しなければならないのはSFの運命ですが、その矛盾はフィクション言語がとりあえず共有しているルールの曖昧さを壊し、認識そのものを問うというところまで行き着いてしまうこともあるんですね。

大江 小説にしても詩にしても、裂け目が大きく開いたままで終わるというか、テキストは裂け目を開いたまま終わって、そこから読み手のイマジネーションがはっきり開かれるというのがいいかたちだと僕は考えています。ところがとくに小説を書くということには、はじめ裂け目を開くことはできるんだけれども、その開いた裂け目をなんとかつくろって大団円をもたらしたいという本能みたいなものが働くんじゃありませんか? もしかしたら人間の認識の形そのものがそうなのかもしれないとも思うんです。現実の上で収まりのつかないような裂け目を開くんじゃなくて、一応裂け目を開いて見せるんだけれども、それがやがては完結して、裂け目が閉じて筋道が通うという事態をつくるのがどうもフィクションではないか? つまり現実というものは筋道の通ったものであるという幻想を示すのがフィクションです。一方、科学とは何かというと、いまおっしゃった、いろんな認識論の違いが生じてくるように、現実というものは筋道の通らないわけのわからないものだということを発見してきたのが現代の科学であると僕は考えています。[…]SFが真面目なのは、現代科学ともども予定調和信仰を超えたものを発見してしまう、裂け目を発見してしまう態度が作者にも読者にもあるからです。純文学のフィクションのほうは、世界というものはまとまりのあるものですとなおいいつづけている。ところが、そうしたフィクションのなかに現実そのもののような大きい裂け目を発見してしまう天才が時どきあらわれるわけです。裂け目を発見したまま、その超え方は示さずに終わるんだけれども、その小説は決して失敗していなくて、僕たちに新しい認識を教える小説としてあるわけですね。[…]》pp133-4

大江 SFを読んでいて、きまって面白いと思うのは、奇怪な発想がいつもしっかり説明してある、そういう細部ですね。圧倒的に強い宇宙船がやってくるとすると、それがどういう合金でつくられているかということが書いてある。それに乗っている人間も、なぜこういうものに乗って金星に来たかがちゃんと書いてある。ところが、いわゆる純文学は、僕など典型だけれど、説明しない。夫婦なんていうものがなぜ存在して、茶の間でめし食っているのか。奥さんは苦しく嫉妬したりしている。嫉妬とはいかなる人間の感情であるか、ということを説明しない(笑)。純文学が説明しないのは自分と違った人に読んでもらおうという気がないからか。自分と同類が読むだけということで、二重、三重の防壁で守られて書いている。SFの作家の天才的な人びとは、自分が書いたり考えたりすることが一般人に受け入れられると思ってはいないんじゃないかな。なんとか受け入れてもらおうと説明したりしているんだろうと思うんです。》pp135-6

大江 […]いろんな新しいものがつくり出されるのもゲットーだし、非常に古いものがどんどん、どんどん古びて洗練をきわめ、そして腐敗しはじめるのもゲットーでしょう。それから、そのなかでは社会関係も非常にはっきりしているわけですね。[…]だから、どうも人間の社会とか人間の運命とかということについてよく考えることができる。だから、ゲットー的なもののなかで検討することは非常に重要だと思っているんです。
 ところが純文学なんかは、いわゆる文学というものは、ゲットーなんだけれども、ゲットー性を失っているわけです。非常に抽象化されているんです。僕らに対する批評なんかそれが現にあるんですけどね。だから、純文学における市民小説なんていっても、私小説と五十歩百歩なんですよ。それは、どうも徹底してジャンルを破壊してしまうとか、裂け目を発見してしまうということはないな。ところが、実際の市民生活なんていうのは裂け目だらけなんじゃないですか。裂け目だらけということを表現するにはとても大きい天才が必要です。[…]》pp136-7

高橋 […]奇想とか裂け目は、作家には多分最初の段階で一挙にやって来ると思います。しかし、読者にとっては奇想に辿りつくまでものすごく長い道があるわけで、レムやストルガツキー兄弟はそこへもってゆくための道のりを考え抜くんですね。特に、ストルガツキー兄弟を読んでいるとカフカと似ているなあと思うことがありますね。ストルガツキー兄弟の場合、ソ連の社会体制とアナロジカルな背景が出てくるので逆に誤解されてしまう危険もあるんですけれども、奇想を提出する状態に辿りつくまで長い平坦な道が耐え難いくらい続くんです。さっきも言いましたが、『ソラリス』は本当に完璧な作品なんですが、完璧ゆえに裂け目がもはや見つからないわけです。ところがカフカの作品は、そういう意味では完璧ではないんですね。確かに『審判』や『城』は完璧と言ってみたくはなりますが、何か終わっていないような気がするんですね。終わっていないということは、読者を小説的状況のなかに置き去りにしたまま中断するということなんです。

大江 そう、そう。重要なことだと思いますね、終わっていない小説を書く才能は。それは天才の発明で、しかも同一の発明を繰り返すことは出来ない。宇宙から隕石が落ちてきて作家を直撃するような感じで着想される。終わってないんだけど、そのこと自体が本当に僕たちのイマジネーションを開き、かつ全面的に説得するという小説があるんですね。たとえばカフカで言えば『審判』の最後なんかも。サルトルは、イマジネーションは小説を読んでいる間働くもので、閉じてしまうと終わると言っていた。どうもそれはサルトル自身の小説の欠点ですね。本を閉じてしまっても終わらない小説があって、僕らの心に傷のように残っている。カフカにしても、フォークナーにしても。それが現代の小説の理想だと僕は思うんです。僕たちはなんらかの根拠のない妄想によって、現実生活もフィクションも完結すると信じている。それを揺さぶらなきゃいけない。ところがとくに純文学では、大きい裂け目を開いて小説の生成そのものについて反省させる力が衰弱してきている。ところがSFのなかにはしばしばそれがあるということです。
 さて、高橋さんは『ソラリス』を完璧だといわれたけれど、そうでしょうか? レムは原形質というものを考えて、それは初期の小説にも原形質の小川みたいなものとして出て来ました。『ソラリス』には原形質の海があって、それはこの惑星に行った人間の意識にのみあるものを、向こう側の好意で再生してくれる。たとえば障害を持った子どもと同じようで、しかし完全に健全な子どもを僕に与えてくれるような、そういう出すぎたことをする原形質のもとじめがいるわけですね。失礼だと僕は思いますけど。そこで、何度も何度も、自分の殺した奥さんが具体化して出て来る。それを殺したりなんかもしたあげく、宇宙飛行士はどういうわけかもうあらわれなくなったその女性について思いつつ、地球に帰っていく。心のなかで、あの女性について、自分は希望を持ってはいないけれど、期待は感じているといって終わっている。そういう奇怪な発想と、その徹底から進んで行って、最後にお説教するという点で、レムの定型を踏んでいると思います。[…]
 
高橋 […]僕が『ソラリス』が完璧だと言ったのは、よく出来ているという意味ではなく、ある地点でまとまってしまったという意味を含めて、消極的な評価なんですね。「原形質の海」を含めて、レムの作品を説明することはそんなに難しくありません。別の知性体から発信される謎の暗号を解釈することの不可能性というテーマが一貫して流れていて、それは最終的には人間は他者というものを理解することはできないのだというところにつながっていくわけです。もう少し違った言い方をすれば、向こう側に不可能のものを見るということだと思うんです。普通、書けないことは書けないわけで、書けないと表現するしかないわけです。しかし、その不可能性をなんとかして表現しようとするのがレムなんです。ですから、僕はレムは一貫してメタ・フィクションを書いてきたと思っています。もう少し付け加えて言えば、欲望や記憶、願望などありとあらゆる人間的事象は、記述はもちろん可能ですけれども、部分的たらざるをえません。書くことの属性の中では絶えず脱落してゆくものが出てくるからです。完璧に書き尽くすことは不可能ですからね。しかし、完璧でなければ無意味ではないかという問いも書き手のなかには絶えず存在するわけで、その欲望が満たされることはありませんが、その満たされない欲望を書くことで、逆に書きえないものを照らし出すこと。それがたぶんレムの願望だと思います。『ソラリス』ではとりあえず、それを知性ある有機体の海という形で表現したわけですね。[…]》p138-40

 このあとしばらく、話題はレムとタルコフスキーのちがいになる。
 単純にいえば、小説と映画はぜんぜんちがうという話。
大江 […]僕は映画の側じゃなく、小説の側でずっとやってきたわけです。その場合に必要なことというと、小説をどのように物語るかということに尽きます。つまりナラティフの問題として僕は考えているわけです。小説において――簡単に言えば物語ることが出来ないものをいかに物語るかということに力を注いでいるわけですね。それもナラティフでこまごました細工をして、物語り得ないものが物語られているという幻想を与えるというのではなくて、ナラティフで、語り方で根本的な工夫をして、どうしてもいままで物語られ得なかったもの、語ることが不可能だったものを語りたいと考えている。レムもそれを考えているはずです。かれの場合で言えば、原形質という着想。それが人間の心理を読みとって、人間まで複製したりする。これは時間の要素をなくして、一瞬としてとらえると、イメージとしては明瞭に提示出来ます。海がある。そこから複製された人間が出てくる。ところが、どのように工夫しても、ナラティフというものにはどうしても時間の要素が入って来ます。女性が復元される以前も必要だし、復元された後どうなるか。その翌日復元された人間とこちら側との関係はどうなっていくかということで、時間がどうしても入ってしまう。時間よ、止まれと言いたいところだけど、ナラティフを続ければ時間は止まらなで進行する。そこで問題が生じる。時間の要素をいれて物語っていくと、どうしても辻褄が合うようにしてしまう。それが言語というものなんですね。絶対に辻褄が合わないような話は、天才でもなかなか出来ない。それで苦心しているわけです。
 ところが映画の場合は、一瞬の映像というものを示して、ソラリスの海で、ブツブツ、ブツブツ泡立ったりなんかしている、どうも何か起こりそうだというシーンだけで説得力があるんです。それは時間にそって物語っているわけじゃない。絵を見せているわけですね。[…]》p141

高橋 辻褄を合わせるという問題についてなんですが。かりに僕が『治療塔』を書いたとして、十年間で往復できる恒星系などないという問題は幾つかの便宜的な説明を挟むことによって解決することも可能でしょう。しかし、そういう説明にどんな意味があるのかとも思えるのです。もともとフィクションなのですから、辻褄が合わなくたってかまわないはずです。それをどうしても辻褄を合わせようとするプレッシャーが僕自身のなかにもあるんですね。書き手としても、辻褄が合っていないと気持悪いと感じますから。もちろん辻褄が合わなくてもいいシーンなどいくらでもあります。たとえば、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』でも何でもいいですけど、ちょっと待ってと言いたくなるところがたくさんある。『百年の孤独』のなかにも、いきなりUFOが出てきてこれは何だと思うけれども、結局全体のストーリーには関係がないのでそのまま通り過ぎてしまう。みんな、因果関係ではなく文体によって処理しているわけですね。しかし、もっと別の処理の仕方がないだろうか。さっき挙げた四つの作品のように、辻褄など合わなくとも、作品が途切れてしまうくらい大きな裂け目が出来ていても、なおかつその裂け目を飛び越えるように、あるいは立ち止まるようにして書かれた作品もある。それは、SFと読んでいる時によくぶつかる経験ですが、純文学の場合は自動的に辻褄が合ってしまうんですね。》p142

大江 […]人間がしゃべるということ自体どうも辻褄合わせることになるな、と思う。少し前に歴史を物語る言葉は支配体制のイデオロギーの産物であって、ニュートラルな歴史の記述はないということが言われましたね。もっと根源的に、支配体制も何も越えたところで言葉が意味のあるものとしてつくられている。現実世界とは別の、意味の体系としてある。現実世界はわけのわからぬものとしてその向こう側にあるんだということを思うわけです。僕たちが自分のなかにある意味の体系をぶっ壊して、割れ目をつくろうとするのは、そういうことで現実と近づきたかったのだと思う。「異化」もふくめ、そのために小説のいろんな発明が行われてきた。僕らもそれをやっているのだと思う。[…]
 もっとも現在の小説、いわゆる普通の小説一般について、もうわかった、小説に出てくる人間は木偶の坊で、大同小異だというあきらめがあるのかもしれない。問題は、偉い人物、奇怪な人物が出てきたりすることじゃなくて、それこそ言葉の戯れというか、言語的なゲームが小説の本質らしいというふうなことを考えて、文学のなかの人間像の特異性については、気にしなくなっている。それでSFに木偶の坊が出て来ても、あまり抵抗を感じないで読むということがあるのかもしれませんね。なら僕らが批判されているわけで、その点でも、SFはメタ・フィクション。だいたい小説を読むことの根底にまず遊戯性を置くということはかなり高級なことですものね。小説の発生以来、本当はそうだったんじゃないか。『トリストラム・シャンディ』にしても『ドン・キホーテ』にしても、同時代に読む人はあまり真面目に読んでいなかったろうと思うんです。ゆったりと余裕をもって、一つ楽しんでやろうと思っている、そういうものとして小説がある。書くほうもそれを考えて、ソフィスティケーテッドな小説を書いている。ところがトルストイやドストエフスキーの大文学で小説が人生の教典のようなことになってしまった。それへの反省は行われたけれども、残っているところがありますからね、いわゆる中心の文学には。
 
高橋 大江さんのおっしゃるように、言葉は現実とは異なった一つの意味の体系として存在している。それは、小説は一つの意味の体系として存在している、SFは一つの意味の体系として存在していると言い換えても同じですね。僕たちは現実に肉薄しようとして言葉を使うわけですけれど、たいていの場合そうではない別の体系にひっかかってしまう。社会学的観点から文芸誌を読んだ学者の評論を読んだことがあります。ここで行われていることは真実の生産ではない、ある同一性の再確認が行われているだけだとその学者は結論づけているのですが、それは純文学に限らずあらゆるジャンルについても言えることでしょう。その同一性を確認する手段が必要になります。それが、批評です。もちろんそれは、真の意味での批評と区別するために「文壇批評」とでも呼ばなくてはなりませんが。そこでの批評の機能は、閉域のなかで形成されたある一定の水準の「真実」からの偏差の測定だけです。これは未熟であるとか、これは失敗作であるとか、裁断する基準がどこかにあるわけで、その基準自体については決して手を触れられることのないシステムだ、と社会学的に言えばそうなるのかもしれません。僕は社会学的な「真実」のために小説を書いているのではないと信じているのですが。

大江 それはそうです。批評はだいたいそうで、いちいちの小説の作品を批評する基準はないですよ。ところが、みんなそれがあるかのごとく振る舞っているわけですね。それを制度化するというか、大きいシステムにしたのは社会主義リアリズムの批評で、それは現に生き残っていますよ。僕は、ああいうものへのそれこそペレストロイカが必要だと思います。東欧における社会主義の行き詰まりということを見るなら、社会主義リアリズムの批評の行き詰まりも認識しなきゃいけないと思っています、日本のこととして。
 僕たちが――どんな文学でもいいですが――文学を生き返らせるためには、根拠のない尺度というものを撤廃していかなければと思うんですね。その一つとして、いまおっしゃったけれども、SFならSFが先刻打ち壊している尺度というふうなことは、作家一般の教育として受け止めなければいけないと思います。》p143

 このあと高橋源一郎が、ディックの小説からお土産のようなエピソードをふたつ披露して対談は終わっている。
「いっそ全文書き写してしまおうか」くらいの勢いで始めたものの、ひとの喋り言葉をこれくらい引用していると、自分で自分が気持悪くなってくる。それを越えて思うのは「大江すげえ」ということだが、いかがだろう。
 もういちど書いとく。この対談は「新潮」の1990年9月号に載っている。
(辻褄の合わない文章を書くのがいかに大変かという話を、保坂和志も、去年の公開対談で力説していたのを思い出した、)

 対談のあとに書かれた『治療塔惑星』を高橋源一郎がどう読んだかは、時評のかたちで『文学じゃないかもしれない症候群』に書いてある(「起源のSFとSFの起源」)。そういえば穂村弘を知ったのもこの本だった。つくづく、ありがたい本だ。

 ついでにレム。国書刊行会から出た新訳『ソラリス』について、訳者の沼野充義と大江健三郎が対談をしていたはず。ググってみると、たぶんこの「すばる」2007年4月号だが、読んでないのでよくわからない。レムは話題のひとつ、くらいだろうか。

 講談社文庫版『治療塔』には、この対談を発展継承させた立派な「解説」がついているんじゃないかといま思いついたんだんだけど、こわいので確認しない。
 あと、これより前に高橋源一郎には、SFセミナーでの講演(というか、大森望との対談)もあった。そちらは「SFマガジン」1989年10月号に掲載。
 面白いことに、大江健三郎とはレムの話をし、大森望とはおもにラテンアメリカ文学の話をしている。どちらもすごい自然なのである。
2008/03/13

大江健三郎『治療塔』(1990)、『治療塔惑星』(1991)

岩波書店


 近未来。「世界が取りかえしのつかぬ破壊と汚染の泥沼に落ち込んでしまった」ために、人類は「スターシップ公社」を設立、少数のエリートである「選ばれた者」たちを乗せた宇宙船団が組織されて、地球を去った。どこか別の居住可能な星を「新しい地球」とし、人類を存続させるためである。この「大出発」のあと、地球の「残留者」たちは「再建運動」として生産のシステムを根本から組み換え、あらゆる産業を分割・単純化した(大量生産から「器用仕事[プリコラージュ]」へ)。古い地球が生活レベルを計画的に「退行」させることで持ちこたえているそんなところに、「大出発」から10年を経て、なぜか「選ばれた者」たちの大船団が帰還する――

 大江健三郎が18年前に出した「近未来SF」の2部作。私はずいぶん前に古本で買って読んだんだけど(2冊セットで700円とか)、岩波の同時代ライブラリーにも現代文庫にも入る気配がないと思っていたら、こないだ本屋で『治療塔』が講談社文庫に入っているのを見かけた。いずれ『治療塔惑星』の方も入るんだろう。それで私の思いが誰かに通じる可能性も開かれた気がするので、ここで言っておきたいことがある。

 これって『風の谷のナウシカ』(原作漫画版)じゃなかろうか。

 以上。あとはいわゆるネタバレなので、一応ご注意。

 小説は「残留者」のひとりである、「私」こと“リッチャン”という女性の一人称で進む。「大出発」のあと、「残留者」のあいだに根強く残る疑いとして、こんな意見をリッチャンは聞かされる。
《[…]宇宙船団を実現させた者らならば、次のような構想もまたいだきえたのじゃないか? それは「新しい地球」をもとめて旅立つより、あきらかに地に足がついた、文字通り地球の表面に足がついた考えだよ。
 宇宙船団で「選ばれた者」らが地球を離れる。その際かれらにある方法で改造をしかけてさ、改造人間としてしまう。どのように改造するかといえば、現在のレヴェルまで汚染されている地球でも健康な生涯が立派に送れる方向にさ。》p83

 そして実際、帰還した「選ばれた者」たちは、はじめ隠しているものの、身体に何かしら「改造」が施されていることが徐々にわかってくる(具体的には、「残留者」に較べて、彼らは若返っているようなのである)。ただしそれは彼ら自身による改造ではなかった。
 
 思い切り端折って書く。 
「選ばれた者」たちは「新しい地球」に到着できたのだが、生きていくうえで、そこの環境は古い地球よりも過酷なものだった。ところがあるとき、謎の建造物が発見された。タイトルになっている「治療塔」である。
 どうして「治療塔」なのか? その内部に入ってみると、体が光り出し、病気・怪我が治癒するのである。なんと死人さえ生き返ったという。これは一種の改良である。「治療塔」は、何ものかが人類を改変するために備えた装置としか考えられない。そのような改変が正しいのかどうか、「選ばれた者」たちのあいだでも意見は対立する。しかし、多数を占める肯定派は、汚染された環境でも生きられる改変された肉体を持っていま一度古い地球に戻り、「残留者」の支配の上に新しい社会を作り直すつもりなのだった……
 
 やっぱり、『風の谷のナウシカ』じゃなかろうか。
 
 もちろん、ちがいはいろいろある。『ナウシカ』のラスト(描かれたのは1993、4年)、“シュワの墓所”で明かされる人類の改造は、徹底的に計画的・人為的なものであり、改造された側は、その事実さえ知らない。『治療塔』で視点が置かれる「残留者」、つまり改造されていない方の人類は、『ナウシカ』では最終的に否定される側だった(いってみれば『ナウシカ』では、「残留者」の方が改造されている)。ナウシカと“墓所の主”のあいだで交わされる激論は、『治療塔』のリッチャンには、「新しい地球」で「選ばれた者」たちのあいだに起きたと伝えられるだけに過ぎない。何より、「共生」についての態度が真逆である。
 しかしそれでも私には、必要に迫られた人類の作り替え・もとの人類と作り替えられた人類の関係、といった発想のあり方が、大江健三郎と宮崎駿でクロスしているように見えてしまう。
 そんなのSFではよくある話だ、というのなら身も蓋もないのだが(私はあんまりSFを知らない)、そうだとしても、大江と駿はジャンルの伝統に依拠するのではなく、たぶん独力でそういう話を作っている。独力なのに交差した。そこが妙に面白かった。
(高校のとき、数学の先生が唐突に「私は宮崎駿はわかった気がするが、大江健三郎はまだわからない」と口にしたのだが、あれはこの対比を踏まえてのことだったのじゃなかったかと思う)

 勝手なことを書き散らしたついでに記憶だけで書くんだが、1994年に大江健三郎がノーベル賞を受賞したとき、受賞理由として「個人の悲しみを人類レベルにまで昇華した」みたいなことが挙げられていたと思う。どういう意味なのか私にはよくわからないのだけど、ナウシカ云々以外にこの『治療塔』を読んでいて何度となく浮かぶのは、「想像力がスケールを取り違えている」という感想だった。
 たとえば、「選ばれた者」のリーダーと「残留者」の指導者は、どちらも語り手リッチャンの親族である。もとの人類と改造人類とを分断する境界は、リッチャンと従兄弟との肉体関係で侵犯される。話が大きいのか小さいのか、めまいがする思いだ。人類を扱う構図が家族レベルに凝縮されているのか、家族の話が人類レベルに拡大されているのか、そしてまた、その手つきは巧みなのか、びっくりするほど粗雑なのか。いずれにしても小説は独特の歪みを持つ。たいていの作品でこういうスケールの混乱が起きる。バランスは、悪いというより狂っている印象。で、私にはそこが面白い。
 
 思いのままに偏った想像力を、破格にも見える日本語が支えている。そんな奇妙な建物を見るつもりで私は大江の小説を読んでいる。この人の小説は、ものによっては立派かもしれないし壮大かもしれないが、しかし何より、ひとつ残らず変なのである。
 上では『治療塔』のことしか書いていなかったが、続く『治療塔惑星』の方でこんなシーンがある。改造人類とのあいだに子供を作ったリッチャンは、「この風景こそまさに地球だと納得できる見応えのある」名所を見に行くことにする。それが「原爆ドーム」なのである。この小説の世界でも、ドームはあのままの状態で保存されていることになっているのである。
《――……広島が核爆発の火に焼かれていた間も、山のこちら側は緑で、谷間ぞいの道を傷ついた被爆者が顔の皮膚を子供のナプキンのように胸にたらしたり、背なかに恐竜の背びれのようにガラス片を突出させたりして、逃れて来たということだ。われわれの時代は、シンボリックにいっても、そのように逃れて行く緑地が狭められた時代だったね。
 ――やはりシンボリックにいうならね、朔ちゃん、私たちの顔の皮膚は剥けていないし、恐竜のガラス片の背びれもはえていないけれど、やはり死ぬか生きるかの境い目で宇宙の緑地をめざしたんだわ。[…]》p12

 ここでもやはりそういう話になるのかと、私はおどろいたのだった。これくらい変な人の小説を、たとえば政治的に「正しい」「正しくない」の尺度で測るのは、やっぱりズレているんじゃないかと私は思う。

治療塔 (講談社文庫 お 2-18)治療塔 (講談社文庫 お 2-18)
(2008/02/15)
大江 健三郎

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2008/03/10

ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』(1957)

オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)
青山南訳、河出書房新社(2007、「世界文学全集」I-01)

 この季節、引っ越しのトラックを見かける時期になると、毎年そわそわしてしまう。大学に入った年、新入生を相手にしたアメリカ文学の授業で、ある先生はこんなことを言った。〈移動すること〉と〈ひとつの声の持続〉をアメリカ文学の特色とするならば、ぼくらはいくつも代表作を挙げることができる、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、サリンジャーの『ライ麦畑』、そしてジャック・ケルアックのOn the Road ……
 
 この小説を読んだのは、去年の11月だったとここに書いてある。こたつを出した日。いま、そろそろこたつをしまうタイミングが気になってきたころに、記憶だけでメモる。
 読みながら気が遠くなっていくような話で、語り手の「ぼく」は、ふしぎな魅力を放つ男、ディーン・モリアーティにひっぱられ、北アメリカ大陸を東から西まで、車でずーっと横断する。たどり着いた西海岸で何をするのかというと、生活の隙を見て、今度は西から東まで、だーっと横断するのである。
 たしか、妻を置いてきぼりにし、金を借り、酒を飲み、二重結婚をし、友達の世話になり、離婚し、迷惑をかけ、よりを戻し、そのようなことすべてを、数回におよぶアメリカ横断の旅の合間合間に、こなしていく。「どういう元気だ」とも、「いい気なもんだ」とも、言えるだろう。なにしろ最後のほうでは、今度は“南”に楽園を求めてハンドルを握り、(たしか)本当に楽園を発見するのである。いい気なもんだ。
 でもその一方で、いわく言いがたい深刻さが貼り付いてもいる。年じゅう躁状態のようなディーンは動いていないと生きていけない風のような人間だが、しかし人間は風ではないので、生活していれば、いろんなものが絡みついてくる。そうなるとますます、居ても立ってもいられない。よし、行くぞ(大陸横断に)。このでかさ、直結ぐあいに笑いそうになる。
 それに、ディーンにひっぱられるとは言っても、「ぼく」のなかではふつふつ煮え立つ“ひっぱられたい欲”がいまにもこぼれそうになっていて、そこにディーンがあらわれるから、爆発的に反応する。おもて向きそう見えないようで、つねにそこにある、ふたりの“やむにやまれぬ感”が、私のような、先週7回の夜のうち6回をこたつで寝てしまったような人間にも、感じられる。たしかそんな気がした。だいたい、語り手「ぼく」の本名が「サル・パラダイス」って、何というかそれは、すでに反則とか奇跡じゃないのか。
(そういえば、あのアメリカ文学の先生が、この「ぼく-ディーン」の関係を、「イシュメール-エイハブ」や、「ニック-ギャツビー」と並べていたのを思い出したけど、要点は忘れた。だいたい当時はこの新訳がなかった)

 いま、もう、作中で起きる出来事をほとんど忘れてぱらぱらめくってみると、どのページも文章の走り方が気持いい。しかもそこには(たしか)、自由そうなふたりも年を重ね、それによりスタンスが変化していくさまもきめ細かく書き込まれていた。なるほど立派な小説であるなあと思った。
 あとは端を折ってあったページから引用。走っている場面は選びきれないので、こんなところから。
《おばは一度、男が女の足元にひざまずいて許しを乞うまでは世界は平和にならないよ、と言ったことがある。でも、ディーンもそのことは承知していた。何度も口にした。「メリールウには何回も頼んだんだ。いろんなすったもんだは放ったらかして、おれたちの永遠のピュアな愛をやさしくわかって平和になってくれよってな――わかってはくれてる。ただ、心がすぐ変なほうに行っちゃうんだな――そして追いかけてくる。おれがどんなに愛しているか、わかろうとしない。おれに呪いをかけてくる」
「ほんとうの問題は、女のことがおれたちにはわかってないってことなんじゃないか。なにもかも女のせいにするおれたちが悪いんだよ」ぼくは言った。
「話はそんなに簡単じゃない」ディーンは警告するように言った。「平和はいきなり来る。だから、来ても気がつかない――わかるか、おい?」決然として悲壮に、やつはニュージャージー州を爆走した。明け方にぼくの運転でパターソンに入ったときは、後ろで眠っていた。》p170

 次は、連日続く友達との大騒ぎで高揚しきったふたりが入ったジャズ・クラブで、ジョージ・シアリングがピアノを弾きはじめるシーン。
《[…]盲目なので、手をひかれてキーボードのところまで行った。ぱりっとした白いカラーをつけた堂々としたかんじのイギリス人で、すこし太っていてブロンドで、最初のせせらぎのような甘いナンバーをかれが弾くや、デリケートなイギリスの夏の夜の気配が漂いだし、ベース奏者がうやうやしくかれのほうに体を屈めて低くビートを繰りだした。ドラマーのデンジル・ベストはじっとしたまま、手首でブラシをぱしぱしやっていた。すると、シアリングが体を揺らし[ロック]はじめたのだ。笑みがいきなり現れてエクスタシーの顔になった。ピアノ椅子の上でさらに体を前後へ揺らし、初めはゆっくりと、ビートが高まると速くなり、左足がビートに合わせて跳びはねた。首がひん曲がりながら揺れ、顔がキーのほうまで下がり、髪が後ろに振りあがり、櫛の入った髪がばらけ、汗をかきはじめた。音楽が動きだした。ベース奏者は体を丸めてぐいぐい弾き、どんどん速くなった、というか、どんどん速くなったように見えた。シアリングがコードを弾きはじめた。それはピアノからすごく豊かな夕立のようにばらばらとあふれてきて、かれにも整理する時間がなかったかのようだった。あふれ、あふれ、海のようになった。客たちはかれに向かって「行け!」とわめいた。ディーンは汗をかいていた、汗が首をつたっていた。「これだよ! これだよ! 神だ! シアリング神だ! いいね! いいね! いいね!」シアリングが後ろの狂人に気がつき、ディーンの溜め息と歓声をすべて聞きとり、目が見えないのにすべてを感じとった。「いいねえ!」とディーンは言った。「いいね!」シアリングがにこりとして体を揺らした。ピアノから立ちあがったときは汗でぐっしょりだった。一九四九年のシアリングの最高にすごい日々、クールのほうにもコマーシャルのほうにもまだ向かっていなかったときのことだ。かれが引っこむと、ディーンは空っぽになったピアノ椅子を指さした。「空っぽになった神の席」と言った。》pp177-8

 あと、このようなすごいサイトを見つけた。
 
 「Jack Kerouac On the Road Map」
 http://ny-ca.net/home.aspx/
2008/03/08

穂村弘『短歌の友人』(2008)

短歌の友人
河出書房新社

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 1990年に歌集『シンジケート』を上梓した穂村弘は、2000年あたりからこっち、短歌の実作のほかに『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』などとしてまとめられるエッセイをいろんな媒体で書くようになった。そしてその一方、おもに短歌の専門誌で歌論を書き継いでいたのである。
「である」と言いつつ、私は知らなかった。エッセイばかり読んでいた。そんな歌論・歌人論をあつめたのが本書『短歌の友人』である。この本のカバーは本当に固い。

 穂村弘は、同世代の短歌を読み、前の世代の短歌を読み、自分より若い世代の短歌を読んでいく。その読み方は丁寧で論理的、何より親切このうえない(『短歌という爆弾』も、たしかにそういう本だった)。
 現代の歌人をほとんど知らない私には、短歌というのは、言葉が使われる全領域のなかでも、あからさまに特殊な部分を占める表現のように見える。一首一首が反乱分子であるような歌のかずかずを、穂村弘は、まったく平易な言葉で解きほぐす。そこがすごい。
 複雑にひねくれていたり、別の空を飛んでいたり、そもそも何かを伝えるつもりがあるのか定かでないような歌を相手にしても、穂村弘の文章は、同調してそちらに飛んでいったり、沈黙したり怒ったり、派手な修辞に逃げたりしない。個別の歌に向き合い、その場その場で差し出されるのは、《言葉を軽く握る》とか、《我々の意識の死角に入っているような言葉》とか、《絶望に希望を直に上書きするような作歌スタイル》とかいった、歌に較べればずっと普通のフレーズである。それが、いちど目にしたあとではそれ以上にぴったりくる言葉を出すのが不可能に思えるくらい、ピンポイントで当の歌にはまっている。短歌への情熱が明快さとして出力されている印象。
 
 そんな穂村弘に申し訳ないほどおおざっぱな分け方をすると、この本の前半では、おもに自分と同世代か、自分より若い世代の短歌を読み、それがどうしてそのような形になっているのか、それにより彼らは何を表現しているのかについて交通整理をしている。後半ではさらに視野を広げ、〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌への考察が加わって、前半の整理を成り立たせる構図があきらかになっていく、といった感じの構成になっている。前半でも後半でも、視線はたえず現在の短歌に注がれている。
 とりあえず前半で紹介されている歌のなかから、なにか私に引っかかったものを書き写す。こうやって横書きにしてしまうと、それだけで別物のように見えるが仕方ない。脳内で縦書きに変換してほしい。
女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る
斉藤斎藤

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり
大口玲子

運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
奥村晃作

すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
飯田有子

 それともうひとつ、
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
飯田有子

 私の自力ではまったく歯が立たなかったこの歌に、穂村弘は繰り返し触れて、「ああ!わかる! ……気がする」まで連れて行く。無理にタイトルに合わせれば、穂村弘は、「こいつはこれこれこういうやつなんだよ」と友達を紹介するように、短歌を紹介する。なかには友達になりたくないような短歌もあるが、紹介じたいには納得している自分に気付く。なんて友達甲斐のある友人だろう。これほどのわかりやすさはちょっと危険ではあるまいか、と思わせるほどに、よくわかる(気がする)のだった。

 それだけでもすごいのだが、いよいよ面白いのは後半だった。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
斎藤茂吉


日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も
塚本邦雄(原文は旧字旧仮名)

〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌をそれぞれ代表するらしいこの二首の決定的なちがいは、「言葉のモノ化」であると穂村弘はいう。どちらの歌にも動物が出てくるが、前者の“かはづ”が本物の、生きた“かはづ”なのに対し、後者の“皇帝ペンギン”という言葉は、モノである。
 近代短歌のモード(短歌=命の器)へのアンチとして出現した、「言葉をモノとして扱う」モードから、以降の世代は何を継承し、何を継承しなかったのか。そして、いま短歌の言葉はどうなっているのか。本書の第4章「リアリティの変容」から第5章「前衛短歌から現代短歌へ」、第6章「短歌と〈私〉」に書かれてあることは、短歌に即した短歌についての考察でありながら、短歌以外の言葉にも、そしてそのような言葉で作られる時代そのものにも(!)射程が届いているのじゃないかと興奮して読んだ。ここの順序が「短歌 → 言葉 → 時代」であるのが、批評というものなんだと思う。矢印を逆にして、時代から短歌を読んだりしたら、いっそ読まない方がよかったような結果にしかならない。そうではないから穂村弘にはこんなことが書ける。
《前衛短歌運動が挑んだ課題のうちの幾つか、例えば虚構性の導入による〈私〉の拡張は、今日では殆ど歌人の問題意識にのぼらなくなったようにみえる。
 だが、それは定型内の試行によってハードルがクリアされたことを意味しない。そうではなく、現実の我々を取り巻く時代状況が変化したことで、自然に問題が解消されてしまった感が強い。表現の試行を上回る速度で我々が日常的に吸っている空気の方が変化してしまったのだ。》p154

 で、読んでいる途中からずっと思っていたのだが、先に書いた「短歌 → 言葉 → 時代」の、「短歌」を「小説」に変えれば、穂村弘は相当程度まで、高橋源一郎になりそうである。
 この符合は意外ではない。むしろ、“意外でなさ”が大きすぎて驚いた。穂村弘が『日本文学盛衰史』の一部に協力したり、『ゴーストバスターズ』文庫版の解説を書いたりするよりずっと前、私がこの人の短歌を知ったのは、高橋源一郎が『文学じゃないかもしれない症候群』『シンジケート』に強く反応していたからだった。そこで引用されていた数首にすっかりうちのめされて『シンジケート』を買ってくると、短歌もやっぱりよかったが、あとがきの代わりについていた散文は“高橋源一郎でない人が書いた『さようなら、ギャングたち』”とでもいうべきもので、そこにもすっかりうちのめされた。
 以来、私はふたりの感性を並べて見ているが(両者の本を読めば誰だってそうなる)、そんな刷り込みがなかったとしても、たとえば本書のなかで、現在のリアリティの掴み方を追いかけた結果、「合目的的な意識から外れたところで生まれる歌」に到るあたりは、『ニッポンの小説』とかなり似た曲線を描いていると思う。
(もちろん、似ているからこそはっきり見えるちがいもある。塚本邦雄の本を一冊も読んでいない私の予想では、「塚本邦雄が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」と、「高橋源一郎が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」は、量の多寡はあれ、同種のものじゃないかと思われる。名前を付けるなら“ジョン・レノン対火星人”成分、ではないか)

 ともあれ、『短歌の友人』はたいへん面白い本だった。
 私のような短歌の素人にこれだけ面白くまとまりをもって読ませるからには、短歌の世界のすべてからしたら、ここには書かれていないことも相当あるんだろうと思われる。本書で教えてもらった「わかり方」であんまり「わかる」「わかる」というのは、もしかすると論じられている歌の作者の、ひいては穂村弘の、意に反するのかもしれない。
 だから私は、さまざまな歌集の現物はもちろん、非・穂村弘の立場から現代の短歌を読み解いた本も読んでみたくなった。そして願わくば、そういう本も穂村弘と同じくらいに丁寧で、かつ過激であってほしいと思う。
 以下、最後の長い引用は、前掲の斎藤茂吉(かはづ)と塚本邦雄(皇帝ペンギン)の対比からみちびき出される考察である。丸2ページ分から、1ヶ所しか中略できなかった。
《[…]我々は次のような印象を抱かないだろうか。すなわち塚本邦雄の歌は確かに凄い、でもどこかオモチャのようでもある、一方、斎藤茂吉の歌はやはり凄い、そして全くオモチャのようではない、と。この印象の違いはどこから来るのだろう。
 斎藤茂吉の歌を支えているものを、私は生のかけがえのなさの原理だと思う。他人とは交換不可能な、一度限りの、かけがえのない〈われ〉の命の重みによって、その作品は保証されている。だが作品の説得力とは、それ自体が独立して存在することはあり得ず、常に読者に対する説得力ということでしかないはずだ。そう考えるとき、現在の読者の目に茂吉の歌が全くオモチャのようには見えず、凄いとしか感じられないとしたら、それは我々が〈近代〉的な生のかけがえのなさの原理に、今なお強く呪縛されていることの証とは云えないだろうか。〈近代〉という時間が、茂吉作品における生のかけがえのなさの原理を支え、今も支え続けているのである。
 一方、塚本邦雄の作品の核にあるものを、戦争への呪詛と言語のフェティシズムの原理として捉えてみる。生のかけがえのなさの原理を〈近代〉が支えたように、戦争のモチーフと言語のフェティシズムを〈戦後〉という時間が確かに支えたはずである。だが、それによって生まれた成果が我々の目にオモチャのように映る部分を残しているとしたら、それは、生に対する影響力の点で、〈戦後〉という時間が生んだ最大のものすら〈近代〉の産物に及ばなかったということになりはしないか。
 オモチャ的な印象を負っているのは、主に言語のフェティシズムの要素だと思う。それによって短歌定型は空間化して言葉はモノ化した。〈戦後〉の空気の中で、我々は揃ってそのような言葉のモノ化にどっぷりと浸りながら、しかし心からそれを受け入れ納得することはできなかったのだ。
  […]
 本当は(という云い方は無意味だが)子規も茂吉も、塚本同様に短歌をオモチャ化したはずなのである。すべての変革とは、その瞬間を切り取れば常にオモチャ化とイコールなのだから。ただ今日の我々の目にそのように映らないだけである。その理由は、繰り返しになるが、我々が今もなお〈近代〉のモードの内部を生きていることに拠る。》pp212-3

 ここには、穂村弘の短歌や高橋源一郎の小説を楽しく読む私にも、いったいそんなことを考えてしまっていいのだろうかと、その先に進むのを躊躇させる考えが示されているように見える。「壁に向かって手をあげなさい」。
2008/03/06

筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』(2008)

ダンシング・ヴァニティ
新潮社


 この小説は、ひとまず、語り手の「おれ」とその家族の話としてはじまるのだけれども、のっけから話はまっすぐ進まない。“ひとつの場面の記述は、必ず5、6回繰り返される”という法則があるのだ。それだけのループを経てようやく次のシーンに進む。そこもまた繰り返しの連続。
 法則というと厳密なルールのようだが、実際には、なぜだかわからないが記述がぐるぐる反復される、ほんとなんでかわからないけど、という感じ。繰り返しは単なるコピペではなく、毎回少しずつちがっていくので、同じところを行ったり来たりというよりは、先の見えない螺旋階段をぐるぐる昇っていくのに近い。
 この反復のはじまるタイミングと、書き換えのリズムが、妙に気持いいのである。「あ、そこから次の書き換えに入るのか」という驚きがつねにあるし、それも含めて、文章を扱う手つきが絶妙である。(1)もとの記述を書き換える、(2)もう一度書き換える、(3)さらに書き換える…… この過程で、(2)の書き換えは(1)の書き換えを踏まえ、(3)の書き換えは(1)と(2)の書き換えを丁寧に踏まえている、などと書いてもよくわからないだろうが、すでに(2)でギャグにしてある部分は(3)では端折って書き換えを進めていくあたりの呼吸が、すごく巧みなのである。同じような文章を何度も読まされるからといって、我慢する必要はまったく感じなかった(そして何よりすばらしいことに、この反復を登場人物も薄々理解しているらしいのである)。

 偏執的に手の込んだ反復が積み重ねられていった結果、最後の5分の1くらいでは、そこまでがこの書き方だったからこそ可能な展開が次々に炸裂する。反復の形式じたいが雪崩を起こし、そこだけ見たらごく普通の文章がギャグになる(たとえば243ページ)かと思えば、これまた、そこだけ見たら支離滅裂なはずの表現が、奇妙な感慨をもたらす。そこまでがあっての面白さなので、引用して紹介できないのがもどかしくもあり、楽しくもある。
 
 筒井康隆は、書きっ放しで放り出す、その放り出し方が面白い、というタイプの作家ではないと思う。理知と計算の人だ。本作は、久しぶりにその資質に開き直った書かれ具合であると見えた。どこかで時を止めてしまったような作中のレトロな雰囲気も、今回は抜群に効果を上げている。
 書きぶりの面白さに目を奪われて夢中で読みながら、いや、『虚人たち』があり『驚愕の曠野』があるこの作家にとっては、これも決して新奇ではない、そんな作家を読み続けていたことが今さらだけどうれしい、みたいな小さいファン心に翻弄されていた私のあたまに途中からぼんやり浮かび、ラストに近づくにつれはっきり確信されたのは、本書があたらしい『夢の木坂分岐点』でもあることだった。誰が読んでも面白いと思うが、最近の筒井に物足りなさを感じていた人には特にすすめたい。今度は大丈夫です。
2008/03/04

「ユリイカ」の続き


きのうの分…

 きのうの続きで「特集*新しい世界文学」。本の中ほどは海外作家の短篇を集めた“アンソロジー 21世紀の文学”になっているので、その感想を少しずつ。

ケリー・リンク「墓違い」(アメリカ、柴田元幸訳)
《「ビーフジャーキー?」と彼は言った。「死んだ人間ってそういうの食べるの?」
 「保存料がね」と死んだ女の子は曖昧に答えた。》p96

 詩人のつもりの男の子が、ガールフレンドだった女の子の墓をあばく。どうしてそんなことになったのか、そしてどうなったのかを、リンク独特の間接的なんだかよくわからない語り口で描く(男の子の古い知り合い、が語り手)。この人、発想は突飛だが、展開の仕方はしっかりすぎるほどしっかり地に足がついているのでますます妙である。ほんとどうなってるんだろう。最後の1行のマヌケな感じにすべてが凝縮されているように見えてくる。
 この特集の別のところで、ケリー・リンクの世界を「ソフィア・コッポラの対極」みたいに言っていて(by小澤英実)笑った。


ミランダ・ジュライ「共同パティオ」(アメリカ、岸本佐知子訳)
《でもヘレナとわたしはたぶん絶対に仲良くはならない、というのは一つには、わたしの背が彼女の半分くらいしかないからだ。人はたいてい同じぐらいの背の人どうしでかたまる。そのほうが首が楽だから。ただし恋愛となると話は別で、その場合は身長の差が逆にセクシーになる。あなたのためにこの距離を越えていくわ、的に。》p104

「yom yom」第5号に載っていた短篇に度肝を抜かれたので→そのときの感想、いちばん期待していた。やっぱりいい。すごくいい。ぜひ読ませたい友達の顔が次々に浮かぶ。生きていくのが大変そうな女性の一人称、それを通して仮構される相対化の視点、字面だけだと残酷なようで、文脈のなかではそうならないユーモア。ミランダ・ジュライはアメリカの川上未映子か(って、ちがいますけどね)。
 この「共同パティオ」も、「yom yom」第5号掲載の「水泳チーム」、「その人」と同じ短篇集No One Belongs Here More Than You に入っているそうなので、全訳が待たれるところ。


ヴラディーミル・カーミナー『ロシアン・ディスコ』より三篇(秋草俊一郎・甲斐濯訳)

 作者はロシア生まれのユダヤ人だがドイツに亡命してドイツ語で書いているらしい。ベルリンでの生活をネタにした短篇の連作は壮絶の一言。こんな世界もある…のか? 三篇どれも無茶苦茶に見えるが、とくに最後の「わたしの小さなお友達」は、あんまり無茶なので逆に本当かもしれないと思わせる。笑いたいんだけど、笑っていいのか。感想の持って行き場に困る。


ロベルト・ボラーニョ「ジム」(チリ、久野量一訳)
イグナシオ・パティージャ「動物小寓話」(メキシコ、久野量一訳)
エドムンド・パス=ソルダン「夕暮れの儀式」(ボリビア、安藤哲行訳)
サセル・アイラ「悪魔の日記」(アルゼンチン、久野量一訳)

 南米作家の超短篇が4本。スケッチ風のものやモノローグも。パティージャの「動物小寓話」が気に入った。なんだか知らんが鉱山の地下にいる動物を見ようと集まる野次馬たち。


ヨハン・ハルスター「ベトナム。木曜日。」(西田英恵訳)

 カウンセラーの男のもとに毎週やってくる、ベトナムの傷を負った女性。いまググってみて作者がノルウェー人と知り驚く。こんな話を書くんだなあ。阿呆のような感想である。


アニー・ベイビー「七年」(中国、泉京鹿訳)

 うーん、これは…… この1作だけで何か言うのはあきらかに乱暴なんだけど、若いカップルの愛と破滅(in都市)みたいなものを書くのには中国の作家はまだ熟してないんじゃなかろうか。それは作家のせいか、という気はする。
 このアンソロジーじたいにはどれひとつ作家の出身国は書かれていないので、「そういうことは考えずに読め」という編集部のお達しなんだろうが、そうするとなおさら「これはない」ということになる。


 このアンソロジーはもっと多くていい、どれだけ多くてもいい、と思いながら読み終えてしまったが、ほかにも各国(地域)別の状況レポートや論考など、見知った名前に交じってたぶんおそらく若めの人もバリバリ書いており、そういう意味でも「新しい世界文学」なんだろうと思った。
 まったく未知だったもの、あるいは本屋で手を伸ばせないでいたもの、さらには部屋に積んだまま埃をかぶっているもの、いろんな小説を読まねば、というか読みたかったんだ自分は、という気持にさせてくれる、ありがたい特集でした。


ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学
(2008/02)
不明

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2008/03/03

「ユリイカ」2008年3月号


ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学

青土社

「特集*新しい世界文学」。部屋に閉じこもり、すみからすみまで読んだ。

 青土社のサイトで予告を見てから期待していた目玉のひとつは、若島正+管啓次郎+桜庭一樹の鼎談で、それにより、やっぱりあれこれそれは面白いようだ、読まねば、というか読みたい、と身悶えしたのだが、この鼎談じたいでもっとも元気に見えるのは、管啓次郎だった。
 鼎談のタイトルは“「世界文学」から「文学世界」へ”で、この人、何気ない感じでいきなりこんなふうに話しはじめる。
 「世界」かあ。いきなりいわれると絶句しますね(笑)。完全にフラットな砂漠に立って、地平線までの距離を測っても、せいぜい四・五キロしかない。その三六〇度の砂漠の中でぽつんと立って、足元の砂を一握りすくってそれを「世界」と呼んでみても、ほとんど意味はないですよね。でもみんながそうせざるをえないのは、それ自体一種の言語的なトリックなのかなという気がします。つまり「世界」なんてどうしたって語れっこないんだけど、誰もがその観念を完全に捨て去ることもできない。「世界」という言葉を知った以上、それを考えざるをえない。そして「世界」という実体は、とらえきれない大きさをもって現実にある。そこで書かれ、あるいはアーカイヴとして所蔵されている「世界文学」の作品も、すさまじい数量に達している。するとはたしてわれわれの目や耳が届く範囲でどれほど「世界」をカバーできるのか、はなはだ心許ないのですけれども、ともかくやってみましょうか。[…]》pp34-5

 まえに『コヨーテ読書』(青土社)を読んだときも思ったけど、この人の言うこと・書くことはものすごく詩情にあふれていながら、同時にこれまた、ものすごく風通しがいい。読んでいると気分がよくなる。何でも出来そうな気がしてくる。身悶えする以外に何をするわけでもないのだが。
 あと、「イサベル・アジェンデのどんなところが魅力?」と訊かれた桜庭一樹が、《ガルシア=マルケスへのファン心みたいなところでしょうか(笑)。》と答えているのにプロ根性を見た。私は『赤朽葉家』も読んでいないので、ここでも、読まねば、というか読みたい、という気持に。
 雑誌の最新号からあんまり引用するのはいかがなものかと思わなくもないが、管啓次郎の発言をもうひとつ。
《[…]文学ってよくアイデンティティつまり自己証明の手段のようにいわれるけど、ぼくは文学というものは読むほうにとっても書くほうにとっても自分のアイデンティティをなくすという作用のほうがずっと大切だと思っています。つまり、文学とは、自分が男であろうが女であろうが、若かろうが老いていようが、どこの出身だろうが関係なく、その中で別の存在になっていくための場所であり装置だろうということ。》p42

 期待していた目玉のもうひとつは、もちろん、海外作家の創作アンソロジーだが、その前に、岸本佐知子へのインタビュー“わが世界文学けもの道 そしてさらなる密林へ”というのも面白かった。
 タイトルからわかるように(わかるだろうか)、これは岸本佐知子の仕事歴を振り返るところからはじまるのだけど、インタビューしている山崎まどかという人が岸本佐知子と旧知のあいだがらのようで、後半は、自分の読んで面白かった小説(未訳)をお互いに紹介しあっている。それがもう、どれもこれも読まねば、というか読みたい、と思わせるもので、だれか岸本佐知子を5人に増やしてもらえないだろうか。なかでもいちばんツボに来たのは、山崎まどか紹介になる、Tao Linという作家のEeeee Eee Eeee 。すばらしすぎるので引用。
《―― これは今の日本で受けそうですよね。高学歴低収入の男の子が主役で。彼は故郷に帰ってピザ・ハットで働いているんですけど、やさぐれていて、ジュンパ・ラヒリがすっごく嫌いなの(笑)。別れちゃった女の子のこととかうじうじ考えている合間合間に「ジュンパ・ラヒリ、何だそれは? 名前か?」とかジュンパ・ラヒリへの呪詛が出てくる(笑)。そんな感じで田舎で暮らしているうちに、急に熊がでてきて、車のドアをはずされて地下の国に拉致られちゃう。それで熊の住んでいる地下世界にはイルカも住んでいるんですけど、その熊とイルカがやたらと彼の日常にからむんです。イルカは生きる理由が見つからないとかそういう形而上的な悩みですさんでいて、いろんなセレブリティーを誘い出して殺しているんです。ウォン・カーウァイとか(笑)。うまく説明できないんですけど、一種の青春文学なんですね。》p188

 いや、こんなうまい説明ないだろうと私は思う。当の本はこれなんだが、これも含め、ふたりとも洋書はかなりの割合で「ジャケ買い」してるのも意外というか納得というか。

 長くなったので、明日に続く。管啓次郎とTao Linのどちらにも、私は惹かれます。

…続き

 追記:→自分でも読んでみた