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近況という名の犬
 タイトルに意味はない。

■ この数日、パソコンに近寄りもせず本を読んで「やればできる」感を味わっていたのだが、きのう26日夜にメールだけでもチェックしておこうと見てみたら、青山ブックセンターから届いていたイベント情報メールに驚愕。

 『芝生の復讐』 リチャード・ブローティガン/著 (新潮文庫)発売記念
 藤本和子×岸本佐知子 トークショー
 http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200804/_200845_1.html
長らく入手困難だったブローティガン『芝生の復讐』の文庫化を機に、翻訳者の藤本和子さんと、藤本訳ブローティガン作品を読んで翻訳家をめざしたという岸本佐知子さんに、ブローティガンという作家について、翻訳について、またその他もろもろについて、対話していただきます。
 ○ ○ ○
■2008年4月5日(土)17:00~(開場16:30~)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■定員:120名様
■入場料:500円(税込)電話予約の上、当日ご精算
■電話予約&お問い合わせ電話:
青山ブックセンター本店・03-5485-5511
■受付時間: 10:00~22:00
■受付開始日:2008年3月26日(水)10:00~
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。)
※トーク終了後にはサイン会を行ないます。

 これは行きたい。てか行く。しかしこれ、定員が1200人であっても瞬時に埋まるくらいのイベントであると私には思われるのであって、こないだ「メールが届かなくなった」などと悪口を書いたのは「もう席はない」というかたちで罰を受ける伏線だったのか、嗚呼めぐるよ因果は、などとやきもきしながら夜を明かす。今日、27日昼に電話したところ、あっさり予約できたうえ「まだ余裕あります」と教えていただいたのは何かまちがっている気がしてならない。
『芝生の復讐』ことRevenge of the Lawn は、古本価格のあまりの高さにブチ切れペーパーバックでめくったが(→これ。小説3作が1冊にまとまっていてお得。これこれも同じ体裁)、ひとつ数ページの短篇が集まってできており、私のつたない読解力でもこの作家の「ポップな非リアリズム」(by柴田元幸)を堪能できた――つもりになれた。はやく藤本訳で読みたい。それにしても、上記リンク先にも飾ってある文庫版表紙のかっこよさは何事だろう(→新潮社のページ)。

 ブローティガンと言えば、宮沢章夫のあたらしい小説「返却」も読んだんだが(「新潮」2008年4月号掲載)、どうして「ブローティガンと言えば、宮沢章夫のあたらしい小説」なのかも含めてまた今度。


■ とか言いつつもうひとつ。
「TV Bros.」の最新号で紹介されていた、こういうサイトをさっき見た。

 「YouTubeで学ぶコーヒーの入れ方」
 http://www.cafefan.net/

 ドリップの最初、その膨らませ方を見習いたい、と思ったりはしたものの、自分がコーヒーは好きだしコーヒー入れるのも好きだけど、“おいしいコーヒーの追求”とか“こだわりの入れ方”はどうも苦手であるのがあらためてわかった。だから“コーヒー道”、“男のコーヒー”、“隠れ家でコーヒー”の類には(もしあるとして)さらに興味がない。きっとこだわった方がいいんだろうが、どうしても、てきとうに入れてほどほどにおいしければそれでいいじゃないかと思ってしまう。
 たしかフォークナーの小説のどれかに、南北戦争に従軍した元兵士の回想のなか、追い散らした敵兵のキャンプ跡から本物のコーヒーを見つけてヒャッホー、みたいな場面があって、ぜったいてきとうに入れたであろうそのコーヒーがやたらおいしそうだと思ったのをよくおぼえているが、それ以外のすべて(タイトルとか)がうろおぼえなので使えない記憶である。でも「使える記憶」って何だ?とも思うのだった。フォークナー読んでそんなこと言っていいのかという気がいまちょっとした。
対談ふたつ
■ さっき知った話。
 2週間ちょっと前、大江健三郎と伊集院光がトークをしていた。
 トークというか、伊集院のラジオ番組「日曜日の秘密基地」に、大江がゲスト出演したという。知らなかった。知っていたとしても、うちにはラジオがないので聞けなかった。でも、ググってみると記録してくれているブログがあった。ほかの人を介して、というクッションが、この話の内容だとかえってふさわしい気もする。

 大江健三郎v.s.伊集院光1「M17星雲の光と影」
 http://plaza.rakuten.co.jp/norimasa1718/diary/200803030002/

 大江健三郎v.s.伊集院光2 (同)
 http://plaza.rakuten.co.jp/norimasa1718/diary/200803030001/


■ 何の関係もなく、こっちは去年の11月に行われたトークショーの再録。

『灯台守の話』刊行記念 岸本佐知子さん・清岡智比古さんトークショー
 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/talk0711_1.php
清岡:これを言うとみんなから「おまえは馬鹿だ」って言われるんですけど、私も本当にね、自分に習いたかった(笑)。

 やたら面白い。「窓から落とされる語学」。行けばよかった。この記事、2ヶ月くらい前に白水社のメルマガで知ったんだけど、いま白水社サイトに行っても見つからない。もしかして秘密なのかと思ったが、はてなブックマークなんかにも入っているんだから貼っていいだろうと判断。
 
 そういや最近、トークショーの類に行ってないなと思ってメールを調べてみると、今年に入ってから、青山ブックセンターのイベント情報メールが一通も届いていなかったことがわかる。登録し直す。なんだったんだろう。
 
 あと、こんなイベントもあったらしい。

 シンポジウム「トム・マシュラー 出版の極意を語る」「JLPP」)
 http://www.jlpp.jp/news/detail.html?n_id=51&n_type=1
「Coyote(コヨーテ)」No.26(2008年4月号)
Coyote (コヨーテ)No.26 特集:柴田元幸[文学を軽やかに遊ぶ]
スイッチ・パブリッシング


 大判で表紙がツルツルで写真がいっぱい、「旅行」ではなく「旅」がテーマ、そんな雑誌で柴田元幸の特集。これは、半年くらい前にポール・オースターの『シティ・オヴ・グラス』を、柴田訳「ガラスの街」として一挙掲載した雑誌でもある。
 そりゃ私はミーハーな柴田ファンだが、本人の生い立ちだとか、自宅のグラビアにまで興味があるかといえば「なんかそれはちがう」のである。そう思って歯噛みしている人は日本中にいるだろう。かりに本人がサリンジャー並みのどこへも出てこない人間であったとしても、たとえばバーセルミの短篇「学校」の翻訳『Sudden Fiction2』所収)ひと文字ひと文字が動かないならそれで十分だと思っているわけである。トークショーには行くけど。ところが、ある翻訳家の方のブログで、たいへんな記事が載っていると知りあわてて買ってきた。それはたしかに、90ページにあった。

 スティーヴン・ミルハウザーが、柴田元幸のことを書いたエッセイ。訳してるのは岸本佐知子。

「おれのための企画か。二重三重に」と思ってしまう私のような人間が、やはり日本中にいると思う。“自分の小説を訳してくれる、モト・シバタ”について寄稿している作家は、ほかにもスチュアート・ダイベック、バリー・ユアグロー、ポール・オースターといたが、ミルハウザーのがいちばん感動的である。そう、私は最初の3行で感動してしまった。ミーハーでよかった。
 ほかにも、この雑誌の編集長(新井敏記)による柴田インタビューはたんなる相槌を打つのにとどまらず、答えの先にある話を引き出していて、なにより、柴田元幸じしんが訳したのではない小説についても多くを語らせているところが面白かった。トルーマン・カポーティについての、こんな感想をメモ。
《「ミリアム」あたりは名作ということになっているし、すごくいいとは思うんだけど、主人公は怖がっていてもカポーティが怖がっている感じがしない。操作している感じ。でも「無頭の鷹」は本人もおののいている気がする。》p81

 つまり、この雑誌は「買い」だった。食わず嫌いはいけない。
 反省し、謹んでおすすめする次第。
大江+高橋:対談「現代文学への通路」(1990)

 こないだ感想を書いた『治療塔』のあと、続く『治療塔惑星』に取りかかる前に、大江健三郎は「現代文学への通路」という題で対談をしている。相手は高橋源一郎。「新潮」の1990年9月号に掲載(125~145ページ)。

 これに限らず、文芸誌に載る対談のたいていは、いちど載ったら載ったきりで、そのまま消えていく。海外文学についての対談なんかは特にそうだ。ものによっては、すごくもったいないと思う。
 この大江+高橋対談は、そのもったいない方だと思うので、以前図書館でコピーしてきたものから、なるべくたくさん書き写してみたい。

 そんな動機だから、以下、かなり長いです。話題としては、「読みの二重性」、「辻褄合わせ vs 裂け目」といった問題をめぐるものになっていく。いちばん多く出てくる固有名詞は「レム」じゃないかと思われる。
大江健三郎『治療塔』(1990)、『治療塔惑星』(1991)
岩波書店


 近未来。「世界が取りかえしのつかぬ破壊と汚染の泥沼に落ち込んでしまった」ために、人類は「スターシップ公社」を設立、少数のエリートである「選ばれた者」たちを乗せた宇宙船団が組織されて、地球を去った。どこか別の居住可能な星を「新しい地球」とし、人類を存続させるためである。この「大出発」のあと、地球の「残留者」たちは「再建運動」として生産のシステムを根本から組み換え、あらゆる産業を分割・単純化した(大量生産から「器用仕事[プリコラージュ]」へ)。古い地球が生活レベルを計画的に「退行」させることで持ちこたえているそんなところに、「大出発」から10年を経て、なぜか「選ばれた者」たちの大船団が帰還する――

 大江健三郎が18年前に出した「近未来SF」の2部作。私はずいぶん前に古本で買って読んだんだけど(2冊セットで700円とか)、岩波の同時代ライブラリーにも現代文庫にも入る気配がないと思っていたら、こないだ本屋で『治療塔』が講談社文庫に入っているのを見かけた。いずれ『治療塔惑星』の方も入るんだろう。それで私の思いが誰かに通じる可能性も開かれた気がするので、ここで言っておきたいことがある。

 これって『風の谷のナウシカ』(原作漫画版)じゃなかろうか。

 以上。あとはいわゆるネタバレなので、一応ご注意。
ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』(1957)
オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)
青山南訳、河出書房新社(2007、「世界文学全集」I-01)

 この季節、引っ越しのトラックを見かける時期になると、毎年そわそわしてしまう。大学に入った年、新入生を相手にしたアメリカ文学の授業で、ある先生はこんなことを言った。〈移動すること〉と〈ひとつの声の持続〉をアメリカ文学の特色とするならば、ぼくらはいくつも代表作を挙げることができる、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、サリンジャーの『ライ麦畑』、そしてジャック・ケルアックのOn the Road ……
 
 この小説を読んだのは、去年の11月だったとここに書いてある。こたつを出した日。いま、そろそろこたつをしまうタイミングが気になってきたころに、記憶だけでメモる。
 読みながら気が遠くなっていくような話で、語り手の「ぼく」は、ふしぎな魅力を放つ男、ディーン・モリアーティにひっぱられ、北アメリカ大陸を東から西まで、車でずーっと横断する。たどり着いた西海岸で何をするのかというと、生活の隙を見て、今度は西から東まで、だーっと横断するのである。
 たしか、妻を置いてきぼりにし、金を借り、酒を飲み、二重結婚をし、友達の世話になり、離婚し、迷惑をかけ、よりを戻し、そのようなことすべてを、数回におよぶアメリカ横断の旅の合間合間に、こなしていく。「どういう元気だ」とも、「いい気なもんだ」とも、言えるだろう。なにしろ最後のほうでは、今度は“南”に楽園を求めてハンドルを握り、(たしか)本当に楽園を発見するのである。いい気なもんだ。
 でもその一方で、いわく言いがたい深刻さが貼り付いてもいる。年じゅう躁状態のようなディーンは動いていないと生きていけない風のような人間だが、しかし人間は風ではないので、生活していれば、いろんなものが絡みついてくる。そうなるとますます、居ても立ってもいられない。よし、行くぞ(大陸横断に)。このでかさ、直結ぐあいに笑いそうになる。
 それに、ディーンにひっぱられるとは言っても、「ぼく」のなかではふつふつ煮え立つ“ひっぱられたい欲”がいまにもこぼれそうになっていて、そこにディーンがあらわれるから、爆発的に反応する。おもて向きそう見えないようで、つねにそこにある、ふたりの“やむにやまれぬ感”が、私のような、先週7回の夜のうち6回をこたつで寝てしまったような人間にも、感じられる。たしかそんな気がした。だいたい、語り手「ぼく」の本名が「サル・パラダイス」って、何というかそれは、すでに反則とか奇跡じゃないのか。
(そういえば、あのアメリカ文学の先生が、この「ぼく-ディーン」の関係を、「イシュメール-エイハブ」や、「ニック-ギャツビー」と並べていたのを思い出したけど、要点は忘れた。だいたい当時はこの新訳がなかった)

 いま、もう、作中で起きる出来事をほとんど忘れてぱらぱらめくってみると、どのページも文章の走り方が気持いい。しかもそこには(たしか)、自由そうなふたりも年を重ね、それによりスタンスが変化していくさまもきめ細かく書き込まれていた。なるほど立派な小説であるなあと思った。
 あとは端を折ってあったページから引用。走っている場面は選びきれないので、こんなところから。
《おばは一度、男が女の足元にひざまずいて許しを乞うまでは世界は平和にならないよ、と言ったことがある。でも、ディーンもそのことは承知していた。何度も口にした。「メリールウには何回も頼んだんだ。いろんなすったもんだは放ったらかして、おれたちの永遠のピュアな愛をやさしくわかって平和になってくれよってな――わかってはくれてる。ただ、心がすぐ変なほうに行っちゃうんだな――そして追いかけてくる。おれがどんなに愛しているか、わかろうとしない。おれに呪いをかけてくる」
「ほんとうの問題は、女のことがおれたちにはわかってないってことなんじゃないか。なにもかも女のせいにするおれたちが悪いんだよ」ぼくは言った。
「話はそんなに簡単じゃない」ディーンは警告するように言った。「平和はいきなり来る。だから、来ても気がつかない――わかるか、おい?」決然として悲壮に、やつはニュージャージー州を爆走した。明け方にぼくの運転でパターソンに入ったときは、後ろで眠っていた。》p170

 次は、連日続く友達との大騒ぎで高揚しきったふたりが入ったジャズ・クラブで、ジョージ・シアリングがピアノを弾きはじめるシーン。
《[…]盲目なので、手をひかれてキーボードのところまで行った。ぱりっとした白いカラーをつけた堂々としたかんじのイギリス人で、すこし太っていてブロンドで、最初のせせらぎのような甘いナンバーをかれが弾くや、デリケートなイギリスの夏の夜の気配が漂いだし、ベース奏者がうやうやしくかれのほうに体を屈めて低くビートを繰りだした。ドラマーのデンジル・ベストはじっとしたまま、手首でブラシをぱしぱしやっていた。すると、シアリングが体を揺らし[ロック]はじめたのだ。笑みがいきなり現れてエクスタシーの顔になった。ピアノ椅子の上でさらに体を前後へ揺らし、初めはゆっくりと、ビートが高まると速くなり、左足がビートに合わせて跳びはねた。首がひん曲がりながら揺れ、顔がキーのほうまで下がり、髪が後ろに振りあがり、櫛の入った髪がばらけ、汗をかきはじめた。音楽が動きだした。ベース奏者は体を丸めてぐいぐい弾き、どんどん速くなった、というか、どんどん速くなったように見えた。シアリングがコードを弾きはじめた。それはピアノからすごく豊かな夕立のようにばらばらとあふれてきて、かれにも整理する時間がなかったかのようだった。あふれ、あふれ、海のようになった。客たちはかれに向かって「行け!」とわめいた。ディーンは汗をかいていた、汗が首をつたっていた。「これだよ! これだよ! 神だ! シアリング神だ! いいね! いいね! いいね!」シアリングが後ろの狂人に気がつき、ディーンの溜め息と歓声をすべて聞きとり、目が見えないのにすべてを感じとった。「いいねえ!」とディーンは言った。「いいね!」シアリングがにこりとして体を揺らした。ピアノから立ちあがったときは汗でぐっしょりだった。一九四九年のシアリングの最高にすごい日々、クールのほうにもコマーシャルのほうにもまだ向かっていなかったときのことだ。かれが引っこむと、ディーンは空っぽになったピアノ椅子を指さした。「空っぽになった神の席」と言った。》pp177-8

 あと、このようなすごいサイトを見つけた。
 
 「Jack Kerouac On the Road Map」
 http://ny-ca.net/home.aspx/
穂村弘『短歌の友人』(2008)
短歌の友人
河出書房新社

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」

 1990年に歌集『シンジケート』を上梓した穂村弘は、2000年あたりからこっち、短歌の実作のほかに『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』などとしてまとめられるエッセイをいろんな媒体で書くようになった。そしてその一方、おもに短歌の専門誌で歌論を書き継いでいたのである。
「である」と言いつつ、私は知らなかった。エッセイばかり読んでいた。そんな歌論・歌人論をあつめたのが本書『短歌の友人』である。この本のカバーは本当に固い。

 穂村弘は、同世代の短歌を読み、前の世代の短歌を読み、自分より若い世代の短歌を読んでいく。その読み方は丁寧で論理的、何より親切このうえない(『短歌という爆弾』も、たしかにそういう本だった)。
 現代の歌人をほとんど知らない私には、短歌というのは、言葉が使われる全領域のなかでも、あからさまに特殊な部分を占める表現のように見える。一首一首が反乱分子であるような歌のかずかずを、穂村弘は、まったく平易な言葉で解きほぐす。そこがすごい。
 複雑にひねくれていたり、別の空を飛んでいたり、そもそも何かを伝えるつもりがあるのか定かでないような歌を相手にしても、穂村弘の文章は、同調してそちらに飛んでいったり、沈黙したり怒ったり、派手な修辞に逃げたりしない。個別の歌に向き合い、その場その場で差し出されるのは、《言葉を軽く握る》とか、《我々の意識の死角に入っているような言葉》とか、《絶望に希望を直に上書きするような作歌スタイル》とかいった、歌に較べればずっと普通のフレーズである。それが、いちど目にしたあとではそれ以上にぴったりくる言葉を出すのが不可能に思えるくらい、ピンポイントで当の歌にはまっている。短歌への情熱が明快さとして出力されている印象。
 
 そんな穂村弘に申し訳ないほどおおざっぱな分け方をすると、この本の前半では、おもに自分と同世代か、自分より若い世代の短歌を読み、それがどうしてそのような形になっているのか、それにより彼らは何を表現しているのかについて交通整理をしている。後半ではさらに視野を広げ、〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌への考察が加わって、前半の整理を成り立たせる構図があきらかになっていく、といった感じの構成になっている。前半でも後半でも、視線はたえず現在の短歌に注がれている。
 とりあえず前半で紹介されている歌のなかから、なにか私に引っかかったものを書き写す。こうやって横書きにしてしまうと、それだけで別物のように見えるが仕方ない。脳内で縦書きに変換してほしい。
女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る
斉藤斎藤

形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり
大口玲子

運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
奥村晃作

すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
飯田有子

 それともうひとつ、
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
飯田有子

 私の自力ではまったく歯が立たなかったこの歌に、穂村弘は繰り返し触れて、「ああ!わかる! ……気がする」まで連れて行く。無理にタイトルに合わせれば、穂村弘は、「こいつはこれこれこういうやつなんだよ」と友達を紹介するように、短歌を紹介する。なかには友達になりたくないような短歌もあるが、紹介じたいには納得している自分に気付く。なんて友達甲斐のある友人だろう。これほどのわかりやすさはちょっと危険ではあるまいか、と思わせるほどに、よくわかる(気がする)のだった。

 それだけでもすごいのだが、いよいよ面白いのは後半だった。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
斎藤茂吉


日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も
塚本邦雄(原文は旧字旧仮名)

〈近代〉短歌と〈戦後〉短歌をそれぞれ代表するらしいこの二首の決定的なちがいは、「言葉のモノ化」であると穂村弘はいう。どちらの歌にも動物が出てくるが、前者の“かはづ”が本物の、生きた“かはづ”なのに対し、後者の“皇帝ペンギン”という言葉は、モノである。
 近代短歌のモード(短歌=命の器)へのアンチとして出現した、「言葉をモノとして扱う」モードから、以降の世代は何を継承し、何を継承しなかったのか。そして、いま短歌の言葉はどうなっているのか。本書の第4章「リアリティの変容」から第5章「前衛短歌から現代短歌へ」、第6章「短歌と〈私〉」に書かれてあることは、短歌に即した短歌についての考察でありながら、短歌以外の言葉にも、そしてそのような言葉で作られる時代そのものにも(!)射程が届いているのじゃないかと興奮して読んだ。ここの順序が「短歌 → 言葉 → 時代」であるのが、批評というものなんだと思う。矢印を逆にして、時代から短歌を読んだりしたら、いっそ読まない方がよかったような結果にしかならない。そうではないから穂村弘にはこんなことが書ける。
《前衛短歌運動が挑んだ課題のうちの幾つか、例えば虚構性の導入による〈私〉の拡張は、今日では殆ど歌人の問題意識にのぼらなくなったようにみえる。
 だが、それは定型内の試行によってハードルがクリアされたことを意味しない。そうではなく、現実の我々を取り巻く時代状況が変化したことで、自然に問題が解消されてしまった感が強い。表現の試行を上回る速度で我々が日常的に吸っている空気の方が変化してしまったのだ。》p154

 で、読んでいる途中からずっと思っていたのだが、先に書いた「短歌 → 言葉 → 時代」の、「短歌」を「小説」に変えれば、穂村弘は相当程度まで、高橋源一郎になりそうである。
 この符合は意外ではない。むしろ、“意外でなさ”が大きすぎて驚いた。穂村弘が『日本文学盛衰史』の一部に協力したり、『ゴーストバスターズ』文庫版の解説を書いたりするよりずっと前、私がこの人の短歌を知ったのは、高橋源一郎が『文学じゃないかもしれない症候群』『シンジケート』に強く反応していたからだった。そこで引用されていた数首にすっかりうちのめされて『シンジケート』を買ってくると、短歌もやっぱりよかったが、あとがきの代わりについていた散文は“高橋源一郎でない人が書いた『さようなら、ギャングたち』”とでもいうべきもので、そこにもすっかりうちのめされた。
 以来、私はふたりの感性を並べて見ているが(両者の本を読めば誰だってそうなる)、そんな刷り込みがなかったとしても、たとえば本書のなかで、現在のリアリティの掴み方を追いかけた結果、「合目的的な意識から外れたところで生まれる歌」に到るあたりは、『ニッポンの小説』とかなり似た曲線を描いていると思う。
(もちろん、似ているからこそはっきり見えるちがいもある。塚本邦雄の本を一冊も読んでいない私の予想では、「塚本邦雄が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」と、「高橋源一郎が持っていて、穂村弘から抜け落ちているもの」は、量の多寡はあれ、同種のものじゃないかと思われる。名前を付けるなら“ジョン・レノン対火星人”成分、ではないか)

 ともあれ、『短歌の友人』はたいへん面白い本だった。
 私のような短歌の素人にこれだけ面白くまとまりをもって読ませるからには、短歌の世界のすべてからしたら、ここには書かれていないことも相当あるんだろうと思われる。本書で教えてもらった「わかり方」であんまり「わかる」「わかる」というのは、もしかすると論じられている歌の作者の、ひいては穂村弘の、意に反するのかもしれない。
 だから私は、さまざまな歌集の現物はもちろん、非・穂村弘の立場から現代の短歌を読み解いた本も読んでみたくなった。そして願わくば、そういう本も穂村弘と同じくらいに丁寧で、かつ過激であってほしいと思う。
 以下、最後の長い引用は、前掲の斎藤茂吉(かはづ)と塚本邦雄(皇帝ペンギン)の対比からみちびき出される考察である。丸2ページ分から、1ヶ所しか中略できなかった。
《[…]我々は次のような印象を抱かないだろうか。すなわち塚本邦雄の歌は確かに凄い、でもどこかオモチャのようでもある、一方、斎藤茂吉の歌はやはり凄い、そして全くオモチャのようではない、と。この印象の違いはどこから来るのだろう。
 斎藤茂吉の歌を支えているものを、私は生のかけがえのなさの原理だと思う。他人とは交換不可能な、一度限りの、かけがえのない〈われ〉の命の重みによって、その作品は保証されている。だが作品の説得力とは、それ自体が独立して存在することはあり得ず、常に読者に対する説得力ということでしかないはずだ。そう考えるとき、現在の読者の目に茂吉の歌が全くオモチャのようには見えず、凄いとしか感じられないとしたら、それは我々が〈近代〉的な生のかけがえのなさの原理に、今なお強く呪縛されていることの証とは云えないだろうか。〈近代〉という時間が、茂吉作品における生のかけがえのなさの原理を支え、今も支え続けているのである。
 一方、塚本邦雄の作品の核にあるものを、戦争への呪詛と言語のフェティシズムの原理として捉えてみる。生のかけがえのなさの原理を〈近代〉が支えたように、戦争のモチーフと言語のフェティシズムを〈戦後〉という時間が確かに支えたはずである。だが、それによって生まれた成果が我々の目にオモチャのように映る部分を残しているとしたら、それは、生に対する影響力の点で、〈戦後〉という時間が生んだ最大のものすら〈近代〉の産物に及ばなかったということになりはしないか。
 オモチャ的な印象を負っているのは、主に言語のフェティシズムの要素だと思う。それによって短歌定型は空間化して言葉はモノ化した。〈戦後〉の空気の中で、我々は揃ってそのような言葉のモノ化にどっぷりと浸りながら、しかし心からそれを受け入れ納得することはできなかったのだ。
  […]
 本当は(という云い方は無意味だが)子規も茂吉も、塚本同様に短歌をオモチャ化したはずなのである。すべての変革とは、その瞬間を切り取れば常にオモチャ化とイコールなのだから。ただ今日の我々の目にそのように映らないだけである。その理由は、繰り返しになるが、我々が今もなお〈近代〉のモードの内部を生きていることに拠る。》pp212-3

 ここには、穂村弘の短歌や高橋源一郎の小説を楽しく読む私にも、いったいそんなことを考えてしまっていいのだろうかと、その先に進むのを躊躇させる考えが示されているように見える。「壁に向かって手をあげなさい」。
筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』(2008)
ダンシング・ヴァニティ
新潮社


 この小説は、ひとまず、語り手の「おれ」とその家族の話としてはじまるのだけれども、のっけから話はまっすぐ進まない。“ひとつの場面の記述は、必ず5、6回繰り返される”という法則があるのだ。それだけのループを経てようやく次のシーンに進む。そこもまた繰り返しの連続。
 法則というと厳密なルールのようだが、実際には、なぜだかわからないが記述がぐるぐる反復される、ほんとなんでかわからないけど、という感じ。繰り返しは単なるコピペではなく、毎回少しずつちがっていくので、同じところを行ったり来たりというよりは、先の見えない螺旋階段をぐるぐる昇っていくのに近い。
 この反復のはじまるタイミングと、書き換えのリズムが、妙に気持いいのである。「あ、そこから次の書き換えに入るのか」という驚きがつねにあるし、それも含めて、文章を扱う手つきが絶妙である。(1)もとの記述を書き換える、(2)もう一度書き換える、(3)さらに書き換える…… この過程で、(2)の書き換えは(1)の書き換えを踏まえ、(3)の書き換えは(1)と(2)の書き換えを丁寧に踏まえている、などと書いてもよくわからないだろうが、すでに(2)でギャグにしてある部分は(3)では端折って書き換えを進めていくあたりの呼吸が、すごく巧みなのである。同じような文章を何度も読まされるからといって、我慢する必要はまったく感じなかった(そして何よりすばらしいことに、この反復を登場人物も薄々理解しているらしいのである)。

 偏執的に手の込んだ反復が積み重ねられていった結果、最後の5分の1くらいでは、そこまでがこの書き方だったからこそ可能な展開が次々に炸裂する。反復の形式じたいが雪崩を起こし、そこだけ見たらごく普通の文章がギャグになる(たとえば243ページ)かと思えば、これまた、そこだけ見たら支離滅裂なはずの表現が、奇妙な感慨をもたらす。そこまでがあっての面白さなので、引用して紹介できないのがもどかしくもあり、楽しくもある。
 
 筒井康隆は、書きっ放しで放り出す、その放り出し方が面白い、というタイプの作家ではないと思う。理知と計算の人だ。本作は、久しぶりにその資質に開き直った書かれ具合であると見えた。どこかで時を止めてしまったような作中のレトロな雰囲気も、今回は抜群に効果を上げている。
 書きぶりの面白さに目を奪われて夢中で読みながら、いや、『虚人たち』があり『驚愕の曠野』があるこの作家にとっては、これも決して新奇ではない、そんな作家を読み続けていたことが今さらだけどうれしい、みたいな小さいファン心に翻弄されていた私のあたまに途中からぼんやり浮かび、ラストに近づくにつれはっきり確信されたのは、本書があたらしい『夢の木坂分岐点』でもあることだった。誰が読んでも面白いと思うが、最近の筒井に物足りなさを感じていた人には特にすすめたい。今度は大丈夫です。
「ユリイカ」の続き

きのうの分…

 きのうの続きで「特集*新しい世界文学」。本の中ほどは海外作家の短篇を集めた“アンソロジー 21世紀の文学”になっているので、その感想を少しずつ。

ケリー・リンク「墓違い」(アメリカ、柴田元幸訳)
《「ビーフジャーキー?」と彼は言った。「死んだ人間ってそういうの食べるの?」
 「保存料がね」と死んだ女の子は曖昧に答えた。》p96

 詩人のつもりの男の子が、ガールフレンドだった女の子の墓をあばく。どうしてそんなことになったのか、そしてどうなったのかを、リンク独特の間接的なんだかよくわからない語り口で描く(男の子の古い知り合い、が語り手)。この人、発想は突飛だが、展開の仕方はしっかりすぎるほどしっかり地に足がついているのでますます妙である。ほんとどうなってるんだろう。最後の1行のマヌケな感じにすべてが凝縮されているように見えてくる。
 この特集の別のところで、ケリー・リンクの世界を「ソフィア・コッポラの対極」みたいに言っていて(by小澤英実)笑った。


ミランダ・ジュライ「共同パティオ」(アメリカ、岸本佐知子訳)
《でもヘレナとわたしはたぶん絶対に仲良くはならない、というのは一つには、わたしの背が彼女の半分くらいしかないからだ。人はたいてい同じぐらいの背の人どうしでかたまる。そのほうが首が楽だから。ただし恋愛となると話は別で、その場合は身長の差が逆にセクシーになる。あなたのためにこの距離を越えていくわ、的に。》p104

「yom yom」第5号に載っていた短篇に度肝を抜かれたので→そのときの感想、いちばん期待していた。やっぱりいい。すごくいい。ぜひ読ませたい友達の顔が次々に浮かぶ。生きていくのが大変そうな女性の一人称、それを通して仮構される相対化の視点、字面だけだと残酷なようで、文脈のなかではそうならないユーモア。ミランダ・ジュライはアメリカの川上未映子か(って、ちがいますけどね)。
 この「共同パティオ」も、「yom yom」第5号掲載の「水泳チーム」、「その人」と同じ短篇集No One Belongs Here More Than You に入っているそうなので、全訳が待たれるところ。


ヴラディーミル・カーミナー『ロシアン・ディスコ』より三篇(秋草俊一郎・甲斐濯訳)

 作者はロシア生まれのユダヤ人だがドイツに亡命してドイツ語で書いているらしい。ベルリンでの生活をネタにした短篇の連作は壮絶の一言。こんな世界もある…のか? 三篇どれも無茶苦茶に見えるが、とくに最後の「わたしの小さなお友達」は、あんまり無茶なので逆に本当かもしれないと思わせる。笑いたいんだけど、笑っていいのか。感想の持って行き場に困る。


ロベルト・ボラーニョ「ジム」(チリ、久野量一訳)
イグナシオ・パティージャ「動物小寓話」(メキシコ、久野量一訳)
エドムンド・パス=ソルダン「夕暮れの儀式」(ボリビア、安藤哲行訳)
サセル・アイラ「悪魔の日記」(アルゼンチン、久野量一訳)

 南米作家の超短篇が4本。スケッチ風のものやモノローグも。パティージャの「動物小寓話」が気に入った。なんだか知らんが鉱山の地下にいる動物を見ようと集まる野次馬たち。


ヨハン・ハルスター「ベトナム。木曜日。」(西田英恵訳)

 カウンセラーの男のもとに毎週やってくる、ベトナムの傷を負った女性。いまググってみて作者がノルウェー人と知り驚く。こんな話を書くんだなあ。阿呆のような感想である。


アニー・ベイビー「七年」(中国、泉京鹿訳)

 うーん、これは…… この1作だけで何か言うのはあきらかに乱暴なんだけど、若いカップルの愛と破滅(in都市)みたいなものを書くのには中国の作家はまだ熟してないんじゃなかろうか。それは作家のせいか、という気はする。
 このアンソロジーじたいにはどれひとつ作家の出身国は書かれていないので、「そういうことは考えずに読め」という編集部のお達しなんだろうが、そうするとなおさら「これはない」ということになる。


 このアンソロジーはもっと多くていい、どれだけ多くてもいい、と思いながら読み終えてしまったが、ほかにも各国(地域)別の状況レポートや論考など、見知った名前に交じってたぶんおそらく若めの人もバリバリ書いており、そういう意味でも「新しい世界文学」なんだろうと思った。
 まったく未知だったもの、あるいは本屋で手を伸ばせないでいたもの、さらには部屋に積んだまま埃をかぶっているもの、いろんな小説を読まねば、というか読みたかったんだ自分は、という気持にさせてくれる、ありがたい特集でした。


ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学
(2008/02)
不明

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「ユリイカ」2008年3月号

ユリイカ 2008年3月号 特集=新しい世界文学

青土社

「特集*新しい世界文学」。部屋に閉じこもり、すみからすみまで読んだ。

 青土社のサイトで予告を見てから期待していた目玉のひとつは、若島正+管啓次郎+桜庭一樹の鼎談で、それにより、やっぱりあれこれそれは面白いようだ、読まねば、というか読みたい、と身悶えしたのだが、この鼎談じたいでもっとも元気に見えるのは、管啓次郎だった。
 鼎談のタイトルは“「世界文学」から「文学世界」へ”で、この人、何気ない感じでいきなりこんなふうに話しはじめる。
 「世界」かあ。いきなりいわれると絶句しますね(笑)。完全にフラットな砂漠に立って、地平線までの距離を測っても、せいぜい四・五キロしかない。その三六〇度の砂漠の中でぽつんと立って、足元の砂を一握りすくってそれを「世界」と呼んでみても、ほとんど意味はないですよね。でもみんながそうせざるをえないのは、それ自体一種の言語的なトリックなのかなという気がします。つまり「世界」なんてどうしたって語れっこないんだけど、誰もがその観念を完全に捨て去ることもできない。「世界」という言葉を知った以上、それを考えざるをえない。そして「世界」という実体は、とらえきれない大きさをもって現実にある。そこで書かれ、あるいはアーカイヴとして所蔵されている「世界文学」の作品も、すさまじい数量に達している。するとはたしてわれわれの目や耳が届く範囲でどれほど「世界」をカバーできるのか、はなはだ心許ないのですけれども、ともかくやってみましょうか。[…]》pp34-5

 まえに『コヨーテ読書』(青土社)を読んだときも思ったけど、この人の言うこと・書くことはものすごく詩情にあふれていながら、同時にこれまた、ものすごく風通しがいい。読んでいると気分がよくなる。何でも出来そうな気がしてくる。身悶えする以外に何をするわけでもないのだが。
 あと、「イサベル・アジェンデのどんなところが魅力?」と訊かれた桜庭一樹が、《ガルシア=マルケスへのファン心みたいなところでしょうか(笑)。》と答えているのにプロ根性を見た。私は『赤朽葉家』も読んでいないので、ここでも、読まねば、というか読みたい、という気持に。
 雑誌の最新号からあんまり引用するのはいかがなものかと思わなくもないが、管啓次郎の発言をもうひとつ。
《[…]文学ってよくアイデンティティつまり自己証明の手段のようにいわれるけど、ぼくは文学というものは読むほうにとっても書くほうにとっても自分のアイデンティティをなくすという作用のほうがずっと大切だと思っています。つまり、文学とは、自分が男であろうが女であろうが、若かろうが老いていようが、どこの出身だろうが関係なく、その中で別の存在になっていくための場所であり装置だろうということ。》p42

 期待していた目玉のもうひとつは、もちろん、海外作家の創作アンソロジーだが、その前に、岸本佐知子へのインタビュー“わが世界文学けもの道 そしてさらなる密林へ”というのも面白かった。
 タイトルからわかるように(わかるだろうか)、これは岸本佐知子の仕事歴を振り返るところからはじまるのだけど、インタビューしている山崎まどかという人が岸本佐知子と旧知のあいだがらのようで、後半は、自分の読んで面白かった小説(未訳)をお互いに紹介しあっている。それがもう、どれもこれも読まねば、というか読みたい、と思わせるもので、だれか岸本佐知子を5人に増やしてもらえないだろうか。なかでもいちばんツボに来たのは、山崎まどか紹介になる、Tao Linという作家のEeeee Eee Eeee 。すばらしすぎるので引用。
《―― これは今の日本で受けそうですよね。高学歴低収入の男の子が主役で。彼は故郷に帰ってピザ・ハットで働いているんですけど、やさぐれていて、ジュンパ・ラヒリがすっごく嫌いなの(笑)。別れちゃった女の子のこととかうじうじ考えている合間合間に「ジュンパ・ラヒリ、何だそれは? 名前か?」とかジュンパ・ラヒリへの呪詛が出てくる(笑)。そんな感じで田舎で暮らしているうちに、急に熊がでてきて、車のドアをはずされて地下の国に拉致られちゃう。それで熊の住んでいる地下世界にはイルカも住んでいるんですけど、その熊とイルカがやたらと彼の日常にからむんです。イルカは生きる理由が見つからないとかそういう形而上的な悩みですさんでいて、いろんなセレブリティーを誘い出して殺しているんです。ウォン・カーウァイとか(笑)。うまく説明できないんですけど、一種の青春文学なんですね。》p188

 いや、こんなうまい説明ないだろうと私は思う。当の本はこれなんだが、これも含め、ふたりとも洋書はかなりの割合で「ジャケ買い」してるのも意外というか納得というか。

 長くなったので、明日に続く。管啓次郎とTao Linのどちらにも、私は惹かれます。

…続き

 追記:→自分でも読んでみた
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