2006/08/30

ときに1982年

 宮沢章夫の80年代論に出てきたなかで、「それはうそだろう」と思われるものながら、写真もあるので「じゃあ本当なのか。でも」ともやもやしていた物件が、YouTubeで探したら見つかった。
 それは「THE MANZAI」なるテレビ番組に登場した謎の3人組、トリオ・ザ・テクノ。ほんとに謎だったらどんなによかったか。

 http://www.youtube.com/watch?v=jNjGG_eznCU

 知ってた人からすれば私が無知だっただけだが、しかし、9分て長いものだと思われたことである。

P.S.
『「地下文化論」講義』をよく見ると、掲載されている写真もYou Tubeからの画像だった。
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2006/08/29

宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』(2006)

東京大学「80年代地下文化論」講義
白夜書房


 宮沢章夫が昨年度の後半に東大駒場で行なった講義、13回分の記録。
 1981年から3年間、原宿の地下に「ピテカントロプス・エレクトス」というクラブがあったという。その場所がいかに特別だったかを話すところからはじまるこの講義は、山ほどの固有名詞と記録、記憶、引用、伝聞、想像その他が一緒くたになって、それじたい混沌とした一種の文化圏になることをめざしている――ような気がした。
 なにしろ問題になっている10年間を、私はものごころがついているようないないような状態で、しかも東京からずっと離れたところに暮らしていたのだから、ここで語られるものごとはみんな遠い世界のおはなしに見える。人物やら音楽やら、たとえあとから実際に知ることになったものであっても、「あとから」ではもう意味が変わっているのだし。それらが当時、どんなインパクトを持っていたかを検証するためにこの講義は企画されたのだろう。
 そういった「向こう側」について話す宮沢章夫の語り口は、しかし、事実を正確に記録しようとはしていない。そこが面白い。客観的な記述をはなからする気のないこの文化論は、ひとりの人間が自分とも密接に絡まる過去をどう読み直すかというドキュメント、もっといえば、どのように読み直すことができるかという仮説のテスト飛行といったおもむきを呈してくる。
 宮沢章夫の立脚点は、「80年代はスカだった」というような物言いへの反発であるという。きっかけとして訪れた思いつきは、大塚英志の80年代論(『「おたく」の精神史』)を反語的に読む、というものだった。べつにおたくだけが80年代ではなかったよ、と。80年代文化のスカでもおたくでもない部分とはどんなものだったか、どのように周囲へ波及していったのかを考えために、まず「ピテカン」と「おたく」のあいだに線が引かれる。この線引きはもちろん恣意的なものだ。しかしここにとどまらず、宮沢章夫はやたらと線を引く。「六本木WAVE」と「六本木ヒルズ」、謎のキーワード「機動戦」と「陣地戦」、コメディアンに見る「身体的な人」と「身体性の薄い人」、「スペースインベーダー」と「ゼビウス」、といった具合にどんどん線を引く。ただごとではない情報量のなか、ふたつのものを分ける線ばかりではなく、あれとこれとを括ったり、ああでもない、こうでもない、あれもある、これもあると線を引っぱっていくうちに、独特な歪みをもった地図が浮かび上がってくる。(*)
 提出されるさまざまな仮説は、細かいところでたぶんいろいろまちがっているだろう。各方面の当事者が見たなら事実誤認もあるだろう。しかし部外者からすれば、こんなにスリリングな作業もなかなかない。読んでいる最中にずっと頭の片隅にあったのは、「この地図、けっこうでたらめを含んではいないか」ということで、全体が個人に発する大きな幻想なんじゃないかという気さえしてきた。「ピテカントロプス・エレクトス」が実はフィクションだった、と言われたら私は拍手する(そうでなくてもこの本は、ちょっとがんばれば小説として読める気がする)。

 それにしてもこの講義、生で聞きたかったと何度も思った。
 講義の初回、「おたく」に対置されるべき概念を探っていくと、それはどうも「かっこいい」といったことになると宮沢章夫は考える。身も蓋もない。ともあれ、「かっこいい」ってのは何か。それは「ある価値感によって形成された美学」だけれども、そんな感覚を(それこそ80年代生まれの学生に)説明しようと試みる宮沢章夫の語り口は、ぜんぜんシャープではない。この本のなかで何度となく使われるものいいを真似れば、「突然何を言い出すんだ、この人は」である。
《[…]でも、この「ある価値観」というのが極めて曖昧で、「ある価値観、って言われてもねえ」ということになるでしょう。人それぞれにちがうからこその、価値観ですからね。ある人にとっての「かっこいい」は、べつの人から見たら、まったく「かっこよくない」になる。
 何年か前、ある若い女性の編集者と仕事をしたときに、彼女がなんでも「かっこいい」て言うんで驚かされたことがあったんですね。僕が、「1日に3回寝るんだよ」って言うと、「かっこいいなあ」って。あと「俺は寝起きがいいんだよ、起きたらすぐカツ丼が食える」って言ったら、「かっこいいなあ」って(笑)。それがわかんない。
 えー、まあ、「かっこいい」と感じるのは自由なんだけど、では、つきつめて、「かっこいい」とはなにか。それがわからないし、かつて「かっこよかったもの」を、「かっこよかった」とどんなに言葉を尽くしても、うまく伝えられないんですね[…]》pp22-3 (**)

 宮沢章夫が手描きで地図を作るのは、「いま」のことを考えるためだろう。「80年代」という枠を定めたことが、そもそも冗談だったのではないだろうか。



(*)小説『サーチエンジン・システムクラッシュ』は、道に引かれたチョークの線をたどる話だった。
(**)ちょうど同じページに“腕を組んで首をひねる宮沢章夫”の写真があって、たいへん絶妙。
2006/08/27

「フライングガール」


 ろくに漫画も読んでないのに「サルまん」は好きなので(1997年版を所持)、こんな表紙の「IKKI」も購入。
 買ってしまうんだろうな、“21世紀愛蔵版”もと思いつつ、「IKKI」、せっかくの漫画雑誌なんでぜんぶ読んでみた(→公式サイト)。
 が、ほとんど連載なのでよくわからず。
「いやいや、連載に見えるが、どれもこういう読みきりなんだ」という設定を課して順番にめくった。
 唯一記憶にあった菊池直恵&横見浩彦「鉄子の旅」も、かなり絵柄が変わっているのでしみじみとする。黒田硫黄が連載していたあいだだけ私は「IKKI」を買って読んでいた。あれが2001~2年くらいだったか。人は変わるし境遇も変わる。ええ、「鉄子の旅」の絵を描いてる人の話をしているんですよ。

 で、眺めた結果、松田洋子「まほおつかいミミッチ」というのと、原一雄「のらみみ」というのがなんだか面白く、そして笠辺哲「フライングガール」にびっくりした。
 絵も話もうまい具合に力が抜けていて、とぼけた調子で軽妙に進む。あわてて単行本の既刊1冊と短篇集『バニーズほか』を買いにいき、ついさっき読んだ。ひょうひょうとしすぎて、短篇がほんとに短くなってしまうのがいい。ふつう外さないはずのネジを外していると思う(そのための労力がちっとも表に出ていない)。人物の顔がときどき水木しげるチックなのも気に入った。あと、ほのかに藤子Fへの敬意が感じられる。知ってる言葉をぜんぶ使ってほめてみた。

フライングガール 1 (1) (IKKI COMICS)
「フライングガール」は、発明家の博士とその助手を監視することになった青年のお話。ここのところで、第1話と『バニーズほか』の短篇が読めます。

「まさか山田くんが、生首苦手な人とは思わなかったのよ」
「そういうのは人それぞれじゃからな」

 この第1巻、39ページめをめくって次のページを開いた私は、声も出ないくらい驚いた。しかしこの「フライングガール」と「まほおつかいミミッチ」は、「IKKI」今号で最終回なのだった。最終回を最初に読んでしまった。また4年くらいしたら「IKKI」を買いたい。




笠辺哲 短編マンガ集 バニーズ ほか  IKKI COMIX笠辺哲 短編マンガ集 バニーズ ほか IKKI COMIX
(2005/12/26)
笠辺 哲

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2006/08/20

「王と鳥」(1979)


 小学5~6年時の担任だった先生が教室で「ルパン三世 カリオストロの城」を見せてくれたとき、もちろん冒頭のカーチェイスから私たちは大騒ぎだったが、地味ながら強い印象を残したのは、クラリスの幽閉されている塔に忍び込んだルパンが公爵たちに包囲され、落とし穴に落ちるシーンだった。
 薄い緑色の床にひと1人分の真四角な穴がぱっくり開くのと同時に、ルパンは直立したままの格好で落下する。「落下」というより「そのまま下方移動」といった感じ。その夏、プールでは「ルパンの真似」が流行った。

 もう小学生ではないので、宮崎駿作品の特徴は上下移動である、と言われて「なるほど」と思ったりもするわけだけれども、今日の昼、件の落とし穴のネタ元であるフランスのアニメ映画「王と鳥」渋谷の映画館で見てきた。「やぶにらみの暴君」というタイトルだった1953年の作品の、作者による改作完全版。それで内容はというと――
 落とし穴、落ちまくり。
 その他にも、「ハヤオ、お前というやつは」と言いたくなるシーンいろいろ。
 以前どこかで、ルパンと公爵の決闘シーン(@時計塔内部)も原点はこの映画だと聞いたことがあって、しかし私の見た限り、巨大な歯車がぐるぐる回るところなどほんの数秒映るだけだった。ハヤオ、お前というやつは。

 非日本製アニメの動きにどうも慣れない私がうっかり意識を飛ばしているあいだにもっと見るべきシーンがあったのかもしれないと思うと、ふかふかの座席もちょっと恨めしい。ハヤオの言ってたアレだからという動機で見に行った私は、結局この映画をちっともまともに見ていないのだった。映画館を出てから反省する。アニメに詳しい人なら「おお、この時代にあんな手法を!」みたいな見方もできるんだろう。ほしいもの、それは教養。

 ちなみに件の先生は、ある日の放課後、何回めかの「カリオストロの城」上映中、映画の最後、城の水門が開かれたのを衛士や機動隊員その他のみんながみんな茫然と眺める様子を左から右に映していく場面でビデオを一時停止すると、画面の一点を指さして、「ここにコナンがいる」と解説もしてくれた。当時の先生の年齢を自分が追い越すなんてことを、小学生の私はこれっぽっちも想像しなかった。
2006/08/18

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その39


[前回…]

 威勢のよいジャン修道士に率いられるようにして、ガルガンチュワ以下、選りすぐりの精鋭たちは出発した。途端に、ジャンの兜が木の枝に引っかかり、そのまま馬は走っていったので、修道士は宙吊りになり大騒ぎ。まだまだ、主役はこの過激な聖職者であるらしい。というのは、レルネの方でも「千六百騎」の兵を出してきて、衝突が迫ると、敵軍のなかに突っこんであたりをなぎ倒しまわるのはジャンひとりであるからだ。逃げ出した敵を追跡すべきかどうか、部下から問われたガルガンチュワは「ならぬ」と即答する。窮鼠猫を噛む、ということがあるから、敵を絶体絶命まで追いつめてしまうのはよくない、敵軍には常にすべての道を開いておけ、と説明する思慮深い姿には、大小便を漏らして喜んでいた幼児の面影はない。
《――ごもっとも、だが、(とジムナストは言った、)坊主は奴らと一緒ですが。
 ――坊主が一緒だと?(とガルガンチュワは言った、)大丈夫じゃ、奴らこそ、ひどい目に会うことだろうぞ!》第43章 p201

 その「坊主」ことジャン修道士は、敵軍を深追いしたあげく、どういうわけだか捕まってしまう。ここのところがよくわからないのだが、どんなに打ちすえられても「魔法の法衣」のおかげでダメージはなく、しかも、次のページでは脱走している。そればかりか、見張りの兵を2人、かるく虐殺してみせるのだった。
《忽ち、その短剣の鞘を払って、右手に控えていた射手に撃ってかかり、首筋走る頚動脈や血管などを懸壅垂[のどぼとけ]もろともに、左右の甲状腺にいたるまですっぽり断ち切り、返す刀で、第二第三椎骨の脊髄を断ち割ったので、この射手は、そのまま倒れて死んでしまった。》

《[…]一刀の下に首を刎ねたが、顳顬骨の下から頭蓋骨を輪切りにし、二枚の顱頂骨と矢状縫接部もろともに、前額骨を撥ね飛ばしてしまった。その結果、二枚の脳膜は斬り裂かれ、脳の後部側面室二つがぱっくり口を開けてしまった。すると頭蓋骨は、骨膜に吊りさげられたまま背中へだらりと垂れさがり、外は黒くて内側は真赤な博士帽というような格好になった。こうして、この射手もばたりと地上に倒れて死んだのである。》第44章 pp202-4

 ちなみにあとの方の犠牲者は、殺られる前に心の底から命乞いをしていた。ジャン修道士、こういうことがしたくてわざと捕まったのではないか。かえすがえすも、おそろしい漢なのだった。

2006/08/16

帰京

《「ください、ぜひください」と云いました。「私の妻としてぜひください」と云いました。奥さんは年を取っているだけに、私よりもずっと落ち付いていました。「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」と聞くのです。私が「急に貰いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。》

 帰ってきた。帰京ラッシュのピークである今日(テレビのニュースでそういってた)のこの日に朝5時から架線故障を起こしてもう何時間遅れだか駅員にもわからないくらいぐちゃぐちゃにダイヤの乱れたJR東日本を私はちっとも恨んでなんかいない。
 そもそも11日、帰省するのに乗った特急が予想通りぜんぜん座れないので終点までデッキで過ごした。そのあいだずっと、ちくま文庫の全集本で夏目漱石の「こころ」を読んでいた。正月に帰省した際はじめて読んだ「行人」とはちがって、これは再読。しかし前に読んだのは中学生のときだったから、そのころには読み流していたことに今回は思い至る。たいしたことではない。「こころ」は帰省小説だった。以上終わり。併録されていた「道草」も実家で読んだ。漱石はなんであんなに読みやすいんだろう。文章のつくりがどこかおかしくて、そのおかしさを私が“読みやすさ”と解しているんじゃないかと思うがよくわからない。また適当なことを書いた。年末にまた実家へ帰るので、いよいよ「明暗」を読もう。いや、来週とか読んでそうだが。
 そういえば奥泉光は、いとうせいこうとの対談(漫談)で、自分が小説を書いている途中で、それこそ漱石を読んでしまったときにメラメラと燃えあがる感情について力説していた。
奥泉 結局一種の嫉妬なんですよ、いい小説に対する。漱石なんて、第一章の「一」って書いてあるでしょう、その「一」だけで嫉妬する。
いとう そこには嫉妬しなくていいです。「一」なんだから。
奥泉 漱石だと「一」の雰囲気が馬鹿にいいように思っちゃうんですよ[…]
いとう 「冗談じゃない」と。》



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2006/08/10

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その38


[前回…]

 好き放題に略奪を重ねる盗賊のようなレルネの兵隊に対し、それを上回る暴力で撃滅したジャン修道士の話がしばらく前にあった(その23)。噂を聞いたガルガンチュワは、さっそく彼を呼びにやらせて歓迎する。つまり酒を飲む。ジャン修道士は下ネタと瀆神の弁でもってその場の主役になる。だいたい、法衣を着たまま酒を飲む理由がこうだった。
《これを着ていればこそ、酒もいよいよおいしくいただけますし、体もすっかり欣んでぴんぴんいたしますのじゃ。》第39章 p183

 えんえん修道院をコケにして、一同、大いに盛りあがる。仮眠をとって、真夜中になったら敵軍の様子を見に出ることと決まったが、ガルガンチュワは寝つけない。そこでジャン修道士がいうのには、ふたりで聖書から「七つの詩篇」を朗誦すればよく眠れるかもしれません。さっそくためしてみると、ふたりとも、二つめの詩篇でぐっすり眠りに落ちた。
 夜半、みな起き出して、おのおの武装を整える。ジャン修道士、そしてガルガンチュワに同行する者は以下のとおり。
《ポノクラート、ジムナスト、ユーデモンの面々、さらにグラングゥジエの家の子郎党のなかでも勇猛果敢な者どもが二十五人、これに従ったが、皆鎧冑に身を固め颯爽とし、拳には長槍を持ち、かの聖ジョルジュのように馬に跨り、銘々馬の尻に火縄銃を一挺ずつ載せていた。》第41章 p194

 ついに出発、といったところで私は明日から帰省してきます。つぎの更新は1週間後に。

2006/08/09

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その37


[前回…]

 具体的な前回(その29)までのあらすじ
 隣国レルネ(ピクロコル王)と戦争状態に入った祖国「乾喉国」に、ガルガンチュワが戻ってきたよ。以上。

 ガルガンチュワ一行を迎えて、城のものたちはみんなで大宴会を開く。例によって「牡牛が一六頭」だの「雛鶏と鳩とが各々六千羽」だの「小兎が一千四百匹」だの壮大な食卓で、食べ物の説明は12行に及ぶ。この第37章でガルガンチュワの母ガルガメルが死んだことを、私はいつまで憶えていられるだろう。
 で、ガルガンチュワの食欲であるが、喉の渇いたこの巨人は、サラダでもないかと思って萵苣[ちさ]をどっさり摘んでくる。「萵苣」。すごい字である。大きくしてみよう。

 萵苣[ちさ]

 しかし意味は「レタス」だった。問題は、この萵苣の中に巡礼の男6人が潜んでいたことである。彼らは敵兵をおそれて畑の陰に隠れていたのだが、そのせいで巻き込まれたこの災難に際し、ここで声を出したら密偵だと思われ殺されてしまうと考え詰めて、にっちもさっちも行かなくなっていたのだった。そんなこととはつゆ知らないガルガンチュワは、葡萄酒と一緒に6人を口のなかに入れる。
《こうやって呑みこまれた巡礼たちは、一所懸命になって、ガルガンチュワの歯の臼に挽かれまいとして逃げまわっていたが、まるで、どこかの牢獄の土窖[あなぐら]にでも放り込まれてしまったような気持だったのであり、ガルガンチュワがぐびりと酒を飲んだ時には、その口腔のなかで溺死するのではないかと思ったし、酒の奔流に流されて、すんでのところで胃の腑の奈落へ墜ちかけるという有様であった。》第38章 p179

 ガルガンチュワの大きさを強調するために登場させられたにちがいない小さな者たちが必死で右往左往する姿は、6人には悪いが、ちょっと笑える。
《そのうちの一人が、もう大丈夫かと、杖で足もとを探ってみた時、齲歯[むしば]の孔をこっぴどく叩いてしまい下顎神経を突っついたので、ガルガンチュワは滅法界な痛みを覚え、襲いかかる劇痛に怒号し始めた。》

 はい、またすごい字。

 齲歯[むしば]

 これによって6人は、妻楊枝でほじくり出され、命からがら外へ出る。

2006/08/07

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その36


[前回…]

 2週間前にドストエーフスキイ『未成年』を買ってきてまず思ったのは「さっさと読んでしまおう」ということで、そのため私は「人物表を作らない」と決めた。その方が早く読めると思った。
 それから半月にわたって持ち歩き、ちまちま読み続けた結果、私が思い知ったのは、「早く読むには人物表があった方がいい」ということだった。クライマックスのどたばたに参入する登場人物のうち、3人ばかりの身元・来歴をいまいち掴みきれないままだった。
 私はこの『未成年』の終わり方が「なんか、ぐだぐだ」と感じたし、それは作中で「どうしてこの作品はぐだぐだになったのか」予防線を張っているようにも見えるラストのちょっとした工夫を読んだからといって「じゃあOK!」と言いきれるものでもないだろうと思っているが、何より、自分の読み方がぐだぐだになってしまったのが無念だ。

 そういうわけで『未成年』を読了した。本屋のレジでつけてもらったままにしていたカバーを外し、ソデに印刷された「あらすじ」が自分の読んだ小説とどれほどちがうかびっくりできるのも、読み終えたからこその楽しみである。だからといって明日からさっそくラブレー『ガルガンチュワ物語』に戻るかといえば、それはどうだか知れたものではない。




2006/08/06

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その35


[前回…]

 早稲田松竹の2本立て、8/5(土)-11(金)のプログラム

 ・「ベルヴィル・ランデブー」
 ・「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」

 ということになっているので、8月の昼日中、学校のプールで泳いで帰ってきてからは何にもやることがなく、蝉のうるさい午後をひたすらぼんやりすごしていた小学生当時の自分を連れていってやりたいと思われたことだった。何様のつもりか。

 ドストエーフスキイ『未成年』は下巻の半分を越えた。もうちょっとで『ガルガンチュワ物語』に戻れる。ところで、このような部分を私はどんなふうに読めばいいのだろう。
《「いいかね、アルカージイ、ここに一つ奇妙なことがあるんだ。すべてのフランス人は、何よりもまずフランスに人らしくするときにおいてのみ、祖国フランスのみならず、全人類にも奉仕することができる。イギリス人もドイツ人もそれと同様なのだ。ただロシヤ人ばかりは、すでに現在においてさえ――つまり、いっさいの総じめがつけられるずっと前から、何よりもいちばんヨーロッパ人らしくなったときにのみ、最も多くロシヤ人となりうる素質を与えられたのだ。これこそ、われわれをあらゆる国民から区別する最も本質的な特徴で、この点、断然他に比類がないくらいだ」》下巻 p255

 130年前の外国人が小説の登場人物に語らせた一節である。当然よくわからない。わかるはずがない。いまのニッポンの国民性だってわかりかねるというのに。
 小説を読むにあたって私(たち)は、こういうことをわかろうと努力するべきなんだろうか。歴史を勉強して当時のおおまかな社会風俗をつかみ、そこにこういった思想を置いてみて、その意味をああでもないこうでもないと考えて答えを出さないことには、読んだことにならないんだろうか。これはけっこうな問題である。だってドストエフスキーの小説は、キリスト教にまつわるもろもろという、それこそ私からすごく“遠い”成分をたくさん含んでいる(らしい。何しろよくわからない)のだし。
 一方で、小説のなかに出てくる思想に立ちどまり、その意味に拘泥する必要はない、ほんとに、まったく、これっぽっちもない、という考え方もある。佐藤亜紀とか。そんなものはカッコでくくっておいて、その部分が小説全体の構成でどんな役割を担っているか、(内容ではなく)はたらきだけ見ればいいんだと。これはすがすがしい。自由になれる気がする。ただし、こちらはこちらで、やっぱりむずかしい。
 ひとまず私は、引用したような部分はアネクドートとして読むことにしている。
《「わたしはフランスへ行けばフランス人となり、ドイツへ行けばドイツ人となり、古代ギリシャ人と語るときはギリシャ人となる。しかもそれがために、わたしは何よりもまずロシヤ人なのだ。それがためにわたしはほんとうのロシヤ人なのだ。そして、何よりもまずロシヤのために奉仕している。なぜなら、わたしはロシヤの最も主なる思想を表現するからだ。わたしはこの思想の先駆者だ」》下巻 pp255-6

 もうひとつ、酔っ払いのお喋りとして読む、という手もある。

2006/08/05

「来週は○ページまで読んできてください」

 佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)8月下旬刊
フィクションとは、作者と読者が互いの手の内をうかがいながら丁々発止とわたりあう、遊戯的闘争の場である。超一流の書き手にして読み手が、古今東西から選りすぐった実例にもとづき、その戦略・技法の全てを具体的かつ実践的に伝授する。ファンタジー大賞、芸術選奨新人賞などエンタテインメントと純文学の双方で頂点を極めた『天使』『パルタザールの遍歴』の佐藤亜紀が早稲田大学で行った超人気講義が、ついに本になりました。

「超人気講義」だったのか。少なくとも、私が潜ってた年は(年度末の課題提出日を除いて)閑散とした教室であったよ。佐藤亜紀センセーは半年かけてドストエフスキー『悪霊』の構成を論じていた。その後どうなったんだろう。この本、タイトルからして「ユリイカ」で連載していた小説論の単行本化だと思うんだが、最近は読んでいなかった。
 何にしろ、保坂和志『小説の誕生』(新潮社、9月刊)と同じくらい楽しみ。両極な気もするが。

 で、いま『悪霊』(新潮文庫)を探したらこんな表紙になってるのな。知らなかった。

悪霊 (上巻)


 私のドストエフスキー(新潮文庫)はぜんぶこのカバーだったというのに。

賭博者
2006/08/04

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その34


[前回…]

『ガルガンチュワ物語』を読まずに『未成年』を読む日記の続き。

 上巻→中巻ときて、下巻で唐突に「聖人」が登場するので驚いた。今日読んだ下巻最初の100ページはその老人をめぐるエピソードに終始して(彼と主人公の立場関係は絶妙だった)、しかしよくわからないのは、その短くない部分がまるごとなくなってもメインの話は通じるような書かれ方がされているからだった。とはいえ、実際に書かれ挟みこまれて小説のなかに相応の位地を占めているからには、作品全体に欠くべからざる影響を及ぼしちゃっているのだろうがなんだかやっぱり変な小説であるよ。ゾシマ長老(『カラマーゾフの兄弟』)の先兵なんだろうかと皮相な感想。
《「無神論者というものは」と老人はしんみりした声で語りつづけた。「わしは今でも恐れておるかもしれん。ただな、アレクサンドル・セミョーヌイチ、こういうことをいっておきたい。わしは今まで一人も無神論者に出会ったことがない。わしが出会ったのは、ただ落ち着きのない人間ばかりだ」》下巻 p60

「ただな、アレクサンドル・セミョーヌイチ、こういうことをいっておきたい」。この呼吸はすばらしい。ロシアの人名はずるいよ、とか思ってページの端を折っていると、すぐあとにこんな言葉もあった。
《「[…]それから、ある人は本を読んでも、ただ自分の気に入った言葉の花ばかり抜き出して、喜んでおる。そういう人間は、必ず空な心配にあくせくして、しっかりした判断ということがない」》


2006/08/03

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その33


[前回…]

 今日も『ガルガンチュワ物語』ではなくて、ドストエーフスキイ『未成年』を読んでいた。中巻が終わったので、あとは下巻1冊。今週中には読み終えたい。全3冊のうち下巻がいちばん厚いんだけど。
《「自分の首を肩にのせてあるくのが苦しくなったら、夜ニコラエフスキイ鉄道の線路へ出かけて行って、レールの上に頭をのっけるがいいさ。そうすれば造作なく首をちょん切ってくれるから! だけど、お前さんは、なんだっておしゃべりをしたんだろう? なんだってあの人をからかう気になったんだね! 自慢でもしたくなったの?」
 「でも、まあ、なんという憎しみだろう! なんという憎しみだろう!」とわたしは思わず自分で自分の頭をたたいた。「いったいなんのためだろう、なんのためだろう? しかも、女に向かって! カチェリーナさんがぜんたいどんなことをしたというのだろう? こんな手紙を書くなんて、あの二人の関係はどんなふうだったんだろう?」
 「にーくーしーみ!」はげしい嘲笑を声に響かせながら、タチヤーナ叔母はわたしの口真似をした。
 血がまたもやさっとわたしの顔にのぼった。》中巻 pp257-8

 人は果たして、“嘲笑を声に響かせながら”発話することができるのだろうか。かなり難しいと思う。しかし文字の上でなら可能なのである。「にーくーしーみ!」。むしろ、この書き方から“嘲笑”を読み取るほうがより難しい気もするが。私もこんなやり方で他人の揚げ足をとってみたい、そのような誘惑に駆られた。きっとけんかになるだろうな。そうしたら、怒りだした相手にむかって最初に言う台詞は決まっている。「威張らんでください」。誰だ。

2006/08/02

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その32


[前回…]

 今日も『ガルガンチュワ物語』ではなくて、ドストエーフスキイ『未成年』を読んでいた。米川正夫訳、岩波文庫。主人公のアルカージイくんは他人の恋愛やら策謀やらの渦中にあり、中巻に入るとますますけんか腰の言い争いばかりしている。今度の相手はスチェベリコフ氏。小狡い印象を与える男で、職業はたしか医者だったと思う。
《「しかし、ぼくは、ぼくはいったいなんのために必要なんです?」
 「最も重大な問題のために必要なんです。あなたには知己があります。到るところに知己があるから、なんでも聞き出すことができます」
 「えっ、こん畜生……いったい何を聞き出すんです?」
 「つまり、公爵がその気でおるか、アンナさんがその気でおるか? それをたしかに聞き出してもらいたいので」
 「じゃ、きみはぼくにスパイになれとすすめるんですか。しかも、金のために!」わたしは憤然としておどりあがった。
 「威張らんでください、威張らんで。もうちょっとのま、威張らんでいてください、ほんの五分間ばかり」》中巻 pp75-6

 太字にしたのは私だが、「こん畜生」の挟み具合などからなにか妙なリズムができている気がする。ほかの長篇も、同じ米川訳になる岩波文庫版で読んでみたくなった。
 そして「威張らんでください」である。激昂している人間にむかって「怒らないで」「落ち着いて」と声をかけるのはもう古い。これからは「威張らんでください」でいこう。私にそう言う勇気はないけれども。

2006/08/01

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その31


[前回…]

 戦争の途中で止まっている『ガルガンチュワ物語』に戻るため、さっさとドストエーフスキイ『未成年』を読み終えてしまおうと思ったのが1週間前だった。まだ上巻の中盤である。なんでだ。
 退屈でも読みにくくもないので(ドストエフスキーが退屈なはずがあるか)、たんに今の私が読書する気持になってないからだと思われる。7月の1ヶ月間で、たぶん4冊しか読んでないよ。活字中毒でも、本がないと落ち着かないわけでもない、ふつうの人間がこのブログを書いています。「ドストエフスキーの長篇は3日で読める、というか3日以内で読まないと忘れる」(大意)とは佐藤亜紀の言だった。

 ――とか書いてから『未成年(上)』をめくっていたら、ああ、こりゃやっぱりドストエフスキーだわと実感される対話シーンがあったのでうれしくなった。当たり前だ、ドストエフスキー読んでるんだから。主人公の青年アルカージイは私生児で、ペテルブルグを訪れて愛憎なかばする父ヴェルシーロフにまみえる。
《「ええ、ぼくはお母さんの純潔なことなどいってるんじゃありません! お母さんはそんなことをいうまでもなく、いつでも精神的にあなたなぞより無限に優れていたのです。ごめんなさい、こんないい方をして…… しかし、お母さんは無限に優れた死人にすぎません。生きているのはただヴェルシーロフ一人きりで、その周囲にいるもの、それに繋がれているすべてのものは、自分の力で、自分の生き血で彼一人を養い、しかもそれを光栄としなければならぬという、避くべからざる条件の下に、意気地なくふるえている有様です。しかし、お母さんだって、いつかは生きていたこともあるでしょう? 実際あなたも、お母さんの持っているあるものを愛したんでしょう? ねえ、お母さんだって、かつては女だったことがあるんでしょう?」
 「アルカージイ、そうきけばいうがね、あれは一度も女だったことがないよ」以前わたしに対するとき必ず見せていたいやな表情で、たちまち顔をしかめながら、彼はこう答えた。それはいつもわたしを逆上させた、忘れようにも忘れられない彼の癖だった。つまり、ちょっと見ると、彼自身、純真そのもののように思われるのだが、よく眺めていると、彼の体内にあるすべてのものが、深い深い嘲笑にすぎないのである。こういうわけで、わたしはどうかすると、まるで彼の顔を判別できないことがあった。「そんなことは一度もなかった! ロシヤの女はかつて一度も女であったことがないよ」》上巻 pp250-1 太字は引用者

 これくらい奔放に書いてもらえると、やっぱり小説読むのは楽しいなあ、と思われるのだった。描写がフェアかどうかなんて、唯一絶対の尺度なんかではぜんぜんない。ましてラブレーなんて巨人の馬鹿話ですからね、と一言だけ触れたので、今日の日記も「読んでみる日記」とする。

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