2008/01/28

セカンド?


前回…

 前回、榎本俊二の『ムーたち』で描かれる“セカンド自分”について書いているうちに、どんどん長くなったので削除した部分があり、そこのところをあらためて書いてみたい。
 まず、あのときはこう書いた。

“セカンド自分”の絵を目にして、この人なら、と私は思ったのである。この人なら、私が子供の頃からときおり感じていた、「学校の教室とか飲み会だとかといった、まわりがみんな自分の知っている人間であるなかで、たまたま自分がひとことも喋らないまましばらく時間がすぎたときとつぜん発生する、自分の意識だけがその場から浮き上がっているような、あの感じ」を、絵にしてくれるんじゃないだろうか。そう思って興奮した。

 ここから補足。というのは、おぼえている限り、この感じについて、これまで人と話したことがないので、説明が通じているか不安なのだった。
 この感じは、「自分はまわりのみんなを知っているつもりでいたけど、ほんとは誰の何をどれだけ知っているというのだろう、と思い到って愕然とする」――などというのとは、そもそものレベルというか、質のちがった違和感で、意識の発する場所が普段とは別のところに移る、みたいな状態になっている。
 おそらくそのときの私は、目の前の状況を、自分の目を通して「内側から」見ているのはもちろん、それと同時に、ガラスケースの中をのぞくように「外側から」見ている。そう感じているせいで、まわりの声の聞こえ方もちょっと遠くなる。その状態のときも身動きはできる(が、じっとしている方がこの感じは長持ちする)。直接私に向かって話しかけられたり、自分から声を出すと、意識は元に戻る。
「外側から見ている」といっても、目は自分の外にはないから、「外側から見ている」というのは「外側から見ているように感じている」のに決まっている。それは「意識が外側に出ていると感じている」のとたぶん同じだろう。

 こう書いてきたことを自分で読み直してみると、「“セカンド自分”を描きえた榎本俊二ならこの状態も絵にしてくれるかもしれない」、というよりも、「この状態こそが“セカンド自分”だ」、ということになりそうである。でも、一部は重なっているにしても、完全に同じものではないと思う。というのは、私にとって、『ムーたち』で描かれる“セカンド自分”に相当する感覚と、上の感覚は、別だからだ。“セカンド自分”は“セカンド自分”で、ほかにいる(なにより、状態の発生するきっかけがちがう。こっちの感覚は、自分ひとりでいるときには絶対起こらない)。

 私の感じでは、という話しかしていない。
 通じているだろうか。

 もっとも、私だけの感覚、などというものはあるはずがないので、この「自分が外にいる感じ」も、そんなに特別なものではないと思う。誰にでも、ではないかもしれないが、多くの人におぼえのあるものだとは思う。これには何か「○○感」のような名前があるのかどうか。いまそれが知りたい。

 そしてもうひとつ知りたいこととして、ここからを本題にしたいのだけど、
この感覚を描いているフィクションはどれくらいあるんだろうか。
 ささやかながら(なにしろ自分の中で完結している)、しかし相当に不思議な感覚なので(なにしろ自分の根っこがズレる)、それを描いている作品がないはずはないと思うのである。
(自分の根っこがズレるというより、自分の表層だけがズレる、という感じである気もする。うまく言葉にできない。だからこそ、それを他人がどんなふうに表現しているのかを見てみたい)

 この感覚や“セカンド自分”をひっくるめて、「意識の錯覚」ネタ、あるいは、「いつもとはちがった意識のあらわれ」ネタ、とまとめてみれば、思いつくものはいくつかある。川上未映子のほかにも、カラスヤサトシが、似たような感じを描いていた。『カラスヤサトシ』第2巻の114ページ。セリフだけ書き写す。
  知人は27歳の今でも
  親の顔をじっとながめて
  (……あれっ……
   この人なんで……
   私のお母さんなんだろう……)
  と思うことができるそうで……
  そういや 子供のころ
  そんな感覚あったなあと
  (その間 音はまったく
   聞えへんねん)
  (わかる わかる!) (後略)

「子供のころ」というのが引っかかるが、この知人の感じ方も、私はわかる気がする。そして「わかる わかる!」なんだから、もっとネタになっているんじゃないかと思う。

 (1) あまりにありふれているのでネタにならない
 (2) けっこう共有される感覚なのでネタになっている(が、私が知らない)
 (3) 感覚としてはけっこう共有されるが、ネタにする人はあまりいない
    (だからそれを扱ったフィクションは少ない)

 わざわざ書いてきた手前、これが(1)だったらちょっと残念であるのと同時に安心もするのだが(←小市民)、(2)か(3)であるなら、私は猛烈に読んでみたい。読みたい本はいろいろあるが、この「自分が外にいる感じ」を扱っている作品以上に読みたいものは、ない。これを扱っているかいないか、というもの以上に大きい二分法は、ちょっと思いつかない。

 おぼえているなかで、この感じを小説で表現してくれているように思えた筆頭は、保坂和志だ。『世界を肯定する哲学』や、ほかのエッセイふうの本でも、意識と記憶をめぐるもっと大きな問題へつなげていく過程で、これに近い感覚のことを扱っているように読める部分がいくつもある(たしかこれを称して、世界と自分は別々にあるという予感、みたいな言い方をしていたはず)。とくに長篇『カンバセイション・ピース』では、小説をしめくくる大仕掛けとして、まさにあの感じが使われているんじゃないかと思うんだけど、そこのところを説明するのはおそろしく手に余るので今日は省略。
 そして無茶な方向に飛ぶと、佐藤亜紀の『天使』がある。「自分が外にいる感じ」を、この小説は、実際に外界へ影響を及ぼす超能力に重ねて描いているんだ(!)、と興奮しながら読んだおぼえがあるのだが、いま、私はひどく電波なことを書いているのだろうか。もうなんだかわからない。

「お前の言いたいことはわからなくもない。そしてこんな本がある」という方がいらしたら、ご教示いただきたいと思うのだった。小説でも漫画でも、あるいはどちらでもなくても、きっと読みます。
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2008/01/23

榎本俊二『ムーたち』(2006‐7)

ムーたち 1 (1) (モーニングKC) ムーたち 2 (2) (モーニングKC)
講談社


 小学生の虚山ムー夫と、その父親が中心になって、脳の裏側が痒くなるような言動を繰り広げるこの漫画、「擬音がかわいい」「絵がかわいい」(不気味な父の姿も、不気味なものとしてかわいい)のは間違いないが、どこがどう面白いのかを書こうとすると、なぜか難しげになってしまう。とてももどかしい。
 というのは、面白さの元はたぶんすごく単純なことのはずだという確信だけはあるからで、いったいどうまとめればいいのか、きのうから考えている。
 思考実験の漫画化、と書いてもハズレではないと思う。しかしもっとまとめて言えば、これはなんでも絵にしてしまう漫画だ、ということになる。

 まとめすぎた。とりあえずふたつに分けてみる。

■ まず、名前や生年月日の順列組み合わせや、「しりとり」の反対のゲーム「しりとらず」(第1巻9話)のような、ルールを漫画にする、という系統の話がある。これらの場合、ルールそのものが無茶なので、まずそこに気を取られてしまうのだが、無茶なものでも普通のものでも、ルールじたいは目に見えないものだから、それだけを提示することはできない。ルールに従って動く登場人物を描くのが、「ルールを絵にする」作業だと思う。
 それって、ルールという透明なものに絵という不純なものをまとわせるわけだから、ぜったい不完全な出来になるはずなのに、読んでいると、絵にしたことで、かえってルールがむきだしになっているという感じを受ける。陰も日向もない、ルールだけが残る。やはりルールは絵を必要としなかった。絵にされたことでそれがわかる。
 でも、ここの順序は逆かもしれない。実際に行なわれているのは、(1)ルールの一部分一部分を絵にして、(2)その過程でもってルールの全体を明らかにしていく、という順番であるはずだ。であれば、絵で描かれる前にルールはなかったことになる。そうなるとルールは絵と不可分である。絵にされたことでそれがわかる。
 逆にしてみても、出てくる感想は同じだった。いずれにせよ、実体がなくてルールだけがある状況さえ漫画にできる(してみた)、というのが、第1巻の18話「オンリーロンリーナンバー1」と、続く19話「競技名未詳」だと思う。そこでは、何の役にも立たず何の内容もなく何の意味もなく、ただルールだけは厳密に定められた運動が、虚山親子によって演じられる。いわば純・ルールの実践である。
(どこかで飛躍している気がする。いまの私はこの2話があんまり好きすぎて、このページにくると思考停止してしまう。で、読んでいるあいだは気付かなかったのに、いま書いていて思いついた。これをそのまま文字にしたようなものが、『パンタグリュエル物語』のこの競技である! ただしこちらの場合、戦っている2人に理解されているぶんだけ「内容」も「意味」もあることになるから、ルールの純度は落ちる)

 このようにあたらしいルールを発明していく虚山親子の対極に、“規理野くん”というキャラがいる。彼は、実際に発生した物事のさまざまなデータを集めて数値化することによって、世界のルールを発見しようとする。両者のアプローチは真逆になっていて、自前のルールで遊んでしまえばいい虚山親子に対し、データの収集は永遠に終わらないから、規理野くんはつねにぜったい、分が悪い。それでもこの漫画は、規理野くんを否定しない。方向が正反対なだけで、両者は同じことをしているからである。
(と書いておきながら、これも飛躍している気がする。虚山(父)が規理野くんにかける言葉が好きすぎて、ここでも私は思考停止する。自分の部屋の間取り図に記した汚い箇所と、都内の地図に記したゴミ屋敷の分布が似ていると主張する規理野くんに対し、虚山(父)の返答は「似ているといえば 似ているし 似ていないといえば 似てないね」。この態度は最後まで変わらない。虚山(父):ムー夫はもちろんのこと、虚山(父):規理野のあいだにも親子の関係が見えてくる)

 もっと正直に付け加えれば、あらゆるデータを集め尽くすことで世界が手に入れられるという、規理野くんの体現する発想は、ものすごく懐かしいのである。誰でも通る道だから、と言い切れるのかどうかは自信がない。もう信じていない、と言い切れるかどうかにも自信がない。

■ 次に、意識の拡張、みたいな系統の話がある。出せる力の「限界点」を「ニュートラル」に設定することでさらに力を出す、とか、痛みの発生する場所を意識のなかでずらしてゆき、ついには体の外に出す、とか、理詰めで暴走するのだが、こちらの場合でも、ページの上で行なわれているのは、かたちのない意識を、このうえなく明快に「絵にしてしまう」ことである。

 忘れ物を思い出そうとして自分の行動を巻き戻して考える、というのは誰にでも馴染みのある作業だろうけれども、あたまのなかのその回想が、第1巻5話では、現時点のムー夫のうしろに過去のムー夫が連なっていく図として絵にされている。それは、簡単すぎてどこか危険を覚えるくらいに簡単な絵である。
 人の意識を容赦なく絵にする。そう考えたとき、もっともすごいのは、やはり誰にでも感じた経験があるだろう「何かに意識を集中している自分のことを外側から見ている、もう一人の自分」を、“セカンド自分”として絵に描いた、というところに尽きる(第1巻33話~)。私がいまこの文章を書いているのは、一にも二にも、ムー夫のあたまの上にもうひとつあたまが浮かんでいる、身も蓋もない“セカンド自分”の表現があまりにすごい、と言いたかったからである。
 しかも“セカンド自分”はとっかかりで、この漫画はそれをさまざまに活用し、しまいには、ひとりの意識の量と濃度をめぐってさえ展開する。「それを絵にしようと思うのか」という驚きは、毎回4ページのなかで「それがこんな絵になるのか」という感心に変わり、「たしかにそれはこういう絵だ」という納得を連れてくる。もったいぶった深みが一切ない。そこがときどきおそろしい。

 こちらにも正直に付け加えると、“セカンド自分”の絵を目にして、この人なら、と私は思ったのである。この人なら、私が子供の頃からときおり感じていた、「学校の教室とか飲み会だとかといった、まわりがみんな自分の知っている人間であるなかで、たまたま自分がひとことも喋らないまましばらく時間がすぎたときとつぜん発生する、自分の意識だけがその場から浮き上がっているような、あの感じ」を、絵にしてくれるんじゃないだろうか。そう思って興奮した。

 以上、『ムーたち』のすごく単純な面白さは、言葉遊びも禅問答もナンセンスも、なんでもかんでも絵にしてしまう、それも極めてやさしい絵にしてしまい、あとには神秘も謎も一片たりとも残さない、というラディカルさのことだと思うのだが、そのような、漫画であるからには当然すぎる前提について言うためにこうもくどくど書いてくる必要が果たしてあったのかどうか。
 ともあれ、第2巻の巻末についた「解説」で、最終話、それまでの集大成のように、データを駆使する規理野くんと、いくつもの自分をぶん回す虚山親子が収められた一コマを讃える斎藤環に、私は100%同意する。おわり。

2008/01/21

ゴッド・ブレス・ユー。

 川上未映子に最初に小説を書かせたのは早稲田文学編集部だと思うので、この機に乗じて押せるとこまで川上未映子で押していってほしい。なりふり構わず復刊していただきたい。
(文芸誌「早稲田文学」は数年前から休刊中。去年“復刊準備0号”が出て、復刊1号は今春にお目見えするというが、春って長いからなあ)

 しかし私がどうこう言うまでもなく、フリーペーパー「WB」は、とっくにその姿勢だったので頼もしい。
 こないだもらってきたvol.11には、連載「川上未映子の対談だぜ!!」第2回が掲載されている。タイトルまんまの対談企画で、相手は榎本俊二だった。ちなみに第1回は若島正。
川上 […]『ムーたち』完結、おめでとうございます(笑)。一巻が出たとき、放送作家の友達が「絶対未映子好きやわあ」ってくれたの。ちょうど『わたくし率イン歯ー、または世界』の一校が終わったときだったんですが、ぱっとひらいたら第一話の題が「私率」で、「わあ!」って。
榎本 「おんなじ言葉使ってるじゃん」って?》

 この符合、去年の夏から何度も何度も『ムーたち』を読んでいながら、私はぜんぜん気付かなかった。もう一箇所だけ引用。
川上 […]子どものころにロボコンの中にいちど入ってまた出たときに発見があったんですよ。入っているうちは、外にいる母親の目にはロボコンしか映ってないでしょう? でも中にはわたしが入っているのに。それで焦って出たら、「ロボコンからは出られたけど、わたしはここから出られへん」って、体があることに気がついて、発狂しそうになったの。「出れない出れない出れない、脱ぐとこがもうない!」って。
榎本 いくつのときですか?
川上 八歳、小二のころです。[…]》

 難儀すぎる。思えば「感じる専門家」も「わたくし率」も、あれだけ「私」について語りながら、微塵も自分語りにならない、なる気配すらない、というところにいちばんの爽快さがあったのだった。ほんとの難儀は自分語りと無縁、って、書いてみたら当り前だった。「乳と卵」は本になったら読む。

 で、今日は『ムーたち』のことを書こうと思ったんだけど、まとまらないのでまた今度。「WB」の入手場所はこちら。

wb_vol011
2008/01/17

内田百閒『贋作吾輩は猫である』(1950)

贋作吾輩は猫である―内田百けん集成〈8〉   ちくま文庫

ちくま文庫(『内田百閒集成8』)、2003

 漱石『猫』の面白さはひたすらに文章の面白さであって、ページをめくっている自分とは明らかに次元の違うあたまの使い方で圧縮された日本語が、それでも日本語だからこちらにもちゃんと読み取れるし笑える、というところにほとんど感動さえする。
 なにしろ、話じたいはほんとにどうでもいいものなのである。語学教師と、その家に出入りする変人の言動を猫が観察する、という設定がすでに純金のどうでもよさを誇っているし、一冊の大半を占める苦沙弥先生と暇人たちのやりとりは、文章で会話を描く場合に可能なギャグの、およそ考えつく限りの技を端から実践しているように見えてくる。やはり感動する。終わり近くに現われる名高いエピソード、「寒月のヴァイオリン」など素晴らしすぎて涙が出そうだった。

 漱石に私淑する内田百閒の『贋作』が本家から借用したのは、猫が人間を観察するという設定だけで、百閒の文章が漱石の文章と別である以上、中身はぜんぜん別である。借りてきた猫がおとなしいのは当然だが、そればかりか、途中でほとんどいなくなる。で、別物ではあっても、百閒は百閒の間合いで会話を描出し、それがやっぱり面白い。漱石の即効性はなくても、じわじわくる。
《「推古天皇の御代の話なら、年代は知りませんけれどね、本多善光[よしみつ]が大阪へ来ましてね、阿弥陀池の傍を通ると」
「大阪だって」
「難波の堀江です。すると池の中に蓮が生えていて、蓮の葉に露がたまって、きらきら光っている」
「お天気がよかったんだね」
「どうだか知りませんが、池の傍を通り過ぎようとすると、よしみつ、よしみつ」
どうして、そんな妙な声をするのだ
「名前を呼ばれて、振り返って見れば、蓮の葉の露だと思ったのは、阿弥陀如来の小さなお姿です。蓮の葉に乗って、金色の光りを放たせ給う」
今の変な声は阿弥陀仏の声色なのか
「善光がその小さな阿弥陀如来を背中に背負って行って、信濃の国に安置しました。それが善光寺の始りですよ、先生」
 五沙弥が箸の先でお皿の縁を叩き出した。
「身はここに、
 心は信濃の善光寺、
 みちびき給え弥陀の浄土へなんまみだぶ、
 なんまみだぶ、なんまみだぶ」》pp186-7

 記号 「」 で示した突っ込みのテンポ、そのスルーされっぷり(突っ込んでる方が目上の人物である)が、この引用部分だけで十全に伝わるとは思えないけれども、もう書いてしまった。
 とはいえ、はじめて読む内田百閒としては、これよりも普通に『冥途』なんかがいいんじゃないかと、たいして詳しくないけど私は思う。


冥途―内田百けん集成〈3〉   ちくま文庫冥途―内田百閒集成〈3〉 ちくま文庫
(2002/12)
内田 百閒

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2008/01/15

1月のもろもろ


 年末のでたらめな生活のせいで狂ったリズムがまだ戻らず、部屋に帰ると寝てばかりいる。たぶん1週間、毎日こたつで朝を迎え続けた。

 漱石の『猫』を再読したいきおいで、内田百閒の『贋作吾輩は猫である』、奥泉光の『「吾輩は猫である」殺人事件』と続けて読む。それぞれに面白い。これも含め、買って読んで面白く、感想を書こうと決めたまま机の横に積んである本が何冊もあり、掃除するたびに虚しい気持になっていた。いいかげん、引用だけでもしておこうと思うものの、どれもこれも読んだのは数ヶ月前、という程度ならまだましで、ひどいのになると1年前だったり2年前だったりするのでもうめげそう。めげ続けて2年経過、ということでもある。なんとかする。

 その他メモ。

■ 私は水木しげるのヌルいファン(つまりファン)であるので、先週はじまった「墓場鬼太郎」アニメ版は録画して見た。話はともかく、どうなってるのかわからない不思議な絵だった。今週も見ると思う(木曜24:45~、フジ)。
 あ。こんなのもやっていたのか。


■ 1/11(金)放送の「タモリ倶楽部」は、進行に乾貴美子、ゲストにみうらじゅん&安齋肇を迎えた、勝手に観光協会特集。ふたりの作ったご当地ソングの生演奏に、乾貴美子が眉根に皺を寄せたままリズムをとったり、そのうち飽きて体育座りになってしまうのがよかった。


■ 川上未映子&穂村弘トークショー

 →川上ブログの記事
 この組み合わせであるのに行きそびれる。イベントじたいを知らなかった。
 ああ。


■ ドストエフスキー『作家の日記』が復刊されるとか

 全集の端本で、あるいはちくま学芸文庫の6冊本で、ことごとく買い逃してきた『作家の日記』。昨今の謎のブームに乗って復刊されるのは、岩波文庫の米川正夫訳、全6冊。2月後半。
 →復刊ドットコムのページ


■ ミルハウザーの新刊

 たぶん『マーティン・ドレスラーの夢』以降、あたらしい単行本は出ていなかったミルハウザー。さっき本屋で『ナイフ投げ師』を発見(柴田元幸訳、白水社)。

ナイフ投げ師ナイフ投げ師
(2008/01)
スティーヴン・ミルハウザー

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 この短篇集、ずいぶん前にいちおう無理して原書で読んだのだった。でも憶えているのは本と関係ないことばかり。
 あちこち持ち歩いてページをめくってたんだが、季節は夏で、通ってた学校の門から続くスロープを上った先にある、四方を校舎に囲まれた中庭のベンチに座って読んでいると、もう夏休みになっていたからそこらを歩く人もほとんどいなかったのに、本から顔をあげた瞬間、少し民族衣装っぽい、ゆるいワンピースを来たものすごい美人が目の前をゆっくり通りすぎていった、とか、当時は田無に住んでいたので、西武新宿線に乗って帰る途中に読んでいたら眠ってしまい、目が覚めたら夕方、電車は聞いたこともない駅のホームに止まっていて、慌てて上り列車に乗り換えようとして案内板の示すままに降りていった地下通路は見たこともない黄色い光の蛍光灯で照らされており、そこを歩くサラリーマンや高校生の足音も聞いたことのない反響をなしてこちらを包み、咄嗟に「もう帰れない」と観念した、とか、もちろんそんなはずはなく、無事に乗り換えて帰ったのに、次の日になったらあの駅がどこだったのかぜんぜん思い出せなかった、とか、そんなことばかりが記憶に残る。

『ナイフ投げ師』に入っている作品では、「夜の姉妹団」(超傑作)がアンソロジー『夜の姉妹団』に入っており(ややこしいが、こっちはほかの作家含めた短篇集のタイトルになっているということ)、あと「空飛ぶ絨毯」が、やはりアンソロジー『紙の空から』に入っていたはず。
 ペーパーバックは何種類かあるみたいで、しかし私の読んだこれがいちばんいい表紙だと思う。

The Knife ThrowerThe Knife Thrower
(1999/12/02)
Steven Millhauser

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 ともあれ、この更新が済んだら『ナイフ投げ師』を読みはじめるのであって、本読む楽しみは、読みはじめる前からはじまっていると思うことしきり。
2008/01/03

2008

《「何おめでてえ? 正月でおめでたけりゃ、御めえなんざあ年が年中おめでてえ方だろう。気をつけろい、この吹い子の向う面め」吹い子の向うづらという句は罵詈の言語であるようだが、吾輩には了解が出来なかった。「ちょっと伺がうが吹い子の向うづらと云うのはどう云う意味かね」「へん、手めえが悪体をつかれている癖に、その訳を聞きゃ世話あねえ、だから正月野郎だって事よ」正月野郎は詩的であるが、その意味に至ると吹い子の何とかよりも一層不明瞭な文句である。》p50

 あけました。
 元旦の読売新聞で川上弘美の文章を読み、雑煮食べながら泣きそうに。

『ラブレー第二之書 パンタグリュエル物語』を読み終えたあと、『第三之書』を読み始めるまでは更新しないと固く心に誓ったわけではぜんぜんないのに、12月は結果的にそうなっていた。
「結果的にそうなっていた」というフレーズの放つ濃厚で甘美な香りはともかく、実家に帰ったりしてました。大晦日から正月2日までかけて、夏目漱石『吾輩は猫である』をまた読んだ。読むたびに短くなる。最初の引用はそこから。上の正月シーンには、《主人は正月早々弔詞を述べている。》という奇妙に味わい深い一節もあった。
 弔詞といえば2007年にはヴォネガットも死んでしまったが、数ある作品のなかで最もなりふりかまわぬ(かまっていられない)ところまで行った『チャンピオンたちの朝食』を含む、絶版だった文庫がいろいろ復刊されたらしい。紀伊國屋書店のこのようなはたらきかけの一環だそうで、とりあえずレムは買おうと思った。

 あと何だろう。そうだ、帰省したとき眼鏡を替えた。
 実家の姉が眼鏡&コンタクト屋で働いていて、家族の分も社員割引が使えるからこの年末にぜひ眼鏡を買い替えろ、いっそお金はあたしが出す、と執拗な催促。私は高校のころから銀縁の丸い眼鏡をかけ続けてきたのだが、行ってみたお店には丸いフレームなんか1本もなかった。なので不本意ながら、2008年は丸くない眼鏡をかけて始まった。かけてる当人にとってフレームの形など何の関係もないし、加えてレンズの度も上げたので、快適で仕方がない。それと同時に一抹のうしろめたさを感じる。何かはわからないが、何ものかに向かって謝りたい。まず姉か。
 今日、帰京する電車に乗る前に本屋へ寄ったら、「本が小さい」ので驚いた。こういうことかと思われる。本の表紙に書いてある文字を読むために、これまでほど目を近づけなくてもよくなった→本のサイズがまだ小さく見えている距離で本を本として認識→「本が小さい」。

 世界は発見に満ちている。本年もよろしくお願いします。
《「しかし死なない以上は保険に這入る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「叔父さんが?」
「ええ、すると会社の人が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心しているって、まあ無法な事を云うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ」》p432


夏目漱石全集〈1〉 (ちくま文庫)夏目漱石全集〈1〉 (ちくま文庫)
(1987/09)
夏目 漱石

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