2007/10/30

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その63


[前回…]

 故国をめざす一向は、大海原へと乗り出すつもりで港までやってくる。海を渡らないと帰れないらしい。たしか『第一之書』では、パリ-故国の間は陸路で往復可能だったと思うが(→その16)気にしないことにする。
 で、その港町にいるときに、パリの一婦人からパンタグリュエル宛に書簡が届く。
《パンタグリュエルは、この宛名書きを読んだとき、大変驚き、書面を持参した使者に向い、使いを頼んだ婦人の名を訊ねながら、封を切った。すると、なかには何もしたためてなく、平たく切られただけの一粒の金剛石をあしらった黄金の指環が一つはいっているばかりだった。》第24章 p174

 どうやら、この物語の語り手がパリを舞台にしたパニュルジュの奇行に目を奪われていたあいだに、パンタグリュエルはパンタグリュエルでこの某婦人とよろしくやっていたらしい。読者にとっては事後報告。語り手にはもっとよく見ておいてほしいものである。あと主人公にも、物語から隠れないよう自覚を促したいところだ。もっとも、パニュルジュがパンタグリュエルの行動をうまく隠しおおせたと見れば、この家来が主君からいちばんあつい信任をもって遇されているのも納得がいく。考えすぎだけど。
 で、戸惑うパンタグリュエルから何も書かれていない書面を見せられたパニュルジュは、これを某婦人からの暗号書――何か書いてあるのに、特殊な仕掛けで文字が見えないようになっている――であると決めつけ、さまざまな方法を駆使して解読を試みる。
《[…]火で焙り、塩化アンモニヤ溶液を使って文字が書いてあるのではないかと調べてみた。》

このような、

「××してみた。△△の方法で書かれているかもしれないからである」

というパニュルジュのチャレンジの数かずを、私は

「△△の方法で書かれた暗号は、××することで読めるようになる」

みたいに逆さから読んで学習していくことになるのだが、
《胡桃油で紙の一部分を擦ってみたが、これは無花果の樹の灰汁でしたためられたのではないかと調べてみるためであった。》

《初産の女の子に乳を飲ませている女の乳を紙の一部分に擦りつけてみて、蟇蛙[がま]の血で書かれているのではないかと調べてみた。》

 こんなものになると、その解読法じたいがすでにして暗号のようである。蟇蛙の血って透明なのか。
 結論から言ってパニュルジュの探究心はすべて水泡に帰すのだけど、こういうやり方もあったことを引用しておきたい。
《蝙蝠の脂を塗って、竜涎香と名づける鯨の精液でしたためられたのではないかと調べてみた。》pp175-6

 竜涎香。註によれば、「(精液ではなく)実際は抹香鯨の体内に生ずる結石の一種」と訂正されていて、どっちにしろ、そんな貴重なものを使わないと読めない暗号通信の効率はいかばかりのものかと思いながらウィキペディアの記事(→これ)なんかに飛んだりしているわけだが、その記事にも書いてあるように、竜涎香についてはメルヴィル『白鯨』(1851)がさすがに詳しかったおぼえがある。蛇の道がヘビなら、鯨の道は白鯨である。

 それで『白鯨』を持ってきて捜してみたら、ぜんぶで140章近くあるうちの、91章と92章が竜涎香の話だった。これは「『白鯨』を読んでみる日記」ではないので前後の状況を端折って言うと、主人公たちの乗っている船が、洋上でフランスの捕鯨船と遭遇する。そちらからは風に乗ってひどい悪臭が漂ってくる。というのは、その船、死んで腐った鯨を2体も船腹に吊り下げていたのである。
《そんな巨塊がいかに不快な腐臭を放つかは容易に想像がつこうというもの。疫病に襲われて、生き残りの死者を埋める力さえないアッシリアの都市も、これほどの腐臭を放つことはなかったであろう。その激烈なる腐臭はまさに耐え難く、いかな強欲なものといえどもこれをわざわざ拾って船腹に繋ぐなどは全く考えられぬこと。》(千石英世訳)

 なんだかすごい書きっぷりだが、実際、フランス船の乗員はみんな鼻がもげそうになって気も狂わんばかりである。そこで主人公の船の1人がわざわざ助言に行って、そんな死体は捨てるよう勧め、その手助けまでする。なぜなら、そんな悪臭芬々たる死体のなかからこそ、世界でいちばんかぐわしい竜涎香が採れることを、百戦錬磨の船員たちは知っていたからだった。うまく騙してフランス人から死体を奪い取り、しかし当然悪臭には悩まされながら、竜涎香を探す作業がはじまる。
《鋭利な鯨鏝を手に、スタッブは鯨の脇鰭の後ろあたりに切り込みを入れる。穴を掘るように深くえぐって行く。海の上にありながら地下室でも作ろうとしているかのようだった。掘り進むうちに、ついに刃物の先が痩せた助骨に突き当たる。イングランドの厚いローム層の土を掘って発掘作業をしている連中が、ローマ時代の瓦や陶器類を掘り当てた姿に似ていた。[…]
「あったぞ、これだ」スタッブは穴の奥深くに何かを探り当てて驚喜の声を挙げた。「黄金[きん]だ! 黄金の入った袋だ!」
 握っていた鯨鏝を投げ出し、両手を穴の奥深くへ突っ込んだ。そして、両手一杯に、一塊の香りのいいウィンザー石鹸とも見まがうものを掬うようにして取り出したのだ。それは、年代ものと化して表面に斑点模様が浮き出た濃厚なチーズの塊のようでもあった。油を塗ったような艶やかな光沢を湛えた黄金と灰色の中間のような色、親指で押すと簡単に窪みができそうな肌合、そこから爽やかな香気が立ちのぼってくる。読者よ、これが竜涎香である。どこの薬問屋へ持って行っても、一オンス一黄金ギニーで買い入れてくれる貴重品だ。これが両手に六杯も採れただろうか、しかし手からこぼれて海に失われた部分がもっとあっただろう。残念だが仕方がない。[…]》

 あんまり文章が面白いので引用が長くなった。この文体のたくましさはいったい何なんだろう。
 全篇を通して女性キャラがほとんど皆無である『白鯨』は、鯨の体内にある物質の描写になると途端にエロくなることで有名なのだが(嘘だと思ったら読んでみればいい)、それはともかく、いま書き写していて思ったのは、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」と『白鯨』には、たしかに300年の開きがあるということだった。『白鯨』だって、それだけ読めば不均衡でぐちゃぐちゃで、つぎはぎだらけのくせにあちこち過剰な、どうしてこんなものが突如発生したのかわからないモンスターみたいな小説なのだが、それでも「ガルガンチュワとパンタグリュエル」に比べれば、はるかに整然とした、折り目正しい小説のように見えてくる。『白鯨』の語り手が続けて語るところによれば、竜涎香は高級な香料として、また防臭剤として、さまざまな用途に珍重されるというが、パニュルジュが勘ぐったような、暗号文書作成としての使い道については触れられていなかった。代わりに書いてあるのはこういうことだった。
《威厳あふるる淑女や紳士が、病んだ鯨の腸の汚辱のなかから掻き出されたこのものを身に帯びて喜々として戯れているとは誰に想像できたであろうか!》

《この竜涎香という不滅の香気があの破滅の汚辱の直腸に見出されるというのは、意味なきことであろうか。》

 『白鯨』からながながと引用だけして、ラブレーに戻りようがないまま今日のぶんは終わりにするしかないのだけれども、まあなんだ、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」には、どちらかといえば“竜涎香”より“病んだ鯨の腸の汚辱”や“破滅の汚辱の直腸”の方に近いことばかり書いてある。それなのにあっけらかんとした印象を残すのだから、まったく変な本なのだった。




『白鯨』は前にもいちど触れたことがある(→その8)。読むなら断然、講談社文芸文庫版が楽しい。

白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)白鯨―モービィ・ディック〈上〉 (講談社文芸文庫)
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2007/10/27

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その62


[前回…]

 そういや私がロリータ本に浮かれていたころ青山ブックセンターでは「内田樹+柴田元幸トークショー」が行なわれていたのだった。行けた人の書いた詳しいレポートとか見つけた方は、教えていただけるとうれしい。

 『パンタグリュエル物語』の続き。
 どこだかよくわからないが、とにかく祖国のほうで乾喉人が悪さをしていると聞いたパンタグリュエルは、家来とともに大急ぎでパリを発った。
 早く帰ればいいのに余談がはさまる。お題は、「どうしてフランスの里程基準は他国のより短いのか」。答えるのはまたパニュルジュ。
 ――そもそも里程基準がまだなかった大昔、フランク族の王がはじめて測量を思い立つ。パリの町から若くて元気な男を百人と、美しい娘を百人用意して、百組のカップルを作ってからこう命令した。
《つまり、一同は、東へ西へ南へ北へと旅立つことにいたし、道々相手の娘と騎馬遊びをした場所に石を一つ置かねばならぬが、それを一里の標識と定めることにしよう、と。
 こういうしだいで、一同は欣び勇んで出発いたしましたが、何しろぴんぴんして居ります上に、何もすることもございませんので、ちょっと野原を歩くとすぐにふざけあうしまつとなり、こういうわけで、フランスの里程基準は実に短くなっているのでございますよ。》第23章 p173

 もちろん「騎馬遊び」がErotica verba であるわけで、例によって壮大なのとくだらないのとが両立している。(いや、しているのか?)
《しかし、一同が長い旅路の果てにまいりました時には、もはや哀れな悪魔のように疲れ切って居り、御燈明皿の油ももはや尽きはてていましたので、そうしげしげと騎馬遊びもいたさず、一日に一回、もそもそぼそぼそとやるだけで、すっかり御満腹という有様になりました。(もっとも、これは男のほうがという意味でございますがね。)この結果、ブルターニュ、ランド、ドイツ、その他のもっと遠い国々で用いられる里程基準は、あんなにも長くなっているのでございますよ。》(同)

「くだらねえなあ」と思いつつ、「しかしこの、むりやり筋を通す意志の強さは立派かもしれない」と考え直し、「それはつまり、ほんとにくだらなくあるには体力がいるということか」といつものようにうやむやになっていくのだが、そういえば、当時のフランスの度量衡が実際どんなものだったのかを私は知らない。
 たしかメートル法を作ったのはこの国だったはずだが、それはフランス革命のころ。ラブレーがこれを書いていたのは16世紀の前半だ。いままでにも長さ、面積、重さについて見慣れない単位がたくさん出てきた(間[トワーズ]とか尺[パン]とか)のだけど、それらは毎回、無茶苦茶な数字と組み合わせてパンタグリュエルの大きさを表現するために使われるので、単位自体は台無しにされていた。
 度量衡の歴史について何か見つからないものかとググっていたら、こういうものはいくつもあったが当座の役には立たない。

 度量衡換算
 http://hp.vector.co.jp/authors/VA018451/javascript/jdoryoko.htm

 度量衡換算表
 http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/doryaukau.html

 度量衡 換算表 (みんなの知識【ちょっと便利帳】)
 http://www.benricho.org/doryoko/hyo.html

 ○メートルが何海里になるのか大急ぎで調べないといけないような事態が自分の身に降りかからないよう願うばかりだ。
 しかしこういうのってどうしてメモっておきたくなるんだろう。“みんなの知識”の“みんな”って誰だ。そして“ちょっと便利”。「お客様のなかに、ヤード→町の変換ができる方はいらっしゃいませんか?」みたいな状況を空想する。
 そのうえ、こんな本を見つけてしまって悶えた。

万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測
(2006/03/23)
ケン オールダー

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 ストレートなタイトルがいい。表紙もいい。でもちょっと高い。
 とりあえず『パンタグリュエル物語』の続きを読む。

2007/10/23

ロ、ロ、ロ、

 10月21日の日曜日は、昼過ぎにふとんからのそのそ這い出し、3年ぶりに携帯電話を機種交換するべく電車に乗って隣町の電器屋まで出かけていって手続きを済ませると「1時間したら受け取りに来てね」と言われたのでひとまず本屋に向かい、棚を眺めていたら若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』(作品社)が平積みになっているのを発見、たまげた。たしかにそろそろ出るころだったが、もう出てたのか。
 それでさっそく買ってみれば、すでに「序」だけで“今年読んだ本ベストワン”の気配がたちこめ、自分の舞い上がりかたがおそろしくなったので本を閉じた。今日、あらためて半分まで読んだが、やっぱり面白い。携帯電話の説明書は火にくべてしまいたい。
 乱視読者シリーズ(『冒険』『帰還』『英米短篇講義』『新冒険』『殺しの時間』)では小説を総計何万ページと飲み下してきた若島正が、今回は、自分で訳したナボコフ『ロリータ』の、新潮文庫版にしてわずか5ページ弱の一場面を徹底的に読み解いてくれる。その実演は綿密なのに大胆、テクストに密着しながら奔放に飛び回る。
 ハンバートとロリータの情事の記録である『ロリータ』がナボコフの“英語との情事”であるならば、本書は若島正と『ロリータ』との情事の記録なのだろう。情事って言葉は初めて使った気がする。引用だから仕方ない。ともあれ、どんなに落ち着いて読もうとしても「小説ってこんなにも丁寧に読めるのか」という驚きと「こんなにも丁寧に読める小説をナボコフは書いたのか」という驚きが交互に点滅し続けて大騒ぎの私をよそに、若島正の筆致はあくまで冷静。舌を巻く。娯楽のなかの娯楽。みんな読めばいいと思う。


ロリータ、ロリータ、ロリータロリータ、ロリータ、ロリータ
(2007/10/23)
若島 正

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ロリータ (新潮文庫)ロリータ (新潮文庫)
(2006/10)
ウラジーミル ナボコフ

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2007/10/21

ジョン・バンヴィル『バーチウッド』(1973)

バーチウッド (ハヤカワepi ブック・プラネット) (ハヤカワepi ブック・プラネット)

 佐藤亜紀・岡崎淳子訳、早川書房(2007)
《ひとはあるがままを覚えていると思い込んでいるが、実のところ未来まで持ち越せるのは、ありもしない過去を造り上げる断片でしかない。》p9

 このような、そこだけ取り出すとちょっとカッコいいけど小賢しく見えなくもない文言に、作中で相応の重みを与えて読者のからだに食い込ませるには、ちょっとどころではない作為と計算による細部の積み重ねが要される、というのを思い知らせてくれる小説だった。
 滑らかな記述が作為なら、作為の跡を残しておくのも作為だろう。この小説は依怙地なくらい作為の塊であることを隠そうともしない。「あんたやりすぎだよ」などとつぶやきながらコリコリした文章を一行ずつ読み進めていく過程のひとつひとつが楽しかった。こういうものをこそ直球と呼びたい。

 舞台は19世紀中頃のアイルランド。語り手は自分の屋敷をめぐる壮絶な歴史を書き記していく。ふたつの家系のあいだで繰り広げられた、文字通り骨肉の争い。家族は全員が常軌を逸している。失われた双子の妹を探して語り手が飛び込む先は、胡散臭さ満載のサーカス。妖しくも苛酷すぎる国。
 屋敷の歴史を通して、当然、語り手は自身の歴史を書き込んでいくのだが、最後のページまで堪能してから(訳者が“あとがき”で勧めているように)もういちど最初に戻ってみると、前に見ていたはずの景色は様相を一変させていて、こちらが仮留めしていた像はあえなくほどけていく。そこまでやってようやく、ずっと低音で響いていた、「あれやこれやの統一なんて無理だ」、という声に納得ができるのだった。作者の思う壺、と思いながらも、この箇所を引用する誘惑にはあらがいようもない。
《観客は騙されることを望み、私たちが紡ぎ出す夢の共犯になった。[…]それは魔法をかける者とかけられた者とが、脚光[フットライト]を挟んで金色に輝くボールをやり取りする、何の意味もない、ひとすじの煙にも等しいゲームであり、しかもなお――そう、しかもなお私たちは、彼らが用心深く営む日々の生活という、きつく張られた鋼の弦を弾いて、私たちが去ったあとも彼らの小奇麗な町を疼かせる暗い熱狂の音を鳴らしてやったのだ。》pp168-9
2007/10/19

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その61


[前回…]

 「河出文庫グランドフェア2007」のお知らせにいま気付いた。

 なんだかわからなくなってきた。
 この『第二之書 パンタグリュエル物語』の巻頭には題字があって、そこには
 
乾喉人国王パンタグリュエル物語
   及びその驚倒すべき言行武勲録

 と書いてあった。これは「その49」でいちど引用している(大文字にしたせいでブラウザによってはズレる……のか?)。
 ということは、パンタグリュエルは「乾喉人国」の王子で、国王がガルガンチュワなんだろう。私はそう思っていた。註にも、「乾喉人=ガルガンチュワとパンタグリュエルとの領土の人民名」と書いてある。
 しかるに、第23章を読んでみると、パリ滞在中のパンタグリュエルに自国から報知が届いて、そこには、父王ガルガンチュワが国を離れた隙に、困った事態になったと書いてある。
《乾喉人どもが国境外へのさばり出し、無可有郷国の領土を広範囲に亙って荒しまわり、目下不破見人の首都を包囲攻撃しているということであった。》p172

 ではこれは、国王がいなくなった途端に、国民である乾喉人がほかの国に攻め入ってしまった、ということになると思うんだが、どうも、書きぶりからして、そうではないようなのである。ガルガンチュワの(そしてパンタグリュエルの)国に、無法者の乾喉人が攻めてきた、みたいに書いてある。じゃあその、パンタグリュエルの祖国ってどこだ。
 たぶんこれからパンタグリュエルは、乾喉人を征伐に行くと思われる。そしてもちろん大勝利を収めるだろうから、その結果として、乾喉人を支配して「乾喉国」を作るのかもしれない。それでこの巻の題字が上に引用したものになる、というのなら納得はいくのである。で、やっぱり、現時点でのパンタグリュエルの祖国ってどこだ。
 こんな基本的なことがわからない。私はほんとうにこの本を読んでいるのだろうか。

 一応これまでのぶんから捜してみると、『第一之書』でやはり、「ガルガンチュワの国=乾喉国」ということになっていた(→その28)。
 ということは、いま起きているのはどういう事態なのか。
 パンタグリュエルは「乾喉国」出身なんだけど、「乾喉人」はその国の外にも住んでいて、それがまわりの国に迷惑をかけている、ということだろうか。でもそれだったら、その乾喉人たちはまず「乾喉国」を攻めるんじゃないだろうか? もういちど引用しておく。
《乾喉人どもが国境外へのさばり出し、無可有郷国の領土を広範囲に亙って荒しまわり、目下不破見人の首都を包囲攻撃しているということであった。》

 ここに出てくる「無可有郷国」というのは、ガルガンチュワの妻(つまりパンタグリュエルの母)の出身国である。が、その女性の説明シーンでは、

 無可有郷国不破見王の娘バドベック

 と書いてあった(→その52)。この書き方からすると、「無可有郷国」に住んでいるのが「不破見人」ということなのかもしれない。それでいいのか。
 とりあえず、これらの国名(なんだか民族名なんだか)の読み方だけ書いておこう。本文ではルビが打ってある。

 乾喉    ディプソード
 無可有郷 ユトピー
 不破見   アモロート

 あとのことはなんだかよくわからないので、そのまま読んでいくことにする。
 ちなみに、どうしてガルガンチュワが自分の治める国を離れてしまったのかというと、「妖精モルガーヌによって妖精の国へ伴われて行った」から、だそうである。これは別にファンシーな妖精と遊びに行った、というわけではなくて、このモルガーヌというのは、一国の王や大人物が病苦の折などに保護してくれる存在なのだそうで、ガルガンチュワはたぶん、一種の療養に行っている。やっぱりファンシーだ。

2007/10/15

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その60


[前回…]

 佐藤亜紀+岡崎淳子共訳のジョン・バンヴィル『バーチウッド』を読みはじめる。「佐藤亜紀の新作だよ」と言われたら納得しかねない。あらためて変な作家だなあ、と、そんなことばかり考える。

 豪井物成[トーマスト]との身振り討論に勝利したことで名をあげたパニュルジュは、天狗になって、パリの町でいちばんの美女を落としてやろうと企てる。といっても作戦は特になく、直接口説きに行くだけだった。
《――奥方様、あなた様が我が種族の胤を受けられることは、国家全体にとっては極めて有益であり、あなた様にとっては楽しく、御家門にとっては相応しく、私にとっては必要なことです。左様お信じなされい。実地に御体験あれば納得なれましょう。》第21章 p160

 「口説く」ってこういうことだっただろうか。とはいえ相手も負けてはいない。
《 貴婦人は、これを聞いて、百里以上もパニュルジュを推し離して、こう言った。
 ――何と無体な痴者、かようなことを仰しゃってよろしいのでござりまするか? わたくしを誰と思し召す? さあ、二度と再び目通りは許しませぬぞよ。少しでもこれに背くならば、その腕も脚も切らせてしまいまするぞ。》

 それでもパニュルジュは貴婦人の美貌をほめたたえ、教会までついていったり、金で釣ろうとしたり、しつこく強引に彼女へ言い寄る。押すパニュルジュ、はねつける貴婦人。豪井物成[トーマスト]とのジェスチャー合戦より、よほど「闘い」という気がする。むしろこのようなやりとりをジェスチャーで見たいと思った。まあ、ジェスチャーだったら、パニュルジュが貴婦人に浴びせかける言葉の数かずは“見えない”のだが。それはたとえばこのような言葉である。

「ぎっこんばったん機織遊び」
「木曜太郎先生がお相手の謝肉祭踊り」
「浅襞襀[ひだ]深襞襀を探り当て、摩羅罠に潜むちょびちょびした瘡の芽も見事見つけ出し」
「源蔵殿赤問討入り」
「梟太郎先生が一夜の宿をと申して居ります」

 こういう凝った訳語には、いつも訳註で同じ指摘が付されることになっている。いわく、

 Erotica verba.

 何語なのかもわからないが、しかし、いったいこれはエロいのか。『第一之書』を読んでいたときからの疑問である。エロいエロくないの関係ない、ただ“性に関する”、というのともちがった別種の世界をこれらの言葉は生み出している気がする。
 そんなErotica verba (←ちょっと気に入った)ばかり言っていたせいで、とうとう貴婦人は決定的に機嫌を悪くしてしまい、パニュルジュも逆切れして復讐を試みる。なんだかあんまり無茶なので、その手順をメモ。

(1) さかりのついた牝犬にたらふくものを食べさせてから殺す
(2) その子宮を取り出して擦り潰し、粉にする
(3) 御聖体の大祝日(というお祭があるらしい)にやってきた貴婦人の隙を見て、さっきの粉をドレスに振りかける

 その効果は絶大だった。
《教会内にいたあらゆる牡犬どもが、振りかけられた例の薬物の匂いを嗅ぎつけて、貴婦人めがけて馳せよってきた。小さいのも大きいのも、太ったのも瘠せたのも、皆集まってきて、赤いものを出し、貴婦人をくんくん嗅ぎながら、いたるところに小便をひっかけた。これぞ正に言語道断な醜怪事と相成った。
[…]これらの怪しからぬ犬どもは、例の貴婦人の衣裳のあらゆるところに尿を垂れ流したあげくのはて、一匹の大きな兎狩犬は頭に[小便をひっかけ、後から襟首に尻をこすりつけ、]外の数匹は袖に、他の何頭かは腰に小便をひっかけるしまつ。ちびっこの犬も靴へ尿をかけたので、附近にいた婦人達は全部、この貴婦人を助け出そうと大騒ぎになった。》第22章 pp169-70

 パニュルジュはこれを見て大笑い、溜飲を下げて、自分の主君にも見せようと考える。呼ばれてやって来たパンタグリュエルは
《非常に面白く斬新だと思った。》

 私はこういうの、これまでにもずいぶん見た気がするな。これとか(→その16)。
 60万匹を越える犬にまとわりつかれた貴婦人が、ほうほうのていで自分の邸に逃げ込むと、あらゆる犬がじゃあじゃあ放尿したせいで川ができ、その流れで水車が粉を挽けるほどだったという。

 ええと、さて、『第一之書 ガルガンチュワ物語』は、前半の“馬鹿話”から後半は“馬鹿話プラス戦争”になっていったのだったが、目次の章題を見てみると、この『第二之書』も、下品話のスケールを拡大していくだけではなく、そろそろ戦争がプラスされてくるらしい。どうなることやら。

2007/10/12

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その59


[前回…]

「言葉を発することなく、ただ単に身振りのみにて討論したい」という豪井物成[トーマスト]の申し出を受けて、まずパニュルジュが相手をすることになる。パンタグリュエルは審判役をつとめる。
《さて満座の人々は、水を打ったように鎮まりかえって耳を傾けていると、例のイギリス人は、両手を離れ離れにして宙へぬっと立てたかと思うと、指の先を合わせてシノン地方で牝鶏の尻と呼んでいる形を作り、爪と爪とをこつこつと四度打ち合わせた。それから、さっと両手を離し、片ほうの掌を、もう一方でぴしゃりと打った。更に再び、前と同じように両手を触れ合わせ、二回に亙って爪を打ちつけ、手を離しながら改めて四度掌を叩いた。それから、また元通りに手を近づけ、恭々しく神に祈念するかのように、両手を伸ばして、これをぴたりと合わせた。
 パニュルジュは、突然右手を宙に挙げ、その親指を右の鼻の孔に突っこみ、残りの四本指を伸ばして鼻の先へ大きいほうから順々に平行に揃え、左の目をぴったり閉じたまま、右の眉と眼蓋[まぶた]とをぐっと引きさげるようにして流眄[ながしめ]を送った。それから、左手をぐんと突き出し、その親指を立てたまま、残りの四本指をぎゅっと揃えて伸ばしたが、右手の位置の真前にこの左手を突き出し、両者の間には、一肘尺半ほどの隔たりを置いた。それから、両手をそのままの形で下へ垂らし、最後に、まるでイギリス人の鼻を真正面から狙いでもするような風に、両手を正眼に構えた。》第20章 pp150-1

 説明はない。ごくたまに発される、掛け声のような短い言葉をはさみながら、身振りによる討論合戦は6ページほど続き、両者の一挙手一投足が正確に丁寧に、じつに細かく描かれるが、一切の説明は省かれている。当人たちには何らかの意図がはっきりあってやっている動作なのに、余人にはまったく意味が伝わらない。ナンセンスな光景だ。
 こうなると、ただ読むしかない。2人が言葉を使わないせいで、かえって、文章(言葉)による記述なるものが生のかたちであらわになっているように見えなくもない。しかし読んでいる私にとって、ナンセンスは「面白がる」のと同じか、それ以上に「耐える」ものでもある。作中、どういうわけだかわからないまま、徐々にパニュルジュが優勢になっていき、押される格好の豪井物成[トーマスト]は、たまらず盛大な放屁と共にお漏らしをして、その悪臭で観客の顔をしかめさせる。例によって汚いギャグなわけだが、不思議と私はこの学者に同情した。
《これに対してパニュルジュは、総飾りつきの長い股袋[ブラゲット]を引っ張りあげ、一肘尺半もこれを引き延ばし、左手で宙に支えながら、なかへ入れてきたオレンジを右手で取り出した。そして、これを七度に亙って空へ放りあげ、八回目に右手で握り締め、じっとこれを捧げ持った。それから、その見事な股袋を豪井物成[トーマスト]に見せながら、これをぶらぶらゆすり始めた。》p154

「股袋」についてはこちら(→その7)。この身振りも意味不明ながら、何か腹立たしい気持になるのはまちがっていないと思う。
 討論はもう少し続いて、それから唐突にパニュルジュの勝ちになる。パニュルジュは勝利のガッツポーズならぬ、勝利のアッカンベーを決める。なんだこの試合。
 豪井物成[トーマスト]は潔く負けを認め、お漏らししてから着替えた描写はないものの、パニュルジュとパンタグリュエルをほめたたえて去る。いや、去る前に、この男はパンタグリュエルから誘われて、おおいに酒を呑み交わしたんだそうである。

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2007/10/10

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その58


[前回…]

 テレビ雑誌「TV Bros.」(9/29-10/12号)に小さく掲載されていた、
動くリア・ディゾンがグラビアより10倍老けてるのはなぜですか?
                     (東京都西東京市・悪い魔女?)

 という投稿があたまから離れない。

 猛勉強で智識を詰め込んだパンタグリュエルは、多くの学生、先生、弁論家を打ち負かし、ソルボンヌ大学のあらゆる神学者に論争を挑んで降参させてきた。おかげでその名は高まり、噂が噂を呼んで、ついにははるばるイギリスから大学者がやって来た。名を豪井物成[トーマスト]という。たぶん漢字は“すごいものなり”と読めばいいんだと思われる。
 この学者はパンタグリュエルと対面し、哲学から降魔術、錬金術、カバラについてまで議論を尽くすべく、公開討論を申し込む。その口調は極めて真面目で礼儀正しいのだが、言ってることは変だった。
《しかしながら、いかようなる法式を以って討論いたしたきかは、次の通りでござる。
[…]言葉を発することなく、ただ単に身振りのみにて討論したい。何となれば、論題となれることは、極めて嶮難なるが故に、人語を以ってしては思うがままにこれを解明するには不十分がためでござる。》第18章 p144

 一方のパンタグリュエルも、謹んでこれを受ける。
《[…]申し出されたる討議法、即ち、言葉を発することなく、身振りを以ってする方法には、大いに賛成いたしまする。何となれば、かようにいたせば、卿も拙者も意志流通いたしますし、その上、弁論が最高潮に達しましたる折に、かの阿呆なる詭弁学者どもが打ち鳴らす拍手喝采をも免れることができましょうから。》p145

 公開討論は翌朝7時、ナヴァール学寮の大広間で行なうことに決められて、各々いったん宿に戻るわけだが、眠れないほど興奮し、精神が昂揚していたのは豪井物成[トーマスト]のほうだけではなかった。文字通りの巨人・パンタグリュエルも、柄にもなく緊張し、じっと書物をめくって瞑想にふけるのだった。
 が、そこにまたパニュルジュが顔を出す。この男は主人のパンタグリュエルに酒を勧め(「先ず第一に二十五杯か三十杯くらい、たっぷりお酒を召しあがってから、お床にお就きになり、楽々とお眠りになることですなあ」)、そればかりか、明日の朝は自分が豪井物成[トーマスト]の相手をすると申し出る。
 家来のくせにずいぶん活躍の場が用意されていて、『パンタグリュエル物語』はここのところ、「パニュルジュ物語」の色合いが濃くなってきた。『第一之書 ガルガンチュワ物語』でも、中盤以降、ジャン修道士という登場人物がガルガンチュワを喰ってしまうほど大暴れしていたのを思い出した。

 で、翌朝が来る。一晩飲み明かしていたパニュルジュは、もちろん徹夜で会場に向かう。まわりはすでに聴衆で一杯である。わざわざこのためだけにイギリスから海を渡ってきた豪井物成[トーマスト]は言う。
《[…]議論のための議論は、愚生の望むところではござらぬ。その上に、かくのごとき行ないは卑賤極まりなきもの故、そこに控え申す極道者の詭弁学者ども[詭弁学者やソルボンヌ野郎やソルボンヌ下郎やソルボンヌ白痴やソルボンヌ阿呆やソルボンヌぼけやソルボンヌとんちきやボンソル野郎やヌンボル野郎やボルヌン野郎ども]にお任せあってしかるべく、これらの者どもは、討論をいたしても真理を求めず、むしろ強いて異説を樹てるをこととし、喧嘩口論をのみ求め居るのでござるからな。》pp149-50

 パンタグリュエル+パニュルジュのたたかう相手がこの豪井物成[トーマスト]であり、豪井物成[トーマスト]のたたかう相手がパンタグリュエル+パニュルジュであるのとはまた別に、作者ラブレーのたたかう相手はほかにいたようである。「ソルボンヌとんちき→ボンソル野郎→ヌンボル野郎→ボルヌン野郎ども」という展開はなかなかすごいと思う。
 そして珍妙な討論がはじまる。

2007/10/08

内田樹『村上春樹にご用心』(2007)

村上春樹にご用心
アルテスパブリッシング


 内田樹がだいぶ前から予告していた、村上春樹論。
 私は、「若島正がほめていた」という、ただそれだけの理由で『「おじさん」的思考』を読んだ人間なのだが、ほんとにおどろいたのは、続刊『期間限定の思想』に収録の、村上春樹について書かれた文章にぶつかったときだった。
 村上春樹の小説には、毎回、謎めいた人物が現れ、謎めいたメッセージを残して去る。それらのメッセージは、何を意味するのか。その謎を解こうとする文章はずいぶん読んだ気がするが、内田樹の見ているレベルは、ほかの誰ともちがっていた。この人は、「それらのメッセージは無意味である」ときっぱり断言したのである。それから「無意味なものには意味がない」、と念を押したうえで、無意味なメッセージを持ち込むことにより村上作品が繰り返し語っているのは――と結論まで一息で言いきってみせるやり方は、この人自身がよく言うところの、「問いの次数をひとつ上げる」手法を鮮やかに実演したものだった。

 そんな人の手になる1冊ぶんの論集では、いったいどれくらいの未知なる洞察が詰め込まれているのか。そう期待してページをめくったところ、これは今までブログその他で書いてきた、村上春樹に関する文章をまとめた本だとわかり、いったん拍子抜けした。たしかに、書き下ろしができるほど時間に余裕のある人ではないのだろう。
 が、気を取り直して読みはじめてみれば、いちど読んで面白かったものは2度読んでも面白いので(上で紹介した文章も再録されている)、これはやっぱり面白い。

 村上春樹が「世界中で読まれている」というのは事実である。しかし、「ではなぜ、世界中で読まれているのか」を考えた人は、専業批評家のなかにはほとんどいない。全然いない、という気さえする。それではファンを代表して私がその問いに答えてみよう――
 これが内田樹のスタンスであり、すべての文章は、“村上春樹を全的に称揚する”ために書かれている。そこで俎上にあがる村上作品は、たしかに私が読んだのと同じものなのに、展開される考察はぜんぜん思いもよらなかった筋道をたどり、そのくせ、読後には「自分もそんなことを考えていたのかもしれない」と錯覚までさせてくれる。
 たとえば『羊をめぐる冒険』の冒頭、「ドアーズとストーンズとバーズとディープ・パープルとムーディーブルース」といった固有名詞が列挙されるくだりを取り上げて、内田樹は鼻息も荒く、これらのバンド名の配列がこの順番でなければならない理由、ほかの並べ方はありえない理由を述べたてる。でもそれが通じる相手って、と私が思った瞬間、次の行はこう続く。
《つまり、ここで村上春樹が行なっているのは、「同世代記憶の確認」ではない。
 だって、同世代記憶の確認作業をして、同世代だけをスクリーニングしたら、村上春樹と同世代ではないすべての読者はそこから排除されてしまうからである。世界文学をめざず作家がそのような排他的な書き方をするはずがない。
 そうではなくて、ここで行なわれているのは「同世代的記憶を確認するふりをすることで模造記憶を共有するという、僕たちみんなが、時代も国境も越えて、世界じゅうどこでもやっている、共同体構築のためのあのひたむきな努力に僕は一票を投じるけれど、君はどうする?」というコールサインなのである。》p89 太字にしたのは引用者

 私は爆笑した。そして素晴らしいと思った。向こうの繰り出すレトリックにからめとられ、言葉巧みに説得されていく快感(まちがいなくそこに快感はある)を存分に堪能した。「説得されていく」が傍から見れば「騙されていく」であっても、当人(私)の気持よさは変わらない。
 いま引用した文章は、タイトルを「太宰治と村上春樹」といって、この2人の書きものから“文章の倍音”なる概念を引き出して論じている。それによって、村上春樹および太宰治の読者には、どうして「自分こそがいちばんの愛読者」と信じるフォロワーが多いのかという、私も以前から不思議に思っていた疑問に回答をもらえたように感じた。これはおそらく、内田樹も「自分こそが」と考えているからできる分析だと思う。

 もうひとつ格別に面白く読めたものとして、「『激しく欠けているもの』について」という論考がある。そこで内田樹は、『羊をめぐる冒険』発表の直後(25年前!)に書かれた加藤典洋の評論を詳しく点検し、この長篇の特質に対してなされた加藤による指摘の特質を指摘していくという、一見、ひどくまわりくどい方法でもって、今日の村上春樹がかちえた人気を説明するための最短ルートを示している。最後の一段落には、爆笑ではなく、鳥肌が立った。

 一本の大論文ではない功徳として、内田樹が村上作品に見ている大テーマは、時には軽い口調で、時には思わせぶりに、何度も繰り返して語られる。この人にとっては前提で、私には意外だったのは、数ある村上作品を総体として取り扱い、「ひとつの宇宙論」として読んでいく受け取り方である。
 そのような高みに立てば、たとえば私の、「単体として読んだとき、『海辺のカフカ』や『アフターダーク』は面白い小説なんだろうか」という声は届かなくなってしまう。私はまだそこまで達観できないけれども、本書『村上春樹にご用心』は、偏愛に駆動されたときに人の批評能力は最も冴えるのじゃないかと思わせてくれる、ありがたい本だった。ピース。
2007/10/04

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その57


[前回…]

 先週の話。今月の後半に、青山ブックセンターで「内田樹+柴田元幸」トークショーがあるというお知らせに気づく。3人分くらい席を予約しておいて、だれか誘おうかなあと思いながら電話してみると「もう満員なんです」。その時点で告知から2日。ああ、人気者め!人気者め!人気者め!
 だれか3人分くらい予約してないですか。

 パンタグリュエルはパニュルジュと行動をともにするようになる。
 といってもまずは馬鹿話、次も馬鹿話、と続くのだけれども、基本、すべてが下ネタなので、なんだか読んでるうちに体力が奪われ、逐一まとめる余力がない。あんまりあけっぴろげにやるよりも、いくらか内にこもった方が下ネタは先鋭化するのではないかと思うのだが(先鋭化させてどうする、というのは別問題)、パンタグリュエルもパニュルジュもそういう配慮とは無縁であって、むしろどれだけ配慮しないかを誇っているようでもある。かくして、虎に遭遇してびっくり仰天、ひっくり返った拍子に着物がすっかりめくれあがってしまった老婆を題材に、この世の終りのような下ネタが繰りひろげられたりするのだった。触れるものをみんな黄金にしたミダス王のように、第15章のあたりでパニュルジュの口からぽんぽん飛び出る見慣れない言葉は、巻末の訳註にあたると、ことごとく「男根」「女陰」の意味だと知れる。とんだミダス王である。
 ちなみにパニュルジュは「金欠病」に罹っている、とも紹介されており、訳註によれば
《単に「金がない」ことばかりでなく、治療費がかさむ梅毒を指すものか?》p297

 この《?》が私は好きだ。
 そんな下ネタのなかに、珍しい人物が顔を出す。第17章の最初である。
《或る日のこと、私はパニュルジュが何となくしょげかえり、黙りこくっているのを見て、これはてっきりお銭[あし]がなくなったのだなと思い、こう言った。[…]》p134

「私」が出てくるのは、巻頭「作者の序詞」と、第1章のあたま以来のことだと思う。すっかり忘れていたけどこの本は、パンタグリュエルの家来が書いた、ということになっているのだった。ここにも註がついているのでめくってみると、訳者もひとこと、
《思いがけない時に、作者が登場する。》p301

 とだけ書いて投げ出しているので笑った。それは見ればわかります。

 ところで、これはいついつの時代の話であるよ、ということをあらわすための、もっともてっとりばやい方法は、作中に固有名詞を導入することである。とくに同時代であることの強調としては、実在の人名や商品名が欠かせない。つまりは時代の刻印なので、ちょっと時が経つとそこから古くなっていくことにもなりかねず、だれか作家が「自分の小説で初めて“ドトール”と書くときは緊張した」といっているのを見たおぼえがある。
 考えてみたら、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」にもそういった固有名詞、すなわち時代のイコンが目白押しだった。たとえばいま、「私」が出てきた第17章で描かれるのは、この語り手とパニュルジュの2人が雑談しながらノートルダム大聖堂へ贖宥符(免罪符)を買いに行く話である。贖宥符。まさに時代を映す商品名と言えるだろう。というか、それが時代そのものだ。なんとなく、カトリック。
indulgentia

 なお、パニュルジュの真の目的は、何軒もの教会で供養金の受皿に寄付をすると見せかけてお金を掠め取ることだった。そして、自分は金が出ていくのも早いが入ってくるのも早い、と得意顔なのである。

 ふと思った。今日、「といってもまずは馬鹿話、次も馬鹿話、と続くのだけれども、基本、すべてが下ネタなので、」と書きはじめたが、これって「ガルガンチュワとパンタグリュエル」ほぼ全体のことである。