2007/11/29

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その72


[前回…]

 そういえば先週の土曜日、ひさしぶりに会った友達数人と都合10時間くらい喋り通しに喋っていたら、日曜日は夕方5時まで眠ってしまった。疲れたらしい。かつてはあんなのが日課のようなものだったと思うと、何か果てしない気持になるのだった。

 そんな感慨とは無関係に、“パンタグリュエル vs 人狼”が寸止めになっていた。向かってくる人狼[ルウ・ガルウ]が手にしている鋼鉄製の棍棒は二千七百貫半も重量があるもので、《先のほうに金剛石の粒が十三もついて居り、そのなかで一番小さいのでも、パリはノートルダム大聖堂の一番大きな釣鐘と同じくらいの大きさだった》。
 今度ばかりは強敵なのである。そこでパンタグリュエルが何をしたかというと、まず天を仰ぎ、誠心誠意、神に祈った。
《――常に我が身を護り我が身を孚[はぐく]み給う天にまします神よ、御覧の通り私は、今やこのような危難に陥って居ります。私がこの地にまいりましたのも、自然の熱情に動かされたに外なりませぬし、み掟に背いて神慮を煩わさぬ限り、自らを、妻子を、国家を、また一族を守護防衛いたすを、我ら人間にお許しくだされましたからでございます。そもそも神のみ業に関する重大事におきましては、[…]》第29章 p207

 大一番を前にして、神に祈りと誓いをあげる。なんだか、中学校の国語で習った那須与一の話みたいである(平家物語から、「扇の的」)。あれはたしか、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させてたばせ給え。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人にふたたび面を向かうべからず。いま一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢はづさせ給うな[…]」
 ――とかなんとか続くのだったが、こうやっていまでも出てくるのだから、あきれるのは14歳の記憶力である。もっと有効活用できなかったものかと思う一方、ある友達は、幼時の記憶力を“魚偏の漢字を憶える”のに費やしたと言っていたし、あれはもともと有効には使えないことになっているのかもしれない。で、そんなことを考えているあいだにも、パンタグリュエルの祈りは続いていた。
《[…]今もし御加護を垂れ給わば、この無可有郷[ユトピー]国はもとより、今後私の権力威光の行なわれます他の国々のあらゆる地域に亙り、神の尊き御福音[みことば]を正しく、ただそれのみを、全き姿に布教いたし、他事を顧みぬ覚悟、ひいては、はかなき人智の捏造せる戒律や邪なる虚構事[つくりごと]を以って世を毒せし数多の偽信者偽予言者どもの悪業を、私の周囲より滅し尽すことを固く誓約仕ります。》

 さっきまで進撃のあいまに酒宴を開いていたというか、むしろ酒宴のあいまに進撃していたのと同一人物にはとても見えない真摯な誓いであるが、このへんを斜め読みしていた私が思わず文庫本を鷲掴みにするほどすごいと驚いたのは、上の引用の次に続く行だった。
《この時、天の一角より、“Hoc fac et vinces.” 即ち、「しかくなせ。さらば汝は勝利を得む」という声が聞えてきた。》

 返事まで来たよ! この物語では、これまで「60万匹の犬」だの「矮人族を生むオナラ」だの「敵兵を溺死させる大放尿」だの、およそ何でも現れていたわけだけれども、ここに至って、いよいよ神の声まで降臨するのである。それとこれとを一緒にしていいのかといえば、断固、一緒である。
 ここでほとんど勝敗は決しているのだが、そうとは知らない人狼は、悪鬼のごとく口を開いて迫ってきた。
《[…]パンタグリュエルは、大声を張りあげて、「くたばれ、破落戸[ごろつき]め、くたばってしまえ」と叫びかけたが、ラケダイモン人たちの軍略通りに、この恐ろしい喚声によって敵を脅そうとしたのである。それから、腰帯にさげていた樽のなかから十八斗と半升ほども塩を摑み出して、これを投げつけ、相手の喉や口はもとより、鼻や眼にもぎっしり詰めこんでしまった。》p208

 神意まで得ておきながら、意外とせこいパンタグリュエルだった。

2007/11/24

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その71


[前回…]

 ケルアックの『オン・ザ・ロード』は不思議な小説であったよ。一気に読むのがふさわしいのかもしれないが、毎日少しずつ読んでも面白い。作中で繰り返される「いいね!いいね!」は口癖にしてみたい。

 パンタグリュエルも進撃のオン・ザ・ロードだった。敵・乾喉軍は、不破見人の都を攻めている。そこへ救援に向かうパンタグリュエル一行は、どういうわけか、二百三十七樽もの白葡萄酒を持っていく。そして「どういうわけか」も何も、景気付けのようにわいわい騒いでぜんぶ飲む。
 なんだそれ、と思っていると、家来のカルパランがひとり城壁を越え、前々回から酔い潰れたままである敵の火薬に火を放った。さらには、火攻めだけでは足りないとばかりに、利尿剤の助けを借りたパンタグリュエルが「敵陣めがけて滔々と流しこ」む。
(ここでさっきの白葡萄酒の役割がわかるのだが、飲んだのはすぐに放出するためであり、何だろう、水攻めなのにマッチポンプである)
《敵兵どもは、眼を醒ましてみると、一ぽうでは陣屋は猛火に包まれているし、他ほうでは尿の大洪水大氾濫に見舞われているという有様なので、何と言ってよいのか何と考えてよいのか全く判らなくなった。何人かの者は、この世の終りであり最後の審判の時がきた以上は、劫火に焼かれねばならぬのだと言ったし、他の者どもは、自分らはネプトゥヌスやプロテウスやトリトンのごとき海原の神々の迫害を蒙っているのだ、その証拠には、この水は海の水で塩辛いと言った。》第28章 p203

 慌てて砦から王である混乱麿[アナルク]を運び出してきたのは、敵の側にもいた巨人の三百人。リーダーはその名も人狼[ルウ・ガルウ]。こういっちゃ何だが、混乱麿[アナルク]よりよほど強そうである。いよいよ今度こそ戦いの火蓋が切って落とされるのにあたって、この物語の語り手も心を引き締め、詩神に祈りをあげるのだった。
 一方、パニュルジュその他の家来は、敵兵をみんな誘って酒宴を開き、“パンタグリュエル vs 人狼”の一騎討ちを見守る構え。ちなみに混乱麿王もそこで一緒に飲んでいる。いいね!いいね!(やけくそ)

2007/11/19

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その70


[前回…]

 部屋を掃除して、こたつを出した。
 もう寒さに耐えられなくなった、というわけではないけれど、「11月の第3日曜日にこたつを出す」と、先月から決めていたのだった。8ヶ月ぶりとはいえ、毎年使っているので出す前から見慣れているこたつぶとんを広げ、電源コードを出してきてスイッチを入れたのは夕方だった。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる日記では、『第二之書 パンタグリュエル物語』を、こたつを出す日までに読み終える、というのが一応の目標だった。つまり昨日。守れなかった。じつはけっこう終わり近くまで来ているのだが、ページ数と進捗状況にあまり関係がないのを、書いている私はよく知っている。
 こたつの季節は、てきめんにPCに向かう時間が減る。部屋のなかにあたたかい場所があるのに、そこから体をひっこぬいて冷たいイスに座り、かじかむ手でキーボードを叩く気にはなかなかなれない。だから、ただでさえ多くない更新がますます少なくなる。まだそれほどの寒さではないが、こう書いてきて憂鬱になった。まあ、ネットに費やされる時間も減るので、そのぶん本は読めるかもしれない、と毎年思うだけは思う。

 で、昼間は一歩も部屋の外に出なかったくせに、さっきまでこたつでお茶を飲みながら読んでいたのは、ケルアック『オン・ザ・ロード』(青山南訳、河出書房新社)だった。『路上』は読んでいないので「こういう話だったのか」と新鮮。
 いよいよ、という感じでこのあたらしい訳を出してきた青山南が「本の雑誌」に連載しているコラムをきのう立ち読みしたら(12月号)、それはちょうど50年前、原書の発売日前後のケルアックじしんの様子を綴った話で「うまいなあ」とうなり、いま急に、やはりあれは買っておくべきだった、という気持にまで襲われた。そして、本を読むつもりで入ったこたつでは、つい眠ってしまうのでなかなか思うように読み進まない。初日にして、こたつのすべての実力を見た。『第二之書』はあした読む。



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2007/11/17

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その69


[前回…]

 いよいよ出陣するその前に(まだあるのだ)、先の戦いで捕虜にした、ただひとりの敵兵を連れてきて、パンタグリュエルは言い渡す。
《――そちの陣屋の王のもとに戻り、その目で見たことを申し伝え、明日の午頃、拙者のために歓迎の宴を開く覚悟で居れと申し渡してくれよ。遅くとも明朝になると思うが、我が艦隊が到着するや否や、百八十万の戦士と、一人残らず拙者以上に身丈大きい七千の巨人とを従えて進軍し、そちの王が我が国を侵したのは狂気の沙汰、事理を弁えない所業であることを、とくと呑みこませてつかわすからな。
 こう言ってパンタグリュエルは、海軍の備えもあるような振りをしたのである。》第28章 p197

 おお、策士だ。もちろん、こんなふうに「明朝攻める」なんて言っておいて、じつは寝入りばなに夜討をかける作戦なのである。
 それにこの発言でもうひとつ、ようやくわかったことがある。ここでパンタグリュエルは
《そちの王が我が国を侵したのは》

と言っている。前に「その61」でつまづいたように、私はこの話に出てくる国と国との関係がよくわからなかったのだが、どうやらこういうことらしい。

 “無可有郷国”という国があり、そこの王がガルガンチュワである。その領土のなかに“不破見人”の都があって、“乾喉国”からやって来た“乾喉人”が今そこを攻めている。“不破見”は国名ではなく、“無可有郷国”の一地方の名前らしい(ここを治める領主の娘がガルガンチュワの妃になり、パンタグリュエルを生んだ)。

 おそらくこのような関係だと思われる。そしてこの『第二之書』の題字はこうだった。
乾喉人国王パンタグリュエル物語
   及びその驚倒すべき言行武勲録

 あれ、やっぱりおかしいのじゃないか? パンタグリュエルはいつ“乾喉人”の王になるのか(よその国じゃないの?)。それは戦後の話になるのか。わからないので先に進むことにする。

 くだんの捕虜を帰すにあたって、パンタグリュエルは上記の言伝て(虚偽)のほかにもうひとつ、お土産を渡した。
《それには、大戟[たかとうだい]と雄桂樹果[グラン・ド・コツコニード]とを焼酎[オ・ド・ヴイ]に浸して樹果[ジャム]のようにしたものが一杯に詰めてあったが、この箱を敵王のもとへ持参して、これを一匙[オンス]でも何も飲まずに食べられたら、何を恐れることもなくパンタグリュエルに立ち向えるだろう、と伝えよと命じた。》p198

 これ、さっきの伝言とは微妙に矛盾するわけだが、保身に汲々としている捕虜はそんなことには気付かない。パンタグリュエルは、自分の目的は《人々を富裕にし、これを全き自由の身にすることにあるのだ》、と見得を切って捕虜を送り出す。

 捕虜はあっというまに陣地に戻る。不破見人の都を包囲していた乾喉人、こちらの王の名は混乱麿[アナルク]という。この王に、捕虜はパンタグリュエルが言った通りのことばを伝えた。
 しかし問題はパンタグリュエルが持たせた箱である。相手から寄越したというだけでも怪しく映るだろうあの箱の中身は、じつは劇薬と下剤なので、それがいったいどんな筋道をたどって敵方の口に入るかの顛末は、ひとつのごちゃついた挿話をなすと私は思っていた。
《それから、樹果[ジャム]のはいっている例の箱を王に渡した。ところが、混乱麿王がこれを一匙嚥みこむやいなや、忽ち喉がかっかと燃えあがるようになり、[…]》

 って、もう飲んでる。この呼吸、さすが混乱麿王はわかっていらっしゃる。
《[…]懸雍垂[のどちんこ]に潰瘍ができ、舌の皮がぺろぺろ剥けた。そして、これを医すためには、ひっきりなしにがぶがぶ酒を飲むこと以外に鎮静法がなくなってしまった。[…]
 これを見た王の部将、大官、警護の士たちも、こんなに喉をからからにする力が、この薬にあるのか、ひとつ試してみようと、これを食べてみた。ところが、皆、王と同じことになってしまった。そして、一同は酒徳利に武者振りつくこととなった[…]》太字は引用者

 そして混乱麿王の家来たちも、みんな呼吸がわかっているのだった。
《そこでどの軍兵も同じく、がぶがぶごくごくと飲み、乾杯をし始めた。要するに、誰も彼もが飲みに飲んだのはて、ごちゃごちゃになって、陣屋で豚同然に眠りこんでしまった。》pp199-200

 パンタグリュエルはよい家来に恵まれ、加えて、よい敵にも恵まれていた。

2007/11/15

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その68


[前回…]

《――これより進撃するに先立って、(とパンタグリュエルは言った、)今し方そなたたちが樹てた勲を記念するために、見事な戦捷飾り[トロパイヨン]を一つこの地に立てたいと思う。》第27章 p191

 いや、意味がわからない。戦捷飾り[トロパイヨン]とは、戦いに勝ったのを記念して作るクリスマスツリーみたいなものらしいのだが、これから進軍していわば本戦をたたかうというのに、ずいぶんな余裕だ。急いだ方がいいのではないか。しかしみんな大喜びで材料を集めてくる。なんでも、一本の木に、飾りとしてさまざまな種類の武具や馬具をひとつずつ釣り下げるようで(鞍、拍車、斧、大鉄槌、その他もろもろ)、たしかに楽しそうではある。そればかりかパンタグリュエルは、わざわざ18行におよぶ詩まで綴って添えるのだった(戦捷記念賦)。ほんとに、急いだ方がいいのではないか。
《雄々しく猛き戦士[もののふ]四人の
 この地にぞ勲たてたる。
 両スキピオやファビウスのごと、
 智慧をば用いて甲冑をつけず、
 […]》p192

 そのころパニュルジュはと言えば、戦いのあとの酒宴を記念して、同じような飾りを作っていた。こちらで使われるのは、飲み食いした鹿の角、兎の耳、鳩の脚、鍋、壺、杯、その他もろもろ。そして手の込んだことに、やっぱり18行の詩もつけるのである。
《欣び勇んだへべれけ四人
 この地にぞ踞坐[あぐら]をかきて
 バッコスがため酒宴ひらき
 鯉のごとくにがぶがぶ飲みぬ。
 […]》p193

 で、ここまで面倒くさいことをしたうえで、パンタグリュエルは言い放つ。
《――さあ、皆の者、食い物のことであまり暇をとりすぎたぞ。日夜饗宴三昧の者どもが輝かしい武勲を立てることは、めったに見られぬ。目指す影は旌旗[はた]の影、求むる煙は軍馬の煙、栄ある響きは甲冑の響きだけだぞ。》p194

 言っていることはかっこいいのだが、説得力は微塵もなかった。
 さらに、いよいよ腰を上げたかと思われたパンタグリュエルは、よせばいいのにもうひとつ、余計なことをする。この巨人は、気合を入れたついでに一発、盛大な“転矢気”を放ったのである。
 転矢気。これは読めないと思う。書いておこう。これで「おなら」なのだそうである。

 転矢気[おなら]

 私は知らなかったが、この本でも読めばよくわかるのだろうか。とはいえいま引っかかったのは漢字の表記なので、この場合はこっちの本のほうがいいのかもしれない。それはともかく、パンタグリュエルの転矢気は、何が問題だったのか。
《その転矢気で大地は九里四ほうに亙って鳴動し、その臭い風のなかから、五万三千人の不恰好の矮人[こびと]が生れ出たし、その透し屁からは、それと同じ数の縮こまった矮人女が生れ出た》第27章 p195

 これが余計なことでなくてなんだろう。この結果から考えると、パンタグリュエルにとって「転矢気」と「透し屁」は明確に別物であったとわかるが、だからなんだ。かくなるうえは、この合計十万六千人の矮人を引き連れて乾喉人を総攻撃にかかるのが筋だと思うが、そんな展開はない。実際にあるのは、パニュルジュの進言を受けたパンタグリュエルが、この矮人の男女を一組ずつ娶合わせてあげた、という話だけである。
《パンタグリュエルはその通りにしてやり、これらの矮人たちにピグメという名をつけてやった。そして、すぐ側にある一つの島へ送って、そこに住まわせることにしたが、その後、その島一杯に非常に繁殖してしまった。》pp195-6

 なるほど「ピグメ」は「ピグミー」の訛りなんだね!とかいっても、だからなんなんだ。このくだり、ぜったい思いつきで書いていやがる。そして困ったことに、思いつきで書かれている部分のほうが、予想がつかないぶんだけ面白い気がすることも、たまにあるのだった。そろそろ本戦です。

2007/11/12

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その67


[前回…]

 先週の「タモリ倶楽部」。高校の頃ジャーマンスープレックスが流行って、何十回と投げられているうちに受身をとるのがうまくなっちゃたんですよ、とうれしそうに語る安斎肇にタモリが一言、「おれの高校の頃は、なんにも流行んなかったなあ」。

 押し寄せる六百六十騎の乾喉人兵を見て、パンタグリュエルが立ちあがる。自分ひとりで戦うから、みんなは船に退きあげ休んでいてくれよというのだが、パニュルジュはじめ家来たちは、逆に殿こそ退いてください、自分たちの腕前を御覧に入れましょう、と申し出る。
《さてパニュルジュは、船の大きな綱具を二本引っ張り出した。そして、船橋の巻轆轤[ろくろ]にこれを結びつけてから陸へあげ、一本の綱具を遠くまで引いていって大きな輪を作り、そのなかにもう一本の綱具でまた輪を作ったが、エピステモンにこう言った。
 ――あんたは船に乗っていてくださいよ。そして、私が合図をしたら、船橋の巻轆轤をぎりぎりまわして、この二本綱を手もとに巻きよせてくださいな。》第25章 p182

 ほかふたりの仲間、ユステーヌとカルパランがおとりになって、敵兵をうまく輪のなかにおびき寄せてから綱具をがらがら巻き取ると、二本の綱は馬もろとも敵を地面へすっ倒す。そんなにうまくいくのか、と思っていると、敵は敵でやっぱり剣を抜き綱を切りにかかるものの、《パニュルジュは、予め撒いて置いた火薬に火をかけ、その場で敵兵を全部地獄堕ちの魂のように焼き殺してしまった》。
 早。綱の意味はあまりなかった気もするが、「地獄堕ちの魂のように焼く」、という形容はいちどどこかで使ってみたい。これで六百六十騎中の六百五十九騎までが死に、たったひとりだけ生き延びた敵兵もすぐに掴まえられた。上々の首尾に大喜びしたパンタグリュエルが何をするかというと、その場で酒宴を開く。
 主君が主君なら家来も家来で、カルパランは各種の鳥を150羽ほども獲ってくるわ、兎から狐から獣を蹴り殺してくるわで、みんなそれぞれに皮を剥いだり火を用意したりして大いに盛り上がる。だからこの人たちにとっては、戦闘と酒宴がいっしょになっている。
《それから酢をふんだんにつけての大饗宴。遠慮する奴は悪魔にくれてやれというしだい。一同がぱくぱくがつがつ喰う有様は、見るだに盛んなものだった。》第26章 p186

 なんだかこの調子だと、パンタグリュエルが御自ら出てこなくても、家来たちだけで乾喉人に勝てるんじゃないかという気がしてくる。たとえそうでもパンタグリュエルには見せ場が用意されていると思う。というのは、捕虜から聞き出した敵の勢力が、なかなかたいしたものなのである。
 なにしろ、まず、巨人が三百人いる。巨人て。しかし、パンタグリュエルが巨人なんだから、敵に巨人がいてもいい道理なのだろう。その隊長・人狼[ルウ・ガルウ]は神話に出てくる鉄床で身を固めているそうで、ほかに控えているのは十六万三千の歩卒、一万一千四百の騎馬武者、三千六百の大臼砲に八十一万四千人の工兵、加えて女神のように美しい十五万のお女郎衆。
 ぜったい冗談で付け足された最後のものにだけパンタグリュエルの家来たちは食いついて、「おれの短刀で血祭りにあげる」だの皮算用が飛び交い、ますます気炎があがるのだった。まあ、飲んじゃってるしね。ところが、
《 ――さらば、皆の者ども、(とパンタグリュエルは言った、)いざ出動いたそうぞ。》p190

 はじめの戦闘から切れ目なく続く酒宴のあと、この人たちは眠ったりもせず、そのまま進軍していくらしい。ということは、クライマックスも近い予感がする。

2007/11/08

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その66


[前回…]

 話としては「その63」の続き。手紙を送ってきたパリの婦人に未練を残すパンタグリュエルだったが、家来に引っ張られるかたちで出港する。
《一同は真帆をあげて沖へ乗り出し、僅かの日数のうちに、ポルト・サント島を経、マデイラ諸島を通って進み、カナリヤ群島に寄港した。
 それから出帆して、ブランコ岬、セネガル、ヴェルデ岬、ガンビヤ、サグレス岬、メリ、喜望峰を経て、メリンダ王国に投錨した。
 それから出帆して、朔北風[トランスモンタース]に帆を孕ませ、空漠[メデン]、虚[ウテイ]、無有[ウデン]、可笑[ジエラサン]の国々を経て、妖女[フエ]群島にいたり、無祖人[アコリー]王国の側を通過し、ついに無可有郷[ユトピー]国の港に着いたが、そこは不破見[アモロート]人の都から三里と少しあるところであった。》第24章 p178

 簡単な記述ではあるけれど、こうやって実在の地所から徐々に虚構のなかに入っていくステップの踏み方が心地いい。現実の世界から虚構の世界に入っていくのは、紛れもない虚構の人物たちなのである。
 上陸したパンタグリュエルが、家来に向かって「自分と生死を共にする決心はあるか」とたしかめると、一同は異口同音に「申すまでもありません」。いったい何人の家来を連れてきたのか定かではないが、代表的なのは(=名前がついているのは)以下の面々である。

 パニュルジュ。
 エピステモン。
 ユステーヌ。
 カルパラン。

 みんなで偵察の相談などして「おれが行く」「いやおれが」「いやいやおれこそが」と揉めているうちに、不破見人の首都を包囲し攻めていた敵・乾喉人の方が先に彼らを見つけてやってくる。その数、六百六十騎。

 というわけで、もう戦いがはじまってしまうようである。あの綿密で迂遠なパリでの身振り合戦とか何だったんだろう。
 いつもより短いけど以下次回。てか、毎回これくらいのほうがいいのか。とりあえず、六百六十人の冥福を先に祈る。

2007/11/07

2007/11/03


 先週、11月3日の土曜日は、中央大学の学祭の一環で企画された「保坂和志+古谷利裕」対談を見に行った。
 立川からさらにモノレールで20分ばかり行った先にある中央大学多摩キャンパスは、入ってみればすごい人混みで、活気あふれる若者の洪水を避けるように避けるようにと歩いていくと、いつのまにか立ち並ぶ出店の列の裏を歩いており、一定量ずつサランラップに包まれた豚肉の山など横目に見ながら、「自分は学祭とは縁のない学生生活だったなあ」とあらためて思わされたことである。
 豚肉ではなく対談の感想を書いておくつもりでいたのだけど、ぐずぐずしているうちに当の古谷氏の「偽日記」に記録が出ていた。以下のリンク先から、「07/11/03(土)」と「07/11/04(日)」の分をご参照。
 →http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html

 説明なくデヴィッド・リンチの映画の話で始まり、「リアリティがあるから面白いのではなく、面白いからリアリティがあるんだ」と続いていった対談で、私がいちばん「おぼえておこう」と思った保坂和志の発言について書かれているところがちょうどあったのでコピペしてしまう。
《●講演会での保坂さんの発言でぼくが重要だと思ったのは、人が言っていることはいちいち「真に受ける」べきだということ。例えば荒川修作が「死なない」と言えば、それは本気で「死なない」ということを考えているのだ、という前提でその発言を読み、その作品に触れるべきだということ。それは、アラカワ教に入信することでも、アラカワを教祖として奉るのでもなく、アラカワの頭のなかを自分の頭によってトレースして、アラカワが「死なない」といっている時のその身体的な状態を自身の身体によって再現-体験してみることで(完全には無理でも、そこに近付こうとすることで)はじめて、アラカワの言う「死なない」の意味が理解できる、というようなことだと思う。つまりここでは、言葉の意味は、その時の身体の状態ということになる。》
07/11/03(土)

 人の言ったこと・書いたことを、距離を置いて論評するのが「知的」な姿勢であるように思われがちだけど、そうではないんじゃないの、という流れで出てきた発言だった。たしか。
 とはいえこういうことは、保坂・古谷両氏のように、何というか、あたまの地力が強い人が言うから意味があるのであって、私みたいなミーハーの言い訳にしていいはずがない。上のコピペ、最後の一文はさすがだと思う。
 あと、実際にあの場にいた感想としては、対談の後半、会場からの質疑応答で、真剣に答えようとするために質問者を逆に問い詰めるように見えてしまう保坂和志がものすごく面白かった。

「偽日記」では「07/11/04(日)」のほうで触れられている、“小説には、小説内のルールがある”という話から、以前、高橋源一郎が書評のなかで、小説とは何なのかをえらくあっさり定義していたのを思い出した。
《「ある世界があって、そこにはなにか法則がある。けれども、その法則がなぜあるのかは誰も知らない」ということを書いているのが小説なんだ。》
『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』p91

 それだから高橋源一郎も保坂和志も小説の話になるとカフカが出てくる――という感想はぜったい安易だが、ここで唐突に『優雅で感傷的な日本野球』(1988)の書き出しを引用する。
《わたしはここにこうして静かに座って本を読んでいる。ここはわたしの部屋で、およそ二万冊の本と茶色いオス猫が一匹いる。猫の名前は『365日のおかず百科』だ。
 猫の名前が『365日のおかず百科』であることについて、わたしはとやかく言われたくない。
 オス猫なら『365日のおかず百科』、メス猫なら『太宰治週間』。それがここの決まりなのだ。「それさえ守ってくれれば、あとは自由に使ってくれてかまわない」――大家はそう言ってこの部屋を貸してくれた。わたしとしても、折角見つけた部屋を追い出されるのはごめんだ。それに、わたしはその決まりを気にいっている。オス猫なら『365日のおかず百科』、メス猫なら『太宰治週間』。》

 この書き出しを何度読んでもすばらしいと思う私は、いつかなんかの折りに引用したいとずっと考えていたのだが、いま書き写してみたらまさに“ルール”と“法則”の話だった、というようなまとめ方をしてはいけない。
 この小説、はじめて読んだ18才のときは、いまにして思えばかなり「無理をして面白がった」きらいがあったのだけど、去年、河出文庫に入ったときに読み直してみると、面白い冒頭からはじまって、どこをどこまで読んでも面白く、そのまま読み終えてしまったのが自分としておどろきであり、うれしくもあった。


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2007/11/05

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その65


[前回…]

 風邪はほぼ完治。バンヴィル『コペルニクス博士』の続き。
 ニコラス・コペルニクスには出来の悪い兄がいて、子供時代からずっと弟をいじめる。その兄に、冒頭近くでこういう発言があった。
《「おい、トルコ人がこっちに向かってくるぜ。南に攻め込んだんだ」ニコラスは青くなった。アンドレアスはにやりとした。「ああ、本当だ、信じろよ。怖いのか? どんなことをしても勝てっこないさ。捕まったら串刺しにされるんだとさ。大きな尖った串をお尻から刺すんだ――こんな風に! グサッ!」》p16

 ここを読んだ私は、『パンタグリュエル物語』で、トルコ人に捕まったパニュルジュが、まさにお尻からグサッと串刺しにされて焼かれていた場面を思い出した(→その56)。
 あそこを読んでいたときには、単純に「パニュルジュはこんなにひどいことをされた」の例として流してしまったが、ラブレーから450年くらいあとのバンヴィルの小説にも出てくるのだから、「トルコ人」といえば「捕まえた人間を串刺し」という定式がある、ということだろうか。初耳だった。本当なのだろうか。
 しかし、まず、この考え方はズレている。じつは読み終えるまでピンとこなかったのだけど、『コペルニクス博士』の主人公であるコペルニクスは1473年生まれの1543年没、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」が発表されたのは1532年から1564年にかけてだから、コペルニクス博士は、ラブレーやパンタグリュエルたちとほとんど同年代なのである。だからこう言うべきだった。

 バンヴィルが虚構の舞台として設定した16世紀の前半を、ラブレーは実際に生きていた。

 この一致に私は何かびっくりする。いや、もちろん、歴史上の事実なんだから一致するのは当たり前なんだけど、私の読んでいる本のうえで重なったことに驚いたというか。
 それで「トルコ人と串刺し」問題だが、これはコペルニクスにはトラウマになって後年までつきまとうほど恐ろしいものだった。
《ニコラス聖堂参事会員は早足で歩廊を歩いていき、時折暗闇の中で法衣を踏みつけては、低く柔らかい呻き声を洩らした。ずっと前から、彼の頭には強迫的な観念があった。トルコ人に捕まったら串刺しにされる! トルコ人に捕まったら串刺しにされる!p144

 なにゆえそんな伝説が。きっかけになった史実でもあるのか。
 そこできわめて安易に「トルコ人 串刺し」でググってみると、たくさんヒットするのは、それこそ串刺しで有名になった“グラド・ツェペシ”なる人物についての情報だった。

 串刺し公ヴラド・ツェペシ
 http://www.interq.or.jp/saturn/mugenten/sinwa/van/vlad.html

 中世の血塗られた史実
 http://members.jcom.home.ne.jp/0350371001/works/works_4_d.html

 しかしこの人は、トルコ人に串刺しにされたのではなく、トルコ兵を串刺しにしたルーマニア人だという。この恐ろしい人物がドラキュラの遠いモデルと考えられたり考えられなかったりするらしいことも知ったが、この際は関係がない。
 トルコ人が捕まえた奴を串刺しにする、なんていう通説はどこから生まれたのか。ほんとに通説なのか。
 ――と、ここまで来てようやく私は気がついた。「あ、シシカバブ」。

 なぜ最初に思いつかなかったのか。初耳でもなんでもない。2日くらい考え込んでしまった。それはシシカバブを食べたことがないからだ、ということにしておきたい(→いちおう)。串刺し公なんてまわり道以外の何ものでもなかった。

 このように、あらゆることに時間がかかるので、この「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる日記も、第2巻に入ってから3ヶ月経つというのになかなか終わりが見えないのだった。


 バンヴィルは、『コペルニクス博士』に続いて『ケプラーの憂鬱』(1981)なる長篇も書いている。こっちも積んでいたので読んでみた。ケプラー博士は(世俗的には)ひどく不遇に描かれ、当然クライマックスになるものと予想していた大発見があんまり華麗にスルーされるので泣ける。バンヴィルの「暗く書く」腕は相当のものだ。読者の共感など鼻も引っかけない。
 コペルニクス→ケプラーときて、さらにニュートンを扱った未訳のThe Newton Letter (1982)というのもあり、あわせて“科学者3部作”を成すという。やたら評判の高い『海に帰る日』は年末にでも読みたい。

ケプラーの憂鬱 (プラネタリー・クラシクス)ケプラーの憂鬱 (プラネタリー・クラシクス)
(1991/10)
高橋 和久、小熊 令子 他

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2007/11/04

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その64


[前回…]

 何年かぶりに服用した風邪薬のせいで朦朧としている。
 なんだか前回はメルヴィル『白鯨』の話が長くなった。今日も別の作家の話から入る。

 こないだ読んだ『バーチウッド』(1973)が面白かったので、もう何年も積んだままにしていた、同じジョン・バンヴィルの『コペルニクス博士』(1976)を読んでみた。白水社から1992年の刊行。斎藤兆史訳。amazonに書影はなかったけど一応。

コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説) コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説)
ジョン バンヴィル (1992/01)
白水社

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 タイトル通り、主人公はコペルニクス本人で、天動説を引っくり返した天文学者の一生が、幼年から晩年までぎっちり語られる。こうまとめると、まるで正面切った評伝、あるいはリアリズムに徹した歴史小説のようだが、依って立つ土台がズレているために、極めて精巧で、変な小説になっている。
 ここで描かれるコペルニクスは、科学が世界の実態を明らかにするためのものではなく、統一あるひとつの世界観を作りあげるためのものとされていた時代にあって、ひとり、カギカッコの付かない真理を求める苦労性の男である。
《「君は我々の科学に無理な注文をしているのだよ。天文学は実際の宇宙ではなくて、ただ我々が見た通りの宇宙を記述するものなのだ。だから我々の観察を説明してくれる理論が正しい理論なのだよ。純粋な天文学に関する限り、プトレマイオスの理論は完全に、ほぼ完全に妥当なものだ。それによって現象は守られているからな。天文学に求められているのはそこまでであって、それ以上を求めるのは無理というものだ。[…]」》pp53-4

 医者として世を忍び、聖職者として異端尋問を恐れながら、解釈という壁を取り払ってあるがままの真理をつかもうとするコペルニクスには、その先にさらに高い壁が立ちはだかっていることまで見えてくる。
《彼はそれまで真理は語り得るものだと信じていた。今や彼は、語り得るものは言説のみであることを知った。彼の本は世界を描いたものではなく、本それ自体を描いたものであった。》p169

 いくらか軽はずみなのを自覚しつつ言えば、こうなるとコペルニクスは、まったく20世紀後半の悩める現代人になっている。そこが土台になっているから、16世紀の世間・風俗がどれだけ描き込まれても、一定のズレが維持される。このズレは、ひとりだけ地動説にたどり着いてしまった彼に対して周囲の人間が抱く違和感としても目に見えるようになっている。このような屈折によって『コペルニクス博士』は、16世紀が舞台の歴史小説というよりも、まぎれもない現代小説になる……って、1976年に出た小説なら現代小説に決まっている。当たり前のことを書いているなあ。
 ここにあらわれる「真理」と「科学」の関係は、「科学」が「文学」と置き換え可能になっていることに気づけば、ほとんど「もの」と「それを表す言葉」の関係を照らし出すものになる。というか、そうやって置き換えて読むように作中には案内板が何枚も立っていた。なにしろこの小説は、幼いコペルニクスがはじめて言葉を知る体験をしたところから始まっているのだ。
《あらゆるものに名前がついている。だが、あらゆる名前は名づけられたものなくしては意味を持たないのに、名づけられたもののほうは自分の名前などにかまわず、名前を必要とせず、ただそれ自体である。それから、実体のないものを意味する言葉があった。シナノキと木が、あの黒い踊り子を意味しているように。誰を一番愛しているかと母親は彼に聞いた。愛は踊らず、狂ったように揺れ動く指で窓を叩くことも、葉のついた腕を震わせることもない。それなのに母親が何物も意味しないその名を口にするとき、触知できぬ、しかし自分の中に確かに存在するあるものがそれに答えた。まるでそれが、自分の名が呼ばれるのを聞き、その声に答えるかのように。実に奇妙なことであった。》p9

 これはあくまでスタートなので、私が案内板だと思った箇所はミスリーディングで、小説の後半はもっと大変な転換まで進んでいたのかもしれないのだけれども、なにしろ濃密なので、私にはこれだけでも充分だった。

 で、『コペルニクス博士』がどのように「ガルガンチュワとパンタグリュエル」に関係してくるかというと、それはまた次回。たいしたことではないです。