2005/09/29

文房具

 文房具好き、という人々がいる。確実にいる。
 そういう人間はすなわち文房具屋好きでもあるから、LOFTや東急ハンズに行こうものなら、本来の目的が低反発素材の枕や大きめのゴミ箱やパーティー用の付け鼻であっても、ふらふらと文房具売り場にさまよい出て、棚の品物をひとつずつ手に取り眺め続けて飽きることを知らない。結果、最初の2ページ以降は書き込みのないノート類や、似ているようで微妙に違うペンの数々、中身の入っていないバインダー、左利き用の鋏なんかが部屋にたまってくるという。コートを出すくらいの季節になればそわそわして落ち着かない。来年の手帳が店先に並ぶからだ。

 あるいは、ほんとの文房具好きは大型雑貨店の文房具売り場なんかは軽蔑しており、お気に入りのショップに通っているのかもしれない。こじんまりとしているだろうそういう店の大半は輸入製品だと思われる。本国では子供向けの安物が妙な高値で置いてあるような。店内の照明は蛍光灯ではなく傘の付いた電球だ。文房具屋であるのにシャーペンの替芯など置いていない。燃やせ。いやなんでもない。
 私の知り合いの文房具好きは、高校の頃から、ステッドラーの製図用ペンを一途に使っているらしい。緻密な図を書くはずのペンで授業のノートをとっていた。落書きの線さえ均一だったことだろう。見せてもらったそのペンは、先端が冗談みたいに細い代物で、人に頼まれ断れなくて貸してしまうと、多くの場合「折られて返ってくる、しかも“使いにくい”と文句言われる」から、悲しい思いで同じ物を買い直すという。
 かくいう私にもそういった人々に通じる血がいくらか流れているのは、こんな本に大喜びすることからいっても明らかだが、文房具へのこだわりも知識も特にない。鉛筆の芯で、FとHBだとどちらの方が固いか、しょっちゅう忘れてしまうくらいだ。唯一、ボールペンだけはこれのブルーブラックを買いだめして順に使っているが、たぶん、製図用ペンを1本買うお金で20本は買えると思う。

 ――というようなことを書いてきたのは、「雑貨飯店」というサイトにあった「文房具の冒険1994-1997」が面白かったからだった。スタンプローラーって、それは文房具なのか。
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2005/09/27

阿部和重『グランド・フィナーレ』(2005)

グランド・フィナーレ
講談社

 文庫待ちのつもりだったのが古本屋にあったから買ってみた。

 阿部和重の小説の文章は、読んでいて、つくづく、その小説のために用意された文章でしかないと感じられる。そこが心地いい。饒舌は饒舌でも、それは書き手の「本心」とか「これだけはいいたいこと」から出てきていない。そういったものを隠すためにこそ饒舌があふれてくる、というのでもない。語り手の饒舌を逆向きにたどっても、書き手の「本心」なんかには行きつかないように作られている。そもそも、そんなものがない状態から組み立てられている。たぶん。
(わーっとした一人称で小説を書く人はほかにもたくさんいるが、そういうのはたいてい、読んでいて、「これを書いている人間は、まちがいなく、書くよりも先に何か伝えたいことがあって、湧きあがってきちゃったり熱かったりするその何かに衝き動かされてキーボードを叩いているんだろうな」と思わされてしまうことが多い。なぜだか、私はそういうのが苦手だ。文章意識のあるなしとか、推敲の程度とは別の問題だと思う)

「グランド・フィナーレ」の主人公、ロリコンが妻にばれ、離婚訴訟に惨敗して何もかも失った中年の語り手が、二度と会えない8歳の愛娘に向けて吐き出す独白は、かなりおかしなことになっている。
《ちーちゃんよ、果たしてこれは君が望んだことなのだろうか。
 今日は折角の君のお誕生日だというのに、ひどい土砂降りになっちまったじゃないか。
 ほんのり甘酸っぱい、レモン風味のドロップみたいな味がする雨粒が降り注いでいるのならば、お菓子の精の祝福を受けたちーちゃんのバースデーにふさわしい好現象と言えるかもしれないけれども、実際のところは、こいつはどうやら例によって、硫黄酸化物やら窒素酸化物やらが混じった単なる酸性雨でしかないようだぞ。あるいは彩り豊かな包み紙で包装された大小さまざまな贈り物や大粒の苺をたっぷり添えたケーキに囲まれて君が今、沢山の友人たちといっしょに賑やかに過ごしている、ママの実家のリビングでは、汚染物質を含んだ冷たい白金色の水滴のシャワーなんかではなく、七色の金平糖とかラズベリーを象ったグミキャンディーだとかが雪片みたいにぱらぱらと派手に舞い落ちているとでもいうのかい。そんなところにいて君は、背中に生えた特大な蝶々の羽を駆使して友だちの間を自在に飛び回りながら、多種多様な砂糖菓子の味覚に酔い痴れていたりもするのかな。》P28

「一生懸命訴えているが、異常性愛者だけに、方向が狂っている」というのではなくて、根本的な組み立てが変である。それなりに切実なシチュエーションでの独白を、長々と、しかしまったく感動なり共感なりを呼び起こさないように、即物的というか、言葉の連鎖だけでつらつら書いて済ませてしまえるのを、私は阿部和重の才能と呼びたいが、なんだかまた読み方を間違えているような気もする。

 2部構成になっているこの小説の第1部を終わらせるのは、ある登場人物から発される長い台詞なのだが、そこだけ取り出せば非常に道徳的で正しいものに見えるだろうその主張(語り手への断罪)も、この小説の中では、死体同然の彼を鞭打って東京から追い出すため周到に練られたフレーズである以外に意味を持たないと思う。第2部では、田舎に引っ込んだ語り手が、児童劇の指導をすることになって美少女2人組に出遭ってしまう。先の台詞があるために、語り手は「ほかにどうしようもない」流れのもと、蝶が標本にされるように追い詰められていく。

 作りものくささ。私が小説に求めるいちばんの要素はどうやらそれらしい。なんでだ。「小説を書く人間」は、どこまでも計算高く、なによりも、悪辣な人種であってほしいと考えているからかもしれない。
2005/09/26

尾辻克彦『肌ざわり』(1980)

肌ざわり
河出文庫(2005)

《まだ固まったままの体でゆっくりとドアを押してゆっくりと外に出ると、胡桃子はドアにズックを引っかけたりしながら、
「お父さん、そんなに急がないでよッ」
 といいながら追いかけて来た。
「お父さん、わだかまっているのね」
「……」
「お父さん、何かいってよ」
「いや……、まいった……」
「そんなにおかしくないわよ」
「そんなに……」》「肌ざわり」

 父子家庭。設定はそれだけで、短篇が7つ。
 床屋に行って帰ってくるだけ、とか、天井裏を覗くだけ、とか、宅急便で届いた生牡蠣を冷蔵庫にしまうだけ、とか、そういった「だけ」の話が、観察と回想と考察によって小説に加工されている。つくづく不思議だ。湿っぽさなど1ミリもない。他の登場人物の、おそらくは陰惨というのが適切な過去を扱っても、ページには乾いた風が吹いている。
 小学生の娘“胡桃子”の造形や口調がときどきあまりに都合よすぎる気もしたが、台詞がツボにハマったときの爆発力にはすさまじいものがあった(彼女は『父が消えた』収録作のいくつかにも華々しく登場する)。
 でもそこは引用しない。以下は、自転車に乗って帰ってくるだけ、の話から、「私」の目に虫が入ってしまった部分。
《私は左目を開けられない。しっかりつぶった左目に皮を引張られて、右目まで少し細くなった。鼻の皮も左目に引張られて、その下にある唇が少し開いてしまう。顔全体が左目の方に吸い寄せられて、斜め上向きになって行く。
「まいった……」
 つぶった左目の、上の方がゴリゴリしている。だけど見えるのは、右の目に青い空だけ。それもたまらずにつぶってしまうと、左目に紫色の雲がひろがる。》「虫の墓場」

 初読時に「すごい」と驚き、再読時に「もしかして、なんてことないか?」と一瞬迷い、しかしすぐに「やっぱりすごい」と考え直したので引いてみた。この気持はもう変わらないと思う。
 この人の小説はもっと読みたい。ある限り読んでみたい。
2005/09/25

尾辻克彦『父が消えた』(1981)

父が消えた―五つの短篇小説 (1981年)
文藝春秋

 赤瀬川原平の筆名であるところの尾辻克彦(ここらへん参照)、この人の小説を読みたかったのに読めなかった。何しろ手に入らなかった。古本屋でも見当たらなかった。
 それが半年くらい前に、近所の古道具屋(古本屋でさえない)でこの単行本版『父が消えた』を発見したのだった。

 短篇が5つ入っている。しかし感想は書くまいと思った。スジのない、視線と表現の面白さが魅力になっているタイプの作品で(柔らかい感情をへんに硬質な文体で描く)、感想の書きようがない気がしたからだった。
 とはいえこの「キッチンに入るな」は、私が気に入ったフレーズとか文章をただ引用して並べるために開いたメモ帳的スペースだったので、感想もなしに引用するのはむしろ趣旨にかなったふるまいなのだった。というか、いつもそうしてたじゃないか。
 なので表題作の冒頭から引用する。設定の説明もしない。その必要がない。
《三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけれど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある。
 私はいままで、この三鷹駅からは東京「行き」の電車にばかり乗っていたのだ。だけど今日は三鷹駅から東京「発」の電車に乗って、八王子の墓地へ行ってくるのだ。電車はいつもの三鷹駅の固まった風景を、もう一枚めくるように動き出した。いつも見慣れていたつもりの風景が、どんどんめくられて通り過ぎて行く。珍しいことである。電車というのは反対に向かうとじつにどんどんと動くのだ。この電車が動くという感じが嬉しくなってくる。》

 第2段落、「電車はいつもの」以降。極端な話、いや、真面目な話、こういう文章のために私は本を読んでいるんだと思う――などと結局感想を書いてしまったが、ほんとに言いたいのは、この『父が消えた』とその前作『肌ざわり』が、2ヶ月前に河出文庫から復刊されていたということだった。



父が消えた (河出文庫)父が消えた (河出文庫)
(2005/06/04)
尾辻 克彦

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2005/09/24

「ジョジョの宅急便」

 ようやくジョジョの55巻を手に入れた私である。くたびれた。結局まんだらけで買った。
 それでなんとか63冊を読み終える。第5部完。もちろんこれから第6部(たしか17冊)、第7部(連載中)と続くわけだが、第1部以降、複雑化していく一方のラスボス戦は今後どうなるのか心配でもあり、2ヶ月前はまだ波紋で戦っていたかと思うと感慨深い。
 そんなわけで有意義な夏だった。いまはこれでも眺めてしばらく放心していたい。まだ200までしか読んでいないが、それくらいで充分な気もする。ニシンがパイ。
 http://www.geocities.jp/rapaz_q/jojo_takkyubin.html
2005/09/22

感想を3つ

奥泉光『モーダルな事象』、『新・地底旅行』
町田康『告白』の感想を、忘れてしまう前に。

奥泉光『モーダルな事象』(文藝春秋、2005)
 1ヵ月以上前に感想を書くつもりだったのを思い出した。最後まで一気読みして満足、楽しめた。中盤からはトラベルミステリー(よく知らないけど)の風情もあり、いっそうどんどん読めて、そこが快感。誰にでも勧められる気がする。『文芸漫談』の十全なる実践編がこれだと言われたらいとうせいこうは怒るべきだと思うが、奥泉光は「謎が解決しない話」と「解決する話」を交互に書くとちょうどいいのではないか。読んでいなかった旧作も読むことにする。

奥泉光『新・地底旅行』(朝日新聞社、2004)
 それで読んでみた旧作ながら、こちらは「奥泉は全部読む」と志した人以外には勧められない。とにかく単調。『プラトン学園』『坊ちゃん忍者幕末見聞録』に続く、奥泉の新聞連載小説第3作だが、これらはどれも読み通すのがつらい。新聞連載とは相性が悪いのだろうか。それとも、新聞小説だからこうならざるをえないのか。

町田康『告白』(中央公論新社、2005)
 ところが、同じ新聞連載ながら、こちらは心底面白かった。全680ページ中の、うしろ260ページは書き下ろしだけど。
 明治の中頃に大量殺人を犯した男の生涯を、そこに至るまで、幼少期から語る。えんえんと語る。「自分の考えていること」と「口から出る言葉」のギャップに苦しみ続けた男の生涯を語り尽くすにあたって、町田康もまた、言葉のギャップを道具にする。「主人公の言動を伝える言葉」と「それを観察する評言」、というところですでに言葉は二重底になっているわけだが、その両方を「当時のものっぽい言葉」と「明らかに現代の言葉」のギャップでねじり、屈折させる。
 後半にいたっても文章のたくましさは変わらないものの、「ごちゃごちゃな感じ」が薄れていくのは、クライマックスへ向け筋立てがまとめられていくのからいっても仕方ないのかもしれないが、なんか惜しい、という印象。私が読み方を間違ったのかもしれない。
《明治五年の秋、熊太郎のフェイクが露見しそうになったことがあった。》P20



モーダルな事象
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2005/09/13

05/09/13

「ユリイカ」9月号、特集*水木しげるなんてものを読んでしまったばっかりに、うちにあったちくま文庫の鬼太郎なんかをめくっている。

 しかしそんなミーハーであっても、古い漫画からこちらが勝手に読み取りがちな「しみじみ具合」を欠片も感じることができない。少なくとも読んでいるあいだは。どういうわけかと思う。鬼太郎の方が圧倒的に強いからことなきをえているだけで、ねずみ男、あれは毎回本気で鬼太郎を殺りにいっている。
 いま鬼太郎を読んで、30年だか40年だか前の初出のときに読んだ子供はおそらく笑わなかっただろうところのあちこちに私は笑うが、それは、時間がたったせいで作品のあり方がズレてきて、ギャグじゃないところもギャグに見えるから笑う、というのではない気がする。作品じたいは動かないというか、動く余地がない。話の展開もキャラの言動も、過度に即物的だからじゃないかと思う。悲観的でも否定的でもなく、ただ殺伐とした世界。
「猫娘とねずみ男」という短編では、例によって人間をだまし金を奪うねずみ男を鬼太郎がこらしめようとする。
鬼太郎はさっそくねずみ男のところへいった
道ばたに苦しんでいる者や死んでいる者さえいた

 鬼太郎は思う。
「相当あくらつなことをしているな」

 そのように落ち着き払った鬼太郎が本気で怒るのは、ねずみ男が巻きあげた金でたてた新居を見てからである。「さえいた」のはどうした。
「天邪鬼」という短編だと、「特攻隊でふたりのむすこを失い そのうえ空襲で妻をなくしてひとりぼっちになってしまった」じいさんが妖怪と組んで悪さをするのだが、最後のナレーションはこうである。
じいさんにいろいろ事情を聞いてみると
もとは善良なおじいさんだったということがわかった
国がひねくれさせていたのだ
鬼太郎はさっそく役所の人に事情を話し
りっぱな家をたててもらった
すると じいさんはもとの善良なおじいさんにかえったという……

「さら小僧」に出てくる妖怪さら小僧は、太った河童に似た姿ながらたいへん強かった。鬼太郎は珍しくねずみ男の協力を得て辛勝、子供に感謝されて去る。鬼太郎をたたえる「ゲゲゲの歌」が、林の中にこだました……
ね「苦戦だったなあ」
鬼「人生はどこまでも苦戦だよ」


 ゲッゲッ ゲゲのゲー。



ゲゲゲの鬼太郎 (1)
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2005/09/11

05/09/11

「いまどこまで読んだんですか」
「41巻」
「だからそれはどこですか」
「ごめんなさい。第4部、仗助がバイクでハイウェイ・スターから逃げてるとこです」
「4部! 吉良いいですよね~」
「吉良が? じゃあ露伴は?」
「露伴!? 露伴キモイでしょ!?」
「吉良は!?」

 というわけでジョジョは続く。

 ネットをちらちら見ても、ジョジョ読者である友達何人かに聞いても、「4部はちょっと」「4部で読むのを止めた」派が多かったが(上のは特殊例である)、なんだか私にはえらく面白かった。「町」が舞台で地図があるだけで心躍る単純さのせいかもしれない。登場人物はもとより、伏線が死屍累々だが、現実の町だってそんなものだろう。
 しかし漫画の内容以前にたいへんだったのは、42巻がなかなか見つからなかったことである。

 2ヶ月前に私が読み始めたきっかけは、前にも書いたが「全巻揃っていたブックスーパーいとう」である。とくに30巻を越えるくらいまでは、各巻が2冊ずつ置いてあった。同じ巻を2冊、ときには3冊見比べて、きれいな方を買う「選択の余地」さえ私にはあった(×5巻/週)。
 それが8月のあたまごろ、店頭で、すでに自分の持っているはじめの方の巻がなくなっているのに気がついた。次の週に行けば、さらに続きの巻がなくなっている。ほかの誰かが、私にやや遅れて、同じようにジョジョを集めはじめたのにちがいない。「追われている」。棚の前で、地響きのようなあの擬音が聞こえた。
 タイミングが悪かった。承太郎×DIO戦の興奮も冷めないうちに私は帰省しなくてはならず、翌週、帰京した日に訪れた「いとう」で私が見たのは、まさにこれから買おうとしていた30巻以降が、きれいになくなった棚だった。「抜かれた」。在庫が豊富にあったはじめの方とちがい、そのあたりからは1冊ずつしか置いてなかったのである。「ほかの誰か」が財力に任せて一気に買い集めていった(←想像)あとに補充はなかった。こんなにあからさまな「負け」があるだろうか。

 以来、何軒のブックオフ、「いとう」、その他を回っただろう。原宿のブックオフは立地に意味がなかった。三鷹の「いとう」はなぜか値段が高かった。中野のまんだらけでは、私と同様、「必要な巻」のリストを手にジョジョの棚を漁る女子2人組にも遭遇した。「ないよ~」と騒いでいた。やはり後半は揃えにくいらしい。ジョジョはどこにでもあるのに、42巻はどこにもなかった。
(前回ジョジョについて書いたのはこのときで、あれはつまり、憂さ晴らしである)
 残暑の下であんまりぐるぐるしたからか、ようやく42巻を手に入れたのがどこの店だったのかはっきり思い出せなくなっているのは、自分のことならたいてい覚えているつもりの私にしては珍しい。渋谷だったか、荻窪だったか。その巻を探しながら、こんな思いを繰り返したくない一心で、もっと先の方の巻も見つけた順にチェックして、「どこの店には何巻がある」メモを作った。当然、後日行ってみると目当ての巻は売れていたりもしたわけだが。

 結果、今日に至るまでに、第5部完結までの全63巻中、55巻1冊をのぞく62冊をなんとか手元に集めた。47巻をもって第4部が終わり、第5部に入ったというのに、読むのは54巻で一時停止を余儀なくされている。
 55巻。55巻だけが見つからない。42巻以上の難敵である。ここまで全部古本で揃えてきたのに、1冊だけ新本で買ってしまっては、最初の「いとう」で私を追い抜いた「誰か」にまた笑われる。2敗目は避けたい。それとも、いいかげん荒木飛呂彦に印税を払えということか。古本でも新本でも、あるいは文庫版でも、揃えばよかろうなのか。
 いまや私は「55巻は欠番じゃないのか」と疑うまでに追いつめられている。


 大人になってからかかった水疱瘡は治りにくい、という話を、ここまで書いてきた分を読んで思った。この日記はなんだ。カルテか。



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2005/09/09

05/09/09

 知り合いの某氏が「女性もぱんいちで生活するのか」というアンケートの結果をウェブ日記上で公開しており、心中穏やかでない日々が続いている。大事なものが音をたてて崩れていく気がする。早く秋になれ。
 それで思い出したのが、村上春樹のエッセイ集『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』に載っていた一連の文章である。

 村上春樹がアメリカに住んでいたときの話。アメリカの新聞にも日本と同様、「人生相談」のページがあるが、内容は日本とずいぶん差がある。
 わけがわからなかったのは、ある主婦からの投書で、「自分はいつも全裸で家事をしているのだが、あるとき裏口から入り込んだ男にレイプされてしまい、大きな精神的ショックを受けた。どうすればいいか?」というもの。
 回答者は「たしかに気の毒だが、何も裸で家事をしなくてもいいのではないか」と答え、村上春樹もそれは正論だと思った。
《しかし物事はそんなに簡単には終わらない。数日後に、その回答に対する抗議の手紙が全米の主婦から数多く寄せられたのである。大半は「自分だって彼女と同じように全裸で家事をしている。開放的で気持ちがいいからだ。そんな当然の権利をおとしめたり、奪ったりする権利は誰にもない」というものだった。でもねえ、いくら気持ちがいいからといって、いくら開放的だからといって、全裸でるんるんと家事をする主婦が世の中にかくも多く存在していいものなのか。いったいどういう国なんだ、ここは。》

 このエッセイが連載されていたのは10年前の「週刊朝日」で、上の文章はこう結ばれる。
《ところで「私もよく全裸で家事をしている」という主婦の方が日本にもいらっしゃいましたら、「全裸家事主婦問題」を国際的にしつこく真面目に追求している村上まで是非ご一報ください。半裸でも、まあいいです。》
 そして数週間後。「私も全裸(半裸)で家事をしている」という投書が、「週刊朝日」編集部にどっと寄せられたのである。村上は言う。
《知らない私が馬鹿だったです。》

 エッセイでは続けて、「新婚2ヶ月の若妻」から「63歳、開腹手術の跡のある主婦」まで、投書の内容が生々しく紹介されている。なぜか夫がいるときはできないとか、普段は堅い仕事をしているのでストレス解消になるとか。早く秋になれ。

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか
2005/09/07

青白い無題


 ナボコフのことで、引用と受け売りを少し。

 ナボコフに『青白い炎』という大作がある。下手な説明がここにあるが、要は、詩人ジョン・シェイドが書いた「青白い炎」なる長い詩に、学者チャールズ・キンボートが延々と注解を施した、という体裁の小説である。

 表紙から「ナボコフ」の名前を消せば、ぱっと見では本当の詩の注釈本として通用しかねないほど凝りに凝った作りなので、普通に読むだけでもたいへん面白いわけだが、ちくま文庫版についている訳者の解説によれば、原書の発表以来、「この詩と注解を書いたのは本当は誰なのか」をめぐる論争があるという。ナボコフの用意したゲームにのっかったうえで、さらに一歩を進めた議論であるわけで、こういうのは真面目にやればやるほど、素材である小説が充実していくかんじがする。

 世の熱心なナボコフ読者のあいだでは、「シェイドは実在しない。詩も含め、すべてがキンボートの創作」とする説と、「キンボートは実在しない。シェイドが自分の詩に自分で注をつけた」とする正反対の説があったらしい。文庫の解説で特に触れられていたのが、ブライアン・ボイドという学者(この人の名は若島正の本を読んでいてもたびたび出てくる)の解釈で、「最終的に語り手はシェイド一人に収斂していく」というものである。それはどうやらこの本なのだが、自分じゃ読めないから、もうちょっと詳しい内容を知りたいと思っていた。

 それが先日、柴田+沼野『200X年文学の旅』をめくっていると、当の研究書が話題になっていた。どうやらボイドさんは予想以上に過激である。
《ボイド自身はこれまで「シェイド派」の筆頭だったわけですが、この本で大々的な転向宣言をしています。すなわち――
(1)長詩「青白い炎」を書いたのは、シェイドである。
(2)「注解」を書いたのはキンボートであるが、キンボートの鈍感な感性では不可能なはずの繊細な発想や展開もそこには見られる。これは、シェイドの娘ヘイゼルの霊が、キンボートを助けているからである。
(3)そればかりか、詩の最後の一行を書く前に殺されたシェイド本人も、やがて霊となってキンボートを助けている。》pp51-2

 徹底的な読み込みと考察の果てにこのような説が導かれているそうで、上の紹介を書いている柴田元幸が続けて言うのには、『青白い炎』を注解したボイドの本じたいが、『青白い炎』のパロディのようにさえ見えてくるとのことである。ちょっと興奮してしまった。ボイドの「発見」した新説は、キンボートのゼンブラなのか。わたしの現在の下宿のすぐ前に、ひどく騒々しい遊園地がある。
 考えてみれば、設定上、作者がいて注釈者がいることになっているPale Fire を『青白い炎』として翻訳した際に、その日本語版『青白い炎』の読者にとって、それこそ設定上、訳者「富士川義之」は、「ジョン・シェイド」「チャールズ・キンボート」と同列の存在になってはいないか。

 連想と飛躍からなんとなく思い出したのは、「日本ではシェイクスピアの翻訳が何種類も出ていると聞いたイギリス人が、『私たちは一種類のシェイクスピアしか読めないのに』とうらやましがった」という話だが、私が言いたいのは、「イギリス人は本当に性格が悪いのではないか」ということではなくて、みんな『青白い炎』を読もう、ということである。


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200X年文学の旅200X年文学の旅
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2005/09/06

05/09/06

 私にとって、手を洗うというのは、石鹸で手を洗う、という意味である。水だけで洗ったところで汚れなんて落ちやしない、と固く信じている。台所の石鹸は毎日小さくなっていく。外から帰ってきたときであれば100%うがいもする。外出するときはハンカチ必須。

 そんな自分は異常なのかもしれないと思わされるのは、男性用トイレの洗面所で、たいていの成人男性が、ちょちょっと手を濡らしただけで「洗った」ことにしているのを見るときである。その手をぱたぱた振っておしまい。ハンカチまで持っている人はとてもとても少ない。注意して見ていると、センサー式の蛇口の下に手を入れて、水が出る前に両手をこするだけで済ませる人もいる。それは何も済んでいない。
 注意して見るまでしておいて何だが、私がそういう人たちを「汚い」と考えているかというと、別にそんなことはない。ただ、自分の手についてだけは、石鹸で洗わないと落ち着かないのである。

 何もとくべつ手が汚れる仕方でトイレを使っているわけではないのだから(その点は信じてほしいと思う)、少なくとも手を洗う局面においては、私は軽い潔癖症に分類されるのだろう。洗面所を出ればそんなことはないのだが、私みたいに、はじめから石鹸のないのがわかっている駅のトイレに入るのには抵抗を覚えたり、高田馬場・早稲田通りのエクセルシオールカフェ2階トイレの液体石鹸タンクがいつになったら補充されるのか気にしている人間はめずらしいに違いなく、だからこそ、あそこはこの4年間ずっと空なのだろう。なんというか、液体石鹸がないのはよくて、使い捨ての便座シートとか洗浄スプレーがないのを不潔とするのは偽善者だ。片手落ちだ。他人だけが汚いと思っている。
 ――以上、これを読んでの連想。

・三浦しをん「しをんのしおり」#338 頼むから手は洗ってください
 http://www.boiledeggs.com/siori/siori338.html (リンク切れ)
2005/09/03

『恋愛小説の快楽』(1991)


角川文庫

 古本で買ったブックガイド。
 自称スーパーエディターの故・安原顯(合掌)が編集したシリーズの1冊らしく、「現代日本」とか「SF」とか「ノン・フィクション」といったもろもろのジャンルから、各担当者が「恋愛」を軸に50冊くらいの書名をあげて解説を加えている。計600冊、と表紙には書いてある。「アメリカ文学」担当は柴田元幸。

 14年前のこの時点であげていた作品のうち未訳だったいくつかを、柴田元幸はのちに自分で翻訳しており、そういえば、どこかで「80年代の後半に読んで面白かった小説を好き勝手に訳して90年代が過ぎた」みたいなことを書いていた。このセレクトにあたっては、最初に弁解していわく――
《アメリカ文学は恋愛不在の文学といわれている。もちろんこういう一般論は全面的にマルだともバツだとも言えないが、どちらかといえばマルに近いと僕も思う。他者と関わることよりも関わらないことを欲し、社会と対峙することよりも社会から降りてしまうことを志向する。そのようにして他者に背を向けた結果、ついには自己自身こそが最大の他者であることを思い知る――これもまたものすごい一般論だが、だいたいこんなところがアメリカ小説の基本的シナリオであるように思う。》

 お、見事にナルシス登場。そういうわけだからか、テーマとは関係なく好きな作品をつっこんでいる気配が濃厚なのは、たとえば甘美なる来世へなんかも無理やり紹介されているところに顕著だが、無理やりといえば最も無理やりなセレクトとして、トマス・ピンチョンV.まであがっている。
 柴田元幸は、まだ学生だった頃にこの長篇(むろん当時は未訳)を研究社の大英和辞典と首っぴきで読破した、とやはりどこかで書いていた。私も『V.』は好きだが、辞書どころか訳本と首っぴきじゃないと読めなかった。これが『重力の虹』にいたると、訳本と照らし合わせてもよく読めないという事態に陥るのだがそれはともかく。
《『V.』がラヴ・ロマンス? ふざけるな、と言われそうだが、実際ヴィクトリア・レンみたいに可憐な少女だって出てくるのだし、フェアリング神父とセクシーな雌鼠ヴェロニカとの恋愛物語もあるし、『V.』はVをイニシャルとする女性をめぐるロマンスに満ちているのだ、と主張することはいちおう不可能じゃないわけで、とまあそうは言ってもこういうケタ外れの小説はロマンス以外のあらゆるものにも満ちているわけだし、実際この小説が何でないのかを言うのがむつかしいくらいで、にもかかわらずVというのはやっぱりいわば世界の女性原理みたいなものをさし示すきわめて多義的な記号であって、女は魔物、魔物としての女あるいは世界といった主題がこの作品を貫いているのであり、とすれば男としての西洋近代文明と女としてのアモルファスな世界の総体とのラヴ・アフェアこそが『V.』の根源にあるわけであって、うーん……。》

 なんかまた『V.』が読みたくなってきた。
 もうひとつ気になったのは、スティーヴン・ミルハウザーの長篇Portrait of a Romantic である。これ、タイトル(『ある浪漫主義者の肖像』)だけは柴田元幸の紹介文の中でよく見かけるのだが、なぜか翻訳されていない。1977年と、古い作品だからか。でもそれだったら、『エドウィン・マルハウス』(3才で死んだ天才少年の生涯を、幼馴染みだった男の子が11才になってから書いた伝記)だって1972年だ。
《ロマンスといえるのは全体の三分の一だけなのだが、あまりに哀しい話なので選ばずにはいられなかった。暗い暗い少年と、暗い暗い少女。暗い暗い少女は学校へも行かず、厚いカーテンで閉め切った暗い暗い寝室から一歩も出ない。少年は毎日放課後に少女の部屋を訪れ、二人は人形遊びに興じ、戯れに死の儀式を演じ、ポーやスコットを語りあう。現実よりも幻想、生よりも死、覚醒よりも眠りにはるかに近い、あまりに暗く、甘美な世界。
 ところが! ある日突然、少女の部屋の窓が開け放たれ、明るい日光がさし込み、彼女はいつもの暗い暗い服装とはうって変わって、腕まくりした白いシャツにブルージーンズという格好……彼女は明るくなってしまったのだ! こんな哀しい恋の裏切りってあるだろうか?》

「あるだろうか?」じゃねえだろ、と言いたいが、それ以上に、読んでみたい。
そして私も叫ぶのだ、「彼女は明るくなってしまったのだ!」


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