趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その53

[前回…]

 前回のパンタグリュエル誕生シーンでは、難産のために死んでしまった母バドベックを「それはさて置き」で片付ける語り手に感じ入ったのだったが、続く第3章では、父ガルガンチュワが「びっくり仰天し当惑し」ている。
《その理由は、一ぽうでは妃のバドベックが死んでしまったし、他ほうでは実に見事な逞しい息子のパンタグリュエルが生れたので、何と挨拶してよいものか、どうしたらよいものか判らなかったからであり、その心を紊[みだ]していた迷いは、妻の死を悲しんで泣くべきか、或いは、息子を得た欣びに笑うべきか判らないということだった。どちらの場合にも、立派に筋の通った理屈があったので、息も詰まるような苦しさだった[…]》p35

 で、結局、どちらの感情を優先したか。
《[…]おお神様、何をいたした罪科で、かような罰を下されました? なぜ妻よりも先に、このわしを死なせてはくださらなかった! 妻なくして生きることは、ただ悲しみ窶[やつ]れて行くだけでござりますからなあ。ああ、バドベック、いとしい奴よ、大事な奴よ、可愛いお万古よ、[…]二度と再びお前には会えんのじゃ! ああ可哀そうなパンタグリュエル、お前は、やさしい母親を、やさしい乳母を、大事な婦人をなくしてしもうたのだぞ!》

《――は、はあ、可愛い息子、(と言った、)わしのふぐり、わしの小ちゃな足、お前は実に可愛いぞよ。こんなに見事な、こんなにうれしげな、こんなににこにこした、こんなに可愛い息子をお授け賜った神様の御恩は、金輪際忘れられぬわい! わっは、は、は、やれ、うれしや! 酒を飲もうではないか! あっは、は、めそめそごとはすべてやめじゃ。極上のとって置きのを持ってまいれ。》

 どちらも表明したのである。正直な人だ。しかも、ふたつの感情がちゃんと対応していることから言って、几帳面な人でもある。

 たいへんな犠牲を払ってこの世に登場してきたパンタグリュエルは、毎食ごとに4600頭の牝牛の乳を飲み、隣国じゅうの鍋屋からかき集めた鍋で煮たお粥を石の樽に入れて喰らう。その樽さえ噛み砕いてしまう。
 ある時は、牝牛から乳を飲んでいる最中に、その「乳房の二つと腹の下半分を、肝臓腎臓もろともに、むしゃむしゃ食べてしまい」、まわりの者に牛から引き離されてもなお、手に残っていた脚膕[ひかがみ]を食べてしまう。牛にはなんとも気の毒な話だが、どこを食べられたかわからないまま読み過ごしてしまうといっそう気の毒なことになると思うので、ちょっと大きくしてみよう。

 脚膕[ひかがみ]

 辞書によると、「膝のうしろのくぼんでいる所。」だそうである。これだけでなく、きょう書いたぶんでは、「紊[みだ]して」「窶[やつ]れて」も、IMEの手描きパッドで探さないといけない漢字だった。せっかくなのでこういうのはちくちく単語登録しているが、いずれまた使う機会が1回でもあるとは思われない。それはいい。パンタグリュエルが牛の脚膕を食べた話だった。
《骨を取りあげようとすると、まるで鵜が小さな魚でも呑むように、つるりと嚥みこんでしまって、「うま! うま! うま!」と言い始めた。つまり、まだパンタグリュエルはよく口がきけなかったので、大変うまかったし、もっと食べたいということを判らせようとしたからである。》第4章 pp39-40

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その52

[前回…]

 前回の更新をしたあと、荷物をかかえ、帰省する電車の指定席にすべり込んだのが夜の7時過ぎで(自由席は地獄だったみたいである)、ゆるゆる走り出してから数十分後、前の席ではしゃいでいたカップルの女の子が「あ!あ!」と騒ぐので何かと思ったら、窓の外いっぱいに花火が打ち上げられているのが見えた。車内は騒然。ちょうど花火大会をしている川原にさしかかったところで、しばらく電車は速度を落として走る。
《ガルガンチュワは、その齢五百二十四歳に達した時、無可有郷[ユトピー]国不破見[アモロート]王の娘バドベックと名づける妃との間に、王子パンタグリュエルを儲けたが、妃は難産のために死んでしまった。それと申すのも、パンタグリュエルは、実に驚くほど体が大きく、また実に目方も重かったので、このように母親の息の根を止まらせずには、浮世の光を浴びるわけには行かなかったからだ。
 それはさて置き、洗礼の折に、この子供に与えられた名前の来歴由来を十分にお判りなさるためには、次の事実に御注意になってほしいものだというのは、[…]》第2章 p31

 主人公の誕生。太字にしたのは私である。そういえばガルガンチュワの母親もひどくあっさり死んだことになっていたのを思い出した(→その29)。ああ、でも先に書かれたのはこっちなんだっけ。
 ちょうどこの年は日照り続きで、雨が降らず、人も動物もからからに乾き切っていた。ガルガンチュワの息子が生れたのはそんなときだったので、父は“Panta(万物)”+“gruel(渇したり)”=パンタグリュエル、という名を与える。
 しかし、妃バドベックが産み落としたの彼だけではなかった。
《[…]産婆たちが受け取ろうと待ちかまえていると、腹のなかから、六十八人の騾馬輓きが、銘々塩を一杯に積んだ騾馬を一頭ずつ、その頭絡[おもがい]を引っぱりながら、まっ先に現れ出で、これに続いて、燻塩豚やら燻製の牛の舌やらを背に積んだ単峯駱駝[ひとこぶらくだ]が九頭と、塩漬鰻を積んだ双峯駱駝が七匹と、それからほろや韮や玉葱や小葱などを積みあげた荷車が二十五輌も出てきたのであり、産婆どもはびっくり仰天してしまったが、そのうちの何人かはこう言った。
 ――これで立派なお酒の肴ができましたね。だから今まで妾[わたし]たちも、ちびちび飲むばかりで、がぶのみはしなかったんですよ。》p34

 オーケー。そうだった。これはこういう話だった。ガルガンチュワの誕生もこんなだった。ひそかに「週1とか週2とか、ペースを決めて更新すべきじゃないだろうか」「でもそれが守れるだろうか」などと考えていた私が小さかった。いいかげんに続く。

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その51

[前回…]

 そもそもどうしてこの世に巨人族なるものが生れたのか。話はそこからはじめられなければならない。
 アベルが兄カインに殺されたあと、その血が吸い込まれた地面からさまざまな木々が生えた。なかでも、ある年、枇杷が大豊作になった。喜んでそれを食べた人たちは、それぞれ、身体のあちこちが大きくなる。ある者は腹が膨れ、またある者は肩が腫れて、足が伸びる者もあれば、当然、どことは言わないが「にょきにょきと長くなったり」した者もいる。その他の者は背丈が大きくなったのであり、そしてこの連中から巨人族が発生した。
 あとはよくある系譜である。
《まず初代開祖はシャルブロット、
 これがサラブロットを産み、
 それが更に、ファリブロットを産み、
 それが更に、肉汁麵麭が大好きな大食漢で、大洪水時代に世を治めたウルタリーを産み、
 それが更に、ネムロッドを産み、
 それが更に、崩れ落ちる天蓋を双の肩で支えたアトラスを産み、
 それが更に、ゴリヤテを産み、[…]

   [29人省略]

 それが更に、開闢以来初めて大眼鏡をかけて骰子遊びをしたモルガンテを産み、
 それが更に、それが更に、メルリヌス・コッカイウスに記し止められたフラカッススを産み、
 それからフェラグスが生れ、
 それが更に、蠅銜[アップ・ムウシュ]坊を産んだが、これは初めて煙出しで牛の舌を燻製にする術を発明した御仁だが、蓋しそれ以前にあっては、世人は塩豚を作るような工合にして牛の舌を塩漬にしていたものだった。[…]

   [16人省略]

 それが更に、アクルバックを産み、
 それが更に、麦粒茎[ヴイ・ド・グラン]坊を産み、
 それが更に、グラングゥジエを産み、
 それが更に、ガルガンチュワを産み、
 それが更に、我が主君の気高きパンタグリュエルを産んだしだいである。》第1章 pp25-9

 4人めのウルタリーは、ノアの方舟にまたがって大洪水を乗り切り、そればかりか、方舟を難破から救ったという。気宇壮大でよろしいと思う。と、ここで私は本を閉じ帰省するので、齢524歳を重ねたガルガンチュワの妃から王子パンタグリュエルが誕生する話は数日後にしたい。タイヤ、クギをふめり。

宮沢章夫『東京大学「ノイズ文化論」講義』(2007)
東京大学「ノイズ文化論」講義
白夜書房


『80年代地下文化論』に引き続き、東大駒場で行なわれた講義をまとめた本で、今度のテーマは「ノイズ」だった。

 さまざまな表現の分野で“異端”とされるものを「ノイズ」としてくくり、そのインパクトや可能性を考える、という本ならほかにもありそうな気がするが、宮沢章夫の視野はもっと大きくて、この講義では、おしなべて「きれい」「健康」の方向に進んでいくいまの世の中から「見たくない」「不快である」として排除されるものたちも、やはり「ノイズ」としておなじ線でつなぐのである。
 するとホームレスもピンクチラシもノイズということになり、一方、逆にノイズを極端に排除した、このうえなく清潔な空間として“ニュータウン”が浮かび上がる。
 もちろん宮沢章夫はニュータウンを否定したりしないが、何かが排除されているのなら、そこには、「見たくない」「不快である」ものを排除している何ものかがいるはずで、まちがいなく現実に存在している事物を「あるべきでない」と遠ざける側の姿こそよく見えない。
 だから(たぶん)宮沢章夫は、排除されるものの方を拾いあげるのに傾注する。その際に援用されるのが、音楽におけるノイズミュージックの思想だったりする。
 回収する先が「ノイズ」という、枠であって枠でないようなくくりなので、話はどんどん広がっていく。俎上にあがるのは、80年代のおたくだったり、隠れキリシタンの町だったり、ある種の映画や、写真、演劇、政治活動だったりと、多岐にわたる。
 実際にページをめくって読んでいたときよりも、いま、こう書いてきて思った。この本、無茶苦茶だ。とっちらかっている。しかし、枠から排除されたものがノイズなんだから、混沌は当然のことにも見えてくる。率直に言って、とても面白い。「後醍醐天皇」と「高円寺ニート組合」を結びつける本はなかなかないと思う。
 そして、「異質」「不合理」なものが排除される、という図式は、「少数であるがゆえに排除される」マイノリティの問題に行きつく。たとえば障碍者。在日外国人。被差別部落。性的な少数者。
《「排除」っていうのは、「それをないものとして考える」ということでしょ。「差別」は逆に、「それをあるものとして排除する」になる。どちらにしても、やっぱり、「『多様性』というものを無化しようとする」ってことです。》pp276-7

 だれだって、「少数者を排除してよいか」「多様性は悪いことか」と訊かれたら「ノー」と答えるだろう。でも、これが「自分の家の隣に○○○がいたら/あったら」(「○○○」には任意の「不快なもの」を入れる)になると、具体的になった分だけ、話はむずかしくなる。そして現実は、いつも具体的な問題の塊である。
 ノイズという鍵言葉であちこちに線を引きながら、宮沢章夫は相当微妙な話題にも踏み込んでいくのであり、それでも、この人の語り口を面白がって読んでいられるのは、なによりも、「マイノリティを擁護する」と言うのとおなじ立ち位置から自分の寝癖を擁護したりする、この人自身が面白がってこの講義を進めている姿がたえず前面に出ているからだと思う。これは逆説ではなくそう思う。
 現代の「ノイズ」として、アルバイトやフリーターなどの非正規雇用者を取りあげるくだりでとくに焦点化されるのは、自身の関わる演劇活動と密接につながるこういう部分だった。
《周囲にいる俳優になろうとしている者――劇作家や演出家もそうですが、ふだんアルバイトで生活しているものがほとんどです。この構造をどう考えたらいいか、ってことです。
 考えはじめると、いま舞台をやっていることの意味がよくわからなくなる。「俳優として成功したいという欲望」がある。それをうまく利用しているからこそ、小劇場演劇はかろうじて成立しているのではないか。という疑問が生まれないではない。
[…]「簡単に手に入れられる労働力を、いかにそういう欲望に絡めて奪い取るか」という「おぞましい資本の制度」――つまりそれが「〈クリエイティヴ〉というイデオロギー」ですが、演劇はそのことに荷担していないかという疑問にもなる。》

 で、どうやってこの状況の裏をかくべきかという、この直後がやはり真骨頂だと思う。
《「裏をかこうとする試み」のために、いまやっておくべきことはなにか、もっと考える必要があるでしょう。それはたとえば……ひどく乱暴な言い方をするなら、「俳優として成功しない」……あるいは「俳優として失敗する」(笑)》p309

 ゲストとして教室に呼んだ、まったく重なるところのない岡田斗司夫から話を聞く回とか、ほかにも引用したい箇所はたくさんあり、随所で言及されるかずかずの本にも手を出したくなった。
 そして、「マイノリティ」「多様性」という言葉から自動的に思い出されるのは、(またしても)トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』(1966)だった。『ノイズ文化論』のなかではいちど名前が触れられるだけだが(221ページ)、この作家も、いつも「選ばれたもの/打ち捨てられたもの」の後者に入れ込んだ作品を書いてきた、ということになっており、まちがいなくノイズ擁護の人である。
 60年代のアメリカ西海岸を舞台にする『競売ナンバー49の叫び』で、平凡な主婦だったはずの主人公がひょんなことから「発見」するのは、社会が整備されていく過程で外へ排除されたものたちをつなぐネットワークだった。
 正確には、主人公は「ネットワークを発見した」のではなく、「そんなネットワークがありうるという可能性を発見した」に留まるのだけど、結局のところ彼女の幻視するビジョンがすべてを(彼女自身をも含めたすべてを)もっていくようにこの小説は書かれており、あとはもう引用する。ながながと引用する。
《[…]ここには数知れぬ市民がみずからの意志で米国郵便を使って通信しないことを選択しているからである。これは憲法違反の、国家に対する反逆の行為ではない。挑戦でもないだろう。計画的な後退である。アメリカという共和国の生活からの、その機構からの後退である。憎しみから、彼らの投票権に無関心であることから、法の抜け穴を利用することから、あるいは単なる無知から、彼らに与えられていないものがほかにどれほどあろうとも、この後退だけは彼らじしんのもの、公にされることのない、私的なものである。彼らが真空の中へ後退してしまっているなどということはあり得ないのだから(あり得るのだろうか?)、別個の、沈黙の、思いも寄らない世界が存在しないはずはない。》p154

《じっさい、あなたはLSDやそのほかのインドール・アルカロイド類の助けも借りずにさまよいこんだ――秘密の豊かさ、隠れた濃さをもつ夢の世界に――未知数のアメリカ人が、自分の嘘や決まり文句の復唱や精神的貧困の不毛な露呈などは公的な政府郵便配達組織にまかせて、真のコミュニケーションをおこなう連絡網のなかに――もしかすると、出口のなさ、人生に対する意外性の欠如(これがあなたの知っているアメリカ人ことごとくの頭を苦しめているのよ、あなただってそうなのよ)に真に代るものの中に。》p213

《彼女はいま思い出す――古いプルマン式一等客車が何台か、資金が底をついたか、客が消えたかして放り出され、緑の農地の平たい中にあって、洗濯物が干され、煙が継ぎ煙突からのろのろ立ちあがっていたのを。あの客車に無断で住んでいた連中も、トライステロを通して、ほかのひとたちと連絡を取り合い、三百年にわたるトライステロ一族の廃嫡状態を押し進める一助となっていたのか?[…]ほかの、固定した貨車のようすを思い出す――子どもたちが床板の上に座って、まるまる肥えて楽しそうに、母親の小型ラジオから流れてくる曲に合わせて歌っていた。また、ほかの無断の住人たちのこと――あらゆるハイウェイに沿ってほほえみかけている広告板の背後に帆布を張って片掛け小屋を作ったり、自動車廃棄場の壊れたプリマスなんかの何もかも剥ぎ取られた車体の中に寝ていたり、大胆に、電柱の上に架線工夫のテントを張って芋虫のように夜を過ごし、蜘蛛の巣のような電話線のあいだに揺られ、コミュニケーションの銅製索具、コミュニケーションの奇跡そのものの中に暮らし、夜もすがら電話線を何マイルとなく点滅して走る沈黙の電圧が何千という耳に聞こえぬメッセージとなっているのにわずらわされもしない。エディパは浮浪者に耳傾けたことを思い出す――アメリカ人たちがアメリカの国語をしゃべっていたのだ、注意深く、学者のように、まるでどこか目に見えない場所、にもかかわらず彼女の住む陽気な国とつながっているところから追放されて来ているみたいにしゃべっていた。また、夜の道路を歩いているひとびと、こちらの車のヘッドライトにグーッと浮きあがりサーッと消えて、顔をあげることもせず、どの町からも遠いところで、ほんとうに目的地があるとは思えないようなひとたち。それから声たち、あの死んだ男のまえに、またあとに、もっとも暗く、もっとも進行の遅い時間帯に無作為に電話した声たち、ダイヤル数字の一千万もの組み合わせの中を休むことなく探し、あの魔法の〈他者〉を見つけようとする――〈他者〉は継電器のうなり、侮蔑、汚辱、幻想、愛などの単調な連禱中から立ち現れるというのだ。この連禱の狂暴に繰り返されているうちに、いつしか生じるのが、名づけることのできない行為、認識、〈御言葉〉の引き金。》pp224-6

 この小説の舞台が、架空のサン・ナルシソ市という、どこにでもありそうな場所として設定されていたのは、主人公の「発見」をアメリカ全土に拡大適用できるものとするためだった。サン・ナルシソ市は、ピンチョンのニュータウンだったのだな。

 あと最後に、ふたつ。
 まず、『ノイズ文化論』のなかで紹介されていた、YouTubeの動画。警察に囲まれながら3人でデモをする様子を記録したもの(→WE ARE THE THREE (ONLY!))。
 「人は、どんな理由でも怒られることができるものだ」と思った。
 それと、宮沢章夫のサイト「富士日記2」から、7月11日の記述。
白夜書房の企画会議のとき、この「ノイズ文化論」について議題に上げられたという。「いったいノイズってなんだ?」という話になったらしい。そこで、おそらくE君が説明したんだと思うけれど、それを聞いて、白夜の人たちは、「ああ、俺たちのことか」と納得したという。なんだかいい話である。》
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その50

[前回…]

 はじまりはじまり、とか言ったとたんに部屋のエアコンが動かなくなった。
 そんなのぜんぜんたいしたことではない、と自分に言い聞かせ、がんばって眠るが、不安な夢から目を覚ましたところ、途方もなく首を寝違えているのに気がついた。運転モードを「暖房」にすると動き出す。暑中お見舞い申しあげます。

 それで『パンタグリュエル物語』、「作者の序詞」であるが、ここでは、作者不詳の大ヒット作『ガルガンチュワ大年代記』をほめたたえるところからはじまり、世人はみんなこの物語を暗誦できるようになるまで読むべきで、なんとなれば、ガルガンチュワのことを思い出せば、狩に失敗した殿様も気が紛れ、歯痛に苦しむ御仁にも効果覿面、よい薬になるからだと弁じたてる。であれば冷房がないなど何ほどのものでもない。
《その証拠には、二カ月間にこの物語が出版元から売り捌かれてしまった部数のほうが、九カ年かかって聖書が買われる部数よりも、はるかに多かったからである。》p18

 そこで語り手は、さらに1冊、「パンタグリュエル王の畏怖すべき言行武勲の物語」を提供しよう、といって先行作と自作をつなげていくのだが、自分はユダヤ人ではないから嘘や出鱈目など申しません、と念を押し、これを信じない輩は劫火に焼かれ、癲癇と脱疽と赤痢と性病に苦しみ、それから硫黄と火焔になって奈落に堕ちるがよい、とおっしゃる。なにしろこの人、《私は小姓の年齢を過ぎてから今日にいたるまで、この王にお仕えして禄を賜っていた》というのだから、これからはじまる物語の信憑性には疑いをさしはさむ余地もないはずで、こちらの期待も高まろうというものである。

 そしてはじまる「第一章」、きっとスケールの大きいものになるだろうお話の幕開けとして、こんな切り出し方はたしかに理想的だった。
《目下我々は閑暇[ひま]であるから、善良なパンタグリュエルが、その元を探ねれば、いかなる血筋家柄から生れきたったかを、皆様に思い出していただくことも無益無用のことではあるまい。》p21

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる その49

[前回…]
  [*JESUS・MARIA]
  *  さ ち  あ れ か し
  [ ΑΓΑΘΗ ΤγΧΗ]
 万有*第五元素抽出者*故アルコフリバス師の作にかかり
 [*神学博士*ジャン・リュネル師によって、新たに増補改訂された]
  *その本来の面目に還されたる
* ディプソード
乾喉人国王*パンタグリュエル物語
      及びその驚倒すべき言行武勲録

 フランソワ・ラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる日記。
 前回、さらには前々回からずいぶんあいだが開いたが、今日のはその49回めの更新で、49という数字にはなにか心が騒ぐ。そんなことはいい。『第二之書 パンタグリュエル物語』に入る。読むのに使っているのは岩波文庫の渡辺一夫訳です。

『第一之書 ガルガンチュワ物語』と同様に、この巻も、開くとまず、上に写したようなページになっている(→第1巻の場合)。目次をめくり、変な推薦の辞をめくると、「作者の序詞」が現れる。じつは第2巻のはじまりこそが、ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル」のほんとうのはじまりであるらしい。
《世にも高名なる雄武無双の戦士[もののふ]よ、心様優れたる殿原よ、また、この世のありとあらゆる楽しいこと良いことに進んで尽される方々よ、各々方は、つい先ほど、『魁偉極まる巨人ガルガンチュワの無双の大年代記』を御覧になり、お読みになり、それがいかなる書物だかがお判りになっているわけだ。》p15

 本文に入る前に、せっかくなので、文庫巻末の訳者註および「解説」に書いてあることをまとめてみる。
 まず、もともと“ガルガンチュワ”と“パンタグリュエル”は、それぞれ別の民間伝説に登場する小鬼・悪魔の類だった。1532年ころ、その片方を集大成した『ガルガンチュワ大年代記』という本が出回り評判になった(作者不詳)。これが上の引用中の『魁偉極まる巨人ガルガンチュワの無双の大年代記』のこと。それを読んだラブレーは、もう片方の伝説をもとにして、パンタグリュエルを主人公に据えつつ、しかも彼がガルガンチュワの息子であるという設定を施した本を書く。それがこの『第二之書 パンタグリュエル物語』(1532)。『第二之書』が受けたので、ラブレーはさかのぼって『第一之書』を書き、発表した(1534)。それが、私が47回かけて読んだ『ガルガンチュワ物語』である。
 父の話の第1巻、次に息子の第2巻、というのが岩波文庫の順番だけれども(ふつうそうなる)、実際には息子の方が先に生まれていたのであり、上述のように、この父子関係じたいがラブレーの発明なのだった(私が「その3」で書いたことは、少しまちがっている)。
 ずいぶん人を食った話だが、意図的にややこしくされている成立事情にしてからが、本文の外にありながら、この荒唐無稽な馬鹿話の内に組み込まれているみたいで、いかにもふさわしい気がする。『第一之書』のガルガンチュワ誕生シーンを思い出した(→「その5」)。

 つまりこういうことだった――これから読む『パンタグリュエル物語』が、正真正銘、ラブレーの処女作なのである。あらためて、だらだら読もうとの意を強くした。はじまりはじまり。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。