2006/03/31

どこかにいってしまった物たち

 ぜったい部屋にあるはずの物が見つからないという不可解な現象を、私たちはどう考えればいいのだろう。

 もう1週間前にリチャード・パワーズ本人を見て、ひさしぶりに『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み返す――のはさすがに時間がかかるから、あの小説の出版(2000年初夏)に合わせて「文學界」で企画された、パワーズをめぐる座談会の記録を読み、好き放題に引用して並べてみたいと思ったのだった。というのも、あれはメンツがたいへん豪華な座談会で、訳者の柴田元幸高橋源一郎若島正、そして佐藤亜紀という、私にとっては夢のような顔合わせ。小説の組み立てを若島正が分析すれば、高橋源一郎はパワーズとピンチョンを比較して、佐藤亜紀が構成美をたたえる。文芸誌の単発企画なので、掲載後なんの本にも収録されていないのがもったいない、そんな座談会だった。記憶では。

 ところが、その大事なコピーが見つからない。
 私はその「文學界」を買って持っていたのだが、引越しの際に誤ってゴミに出してしまったことにあとで気がつき、図書館まで行ってバックナンバーからコピーしてきたのだった。それが2年くらい前。で、それから今までの間に、パワーズ読んだ、面白かった、と言ってきた人にコピーして渡したおぼえが何回かある。いくら自分的に豪華とはいえそんなに頻繁に読み返していたわけではなかったが、見た瞬間にそれが何かわかるのだから捨てるはずがないし、私の部屋は“探す”という行為が満足にできないほど散らかっているわけでもない。むしろ神経質なので、各種のコピーやら紙類を置いておく場所も決まっている。なのに、そこにない。消えている。本棚、押入れ、ダンボール、6畳の部屋のどこをどう探しても見つからない。探すのをやめても見つからない。繰り返すが、捨てるはずはないのだ。この部屋にないはずがない。探し忘れているような場所もない。それなのに。
 そういえば、ある年長の知り合いは、このような“あるはずのものがどうしても見つからない”事態を何かひねった言い方で表現してやろうと考えた挙句、「使ってあげないと、物は消えていく。必要とされていないことが自分でわかるのかもしれない」と口にした。一瞬、「不思議っ子にでもなったつもりかへえ」と思わされたが、言っている内容は当たり前である。用のない物は探したりしないんだから、見つからないのはいつでも必要な物である。しかし、こういった“ひねったつもりで、実はストレートなところに着地している、本人は気づいていない”という全体の流れが私はかなり好きだ。ちなみに私が部屋でよくなくすのは、ハサミ、テレビやビデオのリモコン、携帯電話の順で、これらはみんなよく使うのに、目を離した隙に行方をくらます。使われるだけでは飽きたらず、私の気を引こうとしているのかも知れない。不思議っ子にでもなったつもりか 話がそれた。
 近所の桜も満開になったこないだの日曜日、「パワーズ、パワーズ」と意地になってそこらじゅうをひっくり返した結果は、部屋じゅうに埃が舞い上がるばかりで、片付けるのに大掃除をする羽目になった。もともと、探したりしなければ、“見つからない”事態にも陥らなかった。これはつまり、探したからなくなったということだろうかと考えながら、日が落ちるころには、こたつぶとんをたたんでふとん袋に封印するほどの勢いで掃除をした。例年、だらだらとゴールデンウィーク前後まで出しっぱなしにしてあるこたつが、今年はもうない。1ヵ月以上早い。おかげで、寒さの戻ってきたこの数日ですっかり風邪を引いた。いまはマフラーを巻いてキーボードを叩いている。なにひとつうまくいかない。だいたい、どうして日曜の出来事を金曜夜の日記に書いているのか。今日に至っても、座談会のコピーは見つからないままである。3月の更新回数は12回だった。
2006/03/24

リチャード・パワーズが来た


 というわけできのう3/23の夜は青山ブックセンターでリチャード・パワーズを見てきた。

 トーク、朗読、会場からの質問、という流れ。
 司会と進行に通訳まで柴田元幸がひとりでやるのは非効率的じゃないかと思っていたら、さすがにパワーズ氏には通訳の女性がついていて、柴田元幸が観客に向けて喋っていることやパワーズへの質問を耳元でずっと訳し続ける。パワーズの喋ることは柴田元幸がぜんぶ訳す。およそまったく英語の聞き取れない私でも大丈夫だ。しかしパワーズの話にそのまま反応して笑う人も場内には数多く、私の方が少数派であるようなおそれを抱いた。そんなことはいい。

 柴田元幸のパワーズ紹介はこんな感じ:
「ものすごく知識のある人なんだけど、ふつうそういう人には2種類あって、多くの知識があるゆえにシニカルに世界を見る人と、そうじゃない人がいる。パワーズは明らかに後者、知識を総動員して人間を肯定的に見ようとする」

 1957年生まれのパワーズは、もともと物理学を専攻して科学者を目指していた。「文転」して小説を書き始め、二十代でデビュー(秀才)。科学やら歴史やら音楽やら、さまざまな分野の知識・言葉を注ぎ込んで壮大な作品を構築する。
 それでか、会場からは「あなたのなかで科学と物語はどんなふうに関係するのか」「科学についてどう考えているのか」みたいな質問があったが、答えの大半は忘れた。
「科学には、それ自体の発展と、それが人間の生活に及ぼす影響というふたつの流れがある。私は両者を物語のなかで描こうとしている」みたいなことから語りはじめていたのだった、たしか。

 もちろんほかにもいろんな話題があったものの、詳細な公式レポはそのうちどこかの雑誌かウェブ上に載るだろう。私は「本人を見てみたい」というだけで行ったので、会場に現れて喋りだす前にすでに目的は果たされた。こういう浅はかな態度はいつかだれかにきつく叱られる気がする。

 そのパワーズがいま書いている新作は、「ニューロサイエンティフィック・ミステリ」で、なんとか症候群という脳疾患を扱っているという。これは、親しかった人の顔を見るとそれが仮面であるような違和感を感じてしまう症候のことらしい。
 だれの顔だか認識する機能に問題はない、認識した顔からその人にまつわる記憶を呼び起こす機能にも問題はない。それなのにどうして違和感があるのかというと、「すごく好きだった」とか、そういった感情を顔に重ねることがうまくできなくなっているからだそうで、そんなテーマからはじまる作品になるみたい(事故でこれを患うようになった父親とその家族、だったかな)。
「ところで、ムラカミの小説世界には脳疾患みたいな要素があるよね」などと気軽に言っていたパワーズは、かつてハルキ・ムラカミを読んで目からウロコが落ちる経験をしたそうで、こういうイベントにも参加するようだが、私は申し込みをしていないので行けません。

 ほかに面白かったのは、パワーズが「著書にはサインをしない」主義だというところで、その理由を最後に説明していた。
「最初の本(『舞踏会へ向かう三人の農夫』)を書いたときに考えていたのは、複製芸術の時代にあって、同じものがいくらでもできるというのに、そのなかの1枚の写真はどのように特別でありうるか、ということだった。
 で、それは、それを見たのがほかならぬあなたであるから、その1枚はあなたにとって特別である、というところに根拠が求められる。
 本の場合も同じで、あなたが線を引いたりしながらページをめくって読んだその本は、あなただけの特別な1冊になっている。
 それなのに、たまたま近くにいるからといって作者が出てきて、自分のサインでその本をさらに特別なものにできると考えるとしたら、それは偽善である。若いころ、そのように思ったのです」
 ――ということで、本以外限定でサインに応じていた模様。CDとか。
 (柴田:「ぼくはただの翻訳者なので、本には何でもサインします」)


『三人の農夫』は、「写真を見ることは、同時に写真に見返されることでもある」というテーマを全篇使って読者に実演してみせる長篇だった。そこのところを柴田元幸は、『アメリカ文学のレッスン』(2000)でこんなふうにまとめている。
《パワーズという作家の大きな特徴は、世界を思い描く上で、意味づける自分と意味づけられる対象、自己と他者、というふうに非対称的な関係をその根底に据えるのではなく、自分と対象の関係がまずあって、刻々変化していくその関係から、そのつど自分と対象とが分泌されていく、というふうに捉えていることである。
 たとえば第一作『舞踏会へ向かう三人の農夫』(一九八五)は、実在のドイツ写真家アウグスト・ザンダーの撮った一枚の有名な写真をどう見たらよいかをめぐる丹念な模索を物語化した作品と言える。だが、そこでは、人が写真を見る・意味づける、という主/従の発想ではなく、人が写真を見るのと同程度に人が写真によって見られる、という考え方が推し進められている。
 […]パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》「エピローグ」

 いってみれば、“あなたの働きかけで世界はたしかに変わる”、ということである。たぶん。そういうヒューマニズムに「知」の方向からアプローチする作家はたしかに相当めずらしいと思う。
 翻訳はまだ『三人の農夫』、『ガラテイア2.2』のふたつしかないが、いちばん早いのだと、秋に『囚人のジレンマ』というのが出るらしく、その冒頭部分が英語原文(パワーズ)と翻訳(柴田)で朗読された。
 子供時代、自分たち兄弟に質問のかたちでしか接してこなかった父親(「あの星座の名は?」「ドアがドアでなくなるのはどんなとき?」)を回想する語り手のモノローグが、強靭な、でもセピア色の思弁とでも言いたくなるような文体で展開されて、いきなり傑作の予感がたちこめる。楽しみです。
 あと、青山ブックセンターはえらい。



舞踏会へ向かう三人の農夫舞踏会へ向かう三人の農夫
(2000/04)
リチャード パワーズ

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ガラテイア2.2ガラテイア2.2
(2001/12)
リチャード パワーズ

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アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)
(2000/05)
柴田 元幸

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2006/03/21

宮沢章夫『レンダリングタワー』(2006)

レンダリングタワー
ASCII


『『資本論』も読む』とほぼ同時期、今年1月の出版。買いそびれているうちに近所の古本屋で見つけた。この町はやはりどうかしていると思う。
 これは宮沢章夫が「MACPOWER」なる雑誌に連載しているエッセイをまとめた本で、だからアップル社やマッキントッシュ、その周辺機器に関するマニアックな話がここぞとばかりに並んでいるかと思えばそんなことはなく、たとえばある文章はこんなふうに書き出されるだろう。
《いまなにより気になるのは、リビアという国を政治的に指導する「カダフィ大佐」だ。いったいあの人は、いつまで「大佐」なのかという、国際政治的に考えると、どうでもいいような問題である。》

 そんなマックがあるものか。
 しかし宮沢章夫はあくまで「大佐」という呼称に立ちどまり、ひとくさり考えをめぐらせてからこのように続ける。
《これがたとえば、前振りに、「六本木ヒルズ回転ドア事故」について書かれていたら、ある種の社会派として許容されるからことは複雑である。Macとはなんの関係もないが、社会的に意味がありそうなら人を納得させる。私はそういった人たちにひとこと言っておきたい。
 この大ばか者どもめが。
 どちらも同じである。[…]》pp139-40

『『資本論』も読む』がマルクスの難解な本を読むドキュメンタリーになったのはとくべつ奇をてらったわけではなく、宮沢章夫の文章は、いつも書きながら考えている。考え考えしながら書き進んでいる様子が伝わってきて、行き先も決めずに道を歩いていくそのペースにこちらも同調できると、妙な心地よさが発生する。書き出す前に準備をしない、ある種ノーガード戦法めいたこのような書き方では、書き手の地肩の強さがむきだしになるのだろうが、宮沢章夫は、ほれぼれするほど“強い”(準備をしていないように見せる手法、だとしたら、なおさらおそろしい)。ときどき、「流している」と感じられる部分もあるものの、次の日に読み返してみると、そこが変に面白かったりもするのだから、油断がならない。
《[…]『マトリックス・完全分析』をまだ読んでいない私に、すでに読んだという知人が思いもかけないことを言ったのである。「どうだった、読んで少しはわかった、あの映画?」と私が質問すると、知人はきっぱり言ったのだ。
 「ナノテクはおそろしいな」
 いきなりである。いったいどこがどうなって、『マトリックス』の理解と、「ナノテク」がつながるのかいよいよわからないが、さらに知人は念を押すように言う。
 「ナノテクに比べたら、タバコの害なんてカスみたいなもんだよ」
 まったくわからない。》pp114-5

 本人の「富士日記2」でうかがえるように、何十もの〆切に追われながら忙しく仕事をこなしているひとりの人間が、いざひとつの原稿に向かう段になるとこんなテンポで文章を綴っているのだから、つくづくプロはすごい。
 たまたま見かけたアップルの社員を尾行したり、映像を加工するソフトに翻弄されたりしながら、どうやら“笑わせる”方向をめざしていることだけはたしかな24篇のエッセイのなかほどに、「サポートセンター」「サポートセンター、ふたたび」と題された続きものがある。PowerBookのスロットにうっかりシングルCDを入れてたいへんな目にあった宮沢章夫は、「それはお客様の過失になります(補償の対象にはなりません)」と伝えるサポートセンターの女性を相手にどのように食い下がり、女性はどう答えたか。
 ここのくだりは本書の白眉をなすと思うので、買わずとも本屋に寄った際の立ち読みをすすめたい。でも面白かったら買ってほしい、私の代わりに。
2006/03/20

その他のメモその他のメモ

■いちおう見たので報告まで。
 NHK衛星第2の「週刊ブックレビュー」(3/19)、『デス博士の島その他の物語』紹介は、まあ、紹介だった。表紙がかっこいいのを再確認した程度。唯一の収穫は、これまでぜんぜん興味を持っていなかった“ジーン・ウルフの顔写真”が出てきたことで、ググればすぐに見つかるものだったとはいえ、そして作者の顔なんてどうでもいいことであるとはいえ、あんな小説を書いているのがこういう人だとは、なんだかすごく意外でした。
 http://images.google.com/images?sourceid=navclient&ie=UTF-8&rls=GGLR,GGLR:2005-41,GGLR:en&q=gene%20wolfe&sa=N&tab=wi

 べつに意外でもねえよ、という人にとってはまったく意味のない今日のメモである。素朴な感想として、私は、髪はあるんじゃないかと思っていた。ほんとどうでもいいな。


ジブリのサイトのなかに、きのう書いたアニメ「王と鳥」の公式ページがあった(音が出ます):
 http://www.ghibli.jp/outotori/
2006/03/18

やぶにらむ

 最近メモばかりだ。そういうものとして使おう。

 ジブリ関係の本とか読んでると、ときどき名前を見かける「やぶにらみの暴君」が、「王と鳥」のタイトルで公開予定とのこと。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060318-00000037-sph-ent
宮崎監督は「千と千尋―」の時、水平と垂直空間の使い方の素晴らしさを問われた際、こう言い残している。「垂直空間の使い方ならポール・グリモーの『王と鳥』をあげないわけにはいきません」「それ以前は水平方向の動きしかありませんでした。物語がホンモノになるには、映画の中できちんとした上昇の動きが必要」と語ったこともある。

「王と鳥」はフランス初の長編アニメーションとして「やぶにらみの暴君」の題で1952年に公開。だが、グリモー監督とプレヴェール氏の承認なしに封切ったため問題に発展。グリモー監督がフィルムを取り戻し、作品の権利を買い取って79年に“リメーク”された幻の完全版だ。東京・渋谷のシネマ・アンジェリカで7月29日に公開される。

 どう考えてもタイトルは「やぶにらみの暴君」の方がいいと思う。この暴君のお城が、カリオストロのあの城になったと聞く。ところで、上の記事を読み直すと「7月29日に劇場初公開」「7月29日に公開」とあるのだが、まさか1日だけなのか。

 追記:
 て、あれ、DVDで出てるじゃん。知りませんでした。
2006/03/16

ああもう

 すみ&にえ「ほんやく本の新刊情報」3/16(木)分によれば、5月になると東京創元社からこの2作品が文庫で出るという。

 ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』
 エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』
他のラインナップはこちら


 こうやってまた、単行本で買ってから何年も積んでおいた本が、自分の読まないうちに文庫になっていくのである。どちらも古本だったからまだ慰められるようなものの。
 いや、そんなことで慰まっている場合ではない(変な日本語)。3月・4月中にこの2作品を読んでしまうのを目標にしよう、って、こんな外的な事情で読む本が決まっていくのもいかがなものか。読みたいものが読みたい。しかしどんな「読みたい」本だって、何らかの事情に縛られてそう思わされているのだし。

 そんな話はいいとして、最近は以前ほどでかい本屋に頻繁に通えなくなってしまった私は新刊情報にひどく疎い。積んである本を消化してればいいじゃないかと思わなくもないが、それだけだとなにか寂しいし、心もとない。ネット上で小説の新刊情報をまとめて得られるところにはどんなページがあるのだろう。上記「すみ&にえ」は翻訳書籍に限定されているので、国内作家も含めて便利な情報サイトおよびメールマガジンがあったら教えていただけるとありがたい――ということを、私は定期的に書いているような気がする。

追記:
いま私が見ているのは、「本棚の中の骸骨」と、国書と白水社のメールマガジンだけです(さっき、創元のものに登録した)。

もうひとつメモ:
国書のサイトに、『デス博士』トークショー報告がアップされている。
3/19(日)のNHK衛星第2「週刊ブックレビュー」でも『デス博士』が取りあげられるとか。


2006/03/11

メモなのか

 村上春樹の生原稿を安原顯が古本屋に売っていた件
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060310-00000014-mai-soci

 記事ひとつで雑誌を買うのはもったいないが、その「寄稿」した文章を村上春樹が自分の単行本に収録することはありえないだろうと考え近所の本屋へ。雑誌売り場に見当たらず、ええ、「文藝春秋」って特集の目次が入り口のガラス戸に毎月貼ってあったりするのになぜ、と思ったが、よく見たらレジのカウンター上に積んであった。そこが定位置なのか。

 で、読んでみた「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」は、思った以上に生々しかった。過去形の「いい話」も多いだけにいっそう。でもたぶん、他の記事と較べればたいしたことない部類である気もする(例:佐野眞一「ルポ下層社会」)。興味のある人は立ち読みでどうぞ。以下は、村上春樹が翻訳したジョン・アーヴィング『熊を放つ』の訳者あとがき、その最後の部分。
《[…]正直なところこれだけの長篇を訳すことはとても僕一人の手には負えなくて、結局途中から柴田元幸・畑中佳樹・上岡伸雄・斎藤英治・武藤康史の五氏とチームを組んで作業を進めることになった。手順としてはまず僕が原文のリズムのようなものを優先してざっと荒っぽく訳し、それを細かくチェックしていただくという方式をとった。五氏には深く感謝したい。その手腕とチームワークをもってすれば、完璧な動物園破りも不可能ではないはずである。最後になったが、「放たれた熊」とも表すべきパワフルな編集者・安原顯氏の助力なしには本書はなかったかもしれない。
                         1986/4/21
                              村上春樹》下巻P341

 ところで安原顯は、村上春樹だけでなくデビュー直後の高橋源一郎を熱烈に支持していた人でもあるらしい。この人から「天才だ、好きなだけ書け」と言われた源一郎は、まだ生活が厳しかったので、長篇の原稿を書けた分だけ少しずつ渡してはお金をもらっていたという話をどこかで読んだ。ほんとかどうかは知らない。文芸誌「海」が廃刊になる最後の号に、安原顯の判断で一挙掲載されたその作品が『虹の彼方に』(1984)。
 そういえば、村上春樹の今回の文章を読んで思い出したのは、高橋源一郎の日記『追憶の一九八九年』(1990)にも、ある出版社との印税トラブルの経緯を綴った生々しい記述が挟まっていたことだった。しかしそこだけ生々しいというのは変だな、日記なのに。

 なんのまとめもなくメモ。

白水社のサイトより、柴田元幸の手書きポップ
 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/magellan.html
 「プリントアウト」て。村上春樹生原稿の筆跡もたいへんかわいらしかったのを私が知っているのは、ヤフーのオークションに出品されたとき画像を保存したから。値段は忘れた。

・同じく白水社より、「読書会ノススメ」
 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/dokusyokaimain.html



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2006/03/09

「ハーヴィー・クランペット」(2003)

 アダム・エリオット監督

 クレイアニメ。TSUTAYAに置いてあります。パッケージや静止画を見る限りではニック・パークの「ウォレスとグルミット」シリーズにも似ているが、内容はぜんぜん別物。

 ときに1922年、ポーランドに生まれたハーヴィーは、意志と関係なく人の鼻を触ってしまう知的障害を持って育つ。学校ではのろまといじめられ(友達は言語障害)、炭鉱で働いていた母親は鉛毒に侵されてボケる。父と同じきこりになるが、家が火事になって両親は他界、ドイツ軍も攻めてきたのでオーストラリアに移住する。ゴミ処理場で働いていると同僚とのトラブルで大怪我、頭蓋骨に鉄板を入れる羽目になる。やがてその鉄板に落雷、一命は取りとめるものの以後は人間磁石と化す。度重なる不幸にうちひしがれるハーヴィーだが、「今を生きよ」との啓示を受けて開眼、心を解放してヌーディストになる。そのうち病気で片方の睾丸を切除したハーヴィーは看護婦と恋に落ちて結婚するも、子供はできないので養子を取る。その子はサリドマイド児だが立派に成長して弁護士になりアメリカへ渡る。妻が脳梗塞で突然死すると養老院に入り、同室のアルツハイマー患者と悪戯合戦を繰り広げる。抗鬱剤で無聊をまぎらわせ、他の患者とモルヒネを飲んで死の淵まで行きながら、やはり生きることを選んだハーヴィーは再び全裸になり、施設の敷地内に作られたバス停でバスを待つ。決して来ないバスを――

 ひとまず呆然とする。どこも楽しくない。上記内容はすべてナレーションで語られるので、これだけ詰め込んでも22分で終わる(スタッフロール含む)。あえてアクションと呼べるようなアクションはない。“ブラックさに笑う”雰囲気もまったくないので、そこをステップにした感動もない。というか、何のたくらみもないように見える。
 製作意図がつかめないまま、おまけでついてたこの監督の“初期3部作”を見てみる。「叔父さん」「いとこ」「兄さん」の3作はどれも6~8分の短篇、主人公はみなさんチャレンジドな方々で、困難に生きる彼らの姿がやはり淡々と描かれる。粘土の人形で。親切なことに、字幕を切り替えると監督が語る「実際ぼくには脳性マヒのいとこがいて、この部分のモデルは…」云々との解説を見ることもできる。かえすがえすも意図がわからない。ないのかもしれない。
 自分にとって大切なことをクレイアニメで表現しました、みたいなこの調子でいずれ大長篇が作られるのだろうか。たぶん見ないと思うので「気が重い」とはいいません。


ハーヴィー・クランペット
ビデオメーカー (2005/11/25)
2006/03/06

スケッチブックと卵菓子 その3

[前回…]

 5日目、またも劇場を訪れたナダンは、アーディスから強引に頼まれ、急遽代役として舞台に立たされることになる。その夜の日記で述懐するところによれば、ろくにセリフを憶える時間もなかった彼がそれでも大過なく役目を務めおおせることができたのは、「ドラマの進行する方向は一度も見失わなかった」からだという(P293)

 しまったなあ。前回の文章のあと、私は「ナダン、はじめから泥棒するつもりでアメリカに来た」という方向を選んで「アメリカの七夜」をぐじぐじ突付きまわしてみようと思っていたのが、意志の弱さから「ちょっと参考に、あくまで参考に」気分で「アメリカの夜」の“真相”(殊能将之)をのぞいてしまったのだった。するともう、私に書けるようなことはなくなってしまったじゃないか。
 こう書くとがっかりしているようだが、私はあらためてこの中篇を面白がっている。紹介されていたRobert Borski氏の説にも興奮した、というかちょっと感動した。盗むつもりであればどこかでナショナル・ギャラリーを訪れた記述がないのは不自然だ、と私も考えるべきだった――というのはもちろん氏の復元例を見たあとだから言えることである。私は自分の疑問だった「5日目に『明日はアメリカ風の朝食を試そう』と書いておきながら翌日記述がない」謎にも勝手に解答をもらったようなつもりでいる。そして、「私に書けるようなことはなくなってしまったじゃないか」と言っておいたうえで、まだ続ける。

 2日目の朝、ナダンはいかにも観光客らしく、ホテルの支配人に「この都市の名所」はどこかと尋ねている。
《ひとりでそこらを散歩して、できればスケッチをしてみたい、とぼくはいった。
「それならできます。建物を見るならここから北、劇場を見るなら南、公園を見るなら西。公園にいらっしゃるおつもりですか、ジャアファルザデーさん?」
「さて、どうしようかな」
「公園にいらっしゃるなら、ボディガードを最低ふたりは雇うべきです。いい紹介所をお教えしますよ」
「拳銃を持ってる」
「それだけではじゅうぶんとはいえません」
 もちろん、ぼくはその場で決心した。ぜひとも公園へ行ってやろう。ひとりで。》P231-2

 私の妄想するシナリオはこうだ。
 ナダンは、もともと「われわれの民族遺産である写本絵画」をナショナル・ギャラリーから奪還する決意を胸にやってきた。手引きをしてくれるアメリカ人が現地で彼の到着を待っている手筈だが、一方で、その人物が自分を罠に陥れようとしている(=協力を申し出てはいるが、実は国益を損なう異邦人を捕えようと目論む側にいる)可能性も捨てきれない。着いた当日とその次の日のあいだ、ナダンは「不安」にくれてその「疑惑」を書き綴る。《日記に書いたことで――それには非常な努力が必要だったが――ずいぶん気分がよくなり、部屋のなかを何度も歩きまわった。》(P234)
 上の引用部で予告されている公園訪問をナダンは翌3日目に果たす。日記には、野犬の群れを撃退して「物乞いを装った四、五人のアメリカ人」を毅然として追い払ったと書いている(P254)
 ナダンが公園に行ったのは、「写本絵画」奪還の現地協力者と接触するためだったのではないか。前日からわざわざ「ひとりで」行くと書いていたのが、裏返しの伏線となる。公園でのちょっとした出来事の記述も、実際にあったことを隠すためのエピソードである(普通に読んでもこの部分は、彼が意図するところの“旅行記”には欠かせない小さな武勇伝として、それはそれで作った話のように見える)。
 こういう色眼鏡をかけて読み直すと、引用した会話中の「さて、どうしようかな」にさえ、「なにをしらじらしいことを」と反応してしまう自分に気づく。「いかにも、ここではじめて公園に行くことを思いついたふりをして。国を出発する前からそういう計画だったくせに」。

 で、5日目に日記の場所が変わっているのに気づいたナダンは、それを自分の陰謀に対する何者かからの警告(「おれたちは見てるよ、お前を」)と捉えておそれおののくのである。
 このサインを残した人物が誰なのかはわからない。警察とか政府の人間なのか、ひとまずナダンはその人物を「スパイ」という言葉で表現した。もしかすると3日目の公園で、そういう危険を協力者から聞いていたかもしれないし、その協力者がスパイなのかもしれない。いずれにせよナダンは、平静を装い裕福な観光客として翌日以降もふるまわねばならなかった。だから日記は書き続けられなければならない。卵菓子も食べねばならない。
 このような意図的な工作に対し、アーディスの正体を見たあとの記述に出てくる「もうこうなったら写本絵画を盗んでやろうか」みたいな部分(P304)は、取り乱したゆえの本心の漏洩に見える。たとえそれがはじめからの目的であったにしろなかったにしろ、あえてこのような記述を捏造する事情は私には思いつけなかった。しかしそう考えたところで、そのあとに続くうわごとのような記述(クレトン、“警察”)が何の作為もない幻覚剤の効果なのか、それを装ったものなのかはまったく決定不能のままである。

 繰り返すまでもないが、ぜんぶ妄想である(しかも中途半端だ)。謎に対する私の答えには何の根拠もなく、それらがほんとに「謎」であるかどうかにさえ根拠はない。一方、これらの答えを否定する根拠も、「その謎は謎じゃない」とする根拠もない。読者がそれぞれ好き勝手な妄想を塗りたくって遊べるよう、ウルフは「アメリカの七夜」というキャンパスに絵の具と筆まで用意してくれた。
 そういう“与えられた自由”のなかで、私はさらに日記から隠蔽されている「協力者」あるいは「スパイ」にクレトンを結び付けられないかと考えている。そのうえで、クレトンと呼ばれている人間はふたりいる、とかもっていけたら上出来だ。加えて、タイトルにしてしまったことだし、「スケッチブック」をどうにかこの線に絡めたい。ひとり訪れた公園でスケッチをしたと日記に書いたのはナダンの押さえがたい自己顕示で、それが暗に示すのは、協力者との密会に際してなんらかの役目をスケッチブックが担っていた事実である、とか。もちろんクレトンは、財布と間違えたのではなくはなからスケッチブックを盗ろうとしたのだ、とか。あるいは、あるいは、あるいは、……。意図も文脈もたぶんまったく別なのを無視して、トマス・ピンチョンが『重力の虹』最終ページ最終行に書きつけた一文が思い出される。

 《さあ、みなさんご一緒に――》






デス博士の島その他の物語
ジーン ウルフ Gene Wolfe 浅倉 久志 柳下 毅一郎 伊藤 典夫 伊藤 典夫 柳下 毅一郎
国書刊行会 (2006/02)


 ○ ○ ○

 こちらで紹介されている諸説もたいそう面白い。
「Ultan Net」から、「アメリカの七夜」
http://ultan.net/main.php?group=books&id=7american
 日記のシンメトリー構造なんて、木を見て森を見ない私にはぜったい思いつかない。
2006/03/05

スケッチブックと卵菓子 その2

[前回…]

 さっきのはタイムテーブルというにはあまりに杜撰だが、正直に白状すると、あれだけ表にしてみてはじめて「タイトルは『七夜』なのに六夜しかない」のを実感できた。私はその程度の読者です。

■気になったこと [◎と○の使い分けについては後述]

○ 2日目の前半(劇場に行くより前)の出来事をナダンが書いたのは、メモったように、博物館からホテルに戻った夕方だと思うのだが、「ほんとにそうか?」という気もする。その根拠は《さっきからすくなくとも一時間、ぼくはここにすわったままロウソクの炎を見つめている。そして、部屋の窓の外の鎧戸にときどきなにかがぶつかる音に聞き耳を立てている。》(P233)というのがなんだか深夜っぽい、というだけなんだけど。↓のふたつも含めて、ここらへん、記述にもたつきがあるように見える。仮に、2日目は1回しか日記を書いていない、老人を送って帰ってきてからこの日の出来事をまとめて書いたのだ、とすれば、劇場に出かける前にナダンがしていたという「書きもの」とはなんだろう?(「書きものをしていた」じたい嘘かもしれない。右手の指が疲れる別の作業をしていたのかも)

◎ ↑で引用した部分の続き、《実をいうと、自分の心にはいりこんだ不安に麻痺している――それがどこからきたのかはわからない。その不安はきのうからはじまり、どんどん強まってきた。》このナダンの「不安」とはなに? 素直に読むとドラッグのことのようだが……

◎ さらに↑に続けて、234ページで《ようやく不安が消えた!》というのはいかにも唐突じゃないか。この単行本ではちょうどページの変わり目になっているが、前ページとこのページのあいだには切れ目(一行空き)がある。《すべてを書きおわったいま、ぼくはあの疑惑を完全にふりはらうことができた。》 これまた素直に読むと、「疑惑」とは、船上でドラッグを盛られたかもしれないということのようだが……

○ 2日目夜、劇場で再会した老人の語ることは謎だらけ。とりわけ、筆跡をまねることのできるらしい機械の存在(P247)は読者にとってあまりに罠っぽい。同じページ、第三幕の始まる直前にナダンに見せられた空白の紙はいったい……

○ 5日目の朝、「アメリカ風の朝食」を食べたナダンは、まわりの客を見て「明日」は「卵料理や、オーブンで温めたパン」を試すつもりだとわざわざ書いている(P283)。しかし翌日の日記にはその記述がない。6日目の日記は内省のあと「十一時ごろ」のことから始まる(P296-7)。朝食は食べたのか。食べたのに書かなかったとしたら理由はあるのか。
 ※もちろん、これが食べ物日記ではない限り(ないと思う)、書いてない→おかしい!とは誰にも言えない。

○ 5日目、アーディスはテリーが消えたことをボビーに知らされる前から「知っていたにちがいない」(P291)という。これが何を意味するのか、最後まで具体的な説明はない。アーディスがテリーを売ったとか、テリーが(必要があって)姿を消すのに彼女が協力したとか、そういうことか?

◎ 5日目の真夜中過ぎ、アーディスと寝たあとホテルに戻ったナダンは部屋の異変に気づいて想像をめぐらせる。
《最悪の場合を想定することにしよう。ぼくの部屋を調べるよう命じられたスパイは、日記のページを撮影する器具をもっていたかもしれない》P289
 スパイってなんだ? ここまで、スパイに関する記述はなかったと思うのだが、人間、取り乱すと本心をボロリと洩らすこともあるとすれば、この「■気になったこと」の2番目と3番目に書いた「不安」「疑惑」とは、スパイに関係するのではないか? ナダンは何者かにスパイされるような活動をしていたのか?

○ ナダンはどうしてボビー(ボブ・オキーン)のことを「クレトン」と役名で呼び続けるのか。『メアリー~』での「ハリー」より、『ある小惑星~』での「クレトン」の方が印象深かったらしい記述はあるが(P268‐9)…… P291には「クレトン」「ボビー」の混用があるものの、すぐにまた「クレトン」になる(アーディスが「ボビー」と呼んだのに引きずられただけかもしれない)。
 ナダンによって「クレトン」と呼ばれる男はボビーの他にもいるのでは?
(根拠なし。アーディスとは違いこの男には興味がないから、でいいようにも思う)

○ スケッチブックはどうなったのか。スケッチしてる場合じゃなくなったと言われれば私は納得するが、ボビーに盗まれかかったあと、ナダンはスケッチブックをどうしたのか。記述がないのは意図的ではないのか。

○ 日記の最後の最後、タイムテーブルでも引用したところ
《あのあと、クレトンがぼくの部屋の前の廊下を歩きまわり、ゆがんだ黒靴の足音が、地震のようにこの建物をゆるがした。“警察”という言葉が、まるで雷鳴のようにひびいた。ぼくの死んだアーディスは、とても小さく、まばゆい姿でロウソクの炎の輪から出ていき、毛深い顔が窓からのぞいていた。》P304
 これは何? なぜまた唐突に“警察”を恐れるのか。うしろめたいことでもあるのか。(はっきり書かれてはいないが、私はナダンがアーディスを銃殺して帰って来たのだと思う。それだけだろうか、と思うのは前述の「スパイ」の件があるから) そしてやっぱり、なぜクレトンが自分の部屋に来るのか(来たと思うのか)?

???

■小説の幅を狭めてみる

・書かれていることを、基本的には信用して読む。
・とはいえ、意図的な嘘や事実の隠蔽は確実にあると考えて読む。
・しかしながら、あんまり嘘の幅を大きくとるとこの「手記」が宙に浮いてしまうので、ナダンは何か重大事についてのみ嘘を書く、と考える。

 たとえば、「ナダンはイスラム社会やヤースミーンに嫌気がさして、ひそかにアメリカに消えるつもりで出発した、手記はその言訳として捏造された」なんて読みもありえなくはないと思うが、そうすると「ナダンは小説を書いた」と同じことになり、たしかにそれもありえなくはないのだが、すると卵菓子も削除もどうでもいいことになる。やっぱり私はこの小説を、もうちょっと限定されたたくらみのもとに書かれたものとして読みたい。

→ で、上に書いたことをまとめると、ナダンは相当したたかなやつだという先入観でもって読むことになる。未知の世界を自分の目で見たくて、またはむかし夢中になって読んだ冒険記のようなものを自分でも書きたくて、それだけでアメリカにやってきた男の正直な手記としては読まない。
「どんなふうにでも読めるようにする」のを目標として書かれているだろうこの中篇を、そういうものとして読むにあたって、上記「■気になったこと」であげた◎印の疑問を考えてみたい。あ、その前に、この引用は必要だと思う。

《「[…]見たところ、きみはとても裕福らしい。たとえそうでなくても、とにかく裕福だということにしておく。ここでのきみの仕事は?」
「アメリカの美術や建築を勉強しています」
「じゃ、きみの国ではきっと有名人なんだろうな?」
「アホン・ミールザー・アフマクの弟子なんです。彼が有名人なのはまちがいなし。三十年前に、彼はアメリカを訪問したこともあります。こちらのナショナル・ギャラリーで写本絵画を研究するために」》P272-3

《[…]その場合は、わが不朽の民族の女たちの清浄な子宮を二度とけがすことのないよう、ぼくは帰国をあきらめなくてはならない。なんなら、われわれの民族遺産である写本絵画を盗みにはいって、わざと警備員たちに殺されるか――だが、もし盗むのに成功したらどうする? ぼくは写本絵画にふれる資格がない。》P304

2006/03/04

スケッチブックと卵菓子 その1

《きみは枕の上に本をふせてはねおきる。自分の体を抱きしめながら、はだしで部屋のなかをぴょんぴょんとびまわる。わあ、おもしろい! すごいや!》P37

 ほんとは、表題作からこの一節だけ引用して終わりにすればよかったのである。以下、きっとだらだら長くなっていくと予想される今回の文章(たぶん2回か3回になると思う)は、ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)から、「アメリカの七夜」についてのメモです。

デス博士の島その他の物語
 甘く腐った架空のアメリカへ渡ったイランの御曹司ナダンが行方をくらませるまでの1週間を綴った手記という形式をとるこの中篇を、私は通して2回読んだが、いまのところ何かを発見できたわけではぜんぜんない。タイトルを「スケッチブックと卵菓子」にしてみたのには特に理由はなく、七夜といいながら六夜しかない、その削除されたらしい一夜に何があったのか、そして何個目の卵菓子に幻覚剤が入っていたのか、そもそもそれらが決定可能なのか、さっぱり見当がつかないままキーボードを叩いている。あ、嘘ついた。どうせそういったことは決定できないように書かれているんだろうというつもりで読んだのだった。前情報とかあちこちにあったし。
 前情報といえば最たるものとして、殊能将之の日記(memo)を毎日見ている私は、氏がこの短篇集についていろいろ書いているのは読んでいたが、2週間くらい前にアップされた「アメリカの七夜」の“真相”という文章はおそれをなしてクリックできなかった。せっかくだから、この記事を書き終えるまで読まない。
「?」と気になったことだけでも書いておいて、誰かに考えてもらえないものかと淡い期待を抱いている。なんにしろ、せめて10日くらい前に書いてアップしておくべきではあった。もう3月じゃないか。


■タイムテーブル

●1日目
・朝、海の色が緑から真っ黄色
・穀物商人ゴラン・ガッセーム、アメリカ人ミスター・トールマン、船長
・船がアメリカに到着
・カビにおおわれたパンの夢 ※P234より
――ここまでの日記を書く(が、書くことが多すぎて中断)P230

●2日目
・ホテル、《うんと寝坊》P230、朝食
・1人で外出、奇形の人々を見る
・〈墓場の町〉で奇形の男に案内され、博物館の地下室に老人を見る
・ホテルに戻る、沈む夕日 P239
――ここまでの日記を書いたと思われる ※《「さっきまでずっと書きものをしていたので」》P242
・《夕食をとりに外出》P239
・ホテルに戻る、劇場で芝居を見るのに再び外出
・『ある小惑星への訪問』観劇、隣の席に地下室の老人がいるのに気づく
・幕間に老人に食べ物をおごる、におい・伝達についての会話
・ボビーとアーディスに気を留める、卵菓子を買ってくる(まずい)P246
・老人を博物館まで送る、そこで幻覚剤のアンプルを買いホテルへ戻る
・卵菓子の1つに幻覚剤をかけ、《明日の晩から一個ずつ食べることにする》P249
――ここまでの日記を書いたと思われる ※P249より
・眠れないので娼婦を呼んでもらう、3人から1人を選ぶ

●3日目
(朝食前)
――娼婦のことを日記に追加 P250
・ひとりで外出、ワシントン運河の向こうの公園へ
・野犬をレーザーで撃つ、強盗を撃退、ホテルに戻る
――ここまでの日記を書く 《就寝前に例の卵菓子をひとつ食べるつもり》P253
★卵菓子を食べる P255
 個数については記述がないが、P267からすると(連続してるなら)[6個→5個]
――そして、食べたことを日記に書いたと思われる
・たそがれどき、ディナーへ出かける(アメリカ料理)
・もういちど劇場へ 『メアリー・ローズ』、客席後ろにアーディスがいるのに気付く
・ホテルへ戻る
・《そのおなじ夜、ぼくはなかなか眠れなかった》《これから》アーディスの住所を調べてみよう P258
――ここまでの日記を書く P256、P258
・午前2時過ぎ、支配人室へ行くが留守、住所録を調べる
・劇場に近いダール家を目当てに外出、無人の街路
・気分がハイなのはドラッグのせいかと考え頬の内側を血が出るまで噛む
・誰かに見張られている感じ、目当ての家に到着(1階が本屋、2階が住居)
・老夫婦、家には入れてくれない
・家をふりかえると怪物が飛びかかってくる→射殺

●4日目
――《いまは朝食前》 ここまでの日記を書く P258
・怪物の首を取ってくることを思いつき、庖丁持ってゆうべの場所へ
・死体も、何の痕跡もない
――ここまでの日記を書く 《もう午前のなかばだ》P264‐5
 (また劇場に行ってアーディスに贈り物をする予定)
・外出、市場で腕輪を買う
・影が長くなるころホテルへ戻る、ディナー(ラムとライス)
★卵菓子を食べる [5個→4個] P267
・ベッドでまどろみアーディスの夢を見る、身支度して外出
・『メアリー・ローズ』観劇、客席でボビーと遭遇
・ボビーに連れられ地下酒場へ、アーディスへの紹介を求める
・ボビーとトラブル、警官が彼を連れていく
・劇場に戻るが入れないのでホテルに帰る
(日記は明朝書こうと思って)眠ったところにアーディスが訪ねてくる
・明朝、ボビーの釈放のため警察へ行く約束
・彼女を送ろうとするが逃げられる、置手紙
――寝直す前にここまでの日記を書いたらしい
    ※P275に《明日もう一度会うことになってもいる》とあるので

●5日目
・早起き、ホテルで朝食(8時、パイ皮その他アメリカ風の朝食)
・「明日」は卵料理やオーブンで温めたパンを試すつもり
・《ゆうべはとても不愉快な夢を見た》P283 ※「おとといの夜」の怪物が出てくる夢
――アーディスを待ちながらこの部分の日記を書く P283
・アーディス、遅刻してやってくる、一緒に警察へ
・たらいまわし、5時前に帰る許可、アーディスをアパートまで送る
★卵菓子を食べる P284
 個数については記述がないが、前日分から(連続してるなら)[4個→3個]
――ここまでの日記を書く、夕方6時過ぎ P284
 (ディナー待ち合わせは7時)
・2人でレストランへ、しかしゴランとトールマンがいて店を出る
・劇場、ボビーが釈放されている、役者テリーがいなくなって代役を押し付けられる
・真夜中近く、きのうの地下酒場でアーディスと食事
・彼女のアパートへ、ロウソクを消される
・ホテルに戻る
卵菓子が2個に減っている、日記帳の場所が変わっている
――ここまでの日記を書く、削除もする P289、P295

●6日目
・11時ごろ、アーディスがバスケットを持ってくる、人造湖でデート
・アーディスの父と内陸の宝の話、怪物との商売
・アーディスをアパートに送る、2階の部屋に上がろうとして拒否される
★卵菓子を食べる [2個→1個]P296
――ここまでの日記を書く P296、P301
・パーティのため入浴
――日記に追加  すれ違った行列のこと P301
・仮装パーティーへ、アーディスはエジプト王女の扮装
・真夜中にアーディスのアパートへ、レーザーで酒を燃やすと悲鳴
・ホテルへ逃げ帰る
――最後の日記を書き始める 《ぼくの腕時計では午前三時》P303
★《いまのぼくが知っているのは、アーディスの父親の家の前で殺した怪物が現実の存在であること、そして、このパラグラフとその直前のパラグラフのあいだで、最後の卵菓子を食べたことだ。》P304
――最後の日記を書いている
《あのあと、クレトンがぼくの部屋の前の廊下を歩きまわり、ゆがんだ黒靴の足音が、地震のようにこの建物をゆるがした。“警察”という言葉が、まるで雷鳴のようにひびいた。ぼくの死んだアーディスは、とても小さく、まばゆい姿でロウソクの炎の輪から出ていき、毛深い顔が窓からのぞいていた。》P304


(しまった、「気になったこと」までいかなかった。続きます)