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2007/07/28

7月のもろもろ

 世にあるアイスクリームのすべては「パナップ(グレープ味)」と「それ以外」に分けられると思って生きてきた私だが、6月の終わり頃からこっち、近くのセブンイレブンでもファミリーマートでもam/pmでも西友でもヤマザキデイリーストアでも、パナップを発見できないでいる。
 こんなことがあってよいのか。というか、何があったんだ。うちの近所だけで起こっている局地的な現象だと思いたい。冷凍庫に入っている最後の1個に手がつけられないでいる。いや最後とか言ってはいけない。
panapp


「感じる専門家 採用試験」も収録した、川上未映子の単行本があっさり出版されているので拍子抜ける。『わたくし率イン歯ー、または世界』(講談社)

岸本佐知子『ねにもつタイプ』講談社エッセイ賞受賞記念、筑摩書房の特設ページ。
  →「みんなの名前」

「Pulp Literature」で紹介されていた、“ヘミングウェイそっくりさんコンテスト”。
 なんだその写真。

「SFマガジン」9月号を買う。〈カート・ヴォネガット追悼特集〉。前に買ったのは〈スタニスワフ・レム追悼特集〉のときだったので(2006年8月号)、なんだか縁起の悪い雑誌みたいだ。
 どう考えても巽孝之より太田光の方がまともだと思った。

殊能将之の日記からメモ。
《おすぎがデイヴィッド・リンチ監督「インランド・エンパイア」(2007)をぼろくそにけなしていたよ(「とくダネ」7/27放送)。確か「週刊文春」でも酷評してたなあ。

 見終わった観客が「いままでで最もわからなかった」「心して見たけれどそれでもわからなかった」と言っていたのが印象的だった。
 リンチの映画だからわかるわけがない。ところが、わかろうとしないと楽しめないのである。ウルフやプリーストの小説もそうだが、理解しようとするからこそ幻想が生まれる。「考えるな!感じろ!」という態度ではだめで、「考えるからこそ感じる」わけだ。》

《観客や読者に考えさせるためには、「よく考えればわかるかもしれない」と思わせなければならない。
 ウルフやプリーストのとる戦略は、ある程度まで謎解きが可能なように構成しつつも、どうしてもわからない部分を残すというものだ。牧眞司さんが「本の雑誌」で評していたように、「ジグソーパズルの最後の1ピースが入らない」という感覚をめざしている。きわめて理知的な方法論といえる。
 この点、リンチはもっと直感的に映画を撮っているように思える。町山智浩氏によると、リンチは瞑想からアイディアを得ているという。したがって、完成度や出来不出来の差が激しい。
「インランド・エンパイア」はどうかなあ……。一応見る予定ではあるが、大阪まで3時間の映画を見に行くほどの愛はなく、当分先になるでしょう。》

 その「インランド・エンパイア」、先週の日曜に見に行ったが、恵比寿ガーデンシネマのチケット売り場は何十メートルかの行列でとても入れそうになく、そのまま帰ってきた。「なんで単館上映なのか」とぼやくのは、「なんで『ケルベロス第五の首』がベストセラーにならないのか」とぼやくのと一緒なんでしょうか。単館で大行列、というのは誰にとっても不幸だと思った。
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2007/07/19

《大阪弁はいったい大阪以外の所で何を生むというのだろうか》


 サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳した村上春樹は、この作家のほかの作品では、『ナイン・ストーリーズ』を訳したい、あと、『フラニーとゾーイー』を関西弁で訳したい、旨の発言をしている。たとえばこちら、白水社のサイトで読める柴田元幸との対談、最後のページのさらにいちばん最後。
(上の対談のロングバージョン、文春新書の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』だと、この話題は44ページに出てくる)

 関西生まれじゃない私には、言わんとするところがいまひとつよくわからなかったのだが、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎)を読んでいたら、まさにその“関西弁バージョン”があり、「いまひとつよくわからない」状態から一撃で、なんだろう、崖から落ちるみたいに「よくわかった」、気がした。引用する。
《 たとえばレストランでイライラしながらスノッブな彼氏に向かってフラニー、
「ちゃうねん。張り合うのが怖いんじゃなくて、その反対やねん、判らんかなあ。むしろ、張り合ってしまいそうなんが、怖いねん。それが演劇部辞めた理由やねん。私がすごくみんなに認めてもらいたがる人間で、誉めてもらうんが好きで、ちやほやされるのが好き、そんな人間やったとして、そやからって、それでいいってことにはならんやんか。そこが恥ずかしいねん。そこが厭やねん。完全な無名人になる覚悟がないのが自分で厭になったんよ。私も、ほかのみんなも、内心は何かでヒット飛ばしたいって思ってるやろ。そこがめっさ厭やねん」 

 例えば居間の床に寝転んで引き篭もりのフラニーに向かってゾーイー、
「そやけど俺の気に入らんのはな、こんなもんシーモアもバディも気に入るわけないけどな、さっきゆうてたやつらの話するときのお前の喋り方や。つまりな、あいつらが象徴してるもんを軽蔑するんやったら判るけど、お前はあいつらそのものまで軽蔑しとんのじゃ。個人的過ぎるんじゃ。フラニー、ほんまやで。たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか? あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとったら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。あんな、フラニーな、制度を相手に戦争でもおっぱじめたろかゆうんやったら、頭ええ女の子らしい鉄砲の撃ち方を、せえや。敵はそっちやろうが。あいつの髪の毛がどないしたとか、ネクタイがどうしたとか、んなもん関係ないやろうが」》pp198-201


『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』は、日記「純粋悲性批判」の抜粋編集版というかたちになっており、上の文章(「フラニーとゾーイーでんがな」)もウェブ上で読むことができる。これ(→2006.05.19)。
 って、いま見たら、日記で“関西弁バージョン”の前に付いているあれやこれやが、書籍版ではずいぶん変わっている。引用部分も細かく字句訂正がされていた。私が3ケ月かけてちびちび読んだ書籍版に入っている文章は、あまさずウェブでも読めるんだろうが、ウェブでしか読めないものもやっぱりあるんだろうか。てか、いまどき「ウェブ」って書き方もどうなのか。ひとまずこれだけ貼っておきたい。

 「黄金の雨の中おしっこを漏らす大人」(2006.06.19)

 後半、《とはゆうても戦いにはやっぱ男の父親が勝つわけであって、》からの話の戻り方に、それこそ、かの角材が描いた見事な弧を見るような気がして、ほかにそんなジャンルの文章を読んだおぼえは一切ないが、「自分はなにゆえジャッキー・チェンの映画が苦手か」を競うコンテストがあったら、川上未映子はそちらでも最終選考まで残るのじゃないかと思うのだった。



そら頭はでかいです、世界がすこんと入りますそら頭はでかいです、世界がすこんと入ります
(2006/11)
川上 未映子

商品詳細を見る


フラニーとゾーイー フラニーとゾーイー
サリンジャー、野崎 孝 他 (1976/04)
新潮社

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2007/07/16

《キュウリ、あんたもおなじように感じますか》

 いとうせいこうのブログというものがあり、そこではじめて川上未映子という人を知った。この記事。去年の冬か。
 件のフリーペーパー「WB」を置いている本屋は近所にあったので、さっそくその号(vol.07)をもらって来て「感じる専門家 採用試験」を読んでみたら、たしかに“なんだか面白い”。

 自分を〈主婦〉と規定する女性による、「存在」と「子を産むこと」についてのいきなりな独白ではじまるのだが、どうして自分がキュウリではなくキュウリは自分でないのかを真剣に考え詰めるほどテンションが高まっているので、語りの声はぜんぜん狭いところにまとまっていかず、痛くもならず(←重要)、変に元気なまま続いていく。わーっとした勢いが繊細に作られている、風通しのいい世界。思弁、というか言葉の暴走、ただし乗りものは自転車、みたいな。
 でもそれだけで終わったら、「それだけか」ということにもなるのだが、「感じる専門家」にはちゃんと、後半の逆襲があった。
 自称〈主婦〉は夕方のスーパーで〈妊婦〉に遭遇し、直接疑問をぶつけるのだけれども、〈妊婦〉からの返答も、〈主婦〉と同じ勢いで繰り出されてくるのである。
 思い込みによる独白が、作中でしっかり相対化されている、と言うんでもない気がした。どちらの喋りも過剰に観念的であり、だから出どころはたしかに一緒だと納得されるのに、それが欠点になっていない印象。こんな話(そもそもこれは話なのか)を書いてしまう人がいる、というのがなんだかうれしかった。

 で、この春、「早稲田文学」0号(復刊準備号)に川上未映子の新作「わたくし率 イン 歯ー、または世界」が載った。ほかの執筆者もすごいので買いにいった。
(「WB」を置いていた本屋でも「早稲田文学」は取り扱っておらず、結局、馬場の芳林堂まで行った。さすがに平積みになっていた。ほかの取扱店はこちら

 いよかんもデコポンも柑橘類という点では同じ、とするような大雑把な見方をすれば、「わたくし率 イン 歯ー、または世界」も、「感じる専門家 採用試験」と同じ構成になっている。わーっと独白をしている女性がいる。後半に逆襲がある。
「WB」(vol.07)とはちがって「早稲田文学」(0号)はまだ買えるはずだから、こちらの説明は省くが、独白に挟み込まれる日記(まだ生まれてこない自分の息子に宛てて書かれた日記)と、某有名小説の書き出しについての考察がたいそう面白かった。読点のテンポが気持いい。

 あとは引用。本人のサイトはこちら(→「川上未映子の純粋悲性批判」)。

「感じる専門家 採用試験」より
《主婦 […]わたしの子どもがほしいのです・たいがい人はそう云いますがあなたが生むのは他人です・わたしの・なんて・それは奇妙な思い上がりであなたはとんでもなく怖い・たいそれたことをしようとしているとそんな恐怖はないですか[…]あなたが生むのはなんですか・あなたが欲しいのはなんですか・それは正しいことですか・あなたの生むのはなんですか・〈どうして?〉と問い続けた精神が〈どうして?〉と問い出すであろう精神を・どうして生むことが出来るでしょう・どうして・どうして・どうして・どうして[…]あなたは何を生むのです・あなたは何を生むのです・子どものつもりであなたは世界を・あなたは世界をつくるのです・一度有ってしまえば二度とはなかったことには出来ない世界を・あなたは作ってしまうのですね・私はとても恐ろしい・私はすこぶる恐ろしい・無いところに有るを生む・私はとても恐ろしい・あなたが撫でてるその腹の・下には宇宙があるのです・あなたが撫でてるその腹の下には世界があるのです・世界は生まれたいとも云ってません[…]》

《妊婦 いややわなんなの・面倒臭い・この人何をゆうてるの・ゆうてる意味がわからへん・頭おかしいとちやうのん[…]そら生まれてくるのは人間やから・そういう意味では他人やけども・他人にも種類はあるでしょう・なんで・そんな・極端なん・[…]世界を生むやら・なかったことには出来ませんやら・あなたはなんでそんな上から目線でものが云えます・あたしは少々びっくりします・もしも世界があるとして・あるなら世界はひとつやし・それはあたしの世界です・あたしが責任持てるのは・あたしの世界ただいっこ・そしてあなたもあたしの世界を構成している単にひとつの要素でしかないように・生まれて来る来る子どもかて・あたしの世界に含まれますから・世界は増えたり減ったりしません・世界はいつもひとつです・何がそんなに意味めくの[…]》


「わたくし率 イン 歯ー、または世界」より
《お母さんは、中学生のときに、図書館で、青木と初めて喋りました。青木は、雪国、という昔の日本の小説の、〈国境の長いトンネルを抜けると雪国であった〉、という書き出しをお母さんに見せて、この文章の主語はなんだと思いますかと聞いたのです。これは、とても素敵な文章で、この文章だけは他の国の他の言葉にうまく訳せないのだと、青木は笑いながらいいました。この文章の主語は、トンネルをくぐってゆく列車でも主人公の島村という男でも、ないよ。青木はそう云いました。その話を聞いてから、お母さんはなんだかよくわからない、不思議というような気分になって、でもなにか、そこには、お母さんが知りたい秘密のようなものが、いつでもあるような気がしているのです。今でもずっとしているのです。ねえ、おまえの主語はなんですか? お母さんの主語は、こうして手紙を書いているたった今は、お母さん、でいられるのです。お母さん。お母さん。とても素敵。このたった今ならお母さんはお母さん以外ではないのだもの。
 今こうして、おまえに話しかけるというか、手紙を書こうとするとき、主語の秘密を思い出すのですよ、思い出す、そう、考えるのではなくて、思い出しているのです。》

 それでいま知りたいのは、この人の書くものを女の人はどう読むのか、ということだが、女の人を“女の人”とひとまとめにする大雑把さこそがいろんな悲劇喜劇のもとじゃないかという気がする。それは“柑橘類”という括りさえデリケートに見せるくらい無神経な真似のはずで、ええと、しかし言いたいのはそんなことではなくて。

 こういうものもあるらしい(→セット販売)。
2007/07/10

目次を作ったよ


 すごいなあ、面白いなあ、とアルフレッド・ベスター『ゴーレム100』を読みながら、ここひと月のあいだ細々と作っていた、このブログの目次をアップしてみた。こちら。
 右側、カテゴリー欄の「★目次:」に追加。

 ここは一応、本についてのスペースのつもりなのだが、もともとの記事が多くないので、目次だけでも水増ししようと作家名のみならず訳者名でも項を立てたり、トークイベントや、文中で書名だけ触れた本まで拾ったり……とかしているうちにドツボにはまり、「どうして自分はこんなことを思い立ってしまったのか」「そもそもブログをやってる理由は何か」みたいな泥沼に踏み込みそうになったものの、その泥沼はひどく浅い(=記事が少ない)ので、無事、帰還できた。何が幸いするかわからない。
 いちばん多いのは「柴田元幸」か「宮沢章夫」に関するものだろうと予想していたが、自分でおぼえていた以上に青山ブックセンターに行っていたこともわかり、詰まるところ、中身が薄い。
 まあ、無い袖は振れない。それでもわざわざこんな真似をするのは紛れもない自己愛の発現で――と書いてみて、かえすがえすも「どうか」と思うのは、私にとって本を読むのは、なかんずく小説を読むのは、うるさい自分の声を黙らせてもらうためのはずなのに、何か書く段になるとまたぞろそれが回帰してくる問題で、2行上でもまた「私にとって」などと書いてしまったし、もういいから今はとりあえずベスターを読もう。
《「あたしはいったいどういう人間なのだろうか? そう、自分がどういう人間なのか意識しなくなったときが愛のはず。少なくとも、その問いには答えが出た」
 まとわりつくような冷気に全身をなでられた。「うわ! いきなり寒い。なにか着なくちゃ。それはまずいか、捜査員たちが来たときこの格好じゃないと、話に説得力がなくなるから」》
『ゴーレム100』(渡辺佐智江訳)p87

「うわ! いきなり寒い」。とことん素晴らしいと思う。
2007/07/03

「ニュータウン入口」(プレビュー[2]準備公演 2007/07)

 7月1日の日曜日、宮沢章夫の遊園地再生事業団公演「ニュータウン入口」を見に行った。4月のリーディング公演に続く、2回目の準備公演。会場は前回と同じ森下スタジオ

 今度のはリーディングではないので、役者は台本を持たずに演技する。なら普通の演劇に近いものになるんだろうか、てか、おれが見に行こうとしているのはまぎれもない演劇じゃないかと思いつつ地下鉄の駅から会場まで歩いていったのは、リーディング公演の“台本を持った役者が、演技をしている”という状況が、それ自体でつくづく面白かったからで、あれもまた見てみたい。

 しかしながら、入場してみると、舞台には白い幕が下りている。役者はその前で演技するのかと思っていたら、いや、実際するのだがそれだけではなくて、役者は白幕の前とうしろを行ったり来たりする。で、うしろで撮影しているらしいビデオ映像が、生中継で白幕に映される。あるいは、幕のうしろから光を当てて、役者の体の影だけ浮かび上がらせたりもする。白幕の前には生身の体、白幕のうしろ(というか、幕の上)には、映像になった体。ときには片方だけ、ときには両者を組み合わせて、劇は進行していく。

 劇の台本自体は書き直す余裕がなかったそうで(→ここで読める)、たしかに台詞はあまり変わっていないのだけど、形態がこうもちがうとぜんぜん気が抜けない。どうやら私は、演劇のことをよく知らないなりに、生身の役者が見れてこその演劇、と考えていたようなのだが、いま目の前で行なわれているこれは、舞台の上でも何種類かの体を表現する実験ということなんだろうと思い直して見た。
 録画ではない生中継とはいえ(それは見ていればわかる)映像は距離があるし、会場は真っ暗ではないので映画のようにはっきり白幕に映っているわけでもない。あと、声も、発している役者を見せずにスピーカーから流す部分もあって、ぜんたいに“役者が遠くなる”工夫にばかり気が留まった。それが役者と客(私)を引き離す方向にはたらいている気がずっとしていたのだが、最後のシーンに反転があって、生身と映像の両方が一気にこちらに近づいてくる感覚があった。あ、この瞬間のためだったか、と私は驚いたが、たぶん、そんな単純なものじゃないだろうとも思っている。工夫って、ひとつの目的のためになされているわけじゃないだろうから。
 いや、まて。どうだろう。さっき、“役者が遠くなる”工夫にばかり気が留まった、と書いた自分の感想が、いまひとつ信じられない。だいたい、全篇通して、幕の前に出て来た役者の存在感は、「そりゃまあ、実際、そこにいるんだから」という以上に大きくなっていた。役者の生身は、同じ空間で椅子に座っている私の生身より、なんか、生っぽかったのである。演技してるのに。演技してるから? こうやって、ものわかりのよくない私はますます途方に暮れるのだった。劇の内容にたどり着かない。

即物的な感想:
(1)人にはそれぞれ弱点がある。いい年をした大人が、何人かで、同じ言葉を声を揃えて発する、という状況に私はたいへん弱いのがわかった。心が騒ぐ、というか、ほとんど動揺する。劇中の人物が劇中の人物に向けた台詞でこれなんだから、実生活でそんなことをされたら、なんて想像するだけでもおそろしい。

(2)“脈絡なく現れる肩車(しかも3組)”と、“自販機から出てくる人間”というのはなかなか忘れないと思う。どちらも笑えて、見てる最中はなんともなかったのに、いま思い出してみるとなにか気味が悪い。

(3)ニュータウンの下にさまざまな出来事が発見される(しかもそれが捏造である可能性もはっきり描かれる)のと同じように、台本にはいろんな引用が重ねられているのだけれども、「大江健三郎の文章は、朗読されるとすごく耳に気持がいい」ということがあらためてよくわかった。いやほんと、大江の文が読みにくいという人は、声に出してみるといいと思う(私は以前、電話口で大江の小説を2ページ朗読して聞かせるという真似をして相手から嫌がられたことがある)。

 前回、今回と2度の準備公演を経て、「本公演」は9月。
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