2006/02/28

続きなんだろうか


 先週、2日に分けて書いたフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』の感想を補足して、1冊の小説を繰り返し繰り返し読みその世界にぴったり「馴染んだ」読者にとっては、作中で死んでいる者も生きている者も区別がなくなる、死ぬ人間はいずれ死ぬ人間として現れ、こちらの知っている通りに死んでいく、その死において彼(彼女)は生きているのと変わらなくなるのかもしれない、で、翻って『ペドロ・パラモ』ははじめからそういう設定だった、死者は当たり前のようにふらふらと町を歩いている、これをもって、再読に再読を重ねた読者でないとたどり着けないような境地が、この小説ではいきなりあっけらかんと開かれている――
 というふうにまとめるのは、いま自分で書いていてもなんだか「まとめすぎ」であるように思われる一方で、書くまでもない自明のことであるような気持も捨てがたい。もう私にはわからない。確かなことは、『ペドロ・パラモ』が560円で買えることだけか。

 いや、もうひとつ確かなことがあった。
「小説の全部分を記憶する」とか「小説を生きる」とかいった考え方の元は、まるごと保坂和志だ。

『小説の自由』(新潮社)のなかでこの人は、ラテンアメリカの小説でもっとも有名なガルシア=マルケス『百年の孤独』の読み方について書いている。
 ある一族の百年に及ぶむちゃくちゃな歴史がえんえん語られるあの長篇は、ただでさえ登場人物が多いうえに同じ名前の人間が世代を越えて何人も出てくるから読者はぜったいに混乱する。そういうふうにできている。そこで保坂和志が言うのには、《名前の混乱もまた作者の戦略の一つなのだ。》
《「戦略」といっても読者をただ混乱させることが目的なのではない。混乱したときに前のページを辿り直すと、「このアウレリャノはどのアウレリャノか」ということがわりと簡単に確認できる。書いている作者は当然、そういうところで混乱しないで書いているのだから、混乱しそうになったところで前のページを読み返せば読者も混乱しないですむ。つまり私が「戦略」と言った意味は、もう一歩踏み込んで、「混乱しないようにするために、一冊の小説をただ真っ直ぐに読まないで、読み終わったページに何度も戻らせるための戦略」という意味である。
 系図を目で見ることによって、「このアウレリャノは三代目のアウレリャノだな」と、ふつう私たちは確認したつもりになるわけだけれど、それによっていったい何を確認しているのだろうか。[…]小説の登場人物を記憶することは自分の人生で出会ってきた人たちを記憶するように記憶することであって、時間軸にそって並べることではないし、作品世界を図式化してその図式のどこかに配置することでもない。》

 そのように行きつ戻りつして記憶しながら読むことが、読者に「小説を書く」のに近い体験をもたらす(!)点で『百年の孤独』は稀有の作品だ、といった方向に話は進む。過激だ。はじめから人物表やメモを作る用意をして小説を読む私なんかは怒られそうである。
《一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。
 効率が悪い? そういう読み方は効率が悪い?
 読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文句がよくあるけれど、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ。》『小説の自由』pp154-5

 効率の道を踏み外して本を読む人がやたらとまぶしく見えるのは私だけか。ここで思い出すのはこの人もすごかったということである。
(さらに、その保坂和志と宮沢章夫のふたりが雑誌で対談したことがあるという情報までは宮沢サイトのサイト内検索で発見したのだが、当の「i feel」はどこなら入手できるのか)

 読書の道は険しい。かくて、効率を求める私は今日もメモを取りながら『デス博士の島その他の物語』を読んだのだった。なんだこのまとめ。


小説の自由小説の自由
(2005/06/29)
保坂 和志

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百年の孤独百年の孤独
(1999/08)
G. ガルシア=マルケス

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2006/02/22

リチャード・パワーズが来る

 青山ブックセンターからイベント情報メール。
 飲んでいた牛乳を噴きそうになった。

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リチャード・パワーズ来日記念トーク
通訳・進行:柴田元幸
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■2006年3月23日(木)19:00~20:30(開場18:30)
■会場:青山ブックセンター本店内・A空間(エースペース
■定員:80名様
■入場料:¥500(税込)電話予約の上、当日精算
■電話予約&お問い合わせ電話:青山ブックセンター本店/電話:03―5485―5511
■受付開始日:2006年2月23日(木)10:00~
今秋、みすず書房より『囚人のジレンマ』翻訳の刊行が待たれるリチャード・パワーズ氏が、3月に来日。
パワーズ氏のデビュー作『舞踏会へ向かう三人の農夫』はじめ現代アメリカ文学の紹介者である柴田元幸氏を進行役に迎え、朗読を交えたトークを開催。
トーク後にはサイン会も予定。



 先日も『ペドロ・パラモ』にびっくりしたように、小説を読んで「本当に驚く」のはぜんぜんめずらしくない軽薄な私だが、これまで読んだ中でいちばんすごいと思った小説は何かと問われたら、このリチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』だと答えたい。実際にはそういうことを問われる機会はまずないのが悲しい。
舞踏会へ向かう三人の農夫 表紙になっている1枚の写真から発想された3つの物語が章ごとに交替して進行するこの長篇は、「どうせ最後あたりでひとつにまとまるんだろう」というこちらの予想を軽く越え、はるかな高みで、本当に、まとまる。ぜひ読まれたい。私は小説が「立ちあがる」瞬間をはじめて見た。
(3つの話のうちのひとつは中盤までえらく読みにくいが、後半のための準備作業を目撃しているのだと思って辛抱してほしい)

 そのパワーズが、来日。そりゃ牛乳も噴くだろう。とにかく電話だ、あした電話しなくては。

 ○ ○ ○

 のぞいてみた青山ブックセンターのサイトでは、正月にあったらしい佐藤良明×柴田元幸トークショウのレポートを見つけた。
2006/02/21

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』 2/2


前回…

 この小説の姿は、1回めではごちゃごちゃして見通しがきかない、と私は書いた。「小説の姿」とはまた曖昧な言い方だが、私がわかりたいと思っているそれは、作中の人間関係と、さまざまな出来事が起こる時間的な順序、といったくらいのものである。
 このふたつをある程度把握して読み返すとき、初読の際の「読みにくさ」は、一転してこの小説への「身近な感じ」を生む。
 はじめはよくわからなかったからこそ、今度は見当がつくことが快感になる――と言い換えればどこまでも平凡だが、やっぱりこれが『ペドロ・パラモ』の中に入る唯一の鍵なんじゃないかと思う。

 実際に紙とペンで人物表を書くかどうかはともかく、注意しながら読めば、1回めの読書でも、登場人物の関係はわかる(当たり前だ。本に書いてあること=1回めで目に触れること、が彼らのすべてなんだから)。
 ただし2回めになると、その関係図がひと通りあたまに入っているので、ある人物が初めて登場するシーンでも、それが誰で、ほかの誰と、どのような関係をもつのかまで見当がつく。だから読むのは格段に楽になる。
 どんな小説でも2回めはそうなるに決まっているが、「楽になる」のがすなわち「より面白く読めるようになる」なのかどうかは一概にはいえない。
『ペドロ・パラモ』が特異なのは、作者が2回読まれることを信じて、2回めの読者のために書いているにちがいないと確信されることである。2回めのほうが、圧倒的に面白い。どうしてそうなるのか。

 もう何度か書いたように、この小説は、過去と現在を行ったり来たりする構成になっていて、前のページよりあとのページで描かれる出来事のほうが時間的に古い、といった類の混乱が巧妙に作られている。この混乱は、1回めでは小説の把握を阻む壁である。
 それが2回めの読書では、「いま初めて出てきたこいつは、そうか、むかし○○と××をして、これから△△と◇◇をするあいつじゃないか」という、複雑な(しかし、混乱を乗り越えた)納得が起こりうる。つまり2回めでは、人間関係だけでなく、この「出来事の起こる順序」についても見当がつくのであり、この納得が続くうちに「あきらめもつく」、そして「別のかたちを受け入れる」に至る。どういうことか。

 ここまで私がしてきた、時おりブロックごとに時間が前後する、という物言いは、あくまで「過去 → 現在」と流れる時系列を前提にしている。けれども、この小説の各ブロックを並べ替えて「正しい」順序に整理するのは、本当は無理なのである。
 それはじつは1回めからわかっていたことで、たとえば「現在」にいる誰かがほかの誰かに「過去」のエピソードを語っている場合、そのブロックを単純に「過去」に置いて済ますことはできない。語りの状況からすればそれは「現在」だと考えるしかないし、それでも内容は「過去」のことなのだから、どちらに置けばいいのかといえば、もちろん、どちらにも置けない。
 それで読者は、過去のエピソードも現在のエピソードも、整理できないまま、並列的に受けとめていくしかない。時間の順番をつけようとすると嘘になるのだから、一緒くたに呑み込むしかないのだ。1回めからそんな読み方をするのはちょっとしんどい(だから、代わりに私はメモを取った)。

 それが2回めになると、どのエピソードも前に読んだものなので、これはアレだ、こっちはあの話の続きだったんだ、というふうに、順番を追うわけでもなく見当がつく。ここで読者は、というか私は、1回めでは負担だった「一緒くたに呑み込む」ことが、自然にできかけている自分に気付く。するとこの小説には、時間の流れとは別の流れがたしかに流れているのが見えてくる。
 不思議なことなのか、それともぜんぜん不思議ではないことなのか、その流れとは、ページの順にほかならない。

 絵画なら、ひとつの世界を丸ごと提示できる、と思う。もちろん、受け取る側が全体を見るにはある程度の時間が必要になるにせよ、提示じたいは一挙になされうる。しかし小説の場合は、文章という素材と本という形態をとる限り、受け取る側は1行ずつ順番に読み、1ページずつ順番にめくっていくしかないから、作者は、人間関係もエピソードの連なりも、丸ごととはいかず、どうしても、少しずつ見せていくほかない。
 そこで野心的な作者はいろいろ工夫する。極端にいえばこの『ペドロ・パラモ』は、再読させることで、この小説についての読者の記憶を、当の小説世界の構築に援用する。一度読んでいるために、2回めは「少しずつ」ではなくなっている。
 私が「2回め」「2回め」といっているのは説明のための便宜的なもので、本当はまだ足りない。あと3回くらい読み返し、小説内のあらゆる地所、あらゆる出来事、あらゆる会話とうわさ話を記憶しきったとき、『ペドロ・パラモ』の世界が、「丸ごと提示」に近いかたちで、読者である私のあたまの中に入ったことになるのではないか。そして、『ペドロ・パラモ』が私のあたまに入るとは、私が『ペドロ・パラモ』に入るのと同じことである。
《その晩、いつもの夢がまたも繰り返された。どうしてこんなにしつこくたくさんのことを思い出さねばならないのか。なぜ死んだことだけでなく、過去のあの日々のあの甘い調べまでも思い出さねばならないのか。
 「フロレンシオが亡くなったよ、奥さん」》p168

 登場人物が過去を回想すると、そのエピソードを、読者の私も思い出す
 彼らの記憶は私の回想になる。いつか自分は、時間の混線にも人間関係のごちゃつきにもつまずかずに、それらの全部を、かつてそこにあったものとして、つねにそこにあるものとして、呑み込むことができるのではないか。それこそ、目をつぶっていてもどこに何があるのか完璧にわかる自分の家の中を歩き回るように、この小説の中を進んでいけるのではないか。小説の世界を「身近に感じる」、何が起きるか「見当がつく」というのは、究極的にはそういうことだと思う。
 そしてそのうえでやってくるだろう心持を、私は予想できる。というか、2回めの読書の途中でさえ、なかばそれを感じはじめていた。こういうことだ。

「このコマラという町のことを、私も知っている。ここに生きて死んでいった人たちのことを、私も知っている。この小説を私も生きている」。

 実際にそうなるまでこの小説に付き合うかどうかは別として、そんな夢を一瞬でも読者に抱かせるのが、作者の最大のねらいなのである。たぶん。

《明け方になって、人びとは鐘の音に起こされた。十二月八日の朝だった。どんよりと曇っていた。寒くはなかったが、空は雲に覆われていた。まず教会の大鐘が鳴った。ほかのがそれに続いた。荘厳ミサを知らせる鐘だろうと人々は思った。ドアを開けて顔を出す者もいたが、とっくに起きている連中だった。そう多くはいなかった。連中はいつも早くから目を覚まし、夜明けの鐘が夜の終わりを告げるのを待った。だが、その朝の鐘はいつもより長く鳴りつづいた。もはや中央教会の鐘だけではなかった。サングレ・デ・クリストや、クルス・ベルデや、もしかしたらサントゥアリオの鐘も鳴っていたかもしれない。昼になっても鳴り止まなかった。夜が訪れた。そして昼も夜も、同じ調子で、しだいに音高くなりながら、えんえんと鳴りつづけた。しまいにはそれは、ざわざわした嘆きの音に変わっていった。男たちは話すとき、怒鳴るように喋らねば自分の声すら聞き取れなかった。「どうしたんだろう?」と口々に尋ねあった。[…]
 ひっきりなしに乱打される鐘に誘われて、方々から人が集まりはじめた。コントラからは、巡礼さながらに長蛇の列ができてしまった。もっと遠方からも人が押し寄せた。アクロバットや空中ブランコのサーカスもどこからともなくやって来た。楽器を抱えた者も現れた。はじめは野次馬気分で近づいたのだが、そのうち周囲の人たちと親しくなり、セレナーデまで奏でられる始末だった。ことは少しずつお祭り騒ぎに変わっていった。コマラはガヤガヤとどよめき騒ぐ人でごった返し、動きがとれないほどにぎわう祭日と少しも変わらないありさまになった。》pp193‐4



ペドロ・パラモ (岩波文庫)ペドロ・パラモ (岩波文庫)
(1992/10/16)
フアン・ルルフォ

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2006/02/20

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(1955) 1/2

ペドロ・パラモ (岩波文庫)
杉山晃・増田義郎訳、岩波文庫(1992)


 これは岩波文庫なので、表紙に簡単な紹介が印刷されている。ちょっと書き写してみたい。
ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。(解説=杉山晃)

「メキシコの現実」はどうなっているのか心配だが、結局、ここに書いてあることで『ペドロ・パラモ』は言い尽くされている。
 しかし、たかだか200ページちょっとしかないこの小説がどれほど面白かったか自分でもまだつかみかねているので、もう少し書いてみよう。
《コマラにやってきたのは、ペドロ・パラモとかいうおれの親父がここに住んでいると聞いたからだ。おふくろがそれを教えてくれた。おふくろが死んだらきっと会いに行くと約束して、そのしるしに両手を握りしめた。おふくろは息をひきとろうとしていた。だから何でも約束してやりたい気持ちだった。》p7

 母の遺言に従って父を訪ねにいく「おれ」の話は、はじめのうちこそ普通に進むように見えて、次第に妙な気配に取り込まれていく。
《夕闇が迫っていた。
 女はもう一度おれにあいさつをした。子供たちのはしゃぐ声も、鳩も、青い屋根もなかったが、それでも町が生きているような気がしてきた。静寂の音しか聞こえないのは、おれがまだ静けさというものに馴染んでいないせいだろうと思った。それに頭の中は、いろんな物音や人の声でいっぱいだった。
 そう、人の声でだ。そして、空気の薄いこの場所では、その声がいっそうよく聞こえた。人の体内にずっしりと沈み込むように。おふくろの言ったことばが頭に浮かんできた――「あそこでは、母さんの声がもっとはっきり聞こえるよ、そっとおまえの身近にいるからね、死人に声があればの話だけど、死んだ母さんの声よりも、おまえの思い出の中の母さんの声の方が、ずっと身近に聞こえてくるはずよ」おれのおふくろ……。生きているおふくろ。》p15-6

 この小説は断片形式になっており、数ページごとに2行空きがあって、全部で70のブロックで構成されている。
 断片と断片のあいだは普通につながっていることもあれば、突如、場面が切り替わったり、時間が現在と過去とを行ったり来たりすることもある。
「おれ」と言っている人物が前とは別の人間に入れ替わっているのも珍しくなく、ぼんやり読んでいると作中で道に迷ってしまう。多いのは、ある人が昔のことを(過去として)回想すると、続けて次の断片でその当時の状況が(現在として)描かれる、ゆるやかな結びつきである。
 なのでちょっと注意してページをめくっていくのだが、人物表を作りながらであっても、この小説は読みやすいとは決して言えない。あらたな人物がそれぞれの背景や立場を背負って、ただし説明なくいきなり登場してくるから人物表じたいが作りづらいし、なによりもまず、人の名前がおぼえにくい。
「おれ」の母親の姉妹分だったのがエドゥビヘス・ディアダで、フルゴル・セダノはペドロ・パラモの敷地の管理人、レンテリア神父の弟を殺したミゲル・パラモはペドロの息子で、トリビオ・アルドレテというのは……

 もちろん、そのような読みにくさは望むところである。未知のコマラに足を踏み入れていく主人公「おれ」の困惑と、先の見えない小説の中を少しずつ進む読者の「?」な気持が重なるよう書かれているのはまちがいない。であれば、「おれ」と同じく私も混乱するべきだろう。
 そうやってしばらく読んでいくと(ほんの数十ページ)、どうやらこの町では、死者が現れて動き回り、生きている人間と喋ったあとで、あるいは喋っている最中にまた消えていく、というようなことが日常的に起こるとわかってくる。
《「この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな声がこもってるのかと思っちまうよ。歩いていると、誰かにつけられてるような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長いあいだに擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞こえるんだよ。いつか聞こえなくなる日がくるといいけどね」》p70

 能弁なくせに静かな、死者たちのささめき。「ささめき」という、いままで一度も使ったことのない言葉を目にして、これ以上にぴったりくる語はないと私は思った。
 彼らの声は町角や廃屋、さまざまな場所にとどまって、「おれ」の耳に聞こえてくる。ここはそういう土地なのだ。そしてペドロ・パラモの来歴が、多くの人々の噂と思い出ばなしから徐々に浮かびあがってくる。当然、彼もすでに死んでいるのだが、先にも書いたように、この小説では過去と現在がごちゃごちゃに並べられるから、後半になると、私利私欲のかたまりで好き勝手に生きたペドロの姿が、いっぽうでは、スサナ・サン・フアンという女性を若いころから一途に思い続けていた姿と重ねられて、綿々と描かれる。
 結局、スサナは彼の最後の妻になった。けれども、気が狂っていると噂されていた彼女を待つ運命は幸せなものではない。過去と現在が入り混じり、生者と死者も入り混じるこの小説の中を、見通しのきかない靄の中を歩くようにあちこちぶつかりながら進んでいった読者は、最終的にスサナの死、そしてペドロ・パラモの死に立ちあうことになる。

 メモを取りながら小説を読むのは、どこかの時点でぱっと視界が開け、この小説がどんな姿をしているのか理解が及ぶ、そんな瞬間を期待してのことなのだが、ついにそういう状態には至らなかった。97ページあたりから「おれ」の身にたいへんなことが起こり、ある手掛かりが与えられるものの、それによって靄がきれいに晴れるとは言い難い。全体像は茫洋としたままだった。
「よくわからないまま、後半の物悲しいトーンに巻きこまれて、『よくわからないまま終わる』のを納得させられてしまった」というのが正直な感想である。

 しかし、じつはここからが本題なのだが、この小説は、最後のページより先に進んだところで大きく姿を変える。これには本当に驚いた。最後のさらに先を読むとは、もう一度最初から読み直してみる、ということである。続く。

…続き
2006/02/17

メモっぽいメモ

 去年の秋からシティボーイズのライブDVDを見続けていて、先日になってようやく、「実際、そのライブを見に行くこともできるのではないか」と思い至る。これだから地方出身者は。てか、私の問題。
 それで今年の公演はどうなっているのか「ぴあ」のサイトで調べてみた。あった。

シティボーイズミックス PRESENTS 「マンドラゴラの降る沼」
http://info.pia.co.jp/et/promo/play/cithiboys_mandora.jsp
公演日・開演時間 4月11日(火)~23日(日)
(火)(水)(木)(金)7:30PM (土)2:00/6:00PM (日)2:00PM
※4/23(日)2:00/6:00PM。
※月曜休演。
会場 池上本門寺 境内特設テント
席種・料金 桟敷指定-7000円 指定-7000円
一般発売日 2月18日(土) 10:00AM
Pコード 366-440
[劇作・脚本][演出]細川徹 [劇作・脚本]丸二祐亮/平元建太/シティボーイズ [劇作・脚本][出演]中村有志 [劇作・脚本][出演][構成]いとうせいこう [出演]大竹まこと/きたろう/斉木しげる/銀粉蝶
※未就学児童は入場不可。

 未就学児童ではないのでその点は大丈夫だが、でも7000円…… それに私は、毎年発売・即完売のチケットを手に入れる方法を知らない…… とか書いていたら、いまこんなインタビューを見つけた。
――久々にいとうせいこうさんが参加するのも楽しみです。
きたろう テントとなったら、必要だよね。
斉木 そう、サーカスにピエロが必要なように。

 それにしても本当にこんなところでやりますか。
2006/02/15

美人といわれても

 ほんとどうでもいいのだが、こういうニュースを目にした。目にしたというか、自分でクリックして、読んだ。

 美穂から美咲へ、美人も変“顔”…トレンドは?
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060213-00000011-ykf-ent

 リンクはすぐに切れてしまうだろうからいちおう説明しておくと、どこかの美容外科がとったアンケートで「なりたい“美人顔”」のナンバーワンは伊東美咲だった、という話。比較として10年前の結果もあげられている。

 2006年     1996年
 伊東美咲  (1)  中山美穂
 蛯原友里  (2)  山口智子
 倖田來未  (3)  飯島直子
 香里奈    (4)  安室奈美恵
 小林麻央  (5)  松雪泰子
 篠原涼子  (6)  内田有紀
 仲間由紀恵 (7)  瀬戸朝香
 米倉涼子  (8)  常盤貴子
 チェ・ジウ  (9)  篠原涼子
 安藤美姫  (10) 小泉今日子

 元記事では顔のパーツもあげられていたがそれこそどうでもよくて、個人的には10年前のトップが中山美穂だったというところだけが感慨深い。当時、というか私が物心ついたころから当然のごとく、中山美穂は美人として存在していた。だからこそこのニュースの見出しは「美穂から美咲へ」なのだろう。重心の置かれているのは「美咲」ではあきらかにない。ところでこれは「ニュース」なのか。
 ともあれ、思い出すのはナンシー関である。中山美穂が美人の座に君臨し続ける様を観察したこの人のコラムはいくつかあったはずで、いま最初に見つけたのは『何だかんだと』(角川文庫)に入っているやつだった。ちなみに初出は2001年だから、1996年と2006年のちょうど真ん中である。
《ここ数年、中山美穂は「美人」という言葉(冠、称号)と戦っているように思える。「美人」というのは他の言葉に比べてかなりの強敵だし、御しにくい相手だ。「かわいい」だの「いい女」だの「きれい」だのという言葉とは格が違う。そんな「美人」と、真っ向勝負。負けたら即引退。[…]
 中山美穂VS美人という対決、当然オッズは年々「美人」に傾いていくだろうし、中山美穂の戦術も変化しているに違いない。でも、もう世間にとってこの戦いは功なり名を遂げた「名人」によるエキシビションマッチとか、型の披露みたいなものである。「美人」に勝つことではなく、その対決を続けることこそが大事なのである。いや、正面で向かい合って構えていることが一番大事か。リングか畳か知らないけど、そこに上がる権利を有しているということだけが、中山美穂の意味かもしれない。その権利を奪取する新人でも出てこないと状況は変わらないのだが、今って「美人」とセメント勝負してもあんまりいいことないしな。[…]》P29

 この文章のタイトルは、「中山美穂VS美人の戦いはもはや名人戦の域に達した」という。



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2006/02/13

国書2

 国書刊行会のサイト、最新ニュースより。
●緊急告知:デス博士トークショー開催!

『デス博士の島その他の物語』刊行を記念しまして、トークショーを開催します。


★三省堂SFフォーラム★
ジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』刊行記念
柳下毅一郎さん・山形浩生さんトークショー
「SFに何ができるか――ジーン・ウルフを語る」


日時:3月4日(土) 開場17:30 開演18:00
場所:三省堂書店 神田本店8階特設会場

訳者の一人である柳下毅一郎さんと、<未来の文学>第1期刊行のイアン・ワトスン『エンベディング』の訳者でもある評論家・翻訳家の山形浩生さんをお迎えして、ジーン・ウルフの魅力・SFの未来について存分に語っていただきます。

『デス博士の島その他の物語』をお買上げのお客様先着80名様に整理券を配布いたします(参加無料です)。当日受け取りの電話予約も受け付けています(2月10日より受付開始。お問い合わせは三省堂書店神田本店 03-3233-3312まで)。

 まだ買っていなかったので、「3/4(土)までに読めばよい」ということにして三省堂に行ってこようか迷っている。「まだ間に合うのか」といえば、うん、絶対間に合うと思う。
2006/02/12

ザミャーチン『われら』(1927)

川端香男里訳、岩波文庫(1992)

《私はただ自分に見えること、考えることを書きとめるようつとめよう――いや、より正確には、われらの考えることを書きとめよう。(まさにわれらなのだ。だからこの《われら》というのが私の覚え書の標題になるだろう。)》P6

 二〇〇年戦争ののち、生き残った人類は緑の壁に囲まれる単一国に再編された。そういうことになっている世界を舞台にしたこの小説は、数学者の「私」ことD‐五〇三号が書き綴った手記、というかたちをとる。
《私は信じている。お分かりだと思うが、私は全人類史の上のいかなる著作者も知らぬような書くつらさを味わっている。同時代の人のために書いたものもあったし、後代の人のために書いたものもあったが、誰ひとりとして、先祖のために、あるいは、野蛮な遠い祖先に似た存在のために書いたものはいなかったからである……》P36

 究極的に進化した国家形態であると信じられているこの国では、何百万人もの生活が同一のスケジュール(律法表)で管理されている。みんな平等。社会の仕組みにおいても、芸術においても、単一国が最高だ。すばらしい。喜んでその足元にひれ伏そう。《インテグラル》なる宇宙ロケットの製作に身を捧げる「私」の心は祖国への愛情に湧き立ち、限りない幸福感と充実感に満たされている。
(彼にはO‐九〇号という恋人もおり、数日に一度、ピンク色のクーポンを支給された夜には彼女がやって来て、部屋のブラインドを降ろすことが許されている。ただし彼女は「私」の独占物ではない。別の日には別の男が彼女とクーポンを使う決まりである)
 そんな「私」の前に、ある日、別の女性が現れる。その名はI‐三三〇号。法を破って酒を飲み、煙草を喫う彼女は執拗に「私」を翻弄し、このすばらしき単一国への反抗としか思えない活動へと誘う。単一国は完全なのに、なぜ? 手記の記述は動揺を帯びていく。「われら」と「彼ら」。完璧な調和・美を追求する国家の理想に鑑みて、そういえば自分の腕はあまりに醜く毛むくじゃらではないか……

 ジョージ・オーウェルの『1984年』に先行すること20年余り、1921年から翌年にかけてソ連で書かれ、27年に雑誌掲載されると同時に発禁となったこの『われら』(ザミャーチンは国外脱出)が国内ではじめて公刊されるには、1988年まで待たないといけなかったという。
 しかしなんというか、初読なのに「確認のため」に読んでいるような気分が抜けなかった。いまこの文章を書きながら、私はディストピア小説のお手本に向かって「ディストピア小説のお手本だ」と言うようなそのまんま感を味わっている。
「解説」にある言葉を借りれば、ユートピア的想像力がアンチ・ユートピアを描くしかなくなった時代の、これはたしかに先駆けとなった作品なのだろう。先駆けにしてスタンダードを達成したということか。その後山ほど量産されるようになった全体主義ものとさほど変わらない単一国の設定と人間関係が説明される前半に比べ、ストーリーが急展開する後半は、倍の早さで読めたような気がする。
 それにしても、所与の社会を無条件に受け入れて快適に暮らしているを惑わし、そうではない、別の世界のあり方を(一瞬だけでも)垣間見させてくれるのはいつでもである。それもある意味、夢を見すぎじゃないかと思うのだが、ユートピアだからそれでいいのか。
《「まずいことになりましたね! おそらく、あなたには魂が形成されたのです。」
 魂だと? それは奇妙な、古代の、長いこと忘れられていた言葉だ。われらは時には熟語として《魂の触れあい》《魂胆》《魂を奪う》と言うことはあっても、しかしむきだしの魂なるものは……
 「これは……とても危ないんですか?」
 「不治の病です。」》P132



われら (岩波文庫)われら (岩波文庫)
(1992/01)
ザミャーチン

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ジョージ・オーウェル 新庄 哲夫 George Orwell
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2006/02/09

フエンテス『アウラ・純な魂 他四篇』(1954-1964)

木村榮一訳、岩波文庫(1995)

 メキシコ作家カルロス・フエンテスの作品を6つ収めた、タイトル通りの短篇集。

「チャック・モール」は、インディオに伝わる「雨の神」の彫像を手に入れた男の話。「生命線」は、革命兵士の監獄からの逃亡劇。「最後の恋」では、裕福な老人が若い男女を見つめながら過去や老い、死について苦々しく思いを馳せる。主人公が子供のころ一緒に遊んだ女の子の家を再訪するのが「女王人形」「純な魂」は、メキシコからヨーロッパに移った兄へ宛てた妹の手紙で構成されている。そして、時の止まったような屋敷にやってきた若い歴史学徒が追憶に生きる老婆の世界に引き込まれていく「アウラ」

 どれもこれもすらすら読めて面白い。奇譚とか、過去の時間と現在の時間の入り混じりとか、期待した要素はたしかにある。しかし「笑えてくるほどバカな部分」がないのでちょっと物足りなかった。この感想の9割は個人的な好みの問題だろうが、残りの1割はきっとそうじゃないという気持もある。なんというか、どの短篇も、訳者による巻末の解説でものの見事に読み解かれてしまうのだ。そこで繰り返されるのは、フエンテスの「メキシコ人としてのアイデンティティの探求」という問題で、この定規をあてると、残酷なようでユーモラスでもある「チャック・モール」の彫像も古代文明と現代文明の対立を担う道具になってしまうし、「純な魂」で兄に寄せる妹の思いがホラーなものに変容していく様子も、ヨーロッパとメキシコの関係へと回収されてしまう。なるほどそんなテーマを上手に作品化したものだと感心し、で、それで?と他にどんな魅力がこれらの短篇にあったか考えると、最初に自分で読んだときの「物足りなさ」につながるのだった。いまいち、はじけない。そつのない優等生。
(ただ、この場合、比較の対象がガルシア=マルケスやコルタサルになってしまうのだからラテンアメリカの作家は不利である。単に私がそういう構えで読んでしまうだけで、個々の作家にとっては「ラテンアメリカ」でひと括りにされるいわれは本来ないのだが)

 どんな小説だって特定の時代の特定の場所で書かれるのだから、背景を知っておくのはいいことだ。解説はためになった。図式的な解釈が作品を矮小化するということはあまりなく、そんなふうに見えるなら、もとから作品が小さいんだろうと私は思う。そこまで小さいわけではない本書は、「小説にはいっさい興味がないがメキシコの文化・歴史については勉強したいと思っている人に、小説だって面白いんだということを伝える」目的のうえでなら最適の1冊かもしれない。でもそんな人はなかなかいない。


フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇
カルロス フエンテス (1995/07)
岩波書店

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2006/02/07

「怪奇大作戦」ビギナー

 クレーム処理に追われつつ夜な夜な焼酎を飲み続ける友達Bから携帯にメールが届き、「11時半からMXテレビで『怪奇大作戦』をやっているので見るように」と伝えられたのは先週水曜の夜だった。こういった、用件だけのメールって好きである。しかし「怪奇大作戦」について私は無知だ。円谷プロの特撮テレビシリーズであることくらいしか知らない。「ウルトラQ」(やっぱり見ていない)とは違うのか。じゃ、見てみよう。それでテレビをつけた。うちの部屋だと、東京MXテレビは9チャンネルで視聴可能というのも実は知らなかった。

「怪奇大作戦」(1968-69)は、科学捜査研究所(SRI)という組織が毎回起こる人智を越えた奇怪な事件に立ち向かう特撮ドラマである。ヒーローとか怪獣は出てこない。しかしそこは「ウルトラマン」「セブン」のあとの円谷作品だけあって、先週放送の「死神の子守唄」なる回では、若い女性を一瞬で凍結させる連続殺人事件を調査していくと、犯人は胎内被曝による白血病で死期の迫った妹を助けるために特殊な装置の人体実験を繰り返していた兄だった、とか、そういう話だった。
(いまこの段落を書くのにあたっては、ウィキペディアの「怪奇大作戦」の項を横目で見ている)
 ラストは思いきり投げっぱなしで(「日本政府が何をしてくれた!? アメリカが何をしてくれた!?」と兄は叫ぶ)何が大作戦なのかはわからなかったが(*)、けっこう面白かったのでこれから毎週水曜夜11時半は「怪奇大作戦」を見ることにしたという、これはそんなメモである。

 で、いまさっそくこういうサイトを見つけたのでそれもメモ。まだ読んでないけど、きっと、労作。
 「怪奇大作戦」 http://www.ucatv.ne.jp/~rydeen/SRI/



*友達Bに電話で聞いてみても、「全話通して、作戦は特にない」という。いいなそういうの。
2006/02/07

サザエさん占い

 他人のウェブ日記で見かけた「おれ、いささか先生」という一文から、「サザエさん占い」というものがあるのを知った。やってみた。

占いの結果

doodlingさんは【サザエさん】です!

● サザエさんさんのあなたは、自分をあまり飾らず、ありのままの姿を表現するタイプ。嫌いなものは嫌いだし、怒りたいときは怒る。打算的に行動することが出来ない、いわゆる世渡り下手。しかし逆にそういった態度が大物っぽくもあります。軽い流行に乗るのが好きではなく、しっかりと自分の好みを持っています。表現力を求められる芸術的な分野で力を発揮できます。

● doodlingさんを狙っている異性は、10人います。


「本日の運勢ランキング」がちょっと面白かったので貼っておこう(2/7付)。

1位 ★わかめちゃん
ラブレターが届きそう

2位 ★さぶちゃん
借金はきっぱりと断って

3位 ★はなざわさん
時間に追われて焦り気味

4位 ★たらちゃん
初歩的なミスに注意しよう

5位 ★いくらちゃん
私語を慎みましょう

6位 ★たいこ
冗談で言った事が本当になるかも

7位 ★なみへい
季節のフルーツが運をよぶ

8位 ★サザエさん
元気な挨拶で運気アップ

9位 ★ますお
友達を増やすチャンス

10位 ★いささかせんせい
発言に説得力が増しそう

11位 ★のりすけ
みんなへの気配りを心がけて

12位 ★かつおくん
携帯がトイレにダイブ
2006/02/04

「豆をこぼす」

こんにちは。

公開しておいてなんだが、移す作業で疲れきったので
当分のあいだ更新したくないと思う。
2006/02/03

国書

 2月になってしまった。ジーン・ウルフの短篇集が今月中にも出るらしい、という噂を聞いて、先日は柳下毅一郎の日記《2/10ごろ》にも出る、と書かれてあったのだが、当の国書刊行会のサイトではどこにも記載がない。私が見落としているのだろうか?
 でも、こんなのは見つけた(「最新ニュース」より)。

新シリーズ<短篇小説の快楽>
読書の真の快楽は短篇にあり。20世紀にのこされた傑作の数々を再・新発見し<文学のミッドセンチュリー・モダン>をさぐる作家別短篇集シリーズ。秋刊行開始予定。
・キャロル・エムシュウィラー短篇集/畔柳和代訳
・ウィリアム・トレヴァー短篇集/栩木伸明訳
・イタロ・カルヴィーノ初期短篇集/和田忠彦訳
・アドルフォ・ビオイ=カサーレス短篇集/高岡麻衣訳
・レイモン・クノー短篇集/塩塚秀一郎訳 (タイトルはすべて未定)


『浅倉久志エッセイ集(仮)』浅倉久志
SF翻訳の第一人者浅倉久志、初のエッセイ集。コラムの他、訳者あとがき・> 解説、さらには膨大な訳書リストも収録! 20世紀SF最良のガイドブックとしても最適の本。夏刊行予定