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カラスヤサトシ

 本屋に行ったら、カラスヤサトシの漫画『カラスヤサトシ』の第2巻が出ているのに気づき、慌てて買う。発売から1ヶ月。危ないところだった。

カラスヤサトシ 2 (2) (アフタヌーンKC)カラスヤサトシ 2 (2) (アフタヌーンKC)
(2007/04/23)
カラスヤ サトシ

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 これは「アフタヌーン」の読者投稿ページの隅に連載されている4コマを集めたものだそうで、基本的に作者自身の日常・回想・妄想をネタにして毎回のお題に答えるかたちになっているのだが、作者がおのれの言動を容赦なく見つめた結果としてあらわにされた自意識の有象無象が、じつは相当程度こちらにも当てはまるものであることを私なんかは認めざるをえず、しかしどこかの一線で、この作者はこちらの共感をまったく受けつけない高みにまで駆け上がってしまう。残るのは、おれはいまなにかすごいものを見た、という気持。置いていかれた感を覚えると同時に、置いていかれてよかったという気にもさせられるのが正直なところだ。
 だから本当は順序が逆で、こちらの理解など届かない感性の持ち主が、ときどきこちらに“下りてきて”笑いを提供してくれる、というのが正しい構図である気がする(おそらく作者は、この「わかるわかる」と「それはない」の使い分けが自在には出来ておらず、そこがいちばん面白い)。
 描かれているネタのどれひとつについても共感できない人には、この漫画はまるで面白くないだろう。一方で、ぜんぶを理解できるのはこの世界で作者一人しかいないにちがいない。すべての読者はこの両極のあいだのどこかに位置しているのだろうが、単純に作者に近ければ近いほど面白がれる、とは言い切れない気もするのがこの漫画の業の深さであると思う。
 漫画って引用がしにくいから困ると思っていたら、第1巻が出た際のスズキトモユ氏による紹介を見つけた。ここに載っている4コマの、左側のやつが私はほんとうにすごいと思う。

 私はこれの第1巻を、友達から「ほかに薦める人が思いつかなかったので」的な理由で薦められ、読んでみたら思わず堪能してしまい、やはり「ほかに薦める人が思いつかなかったので」ある友達に薦めた。すると彼のところには、すでに別の知り合いから「カラスヤ面白いですよ」とのお薦めがあったそうで、なんだか世間は狭い気がしてならなかった。世間というか、私の世間は。

カラスヤサトシ (アフタヌーンKC (425))カラスヤサトシ (アフタヌーンKC (425))
(2006/08/23)
カラスヤ サトシ

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 何度となく読み返しているうちに、私はこの第1巻に登場する名台詞の数かずを暗記してしまったので、それを思い出すだけで漫画が手許になくても自動的に絵まで浮かんでじゅうぶん楽しめるようになった。
 第2巻では一部取材漫画などあるものの、相変わらずの作風で、こちらの琴線をわしづかみにするフレーズは枚挙にいとまがない。せっかくなのでメモしておくが、なんのためのメモなのかは訊かないでおいてもらいたい。そんなの、「気がついたらメモっていた」しかないじゃないか。

「学校行け!学校!!」「これは…カステラですね?」「いや…だって…そんなわけないから…」「甘やかしてくれってことですか?」「カレー史に残る名言」「え?なあに?」「すみませんちょっと黙っててもらえますか?」「かっこいい聖飢魔Ⅱのイメージに あわない」「未来の嫁」「彼はもう一人の自分と闘っているのだ!」「貴婦人メガネの完成」「ベースギターにネルシャツ」「そのピアス僕にください!!」「AVコーナーでモテようとしてんの?」「これはおじいちゃんが29のとき…」「かっこよすぎ」「ゲッ…これは…鬼○郎結び…!!」「くくられてるやんか!!」「はいあなた!! 時空をこえて!!」「うわーん…ずっと一番やったのにー…」「BB弾のお兄ちゃんやー」「毎晩やってるうちに思わず知らずストーリーが長くなってしまい」「姿も見えないんだったら入り放題ですもんね」「オレの話テキトーに聞き流してるみたーい」「江古田ちゃんへの愛憎」「ライブ感覚やーっ」「ガシャポン経済界と日本のリアル経済界が」
映画「恋愛睡眠のすすめ」(2006)
ミシェル・ゴンドリー監督

 ミシェル・ゴンドリーの新作が、しばらく前から公開されていたと知ったので見に行った。渋谷のシネマライズ。スペイン坂は、実際の傾斜以上に急角度に思われる。

 タイトルからしてどうも夢の話らしい、くらいの予想をしていたが、もっと不思議なものを見せられた。
 しばらくメキシコで暮らしていた男の子がパリに戻ってきて、隣室に引っ越してきた女の子と仲良くなり、さてそれから、みたいな筋はあるのだけど、これは、公式サイトで紹介されているような、夢見がちな主人公の現実と夢が混ざっていって、次第に区別がつかなくなり……という映画ではない気がする。たぶん。
 現実を浸食する夢の世界、とか、危うし客観!とかいうよりも、手作り感満載の小道具を使って撮った変な映像のあれこれを、流れをもった105分のつらなりにするために、いちおうの枠として「夢」をもってきたのじゃないだろうか。たぶん。
「たぶん」「たぶん」と続いたが、たぶん、映画館を出たあとで、自分の見たものから「夢」という設定を取り外しても、映画の印象は変わらない。だから上映中も、どこから夢のなかに移ったのか、いま映ってるこれは現実なのかとか考えるのを途中でやめたのはよかったんだと、これは「たぶん」ではなくはっきり思う。そんな見方、はじめからするなよとも思った。
 たとえば、ちぎった綿を天井に投げて、すかさずピアノの正しいキーを叩くと綿は浮かんだまま落ちない雲になる、というようなシーンには、ぜんぜん派手ではないのにすごいしあわせな空気があふれていた。いま思い出しても顔がにやける。この言葉、あんまり使いたくないのだが、映画のあちらこちらが、めちゃくちゃかわいいのである。手芸でマジックリアリズム!
 そういった、どばどば多幸感を産出する場面の数々を作るにあたって、「夢」と同じように「恋愛する二人」というのも、それらを映画にみちびき入れるための口実なのだ(それがなくたって映像は成立するのだ)、とまでは言えないように思われるのが、なぜか悔しかった。

 よくわからんけど楽しそう、という空気は、ダンボールとセロファンの小道具や珍妙な発明品ばかりでなく、もっと根っこからこの映画を浸していて、主人公が入り込むことになる、働いてる人がひどく親密な小さい職場、というものの描き方もまた、思い返すだに楽しい気持にさせられる。日常的に衝突が起こるのまで含めた、親密な空間。凶悪な下ネタ野郎はいても、悪人は一人もいない。倉庫のような狭苦しい仕事場で、ヒロインが同僚と喋っているうちにヒートアップして軽い取っ組み合いになり騒ぎ出すと、ドアの奥からうんざりした顔の上司が登場、

「ケンカするんなら友達をやめろ!」

と一喝するのに笑った。登場人物は全員いい年をした大人でありながら、主人公とヒロインを「男の子」「女の子」と呼ぶほかない世界がたしかにあった。

 このようにかわいらしい映画の、かわいらしいプログラム(薄いピンク色)も逡巡した末に買ったが、監督へのインタビューの一節だけで充分、もとは取れたように思う。
Q. 観客にはこの映画から何を感じてほしいですか?
A. 女の子にモテない僕をかわいそうだと思って欲しい[…]多くの女の子から、“女の子に相手にされなかった過去を克服できるよう私が手を貸してあげる”という申し出があったらいいね。
ミハイル・ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」(1929-1940)

水野忠夫訳、集英社(1990)

《「フリーダ!」つんざくような声でマルガリータが叫んだ。
 ドアがさっと開くと、髪をふり乱し、裸ではあるが、すでに酔いの徴候はまったくない女が取り乱した目をして部屋に駆け込んでき、マルガリータに両手を差し伸べたが、マルガリータは威厳をもって言った。
「おまえは許される。もうこのさき、ハンカチが置かれることもない」》p557

 舞台はモスクワ。ある春の夕暮れどき、文芸誌の編集長であるベルオリーズと詩人のベズドームヌイが無神論について議論していると、そこに服装から身のこなしまでいかにもあやしげな男が現われて、突如、ユダヤ総督ポンティウス・ピラトがイエスの処刑に断を下すまでの、こってりした幻覚を見せる。何が何だかわからないまま、あやしい男は編集長がまもなく首を断ち切られて死ぬだろうと告げ、するとその予言通りにベルオリーズは足を滑らせ線路に転落、電車に頭部を刎ねられて絶命してしまう。詩人はショックで発狂する。

 ふざけようとしてふざけているのか、厳粛にしようとするあまりふざけているように見えるのか、ドタバタであることだけはまちがいない始まりかたをするこの小説の大騒ぎは、ページをめくるごとに悪ふざけの度合いを増していく。
 あやしい男とその仲間が行くところ、いるはずだった人間がいなくなり、あるはずのなかった札束が出現する。大劇場の支配人はじめ、関係者を軒並みたぶらかし、魔術師としてステージに上がった彼らは、種も仕掛けもない正真正銘の魔術で満場の観客を幻惑する。支配人はヤルタに飛ばされ、司会者のあたまが取れ、経理部長は失踪する。客席の女性客は極上の服飾品を与えられるいっぽうで、“演劇と大衆娯楽委員会”の議長が透明人間と化し、事務員たちは揃ってコーラスの練習に没頭させられる。規則と書類でどんなに秩序だてられた組織でも、いや、秩序だてられている組織ほど手ひどくひっかきまわされて、警察当局は右往左往するばかり。騒動の核心につながりそうな手がかりは、見つけた端から消えてしまう。
 くだんの男はもちろん悪魔だったのであり、その名はヴォランド。彼につき従うのは、格子縞の背広男、二本足で歩く黒猫、吸血鬼の女(つねに全裸である)、赤毛の暴力男。
 彼らのあとには吹雪のように十ルーブル札が舞い、躁病的な狂騒が街に広がる。続出する患者でにわかに活況を呈する精神病院の一室に、じつは数ヶ月前からひっそりと暮らしている中年男がいた。もと小説家志望の「巨匠」である。彼はどうやら、ピラトをめぐる大長篇を書いていたらしい。

 サドーワヤ通り三〇二番地のアパート、五〇号室をねじろとし、モスクワを蹂躙する悪魔一味の目的は何なのか(そもそも、目的があるのか)。彼らの所業は、挟み込まれるピラトの話とどのような関係をもつのか(そもそも、関係があるのか)。めくってもめくってもおもしろい。
 だからこの小説はまず、善良な市民のあいだに悪魔がもたらしたドタバタの、微にいり細をうがつ、意地の悪いディテールをおもしろがって読んでいればよさそうなのだが、そのうち話は第Ⅰ部から第Ⅱ部に移り、巨匠の愛人マルガリータが、悪魔に手を引っぱられるかたちでいよいよおおっぴらに舞台へ上げられる。彼女の献身と一途な思いが、どんちゃん騒ぎと並行して語られ、しだいしだいにこの作品の構成が見えてくると、また別種の感動をおぼえる。「なんと、構成があったのか」、そして「こんな構成がありなのか」、と。

 ヴォランドはどうしてマルガリータに目をつけたのか。巨匠は退院できるのか。イエスの処刑のあと鬱々として楽しまない総督を描いた、彼の小説の筋はどこへいくのか。
 巨匠とマルガリータとピラトの運命を追いかけ、手が勝手にページをめくっていくような状態で、「早く読み終えたい」と「もっと読んでいたい」とのあいだで気持は揺れ、なんだか久しぶりに、「もったいないから読み終えるのは明日にして、今日は寝る」なんて真似までしてしまった。
 そして実際、最後の50ページを使ってそれぞれの登場人物にそれぞれの幕が引かれていく様子は、まるで作者が登場人物といっしょになって読者に手を振ってくれているようでさえあり、特にある登場人物の、身に迫るような寂寥感と、そこに救済を与える方法には唖然とさせられた。
 エピローグの余韻にひたりながら、いまもあたまは勝手にあれやこれやの名場面を再生してやまず、とりわけ印象に残った、マルガリータがほうきで空を飛ぶシーンを引用しておきたい。はじめはおっかなびっくり飛んでいた彼女が、慣れるにつれ、大胆な滑空をはじめる。
《マルガリータがもう一度、ぐいと力をこめると、今度は屋根の群れが跡かたもなく消えてしまい、それにかわって、震えている電光の湖が下方に現われ、その湖が突如として垂直に持ち上がったかと思うと、やがて頭上に現われ、足もとに月が輝いた。マルガリータは自分が宙返りをしていたことを知り、正常な位置をとり、ふり返って見ると、湖はすでになく、背後には薔薇色に輝く夕焼けが地平線に残っているばかりだった。それも一秒後には消え、いまや、マルガリータの道づれとなっていたのは、頭上の左側を飛んでゆく月しかなかった。髪の毛はだいぶ前から風になびき、月の光はひゅうひゅう音を立てながらマルガリータの身体を洗っていた。》p517

 人間であるマルガリータがどうして空を飛べるのかというと、それは悪魔がくれたクリームを全身に塗りこんだためであり、言い換えると、彼女は全裸で空を飛んでいる。
 べつにその点ばかりに注目するのではないのだけれども、登場する女性たちが、魔女だけでなしに、主人公も脇役も区別なく、一般人まで含めておおむね全員、とくに意味があるとも思われないのになぜか全裸にされるというパターンが全篇を通して繰り返されるのは、つくづく馬鹿馬鹿しくて好きだった。

 めっぽうおもしろいこの小説を、私は集英社の世界文学全集である「集英社ギャラリー 世界の文学」の第15巻、『ロシアⅢ』で読んだ。この全集は、1977年の「集英社版世界の文学」→ここを参照)を再編集し、“新作”を加えたものだと思うが(さらにここを参照)、『ロシアⅢ』はほかにもいろんな有名作や短篇、詩をたくさん収録しており、なにより、まだ生きている点がすばらしい。

ロシア〈3〉/集英社ギャラリー「世界の文学」〈15〉ロシア〈3〉/集英社ギャラリー「世界の文学」〈15〉
(1990/10)
ゴーリキー工藤 幸雄

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 定価4935円は安くないが、古本屋ではどの巻もたいてい1000円で売っていて、私はそれで買った。しかも「巨匠とマルガリータ」には、この水野忠夫訳よりあたらしい版がふたつもある。
 まず、群像社の法木綾子訳は2巻本。(上巻は品切れか?)

巨匠とマルガリータ (上) (群像社ライブラリー (8))巨匠とマルガリータ (上) (群像社ライブラリー (8))
(2000/03)
ミハイル・ブルガーコフ法木 綾子

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巨匠とマルガリータ〈下〉第2の書 (群像社ライブラリー)巨匠とマルガリータ〈下〉第2の書 (群像社ライブラリー)
(2000/03)
ミハイル ブルガーコフ

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 郁朋社の中田恭訳は、わりと最近出たばかり。表紙が素敵。

巨匠とマルガリータ巨匠とマルガリータ
(2006/11)
ミハイル・アファナーシエヴィチ ブルガーコフ

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 で、水野忠夫の訳に戻るが、これは集英社で「世界の文学」→「ギャラリー 世界の文学」と二度のつとめを果たしたのみならず、さらに今度は、河出書房新社の「世界文学全集(池澤夏樹個人編集)」にまで収録されるようだ。→ソース
 解説によれば、1930年代のソヴィエト政権下で“反動的”と弾圧されていたブルガーコフは、発表のあてもないまま10年に渡って「巨匠とマルガリータ」の原稿を書き続け、そのまま死んだ。そのご30年ちかく経ってからようやく日の目を見るや、この大作は《たちまち各国語に翻訳され、世界中でセンセーションを巻き起こ》したという。
 出版を未来に託すしかなかったブルガーコフが、登場人物の「巨匠」に自身の姿を重ねているのは想像にかたくない。であればこの小説が、ロシアだけでなく日本を含む外国で、いま現在も訳を変え、版を変えしながらたくましく生き延びている事実は、作中で失意に沈んで筆を折ってしまった「巨匠」を悪魔が励ますという、なんだかわからないままそれでもひどくこちらの胸を打つくだりと、ただしく照応していると思う。
《「なにかほかのテーマを見つけられなかったのですか? 見せていただけませんか?」ヴォランドは掌を上にして手を差し出した。
「残念ながら、お見せできないのです」と巨匠は答えた。「暖炉で燃やしてしまったからです」
「失礼ですが、信じられませんね」とヴォランドが答えた。「そんなはずありません。原稿は燃えないものです」》p560
続・季刊誌を読んでみた

 きのうの続き:

■ 教科書専門の出版社だと思っていた光村図書は、児童文学の雑誌も出していた。その名も「飛ぶ教室」
 これも季刊で、2007年冬号の特集は、柴田元幸をゲスト編集者に迎えた“「飛ぶ教室」的文学講座”。ミルハウザーの短篇が載っていると最近知ったので買ってきた。つるつるの表紙で紙質もいい。もう次の号が出てしまっているが、バックナンバーはamazonでも扱ってるから大丈夫。

飛ぶ教室 8(2007冬)―児童文学の冒険 (8) 飛ぶ教室 8(2007冬)―児童文学の冒険 (8)
(2007/01)
光村図書出版

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《[…]意識的であるにせよないにせよ、「少年少女小説」をひとつの制度と捉えて、その制度を何らかの意味で崩しているような作品をなるべく選びたいと思った。せっかく大役を仰せつかったのだし、いまさら子供の無垢だの純真さだのを謳い上げた作品を並べたって仕方ない。》

 そんなわけで、選ばれているのは以下の作品。

 バリー・ユアグロー
 ・「大洋」(柴田元幸訳)

「yom yom」に続いてまたユアグローだよと思ったが、やっぱりおもしろい。安定して奇抜である、というのはすごいことだと思う。
《私の弟が大洋を発見する。夕食の席で、弟はそのことを報告する。「まあダーリン、素敵じゃないの」と私の母は言う。「さ、それ食べてしまいなさい」》

 短篇のほかに、柴田元幸との対談も載っていた(「桜とヤクザのいる風景」)。
ユアグロー 私は、何々派というのに属していません。それは、私が双子だということと関係があるのかもしれませんね。双子ということで、個人性というものがいつも危機にさらされていましたから、意識的にちゃんと確立しておきたいんだと思います。
柴田 双子のご兄弟も、同じように感じていらっしゃいますか。
ユアグロー いや、ちょっとタイプが違います。俺たち双子じゃないか!一緒だよ! というタイプかな。》

 なんだか笑えた。ニコラス・ケイジが双子の脚本家をひとりで演じる映画「アダプテーション」が、こんな感じの温度差だった気がする。


 アクトゥーロ・ヴィヴァンテ
 ・「ホルボーン亭」(西田英恵訳)
 ・「灯台」(同上)

 イタリア生まれの作家だそうで、どっちも子供時代を扱った、わりと正統的な少年小説。“暗い街なかで一軒だけ灯りのともったレストラン”や、“灯台守の老人”を登場させながら、ただのいい話には着地しないのがいい。


 ダニエル・ハルムス
 ・「トルボチュキン教授」(増本浩子+ヴァレリー・グレチェコ訳)
 ・「アマディ・ファラドン」(同上)
 ・「うそつき」(同上)
 ・「ある男の子に尋ねました」(同上)

 ロシアというかソ連の作家(1905-42)。どれもナンセンスな作風で、さらさらっと書き流しながら、メタな何かを素手で掴んでいる印象。子供のときに読んでも素直に偏愛したと思う。
 この作家、たしか最近、「本棚の中の骸骨」でも紹介されていたはず。絶版だった作品集が復刊されたとか。これもぜひほしい(→『ハルムスの小さな船』)。

「飛ぶ教室」は全作に挿絵をつけており、なかでもハルムスの作品についている絵は作品とぴったりでよいなあ、と思ったら、それを描いてるのは長崎訓子という人で、あれだ、きのう書いた「考える人」の「突撃!わたしの晩ごはん」の人じゃないか。シンクロニティ。(しかし、何と何の?)


 マリリン・マクラフリン
 ・「修道者」(小澤英実訳)

 北アイルランド出身の作家らしい。これは女の子特有の生理現象を扱った話。というか、生理の話だ。こればっかりはわからない。しかし思うに――
 いや、やっぱりやめた。


 レベッカ・ブラウン
 ・「パン」(柴田元幸訳)

 挿絵も入れると18ページあって、いちばん長い。全寮制の学校のような、あるいは何かの施設のような場所で生活する女の子の「私」と、そこで神格化されている「あなた」と、パンとケーキの話。はらはらする。
 ラスト近く、「ホイートロールの片側に切れ目を入れて、上半分と下半分を切り離し、二つの部分をお皿に、上の面と下の面を下に、中身を下にして置」 き、「共通のお皿に載った黄色い長方形からバターの三角形を切りとって自分のお皿に押しつけ、それからマーマレードをほんの一さじすく」って、「ロールの下半分をとり上げて、ナイフでバターを塗」 り、「その半分を下に置いて、もう半分をとり上げ、そっちにマーマレードを塗」ってから「ナイフを置いて、二つを元通りにくっつけ」 るシーンが、こんなに緊張感をもったものになるのかと舌を巻いた。あと、おなかが空いた。


 スティーヴン・ミルハウザー
 ・「猫と鼠」(柴田元幸訳)

 本命、ミルハウザー。今作では、世界一有名な猫と鼠の宿敵コンビが仲よく喧嘩するアニメを、容赦なく文章化してみせる。文字で読むと、猫に対する鼠の仕打ちがほんとひどいことになっている。加えて、ミルハウザーの筆は両者の内面にも踏み込み、しかつめらしい思索を読み取るという勝手な真似をする。
《鼠の優雅さや、教養と倦怠を漂わせたその雰囲気、余裕ある態度に自分が敬意を抱いていることも、猫は忌々しい思いとともに自覚している。なぜ鼠はいつも本を読んでいるのか? ある意味で、鼠は猫を萎縮させる。鼠の前に出ると、自分がぶざまで愚かな存在だという気にさせられるのだ。猫は鼠のことを四六時中、憑かれたように考えている。そして、あの茶色い部屋にこもった鼠が、自分のことをしばしばまったく考えもしないことを、猫は怒りの念とともに感じとっている。もし鼠があれほど無関心でなかったら、これほどの憎悪に自分は駆られるだろうか? 一緒に同じ家で仲よく暮らすことも不可能ではないだろうか? 胸に巣喰うこの憤怒の痛みから、自分は解放されるだろうか?》

《滑稽なまでに間抜けな猫が、何度も何度も失敗する自由を有していることを鼠は認識している。そのぶざまな生涯の長きにわたって、猫は何度でも失敗できるのに、翻って自分は、ただの一度もあやまちを犯す自由に与えられていない。[…]自分の抱えている退屈が危険な弱味であって、それに対してつねに用心を怠ってはならぬことを鼠は理解している。鼠は時おり思う。こんなふうに自分を見張りつづけるのをやめることができたら。自分を自由に解き放てたら! そんな思いに鼠は我ながらぞっとし、そっと鼠の穴の方をふり返る。穴にはすでに、猫の影が落ちかけている。》

 運動を、静止したコマの連続であるかのように細かく描写するミルハウザーの作風は、何を書いても人形アニメやクレイアニメに近い印象をもたらすものだと思うが、そこであえて(だと思う)セルアニメ中のセルアニメに材をとっているところにひねりが読み取れておもしろかった。勝手なのはミルハウザーか私か。


 ここまででもじゅうぶん満喫したのだけれども、しかし「飛ぶ教室」今号でいちばんの収穫は、カラーで採録された漫画2作だった。

ウィンザー・マッケイ「眠りの国のリトル・ニモ」(小澤英実訳)

フランク・キング「ガソリン・アレー」(同上)

 両方とも、新聞に掲載されたサイズの大きな作品で、その広大なスペースを、どちらの作家も好き勝手に使って遊んでいる(マッケイはミルハウザーの作品のモデルにもなった人)。だれでもそうだと思うけど、与えられてる形式自体を遊んでしまう、というのが私もやっぱり好きだった。
 以上、「飛ぶ教室」の充実ぶりはたいそうなものだった。ほかの号でも「創作特集」とかしてるので、ぽつぽつ追いかけてみたい。


追記:
「リトル・ニモ」について柴田元幸は、『愛の見切り発車』のなかでも賛辞をささげていた……のだが、新潮社はこの書評集を、ハードカバー文庫も絶版にしてしまった模様。海外文学関係に対するその見切りの早さには、相変わらず愛がないと思う。
季刊誌を読んでみた

■ こないだ前を通りかかった映画館では、ちょうど「東京タワー」「北斗の拳」をやっており、チケットを買う窓口には2枚のチラシが並べて貼ってあった。ちょっと離れて見ると、オダギリジョーに手を引かれた樹木希林に“ラオウ 死す”とのコピーがついているようだった。

■ そんなことはどうでもいいのだが、いまさらながら新潮社の「yom yom」第2号をめくっていて、はたと気付く。

 「これ、想定読者は女の人か」

 気付かなかった。ああ、それゆえの外様感だったか。表紙じゃわかんないからね。思えば第1号を読んだときにもなんだかこそばゆかった。コラムを連載している大森望は、第1号はほとんどのページが一段組だったから売れた、みたいな分析を紹介してこう続ける。
《[…]つまり、14字詰め四段組のこんな“惜しむらく”頁にまでじっくり目を通している活字中毒のあなたは、『yom yom』読者の主流派にあらず。書いている私に至っては、創刊号じゃ、三段組、四段組の頁しか読んでいない。》

 身も蓋もない。真の想定読者は「新潮文庫を読む人」なのだろう。おかげで私ははじめて倉田真由美の連載を読むことができた。漫画ではなく対談だけど。毎号買っていけば、私にとって未知の作家(江國香織とか)の作品も次々に読めるのかもしれない。バリー・ユアグローが登場するようなスペースも残しておいてください。
 そのユアグローは、今号に短篇をふたつ(「泡」「スニーカー」)寄せていて、どっちもおもしろい。「泡」のはじまり方はこうだ。
《私は六才の人物になりすまそうとした廉[かど]で逮捕される。結局、証拠はあまりに奇妙かつ曖昧と判断され、私は釈放される。》

「スニーカー」の方は、あたらしいスニーカーを買ってもらったばかりの子供がひどいめに遭う話。救いはない。そういうのばかりを集めた、つまり相当おもしろそうな『たちの悪い話』を、まだ買っていなかったのを思い出した。
 第1号ではアメリカ小説の特集なんかも組まれていたのだし、今後も「yom yom」はこっちの方向にも偏った作り方をしてほしい。「yom yom」が売れたら、新潮文庫に死蔵されている翻訳小説を何とかしてほしい気もする(『緑の家』とか『ユニヴァーサル野球協会』とか『カチアートを追跡して』とか)。

■ 「yom yom」が出たのはもう2ヶ月くらい前だったと思うが、だいたい読むのが遅いので、雑誌だと、週刊はおろか月刊でも読むのが間に合わない。季刊でちょうどいいくらい。同じ新潮社の出している「考える人」2007年春号も読んでみた。「特集・短篇小説を読もう」。
 丸谷才一、村上春樹、川上弘美へのインタビュー(例によって村上春樹へはメールでインタビュー)、各国別おすすめ短篇、高橋源一郎と橋本治の対談、などなど。「短篇小説を読もう」といっても“案内”なので、実作は2作だけ(堀江敏幸と、ジュンパ・ラヒリ)。
 こういう特集に必ずある“わたしの好きな短篇3作”なるアンケートで、若島正にも回答を求めており、いや、あの人に3作てと一瞬思ったが、ほかの回答者の多くがそれこそ人生のベスト3を選ぼうというような意気込みのなかにあって、ひとり「今回は親子物で揃えてみたくなった」とかるがるセレクトしているのはさすが。そういえば『棄ててきた女』『エソルド座の怪人』もまだ買っていなかったのを思い出した。
 しかし、もっとも目を惹くのは、短篇集の詰まった表紙である。1冊くらい早川の異色作家短篇集があってもよかったんじゃないかと、ろくに読んでないくせに思った。
 特集以外のものでは、長崎訓子という人が自分の食事をイラストで記録したルポのタイトルがよかった。いわく、「突撃!わたしの晩ごはん」

考える人 2007年 05月号 [雑誌]考える人 2007年 05月号 [雑誌]
(2007/04/04)
不明

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 おそるおそる、私も3作考えてみた。
 ほかに尺度がないので、たんにベスト。

(1) ドナルド・バーセルミ「学校」(柴田元幸訳、『Sudden Fiction2』所収)
(2) A・E・コッパード「郵便局と蛇」(西崎憲訳、『郵便局と蛇』所収)
(3) テリー・ビッスン「ふたりジャネット」(中村融訳、『ふたりジャネット』所収)

 もう1冊、季刊誌を読んだのだけれども、長くなりそうなので明日にする。

→続き
ストレート

 日露戦争へ赴く弟のために、与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」と歌ったのは有名な話だが、この詩の後半をご存知だろうか。私は知らなかった。歌人の穂村弘に教えられた。
 ああ、順を追って書こう。
 筑摩書房PR誌「ちくま」に穂村弘はエッセイを連載しており、その2007年5月号掲載分は「直球勝負」という話だった。
 そこでこの人は、「ものすごい直球を投げるひとがいる」という書き出しから、自分が実際に身近で耳にした「ものすごい直球」の例と、漫画のなかで見た「ものすごい直球」の例をひとつずつ紹介し、そのうえで「今思い出せるなかで最高速の、火の玉のような直球」として、与謝野晶子のあの詩から、後半の一節を引用するのである。
《 すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね

[…] 「天皇自らは戦争に行かれない」ってことだろうけど、よくここまで云えたものだ。身も蓋もない率直さを支えているのは社会や制度に対する批評性ではない、と思う。晶子は特に反戦的な思想をもっていたわけでもないようだし。では、何が彼女にこの詩句をつくらせたのか。》

 もうすこし続くがここで止める。「ちくま」、私は岸本佐知子『ねにもつタイプ』のもともとの掲載誌ということで、あれを読んだ次の日に定期講読の申し込みをしたのだけど、とうぜんそっちも毎回おもしろく、ほとんど風格まで漂っている(そういえばこんなものを見つけた)。
 基本は筑摩書房の新刊を書評のかたちで宣伝する媒体であり、ほかにも連載は多々あって(そのなかには笙野頼子まで含まれる)、筑摩書房が岸本佐知子と穂村弘で自社をPRしようとしているわけでは決してない。
「webちくま」もいろいろ盛りだくさんだが(読みきれない)、「ちくま」の方も、これで年間購読料1000円(送料込)はなかなかにお買い得ではないかと思う。申し込み方法はこちら

「君死にたまふこと勿れ」は、こことかで全文が読めた(音、というか曲が流れます)。
川村記念美術館に行く
 帰省したりしていたが、連休の終わりにもうひとつそれらしいことをしたいと思ったので、土曜日は川村記念美術館へ行ってきた。

 まず、総武線で千葉まで→総武本線で佐倉→送迎バス(無料)で美術館。待ち時間含め、部屋を出てから正味3時間半かかって到着。実家に帰るのと変わらない。電車の外、一面に広がる田んぼは田植えの季節だった。
 サイトによればこの美術館は、大日本インキ社の研究所が所有する敷地(9万坪)の一角に建てられた施設だそうだが、敷地のそばの駐車場はすでにおおかた埋っている。この全員が美術館に入ったらまず絵なんて見れないよ、と目先の不安に捕らわれた私は甘かった。サッカリンよりも甘かった。
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