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 帰省してきます。優柔不断な私でも、これだけ回数を重ねれば帰省も慣れたものだから、10分で荷物をまとめ、持って帰る本で20分悩む。電車が行ってしまう。
 帰京は1月3日夜。今年も年賀状を買いそびれたままずるずると暮れた。みなさんよいお年を。
戸田山和久『論文の教室』(2002)
論文の教室―レポートから卒論まで

NHKブックス


 日曜が月曜へ日付を変えたころ、終電を待っていた西武池袋線の駅でホームのベンチに捨てられていたのを拾って読んだ。
 タイトルの通り、これは論文の書き方を学生向けにレクチャーする実用書だった。作者の本業は「科学哲学」の専門家なんだそうである。では中身はどんな具合か。まず、「はじめに」はこう書き出される。
《 本書の独自性とねらい

 世の中には数えきれないほどの「論文の書き方本」がある。そうした類書と本書の最も大きな違いはつぎの点にある。それは、これら無数の類書の中で、この本だけが私によって書かれたということだ。この違いは読者のみなさんにはどうでもいいことかもしれないが、私にとってはとても重要である。なぜなら、売れゆきが私の経済状態にかかわりをもつのは本書だけだから。
 というわけで、私はなるべく多くの方々に読んでいただきたいと念じつつ本書を執筆した。もっとストレートに表現するならば、売らんかなの精神で書いた。[…]p9

 たいへんなことにこの本は、きっちり最後までこんな調子で書かれている。
(1)これまで論文なんて書いたことのない大学新入生と、(2)彼を容赦なく教育して教育して教育し倒す先生、というふたりのキャラのやりとりで構成され、学生が徐々に成長していく過程をもっておおまかな流れとしているのだが、その学生が作文ヘタ夫くんと名付けられているのだからベンチに捨て置いた人の心中もそこそこ想像にかたくない。しかし正直、このネーミングで済ませてしまえる作者の身のこなしに私は軽く感動した。

 ひたすらに型を遵守して書け、と「先生」は――作者は――繰り返す。むしろ、型に引っ張られて進んでいくのが論文書きという作業なのだ、と。
 その目標のためにアウトラインの必要性を説き、論証のテクニックを懇切丁寧に実演するこの本を読みながら私があらためて思い知ったのは、“徹頭徹尾、論理の筋を通してやろうという強靱な意志で貫かれた文章を、これまで自分はいっぺんも書いたことがない”という事実だった。
《第2章では論文を定義して、「問いと主張と論証のある文章」と言った。しかし、「ぼくはキミの前にくるとしびれちゃう。なんでかな。キミがぼくを見つめているからさ。だって、キミの瞳から一〇〇万ボルトの光線が出てるんだモン。うおううおう……」とヘタな路上ライブをやっている人がいたとしても、だれも「おっ。問いかけと主張と論証があるね。なかなかいい論文だ」とは言わない。この歌は、論文の形式をもっていないからだ。》p72

 一見スラスラと書き流しているようなこの文章を、自分がどうして3回読み直してうなるほど面白いと感じるのか。そこを分析し論理立てて説明し尽くす能力が、私にはない。ヘタ夫くんは私だったのである。
 なお、本文の雰囲気と完璧にマッチしているという点で、表紙のイラストもかなりの好感度である。この作者による「科学哲学」の入門書も読んでみたくなった。
大竹伸朗「全景」
 東京都現代美術館「大竹伸朗 全景」展を見てきた(→公式サイト)。すごい楽しい。会期が終わり近いのが惜しまれる。

 東西線の「木場」駅を出て、真っ直ぐな道路が真っ直ぐに交差する道を10分ばかり歩いていくと、きっちり区画整備された地図の一部分にぽんと配置されたみたいな美術館が現れる。高い屋根のある入り口通路の横はオブジェがふたつばかり置かれた広場になっており、明らかに美術館の客ではない地元の女の子が、父親に手をつないでもらって一輪車の練習をしていた。広場をぐるぐるまわるふたりから目を上げると、美術館の屋上に「宇和島駅」のネオン。おお、展示は始まっている。

「展示作品の数がすごい」ともっぱらの評判で、着いたのが夕方4時、閉館が6時だからきついかなと思っていたら、入り口でポスターみたいにでかい館内の展示マップを渡された。順路は3階からだが、吹き抜けになっている地下2階に設置されたステージから出るノイズの爆音が全館に響いている。
 で、入ってみるとこれが本当にすさまじく多い。展示室の、上は高すぎて目の届かないところから、下はかがまないと見えない場所まで、ぎっしり「作品」で埋めつくされていた。
 切符やチケット、ラベル、切り抜いた写真そのほか、なんでもかんでも貼りつけたスクラップブックの数十冊を皮切りに、小学生のころの落書きからコラージュ、デッサン、版画、人形、ギター、平面、立体、ビデオ映像、本、絵本、解体した漁船の部品、その他多数のなんだかわからないものいろいろが一堂に会し、見ても見ても、これでもかというくらい次から次へと並んでいる。どれだけ時間があっても「すべて見る」のは不可能だろうから、今日のように短い時間で限られてしまっていても別にいいのだと考え直す。小さいのはメモ帳から、大きいのは吹き抜けの壁2階分を覆うパネルまで、壁にも、ケースにも、床にも、通路にも作品はあふれかえり、もしかするとトイレのなかにも展示があるんじゃないかと思わされるほど(ありませんでした)。
 
 物量がこの展覧会の生命線なのはまちがいなく、その迫力に圧倒されながらだれもがおそろしいような気持になって考えるのは、「とっておいたのか、これ全部」ということで、何か思いついたらすぐ作り、ひとつ作っているあいだに別のものを思いついてまた作る、というのはこの作家の活動の半分で、こうなると「保管」も創作の残り半分を占めていると思った。小学生時代の「するどい爪!!」なんかも、この数のなかに置かれることで「作品」になる。だいたい、サイトで紹介されている作品数が“50”というのがすでにおかしい。総展示数は何百になるのか見当もつかない。
 数が多いことを“山のように”と言ったりするが、この展覧会はそんな言葉では間に合わなくて、むしろこれから、数がたくさん・種類も雑多・大きさもさまざま、なものが集まっている状態を“まるで「全景」展のように”と表現していきたいくらいだ、と書いてみて気づくのは、“「全景」展のように”という言葉にふさわしいものがこの「全景」展のほかにあるのだろうかということで、なんだかよくわからなくなってもくるのだが、そんな館内を、私より年下の人、年上の人、子供、カップル、夫婦、たまに外国人、みんながうろうろさまよい、筒状に丸めて小脇にかかえたポスター大の展示マップをときどき広げては歩いている。BGMはノイズ。おすまし顔を保つ美術館員。なんだこの空間、と何度も笑いそうになる。ここなら、どれだけ混雑していても鑑賞に何の影響もない気がした。自分がいましているのは鑑賞なのかという気もした。
 なお、私がはじめて大竹伸朗の名前を知ったのは、トマス・ピンチョンの短篇集『スロー・ラーナー』ちくま文庫版のカバー装画に作品が使われていたからで、それの実物があった(見つけられた)こともラッキーだったのに、amazonにもbk1にも書影がなくてリンクが貼れない。作品自体は大学時代のものらしかった。

 なんとか出口まで着くと6時になってしまい、常設展は見れなかったけれども十二分に満足した。東京都“現代美術”館であっても閉館を知らせるのは「蛍の光」だったが、しかしそれにかぶせるようにしてまた始まるノイズ。なんだこの空間。あれだけの展示を見て歩き回り、そのうえ元気になって帰ってきた。12月24日の会期終了まで週末はもう1回ある。だれにでもおすすめしたい。
木村榮一×高橋源一郎トークショー @ABC
 青山ブックセンター青山本店で、「木村榮一×高橋源一郎トークショー “物語は永遠に”」を聞いてきた。新潮社のガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラの時代の愛』刊行記念。木村榮一さんは両方の訳者です。

 はじめに『わが悲しき娼婦たちの思い出』(90歳の誕生日に処女を欲しがる男の話)、次に『コレラの時代の愛』(ひとりの女性を50年以上待ち続けた男の話)のあらすじと、見どころ紹介があった。
 どちらも「老い」が前面に出ている作品ながら、ガルシア=マルケスは依然元気なんだそうで、本を読むにも老眼鏡が必要な高橋源一郎(55歳)がしみじみ語るところによれば、人は年をとっても、14、15のころと何も変わらないらしい。
(社会との取り引きに加わることで大人になったつもりの人も、そういうとこから引退すると「子供に戻る」。「しかも作家ははじめから社会と関係がないんですね」)

 小説のなかで実際に何が起きているのか曖昧なあるシーンについて、スペイン語原文を日本語に直した木村氏と、その日本語を読んだ源一郎氏とで解釈がちがっていたのが面白い。それが立派な翻訳ということじゃなかろうか、と、『エレンディラ』を読んだときから木村榮一ファンの私は思った。
 原文と翻訳の朗読もあり、あとは木村氏の、「雨が降るとぜったい事故るカーブ」そのほか、メキシコ奇譚(本にできない)に笑う。関西弁を全開にしてから、がぜん喋りに勢いがついていた。
 とくに興味をひかれたのは、後半、源一郎氏が「“ファンタジー”や“フィクション”を書こうと思って書く小説家はいないんじゃないか」と、やたら原理的な発言をしてからのやりとり。

・リアリズムの近代文学が危機に瀕すると、どこの国でもオーラル(口承的)なものが復活する
・現実と言葉を一対一で対応させるリアリズムの規範では「嘘」に分類されることを書いている作家でも、みんな「自分にとっては本当のこと」を書いているはず(ラテンアメリカ文学につけられた「マジックリアリズム」という名称は、もともとよその国の学者によるレッテル)
・砂漠では一神教、森では多神教、前者がリアリズムにつながったが、後者だって生きている……
 エトセトラ。

(現実的なものごとと非現実的なものごとがごたまぜで描かれ「マジックリアリズム的」だと評される小説を読んで、私の場合、いつもよくわからなくなるのが、じゃあ、ごく現実的なものごとだけを扱っているはずの小説はどこまで現実的だといえるのか、小説という虚構のなかで何が現実的だといえるのかということで、だからといって「何も区別しない」のもちがうんじゃないかという実感がある。これはいくらでもぐだぐだ言えることなのだけど、そういった抽象的な物言いで何かひとつのものさしがあるかのようにふるまうより、「現実/非現実の基準は個々の作品によってちがう」という当たり前のことを受けとめて1作1作小説を読んでいく方がいいんだろう)

 日本におけるリアリズムとしての近代文学が終わるのを見届けるのが自分の役目じゃないかと任じる高橋源一郎が「文學界」連載中の評論「ニッポンの小説」は、年が明けて1月15日の刊行予定、と最後にうまくつなげて宣伝していた。

 以上、当然のことながら、ぜんぶ私の記憶のトークショー。


 ○ ○ ○

ガルシア=マルケスその他、前に書いた感想を一応。












わが悲しき娼婦たちの思い出 わが悲しき娼婦たちの思い出
ガブリエル・ガルシア=マルケス (2006/09/28)
新潮社

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コレラの時代の愛 コレラの時代の愛
ガブリエル・ガルシア=マルケス (2006/10/28)
新潮社

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ラテンアメリカ文学を読む (1980年) ラテンアメリカ文学を読む (1980年)
辻 邦生 (1980/05)
国書刊行会

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またパプリカ
 アニメの「パプリカ」を見たついでに、原作の『パプリカ』を読み返す。せっかくなので新潮文庫版を買った(解説:斎藤美奈子)。
 記憶していたよりずっと抑えた、無愛想なくらいの筆致ではじまるだけに、こちらも背伸びさせられて、描かれている相当に変な出来事を、「そんなことはちっとも変じゃないんだ」と受け取ってしまう。患者を自分のマンションに連れてきて眠らせ、見た夢の記録映像を、明け方、当人と一緒に眺め検討するセラピスト(美人)。このトーンが、クライマックスの前後を覆う、「どうしてそんな無無茶苦茶な状況が生まれたのか説明はされているが、しかしどうしたって無茶苦茶な状況」を準備する。サービスにもいろんなやりかたがある。類型的なキャラを動かす手つきにも迷いがない。筒井康隆は、実は『パプリカ』を書いている時に最も文豪だったんじゃないかとさえ思った。
《「おれたちは今後、夢と現実を区別しちゃいけないと思う」》p360

「失われたDCミニの最後の1個が発見される」数行が、初読時からずっと忘れられない。また読んでよかった。


パプリカ パプリカ
筒井 康隆 (2002/10)
新潮社

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たんに愚痴
 1週間くらい前から、パソコンの液晶モニターが不調で困っている。なぜか突然、画面の「明るさ」と「コントラスト」が最低になってしまう。
 たぶんモニター自体の問題で、前面下についてる調節ボタン(買ってから触った覚えがない)が勝手に押されてしまっている状態。いきなり「明るさ」を示すゲージが画面に現れて、みるみる減っていき、つぎに「コントラスト」のゲージが減る。しかもゲージそのものは表示されたまま消えず、そのあいだはこちらでボタンを押しても反応がない。世界は暗い。
 部屋の照明をぜんぶ消せば文字も読めなくはないが、そのうえで画面中央に位置する横長のゲージを下からのぞくようにしてモニターを見つめ、不自然な姿勢で「パプリカ」の感想を書いていたらえらく肩が凝った。憎たらしいことにときどきゲージが消えるので、すわ、とボタンを操作し普通の明るさに戻すのだが、数分でまたゲージが現れ減っていく。
 いまこの文章も暗い部屋の暗い画面で書いており、私としては、停電のお店で食事しているような珍しい気分でいるのだが、この珍しさ、たまたま同じくモニターが不調である人以外にはおよそまったく伝わらないと思うとむなしい。伝わらなさ具合を想像して楽しくなってきた。

 ところで「パプリカ」、私はテアトル新宿で見たが、映画自体は90分なのに、はじまる前、ほかの映画の予告がやたらと多くて長かった。合計して20分以上あったんじゃなかろうか。本を読んでるわけにもいかないし、強制的に見せられるのでたいへんだ。
 とはいえ数が多ければ、なかには驚くような予告もあるもので、なかでもすごかったのは、実写にデジタルペイントを施した変な映像の「スキャナー・ダークリー」……ではなくて、たしか「百万長者の初恋」という韓国映画の予告だった。
 なんでも主人公である男の子は百万長者の遺族らしく、ゆくゆくは莫大な遺産を相続できるらしい。ただしそれには条件があって、なぜかド田舎の高校を卒業しないといけない。いやいや転校していった彼は、そこで美少女に出会う。彼女は孤児だった。

「そんな目つきには慣れてるわ」
「どんな目つきさ?」
「孤児を見る目よ」
「・・・慣れるな。ぼくだって孤児だ」

 というようなやりとりのあと、ふたりは仲良くなるのだが、女の子には心臓病が発見される。刺激を与えると危険なので医者から恋を禁じられる。男の子は奔走する。「治してくれ、金ならあるんだ!」。さらに泣いている美少女だの抱きしめ合うふたりだの「相続を放棄すれば今すぐ0.1%受け取れます」だの盛りだくさんの予告で、これ、もう本編を見る必要ないじゃんと思われたことである。もしかして予告ではなくショートフィルムだったのか。
「パプリカ」を見にいく
今敏監督、2006


 映画版「パプリカ」を見てきた。なにかすごく見事な90分だった気がする。

 原作だと、いくつかの出来事の進展を追うことで設定を説明し、中盤あたりから徐々に加速、クライマックスへとなだれ込むのだったと思うが、映画はこれを大胆にカットして再構成、原作の軸であるストーリーがいよいよ盛り上がってきたあたりからはじまるので驚いた。しっちゃかめっちゃかな幕開けにひたすら急展開が続くなか、随所随所で必要な説明を織り込んでいく。要領のいいダイジェストというより、蛮勇に近い力技。

「パプリカ」の舞台は近未来の日本、精神医療研究所。この世界では、特殊な機器を使うことで患者の見ている夢を映像としてモニタしたり、セラピストがその夢のなかに入り込むことができるようになっている。患者と一緒に夢のなかからビョーキの原因を探索するのである。なかでも優秀な研究員である千葉敦子は、“パプリカ”というコードネームでもって社会的に地位のある患者の治療を極秘裏に行ない、めざましい効果をあげている。さらには“DCミニ”という新装置によって、患者とセラピストは簡単に夢を共有することができるようになったのだが、これを悪用すれば任意の相手に他人の悪夢を投射して精神を破綻させることもできるから、千葉をこころよく思わない人間はもちろん悪用しようとする。しかも“DCミニ”には、使えば使うほど効果が高まっていく特性があり、ひらたく言うと、使用者の夢の出来事が現実に発生する。かくして世界は現実と夢が入り混じり、そんななかで“DCミニ”の争奪戦および人格破壊を狙った戦いが勃発する。映画はここらへんからはじまる。

 同じ今敏の監督した「パーフェクトブルー」(1998)というアニメは、たしかアイドルから女優に転身した女の子が主人公で、はじめのうち、そのまま実写にできるくらい地味で淡々とした話が進行するのだが、彼女は現状に対する不満から次第に妄想を膨らませ、それは徐々に現実を侵食してだんだん区別がつかなくなっていき、ついには現実/妄想の境界が破れます、みたいな映画だったと記憶する。しかしこのようなあらすじ以上に私がはっきり憶えているのは、8年前にこれを見たとき、やたらと反感を抱いたことだった。
 思うに、アニメは“現実”と“非現実”を描き分けるのには向かないのじゃないだろうか。「パーフェクトブルー」には、リアルな描写で組み立てた“現実”があることになっていた。そこに“非現実”を並べてくるのだが、下地の“現実”にしてからが、どれだけ緻密な絵で描かれていても(緻密な絵で描かれているほど)“非現実”を描くのと同じであり、両者の混乱をめざす以上、それぞれを明確にちがった質の絵で描くわけにもいかないから、ますますどちらも同じものにしか見えない。
 たぶん監督は、現実も非現実もいっしょの絵になってしまうというアニメの特性を逆手にとって、どちらも区別できなくなる映画を作ろうとしたのだろうが(だから「どっちも同じに見える」のは意図した通りでもあるのだろうが)、それだけに、はじめに“現実”をきっちり作り、それとはちがうものとして“非現実”をちらつかせ、最後に「なんと!区別がつかなくなりました!」と驚いてみせるような過程のぜんたいがひどくマッチポンプに思え、しらけてしまったのだった。自明の前提がこの映画のゴールだったのかと。
(ただ、「アニメは現実も非現実も同じで描かれるから区別がつけにくい」のなら、「小説だってぜんぶ同じ文章で書かれる以上、やはりその区別はついていない」のかもしれず、現実/非現実のちがいを虚構の階層の描き分けと捉えれば、「メタフィクションなんてないのでは」とも思えてくる。作者がメタフィクションのつもりで書いているものをメタフィクションとして読まない、という無作法にいまの私は惹かれている。一方、やっぱりアニメと小説は別物で、あの平坦さのためにアニメの絵は文章よりも不自由なのかもしれず、しかし、文章が平坦でないと感じられるならその根拠はどこに求められるのか、などと考えても煮詰まるばかりで落ち着かない。この個人的イライラが「パーフェクトブルー」への反感になったのだとしたら、あれは八つ当たりだったのかもしれないと8年目にして気がついた。そのうち見直したい)

 ここで「パプリカ」に戻ると、この映画では、前述したように原作の序盤を大幅にカット、登場人物にとって、覚めて見る世界と夢のなかがごっちゃごちゃになっている状況からはじまる。これはなによりもまず、長い原作を90分にまとめるための方策だったのだろうが、そのために映画は現実/非現実の区別を取り払ったところからこころおきなくスタートを切ることができる。“DCミニ”のおかげである。両者はいきなり同じ平面に描かれているのであって、そうなるとアニメは強い。たびたび繰り返される妄想の(=現実の)パレード。一目で黒幕とわかる悪役のように、はっきり類型的なキャラ。場面転換につぐ場面転換。コスプレとコスプレとコスプレ。開き直った職人芸を見た。起きている危機は世界中、あるいは日本中、少なくとも東京都区内を巻き込む大事件であるはずなのに、「主要登場人物」以外の脇役をほとんど出さないという潔さによって、この映画はかえってスケールが大きくなった気がする。パプリカ最後の戦法にはおそれ入った。

 そのようなわけで「パプリカ」は、“DCミニ”の代わりに“ヤク中の人”を持ち込んでリアルとでたらめをいっしょくたにした漫画『真夜中の弥次さん喜多さん』(しりあがり寿)並みにうまくできているんじゃないかと思った次第です。


追記:
 人から言われてなるほどと唸ったが、「妄想を絵にするとパレードのかたちをとることが多い」のはなぜだろう。『真夜中の弥次さん喜多さん』もそういうシーンのオンパレードだった。パレード・オンパレード。って、言ってみたかっただけである。
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