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どこかにいってしまった物たち
 ぜったい部屋にあるはずの物が見つからないという不可解な現象を、私たちはどう考えればいいのだろう。
リチャード・パワーズが来た

 というわけできのう3/23の夜は青山ブックセンターでリチャード・パワーズを見てきた。

 トーク、朗読、会場からの質問、という流れ。
 司会と進行に通訳まで柴田元幸がひとりでやるのは非効率的じゃないかと思っていたら、さすがにパワーズ氏には通訳の女性がついていて、柴田元幸が観客に向けて喋っていることやパワーズへの質問を耳元でずっと訳し続ける。パワーズの喋ることは柴田元幸がぜんぶ訳す。およそまったく英語の聞き取れない私でも大丈夫だ。しかしパワーズの話にそのまま反応して笑う人も場内には数多く、私の方が少数派であるようなおそれを抱いた。そんなことはいい。

 柴田元幸のパワーズ紹介はこんな感じ:
「ものすごく知識のある人なんだけど、ふつうそういう人には2種類あって、多くの知識があるゆえにシニカルに世界を見る人と、そうじゃない人がいる。パワーズは明らかに後者、知識を総動員して人間を肯定的に見ようとする」

 1957年生まれのパワーズは、もともと物理学を専攻して科学者を目指していた。「文転」して小説を書き始め、二十代でデビュー(秀才)。科学やら歴史やら音楽やら、さまざまな分野の知識・言葉を注ぎ込んで壮大な作品を構築する。
 それでか、会場からは「あなたのなかで科学と物語はどんなふうに関係するのか」「科学についてどう考えているのか」みたいな質問があったが、答えの大半は忘れた。
「科学には、それ自体の発展と、それが人間の生活に及ぼす影響というふたつの流れがある。私は両者を物語のなかで描こうとしている」みたいなことから語りはじめていたのだった、たしか。

 もちろんほかにもいろんな話題があったものの、詳細な公式レポはそのうちどこかの雑誌かウェブ上に載るだろう。私は「本人を見てみたい」というだけで行ったので、会場に現れて喋りだす前にすでに目的は果たされた。こういう浅はかな態度はいつかだれかにきつく叱られる気がする。

 そのパワーズがいま書いている新作は、「ニューロサイエンティフィック・ミステリ」で、なんとか症候群という脳疾患を扱っているという。これは、親しかった人の顔を見るとそれが仮面であるような違和感を感じてしまう症候のことらしい。
 だれの顔だか認識する機能に問題はない、認識した顔からその人にまつわる記憶を呼び起こす機能にも問題はない。それなのにどうして違和感があるのかというと、「すごく好きだった」とか、そういった感情を顔に重ねることがうまくできなくなっているからだそうで、そんなテーマからはじまる作品になるみたい(事故でこれを患うようになった父親とその家族、だったかな)。
「ところで、ムラカミの小説世界には脳疾患みたいな要素があるよね」などと気軽に言っていたパワーズは、かつてハルキ・ムラカミを読んで目からウロコが落ちる経験をしたそうで、こういうイベントにも参加するようだが、私は申し込みをしていないので行けません。

 ほかに面白かったのは、パワーズが「著書にはサインをしない」主義だというところで、その理由を最後に説明していた。
「最初の本(『舞踏会へ向かう三人の農夫』)を書いたときに考えていたのは、複製芸術の時代にあって、同じものがいくらでもできるというのに、そのなかの1枚の写真はどのように特別でありうるか、ということだった。
 で、それは、それを見たのがほかならぬあなたであるから、その1枚はあなたにとって特別である、というところに根拠が求められる。
 本の場合も同じで、あなたが線を引いたりしながらページをめくって読んだその本は、あなただけの特別な1冊になっている。
 それなのに、たまたま近くにいるからといって作者が出てきて、自分のサインでその本をさらに特別なものにできると考えるとしたら、それは偽善である。若いころ、そのように思ったのです」
 ――ということで、本以外限定でサインに応じていた模様。CDとか。
 (柴田:「ぼくはただの翻訳者なので、本には何でもサインします」)


『三人の農夫』は、「写真を見ることは、同時に写真に見返されることでもある」というテーマを全篇使って読者に実演してみせる長篇だった。そこのところを柴田元幸は、『アメリカ文学のレッスン』(2000)でこんなふうにまとめている。
《パワーズという作家の大きな特徴は、世界を思い描く上で、意味づける自分と意味づけられる対象、自己と他者、というふうに非対称的な関係をその根底に据えるのではなく、自分と対象の関係がまずあって、刻々変化していくその関係から、そのつど自分と対象とが分泌されていく、というふうに捉えていることである。
 たとえば第一作『舞踏会へ向かう三人の農夫』(一九八五)は、実在のドイツ写真家アウグスト・ザンダーの撮った一枚の有名な写真をどう見たらよいかをめぐる丹念な模索を物語化した作品と言える。だが、そこでは、人が写真を見る・意味づける、という主/従の発想ではなく、人が写真を見るのと同程度に人が写真によって見られる、という考え方が推し進められている。
 […]パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在でもあり、世界によって作られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれている。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新するかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのとは微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわったらよいかについてのレッスンを受けることになる。》「エピローグ」

 いってみれば、“あなたの働きかけで世界はたしかに変わる”、ということである。たぶん。そういうヒューマニズムに「知」の方向からアプローチする作家はたしかに相当めずらしいと思う。
 翻訳はまだ『三人の農夫』、『ガラテイア2.2』のふたつしかないが、いちばん早いのだと、秋に『囚人のジレンマ』というのが出るらしく、その冒頭部分が英語原文(パワーズ)と翻訳(柴田)で朗読された。
 子供時代、自分たち兄弟に質問のかたちでしか接してこなかった父親(「あの星座の名は?」「ドアがドアでなくなるのはどんなとき?」)を回想する語り手のモノローグが、強靭な、でもセピア色の思弁とでも言いたくなるような文体で展開されて、いきなり傑作の予感がたちこめる。楽しみです。
 あと、青山ブックセンターはえらい。



舞踏会へ向かう三人の農夫舞踏会へ向かう三人の農夫
(2000/04)
リチャード パワーズ

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ガラテイア2.2ガラテイア2.2
(2001/12)
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アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)
(2000/05)
柴田 元幸

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宮沢章夫『レンダリングタワー』(2006)
レンダリングタワー
ASCII


『『資本論』も読む』とほぼ同時期、今年1月の出版。買いそびれているうちに近所の古本屋で見つけた。この町はやはりどうかしていると思う。
 これは宮沢章夫が「MACPOWER」なる雑誌に連載しているエッセイをまとめた本で、だからアップル社やマッキントッシュ、その周辺機器に関するマニアックな話がここぞとばかりに並んでいるかと思えばそんなことはなく、たとえばある文章はこんなふうに書き出されるだろう。
《いまなにより気になるのは、リビアという国を政治的に指導する「カダフィ大佐」だ。いったいあの人は、いつまで「大佐」なのかという、国際政治的に考えると、どうでもいいような問題である。》

 そんなマックがあるものか。
 しかし宮沢章夫はあくまで「大佐」という呼称に立ちどまり、ひとくさり考えをめぐらせてからこのように続ける。
《これがたとえば、前振りに、「六本木ヒルズ回転ドア事故」について書かれていたら、ある種の社会派として許容されるからことは複雑である。Macとはなんの関係もないが、社会的に意味がありそうなら人を納得させる。私はそういった人たちにひとこと言っておきたい。
 この大ばか者どもめが。
 どちらも同じである。[…]》pp139-40

『『資本論』も読む』がマルクスの難解な本を読むドキュメンタリーになったのはとくべつ奇をてらったわけではなく、宮沢章夫の文章は、いつも書きながら考えている。考え考えしながら書き進んでいる様子が伝わってきて、行き先も決めずに道を歩いていくそのペースにこちらも同調できると、妙な心地よさが発生する。書き出す前に準備をしない、ある種ノーガード戦法めいたこのような書き方では、書き手の地肩の強さがむきだしになるのだろうが、宮沢章夫は、ほれぼれするほど“強い”(準備をしていないように見せる手法、だとしたら、なおさらおそろしい)。ときどき、「流している」と感じられる部分もあるものの、次の日に読み返してみると、そこが変に面白かったりもするのだから、油断がならない。
《[…]『マトリックス・完全分析』をまだ読んでいない私に、すでに読んだという知人が思いもかけないことを言ったのである。「どうだった、読んで少しはわかった、あの映画?」と私が質問すると、知人はきっぱり言ったのだ。
 「ナノテクはおそろしいな」
 いきなりである。いったいどこがどうなって、『マトリックス』の理解と、「ナノテク」がつながるのかいよいよわからないが、さらに知人は念を押すように言う。
 「ナノテクに比べたら、タバコの害なんてカスみたいなもんだよ」
 まったくわからない。》pp114-5

 本人の「富士日記2」でうかがえるように、何十もの〆切に追われながら忙しく仕事をこなしているひとりの人間が、いざひとつの原稿に向かう段になるとこんなテンポで文章を綴っているのだから、つくづくプロはすごい。
 たまたま見かけたアップルの社員を尾行したり、映像を加工するソフトに翻弄されたりしながら、どうやら“笑わせる”方向をめざしていることだけはたしかな24篇のエッセイのなかほどに、「サポートセンター」「サポートセンター、ふたたび」と題された続きものがある。PowerBookのスロットにうっかりシングルCDを入れてたいへんな目にあった宮沢章夫は、「それはお客様の過失になります(補償の対象にはなりません)」と伝えるサポートセンターの女性を相手にどのように食い下がり、女性はどう答えたか。
 ここのくだりは本書の白眉をなすと思うので、買わずとも本屋に寄った際の立ち読みをすすめたい。でも面白かったら買ってほしい、私の代わりに。
その他のメモその他のメモ
■いちおう見たので報告まで。
 NHK衛星第2の「週刊ブックレビュー」(3/19)、『デス博士の島その他の物語』紹介は、まあ、紹介だった。表紙がかっこいいのを再確認した程度。唯一の収穫は、これまでぜんぜん興味を持っていなかった“ジーン・ウルフの顔写真”が出てきたことで、ググればすぐに見つかるものだったとはいえ、そして作者の顔なんてどうでもいいことであるとはいえ、あんな小説を書いているのがこういう人だとは、なんだかすごく意外でした。
 http://images.google.com/images?sourceid=navclient&ie=UTF-8&rls=GGLR,GGLR:2005-41,GGLR:en&q=gene%20wolfe&sa=N&tab=wi

 べつに意外でもねえよ、という人にとってはまったく意味のない今日のメモである。素朴な感想として、私は、髪はあるんじゃないかと思っていた。ほんとどうでもいいな。


ジブリのサイトのなかに、きのう書いたアニメ「王と鳥」の公式ページがあった(音が出ます):
 http://www.ghibli.jp/outotori/
やぶにらむ
 最近メモばかりだ。そういうものとして使おう。

 ジブリ関係の本とか読んでると、ときどき名前を見かける「やぶにらみの暴君」が、「王と鳥」のタイトルで公開予定とのこと。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060318-00000037-sph-ent
宮崎監督は「千と千尋―」の時、水平と垂直空間の使い方の素晴らしさを問われた際、こう言い残している。「垂直空間の使い方ならポール・グリモーの『王と鳥』をあげないわけにはいきません」「それ以前は水平方向の動きしかありませんでした。物語がホンモノになるには、映画の中できちんとした上昇の動きが必要」と語ったこともある。

「王と鳥」はフランス初の長編アニメーションとして「やぶにらみの暴君」の題で1952年に公開。だが、グリモー監督とプレヴェール氏の承認なしに封切ったため問題に発展。グリモー監督がフィルムを取り戻し、作品の権利を買い取って79年に“リメーク”された幻の完全版だ。東京・渋谷のシネマ・アンジェリカで7月29日に公開される。

 どう考えてもタイトルは「やぶにらみの暴君」の方がいいと思う。この暴君のお城が、カリオストロのあの城になったと聞く。ところで、上の記事を読み直すと「7月29日に劇場初公開」「7月29日に公開」とあるのだが、まさか1日だけなのか。

 追記:
 て、あれ、DVDで出てるじゃん。知りませんでした。
ああもう
 すみ&にえ「ほんやく本の新刊情報」3/16(木)分によれば、5月になると東京創元社からこの2作品が文庫で出るという。

 ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』
 エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』
他のラインナップはこちら
メモなのか
 村上春樹の生原稿を安原顯が古本屋に売っていた件
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060310-00000014-mai-soci

 記事ひとつで雑誌を買うのはもったいないが、その「寄稿」した文章を村上春樹が自分の単行本に収録することはありえないだろうと考え近所の本屋へ。雑誌売り場に見当たらず、ええ、「文藝春秋」って特集の目次が入り口のガラス戸に毎月貼ってあったりするのになぜ、と思ったが、よく見たらレジのカウンター上に積んであった。そこが定位置なのか。
「ハーヴィー・クランペット」(2003)
 アダム・エリオット監督

 クレイアニメ。TSUTAYAに置いてあります。パッケージや静止画を見る限りではニック・パークの「ウォレスとグルミット」シリーズにも似ているが、内容はぜんぜん別物。
悔しいが腹が減る
 やる人はいるんだなあ。

 「ニシンのパイを作ろう!」
 http://www5.plala.or.jp/ancha/neta/kiki1.htm

スケッチブックと卵菓子 その3
[前回…]

 5日目、またも劇場を訪れたナダンは、アーディスから強引に頼まれ、急遽代役として舞台に立たされることになる。その夜の日記で述懐するところによれば、ろくにセリフを憶える時間もなかった彼がそれでも大過なく役目を務めおおせることができたのは、「ドラマの進行する方向は一度も見失わなかった」からだという(P293)
スケッチブックと卵菓子 その2
[前回…]

 さっきのはタイムテーブルというにはあまりに杜撰だが、正直に白状すると、あれだけ表にしてみてはじめて「タイトルは『七夜』なのに六夜しかない」のを実感できた。私はその程度の読者です。
スケッチブックと卵菓子 その1
《きみは枕の上に本をふせてはねおきる。自分の体を抱きしめながら、はだしで部屋のなかをぴょんぴょんとびまわる。わあ、おもしろい! すごいや!》P37

 ほんとは、表題作からこの一節だけ引用して終わりにすればよかったのである。以下、きっとだらだら長くなっていくと予想される今回の文章(たぶん2回か3回になると思う)は、ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)から、「アメリカの七夜」についてのメモです。
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