趣味は引用
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柴田元幸+沼野充義トークショウ@ABC
 青山ブックセンターで「柴田元幸+沼野充義トークショウ」を見物する。『200X年文学の旅』(作品社)刊行記念。
05/08/28

 カユい話を始めたい。

 7月からこっち、週に5冊ずつ「ジョジョ」を読んでいる。ようやく40巻まできたところ(第4部前半)。飲み会の席でうっかり「最近ジョジョ読んでるんですよ」と口にしてみたら、ある人は突然「アリーデヴェルチ!」と言ってきたのだが、ごめんなさい、まだそこまでいっていないようです。
保坂和志『この人の閾』(1995)
この人の閾
新潮文庫(1998)

 37歳になる「ぼく」が、出先で時間をつぶすために大学で先輩だった「真紀さん」の家を訪れる。10年ぶりぐらいに再会した2人が一緒に缶ビールを飲んだり庭の草むしりをしながら結局は何をするのかというと、つまり、会話する。共通の知人の近況をやりとりし、変わったこと・変わらないことに思いをめぐらせ、時間の流れについて考え、喋る。主婦である「真紀さん」の子供が学校から帰ってきてまた出て行く。夏の午後が傾く。

 この小説に対し、「2人のあいだに何も起きないのはおかしい」という評が出たそうで、そういう人はこのように平凡な現実を引き写しただけの文章は小説ではないと考えたのかもしれないが、それは二重に間違っている。
「小説なら何か(というか、不倫)が起きるべき」というのは短見だ、とは保坂和志自身が『小説の自由』で詳しく述べていることで、ここにあるのは「淡々としたリアリズム」でもない。なんとなれば、人はこの作品のようにそれなりに凝縮された思索を短い時間で効率よくやりとりできるはずがないからで、それはこの短篇集に入っているほかの3作にも共通する「異様さ」だ。
 ここでは何かの考えを展開するために小説という形式が使われており、むしろそういうことをする容れ物・実践の場こそが小説だと保坂和志は考えているだろう。だろう、どころか、こちらについても当人が『小説の自由』で繰り返し書いていた。
 私の書くことがなくなってしまったので(それもどうかと思うが)引用する。
 年に150本以上の映画をレンタルビデオで見ている「真紀さん」は、話の流れで「ぼく」がアートな映画に触れると、「いまはその手の映画は見ていない」と断る。なんでそんなエクスキューズが挟まるかといえば、そもそも学生時代の2人は同じ映画サークルにいたからだった。
《そこではベルイマンやフェリーニやゴダールなんかの映画を深い意味や思想の描かれているものとして真面目に観るのがある種伝統のようになっていた。だから真紀さんはその手の映画という言い方をしてそれでこっちに通じるのだが、ぼくや真紀さん(や他の何人か)がそういう映画を先輩の教えどおり熱心に観ていたかというとそれも違っている。しかし映画にいろいろな方法や考え方があるのは当然知っていて、おかしな言い方をすればそういうことは一生忘れない。本当におかしな言い方だと思うが、一生忘れないようなことはそんないくつもあるもんじゃないと思う。》p16
大江
 本棚をいじっていたら、大江健三郎の講演集『あいまいな日本の私』(岩波新書)を発見する。読んでいたのか。シカゴ大学で行われたという講演の部分で1ヶ所だけページを折ってあった。
《もっとも、大学で話すということは、私のような小説家には大きい試練、苦行なのです。私は東京の大学を卒業したのですが、それ以来、大学から逃げまわっていました。同じ生き方をしているように見える小説家に安部公房がいます。かれは私と同じ大学の医学部を卒業しました。その際、大学とも医者の職業とも縁を切ることを決心していました。しかし卒業面接の教授はもっともやさしい質問をして、安部に医者になる道を開いておいてやろうとしたのです。――象と人間の女性の妊娠期間の長さを比較せよ。安部は次のように答えたとつたえられています。「女性について一般的な議論は意味がないと思う。」》P137-138

05/08/10
 お盆過ぎまで帰省するので、実家で楽しみに読む本として、きのうのうちに馬場の芳林堂で奥泉光『モーダルな事象』(文藝春秋)を買ってきたのだったが、駅周辺に倒れる早大生男女をよけながらたどり着いたホームで早くも読み始めてしまったのには自分の意思の弱さを過小評価していたとしかいいようがない。
 しかしこれは面白いよ。
阿部和重「ABC戦争」(1994)
ABC戦争―plus 2 stories
『ABC戦争』(新潮文庫、2002)所収

《――おれはほだなちゃっこいけんかぐらいなごどさいちいちかむてらんねえがらよお、はじめはしかとしとっただな、ほしたらあいづらだげでごじゃごじゃはじめだしてよお、なにがはなすもいづのまにがでっかぐなってっでえ、んだがらひっこんでるわげにいがねえべえ、おれどしてはよお、ほんでおれどがでできたらあっつもだまってねえっだな、ほだいしてるうぢにまあだややこすぐなってったんだ……
 湯村によれば、〈争いごと〉がその規模を拡大させていったのはこのようなわけがあったからなのだという。どのようなわけか。大物である彼は当初(…)》P58
 
 山形生まれの「わたし」は、中退した高校で起きた「戦争」に興味を抱き調査を始めた。「わたし」は出来事を間接的にしか知りえない。通学電車内の対立。巻き込まれた者たちの困惑。状況を再構成しようと努めながらも、渦中にあった一人が綴ったノートや同級生の時を経た証言は不確かなものでしかないと繰り返す「わたし」の語りは、これらのあやふやな手がかりに輪をかけて当てにならず、無駄な饒舌を続けるばかりだ。
「宇宙戦争」(2005)
S・スピルバーグ監督

「親子の絆」は建前で、10歳の女の子をどれだけひどい目に遭わせられるか、その一点でシーンをつないでいくのだが、当の子役がぜんぜん「子供」として撮られていないのはどうなのか――というのはどうでもいい気がしたのだった。
 自動車が壊れる。地面が壊れる。家が壊れる。ビルが壊れる。塔が壊れる。高架の線路が壊れる。飛行機も壊れる。わくわくする。その理由は明らかで、この映画は、これらの破壊の多くを下から見上げるためだった。
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