2007/04/27

4月のもろもろ

■ 読売新聞読書欄、レスリー・デンディ『自分の体で実験したい』評がなんだか面白い

 「命がけの未知への挑戦」(高橋秀実)
 http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20070423bk04.htm


■ 佐藤亜紀の新作出来

 「大蟻食の生活と意見」(04/23)
 http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2007/04/2007421.html

 『ミノタウロス』は5/10発売。おなじ日に『雲雀』も文庫化。
 3年前のインタビュー:(→前半が『天使』『雲雀』、後半に今度の新作の話)


■ 「webちくま」で宮沢章夫の新連載

 「テクの思想と、その展開」
 http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/index.html

 あと、ものすごいことに、「ニュータウン入口」の戯曲第一稿が読める
 http://www.u-ench.com/newtown/text1/index.html


■ 「写実絵画からは腐臭がする」という話

 「内田樹の研究室」(4/24)
 http://blog.tatsuru.com/2007/04/24_1059.php
《葡萄は当然腐る。
腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できないので、腐った葡萄の粒をもぎ棄てて、買ってきた似たかたちの葡萄を粒を接着剤で貼り付けて、続きを描く。
描き終わったときには、描き始めたときに描いた葡萄はもう一粒も残っていない。
絵に描かれた葡萄のかたちは瑞々しいのだが、最初に皿の上にあった葡萄はすべて腐って、画架の前から姿を消してしまったのである。》

 考えたことがうまく書けないんだけど、とにかく(←魔法の言葉)、「かかった時間」を軸に作品を見る、聞く、読むなんて考え方は、十代の私にはピンと来なかったと思う。時間が経ったんである。
2007/04/22

「ニュータウン入口」(プレビュー[1]リーディング公演 2007/04)

 4月21日の土曜日、宮沢章夫の遊園地再生事業団公演「ニュータウン入口」を見にいった。地下深くの大江戸線をぐるっと回り、昼過ぎの地上に出てみると、道路が碁盤の目。会場の森下スタジオは江東区だ。
 今回のは9月の“本公演”に向けた“リーディング公演”。6月末にあともう1回、“準備公演”がある。
 リーディングというからには役者が台本を読むのだろうけど、演劇自体あんまり見たことがないので何がはじまるのかわからない。チラシを眺めていると、やがて開演時間。片手に台本をもった役者がぞろぞろ入ってきて、女性ふたりが何か重々しげな台詞を朗読する。すると音楽が聞こえてきて照明が落ちた。私はあっさり鳥肌が立った。

関連:



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2007/04/16

KV

■ 追悼ビデオ:YouTube
 http://www.youtube.com/watch?v=atABhlMLYvU&eurl=http%3A%2F%2Fwww%2Emieko%2Ejp%2F
《ローラータオルのそばのタイルには、鉛筆で落書きがしてあった。
 これがそれである。

 人生の目的はなんだ?

 トラウトは、ペンか鉛筆がないかと、あっちこっちのポケットをさぐった。彼はその質問に一つの答を持っていた。だが、書くものがなにもない。燃えさしのマッチさえも。そこで質問には答えずに出てきたが、もし、なにか書くものが見つかっていたら、彼が書いたであろう答は、これである――

  宇宙の創造主の
  目と
  耳と
  良心に
  なることだ、
  バカもの。 》
『チャンピオンたちの朝食』(浅倉久志訳)

「燃えさしのマッチさえも」。その死に際してファンが引用したくなるフレーズを、これほどたくさん書いてる作家もそういないんじゃないかという気がまえまえからしていた。いまあちこちのブログを見てもそう思う。上の動画はそんなひとつから発見した。
 たしか松尾スズキもヴォネガット読者だったと思うが、それはともかく、「TV Bros.」連載のコラム(「お婆ちゃん!それ、偶然だろうけどリーゼントになってるよ!!」)で、書いていた。(4/14-4/27号)
《見つけてやるなよ。いや、加護ちゃんの喫煙の話さ。37歳のおっさんと温泉旅行の話さ。19歳? 働いてるんだよ、小さな頃から。[…]ただの19歳じゃないんだよ。身体はって死に物狂いで大人たちに振り回されながら、ビョンビョンだのプルンプルンだの、高熱の人の寝言みたいな歌を唄って働いてきたんだよ。想像つくのか?[…]
 いや、悪いよ。悪いですよ。未成年が煙草吸ったら。俺もキレイごと言わなきゃいけない年齢だから言うけれども。でも、俺がそれスクープした記者だったら、ま、見てみぬふりするか、それがいけないんだと真剣に思うんだったらその場で注意するね。まあ、口で言わないまでも、そっとメモを手渡すね。
 「おイタは、ほどほどにね。
        ニコレット伯爵より」》

 中略した部分が真骨頂なので、コンビニで立ち読みしてほしい。
2007/04/05

十字架

 メモ。東京MXテレビ(9チャンネル)の円谷劇場「ウルトラセブン」は、4月から放映が月曜23:00-23:30 に変更されていた。今週は見逃した。
 しかし来週・再来週はこれである。

 「セブン暗殺計画(前編)」(4/9)
 「セブン暗殺計画(後編)」(4/16)

 「我々は、いかなる戦いにも負けたことのない無敵のガッツ星人だ」。
 その昔、子供雑誌で見た、透明な十字架にはりつけられたセブンを夕日が照らしている図は、幼なごころに衝撃だった。子供のころって、落ちたら致命傷になる落とし穴が身の回りいたるところに開いていたと思う。
 そして4/23は「ノンマルトの使者」。→「ノンマルトの使者」は4/30だった。


DVD ウルトラセブン Vol.10
2007/04/03

柴田元幸+沼野充義『200X年文学の旅』(2005)

200X年文学の旅
作品社

 柴田元幸+沼野充義『200X年文学の旅』を読んでいる。ぜんぜん読み終わらない。
 これ、出たときに買ってトークショーにまで行ったのだが、基本的にブックガイドであるこの本じたいは、一気に通読するともったいないから、少しだけ読んでは置き、またしばらくしてからめくったりしているうちに、どこまで読んだかわからなくなる。で、また最初から読み直したり、てきとうに開いたところを読んだりを繰り返しているので、もしかすると私はとうに全ページに目を通しているのかもしれない。していないのかもしれない。どちらでもいい。
 どこを開いてもおどろくのは両者の元気っぷりで、それぞれ異様に広い守備範囲でめちゃめちゃたくさん本を読んでは面白いところを紹介し、紹介するばかりか翻訳し、作家本人にも会いに行くし、イベントを企画・実行もする。そんなふたりの“最近の収穫レポート”が交互に並んでいる。そんな本。
 このような活動の結果としてこういう組織まで発足させた、精力的で活動的な学者ふたり。好きなことをとことんやる、の極端なケースとして、これはこれでタガが外れているというべきだろう。

 そんなふたりだから、似たもの同士といえばいえるが、微妙にスタンスはちがう。
 たとえば、沼野充義がよく使う「文学」という言葉を、柴田元幸はほとんど使わない。だいたい「小説」で済ませている印象。それはおそらく、柴田元幸はあんまり取り上げない詩作品を沼野充義はたびたび話題にし、むこうの詩人とも親交があることと無関係ではないのだろうけど、たんに小説と詩をあわせて「文学」と呼んでいる、というだけでもないように見える。これとは別の本を読んでいても、柴田元幸は「文学」を主語にして何か言うことはあまりない。具体的な個々の作品について、ひたすら具体的に語り、翻訳する。沼野充義ももちろんそのようにするのだが、そのうえで不思議と「文学」を背負ったような物言いをすることが多い(この本とか)。
 どちらのほうがより学者らしいかは別として、この『200X年文学の旅』のまんなかあたりにこういう記述があった。
 ――2002年の10月にモスクワの劇場を武装勢力が占拠する事件が起きたとき→参考、沼野充義はちょうど現地に滞在していたという。もし劇場の演目をあらかじめ知っていたら、自分もそこに足を運び、結果、人質になっていたかもしれない。数日後、沼野充義が予定通りにモスクワ大学で「日本における現代ロシア文学とロシアにおける現代日本文学」という講演をしたのは、奇しくも特殊部隊が劇場に突入して無理やり事件を鎮圧してからほんの数時間あとだった。
《「[…]モスクワでこれほど恐ろしい事件が起こっているまさにそのときに、文学について語らなければならないのは、なんだか気まずくもあります。いまは〈文学どころじゃない〉のではないか、現実の恐ろしい事件に対して、文学なんて役に立たない無力なものではないのか。アドルノ以来、サルトル以来、言いふるされたことですが、そんな疑念が頭を去ろうとしません。しかし、現実には、それほど恐ろしい事件が身近に起こっていても、私たちは以前と同じように生き、話し、笑い、小説を読みさえもしている。それでいいのだ、そうでなくてはならない。人が普通に生きることを、テロリストや戦争に妨げさせてはいけないのです。だから、私が文学について話したいのだったら、何が起こったとしても、私は文学について話すべきなのだ。それが結局、私のささやかな倫理的選択に他なりません」》p216

 トークショーで見た沼野充義は、岸部シローに似ていた。
2007/04/02

日記

 週末に花見をしないかと誘われたものの、実家に帰る用事があったのでパスするしかない。
 荷物をまとめて、土曜の午前中から上野へ。で、せっかく上野を通過するからには、いったん降りて東京都美術館「オルセー美術館展」でも見てから帰ろうと思い立つ。
 会期は終わりかけている(4/8まで)、しかも土曜日、とはいえ10時だからまだ大丈夫なのではないか(開館9時)と逡巡しながら山手線を下りて公園口改札に向かうと、すでにホームで人の群が波打っていた。駅員がロープを張って波の誘導に立ち向っている。そうか花見か。
 自分が花見をパスしたことで、ほかの人-花見-上野公園という連想がすっかり切れていた。自分がいかに身の回り半径50センチの視界と想像力だけで生きているか、あらためて思い知る。
 しかしこの人混みの大半は花見が目的のはず、「花見のついで」で寄るとしたらきっと動物園だ、と気を取り直し、家族連れと団体様の渦に飲み込まれながらも公園を進んで奥の奥にある東京都美術館までたどり着くと、入場規制がはじまっていた。もうだめだった。さようなら。

 何のために上野で降りたのかわからなくなったので、入り口近くの国立西洋美術館に入ってみる。企画展はチューリヒ工科大学版画素描館の所蔵作品による イタリア・ルネサンスの版画」おお、空いている! てか、ガラガラだ!
 展覧会は木版、エングレーヴィング、エッチングと作品が並べられ(→こことか参照)、細い線のエッチングが開発されると光と影の表現が一挙に少女漫画化するのを目の当たりにした。
 解説のパネルで面白かったのは、数多くの作品でモティーフの「引用」が頻繁に行われているのを説明していたやつ。作品Aの中央にいる人物のポーズが作品Bの左側の人物に使われています、作品Cの女性を左右反転させて描いた作品Dの女性の上半身を用いたのが作品Eです(左手の曲げ方に注目!)……みたいな。
 関連して、ルネサンス期に登場した版画というものは、作品を広めるうえで“圧倒的な早さ”を誇る“新メディア”だった、という指摘になるほどと感心したことを、このブログというものに書いておく。
 それから常設展も見倒した。やはりガラガラだった。思えば、東京都美術館に行く→入れない→ここの常設展を見る、というパターンは何度めだろう。つくづく、ここがあってよかった。感謝のあまりコインロッカーに文庫本1冊だけを忘れてきたのに気付いたのは、みどりの窓口であと5分後に出る電車の切符を買ってからだった。

 美術館のなかを歩き回るのにかかったのが計2時間半。そのまた2時間半後には、実家の居間にいた。こういう時間の経過は相変わらず不思議だ。騙されているような気持のまま、戸棚から自分の湯呑みを取り出し、お茶をついで飲んだ。