2005/12/27

主は来ませり

しあわせなやつは 無敵だ

高野文子「マヨネーズ」(『黄色い本』所収)より
2005/12/25

テレビばかり見る

 なんだか年を追うごとに「明石家サンタ」は見るのがつらくなっていく気がする。

 とりわけ今年は電話する視聴者に問題が多すぎた。さんまでも絡めないほど勝手な人って、普段どんな社交生活を送っているのか。や、案外、似たようなタイプの集団でうまくやっているのかも。それはそれで暗澹たる気持になるが、まあ、そこまで考えるのは傲慢であろう。「あろう」って、誰だ私は。
こうやってなんだかんだ言うために、きっと来年も見るのだが。

 ○ ○ ○

 明るい話題。
 引き続きシティボーイズのライブDVDを見ていると、2003年公演の「NOTA 恙無き限界ワルツ」は特別面白かった。
 出演者6人中に女性が2人(ゲストのYOUと五月女ケイ子)という初めての構成で、それぞれの特性を生かしたコントの数かずがことごとく楽しい。“性別の混乱したオフィス”、“気品あふれる没落貴族の一家”、“反戦活動”、“モーツァルトによる左脳活発化”、“練炭自殺”その他、みんなひとつの舞台に入っている。全篇通して、大竹まことがかつてなく弾けていたのも嬉しかった。非常識な5人を相手にまわし、激昂のあまり叫ぶのが「カボチャにするぞ」って、それは突っ込みなのか。
シティボーイズミックス PRESENTS NOTA ~恙無き限界ワルツ~
 権利関係の問題からか、DVD収録にあたって音声を消したりしないといけない箇所がけっこう長くあり、静止画と字幕になっていたのは勿体なかった。それがなければ本気で購入を考えたかもしれない。
(“首の皮一枚ショー”というコントで、絶壁から落ちそうになっているYOUを某自動車会社製の二足歩行ロボットが助けに来るという展開があって、そこ、当のロボット(むろん着ぐるみ)にはモザイクがかけられていたのだが、段差でコケたりするのでそれは仕方がないかと思われたことである。
「ああーッ!ア●モが転んでしまったーッ!!」 私は無茶苦茶笑ったが)

 あとは
「だめな人の前をメザシを持って移動中」(2004)
「メンタル三兄弟の恋」(2005)
このふたつがDVD化されているものの、近所のTSUTAYAには置いていない。再度「丈夫な足場」でも借りてこようか。
 それにしてもYOUはいいと思う。これは普通なのか私の偏りなのか、いままで色々あったせいで判断がつかないでいる。
2005/12/21

「キング・コング」(2005)

ピーター・ジャクソン監督

 考えたら映画館に行くのは4ヶ月ぶりくらいだが、久しぶりの映画がこれでよかったとも思われたことである。

 無茶苦茶な絵の大洪水で、ヒロインの、コナンみたいな走りっぷりと文字通りの翻弄され具合(翻って、弄ばれて)が爽快だった。「お前のせいとは言わないが、悪いのはお前じゃないか」という疑問を抱かせる隙もない。
 それにしても、せいぜい南海の孤島に映画を撮りに行く→でかいゴリラ発見→NYに連れ帰ったら大暴れ、くらいのシンプルなストーリーだと思っていたのに(いや実際そうなのだが)、さすが上映時間3時間越えは伊達ではなく、魔境のあまりの魔境っぷりにおそれおののいた。恐竜よりおそろしいもの、それは蟲。
「将棋倒しは本当に危ない」「芸は身を助ける」「戦場のピアニストは意外にタフ」その他さまざまな教訓を得て満足する。ティラノサウルスの急所はやはりあそこか。
“その向こうに危険が待っているかもしれないという局面で「何かあったら逃げろ」と言い放ち、先に行こうとする黒人”を愛する困った人びとにもおすすめする。

 ○ ○ ○

追記:
「たけくまメモ」でも絶賛されているのを見つけたが、

> 明らかにご家族向け正月映画の一線を踏み外しているようなところがあり

ああ、ほんとそれです。
2005/12/14

ロ?


 新訳『ロリータ』刊行記念、若島正×沼野充義トークショーに行ってきた。定員40名って、いつもの青山本店の会場ならその3倍は入るよ。

 で、対談はほとんど「本の紹介」と「翻訳の舞台裏話」に終始した。たいてい、当の本の「訳者あとがき」に書いてある、もしくは若島ページに書いてある話、という感じ。
 書店でのトークショーは「宣伝」なのだから(まだ買っていない人に買わせる)、こういうのがありうべき普通の姿なのかも知れない。たとえ定員が40名であっても。
 でもなあ、私は「すでに買って、読んだ人」を相手にした、書店としてはサービスでしかない企画がたまにはあってもいいと思うのだ――と書いてみて、駄々をこねているだけの気もしてきた。やはりあのときのが異常だったのか(「すみませんオタクなんで」と柳下毅一郎は謝っていたが、ぜんぜん悪びれていなかった。立派だった)。

 それでも、聞いたことは書いてみる。
 長いことは長いけど、以下、「読み」のレベルでの話はほとんどないかもしれません。「訳者あとがき」で紹介されていた“修正派の議論”並みにこちらを驚かせ、「おれは何を読んでいたんだ」と自分の目の節穴具合を呪いたくなるような話というより、一見ひたすら表面的・周辺的な話題がえんえんと続くのをご承知おきください――って、まるで誰かを恐れているような私であった。

 参考までに『ロリータ』のあらすじ:

 この小説は「ハンバート・ハンバート」と名乗る中年男が獄中で書いた手記、という形式をとる。彼は9~14歳くらいの女子に惹かれる少女愛者だった。
 ヨーロッパからアメリカに渡って生活していたハンバートは、37歳で偶然出遭った生意気な少女に心臓を射抜かれる。彼女の名はドロレス、愛称はロリータで12歳。彼は彼女の母親と近づきになるなどいろいろ手を尽くして願いを実現する。ロリータと2人、モーテルを泊まり歩きながらアメリカを転々と移動し続けるハンバート。恋の逃避行?
 しかし、やはりロリータに目をつけていたもう一人の少女愛者・クィルティが彼らを追っていた。2年間におよぶ大旅行の末、ハンバートに飽きたロリータは、彼を騙してクィルティと共に姿を消す。
 失意に沈むハンバートのもとに、3年後、手紙が届く。クィルティとも別れ平凡な男と結婚していたロリータが、金を無心してきたのだった。念願の再会を果たしたハンバートだが、彼女はもう自分のもとには戻らないと思い知る。彼はクィルティの居場所を探し当てて銃殺する。逮捕。投獄。ひたすらロリータを思いながらハンバートは手記を書く(→最初に戻る)。
 ――弁護士と精神科医により、少女愛という異常な精神病理の記録としてこの手記は出版されるのであるよ。

[肝心なところには一切触れていないのは、実物を読んでもらえればわかるはず]

 ○ ○ ○

W:が若島発言、:が沼野発言をまとめたもの。
 もちろん私が記憶にあるのを改変してつなぎ合わせた捏造(時間的にすごく開いた発言をひとつにくっつけたりしている)なので、聞きちがい・事実誤認はないはずがない。くれぐれも、両者がこんなふうに喋ったとは思いませんよう。なくもがなの私のコメントは、小さい文字の[ ]でくくっておく。


■ 翻訳作業:

W: 1年前に新訳の話が来たときにはこわくて震えた。実際の翻訳は2ヶ月の集中作業。しかし訳し終えても「達成感がない」。何度か授業で扱ったのでこれまで5、6回は通して読んでいたつもりだが、今回、はじめて読んだような気分。
『ロリータ』はハンバートがロリータを手に入れるまでの第1部と、そのあとアメリカじゅうをドライブする第2部からなり、よく“第2部に入るとだれる”と言われてきた。自分も読んだつもりでところどころ読み飛ばしていたのかもしれない。しかし今回、なにしろ翻訳するので全篇を細かく見ていったわけだが、「どこも読み飛ばしていいところがない」。
ふつう翻訳は先に進めば進むほど慣れてきてスピードが上がるものなのに、『ロリータ』は後半が次第に難しくなっていくので最後までスピードが変わらず苦労した。
なかなか取りかかれなかったのは、まず、英語の言葉遊びをどう訳すか悩んでいたから。なにしろ書き出し(「序文」を除いた書き出し)からいきなり難しい。
Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.

冒頭、ナボコフは“L”の音を重ねる技巧を凝らしているわけだが、そんなの翻訳不能である。どうしたものか。「光(ライト)」とか「人生(ライフ)」とかルビをふるのも変だし。そう考えて詰まり、ずっと訳を書き出せなかった。
ところがあるとき思いつき、ナボコフ自身によるロシア語訳版を見てみた。
[ナボコフが自分で英語→ロシア語に訳したのは、長篇だと『ロリータ』だけらしい。逆パターンはけっこうある]

すると何のことはない、作者であるナボコフも、英語の音は拾わずに直訳していたのだった。じゃ、いいや。これで最初の一行に手をつけることができた。
《ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。》p11

“loins”を素っ気ない「腰」の一語にしたのは、その周辺を漢字一文字で揃えたかったから。
[おお、ほんとだ。気がつかなかった]


■ 沼野充義見るところの「若島訳の特色」:

(1)ロリータの言葉遣い
 現代(2005年の日本)の口語的。十年後に古びないか。

(2)正確化
 「下手な訳」と思われるリスクを冒して、比喩は比喩として残している。

(3)言葉遊びは日本語でも遊ぶ
 これも、「下手な訳」と思われるリスクを冒して……

(4)「そのもの化」
 訳注を付けないで「小説そのもの」を提示している。「わかる人だけわかればいい」ということ?

 [以下、雑駁に補足]

(1)ロリータの言葉遣い、について
W: 「この小説は何の小説か?」という問題がある。これはたしかにハンバートの手記だが、彼の少女愛と“語り”を抜いたら何も残らないのかというと、そうではないと思う。
自分もはじめて読んだころは、ハンバートにばかり目がいった。しかし長いこと読んでいると、“ただの被害者ではないロリータ”が見えてくる。この読みの変化が早く起こるように、ハンバートとロリータのズレを大きくして訳すことにした。フランス語混じりの英語を操るハンバートから、ロリータを引き離す。『ロリータ』が、ロリータという一人の少女の物語でもあることを強調したい。言葉遣いを大胆に変えたのはそういう理由による。

N: ナボコフによるロシア語訳を見ると、原書に比べて、ロリータの言葉は汚くない。「はすっぱなアメリカ娘の口語」に対応する言葉が、ナボコフのロシア語の語彙にはなかったのかもしれない。

※今回の新訳版に巻かれている帯の言葉:「幻の美少女など、幻想に過ぎない――」

(2)正確化、について
W: 『ロリータ』の英語は変である。英文学の名作からすれば、「許しがたいほど変」である。新潮文庫の旧訳は、まぎれもないプロの仕事。ただ、あまりに上手に、つるつる読めるよう訳しすぎ(そこが「プロ」)。それに対して自分の訳は、“変な英語は変な日本語に”を方針とした。「ハードカバーなだけに読みにくい(ハード)はず、わからない部分は文庫版を見てください」。
「変」の例として、ハンバートの発話する台詞がときおり、現実で人が口にできるとは思えないものになっている。あれはハンバートがインテリだからというだけではなく、この小説が彼の書いたものだから。彼は実際に自分のした言い方を、書くにあたって変えている。ときには他人の言葉も変えていると考えられる。
[ここ、(1)と考え合わせると難しいんだよな]

(3)言葉遊びは日本語でも遊ぶ、について
W: とにかく頭韻が多い。最初は無視しようかと思った。日本語で拾えたのはたぶん4~5割。

(4)「そのもの化」、について
W: 自分が「ほとんど訳注をつけない」主義なのは、注は原文に付いていないから。小説に注は要らないと考えている。
『ロリータ』最初のページにはポーからの引用があり、最後のページにはアルタミラの壁画に描かれた動物の名が出てきたりする。でも自分は「最初と最後を訳注(割注)で汚したくなかった」。

N: 別に注だけで1冊書いてみたらどうか。
[また、会場から「一般読者としては注がほしい」という声も出た]

W: 注を付けることで「終わった」つもりになるのは嫌だし、そもそも、その作業は終わりようがない。アルフレッド・アッペル・ジュニアという人による注釈付き『ロリータ』(本文300ページに対して注が150ページ)もあるが、それは当然、“アッペルの注”にすぎない。
これから『ロリータ』について1冊書くが、それは小説の4ページ程度を徹底的に読んでみせるという実演で、注釈ではない。あとはみなさんご自分でやってみてください、という姿勢。
[これ、若島サイトの掲示板でのやり取りで、より詳しい態度表明があった]


■ 現代と『ロリータ』、みたいな?

W: 出版は1955年だが、ナボコフも『ロリータ』が本当に読まれるのは50年後を期待していたのでは。現代では少女愛者による犯罪が連続しているが、小説中のハンバートはひたすら“犯罪にならないよう”努力している。そこは現実の犯罪者と違う。
[ハンバートが捕まったのはクィルティ殺しの罪によるのであって、12歳と姦通した罪はたしかに隠し通した。自分で手記を書いちゃうんだから台無しであるにしろ、ことロリータとの関係で言えば、彼は一方的に崇拝しており、殺すなんてとんでもない]

N: ドストエフスキーの『悪霊』にも主人公が少女を犯したのを告白している部分があったが、最近になって亀山郁夫が出した『悪霊』論でようやく、少女の側の欲望とかいった読み直しがされはじめた。『ロリータ』的なものが持つ予見性は50年代のアメリカでは理解されようがなかっただろう。

W: どうしてナボコフはこんな小説を書いたのか。それまでに出版した英語作品『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』『ベンドシニスター』はぜんぜん売れなかったから、“きわどいことを書いてひとやま当ててやろう”というヤマっ気はあったと思う。

W: 考えてみればロリータは、12歳から14歳にかけて日常的なドメスティック・バイオレンスを受けていたわけで、その後17歳で○○し、しかも△△。
そんな“壮絶な人生”のはずなのに、彼女はハンバートに再会したとき、自分の人生をめちゃくちゃにしたこの男のことを「屁とも思っていない」。
「もういちど一緒になろう」と訴えるハンバートにロリータは、“You're crazy.”と返す。これは非常に軽い言い方で、そこがすごい。運命に負けない、生き生きとしたロリータがいる。関西弁なら「あんたアホちゃう?」。訳では「頭おかしいんじゃないの」にした。
《「違う」と私は言った。「それはまったくの誤解だ。偶発的なディックとこんな穴倉を捨てて、私と共に暮らし、私と共に死に、すべて私と共にしてほしいんだ」(正確には憶えていない。)
「頭おかしいんじゃないの」と彼女は言って、信じられないという子供っぽい表情を作った。》p393


■“修正派の議論”、とか
[これがどんな問題かは、ぜひ『ロリータ』実物を読んでから「訳者あとがき」を読まれたい。きっと愕然とすると思う]

W: いまのところどちらの可能性もあるとは思う。しかしナボコフがどう考えていたかはわからない。ナボコフと切り離せないチェス・プロブレムであれば、答えはひとつに決まっている。ナボコフはこの問題にもひとつの答えを用意していたかも知れない。しかしながら、作者の正解を当てるのが読者の“正しい”読み方だろうか?

N: 作者の意図がどうであっても(答えがひとつであっても)、複数の可能性が見えてしまうところが読者の自由かも。

[実際にその作品を書いた生身の作者が考えていた答えはどうであれ、びっくりするような面白い読み方があればそれをできるだけたくさん知りたいと私は思う。どんなに突飛でも、筋の通った読み方が見つかれば、それは作品が潜在的に持っていた答えのひとつに付け加えられる(ここの順序は逆ではない)。そういう答えが多ければ多いほど豊かな作品のはずである。発見されないことには「潜在的に持っていた」こともわからない以上、「作品の持つ答え」とは「作品の持ちうる答え」(可能性)なのだから、いつでも「作者の用意した正解」の域を越えている――と、ここまでは常識の範疇。
しかしナボコフ作品に限っては、ナボコフ自身の意見を絶対的なものとして読まないと掴めない、と若島正はたびたび書いており、それなのに上の発言にもあるように、そこまで禁欲的になるのには疑問を感じているようでもある。変な言い方だが、これほどの読み手がそこで“揺れている”感じが好きで、私は若島正の書くものを読んでいるんだと思う。
話がそれた。「作品を豊かにする答え」を翻訳者・専門家とはいえ他人におねだりするのは、「一生かかってでも注を付けてくれ」と強要するのと同じ勝手なふるまいかもしれないと私は反省したのだった。だけど、面白い読みは共有財産だろうから、何かひねり出した人がいたら教えてほしい。結局おねだりである]


W: ナボコフが『ロリータ』に描いたアメリカは、現実のアメリカとはズレている。「シェル石油」とあるべきガソリンスタンドの名前がほんのちょっと変形されていたり。その意味で『ロリータ』のアメリカは、現実とは別のオリジナルなものだ。ナボコフはアメリカを「発明している」。
[ここ、ナボコフは母語でもない英語を操ってアメリカをどれくらい巧みに描いたか、みたいな質問に対する回答だったと思うのだが、なんかつながりを憶えていない。
勝手に推測して補足してみると、「『ロリータ』は、私と英語とのラブ・アフェアだ」なんてうそぶくナボコフであれ誰であれ、外界を「そのまま」写し取るなんてことはできない、言葉を使う以上、小説に描かれているのは現実とは別物として再創造されたアメリカだ、というようなこと――だろうか。郷愁の込められたロシアにしろ、現実のロシアではなく別世界としてナボコフは描いている、というのがナボコフ批評の大前提であるらしい。そういえばこんなメモを前にしていた]


W: なお、『ロリータ』巻末でナボコフが、これを「老いたヨーロッパが若いアメリカをたらし込む話」(またはその逆)として読まれるのを嫌がっているのは、言い逃れの意味もあったと思う。というのも、ヨーロッパ×アメリカという構図はまさしくヘンリー・ジェイムズのものだから、二番煎じと思われるのは嫌だっただろうから。
[ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916)は、幼時からアメリカとヨーロッパを行ったり来たりさせられた国際根無し草作家。『ねじの回転』のような心理的リアリズムだけでなく、欧米を対比した「国際状況小説」を書いたらしい。ちなみに、「視点」とか「語り手」とか小説の技法に無茶苦茶厳密で、書く英語もとんでもなく難しい人だったらしい]

W: ハンバートがアメリカを車で移動する場面のもとになっているのは、勤めていた大学が休みのあいだ、蝶を採集するためにモーテルを渡り歩いたナボコフの実体験である。
今回訳してみていちばん感動的だったのは、かつてロリータと暮らしたラムズデールをひとりで再訪したハンバートが、道路の溝に車のタイヤをとられ、そのあとじっと夜の町を眺める描写だった。そこには、ハンバートのみならずナボコフの、「「おれ、ロシア人なのに、どうしてこんなところまで来て、こんなもの見てるんだろう」みたいな気持もあらわれているように思う。
《雨はだいぶ前からあがっていた。あたたかい闇夜で、アパラチアのどこかだ。ときおり車が通り過ぎ、赤いテールライトが遠ざかり、白いヘッドライトが近づいてくるが、町は死んだようになっている。甘く熟して腐りかけのヨーロッパでは、気晴らしに外に出た市民たちが歩道で散歩したり笑ったりしている光景を見かけるけれども、ここではそんな人間は誰もいない。罪のない夜と恐ろしい考えを楽しむのは私一人しかいないのだ。縁石に置かれている針金でできた容器は、受け入れ可能なものについてひどくうるさかった。「掃除したゴミ。紙。ただし残飯お断り」。[…]
ネオンサインが我が心臓より二倍ゆっくりと瞬いていた。レストランの看板の輪郭になっている、大きなコーヒーポットが、一秒おきくらいに、エメラルド色の命に沸きあがり、またそれが消えるたびに、「おいしいお食事」と書かれたピンクの文字が後を引き継ぎ、それでもまだポットの形は隠れた影として見分けることができて、次のエメラルド色の復活まで目を楽しませてくれるのである。影絵芝居やったの。この秘かな町は〈魅惑の狩人〉からさほど離れていない。私はありえない過去に酔って、ふたたび涙を流していた。》pp397-8


 いったい誰がここまで読むのかわからないが、今回はこれでおしまい。



ロリータロリータ
(2005/11)
ウラジーミル ナボコフ

商品詳細を見る
2005/12/09

シティボーイズ

 大竹まこと、きたろう、斉木しげるのシティボーイズは、毎年ゴールデンウィークに公演を行っているという。そのライブを収めたDVDが近所のTSUTAYAにあったので、週に1本ずつ借りて見ている。毎回、10個前後のコントをつないで2時間程度の長さ。そろそろ記憶があやふやになってきたから、自分用のメモとしてリストを作ってみる。

 以下、後ろの()が公演した年。ゲスト出演者がある場合は+で付け足した。■マークが私の見たもの。□は未見。あともうちょっとだ。

■「鍵のないトイレ」(1992)
■「愚者の代弁者、西へ」(1993)
■「ゴム脳市場」(1994)+布施絵里
■「愚者の代弁者、うっかり東へ」(1995)+中村有志・いとうせいこう
■「丈夫な足場」(1996)+中村有志・いとうせいこう
■「NOT FOUND」(1997)+中村有志・いとうせいこう
■「真空報告官大運動会」(1998)+中村有志・いとうせいこう
■「夏への無意識」(1999)
■「ウルトラシオシオハイミナール」(2000)+野宮真貴・本田久就
■「ラ ハッスル きのこショー」(2001)+中村有志・いとうせいこう
■「パパ・センプリチータ」(2002)+中村有志・犬山犬子
□「NOTA 恙無き限界ワルツ」(2003)+中村有志・YOU・五月女ケイ子
□「だめな人の前をメザシを持って移動中」(2004)+中村有志・小林幸太郎・西野恭之介
□「メンタル三兄弟の恋」(2005)+中村有志・のろま会

 仮に台本だけ見れば、“常識と不条理のせめぎあい”“シュールな掛け合い”ということになるかもしれないが、実際の舞台は“大の大人が集まって、やりたい放題やっている”感が圧倒的。みんな必死に全身で演じ、走り、どなり、ときに布団を振り回す。常時発生するトチリ、アドリブ。つながりがあったりなかったりする短いコントを2時間分暗記して演技するってどんな作業なのかと空恐ろしい気持になる。「終わったあとに何も残さない、残らない」とは恒例の舞台挨拶での大竹まことの言葉。
 順番としては、中村有志・いとうせいこうが参加しているやつを見ていくとハズレがない。なかでもおすすめは、「丈夫な足場」「ラ ハッスル きのこショー」。それで「合わない」と感じれば、遡って見る手間は省けるだろう。

 詳しいことは知らないが、80年代、シティボーイズといとうせいこう(あと竹中直人ら)は、宮沢章夫と組み「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」として活動していたらしい。上記ライブで2000年分までの作・演出を担当した人もその流れに位置するらしく、宮沢章夫のエッセイでたまに触れられる昔の活動はなるほどこういう感じだったのかと思わされることもある。大いなる勘違いかもしれない。念を押すけど、詳しくは知りません。
 強烈に印象深かったコントのメモをいくつか。印象深かったというか、まだしも説明できそうなやつ。

「ピアノの粉末」(「愚者の代弁者、うっかり東へ」より):
ピアノを粉末にする。

「五人姉妹」(「愚者の代弁者、うっかり東へ」より):
役者五人が、舞台が暗転するたびに、五人の姉妹(女言葉)とそのそれぞれの夫を演じ分ける。いとうせいこうの女言葉は、糸井重里のベストワークを「となりのトトロ」父親役とするのと同じ意味で、この人のベストワークじゃないかと思った。

「布団祭りvs岩祭り」(「丈夫な足場」より):
布団をぶん回す「布団祭り」派と岩を投げる「岩祭り」派の熾烈な争い。

「毛皮族」(「NOT FOUND」より):
気温22℃の東京で、Tシャツのいとうせいこうの前に現れる、毛皮を着た四人の男たち。「そこの薄着の人!」「私ですか!?」

「長い廊下」(「NOT FOUND」より):
温泉宿に来た五人が、何やかやと理由をつけて長い廊下を全力疾走する。息を切らして走る。ただ走る。

 ○ ○ ○

思い返すだに、私は“演技するいとうせいこう”がつくづく好きなんだなあと再確認した次第。
「なんかちっとも面白そうじゃないんだけど」と思った人にこそ見てほしい、といって逃げる。



追記:
大学のサークルに、このライブを見てきたと自慢する先輩がいたが、名前を思い出せないあの先輩の気持がいまならわかる気がする。
2005/12/05

「ほしいものがいっぱい置いてあるのは間違いないお店の中を、お金を持たずに見て歩いたような読後感」という下手な比喩につなげれば、横からポケットにお金を突っ込まれるような感覚とでも言おうか。
 正直、「万引きしてしまった」感もある。ポイントはたまりますか。

 若島正:『ロリータ』別館

 大きなネタはこれから出てくると期待する他力本願。いや他力っていうか。
2005/12/02

ロリータのにおい

《火曜日。 曇り空で、あのどうしてもたどりつけない湖でのピクニックがまた邪魔された。これは運命の策略なのか? 昨日、鏡の前で、新しい海水パンツを試着してみた。》P68

 新訳『ロリータ』を読了する。

ロリータ
 タワレコでもジュンク堂でもいいんだけど、ほしいものがいっぱい置いてあるのは間違いないお店の中を、お金を持たずに見て歩いたような読後感。新潮文庫の既訳を読んでいない私は、「とにかく一通り読み終えてしまう」ことにしたので、年表作りもおざなりである。
 2日前にこの本を買ってから入ったファミレスでページを開き、最初に思ったのは「これ何のにおいだ?」ということだった。
 400ページを越えるわりにはそれほど厚くない、だから特別薄い紙を使っているらしいこの本からは、なにか癖のあるにおいがした。それが、どこかで嗅いだ別の本のにおいと非常に似ており、しかしその本が何だったかは思い出せなくて、気になって仕方がなかった。「あれだ、あれに違いないんだけど、それは何だっけ」。
 帰宅後、これじゃないかと思われる何冊かを取り出して確かめてみたが、どれもハズレ。なおさら気になる。必死で考え、深夜、小説の語り手ハンバートがロリータを落とすためにまず彼女の母親を落としたあたりでようやく思い至る。

 三省堂「大辞林」のにおい

 それからは落ち着いて読書を進めることができた。実家の居間、テレビ台の下に放置されている「大辞林」を、年末に帰省したとき嗅いでこようと思う。

 ところが、いまあらためて『ロリータ』に鼻を近づけてみても、あんなに際立って感じられたにおいは、あまりしなくなっているのである。もう散ってしまったのか? いくら薄くても辞書とは違う紙だから、結局両者のにおいは別物なのか? この本が書店ではナイロンでパッケージされていたのは影響しているのだろうか?

 そういうわけでこの数日、私はずいぶん『ロリータ』のにおいを嗅いだ。あまり人に言えない気がしてここに書いてみた次第。12/14のトークショウは予約が取れた。
《もし強力な催眠術師に診てもらったとしたら、過去に何を求めればいいかわかっている今の私の目に映るよりもさらにはっきりとした形で、彼は私が本書で縫い合わせてきた偶然の記号を抽出して論理的なパターンに配列してくれたかもしれない。しかしその当時、私は自分が現実と乖離しているだけだと感じていたのである。》P357