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「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その81

[前回…]

 やっぱり、『第二之書』についてもう1回。

 私が読んでる岩波文庫の『第二之書 パンタグリュエル物語』には、訳者・渡辺一夫の「後書」が四つ付いている。あとがきを「後書」と漢字で書くことからして今や珍しい、などと思っていると、次第に不意を打たれることになる。「次第に不意を打たれる」って変な言い方だけれども、そうとしか言いようがない。今日はこの後書の話。
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その80

[前回…]

『第二之書 パンタグリュエル物語』は、第34章で幕となる。
《残りの物語は、近々開かれるフランクフルトの市でお求めあるがよい。そうすれば、諸君には次の顚末がお判りになるであろう。パニュルジュがお嫁をもらい、結婚した最初の月から狐窮[コキュ]になったこと。また、パンタグリュエルが仙丹を発見したこと、ならびにこれの発見方法と使用法。またパンタグリュエルがカスピウス連峰を越えたこと。大西洋に乗り出して、人食人種を退治し、ペラルス諸島を征服したこと。[プレートル・ジャンと名乗る]インド王の娘でプレスタンなる姫を妃としたこと。悪魔と合戦して、地獄の部屋を五つも炎上せしめ、大暗闇部屋を荒らし、プロセルピナを火中に投じ、堕天使リュシフェールの歯を四枚と尻の角を一本へし折ったこと。月の世界を訪れて、ほんとうはお月様はまん丸ではなく、その盈虚[みちかけ]する上弦の月下弦の月及び半月は、御婦人方の頭のなかにはいっているのではあるまいかということを知ろうとしたこと。その他すべて嘘佯りのない楽しく面白い物語。なかなかの掘り出し物である。》pp240-1

 盛りだくさんだ。語り手「私」がこうやって述べる話のうち、どれくらいが実際に『第三之書』、『第四之書』、そして『第五之書』で物語られるのかは謎である。私としては「大暗闇部屋」が気になるが、読んでみないことにはわからない。
 これでこの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる日記も、ようやく2冊めが終わるわけだが、読みはじめたのが8月の頭その49だったから、4ヶ月以上かかったことになる。遅い。あのころはあんなに暑かったのが、いまはこんなに寒い。いちおう区切りなので、いろいろ考えてしまう。
 ここまでにかかった回数じたいは、ちゃんと毎日更新していれば1ヶ月程度で終わる程度だったのに、「ツイン・ピークス」見たり「ドラクエI・II」で遊んだり、それはどちらも夏のうちだったが、それ以降もずっと、進みは遅かった。というか、だんだん遅さを増した。そして、あらすじをまとめるのに汲々としていた気がする。
 あらすじ! 私は古臭く頑迷な保守の人なので、常日頃、『あらすじで読む日本の名作』の類は一冊残らず自然発火して燃えてしまえばいいと思っているわけである。どんなに有名な作品であっても、あらすじを知って実物を読んだ気になっている人の方が、その作者も話もぜんぜん知らない人よりずっと度しがたく、あらすじだけで“読んだ”気になるくらいなら、実物をめくって2ページで挫折するほうがどれほど意味があることか、と思っているわけである。そんな私が、読書日記を書く段になって、あらすじをまとめている自分を発見する。これは気が滅入る。自然発火してしまいたい気持にもなろうというものだ。
 私がこのブログをやっているのは、「できるだけたくさん、引用したい」という動機のためだった。それだったら引用と、それについての感想だけを野放図に書き連ねていればいいはずである。しかしそれには、私のなかの小市民が邪魔をする。「やはりあらすじはまとめておいたほうが……」という、ささやき。小市民がつねに勝つ。読んでいるのは巨人の話なのに。結果、進度もペースも落ちていくのだった。あらすじを書かなくていい読書日記の書き方が真剣にわからない。
(なぜそんなにあらすじが嫌いかというと、あらすじをまとめていると、自分がどれほど実物を端折っているかよくわかるから、だと思う。あらすじばっかり書くことで、私は前よりあらすじが嫌いになった気さえする。それにだいだい、私のあらすじは下手だ。その逆恨みも多分にある。あと、あらすじ本も、ここまでいけば立派だと思う→ここ。燃えにくそうだし)

 そんなわけで、この「読んでみる日記」の書き方・進め方はどうしたものか迷い中なのだが、「自分にできることしか、自分にはできない」という事実が厳然としてある以上、今後も同じになる気がする。正直、続きさえすればそれでいいかと思わなくもない。「だらだらやる」と、それだけは方針としてある。おそらくそれがいけないのだが。『第二之書』最後の言葉はこうだった。
《万有第五元素抽出者故アルコフリバス師の作にかかり
 その本来の面目に還された乾喉国王パンタグリュエルの年代記
 ならびに驚倒すべきその言行武勲禄はここに畢[おわ]る。》p243

『第三之書』は、年が明けてから読みます。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その79

[前回…]

 語り手の「私」こと、アルコフリバスがパンタグリュエルの口のなかから出てきたあとでは、残された物語は多くない。

 法外に大きな巨人の口のなかを描き、それによってその世界をさらに大きくしていくうちに、ラブレー自身が未練を感じたのか、第33章は再びパンタグリュエルの体内に戻っていく。
《それからほどなくして、パンタグリュエルは病の床に臥す身となったが、胃の腑の工合が非常に悪くなり、飲むことも食うこともできなくなったが、災厄はたった一つだけやってくるものでは決してないために、痳疾にも罹ってしまい、諸君の想像以上に苦しんだ。》p236

《諸君の想像以上に苦しんだ。》には一瞬「やる気あるのか」と思ったが、そのあと、侍医の飲ませた利尿剤の効果でパンタグリュエルは灼熱の尿を排出、それが各地に流れていって「温泉」というものになった、と書いてあるのでOKである。私は熱尿[ショード・ピス]なる語をはじめて見た。

 医師たちは巨人の胃を掃除しなければならないと考え、そのために、大きな真鍮の球を17個作らせた。球の内部は空洞で、ばね仕掛けの扉がついている。パンタグリュエルはこれを丸薬のように飲み込むのだが、そのなかには堤燈・松明を持った家来が何人も入っており、主君の病んだ胃まで到着すると扉を開けて外へ出た。
《そして、一同は半里以上も[腐敗した体液がどこにあるかと探しまわった。]恐ろしい奈落へ下って行ったが、臭気濛々として瘴癘[しょうれい]の気が立ちこめている有様は、メフィティス女神にもカマリナ沼にも、またストラボンの記述したソルボンヌ沼にもいやまさる物凄さ、一同が心臓や胃の腑や酒壺(頭のことをこうも呼ぶが)に十分に毒消しを施していなかったら、この呪うべき濛気に当てられて、息は詰まり悶絶してしまったことだろう。おお何たる臭気! 何たる蒸気! 若い伊達女どもなどの口蔽いに塗りたくってやるにはもってこいだった!》p239

 たとえがよくわからないものの、語り手が興奮しているのはよくわかる。興奮するあまり、最後の一文には場違いな恨みまでこもっているように見える。ラブレー、「若い伊達女」が嫌いか。現代に生きていたら「スイーツ(笑)」とか面白がっていたんだろうか。
《それから手探りをしたり鼻をくんくん言わせたりして、糞便や腐敗した体液に近づいていったが、とうとう汚物のすばらしい山を発見した。そこで、人足どもは鶴嘴[つるはし]を振るってそれを掘り起し、他の連中は円匙[ショベル]を振るって籠を充たした。そして、すべて十分に清掃してしまうと、皆はまたもとの球のなかへ戻った。そうすると、パンタグリュエルは懸命になってげろを吐き、わけなく一同を外界へ出した[…]》pp239-40

 なぜ胃のなかに糞便の山があるのか、と目をむいてしまったが、落ち着いて読み返してみるに、これはおそらく、胃の活動を妨げている障壁を取り除くため家来たちは腸まで下りていってまた帰ってきた、ということだと考え直した。マクロの決死圏である。ともあれ、これによってパンタグリュエルは全快し、療養に入った。

 そしてこれが、『第二之書』におけるパンタグリュエル最後の姿なのだった。
 続く第34章は、語り手「私」から読者への、お別れの挨拶である。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その78

[前回…]

 おととい、わりと興奮したままパンタグリュエルの口のなかについて書いていて、忘れていたのは、『第一之書』にもガルガンチュワの口のなかを描いた場面があったことだった。これ(→その37)。
 読んだ当時はけっこう無茶だと思ったからこそメモしたんだろうが、いまパンタグリュエルの口のなかを引き摺りまわされている目で見ると、あっちはほとんど「おとなしい」と言っていいくらいのものである。「おとなしい」というか、「狭い」。なにしろこちらの口のなかには町があり、黒死病の死骸運搬車まで走っていたのだし。

 で、このパンタグリュエルの口のなかは、私ひとりを興奮させるだけのものではむろんなく、たとえば、エーリッヒ・アウエルバッハの『ミメーシス』という本をのぞいてみると、ラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を、まさに『第二之書』のこの部分から論じていく章がある。
 私は通読していないんだけど、『ミメーシス』(1946)は、ヨーロッパ文学における“描写”の歴史を具体的な作品の文体分析で追いかけた大著ということになっており、どこが大著かといえば、ちくま学芸文庫版で上下巻のうち、第1章がホメロス『オデュッセイア』からはじまるために、16世紀中頃のラブレーは比較的あたらしいほうだから俎上にのぼるのは下巻になってから、というところにまず果てしない気持になる(全20章中の11章め。ラブレーのあとにシェイクスピアやセルバンテス。最終章でヴァージニア・ウルフに行きつく)。

「パンタグリュエルの口中の世界」と題されたその章で、アウエルバッハは、それこそパンタグリュエルの口中の世界を、(1)グロテスクな冗談、(2)ルネンサンス期の「発見」のテーマ、(3)口のなかの世界が「すべてわが国のごとし」、という3つのモチーフのからまり合う巨大なるつぼとして読んでいくのだが、たしかに様ざまな知見を開陳してこと細かく読み解いていくのに、論の運びそのものがこちらに与えるいちばんの印象は、“衒学的”というのでも“精緻”というのでもない。それよりは、何だろう、山のように教養のあるおっさんがものすごい勢いで喋っているというか、あるいは、恰幅のいい赤ら顔の紳士が特上の握り(12人前)を端から平らげていくみたいな感じを受けた。どんなだ。
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その77

[前回…]

 最近は夜な夜なささやかに鍋をしているのだが、スーパーでは春菊の値段が毎日ちがう。ラジカルな春菊。大人になってよかったと思うことのひとつが「春菊がおいしくなった」なので、落ち着いて食べたい。

 パンタグリュエルは、無可有郷[ユトピー]国の軍団を引き連れて乾喉[ディプソード]国へ入っていく。無可有郷国にも不破見[アモロート]人などいろんな民族がいたように、乾喉国にもさまざまな民族がいるらしい。そのほとんどは進んで市門の鍵を開け、この巨人王を歓迎した。ただひとつ、塩漬[アルミロード]人だけは抗戦の意を示すので、ここにまた戦いがはじまる――

 といったところで、大雨が降ってきた。普通サイズの人間である家来たちがびしょ濡れで震えているので、巨人・パンタグリュエルはべろりと舌を出し、その陰にみんなを雨宿りさせてやる。「都合のいいときだけ巨人になる」という、この物語のルーズな魅力の発現である(参考:→その20
 とはいえ『第二之書』のパンタグリュエルは、『第一之書』のガルガンチュワとちがってだいたいつねに巨人として描かれていたわけだが、それにしたってここでは「サイズ、でかすぎ」とは言えるだろう。しかしパンタグリュエルの大きさは、まだまだこんなものではなかった。
 語り手である「私」もこの庇の下に入ろうとしたところ、すでに人で一杯で、立錐の余地もない。
《そこで私は、苦心したあげく、パンタグリュエル王の舌の上へ登り、それからたっぷり二里ほど歩いて行ったところが、とうとうその口のなかへ入ってしまったのである。》第32章 p231

 これで終りではない。馬鹿話はここから始まるのである。
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その76

[前回…]

 前回の分を書いてから、こんなものがあることを知った。「文語訳」もないものかな。

 聖書全文検索(日本聖書協会)
 http://www.bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi


 パンタグリュエルは乾喉国人をみんな殺した、と書いてきたのだけれども、ひとり例外がいた。王様の混乱麿[アナルク]である。この人だけは、パンタグリュエルが人狼+その他の巨人兵と戦っているあいだも、パンタグリュエルの家来たちと一緒に酒を飲んでいたのだった。それで生き残った。この戦犯の取り扱いはパニュルジュに任される。ほんとパンタグリュエルはパニュルジュを信頼している。
《[…]アルバニヤ人の筒型頭巾のように襞飾りのついた、小じんまりした麻織の可愛い胴衣と水夫型の綺麗な洋袴とを、例の王様に着せてやった。靴は履かせなかった。その理由は、(とパニュルジュが言った、)靴など履くと眼が悪くなるからだった。その上に、閹鶏[きんぬきどり]の大羽根が一本附いた可愛い青い大黒帽子を被らせた。――いや、これは私の考え違いで、確か羽根飾りは二本附いていた筈だったと思う。――それから青と緑との二色の見事な革帯を締めさせた[…]》第31章 p227

 詳細なわりに、これほどイメージを結ばない描写も珍しい気がする。けっこう派手なんじゃないかと思うのだが、これで百姓の格好らしい。ちょうどエピステモンの地獄話を聞いたあとだったので、「生前えらかった者ほど、死後は卑しい職に就く」ルールに鑑みて、死んでから困らないよう、この王様には今のうちから、緑醤油[ソース・ヴエール]の呼び売り人として仕事を覚えさせておく。これがパニュルジュの計画だった。
《――[…]では、手始めに、こう叫んで見ろ、「緑醤油は、い・か・が・あー」と。
 すると哀れな王様は叫んだ。
 ――低すぎるな。(とパニュルジュは言った。)そして、王様の耳を引っ張ってこう言った。
 ――もっと高く、ほれ、ソ・ソ・レ・ドと。よしその通り、よい喉をしているな。王様でなくなった今の身の上くらい幸福なことは、今まで貴様には金輪際なかったのだぞ。》p228

 ここでも、このあとも、混乱麿王のセリフは書かれない。この物語は、悪役に対して、どうも陰険なのである。陰険ついでにパニュルジュは、この混乱麿王に、娼婦の老婆を嫁として取らせた。披露宴のあと、パンタグリュエルはふたりに店まで与えてやる。新妻から容赦なく鉄拳を受ける混乱麿は、《無可有郷国中で今までかつて見られなかったような実にやさしい緑醤油売りとなった》。
 このような混乱麿王の転落は、『第一之書 ガルガンチュワ物語』に出てきた、隣国レルネの敵王ピクロコルの最後その42と比べれば、ずいぶんましと言える、かどうかはわからない。

 すっかり戦後処理である。『第一之書』だと、戦争が終わって話も終わるのかと思いきや、「テレームの僧院」の構想が始まり、それがひとつの山を成していたその44。あれほどではないものの、『第二之書』でも、最後にもうひとつ別の世界が描かれる。この物語を「人を食った話」とすれば、次の挿話はその際たるもので、何しろ語り手は、これからパンタグリュエルの口の中へ入って行くのである。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その75

[前回…]

 謎はすべて解けた。
 乾喉国の敵兵をすべて追い払った(殺した)ので、パンタグリュエルは不破見の町に入る。住民はみんな大喜びで彼らを迎えた。そこでパンタグリュエルは宣言、《乾喉人王国全土を政略占拠いたしたいと存ずる。》
《[…]この町には住民の数が多すぎて、街で後戻りもできかねるようにも見受けられる。
 従って、一同を乾喉国へ植民として伴い行き、全国土を与える心算だが、諸君のうちの何人かが昔これに赴いて熟知されて居る通り、世界のいずれの国よりも麗しく、健康に適し、地の恵みも豊かで、楽しい国土である。》第31章 p226

 これでもってようやく、私が「その61」「その69」で引っかかっていた、“パンタグリュエルは無可有郷国の王子なのに、題字には「乾喉人国王パンタグリュエル物語」と書いてある”事情がわかったのである。やっぱり占領したのだったね、と書いてみて、「いや、でも、パンタグリュエルの父・ガルガンチュワの活躍を描いた『第一之書』で、すでに祖国の名は乾喉国になっていた気がする」との思いがよぎったのであるが→その28、それは結局、『第一之書』より、この『第二之書』の方が先に書かれた、という事実で飲み込むしかない齟齬なのかもしれない。
《この意志と決定とが町中に伝えられると、その翌日、王宮前の広場には、婦女子及び幼児は除いて、百八十五万六千十一人の数にのぼる人々が集まった。こうして一同は、一路乾喉国へと進撃を開始したが、実に隊伍整然たるものがあり、紅海を渡ろうとしてエジプトを出た折のかのイスラエルの民草にも似ていたしだいである。》p227

 莫大な人数を記すときに《婦女子及び幼児は除いて》と付け足すのは、もうお約束のようなものである(「その16」とか「その23」とか)。今回、ちゃんと註を見たら、これは聖書に元ネタがあるという。それで指示通りに「マタイ伝」の第14章を開いてみた。

 ――イエスが群衆を引き連れて歩いていると、夕暮れになる。晩ごはんの時間だ。弟子が「もう解散させましょう。そうすればみんな自分で食べ物を買いに行くはずです」と言うと、イエス答えていわく、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。「そうおっしゃられても、ここにはパン五つと魚二匹しかありませんが」「それをここに持って来なさい」。
 そしてイエスが天に祈りながら五つのパンと二匹の魚を裂いて群衆に渡していくと、渡しても渡しても食べ物はなかなか減らないのだった。
《すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。》14:20 (新共同訳)

 なるほどここが出典だったか。しかし思ったほどの感慨はなかった。それはもしかすると、これの次の行から始まるエピソードの題が「湖の上を歩く」なのが目に入るからかもしれない。大技が続くのである。
 それよりも私は、この減らないパンの挿話から、叩けば叩くほどビスケットが増える、奇跡のポケットを思い出した。有名な童謡のはずだが、いま書こうとして、自分があの歌のタイトルを憶えていないことに気が付いた。もともと知らなかった気もする。
 それでググってみたら、あれは「ふしぎなポケット」というのだとわかったが、「残ったビスケットの粉を集めると、十二のポケットいっぱいになった」とか考えつつ、ここのリンク先(音が出ます)を見てはじめて、あの能天気そうな曲の後半の歌詞を知り、大変に同情した。というか、同意した。
 せっかくだからもうひとつリンク。これ。夢のない検証に見えて、実際に検証してみるところに夢がある、とかいうのは野暮である。ここで使われている菓子のなかでは、東ハトのハーベストを私は支持する。ここでは「セサミ味」だが、とくに「バタートースト味」がおいしい。東ハトはいつも私を裏切らない。ハバネロはいわば東ハトの放蕩息子だ。いつか改心する。

 で、私はなぜ机の上に聖書を開いてビスケットの話をしているのか。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その74

[前回…]

 敵の人狼をぶち殺し、乾喉国の巨人軍団をひとり残らず殲滅したパンタグリュエル。しかしこちらも無傷ではなかった。忠実な家来だった、エピステモンが戦死していたのである。
《それは、パンタグリュエルが荒砥石で一分の隙もなく武装した腸詰齧[リフランドウイユ]という名の巨人を打ち倒した時のことであり、この荒砥石の破片が、ばっさりとエピステモンの首を切ったからである。》第29章 p212

 エピステモンの死体は、両腕に血塗れの首を抱えた状態で見つかった。
 とばっちり、という感がなきにしもあらずであるにせよ、パンタグリュエルはじめ、みんなで大いに悲嘆にくれていると、ここにまたパニュルジュが口を出す。このお調子者は、「直せる」というのである。
《――もし私に直せませんでしたら、この素首をさしあげますよ。(これは気違いのする誓言でございますがね。)――そんなにお泣きにならずに、手伝いでもしてくれませな。
 それからパニュルジュは、エピステモンの首筋と頭とを上質な白葡萄酒ですっかり洗い浄め、いつも隠[かくし]の一つに入れておく雲呼華粉[デイヤメルデイス]の芥子泥を塗りつけた。それから何か知らぬが脂薬を塗り、血管と血管、筋と筋、椎骨と椎骨とがぴったり合うように、頭と首とを継いだが、エピステモンが殊勝げな小首傾げ野郎になっては困ると思ったからである。(と申すわけは、パニュルジュはそういう連中を死ぬほど嫌いだったからだ。)これがすむと、頭がまた落ちるといけないというので、首のまわりを十五、六針縫って、それから、その上にぐるりと、自ら蘇生薬と呼んでいた脂薬を少々塗りつけた。》第30章 p214

 で、たちまちエピステモンは復活する。人間が生きものの生き死にを自由にするのは、このようにおこがましいのだった。医者は何のためにあるんだ。

 あっさり死んで、あっさり生き返ったエピステモンだったが、じつはこのあとが長い。というのは、ここらから先、彼の臨死体験が縷々述べられるからである。何がそんなに長いのか。まず地獄の一丁目で悪魔から歓待を受けていたエピステモンがふと見ると、地獄に堕ちた有名人の姿がたくさん目に入る。その様子があまりに面白かった――といって、7ページほど、箇条書きに近い人名の羅列が続くのである。
 たとえば、あのアレクサンデル大王は《おんぼろの洋袴の継ぎ接ぎをしながら、それで暮らしを立てている》し、ローマを建国した兄弟の片割れ、ロムルスは食塩売りになっている。キケロは鍛冶屋の火掻き男。そんな具合で、生前に偉人だったり権力の座についていた大人物であればあるほど、死後は地獄でみすぼらしい境遇になっている。そういうルールがあるらしい。そしていま気付いたが、死後の世界=地獄、というのも偏ってはいないのだろうか。
 もっとも、ハンニバルは鶏卵屋、アキレスは麦藁束ね、くらいならともかく、並ぶ名前の大多数は私にわからないものなので、残念ながらほとんどのギャップはギャップとして感知できない。とはいえ、《ネロは琵琶法師となり、》という一行はあまりに暴力的だと思った。あと、なぜか何人かの人物は、前のほうで名前が出ているのにうしろで再び馬鹿にされるなど、細かいギャグなのか無意識の産物なのか、それとも改版のたびにあらたな人名が付け足されていったがゆえの不備なのか、さっぱりわからないのだった。なるほど地獄めぐりは奥が深い。
 そして逆に、現世で一文無しだったり、哲人だった人間は、あの世ではぐっと身分が上がっていた。
《ディオゲネスに会いましたが、猩々緋[しょうじょうひ]の豊かな長衣をまとい、右手には王笏を持ち、威風堂々として歩き回って居りまして、アレクサンデル大王がこの哲人の洋袴の修繕をきちんとしない場合などには、さんざんに毒づいて大王を気違い犬のように逆上させてしまい、代金だと言って棍棒でぽかぽか殴りつけて居りましたよ。》p221

 参考までに、生前の2人(→画像)。

 エピステモンの話はまだまだ続きそうだったが、家来の蘇生を喜ぶパンタグリュエルでさえ「さすがに長い」と思ったか、「また次の機会に」とストップをかけ、そして一同は、もちろん酒宴を開くのだった。

ミランダ・ジュライにぶつかる
yom yom (ヨムヨム) 2007年 12月号 [雑誌]

 新潮社の「yom yom」第5号を買ってきたら、「岸本佐知子のヘンな部屋」という小特集が組まれていた。(1)翻訳、(2)日記エッセイ、(3)豊崎由美によるブックガイド、の3本立て。そこで(1)翻訳として載っていた、ミランダ・ジュライという作家がすごかったのである。
《わたしは自分の知ってる泳法をすべて教えた。バタフライはすごかった、あんなのたぶん誰も見たことがない。》

 今回、岸本佐知子が訳したのは、「水泳チーム」と「その人」の2本。とくに前者にはたまげた。海も湖もプールもない町で、泳ぎ方を教える女の子の話。しかも生徒は80歳を越えた老人。
 ちょっと変わった女の子の一人称、とか説明すると無用な偏見が生まれるかもしれないが、そんなところをかるがると越え、最初の数行でしっかり特異な世界が立ち上がり――、とか書いても何も伝わるまい。「水泳チーム」が7ページ、「その人」が4ページしかないので、もう全文引用したいくらいの気持になった。ヘンで強烈。ヘンに切ない。
 それこそ、これまでに岸本佐知子の訳したリディア・デイヴィス(『ほとんど記憶のない女』)とかジュディ・バドニッツ(『空中スキップ』)、あとほかにケリー・リンクあたりを面白く読んだ人なら一撃で気に入るんじゃないかと思う。そんな作家ひとりも知らないよ、という人は「yom yom」を立ち読みしてみよう(あんなパンダの本、立ち読みできないしレジにも持って行けないよ、という人には、もしかすると向かないかもしれない)。

 ミランダ・ジュライは、まず映像の人として活動しているそうで、「君とボクの虹色の世界」という映画で話題になったらしい。ちょっとググると、「ほぼ日」にインタビューがあった。

 「ミランダ・ジュライのマジカルな瞬間」
 (「ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。」vol.112/2006/04/05)
 http://www.1101.com/OL/2006-04-05.html

 そして、この人についていちばん情報があるのは、このはてな日記だと思われる。

 「saltwatertaffyの日記」
 http://d.hatena.ne.jp/saltwatertaffy/
 
 このはてなは、『ブック・イン・ピンク』『ハイスクールU.S.A』の著者のものだった。なるほど。(→「ミランダ・ジュライ」で検索

「水泳チーム」「この人」は、どちらもNo One Belongs Here More Than You という短篇集に入っているそうで、はやく全訳が読みたい。
「岸本佐知子のヘンな部屋」では、(2)日記エッセイもいつも通り面白かった。今年初頭の『ねにもつタイプ』があちこちで話題になったから(なったと思う)、きっと読者も増えただろうし周囲の期待も高まろうというものだが、本人は変わらぬ調子で日々を刻んでいらっしゃるように見えるのが頼もしい。白水社日記の更新を、私はまだ待っている。もう2年半くらい待っている。
《九月某日 美人女優が茶色いトイ・プードルを抱いてにっこりしている写真のキャプションを「私とウンコのハッピーライフ」と読み間違えたうえに、犬もウンコと見間違える。自分は疲れている。》

「yom yom」に載っている創作は、私があんまり読まない類の作家がほとんどなのだが(みんなそんなに恋愛小説が好きか?ほんとうに?)、何だかんだ言いつつ、毎号そしらぬ顔で剛速球を投げ込む川上弘美とか、震えながら読んでいます。


No One Belongs Here More Than You: StoriesNo One Belongs Here More Than You: Stories
(2007/05/15)
Miranda July

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「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その73

[前回…]
《これに怒り猛った人狼[ルウ・ガルウ]は、パンタグリュエルめがけて例の鉄棍を振りおろし、その脳髄を打ち砕こうとした。しかし、パンタグリュエルもさる者だったし、常に足さばきは機敏、目配りにも油断はなかった。従って、左足を一歩後に引いて体をかわしたのだが、無念や鉄棍がずんとばかりに腰の塩樽に当り、樽は四千八十六もの破片になってけし飛び、残りの塩を地上にぶち撒いてしまった。
 これを見たパンタグリュエルは、力をこめて双の腕を伸ばし、鉞[まさかり]を使うようにして、例の檣[ほばしら]の根元を敵の乳房の上あたりにぐさっと突き刺し、左へ引きまわすようにして檣を抜き出してから、首と肩との間に強打を加えた。次いで、右足を踏み出して進みより、檣の先端をふぐりにずぶりと刺したので、檣楼は砕け、まだそこに残っていた三、四樽の葡萄酒はじゃあじゃあ流れ出るという始末となり、そのために人狼は、てっきり膀胱を剖かれたのだと思ったが、流れ落ちる白葡萄酒を見て、自分の小便が溢れ出したのだと考えたからである。》第29章 p208

 おお、ラブレーがアクションを書いている。
 つらつら思い出してみるに、『第一之書』でも、ジャン修道士家来ジムナストの活躍など、アクションを描いている場面はあった。しかしそれらが、戦いというより虐殺だったのに対して、いま行なわれているのは一騎討ちである、という違いのためか、ここでの描写は初めて見るような詳細なものになっている。
 この2人はどちらも巨人なので、得物を振りまわすだけでも、動作は大きいはずである(何しろパンタグリュエルが持っているのは船の帆柱だ)。巨人の一挙手一投足を、端折らず丁寧に書いていく。そこから、スローモーションやコマ送りというのとも違った、何か悠々とした印象が生まれているように思う。一言でいえば「細かいわりにスケールがでかい」というだけだが、本来あってしかるべき迫力よりも、変にユーモラスな雰囲気のほうが、このあたりでは多めに感じられるのだ。おかしな戦いである。
《[…]パンタグリュエルが間髪を容れぬ早さで身をかわしたので、鉄根は右に外れ、大きな岩根を貫いて、そのまま地面へ七十三尺以上も深くめりこんでしまい、そこから九千六個の樽よりも更に大きな火の玉が迸[ほとばし]り出た。
 岩根に挟まれたまま地中に埋まった鉄根を引き抜こうと、人狼が手間どっているのを見たパンタグリュエルは、馳せよって、ぽんとばかりにその首を打ち落とそうとした。ところが、不幸にも、パンタグリュエルの檣が、一寸ばかり人狼の鉄根の柄に触れてしまったが、この鉄根は、(前にも申した通り、)妖気を帯びていたのである。
 そのために、檣は拳から三寸ぐらいのところでぽきりと折れ、パンタグリュエルは、鐘を鋳出し損ねた鐘鋳造師以上に茫然自失して叫んだ。》p209

 人狼の鉄棍は岩から抜けないし、パンタグリュエルの帆柱は折れてしまった。再度襲いかかってくる人狼の攻撃をかわしかわし、ついにパンタグリュエルの蹴りが勝負を決める。
 渾身の一撃を腹に受けた人狼がひっくり返り、血を吐きながら「マホメット、マホメット、マホメット!」と叫び声をあげると、家来の巨人たちが駆け寄ってくる。それまでパニュルジュたちと仲良く酒を飲んでいたくせに、隊長の大ピンチ、かつ、パンタグリュエルには武器がないのを見てとって、加勢するのである。しかしパンタグリュエルは、当の人狼の巨体をぶん回し、それでもって巨人の群れを次から次へと打ちのめす。その様子は、あたかも大鎌(人狼)で牧場の草(巨人たち)を刈るようだった、と書いてある。で、なぎ倒された巨人たちの喉笛を、これはパンタグリュエルの家来たちが掻き切ってまわる。ひとりも逃がさない。
 さっきまで「悠々」「ユーモラス」と思って読んでいたのに、2ページ足らずで一転、凄惨な皆殺しの現場に私は立ち会っていた。結局、虐殺なのである。
《最後に、パンタグリュエルは敵兵が全部死んでしまったのを見届けると、満身の力を振るって人狼の体を町めがけて投げつけたところが、死骸はこの町の目抜きの広場へばちゃんと堕ちて蟇蛙[がま]のように匍いつくばってしまい、上から落ちてきた際に、焼け焦げ牝猫を一匹と、野雁の雛を一羽と、嘴に棒を通した鵞鳥の雛を一羽とを殺してしまった。》p212


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