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7月のもろもろ
 世にあるアイスクリームのすべては「パナップ(グレープ味)」と「それ以外」に分けられると思って生きてきた私だが、6月の終わり頃からこっち、近くのセブンイレブンでもファミリーマートでもam/pmでも西友でもヤマザキデイリーストアでも、パナップを発見できないでいる。
 こんなことがあってよいのか。というか、何があったんだ。うちの近所だけで起こっている局地的な現象だと思いたい。冷凍庫に入っている最後の1個に手がつけられないでいる。いや最後とか言ってはいけない。
panapp


「感じる専門家 採用試験」も収録した、川上未映子の単行本があっさり出版されているので拍子抜ける。『わたくし率イン歯ー、または世界』(講談社)

岸本佐知子『ねにもつタイプ』講談社エッセイ賞受賞記念、筑摩書房の特設ページ。
  →「みんなの名前」

「Pulp Literature」で紹介されていた、“ヘミングウェイそっくりさんコンテスト”。
 なんだその写真。

「SFマガジン」9月号を買う。〈カート・ヴォネガット追悼特集〉。前に買ったのは〈スタニスワフ・レム追悼特集〉のときだったので(2006年8月号)、なんだか縁起の悪い雑誌みたいだ。
 どう考えても巽孝之より太田光の方がまともだと思った。

殊能将之の日記からメモ。
《おすぎがデイヴィッド・リンチ監督「インランド・エンパイア」(2007)をぼろくそにけなしていたよ(「とくダネ」7/27放送)。確か「週刊文春」でも酷評してたなあ。

 見終わった観客が「いままでで最もわからなかった」「心して見たけれどそれでもわからなかった」と言っていたのが印象的だった。
 リンチの映画だからわかるわけがない。ところが、わかろうとしないと楽しめないのである。ウルフやプリーストの小説もそうだが、理解しようとするからこそ幻想が生まれる。「考えるな!感じろ!」という態度ではだめで、「考えるからこそ感じる」わけだ。》

《観客や読者に考えさせるためには、「よく考えればわかるかもしれない」と思わせなければならない。
 ウルフやプリーストのとる戦略は、ある程度まで謎解きが可能なように構成しつつも、どうしてもわからない部分を残すというものだ。牧眞司さんが「本の雑誌」で評していたように、「ジグソーパズルの最後の1ピースが入らない」という感覚をめざしている。きわめて理知的な方法論といえる。
 この点、リンチはもっと直感的に映画を撮っているように思える。町山智浩氏によると、リンチは瞑想からアイディアを得ているという。したがって、完成度や出来不出来の差が激しい。
「インランド・エンパイア」はどうかなあ……。一応見る予定ではあるが、大阪まで3時間の映画を見に行くほどの愛はなく、当分先になるでしょう。》

 その「インランド・エンパイア」、先週の日曜に見に行ったが、恵比寿ガーデンシネマのチケット売り場は何十メートルかの行列でとても入れそうになく、そのまま帰ってきた。「なんで単館上映なのか」とぼやくのは、「なんで『ケルベロス第五の首』がベストセラーにならないのか」とぼやくのと一緒なんでしょうか。単館で大行列、というのは誰にとっても不幸だと思った。
《大阪弁はいったい大阪以外の所で何を生むというのだろうか》

 サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した村上春樹は、この作家のほかの作品では、『ナイン・ストーリーズ』を訳したい、あと、『フラニーとゾーイー』を関西弁で訳したい、旨の発言をしている。たとえばこちら、白水社のサイトで読める柴田元幸との対談、最後のページのさらにいちばん最後。
(上の対談のロングバージョン、文春新書の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』だと、この話題は44ページに出てくる)

 関西生まれじゃない私には、言わんとするところがいまひとつよくわからなかったのだが、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)を読んでいたら、まさにその“関西弁バージョン”があり、「いまひとつよくわからない」状態から一撃で、なんだろう、崖から落ちるみたいに「よくわかった」、気がした。引用する。
《キュウリ、あんたもおなじように感じますか》
 いとうせいこうのブログというものがあり、そこではじめて川上未映子という人を知った。この記事。去年の冬か。
 件のフリーペーパー「WB」を置いている本屋は近所にあったので、さっそくその号(vol.07)をもらって来て「感じる専門家 採用試験」を読んでみたら、たしかに“なんだか面白い”。

 自分を〈主婦〉と規定する女性による、「存在」と「子を産むこと」についてのいきなりな独白ではじまるのだが、どうして自分がキュウリではなくキュウリは自分でないのかを真剣に考え詰めるほどテンションが高まっているので、語りの声はぜんぜん狭いところにまとまっていかず、痛くもならず(←重要)、変に元気なまま続いていく。わーっとした勢いが繊細に作られている、風通しのいい世界。思弁、というか言葉の暴走、ただし乗りものは自転車、みたいな。
 でもそれだけで終わったら、「それだけか」ということにもなるのだが、「感じる専門家」にはちゃんと、後半の逆襲があった。
 自称〈主婦〉は夕方のスーパーで〈妊婦〉に遭遇し、直接疑問をぶつけるのだけれども、〈妊婦〉からの返答も、〈主婦〉と同じ勢いで繰り出されてくるのである。
 思い込みによる独白が、作中でしっかり相対化されている、と言うんでもない気がした。どちらの喋りも過剰に観念的であり、だから出どころはたしかに一緒だと納得されるのに、それが欠点になっていない印象。こんな話(そもそもこれは話なのか)を書いてしまう人がいる、というのがなんだかうれしかった。

 で、この春、「早稲田文学」0号(復刊準備号)に川上未映子の新作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が載った。ほかの執筆者もすごいので買いにいった。
(「WB」を置いていた本屋でも「早稲田文学」は取り扱っておらず、結局、馬場の芳林堂まで行った。さすがに平積みになっていた。ほかの取扱店はこちら

 いよかんもデコポンも柑橘類という点では同じ、とするような大雑把な見方をすれば、「わたくし率 イン 歯ー、または世界」も、「感じる専門家 採用試験」と同じ構成になっている。わーっと独白をしている女性がいる。後半に逆襲がある。
「WB」(vol.07)とはちがって「早稲田文学」(0号)はまだ買えるはずだから、こちらの説明は省くが、独白に挟み込まれる日記(まだ生まれてこない自分の息子に宛てて書かれた日記)と、某有名小説の書き出しについての考察がたいそう面白かった。読点のテンポが気持いい。

 あとは引用。本人のサイトはこちら(→「川上未映子の純粋悲性批判」)。
目次を作ったよ

 すごいなあ、面白いなあ、とアルフレッド・ベスター『ゴーレム100』を読みながら、ここひと月のあいだ細々と作っていた、このブログの目次をアップしてみた。こちら。
 右側、カテゴリー欄の「★目次:」に追加。

 ここは一応、本についてのスペースのつもりなのだが、もともとの記事が多くないので、目次だけでも水増ししようと作家名のみならず訳者名でも項を立てたり、トークイベントや、文中で書名だけ触れた本まで拾ったり……とかしているうちにドツボにはまり、「どうして自分はこんなことを思い立ってしまったのか」「そもそもブログをやってる理由は何か」みたいな泥沼に踏み込みそうになったものの、その泥沼はひどく浅い(=記事が少ない)ので、無事、帰還できた。何が幸いするかわからない。
 いちばん多いのは「柴田元幸」か「宮沢章夫」に関するものだろうと予想していたが、自分でおぼえていた以上に青山ブックセンターに行っていたこともわかり、詰まるところ、中身が薄い。
 まあ、無い袖は振れない。それでもわざわざこんな真似をするのは紛れもない自己愛の発現で――と書いてみて、かえすがえすも「どうか」と思うのは、私にとって本を読むのは、なかんずく小説を読むのは、うるさい自分の声を黙らせてもらうためのはずなのに、何か書く段になるとまたぞろそれが回帰してくる問題で、2行上でもまた「私にとって」などと書いてしまったし、もういいから今はとりあえずベスターを読もう。
《「あたしはいったいどういう人間なのだろうか? そう、自分がどういう人間なのか意識しなくなったときが愛のはず。少なくとも、その問いには答えが出た」
 まとわりつくような冷気に全身をなでられた。「うわ! いきなり寒い。なにか着なくちゃ。それはまずいか、捜査員たちが来たときこの格好じゃないと、話に説得力がなくなるから」》
『ゴーレム100』(渡辺佐智江訳)p87

「うわ! いきなり寒い」。とことん素晴らしいと思う。
「ニュータウン入口」(プレビュー[2]準備公演 2007/07)
 7月1日の日曜日、宮沢章夫の遊園地再生事業団公演「ニュータウン入口」を見に行った。4月のリーディング公演に続く、2回目の準備公演。会場は前回と同じ森下スタジオ

 今度のはリーディングではないので、役者は台本を持たずに演技する。なら普通の演劇に近いものになるんだろうか、てか、おれが見に行こうとしているのはまぎれもない演劇じゃないかと思いつつ地下鉄の駅から会場まで歩いていったのは、リーディング公演の“台本を持った役者が、演技をしている”という状況が、それ自体でつくづく面白かったからで、あれもまた見てみたい。
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