2008/02/27

ドラクエIII 日記 その7


「空の上のほうで なにかが 閉じたような 音がした……。」

 前回のぶんを書いたのが、金曜の深夜というか土曜の早朝の午前4時だった。それからパソコンを落とし、コーヒーをいれてコントローラーを握る。花見団子を食べながらプレイ開始。すこし眠いのが心配。

■ 2月22日(金)-23日(土)

アレフガルド
・太陽の石が見つからない。地下のおっさんが「ここにはないぞ」と言うからには、ぜったいここ(ラダトーム城)にあるはずなのに、あまりに見つからないのでよその町まであちこちルーラで飛び回る。もちろん無駄。結局戻ってきて、もう何度めかになる城内一周。ようやく死角を発見して入手。なぜ見落としていたのか。
・自分の視野の狭さにうんざりする間もなく、聖なるほこらへ。虹のしずく。ゾーマの待つらしい城へ渡る。眠気はなくなる。
・城内、敵は強いが意外にマホトーンとマホトラが効くので、賢者ふたりはマントゴーアやバルログからMPをむしり取りつつ進む。
・プレイ始めてから太陽の石を見つけるまでに1時間半。それからさらに1時間半でゾーマのもとへ。オルテガの見殺しっぷりと、バラモスのこき使われ方に泣く。
・「なにゆえ もがき 生きるのか?
 ほろびこそ わが よろこび。死にゆく者こそ 美しい。
 さあ わが うでの中で 息絶えるがよい!」
なにゆえ こんなに 耽美なのか? そのくせ、こちらの補助呪文を解除してくる戦い方(いてつく波動)はあまりにセコい。
・賢者がふたりいるのでイオナズン+イオナズン → ベホマラー+ベホマラー、みたいな感じで戦い、勇者はあんまり役に立たず、戦士に至っては死んでしまったのを生き返らせようとしてるうちにゾーマを倒す。
・崩れる城、「そこが帰り道だったのか!なるほど!」と衝撃。
・行ける限りの町に行って聞ける限りの人から話を聞き、太陽の石を返してから、王様に謁見。太陽の石に引っ張られ続ける最終日だった。スタッフロールの流れる部屋で、カーテンの外は明るい。眠気がまったくないので、やはり興奮しているんだと思う。

 そんなわけで、私のドラクエIII は終わった。始めたのが2月3日(日)、クリアが23日(土)。だいたい20日かかったことになる。
 こんなに長引くとわかっていたら、このような日記(「自分以外の人間はみんなドラクエIII をやったことがある、しかも内容をおぼえている」のを前提にした日記)はつけなかったと思う。もろもろのお菓子とコーヒーと甘酒と煙草を消費し、数え切れない「えー」やら「よしよし」やら「うわ」やら「ち」やら、そのほか言葉にならないうめき声を吐き続けた末にエンディングを見た感想は、
 
 (1) 予想以上に長かった
 
 なにしろ私はバラモス → ゾーマのあいだをハーゴン → シドーくらいのものだと思い込んでおり、地下世界のことなど何にも知らなかったので、後半1週間はショックが抜けないままプレイしていた。もとファミコンのゲームがこんなに長いとは。ファミコンおそるべし。そして感想はもうひとつ、
 
 (2) 面白い面白いと聞いてはいたが、たしかに面白かった
 
 すごい平凡だが、こう書いておかないことにはやった意味がない。これは「I・II」をやったときにも、『ジョジョ』を読んだときにも思ったことだけど、ひろく名作とされているものが、じっさい自分で触れてみると本当に名作、というのには、単純にうれしくなる。
 この気持はなんと表現すればいいんだろう。世界はほんとにあるんだ、という感じ。大きく出たな。感動は感動なんだが、どこかバーチャルである。これを20年の距離と考えていただきたい。
 
 さんざん世話になった友達Bによれば、ゾーマを倒したあとで行けるようになる、スーファミのみの隠しダンジョンもあったらしいが、本体はもう片付けてしまった。
 そういえばクリアする間際、黒田硫黄の漫画『茄子』で、高校を出てふらふらしている男の子と女の子が一緒に徹夜してRPGのエンディングを迎える明け方を、見開き2ページ使って描く話があったのを思い出したのだが(たしか第2巻)、こういう連想はあるいは“文学的”に過ぎるのかもしれない。

 で、さて、これまでドラクエに使っていた時間で何をしよう。なんでもできるような錯覚をおぼえている。そこで今度は「MOTHER1+2」をやる、というのは有力な選択肢だが、ああでもその前に、ジーン・ウルフの「新しい太陽の書」を読んでおきたい…… などと、名作を求める煩悩はつきないのだった。
 いまごろドラクエIII をやるにあたり、私と同様、ドラクエをやらずに大人になった人の存在も忘れてはいけないと思っていたはずなのだが、まあ、なんだ、やればいいと思う。てきとうだ。そして、勝手に名前を借りてプレイしていた友達に感謝する。あなたがロトです。

(おわり)
スポンサーサイト
2008/02/23

ドラクエIII 日記 その6



 スーパーでレジに並んでいる最中、バターが切れていたのを思い出す。乳製品売場に行ってみると、にぎやかに並ぶあれやこれやのなか、各メーカーのバターだけが揃ってすっからかんになっていてビビる。偶然か。何かあったのか。

■ 2月19日(火)
アレフガルド

・2冊めのさとりの書をゲット。「遊び人は、さとりの書がなくても賢者に転職できる」というシステムを、ようやく理解する。更生は正しかったんだ。
・でも、その遊び人あがりの賢者はリストラ。「おれが悪かった」と謝ってひとりめの賢者(もと僧侶)を復帰させる。
・イオナズンまでおぼえた魔法使いを賢者に転職。これで、戦士・勇者・賢者・賢者。
・ラダトームの北にある洞くつへ侵入。けっこう奥まで進んだところで戦闘。あ、死にそうだ。ベホイミ。「しかし じゅもんはかき消けされた!」
・どうも自分はこのメッセージがこわい。ピラミッドでも鳥肌が立った。ひいひい逃げる。
・ダンジョンに入りたくないばっかりに、各地を移動。ラダトーム → ドムドーラ → メルキド → リムルダール、あと船でマイラ、と行ったりきたり。オルテガのかぶとなど手に入れる。
・ふと思い立ち、あらためて地図を見ると、中央にある露骨に怪しげな城のほかには、精霊ルビスが封じ込められている塔を含めても、ダンジョンは3つしかないと気付く。明日から1日1コ攻略することに決めて寝る。
アラン・ロブ=グリエ逝去。本は何冊か持ってるが、じつはひとつも読んでいない。嗚呼。


■ 2月20日(水)
アレフガルド

・まず、ラダトーム南にある洞くつ。入ってみると、内部の広がり方がいかにも面倒に見える。
・しかしぜんぜん深くなかった。入手できるアイテムも、破壊の剣と地獄のよろいだけ。
・「地獄のよろい」ってすごいな。
・なので、次にラダトーム北、呪文が使えない洞くつにも行ってみる。意外にここも肩透かし。勇者のたてをゲット。
・今回、このゲームをやっていて、たびたびおぼえる不思議な感覚について:

はじめてのダンジョンに入る → それこそ右も左もわからない。壁につっかえ、行き止まりに阻まれ、階段を見つけても、同じフロアにまた別の階段がきっとあると思うと容易には上れない。迷路が無性に広く感じる。もちろんモンスター多数 → 「もう嫌だ… 逃げよう」 → 同じダンジョンでそれを2回、3回と繰り返していると、突然、見晴らしがよくなる。 → フロアの全景が思い描けてすいすい進めるし、どこの階段がどこにつながるかも見当がつく。予想がまちがっていてもすぐ修正がきく。なんだ、こんなに小さかったのか。

あたらしいダンジョンに出くわすたびに起こるこの変化が、すごく不思議。「それは慣れと学習なんだから、どこも不思議じゃない」という声もするが、じゃあ、不思議じゃなくてもいい。こういった、私のなかで起こる小さな変化、つまり、把握できないでいたまわりのことに、とつぜん見当がついている、という変化。そこの感覚の変容を、だれかうまく文章にしてくれていないものか。
・あとはルビス様の塔。


■ 2月21日(木)
アレフガルド

・マイラの村の西にある小島、精霊ルビスが封印されている塔。
・「5階へ行け」と言われるが、4階で行き止まり。とりあえず光のよろいをもらっておく。
・30分悩み、カンダタのことを思い出して5階への道を発見。
・木曜夜なのに「墓場鬼太郎」を見逃していたことに思い至り、戦意を喪失しながらルビスの封印を解く。ルビスも不本意だったと思う。
・ともあれ、王者の剣、勇者のたて、光のよろい、せいなるまもり、そして雨雲のつえまでゲット。今週ずいぶん停滞したおかげで、おそらくレベルも足りている。
・しかし、太陽の石が見つからない。
・ラダトーム城の隅で「そんなものはここにはないぞ」というおっさんが怪しすぎるが、何をしても出してくれないのであきらめて寝る。あしたこそ。
・再び、高まる緊張。


[その7]
2008/02/20

ドラクエIII 日記 その5



 こないだ「ゲームやってるあいだは小説読めない」とか書いたくせに、本屋で筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』を買ってしまう。あ、これは面白いじゃないか。そのうち感想を書いておこう。書くのか(→書きました)。

■ 2月15日(金)
バラモス城 → ギアガの大穴 → 闇の世界

・2回全滅したあとバラモスを倒す。ギアガの大穴が本当にただの穴なのでびっくり。アレフガルドへ。
・友達B:「バラモスを倒したあとも、もうちょっとだけ続くんじゃよ」
・しかしながら、「闇に覆われ、つねに夜になってしまった世界で驚き惑う人々」が、悲壮というよりマヌケに見えて仕方ない。
・友達B含め、私がいまドラクエIII やってることを伝えた人間の誰ひとり、この展開については黙っていた。その意味を考えつつ寝る。
・週末のクリアは無理。


■ 2月16日(土)
1回休み

・土曜日の常として午後起きる。
・2月の初めに一念発起して注文していた、あたらしいパソコンが夕方届く。
・そのため部屋の大掃除からはじまって各種設定でへろへろ。気力を失ってゲームは進めず。
・なぜかメールが使えない。設定は何ひとつまちがってないはずなのに。「ネットが見れれば問題なくね?」の声がする。


■ 2月17日(日)
アレフガルド

・あらためて広がる世界に茫然とする。あんなにがんばったつもりだったのに。
・これまで、戦士・勇者・魔法使い・賢者(もと僧侶)で旅をしてきたが、なんとなくアリアハンに戻って賢者を外し、遊び人を追加。これをレベル20まで成長させてふたりめの賢者にするという、なんだ、一種の更生プログラムに血道をあげる。
・そんな逃避をしている場合ではない、と思って大陸を歩きまわる。
・「ガ、ガライ…!」などと名状しがたい感慨を受けつつあちこち踏破するが、ちっともおぼえられないので手書きの地図を作成。
・何をするべきかだいたいわかる。が、正直、めんどくさくなっているのは認めざるをえない。
・王者の剣、妖精のふえをゲット。しかし各地に点在するダンジョンはすべてスルー。ひとつも入らない。逃避。
・なぜかメールはまだ使えない。設定は何ひとつまちがってないはずなのに。
・ネットが見れれば問題ない気がしてきた。


■ 2月18日(月)
1回休み

・モニタを見すぎて気分が悪くなり、コントローラーを握れず。
・あきらかに失速している。あといくつのダンジョンを越えるのか。
・「たしかにね、バラモス城へ行くころになっても、魔法使いがイオナズンをおぼえる気配さえないのは妙だと思ってはいたんだ」と拗ねたふり。
・そんな停滞を知ってか知らずか、友達Bから転職のアドバイス。
・「戦士のすばやさがあがらないんだけど、この際、パーティの盾と割り切ればいいのかね?」 → 「いったん賢者にして、呪文をすべておぼえさせてからさらに盗賊に変える、が正解」 → 「遠いよw」
・盗賊というのはスーファミ版オリジナルの職業。盗賊と商人の混成パーティは何かまちがっている気がしてならない。
・あと、スーファミ版(96年製)には「ルーズソックス」という装飾品がある。武器防具・魔法のページだけチラ見している公式ガイドブックには、《足首のところでクシュッとさせてはく》。
・なぜかメールが使えるようになっている。


[その6] [その7]
2008/02/16

ドラクエIII 日記 その4



 歯医者に行く。榎本俊二『ムーたち』第1巻にあふれる名ゼリフのひとつ、
「歯を削られたからといって ごていねいに歯を痛がる必要はないんだぞ」を何十回とリピート。いつもの倍、痛い。

■ 2月13日(水)
バラモス城

・友達B:「ルーラで出られる」 → 「な、なんだってー」というわけで、再度バラモス城。
・「でもどうせゾーマを追ってギアガの大穴に入るんでしょ。長いダンジョンなんでしょ」 → 「誓って言うけど穴はただの穴だ。てか、ゾーマって何のこと? ラスボスは魔王バラモスだって王様も言ってたでしょ?」 → 「ですよねー」
・複数で登場、容赦なくマヒャドを連発してくるエビルマージに苦戦。すぐ瀕死。
・で、バラモス城を探索しているうちに、意外と浅いことに気付く。
・巨体と言うにも大きすぎるバラモスの姿を発見!
・対戦、全滅 → 王様から「死んでしまうとは ふがいない!」との叱責 → コントローラーを投げつけそうになって今日は終了。


■ 2月14日(木)
バラモス城

・「週末にはクリアしたいな」 → 友達B:「土日のみでクリアできると。いい根性だ」
・引き続き城内をうろうろして、賢者にベホマをおぼえさせる。
・はぐれメタルはぞろぞろ出るので別にはぐれてないと思う。
・が、まだ一匹も倒したことがない。
・ゲームやってると小説が読めない不器用な私は、今週は赤瀬川原平の本を『反芸術アンパン』『東京ミキサー計画』と続けて読んでいた。著者たちがやってた1960年前後の芸術活動の記録。正直、どう見ればいいのかわからない。だって、見てないから。“行動を記録する”この2冊にくらべ、今日から読みはじめた『芸術原論』は、“考えてくれる”本だからずっと落ち着いて読める。とはいえ当人は丸くなったわけでもなく、いばらない文章のあちこちに目を見張らされる。たとえばひさしぶりに印象派の展覧会に足を運んで、「絵具を塗ることが一番楽しかったのは、やはり印象派の人々ではなかったかと思う」という考察が以下の引用。どうしてこんなことをこんなに簡素に書けるのか。

《キャンバスにはいちおう風景や人物というものが描かれてはいるけど、それはただ絵具を塗る快感のための手続きである。それを塗る快感の残した痕跡が、結果として絵になっている。そう思えて仕方がない。だってそこに描かれているものは、何でもない風景ばかり。何でもない静物や人物ばかり。
 そのあとの「近現代」の絵画というのは、印象派と同じことはしていられないというわけで、テーマや工夫ばかりが開発されて、自意識が絵具の外に丸出しになってくる。思えば印象派の絵には、自我の蒸発という感覚さえ味わわされて爽快である。現代美術に魅力的な絵があるとすれば、それは必ず印象派の絵具と命脈がつながっているはずである。》pp72-3

 ここから勝手に「自我なんてつまんないから風景を描け」(大意)という保坂和志の主張を連想したが、それは小説の話。
 では小説はというと、私は赤瀬川原平=尾辻克彦の『肌ざわり』『父が消えた』を愛好するものなので、保坂和志ならこれらについて何と言うのか聞いてみたい。
・なんの話だ。


[その5] [その6] [その7]
2008/02/15

ドラクエIII 日記 その3



 なんというか、これくらい毎日きちんきちんと取り組めば、買ったまま読めないでいるあんな本やそんな本も、1ヶ月くらいで読めそうな気がしてきた。

■ 2月11日(月)
サマンオサ → へんげのつえ → ふなのりのほね → 「エリックと オリビア ふたりの愛の思い出が あたりを あたたかく つつむ。」 → ほこらのろうごく → 商人の町を視察 → ネクロゴンドの洞くつ

・ラーの鏡が取れない。こうなると解法はあれしかないと見当がつくが、ここまで悩んでおいてそれはなんかイヤだ。認めたくない。ちがうと言ってくれ → 友達Bよりメール:「 II でいなずまのけんは取れたよね?」 → やはりか…… → 落下してゲット。
・エルフの隠れ里を再訪。いのりのゆびわが売っている。しかもお手ごろ価格。
・泉の精霊オルレラを、どこまで押せばいいのかわからない。
・他人の「愛の思い出」が宝箱から出てくるのってすごくないか。
・そして商人はがんばりすぎていた。
・録画していた先週分の「墓場鬼太郎」を見る。ネコ娘(死後)がびびるほど怖い。私のなかの放送コードに激しく抵触。
・のぞくだけのぞいてみようとネクロゴンドの洞くつに潜入。ループする通路と落とし穴、もういちど来るのはイヤだと思ってムキになり、出口までたどり着く。
・いいかげん寝不足。
・そして高まる緊張。


■ 2月12日(火)
ラーミア → ひかりのたま → バラモス城

・友達Bは、このゲームをやるたびにラーミア誕生シーンで涙ぐんでしまうと言う。「感想よろしく」
・電源入れてまず、ラーミアを孵す。
・感想:「えっと…… モスラ?」
・返信:「モスラにもパクられた名シーンです」
・ギアガの大穴を見物。ほかにすることもないようなので、いよいよバラモス城 → 即、瀕死 → リレミト → 効かない。震えあがる。
・ふたり死亡、残るふたりのHP1ケタでからくも脱出。
・動揺したままふとんをかぶって寝る。本日のプレイ時間、45分。


[その4] [その5] [その6] [その7]
2008/02/13

ドラクエIII 日記 その2



 家帰る → フロ → ごはん → 大急ぎでネットなど → ドラクエⅢ。
 先週はこのようにたいへん規則的な1週間だった。繰り返しの力は強い。毎日のニュースのせいで餃子が食べたくなっているのは私だけではないと思う。

■ 2月7日(木)
ポルトガ → 抜け道 → バハラタ → 人さらいの洞くつ(またお前か) → くろこしょう → ポルトガ → 船!
→ 調子に乗ってジパング遠征 → やまたのおろちに全滅

・友達B:「なんで初プレイの人はこぞって真っ先にジパングへ行くんだ? そしておろちに喰われる。世界はあんなにも広いのに」。
・ダーマの神殿も見つけたが、まだだれも転職できない。
・てか、どう転職させるのが効率よいのか。ふとんのなかで考えながら寝る。


■ 2月8日(金)
海賊のすみか → ルザミ → グリンラッド → ランシール → エジンベアで「いなかもの」 → さいごのかぎ

・そのほか、船のせいでいろいろする。
・とりあえず僧侶を賢者に。(戦士、勇者、魔法使い、賢者)
・気付いたら明け方。自分のまわりにお菓子の袋が散乱。


■ 2月9日(土)
起きると午後 → 整体に行く → 船でうろうろ → 外は雪 → やまたのおろちを退治 → サマンオサ → その南にある洞くつで疲弊

・海を越えて商人を放置。
・戦士のすばやさがあがらなくて困る。
・旅の扉のつながりが把握できず、表にしたら意外と単純で脱力。
・ランシール西の洞くつ(ひとりになるところ)はまだ無理だった。
・駅を越えて整骨院へ歩いていく途中、反対の方向から大量の女子高生とその父母が行進してきて、前に進めなくなる。それで今日、その先にある女子大が入試だったと知る。この人たちは入試からの帰りだ。だれひとり笑っていない。壮観だった。


■ 2月10日(日)
きのう挫折したサマンオサ南の洞くつに再度侵入 → たぶんラーの鏡が入っていると思われる宝箱に近づけない → どうやっても近づけない → 仕方がないので世界を経めぐる → 夜、戦闘画面の途中で5時間寝落ち → くだんの宝箱はやはり取れない

・問題の洞くつ、ゾンビマスターが真剣にうざい(複数で登場、連続マホトラ、仲間にザオラル)。
・こっちのマホトラは成功率が半々なのに、敵のマホトラは100%効くのっておかしくないか。
・「だいたい、ラーの鏡って II で砕け散ったじゃんよ」とイライラ。
・疲れている。
ちがう、きっと順序が逆なんだ!
・詰まっているわけだが、この詰まり方は正しい詰まり方なのか。
・商人はがんばっていた。
・思いついて、やみのランプを使ってからテドンの村。鳥肌。
・オーブは4つ入手。それからやまびこのふえを見つけた。
・はじめてスーの村に行ったら情報がぜんぶ古かった。
・大陸を彷徨、ムオルの村発見。たしかに、さいはて。
・「ポカパマズって何だよw」 → ごめんさない。
・新聞に載るヒラリー・クリントンの顔写真がひとつ残らず怖いので、スクラップを思い立つ。“あえて”の行動による悪魔祓いの精神。


[その3] [その4] [その5] [その6] [その7]
2008/02/11

20年おそい: ドラクエIII 日記 その1

super_f

 先週から、ドラクエⅢをやっているのだった。スーファミ版。

 私はファミコンを買ってもらえなかった子供で…… という話は、去年の9月、やっぱりスーファミでリメイク版の I と II をやったときに書いた→これ
 そういやニコ動にも、以前、「はじめてのドラクエIII」みたいな動画があった。説明として、「“やったことない”と言ったら友達から非国民扱いされたのでやってみる」みたいなことが書いてあり、ああ、その疎外感はよくわかると思った。高校、大学と進むにつれて、「当然のようにやっている」人がまわりに増えたのは何の因果だろう。
 ソフトはヤフオクで落札。1000円くらいだった。初代ファミコン版が1988年だそうなので、1996年にこのスーファミ版が出るまでの8年よりも、そこから今日までの12年のほうが長いということになる。何か不思議な気がする。初代とはずいぶん異同があるらしいが、なにしろはじめてなんだからよくわからない。
 ともあれ始めることにした。以下が自分ルール。

・届いたソフトには箱も説明書もなく、しかし公式ガイドブックが付いていた
 →武器防具・呪文の説明だけは見てもよし
・攻略サイトは不可
・困ったら友達に聞くのは可
 わけても高校以来の友達Bには全力で世話になる

 で、性格上、どうかと思うほどメモを取りながらやっているので、今回はそれをもとにクリアまで日記をつけようと思う。何がしたいのか自分でもわからない。いや、私はクリアしたいんだ。三輪車に乗りはじめた子供を見る目で見てほしい。

■ 2月3日(日)
アリアハン → 岬の洞窟 → ナジミの塔 → ロマリア城 → シャンパーニの塔をのぞいて退散

 前回、 II をやったときはキャラに実在の知り合いの名を使ったため、ここで書けなくなった。その反省を生かしたいものの、気の利いた名前がひとそろい思いつかないので、今回も知り合いの名前。書けやしない。勇者、戦士、僧侶、魔法使い。
・なんだかえらく「お使いに出されてる感」が強い気がする。
・バブルスライムの絵はつくづく秀逸だと思う。
・戦闘画面のモンスターがみんな、攻撃の際にワンアクションするのをめんどいと思う私には、いまのゲームはできないのだろうか。
・外は一日雪だった。


■ 2月4日(月)
ロマリア城~カザーブ~ノアニールのあいだでレベル上げ → シャンパーニの塔 → カンダタ見つからない → どう探しても見つからない → 出直す → 見つかる。何だったんだろう → ノアニール → エルフの隠れ里 → 西の洞くつ → めざめのこなを手に入れ、起こすべき人びとを起こしたところで眠気に倒れる

・その後、“正しいカンダタの探し方”を友達Bから教えてもらう。そんなのわかるかよ!と騒ぎたくなるが、この男だけが特別なんじゃない、常識なんだと思ってがまんする。
・んなわけあるか、と思い直す。「ドラクエ?やったよ」の基準がわからない。
・ノアニールのエピソードは切なすぎ。


■ 2月5日(火)
ロマリア城 → アッサラーム → イシス

・みかわしの服がみかわしにならない。じごくのはさみに悩まされる。
・1988年当時、ゲームはやれなかったくせに、雑誌や何やらにはみんな攻略記事が載っていたので(コロコロコミックや、学研の学習にまでも!)、そこで見ておぼえたことも微妙にある。なかでもイシスの女王の言葉は、なぜか画面写真と共に記憶にあり、実際に目にして感動した。自分はそんなことをおぼえていた、というのがはじめてわかったので。
「みなが 私を ほめたたえる。でも ひとときの 美しさなど なんに なりましょう。」

・感動したままピラミッドをのぞき、ひとくいばこに戦慄。


■ 2月6日(水)
ピラミッド → ポルトガ

・呪文がかき消されるフロアにおびえつつ、ピラミッド攻略。
・攻略というより盗掘ではあるまいか。
・でもやり残した感が強い。あとでまた来よう。
・ほしふるうでわを発見、私のテンションがあがった。
・微妙に聞きおぼえていたことは、ときどきまちがっている。
 「賢者に転職できるのは遊び人だけなんでしょ?」
 「ねえよw」


[その2] [その3] [その4] [その5] [その6] [その7]
2008/02/09

ミルハウザー『ナイフ投げ師』 3/3



 まだ『ナイフ投げ師』の続き。

 どの短篇にも想像力と描写力があふれかえり、小説のなかでは両者は同じものだったことを改めて思い知らされる。ミルハウザーは技術の限りを尽くして自分の世界を作りあげる。どんな作家もそうしてるんだろうが、ミルハウザーほど“作品で扱っている事物”と“作品そのもの”が似ているケースはほかに思いつかないので、上の印象が強くなる。
 なかでも圧巻なのは「新自動人形劇場」「協会の夢」「パラダイス・パーク」だが、続けて読むにはいくらなんでも重たすぎてしんどいだろうこの3つのあいだに、比較すれば軽めといえる作品が挟まれている。この配置も絶妙だ。
(「重たい」というのは、テーマが深刻とかそういう意味ではぜんぜんなく、食事の量が多すぎて胃にもたれる、というのと同じ意味で「重たい」)

 もう少し詳しく書いてみる。

「重たい」短篇ほど、読み終えてからどんな話だったか考えてみると、面白い細部を次から次へと思い出せるので驚くことになる。あんなに短いページに、どうしてあんなにたくさんの細部を詰めることができたのか不思議になるほどだ。
 ディテールの量からすれば自重でつぶれかねないほど「重たい」短篇を、うねりながらも前へ進ませているのが「分析」という語り口だと思う。上記の3篇とも、それぞれ自動人形の名匠の作風とか、百貨店のあたらしい趣向、遊園地の変遷といったものを、分析家の記述に乗せて語っている。
 さまざまな変化は時間の軸に沿って説明され、部外者からの異論・反論も紹介されて、基本的には全肯定へ向かっていく(全肯定以外に、こんな大がかりな分析のモチベーションはあるはずがない)。
 それが語り口なんだから、「描写」というのはもちろん、この「分析」の枠のなかで行われ、四方八方に広がっていく。

 言ってみれば、自前の発明品について、自前の専門家に語らせた記述をもって“作品”としているのであり、加えて、“作品で扱っている事物”と“作品そのもの”があまりに似ているから、作中で行なわれる前者へのコメントは、後者へのコメントと区別がつかなくなる。
 前回分で引用した部分をはじめ、たいていの短篇には、ミルハウザー作品への自註として読める部分がたくさんある。例えば下の引用は、いま「協会の夢」から見つけたもので、百貨店の内装についての描写だ。これは、ゆっくりゆっくり、読むべきものだろう。
《左右に蛇行する薄暗い通路に沿って、高脚付きのたんす、ガラス扉の本棚、小仕切り棚を備えたロールトップデスクが並んでいたかと思えば、一気に視界は明るく開けて、ピンクや緑の髪、まばゆい黒のサテンや白のレースを着た長い脚のマネキンが集っていて私たちの度肝を抜く。ガラスのカウンター上のあちこちに、狂える殺人鬼の自宅地下室に転がる切断された手足のごとく、女性の身体の下半分が逆さまに、脚を宙に突き上げる格好で置かれ、小さな緑の宝石をちりばめた黒光りするストッキングをはいた上下逆さのそれら脚たちの方へ私たちが進んでいって、ふと周りを見てみると、自動霜とり冷蔵庫や三層式食器洗い機やデジタル表示の電子レンジなどのただなかを私たちはさまよっているのだった。短い黒髪の、退屈そうな顔をした、売場から抜け出てきたように見えるマネキンが冷蔵庫に寄りかかって立ち、イタリア製の最新型ブラジャー――一本の金の糸がまっすぐ胸を横切り、ハート形の留め金で背中で留めるようになっている――をあらわにしていた。店内いたるところにガラス張りの案内図が掲げられているものの、こうした移行や混乱は、むしろ迷子になるよう私たちを誘っているふうに思えた。そして迷子になることを何より望んでいる私たちは、百貨店の豊饒感を増してくれるもの、売場の無限の増殖をひそかに願う思いを満たしてくれるものなら何であれ歓迎する気持ちで、曲がりくねった通路をさらに奥へ進んでいった。》pp161-2

 前半のこまごまとした、それでいていちいち意表をつく事物の行進を順番に追っていくと、ブラジャーのあとあたりから語り手の感想があらわれ、それはたしかに描かれた百貨店について述べられたものなのに、同時に、百貨店を描出するそこまでの文章に対しての感想にもなっていて、私は「ここ、すごいことが起きている」と仰天しながら、曲がりくねった文章をさらに先へ読み進むことになる。「すごいことが起きている……はずなのに」という気持ちで。

 小説の記述でありながら、この小説についての記述と見分けがつかない。これは相当におかしい事態のはずだが、さらにおかしいことには、ミルハウザーにはこんな例がいくらでもあるのだ。この短篇集についていえそうな言葉は、賛辞も非難も、収められた短篇のあちこちにあらかじめ書き込まれている。そんな気がしてくる。
 ミルハウザーは、普通の顔でそういう真似をする。すごさのひけらかしがまったくない。その結果、この人の小説はものすごく完結した外観を持つことになる。内側だけで充足した、極度に人工的な世界。丁寧な丁寧なマッチポンプ。
 だからこの作家の姿勢は、すごくストイックなんだと思う。すごくストイックなのに、できあがった作品は自由奔放、自分の好みのままに人形や地下室や夏の夜の裏庭など狭くて小さなところへ分け入って、魅力的なディテールを喜々として汲み出してくる。

 いっぽう、入念に作為を凝らし、文章を磨いて自分の世界に立てこもってしまうのは、「自閉的」と責められてもおかしくないように思う。でも本当にそうなんだろうか? 疑問形にしておいて何だが、私には、どうもそうは思えない。
 というのは、この『ナイフ投げ師』を読んでいるあいだ、つまり、ああ私はこういうのほんとに好きだと思いながら、細部にツボを押され、自分のあたらしいツボを発見もし、もっと読みたい、でも読み終わりたくない、と楽しく煩悶しているあいだ、ずっと気になっていたのは、これほど完璧に作られた人工的な世界に、自分がこれほど夢中になって入り込んでいるのはどういうわけなのか、ということだったからである。よろこんで内側に入り込んでいる人間が「この作品は自閉的だ」と言うのは、たぶん、おかしい。
 どれだけ自閉的に見えても、どれだけ完結しているように見えても、これらの短篇には、どこかに入口が開かれているはずである。それはどこなのか。私はどこからミルハウザーの世界に入るのか。
 子供時代へのこだわり? 人工的なものへのあこがれ? あるいはそういうのぜんぶをひっくるめ、「こういう感じのが好き」という曖昧な好みとしてだけ自覚されていて、自分では具体的に想像できないでいたものを、はるか先まで実際に描いて見せてくれる、要するにこちらの想像の肩代わりをしてくれる、という点?

 いや、そういうものはみんな作品の内側にあるのだから、いきなりは見えてこない。それらが待っているところまで読者の私を連れていく入口は、多くの短篇で採用されている、一人称複数の「私たち」なんだろう。
 一人称でありながら、およそまったく自己主張しないこの語り手のいる位置は、「ナイフ投げ師」で最も効果的に示されているように、傍観者であり観察者、つまり読者のそれとほとんど重なるよう調整されている。「パラダイス・パーク」までくると、そんな一人称さえ排し、遊園地の歴史を述べた文書という体裁が選ばれる。これもおそらく、いちばん「重い」作品にこちらを引き込む手法だろう。突飛な品々を陳列するには、通路はなるべく平坦な方がいい。

 しかしそれくらいのことは読んでいる最中からわかるわけで、このように書いてきても、どうしてあんなことができるのか、と驚きあきれる思いは強まるばかりだ。「あんなこと」とはつまり、読者と一緒に歩くふりをしながらじつは半歩先に立ち、書かれてある通りの感慨をこちらも抱くよう誘導していく語り口のことである。何かを描きながら、その対象にどんどん似ていく文章のことである。
 たまたま、1回だけ奇跡的にできちゃった、というならまだわかる。でも、ミルハウザーは何回も何回もそういうトリックを仕掛けて、そのたびに私は引っかかるのである。何度読んでも、どこから見ても、そこの仕組みがわからない。わかる気配もない。おそらく、わからない作家がいるのはしあわせなことだと考えて、旧作を読み返し、新作を待っていればいいんだろうとは思う。
 しかしどうしてもそれだけではもったいない気がして、なるべくたくさん引用し、なるべく繰り返し「すごい、すごい」と言ってまわりたいのである。この公演の呼び込みに私はなりたい。「呼び込みがキモい」という文句はこの際しかたがない。そんなわけで、この感想で最初に引用した「ナイフ投げ師」の冒頭を、もっと長く書き写す。
《ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行なうと聞いたとき、私たちはとまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。ナイフ投げ師、ヘンシュ! 私たちは嬉しさのあまり手を叩きたかったのだろうか、踊り上がって期待の笑みを満面に浮かべたかったのだろうか? それともやはり、唇をすぼめ、厳めしい、とがめるような表情で目をそらしたくなったのだろうか? いかにも相手がヘンシュならではの迷いである。自他ともに認めるナイフ投げの名手。実体もほとんど知られていない、困難な、どこかうさん臭さがつきまとう芸の第一人者であると同時に、この人物にある種の不穏な噂がつきまとっていたこともまた否めない事実なのである。日曜版の文化欄に時おり現れるそんな噂に十分な注意を怠ってきた自分を、私たちはいまになって責めるのであった。》p9

 もったいぶった生硬さを少しだけ残す、子供が背伸びをしているような、それでいて、そういうものとして限りなく流暢でもあるこの文章を、私はぜんぶ丸めて玉にして(たぶん、わりと鈍い色だと思う)、一日じゅう口のなかで転がしていたい。そんな作家、ほかにいない。



ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーヴン・ミルハウザー

商品詳細を見る
2008/02/06

ミルハウザー『ナイフ投げ師』 2/3


以下、各短編について。

「ある訪問」
 語り手が旧友からの招きを受けて山奥を訪れる。ありえないものを綿密な書き込みでありえるものにしてしまう、という意味ではほかの短篇と同じだが、これだけ毛色がちがって感じられるのは、描かれる対象が生物だからか。本当に大事な区別はたぶんそこではないのに。生物に対する思い込みは意外に頑固だと思った。


「夜の姉妹団」
 十代の女の子が連れ立って、何かよからぬ儀式をしているらしい。“沈黙の掟”のために真相は見えず、大人たちは噂と推測に翻弄される。最初の「ナイフ投げ師」をちゃんと読むまでは、別のアンソロジー(→これ)で読んでいたこの作品が、この短篇集でいちばんのお気に入りになると思っていた。もちろん面白いのはまちがいない。ミルハウザーは静かに変態である。


「出口」
 不倫現場を見つけられた男に、相手の夫がしたことは。わりと普通の話だが、執念深い夫より、親切そうに見える仲介者の方が不気味。地獄への道は善意で敷きつめられている(?)。


「空飛ぶ絨毯」
 空飛ぶ絨毯にかこつけて、子供のころの夏休みを描く。と見せかけて、空飛ぶ絨毯からのみ開ける視界を、五感を尽くして作りあげる。想像力の冒険。ミルハウザーは子供心を忘れない変態でもある。


「新自動人形劇場」
《[…]私たちの芸術は、基本的に模倣を事とする。ひとつ進歩が遂げられるごとに、生の領域をまた一歩侵したことになるのである。私たちの自動人形を初めて目にする訪問者は、そのいかにも生きているような様子に圧倒され、不安を感じさえする。人形たちがまさに考え、息をしているように見えるからだ。》p119

 そもそも、“背丈15センチの自動人形による劇が名物である市”(なにしろ劇団は子供向けから大人向けまで数知れず、各劇場で行なわれる公演の総数は1日で100を越える)という前提がありえないはずなのだが、なかでもいちばんの名匠の超絶技巧と、その発展の過程を思想的な面から考察する、という屋上屋を架す設定によって、逆に何だってありえるように見えてくる。というか、本物と嘘の区別がなくなる。しびれた。
《最近では、グラウムは大人の劇場を捨てて心の故郷たる児童劇場に回帰したのだという説が流行している。言わせてもらえばこれはとんでもない誤解である。児童劇場の人形たちは架空の生き物の模倣である。グラウムの人形たちは何の模倣でもない。彼らは彼ら自身でしかない。竜は存在しない。自動人形は存在する。》p136


「月の光」
 15歳の夏、眠れなくなった「僕」が家を抜け出すと、起きているのは同じクラスの女の子4人で―― 「夜の姉妹団」とあわせて、ミルハウザーの不健全な健全さ(健全な不健全さ?)がよくわかる。中篇Enchanted Night の試し書きみたいな話(実際に書かれた順序は不明)。


「協会の夢」
 20世紀前半を舞台に、実在しそうな百貨店の、ありえない発展を追う。長篇『マーティン・ドレスラーの夢』を短篇に仕立て直したような作品。密度は十分以上で、なにしろ、これでもまだまだ発展途上の段階である。
《たとえば造園売場に突如現れた凹室[アルコーブ]には、小川、水たまり、滝を売る店が設置されていたし、十四階の男物帽子売場と小間物売場のあいだには洞窟やトンネルを売る陰気な売場があって、洞窟の壁にしつらえた蛍光灯が岩石の累層に紫がかった光を投げ、小奇麗なラベルを貼った鍾乳石、流れ石、洞窟珊瑚、くねくねよじれた枝状鍾乳石から値札が下がっていた。そして、さらに謎めいた売場が、ナイトテーブル、ほの暗く光るランプ、めくられたベッドカバーの下に見えている花柄のシーツ、アーチ型の天蓋と厚手のカーテンに覆われた四柱ベッドから成る穏やかな茶色い世界の向こうに広がっていた。》p164

 百貨店には何だってある。描写の鬼・ミルハウザーがたびたび百貨店を舞台にするのは、視点の実験に精を出す高野文子が『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』でデパートを舞台にしているのと何か重なる部分があるのだろうか、と書いてみたが、“たくさん物がある空間”で説明は十分な気もした。


「気球飛行、一八七〇」
 この短篇集を真ん中で折り返したとすると、ちょうど前半の「空飛ぶ絨毯」に対応するあたりにこの短篇が来る。プロイセン軍に包囲されたパリから、気球で飛び立つ語り手。任務は後方でレジスタンスを組織すること。下方に広がる風景の描写は、あまりに映像的すぎてぜったい映像化できないものになっていると思う。


「パラダイス・パーク」
 ふたつ前の「協会の夢」が百貨店の神話なら、こちらは遊園地の神話。ディテールはこの短篇集でも最高濃度を誇り、さまざまなアトラクションが惜しみなく描写される。まちがいなく馬鹿である。
《パンフレットなどによれば、〈アドベンチャー〉とは乗り物ではなく丹念に再現された実体験であり、十セント払うだけで人は〈暗い森〉に入って盗賊の一団に襲われることもできれば、〈リスボンの街〉に足を踏み入れてかの有名な地震を体験したり、〈昔日のアルジェリア〉をさまよって怒れるムスリムたちに取り囲まれてズダ袋に入れられて縛りあげられラクダの背中に乗せられて運び去られ眼下で荒波の打ち寄せる崖から吊り下げられたりもできる。》p201

 野心的な経営者によって遊園地は地下へ広がり、人工の海まで備えもつ(地下なのに!)。雪崩をうってあらわれる豪華絢爛な小ネタ大ネタを描くだけでなく、この過剰な遊園地への分析まで含めて小説になっているのはいつもの通り。
《ジャンプするジェットコースター、転がる観覧車といった新機軸は、技術的にはむろん興味深いが、こういうものが出てくると、従来の伝統的な乗り物に人びとが飽き足らなくなってしまう恐れがあり、彼らの胸のなかに、なおいっそう極端で危険な興奮を求める不健全な欲求を引き起こしてしまうのではないか。ここにおいて、技術は倫理に関わる問題となる。》p215


「カスパー・ハウザーは語る」
 青年になるまで監禁されていたらしいカスパー・ハウザーが、ニュルンベルク市民の前で演説する。この短篇集をここまで読んでくると、これくらいの話は「むしろ地味」と感じてしまうところが興味深い。カフカの「ある学会報告」風でもある。


「私たちの町の地下室の下」
 私たちの町の地下室の下には地下通路がある、という話。その歴史とはたらき、住民への影響を真面目な顔で論じ、よその人びとからの的はずれなからかいに粛々と抗議する。押さえた筆致、ツボを押さえたくすぐり、冷静な屁理屈。語りは当の地下通路のようにくねくねと伸びていく。


訳者あとがき
 ミルハウザーの読者が共通して抱く思いのいくつかを、簡潔にまとめてくれているので項を立ててみた。いわく、
《ほかの読者はついて行けなくなっても、閑散とした劇場に通いつづける作中の崇拝者と同じように、自分だけはどこまでも師[ミルハウザー]について行く、みんなそう思っているのだ……》p279




ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーヴン・ミルハウザー

商品詳細を見る
2008/02/05

スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(1998) 1/3

ナイフ投げ師
柴田元幸訳、白水社(2008)

 短篇集。収録作について順番に書いていきたいのだけど、とにもかくにも、最初に置かれている表題作「ナイフ投げ師」がものすごい。立ち読みでいいから読んでみてほしい、とりわけミルハウザーを読んだことのない人に読んでみてほしい、と思った理由をこれから書く。
《ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行なうと聞いたとき、私たちはとまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。》p9

 こんな一文からはじまるこの短篇には、場所も時代も特定できる手がかりがない。そういう情報がすべて省かれ、ただ、この怪しげなナイフ投げ師の名声と、それに伴う不吉な噂がたたみかけられるのを一ページ、二ページと読んでいくうちに、読者の私は、語り手の「私たち」と一緒になって、土曜の八時、公演の客席に並んで座っているのに気付く。
 そうなると不思議なもので、この短篇には、それを読む読者の思いがそのまま引き写されているということになる。
 登場したナイフ投げ師ヘンシュが、アシスタントの投げる白い輪を次々に狙い撃ちして板に射止めていく技巧と、それを描写する文章の的確さに舌を巻いているところにあらわれるのは、こんな述懐だった。
《私たちはたしかに感じ入った。ヘンシュのあっぱれな大胆さに、私たちは魅了された。とはいえ、痛いほど強く拍手しながらも、私たちはいくぶん落着かない、いくぶん不満の混じった、あたかも何か口にされなかった約束が守られなかったような気持ちだった。この公演を観にきた自分を、私たちはかすかに恥じていたのではなかったか?彼のいかがわしい悪ふざけに対し、越えるべからざる一線を彼が怪しくも越えてしまったことに対し、あらかじめ眉をひそめていたのではなかったか?》p15

 どうして、いまの自分の気持ちがページの上に書いてあるのか?
 もちろん、そんな思いは錯覚のはずである。ところがこの錯覚を意識したとたん、醒める、というのとはまるで反対に、いよいよ私はヘンシュの公演へ引き込まれていく。あとは身動きもできない。続くのはこちらの期待にたがわぬ芸であり、すなわちアシスタントの女性が板の前に立つ。
 当然、そこから話は盛り上がっていくわけで、舞台上のナイフ投げ師は一投一投、段階を踏んで、こちらの期待をひとつずつ叶えようと(射止めようと)するかのようにナイフを投げる。その動作のいちいちに私は息を呑む。
 しかし、ほとんど空恐ろしいような気持ちをおぼえたのは、そこに到るまでの導入のなめらかさだった。それによって、以降すべて、読む側の抱くだろう予想と感想が、小説の内容になっていく。この継ぎ目のない手触りは、ごく自然と言って済ませられるものだろうか。むしろ、徹底的に不自然なんじゃないか。
 文章を追いつつ、そんなことをあたまの片隅で考えているあいだにも、「ナイフ投げ師」はこちらの願望をどんどん実現しながらラストへ向かう。そこには、予想をひとつも外さないまま予想を越えた幕切れが用意されている。私はやっぱり語り手たちと一緒に劇場を出ていく。ものすごいものを見てしまった、しかしちょっとやりすぎじゃないのか、と思いながら。
 それなのに、この短篇はぜんぶで19ページしかない。読み終わって茫然としているその先に、ほかの短篇が続いていく。導入のなめらかさでこちらを圧倒した短篇が、短篇集の導入になっている。
《外れた――外れたのか?――私たちは失望がぐっと鋭く心を引っぱるのを感じ、次の瞬間それは恥に、おのれを深く恥じる思いに変わっていた、なぜなら私たちは血を見たさにやって来たわけではないのだ、私たちはただ――何か別のものを求めて来ただけなのだ。》p18

  あとに続く短篇の数かずは(「何か別のもの」は)、言うなれば、ヘンシュの左手に扇の形で広げ持たれたナイフであり、舞台を見つめる私の前で、ヘンシュだかミルハウザーだかは、かえすがえすも異常としか思えない技量で一本ずつナイフを投じていく。目が離せないまま私は思う。
 何もそこまで描写の腕を上げる必要はないんじゃないのか。短篇集の始まりは、ここまでうまくなくてもいいんじゃないのか。そして、ちょっとやりすぎじゃないのか。
 つまり、どこまで行くのか見たいのに、それを見るのが怖くもあるのである。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。