2006/04/30

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その5


[前回…]

 たとえばきのうの私が部屋に帰ってきたのは日付が変わる寸前で、朝から口にしたのはコーヒーを1杯とアップルカバー(アップルパイ仕立ての重たい菓子パン。ヤマザキパン謹製)だけだったから、ふらふらするほどお腹が空いている。とりあえず冷ごはんを温め、鶏そぼろフレークを混ぜた卵焼きを焼いて、インスタントのみそ汁と一緒に食べた。朝ごはんか、と思いつつ、食べているあいだに湯をためたフロに入り、湯船でうたたねして首を痛める。煙草を2本喫って『ガルガンチュワ』を開けば、「第三章 ガルガンチュワが十一カ月の間母の胎内に宿っていたこと」はこのように始まっていた。
《グラングゥジェは、その盛りの頃には陽気な御仁であり、当時の世のなかの誰にも劣らず綺麗に盃を乾すことを得意とし、好んで塩辛いものを喰った。そのために、平生からマイヤンス及びパイヨンヌの塩豚を充分に備え、燻製の牛の舌を沢山に、旬の豚臓物腸詰[アンドウイユ]や芥子まぶせの塩漬牛肉を山のように、鮞塩辛をありあまるほどに、また腸詰類もたんまりと貯えていたが、腸詰と申しても、ボローニャ製のものではなく、(というわけは、ロンバルディヤ人の毒饅頭は恐かったからだが、)ビゴール、ロンゴールネー、ラ・ブレンヌ、ルゥエルグ産のものだった。》p34

 肉と肉と肉。たいそうなことであるよ。このグラングゥジェがガルガンチュワの父親になる。彼が娶った妻の名はガルガメル。彼女もまたおそろしく食い意地の張った女で、続く第四章の書き出しはなかなかふるっている。
《ガルガメルが子を産んだ時のこと、またその有様は下に記す通りであるが、もし諸君がこれを嘘佯[いつわ]りと思われるならば、いっそのこと肛門が抜け出るがよい!》p37

 いっそのこと肛門が抜け出るがよい!
 おそろしい命令である。目が潰れるがよい!鼻が腐って落ちるがよい! だめだ。どちらもとうていかなわない。「肛門が/抜け出るが/よい!」って、それは自動詞なのだろうか。おそるべきはガルガメル。さてしかし――
《二月三日の午後のこと、牛腸料理[ゴドビヨー]をあまり喰いすぎたために、ガルガメルは肛門が抜け出てしまったのである。》p38

 お前かよ。なんでも彼らは、「三十六万七千十四頭」の牛を屠って臓物料理を作り、近隣の町人・村人みんなを招いてさんざん飲み食いをした。出産を控えたガルガメルも、お腹に詰め込めるだけ詰め込んだ。一同、腹ごなしに出かけた野原で引き続き飲んだくれていると、彼女の陣痛が始まる。
《[…]四ほう八ぽうから産婆たちが、わんさわんさと集まってきて、下のほうを探ってみたところが、随分と悪臭を帯びた皮切れのようなものが出ていたので、てっきり嬰児[あかご]だと思ってしまった。しかし、これは上にお話したように臓物料理をあまり喰いすぎたので、――諸君が俗に「糞袋[ポワヨー・キユリエ]」と呼んで居られる――直腸が弛んだ結果、脱肛を起こしていたためだった。》第6章 p49

 牛の腸詰を食べ過ぎて、自分の腸が外に出てしまった。いま、なんとなく私は“仏に会ったら仏を殺せ”というフレーズを思い出したが、およそ関係はない。産婆のひとりが強力な収斂剤を処方すると、今度はガルガメルの「ありとあらゆる括約筋」がぎっちり締まり、開かなくなってしまった。胎児は子宮から上方に飛び出し、横隔膜を通って母親の左の耳から外へ出た。
 これがガルガンチュワ誕生の様子である。

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2006/04/29

大きすぎるメモ

 トニー・ジャー主演の映画「マッハ!!!!!!!」(音が出ます)についてる「!」マークの数は、そのときどきのスペースの都合によっていくつにしてもいいらしいが、いまの私の気持はこんなである。

 !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

青山ブックセンター イベント情報
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「対話」
藤本和子×柴田元幸トークショー&サイン会
協力:新潮社
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■2006年5月27日(土)16:00~18:00(開場15:30)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■定員:120名様
■入場料:500円(税込)電話予約の上、当日精算
■電話予約&お問い合わせ電話:青山ブックセンター本店/03-5485-5511
■受付時間:10:00~22:00
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。)
■受付開始日:2006年4月27日(木)10:00~

1975年、ブローティガン『アメリカの鱒釣り』の斬新な訳文で、翻訳文学のみならず、以後の日本文学に大きな影響を与えた藤本和子さん。そして、まさにその『鱒釣り』に衝撃をうけ、翻訳家への道を歩みだしたという柴田元幸さん。二人の名翻訳家が、翻訳、文学、日々の暮らしのあれこれ、歩んできた道について、ざっくばらんに語りあいます。
お二人による朗読(どの作品かはお楽しみに!)とサイン会も行います。

 しかし、5/27はめずらしく予定が入っていて私は行けないのだった。“協力・新潮社”である以上、遠からず「新潮」に掲載されるんだろうが、誰か、代わりに行ってきてください。

 藤本和子の訳例。上の原文がどうして下の訳文になるのかわからない。わからないながらも、いちど訳文を読んでしまうと、もう原文もそうとしか読めなくなっている。そんな感じ。
 In watermelon sugar the deeds were done and done again as my life is done in watermelon sugar. I'll tell you about it because I am here and you are distant.
 Wherever you are, we must do the best we can. It is so far to travel, and we have nothing here to travel, except watermelon sugar. I hope this works out.

Richard Brautigan"In Watermelon Sugar"

 いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう。わたしはここにいて、あなたは遠くにいるのだから。
 あなたがどこにいるとしても、わたしたちはできるだけのことをしてみなければならない。話を伝えるためには、あなたのいるところはとてもとても遠く、わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから。うまくゆけばいいと思う。

リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』


 私にわかる限りでも、藤本和子のブローティガン訳がなければ、村上春樹も高橋源一郎も柴田元幸も、少なくともいまあるようなかたちでの仕事をしてはいなかったはず。じっさいブローティガンの友人でもあったこの人が、エッセイ風の評伝としてまとめた『リチャード・ブローティガン』という本を、私はもったいなくていまだに最初の方しか読めずにいる。これに限らず「神棚に飾らずに読む」というのが今年の私のテーマだが、そんなことはともかく、電話予約して青山ブックセンターに行けば、その『リチャード・ブローティガン』に本人のサインがもらえるかもしれないのだ。ミーハー的には、それはやっぱり神棚に置くべきじゃないかと思う。




西瓜糖の日々
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2006/04/28

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その4


 [前回…]

 「第一章 ガルガンチュワの系譜と、その由緒ある家柄について」に入る。
《ガルガンチュワがその末裔として生れ出た系譜、ならびにその古い家柄を識るためには、『パンタグリュエル大年代記』について見られるがよい。》p23

 ええい、ややこしい。ここにいう『パンタグリュエル大年代記』とは、前回書いたように、ラブレーがこの『ガルガンチュワ』に先立って発表した『第二之書 パンタグリュエル物語』のことである(註より)。だからここでラブレーは、パンタグリュエルの父であるガルガンチュワの家系について知りたければ、パンタグリュエルのことが書いてある自分の本を参照しろといっている。自分で作った迷路を自分で遊んでいるようで、こういうのはきっと楽しいんだろうなと思われる。好き勝手に脇道を付け加えたり、壁に落書きをしてみたり、やりたい放題だ。
 ガルガンチュワの家系図は、《ナルセー村寄りのオリーヴ村の下手に当るアルソー・ガロー近くに、この御仁が持っていた牧場で発見された》。牧場の溝を掃除していた土工が、途方もなく長い青銅の大きな墓石を掘り当てる。
《蓋の表にHIC・BIBITUR[ここにてのむべし]という意味のエトルリヤ文字で囲まれた脚つきの酒杯の絵が目印につけてある箇所を開けてみると、九本の酒徳利がガスコーニュの九柱戲の棒を立てるとの同じ形状にならべてあるのが見出されたが、中央の徳利の下に、分厚くて、どっしりした、大型で、灰色で、綺麗で、可愛くて、黴臭くて、薔薇よりも匂いは高いが香りの芳しからぬ書物が一冊秘めてあった。》p25

 そんなに酒が好きか、と言いたいところだがそれはともかく、この書物のなかに件の家系図が長々と書かれていた。しかし謎なのは、続く第二章で引用されているのは、発掘されたこの書物の巻末についていた文書なのである。タイトルは『解毒阿呆陀羅経』[げどくあぼだらきょう]。よくわからないというのは、第三章に入ると、何事もなかったかのようにガルガンチュワの家系が説き起こされるからで、じゃあなにか、『解毒阿呆陀羅経』はなんだったのかという気持にもなるだろう。ますますわからないのは、この『解毒阿呆陀羅経』、手の込んだ擬古文で綴られており、何をいっているのか皆目わからない。書くのも相当手間だったろうに、完全にスルー。謎は深まるばかりである。
《[…]もしユノーが天が紅霓[こうげい]の下にありて、
その熊梟とともに黐を用いざりしならば、
げにや手痛き詭計の犠牲とはなりはてて、
東西南北より、攻め立てられしならむ。
和協のこと成り立ちて、かくは一口喰いて
プロセルピナの卵二つをば手に入れぬ。[…]》p31

 こんな本、だれが真面目に読むものか。そういう姿勢が早くも固まるのだった。プロセルピナ?

2006/04/27

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その3


[前回…]

 巨人ガルガンチュワという存在は、ラブレーの独創ではなく、中世のヨーロッパに広く流布していた言い伝えだったらしい。その伝説に基づいて書かれた『大ガルガンチュワ年代記』という物語を読んだラブレーは、これを模倣して、まず『第二之書 パンタグリュエル物語』を上梓する。いま私が読みはじめようとしている『第一之書 ガルガンチュワ物語』は、『第二之書』のあとで書かれたんだそうである。私が教師なら、ここの関係はテストに出したい。何の教師だ。パンタグリュエルもまた、ガルガンチュワの息子として当時よく知られていた伝説上の巨人であって、ラブレーはこの巨人親子の来歴を後付けで作りあげようとした。

「目次」をざっと見たところ、この『ガルガンチュワ』は全部で58章からできている。1章1章はひどく短い。しかし、だからといって、出てくるエピソードのひとつひとつをメモしていこうとは思っていない。私以外のほかの誰かが、実物のページをめくらなくてもここを見れば流れがつかめる、それくらいちゃんとした記録をとっていくつもりはない。そんなのぜったい挫折する。挫折しなかったら、いつまでも終わらない(そっちの方が困る)。心意気としては、1ヵ月以内に読み終えたいくらいだ。

「目次」を眺め、「読者に」を読んで、「作者の序詞」に入ると、突然ラブレーはソクラテスを引き合いに出し、その外見をボロクソに貶したあとで、傍目にはどんなに醜くても中身は素晴らしい人物がいるように、この本の内容も、《表の標題が示すほど軽佻浮華なものでもない》のであるよと、滔々とした口調で語り出す。
《[…]諸君も事理に聰くなられ、これらの滋味に富んだ良書の良書たる所以を嗅ぎ分けて、その真価を悟り、これを味わい、この上ないものと思うべきであり、獲物を追うに当たっては軽捷、これに立ち向かうに際しては大胆なるべきである。そして、念入りにこれを翻読し、瞑想の数を重ね、骨を噛み砕いて、[…]このような読み方をすれば、分別もでき、立派な人間にもなれるという確乎たる希望をもってしかるべきだ。》p20

 しかるべきであるか。この本さえ読み終えれば、こんな私だって立派な人間になれるとラブレーは励ましてくれている。しかしこの「作者の序詞」、実はこのような呼びかけで始まっていたのだった。
《世にも名高い酔漢[さけのみ]の諸君、また、いとも貴重な梅瘡[かさ]病みのおのおの方よ、――かくのごとくお呼び申上げるしだいは、私の書物が捧げられるのは正に諸君にであって、よそのお方たちにではないからだが、――プラトンの『饗宴』と題する対話のなかで[…]》p17

 私はいきなりつまはじきである。

2006/04/26

「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみる  その2


[前回…]

 きのう書いた分をいま読み返して思ったのは、とっとと読めよ自分、ということで、たしかに能書きばかりぐだぐだうるさかった。読み終えてもいない本を「古典である」「有名である」と騒ぐのはみっともない。どうせなら私は、実際に読み終えたうえで「古典だ」「有名だ」と言いたい。いや、そんな動機だったか?
 しかし、「古典だから」「有名だから」といって読むのは愚かだ、という一見まっとうそうな考え方も実は愚かであって、なぜなら、私はもちろんおそらくはこのブログを読んでいるあなたも、すでに十代の少年少女ではないのだし――ああ、とっとと読めよ自分。

 そこで第1巻である『第一之書 ガルガンチュワ物語』を開いてみると、目次の前に1ページ使ってこのような題辞があった。
   *   さ  ち     あ れ か し
  ΑΓΑΘΗ ΤγΧΗ
 *万有第五元素抽出者*アルコフリバス師の*旧作にかかる
  全巻これ*パンタグリュエリスムの書
   パンタグリュエルが父
*
大ガルガンチュワの世にも畏怖すべき生涯の物語

 できるだけ忠実に再現してみた。「*」印は訳者による註のマークである。最初にある謎の記号のようなもの(文字化けではない)はギリシャ文字だろうか。そこで「訳者略註」をめくってみると、はたして、説明されているのはこういうことだった。
《ΑΓΑΘΗ・ΤγΧΗ=一五三五年b版だけに見られる句。本訳稿は主として一五四二年e版系統のテクストによる。(解説を参照)》p261

 それは私も知っておかないといけないことなんだろうか、との疑念に駆られつつ、今度は「解説」を見てみれば、なんでも『ガルガンチュワ』のテクストには、ラブレーの生前に出版されたものだけでも11に及ぶ種類があって、そのそれぞれが様々な異同を抱えているらしい。それらを相手に気の遠くなるような校訂作業を続けているのがフランスの「ラブレー研究協会」(略称は「S・E・R」)に属する学者たちなのだ、と渡辺一夫は書いている。
《我々はS・E・R版を繙く時、フランスにおけるラブレー研究の地味なしかし脈々として絶えることのない伝統と、S・E・R協会の諸学者たちの麗しい協力とその不屈の努力とに心から敬意を表せざるを得ない。そこには個人の劇しい精神の燃焼があり、しかも個人の姓名はなかった。そして、その結果生まれたものは、決して大衆的とは言えない数巻のS・E・R版に外ならない。》p456

 引用してしまうくらいだから私はうっかり心を動かされてしまったわけだが、小声で付け加えておけば、そんなことはどうでもいいじゃないか。
 このような調子ではいっこうに読み進められない。私にとって『ガルガンチュワ』のテクストとは、いまキーボードの前に開いている岩波文庫版ただひとつである。どんなテクストも(とりわけ古典であれば)そうであるように、この渡辺訳も、研究が進めば進むほど、“唯一の、真の姿”が明らかになるどころか、逆に茫洋と拡散していく作品像を、ひとまず固定しておくために織られた、つぎはぎだらけの暫定的な複合体にすぎない。260ページ足らずで終わる本文の後ろにくっついた、240ページ以上の註・解説をぱらぱらめくるだけでも、そんなことが実感される。だから私も、原典をめぐる煩瑣な註の山には最大限の敬意を表しつつ、そこは気合を入れて読み飛ばすことにする。

2006/04/25

読んでみる  その1



 唐突に、ラブレーの「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を読んでみようと思ったのだった。
 これは、ガルガンチュワとパンタグリュエルという巨人の親子があちこち遍歴する物語のはずで、フランスの古典としてたいへん名高いが、その内容はといえば、酒飲み話と糞尿譚と駄洒落がこれでもかというくらいにぎやかにあふれかえっているという。だから名高いのか。原著の刊行は1532~1564年とされている。ラブレーの名は高校の世界史の教科書にも出ていた。

 読もうというのは、渡辺一夫の翻訳した岩波文庫版である。全5冊。たいそうな名訳として評判で、私の狭い読書範囲でも、ラブレーといえば渡辺一夫、渡辺一夫といえばラブレー、名訳といえば「ガルガンチュワとパンタグリュエル」、みたいな物言いがよくされていた。『フィネガンズ・ウェイク』といえば柳瀬尚紀、のようなものかもしれない。知らないけど。
 それだけ翻訳が有名になるからには、原文が相当難しいということになるのだろうが、なんでもラブレーの時代の書きものは、現在のフランス語と大きくちがう、中世フランス語という言語が使用されていたそうで、これはいまのフランス人でも読めないらしい。だから「ガルガンチュワとパンタグリュエル」には、英語訳やドイツ語訳その他と同様に“現代フランス語訳”もあるという。日本でいえば『源氏物語』みたいなものか?
(私が目にした最も過激なほめ言葉は、「渡辺一夫によるラブレーの日本語訳は、現代フランス語訳よりも見事だ」というもので、こうなるともう何がなんだかわからない。出典は忘れた。ここらへんの私の書いてることはまったくあてになりません)

 ところで、岩波文庫に「ガルガンチュワとパンタグリュエル」という書名の本はなく、正確にはそれぞれこういうタイトルである。
『ラブレー第一之書 ガルガンチュワ物語』(1973)
『ラブレー第二之書 パンタグリュエル物語』(1973)
『ラブレー第三之書 パンタグリュエル物語』(1974)
『ラブレー第四之書 パンタグリュエル物語』(1974)
『ラブレー第五之書 パンタグリュエル物語』(1975)

 でもめんどくさいので、シリーズ名として今後も「ガルガンチュワとパンタグリュエル」という表記を使っていく。渡辺一夫はもともとこれを白水社から出し(1941~1964年)、それからも改訳を続けて、この岩波文庫版が事実上の決定稿になっているようだ。上の書名につけたカッコ内の数字が、岩波文庫の初版が出た年。
 この5冊、私が大学に入ったころは生協の書棚にも普通に並んでいたから、そのうち買おうと思って眺めているうちに数年が経って、気がついたら姿を消していた。まさか絶版なんてことはないだろうと都内の本屋をまわっても「在庫はないよ」と言われるので、とうとう岩波書店のお客様受付に電話までして「品切れである・重版の予定はない・もういっさいない」との回答をもらったのだった。なにもそこまで、というくらい出版社は冷酷である。
 とはいえさすが古典、こんどは早稲田の古本屋をひとめぐりしてみると、5冊揃いが3、4組は置いてあるのが確認できたので安心した。安心しただけでまた数年が過ぎ、あるとき思い立って買いに行くと、すでにひと組もなくなっていた――なんてこともなく、あっさり見つかった。最終巻の裏表紙に鉛筆で書かれていた値段は3300円。1冊あたり660円とすれば、新本の値段とそんなにちがわない。最近は探してないけど、いまでも手に入れるのは難しくないんじゃなかろうか。
 そうやってようやく部屋に持ち帰った「ガルガンチュワとパンタグリュエル」を、3年くらい前、私はたしか3冊めまでは読んだはずなのだが、そこまで進んでいながらなぜ途中でやめたのか憶えていないし、内容についてはもうほとんどあたまに残っていない。作中では、たしかに酒を飲んでいた気がする。糞尿のことは記憶にない。その程度なので、今回ははじめから読み直すことにする。
「唐突に読もうと思った」のにもいちおう理由はあって、それはこのラブレー、いま現在、ちくま文庫で新訳が刊行中だからである。訳している宮下志朗という人は、渡辺一夫の教え子の教え子にあたるとか。手元にある岩波版を読まないうちにちくま版がぜんぶ出てしまったら、たぶん私はそっちを読んで、岩波版は積んだままになるか、あるいは、岩波とちくまのどっちから読むか迷い、どちらも読まないままになるにちがいない。それは嫌だ。なんでも宮下志朗は、「年に1冊ずつ出す」のを目標にしているようで、2005年に第1巻、2006年に第2巻が出ているから、まだまだ余裕はある。
(宮下訳は、『第五之書』をカットした全4冊になるらしい。そしてそっちのタイトルは、『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。相変わらず表紙のかっこいいちくま文庫、私は岩波版を読み終えるまでは意地でも買わない)

 途中から自分でも予想していたことではあるが、だらだら書いていたせいで、本の実物にたどりつかなかった。文庫の第1巻にはたいへん充実した訳者の「解説」がついているけれど、今日はもう眠たいので、下にウィキペディアの記事へのリンクを貼っておく。人は易きに流れる。人って私だが。あしたの更新はあるのだろうか。そして、ほんとに読むんだろうか。
 いずれにせよ、「糞尿のことは記憶にない」と書いたのは私の人生において初の経験であり、願わくば最後であればいいなと思う。なかなかないだろう、こんな言明をする機会は。

「糞尿のことは記憶にないのか?」
「はい、糞尿のことは記憶にありません」

 それはいったいどんな厳しい尋問なのか。

 ガルガンチュワとパンタグリュエル(ウィキペディア)

 フランソワ・ラブレー(ウィキペディア)


2006/04/23

幟という字はちょっとかっこよすぎる

 先日シティボーイズのライブを見にいったとき、「特設テント」へ続く通路の脇にいくつも“のぼり”が立っていて、あとでよそのブログを見て回ったところでは小林賢太郎(ラーメンズ)からののぼりなんかがあったらしいのだが、風もなくどれもだらりと垂れているなかでちょうど私の目にとまったのはこういうものだった。
 いとうせいこう 中村有志讃江
             FLIPFLAP

 ああ、FLIPFLAP、好きな顔だったなあ(しかも双子)、4年くらい前のNHK教育「地球たべもの大百科」以来見ていなかったけど、そうか「天才ビットくん」があったか、などと思った。で、ちょっと検索してみたところ、当人たちがそれぞれブログを作っていたのだった。

 FLIP-FLAP ブログ de ゆうこ
 http://blogs.yahoo.co.jp/flip_flap_u_ko
 FLIP-FLAP ブログ de あいこ
 http://blogs.yahoo.co.jp/aiaiai1625

 どちらもやたら重いんだが、「画像一覧」を堪能しているところ。以上。
2006/04/22

「ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!」(2005)

ニック・パーク、スティーヴ・ボックス監督

 発明家のウォレスと、物言わぬ愛犬グルミットのコンビが大活躍するクレイアニメの最新作を見てきた。異様にきれいな渋谷の映画館、シネ・アミューズ。居心地が悪いったらない、と書こうとして、しかし実際には、座ってゆったり足を伸ばせるほど席と席とのあいだが広くて快適なのだった。なにか悔しい。

 第1作「チーズ・ホリデー」(23分)、第2作「ペンギンに気をつけろ!」(29分)、第3作「ウォレスとグルミット、危機一髪!」(31分)ときて、今作はついに85分の大長篇。感無量である、とかいってるわりには公開から1ヵ月以上経ってしまったわけだが。公式サイトはこちら

 丹精込めて育てた巨大野菜のコンテストが年間を通して最大のイベントになっている田舎町で、ウォレスとグルミットは、畑を荒らすウサギの除去仕事に取り組んでいた。強力な掃除機でウサギを巣穴から吸引するのである。野菜栽培に余念のない町の人びとから感謝されてはいるものの、捕まえたウサギを放りこんでおく檻はすでに満杯なので、ウォレスは掃除機を応用してウサギの脳から「野菜好き」の部分を抽出しようとする。そうすればウサギは無害になるからだ。ところがその後、町には謎の巨大ウサギが跋扈するようになって、野菜は壊滅の危機、ウォレス&グルミットにピンチが迫る……!

 あまりによくできていて涙が出そうだったと言うほかない。
 1コマ1コマ、粘土人形を手で動かし80分のフィルムを作る。そんな作業を続ける製作者の手間のかけ具合は、当然、画面以前の脚本やキャラ造形の面にも及ぶ。あくまでこちらの期待に沿いながら、堅実に予想を越えてくる展開。悪役らしい悪役。どんでん返し。ピンチ。見せ場に次ぐ見せ場。
 ニック・パークの所属するアードマンというアニメスタジオは、6年前の「チキン・ラン」(91分)からアメリカのドリームワークスと組んでいる。粘土だけでなくCGも大々的に使うようになったのは、長篇を作るためには不可欠の選択だったのかもしれないが、豪華になった画を見てときどき寂しくなる気持もあった。「いまの、ほんとに必要だったか?」と。
 けれども、私が粘土だと思って見ている部分が実はしっかりCGで加工済だったりするのだろうから、寂しがる余裕があったらすみずみまで堪能するべきなのだろう。科学/魔法の関係と同じく、高度に進化したCGは粘土と区別がつかないのかもしれない。
 本作の主役ともいえる、山ほど登場して画面を撹乱するウサギみんなに豚鼻がついているあたりに、製作者たちのものの見方が現れている気がした。素晴らしく愉快にできていて、子供にも100%安心して見せられるこんな作品を貫いているのが“大人の悪意”であるところがまた素晴らしいと思う。あと脇役では、ちょっといかがわしい牧師がよかった。


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(「ウォレスとグルミット」シリーズには、番外編としてこの短篇集もある)

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2006/04/21

ABC

 青山ブックセンターからイベント情報メールが来ていた。
松浦寿輝×川上弘美トークショー
―夜の公園で散歩のあいまにこんなことを考えていた―
■2006年5月14日(日)15:00~17:00(14:30開場)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■定員:120名様
■入場料:¥500(税込)電話予約の上、当日精算
■電話予約&お問い合わせ電話:03-5485-5511
■受付開始:2006年4月19日(水)10:00
日本で最もスリリングな作品を発表し続ける二人の芥川賞作家が、創作、日常、気になっていること、イメージのふくらませ方などを縦横無尽に語り合います!トーク終了後は、お二人によるサイン会も予定しております。

 ふたりとも、穏やかな顔をした変態だ。これは濃い。酔いそう。

 あともうひとつ、こういうのもあるらしい。
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『ルート350』(講談社)刊行記念
古川日出男トークショー&サイン会
「僕の前に路(ルート)はあったか?」
ゲスト:仲俣暁生
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2006年5月5日(金)13:00~15:00(12:30開場)
■会場:青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山
■入場料:500円(税込)電話予約の上、当日精算
■電話予約&お問い合わせ電話:青山ブックセンター本店/03-5485-5511
■受付時間:10:00~22:00
(※受付時間は、お問い合わせ店舗の営業時間内となります。御注意下さい。)
■受付開始日:2006年4月20日(木)10:00~
古川日出男、初の“ストレートな短編集”『ルート350』(講談社)の刊行を記念して、著者を招いてのトークショーとサイン会を開催致します。
古川さんによる未発表作品の朗読も予定しております。
→詳細
2006/04/20

池上本門寺でシティボーイズ参り

 4/19(水)夜、シティボーイズ ミックス PRESENTS「マンドラゴラの降る沼」を見に行った。はじめてのライブは池上本門寺(微妙に音が出ます)、特設テント。4/11からやっているので9日目になる。18:30開場、19:30開演。数日前から、先に見てきた人たちのブログを探して会場の情報収集をしていた。東京公演は4/23で終わりだが、同じことをする人がいるかもしれないので私の場合をメモ。

本門寺へのルートは池上駅(五反田から東急池上線)を使用。駅を出たところに地図があるし、太い道が続くので迷わない。というか、それらしい人の後に続けばよし。徒歩10分。
・お寺の境内へ続く階段が「長い」「長い」と言われているが、それほどのものではない。しかし、階段を上りきって見える広大な境内には思わず声が出た。修学旅行か。 →なので、西馬込駅より池上駅から行った方がいいのでは。
・お賽銭を投げつつ、その境内をいったん抜けて案内されるまま歩いていったところに特設テントはある。ほんとはそれぜんぶが境内なんだろうが、広すぎて地図を見ても自分がどこにいたのかわからない。
・チケット渡すと、入り口前に出店。19日はチョリソー、焼きそば、お汁粉、餡パン、缶ビール、お茶が売っていた。
・パンフレットと過去の公演DVD売り場もあり。立派なパンフ(1800円)、売り子は「100円玉が足りません」と連呼。
・設置されてる簡易トイレ、少なくとも男子用はよくない。テントに向かう道路へ出る前にもっとましそうなトイレがあったような気がするが未確認。なお、池上駅にもトイレは見当たらなかった。
・テントというより立派な小屋。テント感はゼロ。とはいえ入場するとさすがに気分は高揚する。
・19日は昼間から晴れて暖かかったので、テント(小屋)のなかもそれほど寒くはない。しかし次第に足が冷えてきたので薄着はよくない。膝掛け持参の人も多かった。
・舞台前の3列(桟敷席)は本当に桟敷で座布団に座る。靴はビニール袋に入れるのでブーツは不便かも。

 以上。あとは感想。

 ラッキーなことに私は桟敷席が取れたので、舞台上の6人(シティボーイズ+中村有志、いとうせいこう、銀粉蝶)をほとんど下から見上げるような格好で堪能できた。舞台に2人立っているだけでも、右に左にあたまを動かさなければ視界に入らないという贅沢。舞台って広いんだ、と実感した。いままでテレビの画面でしか見たことのなかった人たちが、すぐそこで、自分と同じ“人間のサイズ”で動いている。その地続き感がうまく飲み込めず、こんなところにおれがいるとはいったいどういうわけかと妙な感覚に囚われるほど。たぶん考えすぎている。
20060419
 開演を待つあいだ、舞台にかかる幕に映されていた桜の花びらが、ここに貼った写真。こんなアングル。終演頃には腰が痛くなる。いちばん見やすいのは桟敷のうしろ、椅子席の最前列じゃなかったかと思う。いや、私は桟敷で満足だ。満足したぞ。いくつかのブログで似たような写真を見たが、たしかにあれは撮りたくなる仰角だった。

 来月、5/26(金)には早くもWOWOWで放映されるらしいので、見られる環境にある人にはぜひおすすめしたい。最初のコントの最初の台詞(いとうせいこう)の鮮烈さに驚いているうちに、あとは2時間があっというまだった。いくつかのコントをゆるくつないで流れを作るのは従来通りで、今回はその枠がとくべつ見事だった気がする。「若気の至りでアングラ演劇」、「酔った勢いで人間大砲」、「原子力発電所のPR案会議」などなど。とりわけ、銀粉蝶が熱唱する“原発ソング”と、中村有志演じる“ネガティブオーラ夫人”に笑った(「私のうちでネガティブ小パーティーをしない? どうせ盛りあがらないけど」「ネ、ネガティブだ!」)。
 動物のようなきたろう・斉木しげるにいつもはイライラ芸で対抗する大竹まことも、いとうせいこうがいるとボケ側にまわれるのがよかった。いとうが出るなら来年も行きたい。今回の桟敷席ゲットで今年の運は使いきったと思うが、来年のことならわかるまい。残りのテント公演、あと福岡・愛知・大阪での公演、さらにWOWOWで、この舞台をこれから見る人がうらやましい。DVDがTSUTAYAに入るのはいつだろう。
 笑い終わって帰るとき、寺の階段から見下ろす眺めにちょっと放心した。それで写真は撮り忘れた。
2006/04/19

ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』(1991)

ジョン・ランプリエールの辞書
青木純子訳、東京創元社(2000)


 内的動機により今月中に読まないといけなかった本、その2。
 時に1787年。英仏海峡に浮かぶジャージー島で生まれ育ったジョン・ランプリエールは、22歳にしてギリシャ・ローマの膨大な古典に通じた、脅威的な読書家である。当時としては珍しい眼鏡をかけたこの学究肌の青年が、ある日突然勃発した悲劇から、不可解な事件の連鎖に巻き込まれていく。ロンドンに渡り、何やかんやで神話の辞書を書くことになった彼は、四六時中自分を監視する目があることにまだ気付いていない……

《「辞書、そうだった。辞書はきわめて重要だからね」最後の言葉に力がこもる。「できるだけ早く始めるといい」
「さっそく今夜から取りかかりますよ」ランプリエールは自信たっぷりに言った。》P161

 長い。すごく長い。その全篇が終始、流れるように進む。ランプリエール一族の呪われた因縁とは何か。身の回りの人物・出来事が姿を変えていくのは、彼が書き続ける辞書の記述と呼応しているのか。波瀾万丈、盛りだくさんの事件。

 結局のところ、この長篇にあらわれる奇怪な物事のすべては、歴史の陰にひそむ秘密組織、彼らの仕組んだ陰謀、に収束する。これはネタばらしではない。時代劇が勧善懲悪で終わる、というのと同じくらいの前提だ。いっそ形式とさえ言える。撒き餌のような数々の謎のあいだに線が結ばれる過程から、秘密組織の正体が徐々に見えてくる。いくつかの大きな謎には、小説の最後半、彼らの目論みがどんなものだったかが明らかになるなかで、そこまでのページを一挙にさかのぼり答えが与えられる。
 たぶんおそらく、「そうやってすべてを陰謀にまとめて解決させる作り方は安易じゃないか」とする非難は的はずれなんだと思う。なにしろこれは、秘密組織の構成員が卓を囲んで会議をする小説なのである。そういうものとして楽しめるのだし、まさにそういうものとして物語を充実させる方向に作者は邁進してくれている。不健康な活字中毒者だったはずのランプリエールが、故郷を離れると一転、いかにもヒーロー然として飛び跳ねたり恋愛に身を焦がしたりする姿には、「キャラとして変だろ」というのではなく、「役割としてそうでなくちゃいけない」と拍手を送りたい。「ちょっと長すぎやしないだろうか」という疑問は、「その長さのあいだこちらを楽しませてくれる」と言い換えられないこともないだろう。たくさんの材料を関係付けて持ち込むのに便利な枠組みが陰謀である。「これとあれには関係があったんだよ!」という発見によって作られる(もとからあったものとして、あとから作られる)のが“陰謀”なのだから。
 つまり、殺人、東インド会社をめぐる密計、フランスの新教徒弾圧から、猥雑な18世紀ロンドン・パリの描出まで、さまざまな要素を詰め込んでいても、この長篇はたいへんシンプルにできている。重厚そうな雰囲気を漂わせながら、物語の最後まで、書法の面での(たとえば、語りの基盤が雪崩を起こすような)仕掛けはなかった。「長い、長い」とはいえ、何が書いてあるのかわからない、読みにくくて引っかかるような部分はない。断言する。ひとつもない。
 そのあまりの正攻法っぷりに肩透かしをくったような気持ちが残るので、ここまでこのような書き方になってしまった次第だが、それは私が、小説にしろ映画にしろ漫画にしろ真っ当な物語の経験を積んでいない未熟な受け手であるために息切れしたからではないかと考えられ、先日も今日も、この作品についてはっきり態度を決められないでいる。ゴールへ向かって一直線、という形式は、別にそれ自体が安易なわけではないはずだ。しかし、どうせこっちの方向でやるなら、核である秘密組織をもっと大きなものとして妄想してくれてもよかったのではないか、とだけは言えるように思う。
 この『ジョン・ランプリエールの辞書』、私は半値以下の古本で買ったが、定価は5000円もするからなかなか人には勧めにくい。来月、文庫で読む人たちの感想をちょっとウェブで見てみたい。

 以下余談。
 陰謀の小説は、たぶん大人の楽しみである。大人は、フィクションで目にした「陰謀に基づく世界観」を現実の世界にまで適用して、特定の組織・集団を何ごとかの黒幕と考えたり、自分たちの不利益から利益を得ているわかりやすい悪意のシステムが存在すると信じ込んだりはしない。しかし大人じゃない人間は意外と多い。
 目に見える世界の背後にどうしても陰謀の影を見てしまう人間の心性を扱ったウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』(1988)のような企みは、『ジョン・ランプリエールの辞書』では目指されていない。だから、「陰謀があるのではないか」というところから出発したくせに「あるのかないのかわからなくなる」地点までぐるりと回り、その運動に乗せていくつかの世界観を提示する、そしてよくわからないまま終わる、トマス・ピンチョンの諸作品ともまったく違う。ところでノーフォークは、この長篇のあちこちで(とりわけ酒場でのバカ騒ぎや、災害を列挙する部分なんかで)あからさまにピンチョン『V.』(1963)の文体模写をやっており、妙にうまいのが面白かった。ゴールに向かって一直線の方面では、セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』(1991)に登場する秘密組織が素晴らしくバカバカしくて感動的だった。ただ、あの長篇は下巻の途中で――未読の人の興を殺ぎそうなのでよします。



フーコーの振り子〈上〉
ウンベルト エーコ Umberto Eco 藤村 昌昭
文藝春秋 (1999/06)
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トマス・ピンチョン 三宅 卓雄 Thomas Pynchon
国書刊行会 (1989/07)
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フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉
セオドア ローザック Theodore Roszak 田中 靖
文藝春秋 (1999/12)
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2006/04/15

私ではない

 名前がないと不便なので、私はこのブログで「doodling」と名乗っているわけだけれども、ネットで遊びはじめた数年前から最近まで、別のハンドルネームをよく使っていた。平仮名4文字、実在する食べ物の名前。それでもって、所属していたサークルの掲示板や知り合いのサイトなんかに書き込みをしていた。
 で、ここしばらくでふたりの人から立て続けに教えられたのだが、2ちゃんねるにその平仮名4文字を固定ハンドルにしてる人がいて、いろいろ書き込みしているらしい。「もしかして、あれはお前なのか」と訊かれた。心配そうな声音だった。ええ、違います。書き込みはしたことないです。

「時事ニュースを貼りつけてスレ立てたり、煽ったりしてたよ」
「へー。どこの板?」
「主にVIP」
「ちょwwおまwwww」

 私ではない。しかし「www」表記は偉大な発明だと思う。『ジョン・ランプリエールの辞書』はもうちょっとだ。
2006/04/14

半分の『辞書』

 マコーマック『隠し部屋を査察して』に引き続き、今度はローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』を読んでいるが、これが結構たいへんで難儀している。じつは先週から読んでおり、さっきようやく半分を越えたところだから、今週中に読み終えられるか微妙。挫折しないよう経過報告を書いてみる。

 つまんないのかというとそんなことはない。むしろ面白い。間違いなく面白い、とさえ言っていいはずだ。歴史に材を取った一大冒険活劇で、すらすら読み進めるのだが、なんというか、こんなにもすらすら読める小説にこれだけの長さ(2段組で約600ページ)は必要なんだろうか、という疑問がつきまとって離れない。
 いや、必要だったんだとは思う。主人公が不可解な事件に巻き込まれて舞台も二転三転、謎が謎を呼び、妙ちきりんな人物と奇体なイベントが山ほど登場、徐々に明かされる謎周辺の事情はすでに時代をさかのぼりつつあり、どんどん拡大していく話は(前評判によれば)豪腕でもってまとめられ見事な大団円を迎えるらしいから、600ページが必要かどうかではなく、作者がもてる筆力をフルに使って風呂敷を広げた結果がこの長さ、なんだろう。
 でもその風呂敷、いまはそうやってどんどん広げているけど、どうせ畳まれちゃうんだよね――読んでいる最中にふとそう思ってしまい、するとなぜか「徒労」という言葉が脳裏をかすめるのだった。
 これ、何についてだって言えるいちゃもんであるわけだから、夢中になって読んでいればそこまで立ち戻って考えなくてもいいはずだが、どうにも、ページをめくっている私はこの小説にうまく引き込まれていない。原因は、この小説がゴールに向かってひたすら真っ直ぐに進んでいるからだと思う。真相を大きなものにするために、いまは謎を謎として膨らませている段階。そこでストーリーの語り方が一本調子なのは、やや厳しい。何から何まで説明されるし、大事な出来事は視点を変えて親切に繰り返される。読み易すぎると、こちらの集中力はかえって逸らされるのかもしれない。「こちら」って私のことだが。そうだよな。私には、体力が足りない。それを痛感した。念のため繰り返すが、面白いことは間違いないのである。
 いまちょうど300ページ。これから怒濤の展開でラストまでもっていってもらえれば、「ああよかった、結局1ページも無駄ではなかったんだ」と満足するのだろう。きっとそうなる。そのとき、現時点で感じているもやもやは雲散霧消しているだろうから、いま、そうやって昇華する前の感想を書き留めておくべきじゃないかと思ったのだった。いや、「べき」ってことはないかな。ぐだぐだである。
(でも、わざわざ読書を中断してこんなことを書いている時点でずいぶん語るに落ちている気はする)
2006/04/11

エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』(1987)

隠し部屋を査察して
増田まもる訳、東京創元社(2000)

 内的動機により今月中に読まないといけなかった本、その1。
 スコットランドに生まれ、大人になってからカナダに移住して小説を書いているという作家の短篇集。どちらのお国柄も私は知らないが、ここに収められた20篇はどれもこれも歪んでいる。

 表題作「隠し部屋を査察して」は、ある種の役人らしい「わたし」が民家の地下室に閉じ込められた罪人たちを査察して回る話。ディテールはこと細かく描写されながら、設定の説明はほとんどない。
 ほかにも、妻の死体を切り刻んで子供とペットの腹に埋めた医者の話や、炭鉱で起きたエレベーターの落下事故、舞台の上で行われる気色悪い見世物、異郷の島に伝わる性の儀式、人間の死に顔を撮り続けた写真家の生涯、といった話が続く。
 なかには誰も死なない話もあるものの(たしかあったと思う)、物理的にも比喩的にも、“人のからだをバラバラにする”エピソードが多かった。良く言えば悪趣味、悪く言っても悪趣味、そんな世界。それなのにふしぎと健康的な読後感で、たぶん作者はすごく人あたりがいいんじゃないかとまで想像されるのだから妙である。

「刈り跡」という短篇は、カナダのある町で突然、幅100メートル、深さ30メートルの溝が発生し、その範囲にある建物や人間を消し去る。溝は時速1600キロで西に進み、それの通った跡はきれいに消滅していく。ロッキー山脈から太平洋を経て日本→チベット→アラブの砂漠へと一本の線が走り、24時間後には地球をひとまわり。
 これはこの作家の代表作と目されているのか、私は以前、『positive 01 ポストモダン小説、ピンチョン以後の作家たち(書肆風の薔薇)というアンソロジーで読んだことがあった。この作品のなかに、マコーマックの作風を象徴するような部分があったので引用しようと思っていたら、巻末の「解説」でちゃんと指摘されている(でも書き写す)。
《それが〈刈り跡〉の特徴であった。京都でも見られたように、無数の人命が失われたにもかかわらず、あからさまな敵意をひきおこさないのである。それどころか、初期の理論家のなかには〈刈り跡〉の恩恵ということばを口にするものまであった。》p121

 5月の文庫化は、2003年頃からじわじわと始まった“変な短篇集”ブームの一環だと思う。このブームを私は指をくわえて見ているだけなので、本書がそういう流れのなかでどこらへんに位置づけられるのか、ほかの人の意見を聞きたい。私は「祭り」「トロツキーの一枚の写真」「町の長い一日」が気に入りました。
 最後に、スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスの奇行を描いた「海を渡ったノックス」から引用。少年時代の彼は、ネズミを豚に食わせる「悪ふざけ」からエスカレート、自分の妹をこっそり家畜小屋に置いて親には嘘をつく。
《両親がすでに自分の話をなかば信じこんでいるのがわかった。人間のこどもが幼い妹を豚の餌にしたりできるはずがない。そのとき少年は理解した。いままで不自然で変態的だと誤って思いこんでいた彼のすべての性癖は、正しく了解すれば、ほんとうは宗教的性質のしるしだったのである。そこで少年は、大きくなったらすぐに宗教改革者になろうと決心した。そして彼はなった。やがて両親とも彼の偉業をとても誇りにするようになった。ときにはふたりの瞳に懐疑的なきらめきがかすめるのを見ることもできたが。》p85

《そして彼はなった。》がすばらしいと思う。


ポストモダン小説、ピンチヨン以後の作家たち (ポジティヴ)ポストモダン小説、ピンチヨン以後の作家たち (ポジティヴ)
(1991/06)
斎藤 恵美子

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2006/04/06

「怪奇大作戦」ふたたび

 ふた月前から欠かさず見ていた「怪奇大作戦」の再放送(東京MXテレビ)だったが、今日(4/5)の分を見ようとテレビの前に座ったらやっていない。放送曜日が変更されていた。水曜だったのが火曜に。今日だと思ったらきのうだった。呆然とした。来週はまちがえないように書き留めておく。

 げんなりしたので、欠番の第24話「狂鬼人間」を見ることにした。こないだ友達Bの家に遊びに行ったとき、○○を×××××してもらったのだった。

「機械使って一時的に精神異常にしてもらった人間が殺人する、無罪、って話で、テレビ放送は永遠にないと思う。なんでか知らんけど」
「DVDとかにもなってないの?」
「全話収録のLD BOXがいちど出たんだけど、発売当日に回収されたからほとんど出回ってない」
「そんな貴重なものをきみは」
「いや、たまたま会社の先輩がそのBOX持ってたから借りた」
「見たいと思っていたきみと、発売日に買った人が、同じ職場に」
「おれはおれでかなり探してたんだけど、実は身近にあったという」
「それはあれじゃないか、青い鳥」
「青い鳥。童話のようだ」
「でも放送はできない」
「できない。なんでか知らんけど」

「狂鬼人間」については、前回もリンクした詳しいサイトにあらすじと感想がある(→こちら)。いまさっきはじめて見てみたが、うーん、欠番という話題だけひとり歩きしていそうだけど、実際に見るとたいして面白いものではない――と言いきれたら話は簡単なのだが。キチガイ発言よりも、極端な類型化が問題だと思った(登場する精神異常者はみんな馬鹿笑いする)。見たい人はまず職場の先輩に聞いてみよう。

「怪奇大作戦」は来週の放送が第15話で、全26話(↑含む)だから6月頃までやっているはずだが、友達Bに言わせると第25話「京都買います」というのが最高傑作らしい。期待しているので上述サイトでもあらすじは見ないでいる私だ。いまから楽しみ、とこれもメモ。毎週火曜日、夜11時半から、9チャンネル。
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