2005/10/31

十五夜の夜


 東京から数百キロ離れた私の実家周辺には、“十五夜かっぱらい”と呼ばれる行事があった。十五夜の夜、小学生が集まって近隣の家をまわる。大人はあらかじめ、玄関の前や縁側に月見団子をはじめとするお菓子を置いていて、子供らはそれを好き勝手に「かっぱらう」。何軒か繰り返すうちに、持ってきた袋がお菓子で一杯になる。
 夜中に(といっても8時前だろうが)友達とあちこちを歩き回る、それも庭先とはいえ他人の家に侵入する、というところにみんな軽く興奮していた。お菓子は結果であり二の次だったように思う。

 通っていた小学校の学区内ではどこでもやっていたので、山ひとつ向こうに住んでいる同級生がうちの近所で月餅を食べているというような、解せない光景が毎年あった(彼らには侵犯者の趣さえ漂っていた)。子供のいない家でもたいていお菓子を用意してくれていた一方で、「お菓子のない家」は、見た感じでそれと知れた。ある意味おそろしいことである。
 中学生が混ざってもよかったのかどうかはおぼえていない。厳格な決まりがあったとは思えないが、普通は小学校の高学年くらいで、なんとなく行かなくなる。卒業。十五の夜。言ってみたかっただけである。
 で、ここが偶然なのか奇妙なのだけれども、自分が中学生になったころには、あたりの小学生はもう“十五夜かっぱらい”をしていなかった。いや、ちがうか。秋の夜、突然うちの玄関戸を開けた子供を見て驚いたことがあったような気もする。どちらかが、あるいはどちらも、記憶の捏造なのかもしれない。

 カボチャとは何の関係もないこの行事が、けっこうローカルなものだろうとうすうす感じてはいた。しかし、市内じゅうから生徒の集まる高校に入ってから、私は気付いた。
 誰も“十五夜かっぱらい”を知らない。聞いたことがある、という者さえいなかった。けっこうどころか、ものすごくローカルだった。

私「じゃあお前らは、満月の下、田んぼのなか遠くに一軒だけある家まで
  畦道を歩いていったら、皿に積まれた団子が丁寧にラップで包んで
  あって、“皿は置いていって下さい”とメモがあった、とか、そういう経験
  もないのか」
友1「つーか、田んぼを見たことがない」
友2「それ犯罪じゃねえの」
友3「今度おれも連れてってよ」

 似たような行事があったという人間にはいまだに会ったことがない。田舎出身者でも全滅。そして同じことを言われる。「それ犯罪じゃねえの」。Googleでも0件だった。
 いったい何だったんだろう、十五夜かっぱらい。私は、私たちは、なんであんなことをしていたのだろう。経験者同士で語り合える日がいつか来るのかどうかもわからないが、それまでは仕方がないのでミルハウザーでも読んでいようと私は思うのである。あと、犯罪ではない。
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2005/10/29

ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』(1930,1964)

ディフェンス
若島正訳、河出書房新社(1999)
《「神様どうしが戦うゲームです。無限の可能性があって」》p41

 ロシアに生まれたルージンは、内気で生きづらい少年期の最中、たまたまチェスに出遭い、才能を発見されて一躍ヨーロッパにその名をとどろかす。しかし30の坂を越える頃にはかつての閃きは失せ、チェス以外は無能の男としてみじめな生活に足を踏み入れつつある。そんな時、一人の女性が現れて、この不器用なプレイヤーの世界に介入しようとする……
《ばかげた質問だと充分に承知しながらつい自分を抑えられずに、どれくらい長くチェスを指していらっしゃるの、と彼女は訊ねた。彼は答えずに後ろを向き、彼女はすっかり恥ずかしくなって、昨日、今日、明日の天候を並べたてはじめた。彼が黙ったままだったので彼女も黙りこみ、それからハンドバッグの中をがさごそして、必死になって話題を探そうとしたものの見つけたのは折れた櫛だけだった。突然彼は顔を彼女に向けて言った。「十八年三カ月と四日」》p88

 いわゆる「あらすじ」でいえば、物語が大きく動き出すのは、全14章中で6章を数えたこのあたりからだ。しかし、ナボコフの仕掛ける手練手管は、冒頭から読者をとらえて放さない。
 冒頭? 急ぎすぎた。これは、チェスマニアのナボコフがロシア語で書いて、のちにみずから英語にしたものを、同じくチェスマニアの若島正が日本語に翻訳した小説である。6年前の出版直後、大学の文学部にあった生協書籍部で平積みになっていたのを手に取って、「でもおれ、チェス知らないし」と台に戻したことまで私がおぼえているのは、白と黒の表紙に巻かれた赤い帯が印象的だったからだろう。大学構内の閑散とした空気からいって、季節は冬ではなかったか。
 そんなふうに大なり小なり「昔の記憶」に固執しがちな人間に対し、ナボコフの小説は猛威をふるう。はじめの数章を占める、ルージン思い出のロシアはどうだ。そこには見たことのない色をした日の光が鮮やかに射し、嗅いだことのない床板の匂いがやわらかくたちこめ、入ったことのない黴臭い屋根裏部屋がじっとこちらを待っている。動悸まで早くなるような、「自分の持っていない思い出が刺激される」この感覚は本当に不思議だ。描写されたイメージが、こちらの持つかすかな素材をとっかかりに、記憶として押し寄せてくる。

 しかし『ディフェンス』は、思い出に浸るだけの(それでもすごいが)小説ではない。
 たとえば、時間の飛ばしかた。懐かしさに彩られた少年期に続くはずのルージンの思春期・青年期は大胆に省略され、色白の少年の次に読者の前に現れるのは、不潔な肥満体の男である。小説の後半はこちらを「現在」として、中年を迎えつつあるルージンに寄り添い進んでいく。
 少年と中年のあいだにあったはずの、ルージンがチェスプレイヤーとして名を上げていく過程の出来事は、二流の作家だった彼の父親が、遠い存在になった息子――興行師めいたマネージャーに連れられ異国を旅して回る――をモデルにあたらしい小説を書こうとした、その夢想だけで伝えられる。しかもその短い描写にさえ、息子をついに理解することができず、それでも誇らしく思っていた父の気持が塗り込められている。
 一事が万事この調子で、この小説には、どこをとっても内容を伝えるだけの透明な部分がない。ひとつひとつの記述が、それ自体読み解かれるべき、ときには全体と照らして読み直されるべき飾りの入った切り子ガラスのような細部として配置されている。
 登場人物の郷愁や母性といった、こちらの情に訴えかけるものまでも、最大の効果をあげるよう計算した小道具・小芝居に溶かし込み利用する作者によって、無垢なルージンはひとり、正気と狂気の曖昧な境を歩かされる。いくつもの国際試合をたたかい、目隠しをして同時に三十人の相手とチェスを指すうちに、《チェスの概念の世界》が現実と入れ替わっていく。よどみ、混濁したルージンの知覚を写し取る訳文には、一点の曇りもない。
《彼の意識の光線は、周囲の完全にはわけのわからない世界と接触すると散乱する傾向があり、それで威力の半分を失ってしまうのに、その世界が溶けて蜃気楼となり、もはや心煩わされることもなくなったので、いっそう集中した強い光となっていた。現実世界、すなわちチェスの世界は、秩序に満ち、明快で、冒険に富んでいて、自分がその世界を簡単に支配し、すべてが彼の意思に従い彼の計略に頭を垂れることに、ルージンは誇りを感じた。》p135

 主人公を脅かす極度に観念的な世界をいっぽうに紡ぎながら、小説は、同じくらい極度に通俗的な三文芝居でもって、彼を二重に翻弄する(第10章の最後で「彼女」の母親がつぶやく、ベタな上にもベタな台詞を読んで私は悶絶した)。
 チェスの試合を音楽の喩えで描くような技巧と、メロドラマ仕立ての展開を存分に味わいながら、私たちが気付くのはこういうことだ。つまり、小説には作者がいる。

 この『ディフェンス』で、主人公を次から次へとピンチに陥れ、読者をはらはらさせる作者の手つきには、自分の力をたっぷり楽しんでいるようなそぶりさえある。小説は作者の意のままのものであり、充分な技量を有した作者であれば、小説を通して読者をさえ意のままに操れる。そんなことはいつだって承知しているつもりでいても、私たちは繰り返し足元をすくわれる。それは、当然のことながら小説は(読者ではなく)作者が作ったものだからだ。私たちは、足元をすくわれてはじめて作者の存在を知る。
 しかし、読者よりはるかに視野のきかない作中のレベルに立ち、人生を「運命を相手に指すチェス」ととらえる幻視者ルージンは、そのことについて何ひとつ語らないものの、そこかしこに現れる徴候から、明らかに「超越的な何者か」の気配を感じ取っており、最善の対抗策(ディフェンス)を編みだそうとする。登場人物がおのれの世界の彼方に見るのはただ一人。ここに、つまり小説のなかに、作者とチェスを指す主人公という構図が出来する。奇観というほかない。
 もちろん、この奇観を演出したのが作者なのだから、すべてはルージンに手の届かない場所で仕組まれた一個の完結したフィクションであり、登場人物が作者の支配から逃れる術はない。何に気付こうとも、どこまで意識しようとも、彼が盤上の駒でしかないのは変わりがない。最後のページで彼に起きる出来事は、救済でさえあるだろう――そこで小説は終わるのだから。このチェスに《無限の可能性》は、ない。

 それなのに、なぜだろう、主人公を一手一手追いつめる作者のやり口が冷徹を極めるほどに、両者のあいだの越えがたい距離を思い知らされるほどに、彼らの関係は親密なものに見えてくるのである。徹底的に痛めつけることが登場人物への作者の慈愛なのか。サディズム? いや、まさか。
 この反転が何に発するのか、作者は語らない。ルージンは語れない。ひとまず私は、「この小説にはルージンを憎む人間が一人も出てこない」点をもって何かの糸口にしたいが、これはむしろ、私の甘っちょろさを晒しているだけかもしれない。

 この本一冊のなかに折り重ねられた二重三重の世界、あちこちに置かれた記憶への入り口を読み取るのには、特殊な電子機具が必要なわけでもないし、秘密のメッセージがあぶり出しで書いてあるわけでもない。
 すべてはページの上に印刷され、開かれている。ただ読めばいい。
 これは本当にすごいことだと思う。必読。


…追記

2005/10/25

私のために


 冷静をもって知られる友達が、ある小説を読んで《ひょっとして俺の為に書かれたのではないか》と一瞬本気で思い込みかけた、とブログに書いていた。このうえない賛辞だと思う。
 私はものすごくミーハーで簡単に心が動くから、ちょくちょく似たような感想を抱いては「またかよ」と自分につっこみを入れている。われながらありがたみがない。
 それでも、ここ半年くらいで読んだ中では、ナボコフの『ディフェンス』(河出書房新社)が面白かった。面白かったというか、ただ圧倒された。「作中の登場人物をひたすら翻弄し、それを読ませることで読者のこともひたすら翻弄する作者」の存在が、これほどはっきり立ち上がってくる小説はあまりないと思う。
 来月末、新訳『ロリータ』が出る前にもういちど読み返したいのだが、今日のところは、さんざんページの端を折って線を引いた中から、もっとも鮮烈な一部分を引用するだけにする。
[…]彼女はとりたてて美人というほどでもなく、小作りの整った顔だちにはどこか欠けているものがあり、まるで美人になれる最後の決定的な一押しが――造作はそのままにしてそれを歴然と引き立たせてくれるような一押しが――、生まれつき与えられていなかったような具合だった。しかし二十五歳で、流行に合わせてショートカットにした髪もこざっぱりとして素敵だし、顔の角度によっては、一瞬申し分ない美貌に見えないわけでもなく、本物の美人にいま一歩でなりそこねた顔に見えることもある。身につけているのはごくあっさりした柄のごく上等のドレスで、腕と首が露出しており、まるで柔らかな肌をちょっぴり見せびらかしているように見えた。》p86

 「お前の好みは不可解だ」と罵られ続けて苦節10年、ここにすべてがある。何者だ、ナボコフ。
 いや、「読者を翻弄する」って、そういうことではないのだが。

2005/10/24

無反応

 部屋で夕飯食べたあとうたたねしていたら、ものすごい騒音で目が覚めた。
「フォンフォン」という音をずっと長く伸ばして大ボリュームにしたような感じ。9時過ぎなので工事をしているはずもなく、「なんだろうな」と不思議に思いながらフロに入っているあいだも爆音は続いた。「ほんと、なんなんだろうな、これ」。

 さっきネットにつないでわかったのは、駅前で火事があり、ばんばんヘリが飛んでいたということ。意表をつく答えなので驚いた。間近で下から聞くと、ヘリってあんな音がするのか。
 うちのあたりでは消防車のサイレンは聞こえなかったのでなおさら推測できなかったわけだが、今にして思うと、正体不明の大怪音が鳴り響く中、「なんだろうな、なんなんだろうな」といぶかしむだけでぼんやり湯船に浸かっていた自分の神経が、さりげなく不審である。身の回りが(ものすごく大げさに言えば)一種の異空間になっていたのに、何をどうしようとも思わなかったわけだから。好奇心とか危機意識とかないのか。ないんだろうな。

 私のことはともかく、死傷者は出なかったらしいのでまあよかった。
2005/10/23

(無)邪気

最後のコマでめためたにやられた悪役、みたいな。たぶんちがうのに。

 http://image.blog.livedoor.jp/warata2ki/imgs/7/1/71d29bb8.jpg
2005/10/22

『世界は何回も消滅する』続き


 次はマックス・アップルという作家のエッセイ。
《いまこうして文章を書いている人間は、生まれてこのかた、小エビもフィレ・ミニヨンもハム・サンドウィッチもポーク・チョップもロブスター・ニューバーグも食したことのない人間なのだ。いや、平凡で昔ながらのありふれたチーズバーガーさえ食したことがない。[…]野菜のショートニングでつくったグラハム・クラッカーはなかなか見つけにくいし、マシュマロは年に一度の御馳走で、過越しの祝いのときにニューヨークから届く。それは海草のゼラチンで固めてあって、とてもかちんかちんで海の匂いがぷんぷんだ。》


 どうしてこんなにも「偏食」なのかというと、この人はユダヤ人の家に生まれ、子どもの頃から「コーシャー(Koshes)」と呼ばれる食の決まりを守り続けているから、だそうだ。
 ミルクや乳製品には細かい分類がある。肉は、儀式にのっとって殺したものを塩漬けにして洗っていなければ不可。豚肉と甲殻類はダメ。臓物にも規則があるし、食器にもうるさい。魚と卵、野菜は可。ただし、サラダの中にハムでも入っていたら、それに触れた野菜はすべてタブーの側に落ちる。
《マイノリティもマイノリティな人間なのだ、わたしは。夕食にぜひ招いていただきたいが、みなさん、きっと気を悪くするな。「なんの御料理ですか?」とわたしが訊くとき、わたしは本気でその返事を待っているのだから。》

 当然、パーティーなんかに行っても食べられるものはほとんどないので、コーラと卵でしのぐことになる。ユダヤ人がみんなこうではなく、コーシャーに従う度合いにはいくつかレベルがあるらしい(ベジタリアンに似ている)。マックス・アップルは、最も厳格な遵守者であるようだが、筆致は「とほほ」な感じが基本になっていて、そこには、与えられた決まりを受け入れることで到達される余裕さえ見える気がする。
《たまらなくなってこれをやめたユダヤ人に優越感を覚えたことはないし、自分の食べたいものを食べるかれらや非ユダヤ人をうらやましいと思うこともない。意のままに食味を楽しむ自由には心を惹かれるが、しかし、サウジアラビアの豊かさもそうだが、そういうものはわたしとは縁がない。
 聖書の最高の言葉のひとつに、神自身による神の定義がある――「わたしはこういうわたしである」 わたしたちは、みんな、そうなのだ。》

 そういうもんかねと思いながら、これを読んでいるあいだ、私はドトールでミラノサンドのC(炭焼チキンとベーコンのバルサミコソース)を食べていた。おいしかった。





2005/10/20

『世界は何回も消滅する』続き


 ゲイル・ゴドウィン「かなしい女」は、めずらしく社会派かもしれない。家事と育児に生きてきたまだ若い妻(にして母)が、何不自由のないしあわせな生活の中でなぜか精神的にまいってしまう話で、1971年の発表。その気になれば都合よく時代なりなんなりを読み取れるのかもしれない。

 主人公は、とつぜん自分の子どもの目が灰色に見えるようになったり、わけもなく悲しくなってさめざめと泣いたり、泣きたいのに涙が流れなかったりして、部屋から出てこられなくなる。
《夫は服を脱がせて、羽毛ぶとんの下にフランネルのガウンを探した。彼女は素裸で、ブラだけが一本の肩紐で体の脇にぶら下がっていた。それを振り落とす元気もなかった。「たちまちのうちに眠れたらいいなあ」と言ってしゃっくりした。夫はガウンに彼女をくるむと、いったん部屋をでて、これなら効果てきめんだよ、と寝酒を持ってきた。》

 ありきたりに言えば“繊細にすぎる”、実際のところ“かなり面倒くさい”にちがいない女性の台詞として、「たちまちのうちに眠れたらいいなあ」はほとんど飛び道具である。日本語ネイティブの書いた日本語オリジナルの文章では、おそらく、こんな台詞は出てこない。翻訳しきれなかったぎこちない訳文のようで、自分のことを他人ごとのように見て漏らされた感想のようでもあり、その二重に距離のある感じが、短編全体を通して彼女を捕えている、現実からの乖離感覚みたいなものともうまく重なっている。
 ゲイル・ゴドウィンという作家の名前も、私はそのうち忘れてしまうだろうが、「たちまちのうちに眠れたらいいなあ」と発話する女性のでてくる短編があったことは、なかなか忘れないと思う。こんな台詞が、このようにわざわざ取り上げる真似は野暮であるように何気なく入っているあたりが、ほんとはいちばんすごい。だから「すごい」とか言っちゃいけなかったんだろうけど、もう書いてしまった。




2005/10/19

青山南編・訳『世界は何回も消滅する』(1990)

世界は何回も消滅する―同時代のアメリカ小説傑作集
筑摩書房

 アンソロジー。「同時代のアメリカ小説傑作集」ということで、主に70年代にデビューした作家が、それから10年くらいのあいだに書いた短編小説がほとんどを占める。あと数編のエッセイと、対談(フィリップ・ロス×ミラン・クンデラ!)。
 レイモンド・カーヴァーやコラゲッサン・ボイル、あとグレイス・ペイリー、ティム・オブライエンなど、そのご単独の本が青山南自身の手で、あるいは他の人によって翻訳刊行されている作家もいて、「村上春樹や柴田元幸が『面白い』と騒いで話題になる作家は、たいてい、何年も前に青山南がひっそり紹介している」の法則がまたも裏打ちされた。もちろん、はじめて見る名前もちらほらある。

 バリー・ハナ、という作家は、5年くらい前に出た『地獄のコウモリ軍団』なる馬鹿な短編集(でも新潮クレストブック)を読んだことがあるが、このアンソロジーにも作品が3編入っていて、どれも無茶苦茶。
「物食う妻と友人たち」という作品だと、いきなり、人びとは飢えている。説明はない。人がかんたんに人を殺し、また殺される。
《ひどい時代がほんとうに来ると、みんな家族を呼び集めて、たいがいは南部へ向かった。みんな、一族のなかでいちばん儲かってる奴のところへ、自分のささやかな財産を共同出資用にたずさえて、旅立った。おかげで離婚や対立はぐんと減った。土地持ちの親戚などいたら最高で、やあやあと顔を出すと、遊びしか知らない自分と家族を土地の番に立たせてくれと頼み、やわな手を出して土をつかんでながめた。
 お話にもならない無意味な殺人はもうない。殺人はどれも意味があって、食糧や水や種、あるいは汽車の切符が原因だ。》

 こんな文章に、別の言語で書かれた原文があって、それを書いた当人とは縁もゆかりもない赤の他人が、ただ「面白いから」というだけで自分の言葉に移し変え、その結果としてこれがここにこうある、みたいないきさつを思うと、なんだかつくづく「いいよなあ、それ」としみじみしてくる。こんな話なのに。
 いいのがあったらまた引用したい。

2005/10/15

文具船

 こないだの文房具の話を読んだ人からこういうものを教えてもらい、そうか、世の中には、というかあそこには、当然「文房具板」もあるんだなと覗いてみた。
 →速攻退出。いくらでも時間を潰せそうだった。危ない危ない。

 新製品をいろいろ試して最適の物をさがす探究心よりも、安物を延々使い続ける習性が勝っているおかげで泥沼化していない私であるが、ところでこれはどうだろう。「そんなにも角で消したい消費者がいる」というのが幻想じゃないかと思うのだが。

 さて、文房具にまつわる小説といえば、筒井康隆『虚航船団』があった。
 なぜか知らないが粛々と大宇宙を航行している船団のなかの一隻、乗組員がみんな文房具である「文具船」の構成を端から描写していき、ある惑星への攻撃指令が彼らに下されるまでの第一章と、その惑星の、ふしぎと地球に似た歴史(ただし住民はイタチ類)が縷々述べられる第二章、そして時間が飛び、文房具×イタチの終末戦争をふりかえる第三章からできた、壮大な叙事詩。正直「叙事詩」の意味をよく知らないが、いままた文庫本をめくってみて、筒井を読み始めてまもない高校生の時に、家に帰るバスのなかで最初のページを開いた瞬間がよみがえった。
《まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた。針のつけ根がゆるんでいたので完全な円は描けなかったが自分ではそれを完全な円だと信じ込んでいた。》

 この二行ですっかり固定された私のコンパス観は、最近になって、やはり友達に教えてもらった別の偏見でますます歪んだ。いま私の部屋にコンパスはない。
 ちなみに、『虚航船団』をSF作家でやる話を、筒井自身がどこかで書いていた。

《まず小松左京が登場する。彼は気が。アーッ、これはやめておこう。》

 みたいな感じだったと思うのだが、あらためて探してみると見つからない。どの本だったかわかる方がいらしたら教えていただきたい。


虚航船団
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筒井 康隆
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マニフェスト

《それで私は悟った。ポジティブ・シンキングが何だ。自分のようなもともとネガティブな人間が無理やりポジティブになろうとすれば、何の足しにもならないばかりか、無理がたたって健康を害し、早死にするのがオチである。自分にとって最も心地よいことをすれば脳内物質が出るというのなら、むしろ自分は思いきりいじけたり、くよくよしたり、ひがんだりするほうがいいのだ。
 いらい私は、心ゆくまでひがんだり、くよくよしたりすることに決め、あまつさえこれを一つの趣味にまで高めていったのである。[…]》「私の健康法」

 ――岸本佐知子『気になる部分』(白水社)
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