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「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その47

[前回…]

 いやまったくどうしたものだろう、というのは「ガルガンチュワとパンタグリュエル」の第1巻、『ガルガンチュワ物語』を私は2ヶ月も前に読み終えたのであり、とっとと第2巻『パンタグリュエル物語』へ進めばよかったのである。それが何だか、最後の部分をまとめるにあたり、9月の終りに1回更新、次が10月の終わりと1ヶ月開き、やや、更新しないでいただけなのに、不思議とますます更新しにくくなってきたぞと思っているうちにまた1ヶ月がすぎた。
 空は高く澄んだり重く曇ったり、部屋の座卓はこたつに変わって、半年前に告知のあったピンチョンの新作はたしかに投下され、私はハチミツしょうが湯の粉末を戸棚に買い備えた。もう数日もすれば赤と緑の装飾がそこらじゅうにあふれかえるだろう。この読書日記をどうしたものか、さすがにそろそろ考えないといけない。

(1) 何事もなかったかのように更新を続ける
(2)

(1)しか思いつかなかった。しかもここまで書いてしまった以上、「何事もなかったかのように」ではもはやない。
 こうやって騒いでみせている私のほかにこの読書日記の停滞を気にしている人などいないことは承知している。なおさら「何事もなかったかのように」更新してしまえばよかったのかもしれない。それでも、こんなふうにじたばたしてみないことにはどうにも恥ずかしく、なんとなれば、じたばたするのが恥ずかしいのと同様に、「何事もなかったかのように」するのもまた恥ずかしいからだった。いやブログ自体が恥ずかしい。何もかも恥ずかしい。

 そろそろいいかな。

 私はちゃんと憶えていたのだが、話は「テレームの僧院」だった。『ガルガンチュワ物語』の最後にうち建てられた、理想の空間。建物それ自体から居住する者のアクセサリーまで、最高級の原料・材料から作られたあらゆる設備とあらゆる調度が細心の気配りをもって用意された、このうえなく豪奢なラブレーのユートピアである(それがこの物語のなかでどのように異質なのかを前回書いた、と繰り返す)。
 この修道院に住む人々(テレミート)はどのような人間で、ここで暮らすにあたってどのような戒律が定められていたか。こうある。
《彼らの生活はすべて、法令や定款或いは規則に従って送られたのではなく、皆の希望と自由意志とによって行なわれた。起きるのがよかろうと思われた時に、起床したし、そうしたいと思った時に、飲み、喰い、働き、眠った。誰に目を醒まされるということもなく、飲むにせよ食べるせよ、またその他何事を行なうにつけても、誰かに強いられるということはなかった。そのように、ガルガンチュワがきめたのである。一同の規則は、ただ次の一項目だけだった。

 欲することをなせ。 》p248

 それというのは、正しい血統に生まれて充分な教養を身につけた心の美しい人間は、「常に徳功を樹て、悪より身を退く」ものだというのがラブレーの考え方だからである。一種の選民思想と性善説がないまぜになった、しかしあきらかに日向の匂いがする人間観だといっていいと思う。ガルガンチュワの排尿で溺れ死んだパリ市民や、ジャン修道士に虐殺された兵士の群、それら無数の死骸のあとに、こういった明るい世界があらわれる。なんだか茫然とした。
《このようなわけであるから、この修道院の男子の誰かが、その両親の求め或いはその他の理由によって、修道院から出ようと思った時に、婦人たちのうちで、自分をその忠実の愛人と認めてくれるような女性を一人連れ出して、両人で結婚してしまうこともあった。そして、テレームの修道院内で十分い献身と友愛との生活を送った以上、彼らは、夫婦の契を結んだ後も、更にこの心境を保ち続けたのであって、その晩年にいたるまで、結婚当初の日と同じく愛し合ったことも、故なしとは申されぬのである。》p250

 ラストの第五十八章には、この僧院の地下から発見された長い長い謎歌(108行ある)が続き、それを読んだガルガンチュワとジャン修道士の解釈合戦でもって、この第1巻に幕が下りる。またぞろ含蓄があるんだかないんだかわからない言葉が飛び交うかと思うと、ふたりの対話はこの一言で打ち切られる。
《されば、これより大盤振舞い!》p258

 たしかに「これしかない」と感じさせる言葉であるだろう。
 次回から第2巻です。

ABCと上野
 週に1回ペースで通っている整体の先生に「最近、肩がいい状態だけど、なんか生活変わったの?」と訊かれた。しばらくパソコンをつけてなかった、という他に理由はなかった。そんなずぼらな私でも、これは行かねばなるまいよ。
青山ブックセンター本店 イベント情報
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『わが悲しき娼婦たちの思い出』『コレラの時代の愛』
(ガブリエル・ガルシア=マルケス全小説/新潮社刊)刊行記念
木村榮一×高橋源一郎 トークショー
『物語は永遠に』
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■2006年12月16日(土)14:00~16:00(開場13:30~)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■定員:100名様
■入場料:500円(税込)電話予約の上、当日ご清算
■電話予約&お問い合わせ電話: 青山ブックセンター本店・03-5485-5511
■受付時間: 10:00~22:00
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。)
■受付開始日:2006年11月21日(火)10:00~

イベントの詳しい内容や最新情報は青山ブックセンターのウェブサイト
http://www.aoyamabc.co.jp
に載っています。ぜひご覧下さい!!

 しかし問題はまだ席があるかということで、なにしろ1週間ほどメールもチェックしていなかった。これではいけない。まだ買ってない『コレラの時代の愛』は会場で手に入れるかな。

 上野の東京都美術館「大エルミタージュ美術館展」を見にいった(→日テレのサイト)。
 しかし何を見たんだろう。晴れた土曜日、上野公園はもちろん、美術館もおそろしい人出だった。東京都美術館は公園のずっと奥の方で、門をくぐってから、地下に1階分降りていったところに入り口があるのだが、その前は広場になっていて、大道芸のようなことをしていたりする。喫煙所で煙草を喫いながら眺めていると、人の波があとからあとから切れ目なく階段を下り、入り口へ流れ込んでいく。しばらく前に、やはり同じ場所、同じ状況であきらめ帰ったことがあった。あれは何の展覧会だったか。
(私は高低差のある建物が好きなので、「入り口が地下」とか「その入り口のある地階をぐるりと取りまく形状になっている、地上部分の回廊」とか「その回廊の奥は広くなっていてテラスのように椅子とテーブルが並んでいる」とか「そこから入り口への階段を見おろすと、反対側の通路が目隠しになって人が見えたり見えなかったり」とか、なに書いてんだか自分でももどかしいが、こういう構造がそれだけでみんな楽しい。もっと大きくて入り組んでいればなおよかった)

 今回は、若干こわいもの見たさの気持もあって覚悟を決め入場。並び立つ老若男女のあたまの隙間から絵をのぞき見る。人の荷物にひっかかり、自分の荷物に人をひっかけながら進む(コインロッカー、満員なんだもん)。順路に沿った人の流れがあるので思うように歩けず、のろのろ行くしかないのだが、すると不思議なことに、空いている展覧会よりよほど早く出口に着いてしまう。立ち止まってるのがしんどいから。
 そのようなわけなので、見た絵の印象はあんまりない。作品数も80だからそれほど多くなかったはずだけれども、会場でくれた出品リストをいま眺めても、名前と実物が一致しない。さっき、このような気合の入ったサイトを見つけたので、なんなら予習でもして早い時間に行くのがベターだと思う。ゴーギャンやらの目玉作品の前だけでなく、会場はどこももれなく混んでいたが、なかでもいちばん混んでいたのは、“ロシアはサンクトペテルブルグにあるというエルミタージュ美術館とはどんなところか”を説明するために日テレが総力あげて制作したのであろうビデオを上映する大きなスクリーンの前だった。がんばれ、絵。

 美術館を出てから公園をふらふら歩いていると、マイクを通して神の教えを説く声が聞こえ、それだけならどこでもよくあるが、ここでは、地上のシートをぎっしり埋めて壇上からの熱弁を聞いているのはみんなホームレスの人たちだった。そういうものがあったことを忘れないようメモしておきたいけど感想いうのはパスしたい、そんな光景だと思われたことである。

[この展覧会は12/24まで]
略称は「写美」
 東京都写真美術館「コラージュとフォトモンタージュ展」を見てきた。雨の恵比寿は意外と空いていた。

 写真を切り貼りしてありえない画を作るのがコラージュだけれども、この展覧会は、それ以前、技術的に背景と人物を同時に撮ることがまだできず、別撮りして合成するしかなかった時代の作品からはじまる。写真の歴史はそのままコラージュの歴史でもあるみたい。
 切り貼りならこんなことができる/こんなことしちゃってもいいんだ、と気づいた19世紀の人たちの作品が素朴に面白い。「内湯」といったのだったか、明治だか大正だかに作られた作品(うろおぼえ)は、内湯の宣伝なんだかほかの目的でなんだか、半裸の女性を写しているのだが、“売れ行きを考えて女性の首から上だけすげかえてある”みたいな解説がついていて笑った。
 少し時代が進んで、切り貼りが「前衛な人たち」の手法になると、それこそ、どれだけ奇抜なコウモリ傘とミシンを手術台の上で出会わせられるか競ってるような自己目的っぽいものになってきて、ひとつひとつは面白くても印象がどれも似てくるように思った。
 そんななかで明るく元気なのは、はっきりした実務上の目的を楯にして過剰なくらいコラージュを駆使してしまった倒錯気味の作品。ガラスケースのなかに展示されていた大判の雑誌「ソ連邦建設」(たしか1933年)は、5ヶ年計画のすばらしい成功を世界に知らしめるため作られたものだそうで、いま見ても斬新でかっこいい。まるで5ヶ年計画が成功したみたいに見えた。
 あと、日本で戦時中に出た有名な対外広報誌の「FRONT」。プロパガンダの名を借りて、好き放題に作られた誌面。いまウィキペディアで調べてみたら、なんだ、やっぱり↑の影響受けてるのね。
 ほかにも戦争を扱った作品が多く、そしてまた、現代に近づいてくると、たしかにやってることは「コラージュ」「フォトモンタージュ」でも、あらためてその名で分類しなくてもいいような作品が増えてくるのだった。そういえば、切り貼りの大家による数十年の仕事を集めた大展覧会も別のところでやっているのだな。

「コラージュとフォトモンタージュ展」は12/17まで。12/3までなら別階で「写真新世紀東京展2006」も無料で見れます。
メモ
 今敏監督の映画「パプリカ」は公開が今月末だった、と知って驚いている私だ。アニメ化が進行していると聞いたのもごく最近だったので、なんだか騙されているような気分。目が覚めたら枕元まで新聞と牛乳が届けられていたような。公式サイトがあったので(そりゃあるわな)メモ。

 「パプリカ」(音が出ます)
 http://sonypictures.jp/movies/paprika/site/

 “ベッタベタなアニメ”であればあるほど原作に近くなる(=面白くなる、と言ってしまおう)んじゃないかと想像するが、凝りすぎてひどく面倒なことになっている上記公式サイトにある「予告編」で動く絵を見、そしてパプリカの声を聞いた途端に確信した。ベッタベタだ。
 期待してよろしいのでしょうか。

《では、これは禿ではなく、円錐形をした、あのDCミニの底面なのだ。長時間付着されたままだったため、DCミニは氷室の頭部に吸収されてしまっているのだ。もはや取り去ることはできず、原子または分子のレベルで融合されてしまっている以上は、手術による分離も不可能であろう。》

 DCミニは他人の夢の中に入り込む小道具。しかしアニメだと形状がだいぶ変わってしまうみたいなのだった。川上弘美がたいへんためになる解説を書いていた中公文庫版は絶版の模様。


パプリカ パプリカ
筒井 康隆 (2002/10)
新潮社

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トランジットルームへようこそ
 宮沢章夫の作・演出になる現代能楽集III 「鵺/NUE」を見てきた。三軒茶屋のシアタートラム。おとといからはじまってるので3日目だと思ったが、前2回は「プレビュー公演」だったようなので、そうとは知らずに初日を見ていた(→公式ブログ)。

 どこか外国の空港で足止めをくらった演劇関係者たち(演出家、俳優、マネージャー、映像作家)が、トランジットルームで待っている。各人各様に気がかりがあるようで、空気はときどき穏やかではない。彼らがやってくる前からひとりでそこに座っていた「黒ずくめの男」もじつは日本人であるとわかり、それどころか、かつて新宿の演劇界で名を馳せた伝説のアングラ俳優だったらしいことが明らかになる。偶然のめぐり合い。こんなところで男は何をしているのか。そして、いまでは世界的な名声を得た「演出家」とこの男との、過去にさかのぼる因縁……。イスと看板と自動ドアがあるくらいの舞台がえらくかっこいい。

 宮沢章夫の舞台を「トーキョー・ボディ」(2003)、「トーキョー/不在/ハムレット」(2005)「モーターサイクル・ドン・キホーテ」(2006)と見てきたが、どの作品でも劇中で“役者が煙草を喫う”場面があったと思う。今度の「鵺/NUE」だと煙草はいちばん重要な小道具で、それによって喚起される「過去のある時代」を生きた「黒ずくめの男」がとにかく圧倒的だった。はじめてこちらを向いたとき、はじめて言葉を喋ったときから目が釘付け、いや、はじめのうちしばらくは客席に背を向けてじっと座っていたその後姿からして異様だったといまにして思う。演じる役者(若松武史)はほんとに寺山修司の天上桟敷にいた人なのだそうで、声も動きも、ここぞというときの口調もことごことく変、ああなるほど鵺ってこのことかと素直に納得させられた。目の前にいるのに確実に正体不明。

 この登場人物だけでなく、劇が進行するなかで、清水邦夫という、実際に70年代の新宿で演劇をやっていた人の戯曲を引用した劇中劇が何度か行なわれ、たしかにはっきりと「時代がちがう」台詞が滔々と、ただし私と同じかそれ以上に若い役者の口から語られる。最初から最後までトランジットルームを動かない舞台のうえで、役者と言葉がごちゃごちゃ重なっていく(後半に行くとだんだん区別がわからなくなる、というのは私は清水邦夫の本を読んでいなかったから)。

 どれだけ鮮烈な言葉でも、時間が経つと古くなる。陳腐になる、というのとは別の意味で過去のものになってしまう。そういう言葉が現代の劇のなかですくいあげられると、前後の言葉に対して異物として聞こえるから面白い、というだけではく、そのズレ自体がきっと舞台の中心で、そんな構図の骨組みとして能の「鵺」が使われたらしいのだけれども、そちらがいったいどんな話なのか私はぜんぜん調べていなかった。ひとまず図書館で借りてきた清水邦夫の戯曲集をめくりながら、それにしたっていったいこれは何事かと驚いている。
詩人 なんて予感に充ち充ちた便所なんだ、このさりげないたたずまい、かすかにただようなつかしい臭気、それでいて傲慢なまでの自己主張、そして日々あくこともなくくりかえす大衆との対話……いやいや詩人と時代のむすびつきとは、時代の反逆者たることではない[…] かの詩人はいった、満開の桜の木の下には一ぱいの死体が埋っている、そしてまたまた、かの詩人がいった、夜の公衆便所の下には一ぱいの死体が埋っている……》
「ぼくらが非情の大河をくだる時」
地上180メートル
「ウィーン美術アカデミー名品展」を見てきた。西新宿の損保ジャパン本社ビル42階にある、損保ジャパン東郷青児美術館

 見てると不安になってくるクラナハ(クラナッハ)の人物画は最初の部屋に固めてあったので、あとはきれいな風景画と静物画ばかり・・・だったらきついなと思っていたが、数が集まると必然的にやりすぎたものも混じってくるので面白い。
 静物画の並んだあとに真打登場な雰囲気で鎮座ましますデ・ヘーム「豪華な静物」は、まず、でかい。縦横ともに1メートル越えてたんじゃなかろうか。なぜか屋外に出してあるテーブルの上には、いろんな種類の果物と、鸚鵡、貝、小海老、銀器、ガラス器、酒瓶、その他が笑えるほど山盛り。あれもこれも感が濃厚で、豪華というより盛りすぎな静物。テーブルの表面が見えません。ほかの絵もしばらく眺めて、静物画の主賓はマスカットと理解した。ぼってり重なった緑のひと粒ひと粒が押し合いへし合い、それぞれちがった重量と大きさで影やら照り返しを作って飽きない。300年だか400年前の静物画に描かれた食べ物(どれも熟してる)に空腹を感じたのはお昼時だったからか。
 風景画では、ローベルト・ルス「ペンツィンクの早春」が素直に大作。晴れてるせいでかえって寒そうな林の、まだ葉のついていない木の枝が何百本だか丹念に描かれ、地面には濁った水たまり(と、そこへの映り込み)。画家の「これでもか」という声が聞こえた。サイズが最大だったと思うが、印象の強さで誤認したかもしれない。人もいちばん集まっていた。あと、ヴェスヴィオ火山の噴火を描いた絵があって(作者失念)、それも風景画の範疇なんだろうかと思うとおかしかった。
 このウィーン美術アカデミーの設立について結果的に功労者だったらしいマリア・テレジア御大の肖像は、某占い師が髪を染めたみたいで驚くやら納得するやら。

(この展覧会は11/12まで)
実験

 煙草を喫うようになってからずいぶんになる私だが、この20日間あまりは、1本も口にくわえていない。はじめてのことだ。

 べつに「禁煙しよう」と決めてそうしているわけではなくて、いわば出来心。10月の8日だか9日だか(おぼえていない)の夜中に、ふだんは部屋の机やバッグのなかに、合わせて3箱用意していた煙草がぜんぶ空になっており、そんな偶然は珍しかったので、「煙草を喫わないと、どんな変化が自分に起きるのか」を実地に観察してみようと思ったのだった。
 これには前から興味があった。1ヶ月だけ、煙草を喫わない。期間限定なので禁煙とは呼べないだろう。1本と次の1本のあいだが1ヶ月というだけの話だ――などと自分を励ましてスタート。
 煙草を喫いはじめるにしても禁煙するにしても、つねに私の先を行っていた友達Bに言わせれば、

「禁煙なんてたいした苦労じゃないよ。あたまがぐらぐらして立ってられなかったり、濃いコーヒーをがぶ飲みしたり、真っ直ぐ歩いてるつもりでいつのまにか曲がっていたり、壁に拳を打ちつけて血を出したり、のべつまくなしに物を食べ続けて3キロ太ったり、それくらいだよ」

とのことだったので、どれほどたいへな目に遭うかと不安だったが(彼は「禁煙に失敗する」ことに関しても先達である)、あくまで私が週を追うごとに体感した変化を以下に記す。

1週目:
左手の人差し指と中指がうずうずする
さすがに灰皿とライターは隠した
1日に何度か、変な動悸がする
その一方、すでに煙草の味を思い出せないので驚く
あたまを洗っていて、髪が柔らかくなっているのに気づく
煙草の夢を見て赤面
ガム、ガム、ガム、チョコ、ガム

2週目:
左手の人差し指と中指がうずうずする
「まだ、いまなら引き返せる」という気持
電車に駆け込んだあとで、深く息を吸い込める気がする
夜、部屋にいるときが辛い
喫いたい気持とがまんしようという気持のはざまで心は揺れに揺れ、わけもなくダルビッシュに謝りたくなる
ガム、ガム、チョコ、フリスク、ガム

3週目:
左手の人差し指と中指がうずうずする
顔の皮膚がモチモチしてきた気がする
「このまま禁煙できるんじゃ」←→「ごめんやっぱ無理」 (繰り返し)
夜が辛いので寝てしまう
ガム、ガム、ガム、ガム

4週目: ←イマココ
「意外と大丈夫?」という気持が訪れる
机の上に細かい灰が散らばっていないのは気分がいい
それでも、左手の人差し指と中指がうずうずする
ガム、ガム、お茶

 どうやら、4週目まできて「煙草なしでもいけるんじゃないか」と感じられるようになった。依然として喫いたいが、誘惑はそよ風みたいなものでたいしたことはない。
 先週までは、なにしろきっかけが出来心にすぎないから、日に何度も「いったいなんで自分は喫いたい煙草をがまんしているのか?」との嵐が吹き荒れ途方にくれていた。
 思い余って、「喫うか喫わないかなんて気にしてられなくなるくらい強烈なものがあればいいんじゃなかろうか」と『悪霊』なんかに手を出したら、のっけから、おぼえていた以上に面白いので興奮し、するとかえって煙草に手を出したくなって往生した。思えばこの8年、1本の煙草もなしに読み終えた本なんて1冊もないんじゃないかと考えると、そらおそろしいような気持になる。非喫煙者の方にとってはなおさらだろう。

 そもそも自分は「煙草を喫わないとどうなるのか」を知りたいだけだった、その結果「どうして喫っていないのか」と自問しているのだから、思う存分この状況に苦しみ悶えることこそが今回の「煙草を喫わない」行為の本来的な目的にかなうことであるだろう、とか、そんなことばかり考えてやり過ごしていたのだが、そろそろ、そのような段階も脱したらしい。
(なお、“禁煙の効用”としてよく語られる「食べ物がおいしくなる」はまだよくわからない。もとから何でもおいしかった)

 次の月曜日(11/6)あたりで満4週間、プラス数日で目標の1ヶ月。「真の戦いは3ヶ月めからはじまる」「いや半年経ってからだ」などと仰る方も多いのであまり大きな口は叩けないのだが、いつかほんとに禁煙しないといけないことになったとしても、私はわりと大丈夫なんじゃないだろうか。ネットする時間を1日1時間以内に収める、とかの方がよっぽど難しい。
 この自分の“すんなり具合”を考えるにつけ、結局のところ、私は「禁煙をしている」のではなく、「喫煙をしていない」だけなのだとつくづく思った。何事かを「する」のに比べて、「しない」ことのいかに楽であることか。
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