趣味は引用
文房具
 文房具好き、という人々がいる。確実にいる。
 そういう人間はすなわち文房具屋好きでもあるから、LOFTや東急ハンズに行こうものなら、本来の目的が低反発素材の枕や大きめのゴミ箱やパーティー用の付け鼻であっても、ふらふらと文房具売り場にさまよい出て、棚の品物をひとつずつ手に取り眺め続けて飽きることを知らない。結果、最初の2ページ以降は書き込みのないノート類や、似ているようで微妙に違うペンの数々、中身の入っていないバインダー、左利き用の鋏なんかが部屋にたまってくるという。コートを出すくらいの季節になればそわそわして落ち着かない。来年の手帳が店先に並ぶからだ。
阿部和重『グランド・フィナーレ』(2005)
グランド・フィナーレ
講談社

 文庫待ちのつもりだったのが古本屋にあったから買ってみた。
尾辻克彦『肌ざわり』(1980)
肌ざわり
河出文庫(2005)

《まだ固まったままの体でゆっくりとドアを押してゆっくりと外に出ると、胡桃子はドアにズックを引っかけたりしながら、
「お父さん、そんなに急がないでよッ」
 といいながら追いかけて来た。
「お父さん、わだかまっているのね」
「……」
「お父さん、何かいってよ」
「いや……、まいった……」
「そんなにおかしくないわよ」
「そんなに……」》「肌ざわり」

 父子家庭。設定はそれだけで、短篇が7つ。
 床屋に行って帰ってくるだけ、とか、天井裏を覗くだけ、とか、宅急便で届いた生牡蠣を冷蔵庫にしまうだけ、とか、そういった「だけ」の話が、観察と回想と考察によって小説に加工されている。つくづく不思議だ。湿っぽさなど1ミリもない。他の登場人物の、おそらくは陰惨というのが適切な過去を扱っても、ページには乾いた風が吹いている。
 小学生の娘“胡桃子”の造形や口調がときどきあまりに都合よすぎる気もしたが、台詞がツボにハマったときの爆発力にはすさまじいものがあった(彼女は『父が消えた』収録作のいくつかにも華々しく登場する)。
 でもそこは引用しない。以下は、自転車に乗って帰ってくるだけ、の話から、「私」の目に虫が入ってしまった部分。
《私は左目を開けられない。しっかりつぶった左目に皮を引張られて、右目まで少し細くなった。鼻の皮も左目に引張られて、その下にある唇が少し開いてしまう。顔全体が左目の方に吸い寄せられて、斜め上向きになって行く。
「まいった……」
 つぶった左目の、上の方がゴリゴリしている。だけど見えるのは、右の目に青い空だけ。それもたまらずにつぶってしまうと、左目に紫色の雲がひろがる。》「虫の墓場」

 初読時に「すごい」と驚き、再読時に「もしかして、なんてことないか?」と一瞬迷い、しかしすぐに「やっぱりすごい」と考え直したので引いてみた。この気持はもう変わらないと思う。
 この人の小説はもっと読みたい。ある限り読んでみたい。
尾辻克彦『父が消えた』(1981)
父が消えた―五つの短篇小説 (1981年)
文藝春秋

 赤瀬川原平の筆名であるところの尾辻克彦(ここらへん参照)、この人の小説を読みたかったのに読めなかった。何しろ手に入らなかった。古本屋でも見当たらなかった。
 それが半年くらい前に、近所の古道具屋(古本屋でさえない)でこの単行本版『父が消えた』を発見したのだった。

 短篇が5つ入っている。しかし感想は書くまいと思った。スジのない、視線と表現の面白さが魅力になっているタイプの作品で(柔らかい感情をへんに硬質な文体で描く)、感想の書きようがない気がしたからだった。
 とはいえこの「キッチンに入るな」は、私が気に入ったフレーズとか文章をただ引用して並べるために開いたメモ帳的スペースだったので、感想もなしに引用するのはむしろ趣旨にかなったふるまいなのだった。というか、いつもそうしてたじゃないか。
 なので表題作の冒頭から引用する。設定の説明もしない。その必要がない。
《三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけれど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある。
 私はいままで、この三鷹駅からは東京「行き」の電車にばかり乗っていたのだ。だけど今日は三鷹駅から東京「発」の電車に乗って、八王子の墓地へ行ってくるのだ。電車はいつもの三鷹駅の固まった風景を、もう一枚めくるように動き出した。いつも見慣れていたつもりの風景が、どんどんめくられて通り過ぎて行く。珍しいことである。電車というのは反対に向かうとじつにどんどんと動くのだ。この電車が動くという感じが嬉しくなってくる。》

 第2段落、「電車はいつもの」以降。極端な話、いや、真面目な話、こういう文章のために私は本を読んでいるんだと思う――などと結局感想を書いてしまったが、ほんとに言いたいのは、この『父が消えた』とその前作『肌ざわり』が、2ヶ月前に河出文庫から復刊されていたということだった。



父が消えた (河出文庫)父が消えた (河出文庫)
(2005/06/04)
尾辻 克彦

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「ジョジョの宅急便」
 ようやくジョジョの55巻を手に入れた私である。くたびれた。結局まんだらけで買った。
 それでなんとか63冊を読み終える。第5部完。もちろんこれから第6部(たしか17冊)、第7部(連載中)と続くわけだが、第1部以降、複雑化していく一方のラスボス戦は今後どうなるのか心配でもあり、2ヶ月前はまだ波紋で戦っていたかと思うと感慨深い。
 そんなわけで有意義な夏だった。いまはこれでも眺めてしばらく放心していたい。まだ200までしか読んでいないが、それくらいで充分な気もする。ニシンがパイ。
 http://www.geocities.jp/rapaz_q/jojo_takkyubin.html
感想を3つ
奥泉光『モーダルな事象』、『新・地底旅行』
町田康『告白』の感想を、忘れてしまう前に。
05/09/13
「ユリイカ」9月号、特集*水木しげるなんてものを読んでしまったばっかりに、うちにあったちくま文庫の鬼太郎なんかをめくっている。
05/09/11
「いまどこまで読んだんですか」
「41巻」
「だからそれはどこですか」
「ごめんなさい。第4部、仗助がバイクでハイウェイ・スターから逃げてるとこです」
「4部! 吉良いいですよね~」
「吉良が? じゃあ露伴は?」
「露伴!? 露伴キモイでしょ!?」
「吉良は!?」

 というわけでジョジョは続く。
05/09/09
 知り合いの某氏が「女性もぱんいちで生活するのか」というアンケートの結果をウェブ日記上で公開しており、心中穏やかでない日々が続いている。大事なものが音をたてて崩れていく気がする。早く秋になれ。
 それで思い出したのが、村上春樹のエッセイ集『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に載っていた一連の文章である。
青白い無題

 ナボコフのことで、引用と受け売りを少し。

 ナボコフに『青白い炎』という大作がある。下手な説明がここにあるが、要は、詩人ジョン・シェイドが書いた「青白い炎」なる長い詩に、学者チャールズ・キンボートが延々と注解を施した、という体裁の小説である。

 表紙から「ナボコフ」の名前を消せば、ぱっと見では本当の詩の注釈本として通用しかねないほど凝りに凝った作りなので、普通に読むだけでもたいへん面白いわけだが、ちくま文庫版についている訳者の解説によれば、原書の発表以来、「この詩と注解を書いたのは本当は誰なのか」をめぐる論争があるという。ナボコフの用意したゲームにのっかったうえで、さらに一歩を進めた議論であるわけで、こういうのは真面目にやればやるほど、素材である小説が充実していくかんじがする。

 世の熱心なナボコフ読者のあいだでは、「シェイドは実在しない。詩も含め、すべてがキンボートの創作」とする説と、「キンボートは実在しない。シェイドが自分の詩に自分で注をつけた」とする正反対の説があったらしい。文庫の解説で特に触れられていたのが、ブライアン・ボイドという学者(この人の名は若島正の本を読んでいてもたびたび出てくる)の解釈で、「最終的に語り手はシェイド一人に収斂していく」というものである。それはどうやらこの本なのだが、自分じゃ読めないから、もうちょっと詳しい内容を知りたいと思っていた。

 それが先日、柴田+沼野『200X年文学の旅』をめくっていると、当の研究書が話題になっていた。どうやらボイドさんは予想以上に過激である。
《ボイド自身はこれまで「シェイド派」の筆頭だったわけですが、この本で大々的な転向宣言をしています。すなわち――
(1)長詩「青白い炎」を書いたのは、シェイドである。
(2)「注解」を書いたのはキンボートであるが、キンボートの鈍感な感性では不可能なはずの繊細な発想や展開もそこには見られる。これは、シェイドの娘ヘイゼルの霊が、キンボートを助けているからである。
(3)そればかりか、詩の最後の一行を書く前に殺されたシェイド本人も、やがて霊となってキンボートを助けている。》pp51-2

 徹底的な読み込みと考察の果てにこのような説が導かれているそうで、上の紹介を書いている柴田元幸が続けて言うのには、『青白い炎』を注解したボイドの本じたいが、『青白い炎』のパロディのようにさえ見えてくるとのことである。ちょっと興奮してしまった。ボイドの「発見」した新説は、キンボートのゼンブラなのか。わたしの現在の下宿のすぐ前に、ひどく騒々しい遊園地がある。
 考えてみれば、設定上、作者がいて注釈者がいることになっているPale Fire を『青白い炎』として翻訳した際に、その日本語版『青白い炎』の読者にとって、それこそ設定上、訳者「富士川義之」は、「ジョン・シェイド」「チャールズ・キンボート」と同列の存在になってはいないか。

 連想と飛躍からなんとなく思い出したのは、「日本ではシェイクスピアの翻訳が何種類も出ていると聞いたイギリス人が、『私たちは一種類のシェイクスピアしか読めないのに』とうらやましがった」という話だが、私が言いたいのは、「イギリス人は本当に性格が悪いのではないか」ということではなくて、みんな『青白い炎』を読もう、ということである。


青白い炎 (ちくま文庫)青白い炎 (ちくま文庫)
(2003/11)
ウラジーミル ナボコフ

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200X年文学の旅200X年文学の旅
(2005/08/27)
柴田 元幸沼野 充義

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05/09/06
 私にとって、手を洗うというのは、石鹸で手を洗う、という意味である。水だけで洗ったところで汚れなんて落ちやしない、と固く信じている。台所の石鹸は毎日小さくなっていく。外から帰ってきたときであれば100%うがいもする。外出するときはハンカチ必須。
『恋愛小説の快楽』(1991)

角川文庫

 古本で買ったブックガイド。
 自称スーパーエディターの故・安原顯(合掌)が編集したシリーズの1冊らしく、「現代日本」とか「SF」とか「ノン・フィクション」といったもろもろのジャンルから、各担当者が「恋愛」を軸に50冊くらいの書名をあげて解説を加えている。計600冊、と表紙には書いてある。「アメリカ文学」担当は柴田元幸。

 14年前のこの時点であげていた作品のうち未訳だったいくつかを、柴田元幸はのちに自分で翻訳しており、そういえば、どこかで「80年代の後半に読んで面白かった小説を好き勝手に訳して90年代が過ぎた」みたいなことを書いていた。このセレクトにあたっては、最初に弁解していわく――
《アメリカ文学は恋愛不在の文学といわれている。もちろんこういう一般論は全面的にマルだともバツだとも言えないが、どちらかといえばマルに近いと僕も思う。他者と関わることよりも関わらないことを欲し、社会と対峙することよりも社会から降りてしまうことを志向する。そのようにして他者に背を向けた結果、ついには自己自身こそが最大の他者であることを思い知る――これもまたものすごい一般論だが、だいたいこんなところがアメリカ小説の基本的シナリオであるように思う。》

 お、見事にナルシス登場。そういうわけだからか、テーマとは関係なく好きな作品をつっこんでいる気配が濃厚なのは、たとえば甘美なる来世へなんかも無理やり紹介されているところに顕著だが、無理やりといえば最も無理やりなセレクトとして、トマス・ピンチョンV.まであがっている。
 柴田元幸は、まだ学生だった頃にこの長篇(むろん当時は未訳)を研究社の大英和辞典と首っぴきで読破した、とやはりどこかで書いていた。私も『V.』は好きだが、辞書どころか訳本と首っぴきじゃないと読めなかった。これが『重力の虹』にいたると、訳本と照らし合わせてもよく読めないという事態に陥るのだがそれはともかく。
《『V.』がラヴ・ロマンス? ふざけるな、と言われそうだが、実際ヴィクトリア・レンみたいに可憐な少女だって出てくるのだし、フェアリング神父とセクシーな雌鼠ヴェロニカとの恋愛物語もあるし、『V.』はVをイニシャルとする女性をめぐるロマンスに満ちているのだ、と主張することはいちおう不可能じゃないわけで、とまあそうは言ってもこういうケタ外れの小説はロマンス以外のあらゆるものにも満ちているわけだし、実際この小説が何でないのかを言うのがむつかしいくらいで、にもかかわらずVというのはやっぱりいわば世界の女性原理みたいなものをさし示すきわめて多義的な記号であって、女は魔物、魔物としての女あるいは世界といった主題がこの作品を貫いているのであり、とすれば男としての西洋近代文明と女としてのアモルファスな世界の総体とのラヴ・アフェアこそが『V.』の根源にあるわけであって、うーん……。》

 なんかまた『V.』が読みたくなってきた。
 もうひとつ気になったのは、スティーヴン・ミルハウザーの長篇Portrait of a Romantic である。これ、タイトル(『ある浪漫主義者の肖像』)だけは柴田元幸の紹介文の中でよく見かけるのだが、なぜか翻訳されていない。1977年と、古い作品だからか。でもそれだったら、『エドウィン・マルハウス』(3才で死んだ天才少年の生涯を、幼馴染みだった男の子が11才になってから書いた伝記)だって1972年だ。
《ロマンスといえるのは全体の三分の一だけなのだが、あまりに哀しい話なので選ばずにはいられなかった。暗い暗い少年と、暗い暗い少女。暗い暗い少女は学校へも行かず、厚いカーテンで閉め切った暗い暗い寝室から一歩も出ない。少年は毎日放課後に少女の部屋を訪れ、二人は人形遊びに興じ、戯れに死の儀式を演じ、ポーやスコットを語りあう。現実よりも幻想、生よりも死、覚醒よりも眠りにはるかに近い、あまりに暗く、甘美な世界。
 ところが! ある日突然、少女の部屋の窓が開け放たれ、明るい日光がさし込み、彼女はいつもの暗い暗い服装とはうって変わって、腕まくりした白いシャツにブルージーンズという格好……彼女は明るくなってしまったのだ! こんな哀しい恋の裏切りってあるだろうか?》

「あるだろうか?」じゃねえだろ、と言いたいが、それ以上に、読んでみたい。
そして私も叫ぶのだ、「彼女は明るくなってしまったのだ!」


恋愛小説の快楽―ブックガイド・ベスト600 (角川文庫)恋愛小説の快楽―ブックガイド・ベスト600 (角川文庫)
(1990/07)
ぼくらはカルチャー探偵団

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