趣味は引用
12月10日までやっている
 国立西洋美術館「ベルギー王立美術館展」を見てきた。(→読売新聞社のサイト
 寝坊したので到着はまたも昼。晴れた土曜日ともなれば上野公園はむちゃくちゃな人出だった。美術館もただでさえ混雑しているうえに、制服で揃いのカバンを抱えた中学生の群れが館内あちこちで一生懸命メモ帳に何か書いていた。ブログのネタだろうか。

 展覧会は、16世紀くらいの古典から20世紀まで100点ちょっとを展示。油絵だけでなく、紙にペンの素描もある。ブリューゲルの有名な「婚礼の踊り」が小さくてびっくり。ルーベンスの肖像画なんかは単純に怖いため(連想してしまうノストラダムスの大予言は私のトラウマ)仰ぎ見るかたちになるのだが、時代があたらしくなってくると感想が持ちやすい。ブラーケレールなる人の絵は「なんでそこまで」的に筆の線を残しており、それがまた均一なので人間を描いている絵が藁で作った人形を写生したような具合になっている(できた作品は何か退屈)。クノップフ「シューマンを聴きながら」というのは、ピアノもピアニストも描かずにこのタイトルで成立させており立派。リンク先で見ると地味かもしれないが、実物の印象はなにしろでかい。その隣にアンソール「ロシア音楽」というのが並べてあって、そっちの方が見ていて「ああ、絵だなあ」という気になったのは、アンソールはピアノ弾いてる人と聴いてる人をちゃんと描いているから、というだけではなく、両者はタッチもぜんぜん別なのだった。アンソールという人、コミカルな絵(燻製のニシンを骸骨ふたつが咥えて奪い合っている、とか)も描いていて面白い。

 今日はタダでよいというので常設展も見にいく。たいへんな物量。企画展とは比べものにならないほど客は少なく、階段を上ったり下りたりしてめぐっていった奥の奥に小企画展の部屋があり(ややこしいな)、そこでやっていた「フランク・ブラングィン版画展」は完全にめっけものだった。版画といってもエッチングなのでたいそう緻密に描いてあり、ぼやけさせた線で細かな遠近をつけたり、作品自体はどれも小さいだけに舌を巻く。描かれているのは“橋とかモスクとか廃船とか+そこにごちゃごちゃ群がる人々”といったもので、巨大建造物とモブシーンの合わせ技がたまらない。かなり呆けた顔で見ていたと思う。この人の下書きに日本人が色をつけた多色刷り版画(?)もあった。

 フランク・ブラングィン。画集が出たらぜったい買うと思う私は、美術館の売店でここぞとばかりに売られていたベルギーチョコもちょっとほしかった。
「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」(2006)
デイヴィッド・ボワーズ、サム・フェル監督


 東京国際映画祭の一環で特別上映された、「マウス・タウン ロディとリタの大冒険」を見てきた。一般公開は2007年春なんだとか(→こっちは公式)。
「ウォレスとグルミット」シリーズなどの粘土アニメで有名なイギリスのアードマン・スタジオが、ドリームワークスと組んで作る長篇アニメのたぶん3作め(1作めが「チキン・ラン」、2作めが「野菜畑で大ピンチ!」)。今作で、とうとうフルCGになった。粘土ゼロ。粘土レス。粘土フリー。

 なにしろ会場が六本木ヒルズだから行くだけで疲れる。チケット取るのが遅かったため、前から2列目の、スクリーンを見上げるような席。最前列にカメラを持った人がいるので何事かと思ったら、映画がはじまる前に監督たち3人が現れて舞台挨拶するので驚いた。そうかこれは映画祭、こういうことって本当にやるんだと思い知る。

 映画は、ロンドンの下水道の先に、ネズミたちの住むミニチュアのような街が出来ているという話。そこに流されてきた、人間に飼われているネズミが主人公。こいつがなんとか「上」に戻ろうとして助けをあおいだ女ネズミには宿敵がいて…云々。ペットだったころは何不自由なく独りの生活を満喫していた主人公が、下水世界の貧しくても仲間がたくさんの暮らしに触れてわれとわが身をふり返り…云々。
 アードマン独特のハンドメイドな感じをCGでいかに作るか苦心したよ、みたいなことを監督は挨拶で言っており、でもそんなことはいいから楽しんでね、とも付け足していたのだったが、いや、普通のCGアニメ。スケール的に、たぶんおそらく粘土では作れないものだったのだろうけど、だからこそ普通のCGアニメだった。キャラの顔はいつものアードマンふうなので、はじめのうちは逆に違和感がある。
 ストーリーは後半がきっちり固まっていない印象。むしろ数々の小ネタが光っていたような。マスコットキャラが下水のナメクジの群れって映画はなかなかないだろう(だって、特にかわいくもないのである)。私は思うのだけれども、別に男(ネズミ)と女(ネズミ)が出てきたからといって、必ずつんけんしたり惹かれあったりする必要はないんじゃないだろうか。
(「ウォレスとグルミット」にも“毎回、ウォレスが一目惚れする”という展開が出来つつあるが、あれは“そして振られる”とセットになった定型だ)

 客席には家族連れが多く、子供に字幕はきつい気がしたが、86分の上映時間中をちゃんと黙らせていたのは作品の力か。総じて「なんでそこまで」的に金のかかった映画館、さすがにトイレがすごくきれい。「ここに住める」とさえ思った。


追記:
ええっ、「パプリカ」もやってたの!?
「そうすればもう危険はない」
 終わりかけの展覧会をあわてて見てくるシリーズ、今週はBunkamuraザ・ミュージアム「ピカソとモディリアーニの時代」を見てきた。別にシリーズではない。

 ザ・ミュージアムはBunkamuraの地下にあるわけで、エスカレーターで降りていくたび、「しゃらくさい」という気持を抑えることができない。「ドゥ マゴ パリ」ってのは何だろう。ここは渋谷じゃないの? 「ザ・ミュージアム」は「ザ・ミュージアム」で、なんにしろ「ザ」がいけないと思う。言いがかりはともかく入場、昼過ぎながら歩くのに支障をきたすほど混んではいなくてひと安心。
「ピカソとモディリアーニの時代」なのでピカソとモディリアーニの作品ばかりかと思っていたが、実際はそうでもなかった。会場内は4つの区域に分かれいて、キュビスムからシュールな抽象画、「素朴派」(そんな派があったのか)まで展示。
 いま思い返してみると、展覧会の顔になっているモディリアーニより見ごたえのある絵がいろいろあった。ジョルジュ・ルオーの「鏡の前の娼婦」、「我ら自らを王と思い」とか。後者はタイトルもかっこいい。タイトルという点だけでいえば、いちばんのヒット作は、たしかに人型であることはわかるがそれ以上は無理だろうという程度の線が引いてあるなかに肌色や黄色を置いた絵で、それが「明らかに裸同然の人物」と題されているのに笑った。描いた人の名前をぜひ憶えようと思ったが、ウジェーヌ・ネストール・ド・ケルマデックとかいうので明日には忘れそう。
 ぱっと見で印象に残ったのが、アルチュール・ヴァン・エック。肖像画での光の使い方に見覚えがあるからぜったい有名な人のはずなのに、いまググってみると静物画しか出てこないから不思議。ただ、ほかの人のならともかく、自分の「ぱっと見」を信用していいのかは疑わしい。

 それに比べると、会場入ってすぐのキュビスムはつくづくおかしかった。帰る前にもういちど戻って見る。“キュビスムの彫刻”らしきものもあってもうわけがわからない。
 西洋画のモチーフに、“ヴァニタス”ってのがあるでしょう。テーブルの上にさりげなく頭蓋骨とか描いて、人生のはかなさ、人はいつか死ぬ、ということを思い起こさせるといわれているやつ。これをピカソが描いており、ちょっと驚きのものだった。「楽器と頭蓋骨」という題を見るまで、頭蓋骨なのがわからない。それはどうなのかとめまいがした(同じ作品が、売店の絵ハガキに印刷されるとちゃんと骨に見えるのも不思議。実物はかえってよくわからないというのなら、渋谷まで行った甲斐があったというものだ)。なお、絵の横にピカソの言葉がパネルになっており、これが衝撃的にかっこよかったのでメモしておく。

「抽象美術などない。つねに何かから始めなくてはならない。そのうえで、現実の外観を取り除くことができる。そうすればもう危険はない」

 記憶のままなので不正確かもしれないが、絵よりは言葉の方がまだ憶えておきやすい。
「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その46

[前回…]

 1ヶ月ぶりのラブレー。ひさしぶりなのでちょっとふり返る。

『ラブレー第一之書 ガルガンチュワ物語』は、巨人国の王グラングゥジエの息子として生れたガルガンチュワの幼年時代から話がはじまった。この王子が成長してパリへ遊学しているあいだに、祖国には隣国のレルネが攻め込んできて戦争が勃発。しかし、帰ってきたガルガンチュワとその家来の活躍によって悪は見事に撃退され、平和が戻ったのだった。めでたしめでたし。
 ――といったところで第1巻はほぼ終わる。残っているのは、もっとも勝利に貢献したジャン修道士への褒美として建てられた「テレームの僧院」の話だけ。

 もともと偏執的な細部描写のあふれかえる本作のなかでも、この僧院の描写には、これまで以上にどうかしてしまったような情熱が注ぎ込まれ、文章の調子もほかとはちがっている、ということは前回すこし書いた。
 では、具体的にどうちがうのか。私は巻末の解説を読んではじめて「ああそういわれてみればたしかに」と思い至ったのだが、「ガルガンチュワとパンタグリュエル」といえば大食い・大酒飲み・糞尿譚であるのに、例外的にこの「僧院」を描写する数章にだけは、下ネタにつながる要素も、酒池肉林・暴飲暴食を思わせる要素もないのである。これが『ガルガンチュワ物語』のほかの部分と「テレームの僧院」を分けるちがいである。
《酒や食物の記述を好んでするラブレーが、調理場や酒蔵を、この「テレームの僧院」に設けるのを忘れているということが、今まで多くの人々から指摘されてきた。そして、このような特異な忘却のなかに、ラブレーの純真な信仰告白が見られるように思われてくるし、『ガルガンチュワ物語』というゴチック・フランボワヤン式の奔放な建物の一角に取りつけられたルネサンス式の麗しく敬虔な礼拝堂が発見できることにもなろう。》「解説」 p435

 ちょっといい話、と言いたいくらい納得しやすいエピソードであるが、しかし、じつは事情はもう少し複雑である。というか、比較的最近になって、もう少し複雑になった。
 訳者である渡辺一夫の評論を集めた『狂気について』という本に、ラブレーの翻訳、とりわけ「テレームの僧院」について書かれた文章が収められている。渡辺一夫はこの翻訳を、戦前、まず最初に白水社から出版した。その際に、「テレームの僧院」の一部をこのように訳したという。
A 《塔と塔との間は三百十二歩もあった。地下室を一階として含めれば、全体で六層楼になっていた》

B 《三番目の対の塔の間には、火縄銃や弓や弩[いしゆみ]の射的場が設けてあった。傭人たちの棲居は、「西方」塔外に、一階建てになっていた》

 ラブレーはあたらしい時代の理想と希望をありったけ込めてこの僧院を構想した、その際に「己の描いた夢の美しさに陶然として、人間の肉体的欲求への興味を忘れてしまった」というのが、翻訳当時のラブレー研究における定説だったらしい。ここまではさっき書いたことと同じである。
 ところが、1964年、『ガルガンチュワ物語』の上梓されたのが1534年だと考えればごく最近になって、フランスの学者が、僧院の記述に使われている古い語句のなかから、「酒倉」「台所」の語義を発見するという一大事件があった。
 かくして、改訳決定版であるこの岩波文庫版(1973)では、上に引用した部分はこのように変えられることになった。
A' 《塔と塔との間隔は、三百十二歩もあった。地下の酒倉も一階として含めて言えば、全体で六層楼だった》p234

B' 《三番目の対の塔の間には、火縄銃や弓や弩[いしゆみ]の射的場が設けてあった。調理場は、「西方」塔の外に一階建てになっていた[…]》p243

 テレームの僧院から「酒倉」と「調理場」が発掘されたのである。そうなると、「ラブレーは理想を夢見るあまり、肉体のことを忘れてしまった」という説はいくらか根拠を弱めるだろうが、それは私のような一読者には関係がない。私が面白いと思ったポイントは4つある。

(1)『ガルガンチュワ物語』の最後に、僧院にかこつけて自分の理想を思いきり書き込んだラブレーの姿を想像すると、そのはりきり具合が面白い。

(2) 何百年という時間の経過のなかで、僧院の記述には「台所」も「酒倉」もないという点が注目され、そこから「夢にふけって忘れた」という解釈が引き出されて、そんなことまでが定説となっていった“ラブレー研究の伝統”が面白い。

(3) そんな伝統の最前線に、地道な調査で(2)を引っくり返す人が現れたという点が面白い。しかも「長年の定説を引っくり返した」その内容が、「ないと思われていた台所が本当はあった」という、そこだけ聞くとわけのわからない発見であるのがまた面白い。どこの間取り図の話か。

(4) そしてもちろん、これらの研究の成果をふまえて翻訳のアップデートを繰り返した渡辺一夫が、「chapelleという語は“祈祷室”なのか“納戸”なのか、officeという語は“控えの間”なのか“調理場”なのか」と、ひたすら真摯に悩んでいる様子が面白い。

 先に引用した文庫「解説」(p435と書いてあるところ)の続きも、このような経緯を素描しているのだが、たかだか一語のうしろにもこんなにたいへんな格闘があったとは想像できなかった。今回のネタにした文章、つまり、『狂気について』収録の、僧院の台所をめぐって解釈が二転三転する経緯を詳しく綴った一文に、渡辺一夫は「やはり台所があったのか?」というタイトルをつけている。このセンスがつくづく面白い。というか、うれしい。
《「テレームの僧院」の夢は夢として珍重できることには変りありませんが、ないほうが夢らしくてよいと思っていた「台所」や「酒倉」が、「発見」されてしまいました。しかし、「便所」は、残念ながら、いや仕合せなことに、記述から洩れていることは確かでした。》
『狂気について』 p39



狂気について―渡辺一夫評論選 狂気について―渡辺一夫評論選
大江 健三郎、清水 徹 他 (1993/10)
岩波書店

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そういえば ×2
 去年、「新日曜美術館」に佐藤亜紀が出演した回を私は見逃したが、いまちょっとググったら、この作家のことをぜんぜん知らずに見た人(わりとご年配のようだ)による感想があった。ちょっと面白い(→ここ)。『掠奪美術館』は名著なので古本屋で見つけたらみんな買えばいいと思う。書き出しからあとがきまでいかします。
《その昔、エイズで死んじゃった某ハリウッド俳優が主演するおしどり探偵物のテレビシリーズがあり、その一エピソードにレンブラントの自画像が盗まれる話があった。盗ませたのは当然、絵画に対する深すぎる愛を抱えた因果なコレクターであり、問題の絵を自宅の至極気持ち良くしつらえた隠し部屋に掛けて、革張りの安楽椅子でゆったりとブランディでも飲みながら(この辺がやや俗である。ダブルオー・セヴンの悪役みたいではないか)至福の時を楽しんでいたのだが、勿論主人公の活躍によって絵は無事に取り返され、美術館を飾ることになる。主人公の相棒兼奥さんはつぶやく。
「こんなに素晴らしい芸術品を独り占めしようなんて間違ってるわ」
 間違ってはいないっ!
 と思わず叫んだのは筆者中学生の頃であった。》p6

掠奪美術館 掠奪美術館
佐藤 亜紀 (1995/06)
平凡社

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 ぜんぜん関係ないけど、毎週火曜の23:30から東京MXテレビ(9チャンネル)で放映中の「ウルトラセブン」、今週(10/17)と来週(10/24)はキングジョーの登場する「ウルトラ警備隊西へ」(前後編)なので、都民はみんな見ればいいと思う。合体前からかっこいいキングジョーと神戸港で水しぶきをあげながらたたかうセブンの姿には、なんだか見てはいけないものを見ているときのような気持のたかぶりを覚えます。
日記
 やはり行っておこうか、でも混んでるだろうなあ、と躊躇していた「NHK日曜美術館30年展」東京藝術大学大学美術館が、もう終わってしまいそうなのであわてて見物にいった。会期が1ヶ月ちょっと(9/9-10/15)は短すぎるよ。

 なるべく早い時間のうちに駆け込もうと思っていたのに、部屋を出て駅に着いたら見事なタイミングの人身事故で路線が止まるなどいろいろあって、上野に着いたのは昼。公園の奥の奥にある芸大美術館まで、ほかの美術館や動物園の誘惑に抗いつつ歩く。天気もいいけど人も多い。
 そして会場は、やっぱりたいへんな混雑だった。地下2階からはじまり、次はエレベーターで地上3階、という2フロア。曲がり角ごとに「奥にも展示があります」と丁寧な案内。番組で放送されたなかから選ばれた国内外の作品を80あまり展示して、そのそれぞれに作品名・作家名の札のほか、テレビ放映時のゲストの言葉を抜き書きした“解説”(たいへんわかりやすい)がつけてある。だからこれはほんとうに、現物を前にした「新日曜美術館」なのだった。なにしろ、会場の何ヶ所かにブースが作ってあって、大物ゲストが登場した回のVTRを流していたりもする。
 現物の隣でテレビ見ることもないだろうと思わなくもないけれど、何十人かがテレビを見ていてもなお、作品の前には人だかりができている。日によっては入場制限もあったらしい。由一の「鮭」とかルノワールの裸婦画の前なんて、上野まで乗ってきた山手線より混んでいた(「鮭」の実物はたいていの写真よりずっとくすんだ色をしていた)。その一方で、空いてるスペースもわずかにあり、たとえば、ボコボコ突起のついた輪っかをひとつ立てた“前衛陶芸”付近はゆっくりくつろげた(八木一夫「ザムザ氏の散歩」)。

 こういうと語弊があるかもしれないが、私なんかにも「見やすい」作品が多くてよかった。混雑のわりに疲れなかったのはそのせいかもしれない。図録を買って教科書にすればよかったといま気がついた。美術館て、行く前から知ってるようなビッグネームでもないかぎり、会場ではじめて見て「これいい」と思った作品・作家名もだいたいその場で忘れてしまう。丸木スマ、とか、田中一村、とか、高島野十郎、とか、はじめて知った名前をメモしておく。
 ついでに、「鳥獣戯画」を見たおばあさん2人組が、しきりに「懐かしいわあ」と言っているのでいやそれはないとうしろから突っ込みたかったことをここに記す。



追記:
「鳥獣戯画」には手塚治虫が“解説”をつけていたのだが、いまこういうものを見つけたので貼る。
 「新日曜美術館」とテレビの見方? by夏目房之介
 http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/004487.html
日記
 阿部和重の『シンセミア』がようやく文庫になったというので本屋に行ったら、置いてあるのは4分冊中の「1」「2」巻だけだった。「3」「4」は来月刊。こういう刊行ペースのメリットは何だ。

 気を取り直して竹橋の東京国立近代美術館へ。よくわからないまま「モダン・パラダイス展 大原美術館+東京国立近代美術館――東西名画の饗宴というのを見る。「光あれ」とか「まさぐる手・もだえる空間」とか「楽園(パラダイス)へ」とかいったテーマごとに、東西の作品を対比させて展示。そもそもの文脈を知らないながらも、めっぽう面白かった。巨大なキャンバスに黒々と太い線を走らせた抽象画が2枚並んでいると思ったら、よく見ると一方は五重塔を描いた絵だったり。この展覧会は10月15日まで(ここも参照)。
 岸田劉生とマティスの、それぞれ自分の娘を描いた絵が“対決”させられている横に、おまけみたいに小出楢重「ラッパを持てる少年」があった。このブログの右側、プロフィールのところに貼ってある絵の実物。いちおう“対決”に参戦していたのかもしれないが、あまりにみんな、劉生とマティスばっかり見てるので笑う。
《楢重は、ほうびをちらつかせながら、なんとかなだめすかしてポーズをとらせたそうである。》『新潮日本美術文庫38 小出楢重』より)

 しかし美術館って、いつも見終わったあとでぐったり疲れている自分に気づく。「本を読むのは疲れるから嫌いだ」という中学生の気持が、いまなら半分わかる気がする。
全小説
 先日、ガルシア=マルケスの新刊を買いに行った本屋で、そういえば今月末には若島正が去年出した新訳のアレが早くも新潮文庫に入るらしいから、そうなると現行の大久保康雄訳は手に入らなくなくなってしまうのかと思いつき、そっちもキープしておくことにした。ということで私がレジに差し出したのはこういう組み合わせになる。

 ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)
 ナボコフ『ロリータ』(新潮文庫)

 会計するおねえさんの笑顔はどっちかにしろよと言っていた気がした。
「カバーおかけしますか」「いえ結構です」

 ところで『わが悲しき娼婦たちの思い出』には、新潮社のはじめる「ガルシア=マルケス全小説」のチラシが入っていた。これから1年ちょっとかけて、すべての小説を初訳も含めて出し直すらしく、『わが悲しき~』はその第1弾だった。以下、予定。
1947-1955 『落ち葉 他12篇』(2007年2月刊行予定)
1958-1962 『悪い時 他9篇』(2007年6月刊行予定)
1967 『百年の孤独』(2006年12月刊)
1968-1975 『族長の秋 他6篇』(2007年4月刊行予定)
1976-1992 『予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語』(2007年12月刊行予定)
1985 『コレラの時代の愛』(2006年10月刊行予定)
1989 『迷宮の将軍』(2007年10月刊行予定)
1994 『愛その他の悪霊について』(2007年8月刊行予定)
2004 『わが悲しき娼婦たちの思い出』(2006年9月刊)

 これでもう、近所の古本屋の棚に鎮座まします『迷宮の将軍』(5000円)を荒んだまなざしで眺めなくてもよいのだな、と思うのだったが、同時に気づくのは「『百年の孤独』また新装版かよ」ということで、これは新潮社の「うちは未来永劫『百年の孤独』を文庫に入れません」という意思表明でもあるだろう。「文庫にするものか」「ハードカバーで行かさせていただきます」。
 じゃあそれでもいい。バルガス=リョサの『世界終末戦争』を文庫にしてください。


わが悲しき娼婦たちの思い出 わが悲しき娼婦たちの思い出
ガブリエル・ガルシア=マルケス (2006/09/28)
新潮社

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「話の話」も必見
 在ロシア邦人筋から情報。「ジョジョ」第1部の映画化が本当に進んでいるという。なにしてんだロシアで。
 
 @JOJO(2006年09月17日)
 http://atmarkjojo.org/archives/2006/2006-09-17-001247.html

 もうひとつ情報。こちらはタイムリーなのでたまげた。

 Yahoo!動画‐アニメ‐ロシアアニメ傑作選
 http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00162/v00363/1/

 土曜日のトークショーで、保坂和志が話に出していたのがまさしくここにある「霧につつまれたハリネズミ」
 保坂和志はこれを会場で見せるつもりでDVDを持ってきたが、機材が準備できなくて上映できなかった。「事前に言ってください」。
 この「ロシアアニメ傑作選」では、全52作が11月30日まで無料で視聴できるという。ノルシュテインくらいしか見たことないので、ちょっとずつ押さえていこう。はじめてYahoo!動画なるものに行ったけど、ヌルい私のためにぜひとも「チェコアニメ傑作選」もやってほしいと思った。
@ABC(2006/09/30)

 保坂和志が、小説の誕生刊行にあたって公式サイトの掲示板に自分で書いている。
「一晩で読んだ」「一気に読んだ」などと言わせない

 ぜひとも帯に使ってほしかった。

 9/30の土曜日は、その保坂和志と柴崎友香のトークショー(@青山ブックセンター青山本店)を見物に行った。満員。
 チンパンジーに訓練させたらいくらか言葉を理解するようになった、ゆえにチンパンジーは知能が高い、という考え方はまちがっていて、チンパンジーを動かないようじっとさせて訓練を積ませた結果としてそのような能力が発現するのなら、ふつうに動き回っているチンパンジーの、チンパンジーとして当たり前の動きのなかにその知能を見つけるのでなくてはおかしい、そして小説もそのように読まれなくてはならない、というところから話がはじまる。私がまだ『小説の誕生』を読んでないからかもしれないが、えらくハードルが高いと思われたことであるよ。

 一見、悪ガキがそのまま大人になったような風貌と喋り方の保坂和志は、隣に座る柴崎友香の新刊『その街の今は』の書かれ方がどのようにすぐれているかをわーっと語る。それは『小説の自由』のなかで、青木淳悟の「クレーターのほとりで」の明快に書かれていない仕組みを明快に解き明かす手つきそのままで、この柴崎評もどこかで文章にしてほしい(もう文章になっているのか? 『小説の誕生』のなかに入っていたりするのか?)

 ふたりとも、小説を書くうえで風景描写がどれほどたいへんでどれほど重要かを楽しそうに喋っていたのが面白かった。
ひとつひとつの風景描写を支えるものが小説の基盤になっている……とか、いま思い出そうとしてもうまく思い出せないが、言葉をぜんぶ憶えていたとしても、実際のところは、小説書いたことのない人間には想像するしかないたいへんさなんだろう。
 そこをなんとか説明しようとして保坂和志のもちだした例がストップモーション・アニメだったのは意外だった。
 ああいうアニメを作る人は、ひとコマ撮影したら粘土(なり人形なり切り絵なり)を動かしてまたひとコマ撮影、また動かして撮影、それの積み重ねでようやく1秒、また1秒と作っていくわけで、最終的に10分くらいのフィルムができるまで膨大な時間がかかる。
 で、見る人は「その作品のテーマは何か」なんてことより、まず完成品のうしろにある作業の量を見ているはずで、その証拠に、そういう作品を見れば誰だって少なくとも「感心」はする――小説の風景描写はそれと同様の作業なのだから、そこを読み飛ばすような読み方はおかしいよ、みたいなことを言っていたと思う。
(個人的には、2000年だったか2001年だったかの夏、中野と阿佐ヶ谷の映画館で粘土と人形と切り絵の短篇アニメをまとめて見て、「画面のどこにも見逃していい部分がない!」と震えあがったのを思い出して妙に腑に落ちた。あれは体力を使う。でも、こういう異ジャンルを例に出した説明で納得させるのもよしあしだ、みたいなことを保坂和志も自分で言っていたし、上の説明はだいぶ私の言葉がまざってしまっている。ためしに『季節の記憶』(中公文庫)でも読めばどういうことかは一発で感得されると思う)

 ちなみに『小説の誕生』、目次や巻末の引用文献リストを眺めるに、私が読もうと思いながら積んだままの本も何冊かとりあげられているようなので、まずちょっと、そちらを自分で読んでからとりかかるつもり。
 すると読み終わるのはいつになるか見当もつかないが、どうせ「一気に読める」はずもないので気にしない。