2005/11/17

ティム・オブライエン「死者を生かす物語」続き



 メモが途中だった。思いつきだけで書いているので、あいだを開けると自分でも忘れてしまう。

(1) 語り手の少年時、リンダという女の子が死んだ
   彼は想像(物語)の中に彼女を生かす
《そのうち、わたしの思い描いた通りに、リンダが姿を見せた。[…]こういことは一種の自己催眠だった。意志力が半分、信仰が半分。これだけあれば物語は生まれる》

(2) その十年くらいあとのヴェトナム、仲間が死ぬたびに物語が作られる
《たいていは、自分たちで話をこしらえた。おおげさだったり嘘八百だったりもしたが、そうすることで肉体と魂を元通りにつなげるなり、新しい肉体のなかに魂を住まわせるなりしていたのだ》

(1)リンダと(2)ヴェトナムのどちらでも、語り手は「死者を生かす」ためのものとして想像力・物語を捉えている。そう言っている。

 しかし読んでる側からすると、特に戦場である(2)の場合、死ぬのが自分ではなく他人であることになんの理由もない状況で、身近な可能性として潜みランダムに襲ってくる死というものを「受けとめる」ために物語が使われているように見える。
 死を体験できた人はいない。死んじゃうから。前の段落を言い換えると、未知で不可解でおさまりのつかない死者なるものをひとまずどこかにおさめ――《肉体と魂を元通りにつなげるなり、新しい肉体のなかに魂を住まわせるなり》――、自分たちを落ち着かせるための方便として、物語が使われているように見える。
 であれば「死者を生かす」とは、彼・彼女らが死んだあとも生きていく側にとってこそ必要な作業である。それが実は「葬る」ということじゃないかと思う。

(1)に戻ると、「リンダが死んだ」ことを受け入れてその後も生きていくために、ティミーは「生きているリンダ」を作りあげなくてはならなかった。なんか矛盾しているようだが、たぶんそういうことだろう。
 だからこの短篇「死者を生かす物語」は、いまや大人(ティム)になった語り手が、“物語をこしらえてリンダを救おうとした少年ティミーの物語”を語ることによって、自分はほかならぬティミーを救おうとしていたんだ、と気づくところで終わる。ちょっと自閉的ではある。

「死者を生かす」と「物語」の二項から連想されるのは、ジョン・アーヴィングである。

(続くのか)
[続かなかった]
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2005/11/11

ティム・オブライエン「死者を生かす物語」



《リンダはあのとき九つで、わたしも同い年だったが、ふたりは愛し合っていた。しかもそれは本物だった。》

「死者を生かす物語」の語り手である小説家ティム・オブライエンは、ティミーと呼ばれていた子供の頃に、こんな恋に落ちたと回想する。で、愛するリンダはその年のうちに脳腫瘍で死んだ。あらら。これはそういう話である。
 情緒もへったくれもなくなるが、小説のあたまと終り近くから引用する。
《物語では、彼女の心を盗むことができる。絶対的で変わらないものを、せめて短期間、生き返らすことができる。[…]物語では奇跡は起きる。リンダが微笑んで起きあがることができる。腕を伸ばしてわたしの手首にふれ、こう言うことができる。「ティミー、泣かないで」
 わたしにはそういう奇跡が必要だった。》

《夜ベッドに横になると、眠りのなかでリンダを生かすべく、わたしは念入りに物語をこしらえた。自分の夢を作りあげた。[…]そのうち、わたしの思い描いた通りに、リンダが姿を見せた。夢のなかでは見つめ合うだけで口はきかなかったが、それはふたりとも恥ずかしがり屋だからだったからだ。わたしが彼女を家まで送っていき、ふたりして玄関の階段にすわり、闇を見つめて、いっしょにいた。
 ときどきとんでもないことを彼女は口にした。「いったん生きた人はね、けっして死なないの」
 あるいは、こうも言った。「あたし、死んでるみたいに見える?」
 こういことは一種の自己催眠だった。意志力が半分、信仰が半分。これだけあれば物語は生まれる。》

 身も蓋もなく、これは「想像力のなかで死者は生き返る」という話だ。現実に生き返りはしない(そんな馬鹿な話があるものか)。しかし異様なのは、リンダの話の合間にヴェトナムの回想が挟まれるところである。
 そこではどんどん人が死ぬ。爆死した仲間にも、村人の腐乱死体にも、冗談めかした「お葬式ごっこ」が繰り返された。そういう儀式に馴染めなかった新兵オブライエンも、次第にその意味を考えるようになる。
《わたしたちは物語をして死者を生かした。テッド・ラヴェンダーが頭を撃たれたときは、こんなにメローなこいつは見たことないな、なんとくつろいだ顔をしてるんだ、こいつの心を吹っ飛ばしたのは銃弾じゃなくてトランキライザーだぜい、とみんなしてしゃべった。[…]たいていは、自分たちで話をこしらえた。おおげさだったり嘘八百だったりもしたが、そうすることで肉体と魂を元通りにつなげるなり、新しい肉体のなかに魂を住まわせるなりしていたのだ。》


2005/11/10

『世界は何回も消滅する』より


…以前

 先月後半に読んでいた、青山南編・訳『世界は何回も消滅する』からあとひとつ、ティム・オブライエン「死者を生かす物語」についてメモしておきたかった。

世界は何回も消滅する―同時代のアメリカ小説傑作集 1946年生まれのオブライエンは、ヴェトナム戦争と、その波をかぶった自分の世代について小説を書き続けている。長篇も書けば短篇も書くが、ぜんぶヴェトナムの話、らしい。で、それはたいてい、リアリスティックな実録ものではなく、想像力をめぐるものになる。
 なぜかというと、従軍体験をきっかけに小説を書きはじめたこの人の中では、別に小説家じゃなくてもするだろう「戦争について考える」という行為に必要な想像力の問題が、別に小説家じゃなくてもするだろう「物語をつくる」際に発動する想像力と結びつけて捉えられているからであるように見える。それは小説家ならではの考え方だと思う。

「死者を生かす物語」は、ティムという小説家が、9歳の時にあった出来事とヴェトナムでの体験を重ねて回想する、エッセイのふりをした小説というかたちをとる。

 この人は、こういう〈フィクショナルな回想〉をよく使う。
 私がはじめて読んだのは、「レイニー河で」という短篇だった。高校の現国の教科書に載っていた。翻訳小説なんて授業では触れられもしなかったが、私は現国の教科書は買った日に一通り読むやつだったので何気なくこれも読んでしまい、高校生なりに思うところあって、その後の1年間、授業中に何回か読み返した。
 その「レイニー河で」も、中年とおぼしい語り手が、《この話だけはこれまで誰にも話したことがない》と言って回想を始める小説なのだった。
 語り手は、戦争に反対だった学生時代に徴兵通知をもらい、逃げるかどうかさんざん迷いながらカナダとの国境へ向かって・・・・・・と告白を続ける。
 これは短篇集『本当の戦争の話をしよう』(文春文庫)に入っているので、よければ本屋で立ち読みでもしていただきたい。「あいつはこんな話を何度も読んでいたのか。わかる気がする」と納得されるんじゃないかと思う。
 一言でいえば、〈人は自分以外のものにはなれない〉という話で、そんなのを高校生に読ませようとは、その出版社(どこだか忘れた)もずいぶん好き勝手したものである。

「死者を生かす物語」の話だった。

…続く

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)本当の戦争の話をしよう (文春文庫)
(1998/02)
ティム・オブライエン、村上 春樹 他

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2005/11/05

追記


 相変わらず、私の感想文は読みにくい。なんかごてごてして暑苦しいんだよな。

 こちらは山形浩生の『ディフェンス』評。結末まで書いてあるので注意(結末がわかったからなんだ、というのがナボコフの小説だけど、それはともかく)。
 → http://cruel.org/cut/cut200102.html

 例によって訳者の読みにも文句をつけているが、当の若島正は『ディフェンス』について、いちばん本質を衝いていたのは山形浩生だと言っている(若島サイトの「ただしの読書日記」から、2003/3/6分を参照)。
 どっちもクール。
 (※サイトが整理されて読めなくなったようです)

 で、調べてみたら『ディフェンス』は絶版なのだった。まだ書店の棚で見かけるが。『ロリータ』効果で、新しく生まれ変わったらしい河出文庫に入ればいいなと思う。
 んで、私があっさり『ディフェンス』にやられたのは、「作者に、つまり小説に翻弄される主人公」がそこに描かれていたからで、言い換えればそれは、定められたストーリーに抗おうとして勝てるはずのない戦いを挑み、当然ながら敗北する主人公の姿を主要な題材にしているということなのだが、どんな小説だってある程度はそのようなものとして読めるのを認めたうえでなお、同じ構図を別の目的のために使った作品として、『ディフェンス』(1964)の影はピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』(1966)に色濃く落ちているように見えてならなかったからだった。
But the private eye sooner or later has to get beat up on. This night's profusion of post horns, this malignant, deliberate replication, was their way of beating up. They knew her pressure points, and the ganglia of her optimism, and one by one, pinch by precision pinch, they were immobilizing her.

《しかしながら私立探偵がいつかは痛い目に遭わされるというのは避けられぬこと。今夜見たおびただしい数の郵便喇叭、この、悪意に満ちた、意図的反復、これが彼らなりの痛めつけ方だ。彼らはエディパの体のどこを押せば痛みを感じ、どこに楽天主義の中枢があるかを知っていて、一歩一歩、正確な場所を一つ一つつまんで、彼女を動けなくしているのだ。》邦訳版 p154
2005/11/04

稽古

宮沢章夫の「富士日記2」からサイト内リンクをたどり、「PAPERS」という壁新聞形式だった頃のバックナンバーを漁ると、1997年秋の舞台稽古を記録した日記がある。号数でいうと5-7号の時期だ。
http://www.u-ench.com/kaigi/diary.html

 別役実「会議」という芝居を宮沢章夫が演出して公演する、その稽古の日々を綴ったもので、私はこの芝居を見たことがなく、台本(戯曲)も読んでいないのに、この日記はやたらと面白い。通して3回読んだが、なんで面白いのかわからないので引用だけして放り出す。
《きたろうさんが、女2を演じる池津にごく基本的なアドバイスをする。「芝居の基本だよ」ときたろうさん。つまり、セリフの音ばかりが立って、意識が見えてこないことについて。それは稽古の当初から僕も感じていたことで、うまくやろうとして作為ばかりが表に出ている。それを何度も繰り返して、細かく直してゆく。しかし、意識していればいいが、そうでないところはすぐにだめになる。ごく基本的なこと。形になる。覚えたセリフをただしゃべっている印象だ。
 とりあえずのところで、それを終え、懸案になっている男4がそこにいる者らを追いつめて行く場面。セリフごと、誰に向かって言うか、言葉のトーン、そのときどんなふうに動くか、少しずつ変化をつけてゆく作業。疲れる。
 その二つの場面をほとんど休みなしでつづけ、夕方になったので、食事休憩をとる。
 食事のあと、しばらく戸田君と佐伯を待つ。佐伯がなかなか来ないので、女2の場面、昼間と同様、代役でやってみる。
 ほうれん草のあたりがまだだめだ。
 うまく意識が出てこない。生き生きとしない。
 とりあえず、明日に持ち越し。
 男4の部分。さらにやり方を変える。セリフのトーンがべたっとして変化がないので、押すところ、引くところ、低くでるところなど、細かく変えてゆく。少し、見えてきた。とくに、男4がそれで殴られたという木の棒を道具方1に持たせるあたりなど、すごく面白くなった。それで、いままで、巻き込まれないなあと思っていたことが、ふっと解消される。あるいは、周囲の者らが、男4が示すもの、木の棒や壊れた椅子などに、いちいち興味深そうにのぞきにゆくといった、ごく単純なことで、その場がずっと生き生きとしてくる。ごく単純なことだ。
 あたりまえに考えてゆけば、できるようなこと。
 で、その二つの場面をやっているうちに、八時になった。》(10/27)
2005/11/03

文房具板

 だめだだめだ。結局文房具板を見ている。

 これとか見ていて思い浮かぶ感想は、「役に立つ」では決してない。奥が深いというか、深いのは業か。
 http://that3.2ch.net/test/read.cgi/stationery/1083938709/

706 :_ねん_くみ なまえ_____ :2005/09/06(火) 01:14:46 ID:hi3pw+XS
俺ドラゴン桜見て思ったけど、特進クラスって6人全員100~200円のシャーペン使ってるね。

707 :_ねん_くみ なまえ_____ :2005/09/06(火) 07:07:06 ID:???
一郎たんはエアフィットだよ

708 :_ねん_くみ なまえ_____ :2005/09/06(火) 07:08:13 ID:???
ローリー
スーパーグリップ
タプリクリップ
エアフィット
は確認できた

709 :_ねん_くみ なまえ_____ :2005/09/08(木) 17:37:56 ID:vIFs/gHA
山P・・・スーパーグリップ
ガッキー、サエコ・・・ローリー
中尾・・・エアフィット
小池・・・タプリクリップ(もしくはカルノ?)
長澤・・・ルシェンテ200
だと思われ。

また、長澤まさみがエアイン使ってたシーンもあった。
すれ違いスマソ。

 私は三菱鉛筆「シャ楽」の旧モデル(現行品より細身。100円)が好きだったのだが、同意見がいくつもあってうれしかった。
2005/11/02

S.Jackson"We Have Always Lived in the Castle"(1962)

We Have Always Lived in the Castle
Penguin(1984)

 読み終えてすぐにこんな事件があったので、不謹慎ながらちょっと笑った。
 http://www.yuko2ch.net/doku/

“We Have Always Lived in the Castle”は、最近復刊で話題の早川異色作家短篇集に『くじ』が入っているシャーリー・ジャクソンの中編小説。『ずっとお城で暮らしてる』のタイトルで邦訳(学研)もあるらしいが絶版。
 18才の語り手メアリーは、村の外れの屋敷に住んでいる。同居人は姉のコンスタンスと叔父のジュリアン、あと猫だけ。ほかの家族は数年前、食卓でまとめて毒殺された。犯人と目されたのはコンスタンスだが、証拠不十分で釈放。以来、3人と1匹は引きこもって毎日を送っている。
 村の人びとはこの姉妹を気味悪がって忌み嫌う。メアリーが買い物で家の外に出れば陰口、中傷、嫌がらせが巻きおこる。半病人のジュリアンは頭がおかしくなっていて、コンスタンスを自分の殺された妻とたびたび間違え、かの事件のことを長大な文章に書き続けている。彼の時間は止まったままだ。しかし当のコンスタンスはつねにやさしくふるまって、叔父を介護しつつ家事全般をこなしている。そんな彼女のことをメアリーは深く愛している。
 ところが、従兄チャールズの来訪が「お城」の生活を乱す。独善的にふるまう彼を、やさしいコンスタンスは受け入れざるをえず、メアリーは静かに不満を募らせていく。
 語り手メアリーの視点が、淡々としながらものすごく偏っているので、当然のこととして語られる出来事の当然でなさに、はっきりしない怖さが漂う。村八分の生活が、メアリーにとってはむしろ望んだもののように見えてくるのだ、彼女にはコンスタンスさえいればいいのだから。

 一軒の家を舞台にする以上、きっと●●で終わりになるんだろうと予想しながら読んでいたら、全部でだいたい210ページ中の150ページ目あたりでその●●が起きたのには拍子抜けした。早。残りをどうするんだ、と思ったのである。
 しかしながらこの小説は、●●のあとが面白い。詳しくは書かないが「デビルマン」を思い出した(詳しく書きすぎたかもしれない)。歪んだ幸福感に包まれた作品であった。
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