2007/06/27

2人のパン屋


「柴田元幸」「食べ物」の連想で、レイモンド・カーヴァーのパン屋を思い出した。この人の有名な短篇、「ささやかだけれど、役に立つこと」に出てくる、パン屋の男。思い出したのは、パン屋というか、パンだけど。

 もちろん、カーヴァーの全作品は村上春樹の個人訳として流通しており、ほかのバージョンはたぶんない。でも柴田元幸も、自分の本(『アメリカ文学のレッスン』)のなかで、その短篇の該当箇所を訳していた。ちょうどペーパーバックも手もとにあるので、原文→柴田訳→村上訳の順に並べてみる。

 いちおう説明しておくと、まだ若い夫婦が、いろんなごたごたのあとで、深夜、パン屋を訪れる。何十年もパンを焼き続けてきた年配のパン屋は、その夜もひとり、翌日店に出すパンを焼いていた。それからまたちょっと話が動いた、そのあとの場面である。

 原文:
《He served them warm cinnamon rolls just out of the oven, the icing still runny. He put butter on the table and knives to spread the butter. Then the baker sat down at the table with them. He waited. He waited until they each took a roll from the platter and began to eat. "It's good to eat something," he said, watching them. "There's more. Eat up. Eat all you want. There's all the rolls in the world in here."
 They ate rolls and drank coffee. Ann was suddenly hungry, and the rolls were warm and sweet. She ate three of them, which pleased the baker. Then he began to talk. They listened carefully.[…]
 "Smell this," the baker said, breaking open a dark loaf. "It's a heavy bread, but rich." They smelled it, then he had them taste it. It had the taste of molasses and coarse grains. They listened to him. They ate what they could. They swallowed the dark bread. It was like daylight under the fluorescent trays of light. They talked on into the early morning.[…]》
Raymond Carver"A Small, Good Things"(Cathedral 所収)

 柴田訳:
《オーブンから出したての、アイシングがまだ固まっていない温かいシナモン・ロールを彼は二人に差し出した。そしてテーブルの上にバターと、バターを塗るナイフを置いた。それからパン屋は、二人と一緒にテーブルに座った。彼は待った。二人がそれぞれ皿からロールパンを手にとり、食べはじめるまで待った。「何か食べるのはいいことです」と彼は二人を見ながら言った。「まだまだあります。どんどん食べてください。好きなだけお食べなさい。ロールパンならここにはいくらでもあるんです」
 二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは急に空腹を感じ、ロールパンは温かくて甘かった。彼女はロールパンを三つ食べてパン屋を喜ばせた。それからパン屋は話し出した。二人はじっくり聞いた。[…]
 「こいつの匂いを嗅いでごらんなさい」とパン屋は、黒っぽい食パンを割りながら言った。「重たいパンですが、味はいいですよ」。二人は匂いを嗅いでみて、それからパン屋に言われるまま味見してみた。糖蜜と、荒挽きの穀物の味がした。二人は彼の話に耳を傾けた。二人はできるだけたくさん食べた。黒っぽいパンを飲み込んだ。蛍光灯が並ぶ下、店のなかは昼間のように明るかった。彼らは早朝まで話しつづけた。[…]》

 村上訳:
《彼はオーヴンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。彼はバターとバター・ナイフをテーブルの上に置いた。パン屋は二人と一緒にテーブルについた。彼は待った。彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。好きなだけ食べてください。世界じゅうのロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
 二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは突然空腹を感じた。ロールパンは温かく、甘かった。彼女は三個食べた。パン屋はそれを見て喜んだ。それから彼は話し始めた。彼らは注意深く耳を傾けた。[…]
「匂いをかいでみて下さい」とダーク・ローフを二つに割りながらパン屋は言った。「こいつはがっしりしてるが、リッチなパンです」二人はそのパンの匂いをかぎ、パン屋にすすめられて、一くち食べてみた。糖蜜とあら挽き麦の味がした。二人は彼の話に耳を傾けた。二人は食べられる限りパンを食べた。彼らは黒パンを飲み込んだ。蛍光灯の光の下にいると、それはまるで日の光のように感じられた。彼らは夜明けまで語り続けた。[…]》

 どうだろう。ほとんど同じ、なのは当然として、しかしどういうわけか、私には、村上春樹のパン屋のほうがおいしそうに見えるのである。何がちがうのか?

「オーブン」と「オーヴン」はまさか関係ないと思う。「アイシング」と「砂糖」は微妙かもしれないが、一方で、「黒っぽい食パン」以上に「ダーク・ローフ」が食欲を刺激するわけでもない。だいたい、そういう単語の問題ではないだろう、とは思う。しかし、文章だってほとんど同じなのである。何がちがうのか、というか、何かちがうのか?

 両者のあいだに私が感じているちがいは、ただの思い込みかもしれない。すると問題は、何が私にそう思い込ませるのか、ということになる。だって、いま引用するのに打っていても、やはり村上訳の方がおいしそうに思えたのである。おそらく、「ロールパンは温かくて甘かった。」と「ロールパンは温かく、甘かった。」に何か秘密がある、と思う。同時に、それがすべてではないとも思う。
 それでいま考えたのはこうである。

 ――私はこの短篇を、村上訳で何回か読んでいる。村上訳には、どこがどうとは言えないが、はっきりクセがある。そのため柴田訳でこの部分だけを見ても、それを記憶にある村上訳の雰囲気のなかに置こうとして、「ちょっと違和感あるな」と思ってしまう。その結果が、“村上訳の方がおいしそう”。

 なんかつまらない説明なんだけど、真相はこの程度のものかもしれない。そうではないのかもしれない。やっぱりよくわからない。かくなるうえは、柴田元幸が何かの成りゆきで「ささやかだけれど、役に立つこと」を全訳してくれないだろうか。

 以上、結論とか考察は特にありません。そして、ほんとに驚くべきはカーヴァーの原文なんだろうけれども、話はそこまでたどりつかなかった。


補足(1):
レイモンド・カーヴァー(村上春樹訳)「ささやかだけれど、役に立つこと」は、短篇集『大聖堂』(中央公論新社)、または『カーヴァーズ・ダズン』(中公文庫)で読める。

補足(2):
同じカーヴァーの、別の作品なら柴田訳が存在する。村上・柴田の共著『翻訳夜話』(文春新書)におまけでついている「集める人たち」。お返しに村上春樹は、いつも柴田元幸が訳しているポール・オースターの短篇「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を訳している。なんかすごいやりとりである。

補足(3):
先月感想を書いた「飛ぶ教室」8号掲載、レベッカ・ブラウンの短篇「パン」は、なにしろタイトルがタイトルだけに、パンの描写はすさまじく気合が入っていた。


大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー c- 4)大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー c- 4)
(2007/03)
レイモンド・カーヴァー

商品詳細を見る


Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選
(1997/10)
レイモンド カーヴァー

商品詳細を見る


アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)
(2000/05)
柴田 元幸

商品詳細を見る


CathedralCathedral
(2003/09/04)
Raymond Carver

商品詳細を見る
2007/06/24

柴田元幸『つまみぐい文学食堂』(2006)

つまみぐい文学食堂
角川書店


 先週、ご本人のトークイベントを聞きに行った勢いで読んでみた。
 この本は、タイトルから予想のつくとおり、さまざまな小説作品から「食べ物」の出てくるシーンを拾ってきて、そこにコメントをつけていく体裁の文章が24本集まって出来ている。
 毎回、何かしらテーマを決めてそれに合う素材(食べ物)を探してくるというよりも、むしろ、思いつくままに素材を並べていったところからどのような感想・考察を紡いでいくのかという手際が、まあ、シェフの腕ということになる。
 ところが予想とちがったのは、というか私は「食べ物の本なら、おいしい話が続くはず」と勝手に思っていたのだが、実際に次から次へと繰り出されてくるのは、あんまりおいしそうじゃない、それどころか積極的にまずい食べ物なのだった。
 ニンニクや豚肉、クリスマスディナーから粉ジュースその他の駄菓子まで、おいしい:まずいの比率は、体感では2:8くらい。明らかにこの食堂はうまくなく、なぜこの人はまずい食べ物(の出てくる小説)をこんなにも憶えているのかと不思議にさえなった。巻末には著者本人、イラストを描いた吉野朔実、都甲幸治(アメリカ文学者)による鼎談がついていて、やはり話題になるのはそこのところである。
吉野 だいたい読んでみると、おいしくなさそうに見えますね。
柴田 そうそう、そうなんです。食べ物があれば、おいしくなさそうだし、おいしそうだと食べ物はそこにない!
吉野 ないというのはポイントだと思いますね。[…]》

 なんではしゃいでいるのか。ともあれ、とりあげられるのたいてい英米小説、たまに他の外国小説、まれに日本小説で、英米産の場合は漏れなく本人が訳している。私はトマス・ピンチョンが好きなのだけれども、ピンチョン作品に出てくる食べ物、といってすぐに思いつく2例、まず『V.』で、夜、イタリア人スパイが片手にイカをぶら下げ、フライパンと油を探してボロい楽器屋の2階をうろうろするシーン(邦訳だと上巻の第七章VIII、これはおいしそう)と、『重力の虹』から、第二次大戦下のイギリスで遊んでいるアメリカ人中尉スロースロップが、親切な老嬢のお茶の時間に付き合わされてさまざまなイギリス菓子を食べさせられるシーン(邦訳だと上巻pp154-162あたり、あまりのまずさにスロースロップは幻覚を見る)、この両方が拾われていてうれしかった。
 とくべつ面白いのは、小説の、それも食べ物のシーンだけ注目し、それに自分の思い出ばなしを重ねたり、逆に、思い入れのある食べ物が登場する場面をつないでいくなかに、わりとあけすけな感じで行なわれる柴田元幸の自己省察を見物できることで、よく言われる、食べてる物を見れば人がわかる、というのはあながち嘘ではないのかもしれない。
 別の本ではエドガー・アラン・ポーの小説世界を「食欲と性欲のない空間、ゆえに生の帳尻は合っている」などと喝破したりもしているが(たしか喝破したと思う)、この本ではそれほど大上段にかまえずに、ジャガイモの行く末を追いかけたり、鯨肉に寄せる熱い思いを吐露したり、一人の客も来なかったカフェについて想像をめぐらしたり、が続く。索引の充実ぶりも特筆に価するだろう(作品・作家名だけでなく、「食べ物」からも引ける)。
 しかしやはり気になるのはまずい食べ物で、本文はもちろん、巻末鼎談でもいちばんの読みどころはそこになっている。おいしいものよりまずいもののほうが話が弾む、みたいな一般論に落ち着くことを潔しとしないのか、考察はもう少し進められる。
柴田 ……旨いものの話をストレートに書くと、結局自分を祝福することになるだけなんじゃないかなぁ。
都甲 何か悪いんですか。
柴田 ぼくの問題なんだけどさ(笑)。
都甲 それは、完璧にカウンセリングみたいですよ。
柴田 何であなたは自分を祝福できないんですかっていう、アメリカだとそういう話だよね。でも、子どもの頃、童話読んで豊かな気分になってた自分を祝福するみたいで嫌なんですよ。でも、給食のクジラを旨いなと言ってた自分は祝福したい気になる。
吉野 それは、給食だから。
柴田 そう、給食だからなんですね。》

 あはははは。読み返すだに、「何か悪いんですか。」がとてもよいと思う。そして私はまたしても、この人は信頼できる、との感をあらたにしたのだった。
2007/06/19

柴田元幸トークイベント@立川


 きのう、いやもうおとといか、とにかく日曜の午後、『囚人のジレンマ』の感想をまとめてアップしたのには理由があり、あのあと立川まで、オリオン書房「柴田元幸先生トークイベント~R.パワーズ『囚人のジレンマ』を語る~」を聞きに行くことになっていたのだった。話を聞いてしまったら、聞いた話しか書けなくなるような気がしたので大慌てで書いた(さっき分割した。誤字が多かった)。

 それで日曜夕方の立川であるが、正直、私は立川のことを何も知らなかった。立川すごい。駅前すごい。日本の未来は立川になる。

 柴田元幸の話はまず、去年シンポジウムで日本に来たパワーズ本人と一緒に安いネクタイ屋をさがして雨の渋谷を歩き回った話からはじまり、そういえばカズオ・イシグロも来日したときネクタイを気にしていて……と続くので「雑談か?」と思ったら、ちゃんとふたりの作家のものの見方までつながっていくので舌を巻いた。いうなればどちらも文化人類学者、とか。
『囚人のジレンマ』からは、「一九四〇-四一年」の章、9ページ分がまるまる朗読されて、これは結構長いのだが、やはりパワーズの文章の流れ、話のもっていきかたを見よ、ということである。家帰ったら自分でも読んでみようと思った。
 家族と歴史がクロスする話、想像力は現実からの逃避なのか物事を変革する力なのか(どっちとも取れるように書いてある)という話、20代で書いたこの小説のことを、40代になってからどう思っているか尋ねたインタビューの話など。パワーズは、世界がこのようにあることに驚きと畏怖を覚えてしまうと語っているそうで、あれだけあたまのいい人にしてこの謙虚さか、と、ますますおそれいった。

 最後に「今日の午前中まで訳してた」というパワーズの短篇(!)の朗読があった。後半だけとはいえ、文学と環境学、物語とでっちあげ、オリジナルとコピーとDNAの転写と引用、ベトコン、その他もろもろ詰め込まれた、たいへん盛りだくさんの作品。何度か笑う。そのうち全訳がどこかの文芸誌に載るにちがいないので楽しみに待ちたい。タイトルはたしか「七番目の出来事」か「七つめの出来事」だったと思う("The Seventh Event")。

 はじめて行ったオリオン書房ノルテ店はいい感じの本屋だった。何がいいって、ワンフロアなのがいい。各社の刊行案内やフリーペーパーが取り放題なのもいい。せっかくなので本を買ったら、レジの人がめちゃめちゃ丁寧なので私もかしこまってしまった。

 ちなみに柴田元幸は、パワーズが「こちらのつたない英語を聞き取って、ちゃんと感心して返事をくれる」みたいなことをうれしそうに言っていたのだが、そのような能力が自分にも十分以上に備わっているのをご存知なんだろうかと思った。質問タイムでのやりとりを見ていると、すごい早さであたまが回転しているのがよくわかる。あれは質問した人もうれしくなるだろう。だからと言って私に挙手する勇気はないのだが。
2007/06/17

パワーズ『囚人のジレンマ』 3/3

囚人のジレンマ

前回…

 ここまで書いてきて、いま、『三人の農夫』と一緒に刊行されたガイド本『パワーズ・ブック』を読み直したら、ジェイムズ・ハートという人が書いたもののなかに、『囚人のジレンマ』の構成をかなり詳しく考えている部分があった。たいへん面白いのだが、当然ながら終盤の展開にも触れているので、先に読むのはすすめられない。
 逆にすすめたいのは2本の映画で、ディズニーの「ファンタジア」と、フランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」は見ておいたほうがいい。特に後者。『囚人のジレンマ』の謎めいたエピグラフのひとつはこの映画から採られているから、見たことがある人も、もういちど見ておくといいと思う。こういうきっかけでもなければ、このようなタイトルの映画にはなかなか手が伸びないので、私は『囚人のジレンマ』を読んでいる途中でTSUTAYAへ借りに行った。そして見てびっくりした。
 書いてしまうと、これは「ひとりの人間は、ちゃんと外の世界に影響を持ちうる」という映画で、たしかにパワーズは、この映画の精神を小説化しているのである。
 この1946年の映画をアップデートするにあたってパワーズは、ウォルト・ディズニーに盗用を指示する。戦時中、映画産業が滞っているあいだ、ディズニーは「きみが戦争だ」のために、まだ脚本しかなかった「素晴らしき哉、人生!」をパクるのである。
真の死、世界規模の殺戮、国境や経済や勢力分布やイデオロギーのための虐殺、えんえん積もり積もった国家間の諍いから成る漂礫土、そうした血まみれの混沌はことごとく消え去るはずだ――と分別をかなぐり捨てて予告篇は主張する――もしわれわれが一人の人間の物語をきちんと語り、個別の事例を十分に、切実に、誠実に伝えることができるなら。この人物が絶えず望んでいたのはひたすら善なる意志とともに進みその収穫を手伝うことだったと示せるなら。どうしてそこから争いなど生まれえよう?》「一九四三年」 p257

 言っていることは似ていて、たぶん本質的にはちがうのかもしれないのだが、私はここにどうしても、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』(1973)を並べてみたくなる。
《わたしはストーリーテリングを避けようと決意した。人生について書こう。どの人物にも、ほかの人物と全く同じ重要性を与えよう。どの事実にも同じ重みを持たせよう。なに一つなおざりにはすまい。ほかの作家たちには、混沌のなかに秩序を持ちこませておけ。わたしは逆に、秩序の中へ混沌を持ちこもう。自分ではそうしたと思う。》
(浅倉久志訳)

「きみは戦争だ」の予告篇が《分別をかなぐり捨てて》いるように、「素晴らしき哉、人生!」をハッピーエンドに導くのがほとんど半狂乱の執念であるように、ヴォネガットもここで狂気の沙汰を書きつけた。
 リチャード・パワーズは、もしかするとそういう“暴走”さえ、理性の積み重ねで達成してしまうんじゃないかと思った。それはもう、狂っていると言ってもいいような気がする。



パワーズ・ブックパワーズ・ブック
(2000/04)
柴田 元幸

商品詳細を見る


素晴らしき哉、人生! 素晴らしき哉、人生!
ジェームズ・スチュアート (2002/08/25)
アイ・ヴィー・シー

この商品の詳細を見る



チャンピオンたちの朝食 (ハヤカワ文庫SF)チャンピオンたちの朝食 (ハヤカワ文庫SF)
(1989/12)
カート,Jr. ヴォネガット、カート・ヴォネガット・ジュニア 他

商品詳細を見る
2007/06/17

パワーズ『囚人のジレンマ』 2/3

囚人のジレンマ

前回…
《一票はどれくらいの重みを持つのか? それは誰が票を投じるかによる。もしその一票がカエサルかリンカーンかナポレオンか神であるならその効力は絶大だ。》「一九四〇-四一年」 p116

《ホブソン家の人間は自分たちだけの言葉を話している。》「7」 p144

『囚人のジレンマ』は、「なぞなぞ」と題された章からはじまる。誰とも知れない語り手が、父親のことを回想する。自分を含む子供たちに、父は、なぞなぞを出し、ものを教えるかたちでしか接することがなかった。父とは、どんな人間だったのか。
 こんな魅力的な書き出しに続くのは、しかし、「1」と番号の振られた章で、こちらでは、ちゃんと名前のついた“ホブソン家”の物語がぎくしゃくとスタートする。父であるエディ・ホブソンは高校の歴史教師で、4人の子供との触れ合いは、やはり、知識を与えるレッスンと、ひねくれた警句、警句と区別のつかないジョークの嵐でしかなされなかった。
 そのような父のもとで人格形成したせいで、ホブソン家のきょうだい(男2、女2)は、口を開けば二重三重にねじった言い回しが飛び出し、古い映画にやたらと詳しい、はた目には鼻持ちならないインテリ集団になってしまった。もう大人になり、父の言うことを素直に聞く年齢ではないが、それは、父に対して父自身から仕込まれたやり方で応戦するようになったことを意味する(だから父には勝てない)。もちろん、自分たちがそういう奇特な存在であることも彼・彼女らはわかっていて、わかってしまったために、もう二度とふつうには戻れない。母のタメ息を聞き流しつつ、きょうだいの口喧嘩は、つねに相手の先を読み、どちらがより裏をかけるかを競うスポーツのようなものになっている。
 元凶である父エディは、むかしからの持病が最近になって急激に悪化し卒倒を繰り返しているのに、相変わらずシニカルに世間を眺め、自前の理屈で医者を拒んで(だから病気は謎のまま)、ときおり子供たちの記憶をテストするいっぽう、やはりむかしからの趣味として、架空の町「ホブズタウン」の物語をこっそりテープに吹き込んでいる。
 知に閉じこもり、実生活ではひたすら軽薄にふるまう父と、お互いのことを思いやり、思いやりすぎるせいで立ちゆかなくなりつつあるホブソンのきょうだい。彼らの内なる痛みの話が「1」、「2」、「3」と続いていくのとはまた別に、「ホブズタウン 一九三九年」のように年号の付された章もあって、ではこれがホブソン家の父エディの創作したホブズタウンのお話なのかと思うと、そう簡単にも言い切れない。そこでは、第二次世界大戦のはじまりから終戦へ向かって、大筋では歴史をたどりながら、史実を自在にねじ曲げたエピソードが続けられていく。

 ここまでで3種類の文章が登場しているのだが、(i)父についての回想、(ii)ホブソン家、(iii)歴史改変、ときっちりした区別はつけられず、それぞれのパートの配列も入り乱れている。(i)と(ii)は同じ話の別ヴァージョンなのか(そうではなさそうだ)、似ているけれど別の話なのか(そうでもなさそうだ)。
 おぼろげにわかるのは、全体をつなぐのが(ii)における父エディの存在であることと、この小説では、小はホブソン家から大は国際政治まで、ふたつ以上の要素を含む関係が、おもて向きは平穏でも、じつはみな一種の機能不全、先を読もうとするあまり、互いに一歩も動けない状態に陥っていると見なされていることである。さまざまなサイズの囚人のジレンマが寄り集まって世界を作っている。
(アカの疑いをかけられた2人の公務員が、マッカーシー上院議員の前に呼び出される。黙秘するなら懲役2年。相手を密告すれば、自分は釈放で相手が死刑。ただしお互いを密告しあうかたちになった場合は2人とも懲役10年。あらかじめ相談することはできない。最良の選択は?)
《この裏切りと協調のゲームに僕らを引き込むことで、父さんは現実の災難から僕らの目をそらしている。僕らのジレンマに父さんを取り組ませるには、僕らが父さんのジレンマに取り組まなきゃならない。》「4」 p78

 人間にとって大事なのは、自分が歴史に占める位置を知ることだ、と主張する父が、家族を痛烈な冗談で煙に巻き、世界と縁を切ったような生き方をしているのはなぜなのか。個人としての父エディ・ホブソンが、どこかで歴史と接触しているというのか。
 いささか神経にこたえるホブソン家のやりとりを追いながら、はっきり確かな枠組みはつかめないまま、どんどんあたらしい情報が積み重なって、第二次大戦のパートに重要人物が登場する。表紙を見れば明らかなように、それはウォルト・ディズニーである。

 戦争と映画は『囚人のジレンマ』で同時に描かれる。「白雪姫」(1937)、「ファンタジア」(1940)のあと経営の傾いていたディズニーのプロダクションは、まるごと国家動員されたおかげで危機を乗り切り、逆に隆盛をほこる。しかし、訓練教材や宣伝映画を製作しているうちに――《ミッキー・マウスが戦争に行くのだ》――ディズニーは日系アメリカ人の強制収容を知ってショックを受け、スクリーンと現実に境界のなくなるような空前のプロパガンダ映画を構想するようになる。作品名は「きみが戦争だ」
《やれやれ、と彼は考える。俺たちが映画によって地獄行きの旅に送り出されたのなら、世界一有名なスターネズミに、その歯を活用して引き返す道をつくってもらうしかない。だが、帰り道は往きよりずっと過酷なものであることをディズニーは知っている。》「一九四三年」 pp263-4

 虚実織り交ぜ、ときにアニメのワンシーンが生き生きと描写されるディズニーの物語には、“一票はどれだけの重みを持ちうるのか?”という問いかけが繰り返しこだましている。この声は、「きみが戦争だ」に必要な一万人のスタッフを確保して製作を進めるあいだも彼の心から去ることがない。

 小説の中盤までにパワーズが並べたカードはこれで1/3くらいだが、ここからどんな全体図を作ろうとしているのか、3つの話はどのように収束されるのか(それ以前に、話はいくつあるのか)などなど、『囚人のジレンマ』を読みながら気になる部分はどんどん増えていくものの、あとはもう、実際に読むしかない。私はこの小説をほんのちょっと紹介するつもりで書きはじめたのだった。

 でもこれだけは言っておきたい。
 いくつもの大きな展開と転回を経て、ほとんどラストに近いページで、この小説いちばんの謎は明らかになる。詳しいことは書けないので喩えで言うけれど、そのシーンの強烈な光がそこまでのページ全体をうしろから照らし返す格好になり、すると、さっきまで見えていたのとはまるでちがった小説の姿が浮かび上がってくる。
 私はある登場人物と一緒に目のくらむような思いを味わったのだが、同じくらいおどろいたのは、小説をはじめからその「ちがった姿」でとらえる手がかりも、よく考えてみれば、ぜんぶこちらに与えられていたことである。
 だから伏線の張り方が見事、というのでもない。「伏」してさえいなかったのだから。カードはすべて表になっていたのであり、またしても、この作家はどうしてこんな仕掛けが作れたのか(いや、仕掛けだけど、仕掛けではないのだ)、不思議で仕方がない。
 だって、他人の作ったものを好き勝手に読めばいいはずの私が、この小説はどうなっているのかをつかむのに汲々としているのに、当のパワーズのほうは、作中であっさりと、複数の世界を串刺しにするような一点を指し示しさえするのである。
《〈もしも〉はいまも今後も、野蛮なリアリズムに対する父の唯一の武器である。野蛮なリアリズムをくつがえすためには、まずそのリアリズムに屈しなければならない。が、くつがえすには、実際主義の世界を動かすには、梃子を固定しておくための別の場所をつくらなくてはならない。》「もしも苛酷な一分間を」 pp300-1


…続き
2007/06/17

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(1988) 1/3

囚人のジレンマ
柴田元幸・前山佳朱彦訳、みすず書房(2007)


 リチャード・パワーズの小説は、説得のために書かれているように思う。
 パワーズがどんな作家か一言でまとめろといわれたら、ピンチョン並みの博識をヴォネガット並みのヒューマニズムに注ぎ込む作家、ということになる。
 じゃあヒューマニズムとは何か。それも一言でまとめれば、「人間の一人一人に価値があって、生きてることには意味がある」という信念になるかと思う。
 これは清くうつくしい物言いのはずだけど、こうやって書くのは恥ずかしく、うつくしいと書くのも恥ずかしかった。恥ずかしいだけならともかく、書いたそばからうさん臭くなるので嫌になる。それは、これが“一言でまとめた”立派な正論だからだ。
 立派な正論は、その「立派さ」「正しさ」のゆえに、ストレートに口にするのは難しい。そういうスローガンをみだりにふり回さないのが良識だということになっていて、良識のない人間(=正論を葛藤も屈折もなく主張できる人間)はどうかしているように見えてしまう。
 正しいことが言いにくいのは困った事態だが、それでもやっぱり、どうかしているように見られたくはないから、私たちは正論にはお引き取り願い、いま目につくところにはないけれど、それは奥の部屋でちゃんと額縁に入れて壁にかけてあるのだということにする。すくなくとも私はそうだ。そして、ときどき横目でチラ見する程度にしておく。

 しかし、正論は、飾られているかぎり死んでいる。それを額から外して現実の空気のなかに泳がせたり、さらには、人に手渡そうというのであれば、入念に背景を整えて足場を固め、徐々に外堀を埋めていったすえに、相手のほうから「たしかにそれしかない」と納得して手を差しのべてくるくらい上手に場の流れを作っておかなくてはならないのではないか。そこまでしなくては、結局、その正論は現実の空気にも持ち主の良識にも耐えられない空論で、言っても言わなくても同じである。
“一言でまとめる”と“手間をかける”のちがいは、見かけ以上に大きい。前者がただウソ臭く、後者が(うまくいけば)力を持ちうるのは、たぶん、手間をかけて準備をする過程に、正論そのもの以上の正しさが感じられるからだと思う。ここで正しさとは、誠実さ、面白さ、のことだと言ってもいい。
 準備作業が長く複雑であるほど、それが進められるなかで、正論の姿は変質していく。変化のあるものは飽きないし、変化を与えていく作業じたい目が離せない。人によっては、また最初から変化していく様子をずっと追ってみようか、という気にさえなるかもしれない。
 だからパワーズは、関係の込み入ったたくさんの登場人物を作りだし、位相の異なった複数の物語を少しずつ展開させて、2段組400ページを越える小説を書く。

 パワーズのデビュー作である『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)は、1枚の写真から発想された3つの物語を並行して語っている。鮮やかなのか不器用なのか、途中まで判断がつかないような変わった手つきでその3本のラインを絡めたり絡めなかったりを繰り返し、そこから生まれる運動でもって小説を進めていく、凝りに凝った作品だったが、いったい何のためにそんなしち面倒くさい作業がされているのかと言えば、それは、「あなたの働きかけで、世界はたしかに変わる」という信念にかたちを与えるためだった。そこでたびたび述べられるのは、たとえばこんな考え方である。

 あなたが写真を見るとき、あなたは写真から見返されている

 これは、それだけでは「ふふん」と笑い飛ばされるか、あるいはせいぜい、ちょっと気の利いたフレーズとして数時間だけ(よくても数日間だけ)あたまに留まり、あとは記憶から滑り落ちていくメッセージでしかない。しかしパワーズは、長篇小説の1冊を費やして、そのようなことはほんとうに起こるのだと、いまも起きているのだと、読者の前で実演してみせる。
 それは上からの説教ではない。説得である。粘り強く、諄々と説くのである。
 歴史上の出来事と架空のエピソード、人文学から科学までのさまざまな知見、多彩な比喩が、ときに下ごしらえもなしに作品に放り込まれるのは、衒学的なコケおどしを狙うのとはまったく逆で、この人は、ひたすらこちらに話を通じさせようとして、ただ自分の言いたいことの敷居を下げるために、考えつく限りの材料を何でも、何度でも使う。
 その結果として、いまここで一言でまとめられるようなメッセージは、小説のなかでは、いまここにあるのとはまるで別のものとして作品を支えている。そんなメッセージを、小説のなかではたらているままのかたちで取り出すことはできない(そして本来は、どんな小説だってそうなのだ)。
《パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》
柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』

 パワーズの小説には手がかかっている。手がかかっているからいい、というわけではもちろんない。労を惜しまず、丹念にこちらを説得しようと奮闘する過程が、見たことのない構成をもった小説になっていて、心底たまげたというのが『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだ私の感想だった。
 最初に読みはじめたときは、半分もいかずに挫折した。数ヶ月後に再挑戦し、なんとか真ん中を越えて、こんどは最後まで読めるかな、と思うようになったところにあらわれた「第十六章」、パワーズがある詩を引用して「私は可能性に住む」というタイトルをつけた章を読んでいたときの気持の動きを、私はおぼえている。いまめくっているページの上でものすごいことが起きている、おれは鉛筆で線を引きながらその現場にいる、見たことのない世界にこれから入っていくにちがいない、という不思議なおどろきだった(そして本当に入っていった!)。
 そういうわけだから、これまで本を読んでいていちばん興奮したのは、『三人の農夫』の「第十六章」で、小説が立ち上がるのを目撃したとき、ということになるのだが、あれはそこまでの15章ぶんを読んでいった人間にだけ開かれる世界であって、たった14ページしかないあの1章だけを取り出すことはできないし、その1章のはたらきについて説明するためには、小説をあたまからラストまで説明しないと十分ではない。
 この融通の利かなさ、省略できない手順と手間のかたまりであるところが、パワーズの小説の欠点――どころか、いちばんの美点だと思う。
(たまたまうまく形になった、というなら奇蹟の一言で済む。それはそれですごいけど、あんなことになる設計図を描いて実際にあれができた、というほうが、もっとずっとすごいと思うのだ)

 そのパワーズが、『三人の農夫』の次に書いたのが『囚人のジレンマ』である。

…続き


舞踏会へ向かう三人の農夫舞踏会へ向かう三人の農夫
(2000/04)
リチャード パワーズ

商品詳細を見る


アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)
(2000/05)
柴田 元幸

商品詳細を見る
2007/06/14

「は?という感じがする。」

 紀伊国屋書店の「書評空間」というところから、阿部公彦という人の評。

 『森有正先生のこと』栃折久美子(筑摩書房)
 http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/2007/05/post_2.html

 これは……めちゃめちゃおもしろそうだが、読むのがこわい気もする。
 amazonでカートにまで入れたが、「レジに進む」のボタンが押せない。

> 「どうなさったんですか。そんなにたくさん」というのが
> 森有正の第一声だった。 そして、よりによってこのタイミングで、
> 十ヶ月近く前の手紙のことを森有正は言うのである。。
2007/06/09

日記

■ MXテレビ(9チャンネル)で月曜23時から再放送中の「ウルトラセブン」は、いよいよ来週6/11と6/18で最終話。「史上最大の侵略(前後編)」。

早稲田松竹「フラガール」(2006)を見てきた。松雪泰子が歯を食いしばって築きあげたものを、笑顔の蒼井優があざやかにかっさらう映画だと思われた。

 これだけは断言できるのだが、巷間いわれていたほど訛りの再現性は高くないので、距離をもって見ることができひと安心(当たり前だ、映画なんだから)。とはいえ、完成した常磐ハワイアンセンターの天井が映ったときには、塩素と湿気の入り混じった暑苦しい空気が押し寄せて、一瞬、鼻がきかなくなった。
 高校のとき、ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の城下町から通学する友達がいたが、彼が言うには、「小学校の同級生に、火吹き男の息子がいた」。そんな映画も見てみたい。
 上映は最終日で、“席が八割方埋っている早稲田松竹”ははじめてだった。むせび泣く声とか聞こえてきた。時間が合わなくて併映の「ゆれる」は未見。


 こんなものを見つけた。
  ほぼ日:「いまさらフラガール!」
  http://www.1101.com/hulagirl/index.html