2005/08/28

柴田元幸+沼野充義トークショウ@ABC

 青山ブックセンターで「柴田元幸+沼野充義トークショウ」を見物する。『200X年文学の旅』(作品社)刊行記念。

 この本は、両氏が「新潮」で交互に連載していた外国文学最新情報をまとめたもので、アメリカのみならず英語圏、ロシアのみならず東欧・旧共産圏の名前も知らない作家・作品を山ほど紹介してくれる。
 2人も編集に関わった国書刊行会の作家ガイド本『世界×現在×文学作家ファイル』について柴田氏は、「外国語ができなくても、この1冊で、何百もの作品を夢見ることができます」みたいな宣伝文を書いていたが、今度の本もそんな感じ。どうしてこんなに読めるのか。この本をひと通り読むだけでも私はどれほど時間がかかるだろう。
(偶然だと思うが、これ、縦に長いちょっと変わった版型が、同じようなコンセプトの『世界の文学のいま』と似ていて面白い)

 トークの最中、2人はそれぞれ自分の訳した詩を朗読した。とりわけ沼野氏が訳したのは、シンボルスカ!ガンドレフスキー!ドミートリー・プリゴフ!ってひとりもわからない。
 ついでにロシア語原文も読みあげられたのだが、しんとした会場で皆目見当のつかない外国語が流れていた数分間は、こちらの意識も焦点が別のところに動かされるようで、ややとまどった。

沼野「いま、時間の関係で最後の部分は飛ばしましたよ」
柴田「そうなんだ、ぜんぜんわかんなかったけど」

 あと、こういうのも見つけた。
 http://www.1101.com/editor/2005-08-23.html


200X年文学の旅
200X年文学の旅
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柴田 元幸 沼野 充義
作品社 (2005/08/27)
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2005/08/28

05/08/28


 カユい話を始めたい。

 7月からこっち、週に5冊ずつ「ジョジョ」を読んでいる。ようやく40巻まできたところ(第4部前半)。飲み会の席でうっかり「最近ジョジョ読んでるんですよ」と口にしてみたら、ある人は突然「アリーデヴェルチ!」と言ってきたのだが、ごめんなさい、まだそこまでいっていないようです。

 ジョジョ話に興じる人たちは周囲にたくさんいたが、私はほとんど漫画を読まずに育ってしまった人間で、「何十という漫画を立ち読みで押さえてきたからそれぞれについて普通に話ができる、ジョジョもそのひとつ」みたいなあり方がうまく想像できない。その人にとってはそれが普通のことだと思うとなおさら不思議な気分になる。
 そんなコンプレックス(!)の裏返しが、「自分が読んだ途端、みんな読んでることを前提にしてはしゃぐ」カユさとしてこの文章を浸しているだろう。こうやって転化していく抑圧の構図が狭い世間をますます狭くしていく気もするが、何を書いているのかよくわからないので話を続ける。

 私とジョジョ。9才かそこらの時にいちど、歳の離れたいとこが集めていたのを譲ってくれる機会があった。どんな漫画なのかと手にとって開いてみたのが(今にして思えば)第4巻で、「変なシルクハットのおっさんが体に巻きつけられた鎖で上半身と下半身を真っ二つに切断される」見開きのシーンだったため、「これ、いらない」と突っ返してしまったのを憶えている。その夜はそこを夢に見た。わかりやすい子供だった。

 そんな私とちがって、高校以来の付き合いである友達Bなんかは、それこそ小学生の頃からずっとジョジョを読み続けてきた男であり、10年以上に渡って「ジョジョを読め、ジョジョを読め」と繰り返し勧めてくれたのだったが、なにしろ巻数が多すぎて手を出しかねた。話を聞くほどに、漫画喫茶で済ませられるようなものとは思えないし、それに私は漫画喫茶に行ったことがない。

 それが、この夏のはじめ、近くにある「ブックスーパーいとう」の棚で第1巻から63巻までがずらっと揃っているのを見つけたのだった。以来、「ああ、『読め』ってことだよな」と運命を受け入れる気持で毎週水曜日に「今週の5冊」を買い、ありがたく読み進めている。

 あのとき、あの場所で、あいつとあいつが言って笑っていたネタの元はこのコマだったのか、などと思い出を噛みしめながら巻を重ねていくのには、初読のくせにまるで半生を振り返るような趣きがある。
 人のジョジョ話が、実物を読んでいなかった私にそこまで強い印象を残していたのだからすごいことだとあらためて思う次第だが、一方で、どれほどカッコいいと思っても花京院を夢にまでは見ないのは、私も9才の子供ではないからだろう。人は成長する。
 毎週毎週、友達Bに電話して「今日は○巻まで読んだよ」と伝えると、「○巻なら△△が□□したところだな」と常に正確に思い出して話に付き合ってくれるのだから、まったく持つべきものは友達Bである。

「面白い、面白いよ」
「だからずっと言ってたのにお前ってやつはよう」
「こんなに面白いジョジョが、どうしておれでも読んでたドラゴンボールくらいメジャーにはならなかったんだろう」
「メジャーだから。お前以外は読んでたから」
「やはりか」
「でもまあ、『はじめてジョジョを読んでいる』というのはある意味うらやましくもある」
「救われる思いです」
「あの頃おれたちは――」

 そうやって、たとえば、1992年にスタートした第4部の舞台が近未来の1999年に設定されており、冒頭、ナレーションがノストラダムスの「恐怖の大王」に触れていることから、リアルタイムのジョジョ読者はみんな「こりゃカーズ様が降ってくるに違いない」とおそれおののいたものだった――などという歴史的な証言を小耳にはさみつつ繰り返しページをめくっているうちに、2005年の夏は過ぎ行こうとしている。今年も海に行かなかった。

「誰でもどこか特定の世代に生まれるわけで、である以上、読まないといけないものはある。次はスラムダンクを読むように」
「でも、あなたがジャンプのほかに読んでたのは永井豪と水木しげるでしょう。世代とか持ち出すか」
「それとこれとは別なんだよ」
「むー」
「ああ、世代ってコトバで思い出した」

 そう言って彼の教えてくれたのが、以下のコピペ文である。
> 「マリオ2をやる前に言っておくッ!
> おれは今このゲームをほんのちょっぴりだが体験した
> い・・いや・・・体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが・・・
> あ・・・ありのまま 今起こった事を話すぜ!
> 『おれは スーパーキノコを取ったと思っていたら 死んでいた。』
> な・・・何を言っているのかわからねーと思うが
> おれも何が起こったかわからなかった・・・
> 頭がどうにかなりそうだった・・・
> バグだとかクリボーと見間違えただとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ
> もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・」

 刹那的なネタかもしれないが、その刹那は意外と長い気がする、と思うのは、なんだかんだ言って私もその世代に含まれているからだろうか。

「ところでイギーの顔なんだが」
「触れるな」



JOJO A-GO!GO!JOJO A-GO!GO!
(2000/02)
荒木 飛呂彦

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2005/08/23

保坂和志『この人の閾』(1995)

この人の閾
新潮文庫(1998)

 37歳になる「ぼく」が、出先で時間をつぶすために大学で先輩だった「真紀さん」の家を訪れる。10年ぶりぐらいに再会した2人が一緒に缶ビールを飲んだり庭の草むしりをしながら結局は何をするのかというと、つまり、会話する。共通の知人の近況をやりとりし、変わったこと・変わらないことに思いをめぐらせ、時間の流れについて考え、喋る。主婦である「真紀さん」の子供が学校から帰ってきてまた出て行く。夏の午後が傾く。

 この小説に対し、「2人のあいだに何も起きないのはおかしい」という評が出たそうで、そういう人はこのように平凡な現実を引き写しただけの文章は小説ではないと考えたのかもしれないが、それは二重に間違っている。
「小説なら何か(というか、不倫)が起きるべき」というのは短見だ、とは保坂和志自身が『小説の自由』で詳しく述べていることで、ここにあるのは「淡々としたリアリズム」でもない。なんとなれば、人はこの作品のようにそれなりに凝縮された思索を短い時間で効率よくやりとりできるはずがないからで、それはこの短篇集に入っているほかの3作にも共通する「異様さ」だ。
 ここでは何かの考えを展開するために小説という形式が使われており、むしろそういうことをする容れ物・実践の場こそが小説だと保坂和志は考えているだろう。だろう、どころか、こちらについても当人が『小説の自由』で繰り返し書いていた。
 私の書くことがなくなってしまったので(それもどうかと思うが)引用する。
 年に150本以上の映画をレンタルビデオで見ている「真紀さん」は、話の流れで「ぼく」がアートな映画に触れると、「いまはその手の映画は見ていない」と断る。なんでそんなエクスキューズが挟まるかといえば、そもそも学生時代の2人は同じ映画サークルにいたからだった。
《そこではベルイマンやフェリーニやゴダールなんかの映画を深い意味や思想の描かれているものとして真面目に観るのがある種伝統のようになっていた。だから真紀さんはその手の映画という言い方をしてそれでこっちに通じるのだが、ぼくや真紀さん(や他の何人か)がそういう映画を先輩の教えどおり熱心に観ていたかというとそれも違っている。しかし映画にいろいろな方法や考え方があるのは当然知っていて、おかしな言い方をすればそういうことは一生忘れない。本当におかしな言い方だと思うが、一生忘れないようなことはそんないくつもあるもんじゃないと思う。》p16
2005/08/12

大江

 本棚をいじっていたら、大江健三郎の講演集『あいまいな日本の私』(岩波新書)を発見する。読んでいたのか。シカゴ大学で行われたという講演の部分で1ヶ所だけページを折ってあった。
《もっとも、大学で話すということは、私のような小説家には大きい試練、苦行なのです。私は東京の大学を卒業したのですが、それ以来、大学から逃げまわっていました。同じ生き方をしているように見える小説家に安部公房がいます。かれは私と同じ大学の医学部を卒業しました。その際、大学とも医者の職業とも縁を切ることを決心していました。しかし卒業面接の教授はもっともやさしい質問をして、安部に医者になる道を開いておいてやろうとしたのです。――象と人間の女性の妊娠期間の長さを比較せよ。安部は次のように答えたとつたえられています。「女性について一般的な議論は意味がないと思う。」》P137-138

2005/08/10

05/08/10

 お盆過ぎまで帰省するので、実家で楽しみに読む本として、きのうのうちに馬場の芳林堂で奥泉光『モーダルな事象』(文藝春秋)を買ってきたのだったが、駅周辺に倒れる早大生男女をよけながらたどり着いたホームで早くも読み始めてしまったのには自分の意思の弱さを過小評価していたとしかいいようがない。
 しかしこれは面白いよ。

 まだ本篇全500ページあまりの200ページにさしかかった程度だけれども、大阪の短大に勤める中年の国文科助教授が、太宰治と親交のあった無名作家の「遺稿」に出遭って瀬戸内海の小島を訪れるとか、遺稿の出版にまつわるらしい殺人事件に首をつっこむジャズシンガーの女性とその元夫である推理小説愛好家のコンビとか、挿入される新聞・雑誌記事の作りこみ具合とか、かなり「惜しげもない」進みゆきである。「あられもない」とか「臆面もない」みたいな、「~ない」の表現がなぜか似つかわしい気がする。助教授の見る夢に、ゲートル巻きで丸眼鏡の男たちが登場してくるのに至っては、「またそこにいくのか」ではなく「奥泉の特盛」とでもいった賛辞を呈したい。過剰なものは善である。本当か。
 なにより私が好きなのは、『鳥類学者のファンタジア』の頃に比べると、ベタなギャグが冴えている点である。笑わせようという部分が変に浮いてしまうことなく文脈にハマっている。それは、全部とはいわずとも相当の割合を「笑わせよう」の文章が占めているということなのかもしれないのだが。ここまででいちばんよかったのは、176ページにある会話中の台詞、《「すごい。セミなんかもあれでかなりすごい」》であった。
(本書巻末には、入門めいた奥泉論と、本人へのインタビューが付いているようだ。もちろんまだ見ていない)


モーダルな事象
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奥泉 光
文藝春秋 (2005/07/10)
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2005/08/08

阿部和重「ABC戦争」(1994)

ABC戦争―plus 2 stories
『ABC戦争』(新潮文庫、2002)所収

《――おれはほだなちゃっこいけんかぐらいなごどさいちいちかむてらんねえがらよお、はじめはしかとしとっただな、ほしたらあいづらだげでごじゃごじゃはじめだしてよお、なにがはなすもいづのまにがでっかぐなってっでえ、んだがらひっこんでるわげにいがねえべえ、おれどしてはよお、ほんでおれどがでできたらあっつもだまってねえっだな、ほだいしてるうぢにまあだややこすぐなってったんだ……
 湯村によれば、〈争いごと〉がその規模を拡大させていったのはこのようなわけがあったからなのだという。どのようなわけか。大物である彼は当初(…)》P58
 
 山形生まれの「わたし」は、中退した高校で起きた「戦争」に興味を抱き調査を始めた。「わたし」は出来事を間接的にしか知りえない。通学電車内の対立。巻き込まれた者たちの困惑。状況を再構成しようと努めながらも、渦中にあった一人が綴ったノートや同級生の時を経た証言は不確かなものでしかないと繰り返す「わたし」の語りは、これらのあやふやな手がかりに輪をかけて当てにならず、無駄な饒舌を続けるばかりだ。

「戦争」の2年後に「わたし」は調べを行い、さらにその5年後にこの文章が書かれているというややこしい設定の中、見事なほどくだらない喋りはちっとも事実に向かわない。噂でも伝承でも何でもいいが、出来事を媒介するそういったものにどんな加工処理を施すと小説になるのか、その手続きを(手続きだけを)実況中継したのが「ABC戦争」で、この中篇は、出来事が小説に変わる瞬間を写し取ろうとする。小説の真似をすることで、「戦争」の現場に居合わせなかった「わたし」と読者を小説が生まれる場に立ち合わせ、それをもって小説に似た何かをつくろうとする。この生真面目な意図を「わたし」は隠そうともしないし、実況中継が実況中継の真似事でしかないことだって百も承知である。文庫巻末の解説で「情報公開」小説と呼ばれている所以だが、そこを公開すれば面白いということになるのか、世の小説がみなそんな自意識過剰になったらうんざりじゃないかという心の声に、でもひとまずこれは面白かったよ、と答えられる根拠は、最初の引用だけで充分だと思う。「どのようなわけか。」
 小説を真似ようとしてできあがるものが、実は小説に似た何かではなく、小説ではないか。阿部和重は笑える。そして小説を書いている。
2005/08/01

「宇宙戦争」(2005)

S・スピルバーグ監督

「親子の絆」は建前で、10歳の女の子をどれだけひどい目に遭わせられるか、その一点でシーンをつないでいくのだが、当の子役がぜんぜん「子供」として撮られていないのはどうなのか――というのはどうでもいい気がしたのだった。
 自動車が壊れる。地面が壊れる。家が壊れる。ビルが壊れる。塔が壊れる。高架の線路が壊れる。飛行機も壊れる。わくわくする。その理由は明らかで、この映画は、これらの破壊の多くを下から見上げるためだった。

 どういうわけか私には「下から見上げる」構図に惹かれる性向があり、中学高校の美術の授業なんかでも、外に出れば校舎の脇で仰向けになって阿呆なパースのついたスケッチをし、屋内に入ればガラステーブルの下に頭を入れてテーブル上の物品を描いたりしたものだった。大丈夫か。とはいえ、いわゆる「平成ガメラ」三部作で、“電柱があり、家があり、その向こうにガメラがいる”図が絶賛された(たしか)ことからも、この「下から見上げる」アングルは相当程度一般的に共有された嗜好だといって大きく間違えてはいないはずである。はずである。
 だからこの映画でも、宇宙人の三本足ロボットが初登場するシーン、落雷で道路にあいた穴から放射状に走る亀裂が建物の外壁をのぼっていく様をトム・クルーズと一緒に見上げることのできた冒頭だけで充分、モトは取れたと思ってしまうのだった。われながらいい観客である(もうひとつ印象的だったのは、後半、「空から降ってきたある物が木にひっかかる」シーンだった)。
 立派な物が何から何まで壊されていくのを、トム・クルーズはなすすべなく見上げるだけである。主人公である彼に知りえた以上のことは映画に入っていない。筋が通っている。大阪はどうなったというのか。
 何にしろ堪能した。(下から)見てよかった。ついでに、まったく原作を知らずに見た人が結末にどんな感想をもつものか聞いてみたくもある。
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