2005/07/25

Steven Millhauser“Enchanted Night”(1999)

Enchanted Night (Vintage Contemporaries)
Vintage(2000)

 ミルハウザー、未訳の中篇。
 場所はアメリカ東部の郊外、季節は夏、月が煌々と照らす真夜中すぎの町が舞台になる。これといった筋立てはなく、まともな人間なら眠っているはずの時間に何らかの活動をしている人間たちの姿がばらばらに、短い章の積み重ねで描かれる。
 部屋の中ではこれ以上呼吸ができないと思い詰めた14才の少女や、屋根裏部屋でいつ完成するともしれない本を書き続ける中年男がふらふらと外へ出る。不法侵入した図書館のロビーにたむろする少年たち。月の光を浴びて、古びた人形やショーウィンドーのマネキンも動き出すのを待っている。
 夜だから汗ばむほど暑くはなく、月のおかげで真っ暗でもない。虫の鳴き声と幹線道路を走る車の音が遠くに聞こえ、乾いた風がそよぐ。昼からはみ出した夜型人間たちがぼそぼそ会話を交わし、小さな冒険が進行する。けれども少しずつ時間は過ぎて、朝の光が差し込む前にみんなそれぞれの帰るべきところに帰っていく。タイトルは「魔法の夜」でいいのだろうか。

 ひっそり静かな夏の月夜をそんなに大きくない一枚絵に収めたような作品で、天才芸術家も過剰な細部描写も出てこないとはいえ、扱われる情景は「いかにも」のツボを外さない。なにが「いかにも」なのかよく考えるとわからないが、そう思わせる時点でこの作家の勝ちだろう。あるいは私の負けなのか。

 登場人物の中でとくに興味を引いたのは「女の子だけでできた窃盗グループ」の面々で、上記の不良少年たちがぐだぐだ時間を潰しているだけなのとはちがって活動的である。そういえばミルハウザーには、それこそ「夜の姉妹団」という傑作短篇もあるのだった(このアンソロジーのタイトルストーリーになっている)。
 ミルハウザーにはすすんで負けていきたい。
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2005/07/15

ティム・オブライエン『世界のすべての七月』(2002)

世界のすべての七月
村上春樹訳、文藝春秋(2004)

《二〇〇〇年の七月七日、むしむしした金曜日の夜だった。
 戦争は終わり、情熱は意味のない観念論と化していた。》P17

 いつの戦争か?
 これがヴェトナム戦争なんである。

 1969年に大学を卒業した男女が31年後に開いた同窓会の場面でこの本は幕を開け、当時から続くいざこざや、各々の人生で起きた事件が連作短篇として綴られる。
 オブライエンはヴェトナム従軍体験から小説を書き始め(『僕が戦場で死んだら』)、以来、そのことだけを書き続けている(『カチアートを追跡して』『本当の戦争の話をしよう』etc.)。現代を舞台にしても、扱われるのは「現代のあの世代」で、ほぼ同年代の村上春樹は訳者あとがきで予防線を張る。
《たとえば今二十歳の読者がこの小説を読んで、どのような印象を持ち、感想を持つのか、僕にはわからない。「えー、うちのお父さんの歳の人って、まだこんなぐじぐじしたことやってるわけ?」と驚くのだろうか?》

 驚くというか、普通は呆れる。
 ではこの本が、自分たちを「我ら」といって括ってしまえる人間たちの、ただ回顧的で暑苦しい本かと訊かれれば、でもそれだけじゃないんだと言い張りたい気持にもなるのだから、小説というのはわからない。あるいは自分がわからない。
 同窓会の短いスケッチ→1人ないし2人を中心にした短篇→同窓会のスケッチ、という繰り返しで計22章にわたるごちゃついた人間関係は、はじめ不透明ながら読み進めるうちに背景が見えてくる(第1章の時点で人物表を作っておくと、後になってから、必要なキャラがみんな冒頭のシーンで登場していたとわかり深く感心できる)。
 戦地へ行った者、カナダへ逃げた者、泥棒をして名誉を失った女、病を患う男。別れ、不倫。同窓会の噂話では死者さえも登場人物になる。
 50歳を越えた男女たちの愛憎を見せつけられるのは時にかなりしんどいが、そのしんどさと裏表になって、設定だけなら無茶っぽい話も、妙な説得力をもってこちらに迫る。これはたしかに年を経ていないと書けない気がする。
 とはいえ、本を身から離して考えてみると、「31年後の同窓会」でもって群像劇を始めることを可能にする仲間意識は自分には不思議なもののままである。それがこの世代に特有なのだとしたら、どれだけ上手な会話が交わせたとしても(引用しようとして選びきれなかった)、アメリカにしろ日本にしろ30年前に生まれなくてよかった――という感想が出てくるのだから、結局、自分はこの小説を拒んでいるのかもしれない。
2005/07/07

トーマス・マン『魔の山』(1924)

魔の山〈上〉
関泰祐・望月市恵訳、岩波文庫(上下巻、1988)

《食卓には、マーマレードと蜂蜜の壺、ミルクいりの米飯とオートミールの鉢、いりたまごと冷肉の皿が出ていた。バターはゆたかに出されていたし、鐘形のガラスのふたを取って、しっとりしたスイス産のチーズを切りとっている人もあった。そのほかに、新鮮な果物とほした果物をもった皿が、食卓の中央に置かれていた。》上P78

 時に1907年の夏、学校の卒業を間近に控え、就職も内定した青年ハンス・カストルプは、療養中の従兄を見舞うべく標高1600メートルの山上にあるサナトリアムを訪れるのだった。
 有名なあらすじでは、3週間の滞在予定だったハンス君も結核を発症して患者に仲間入りしてしまい、結局7年の長きにわたって山に足留めをくらう、とまとめられている。実際読んでみると、結核になるまでが長い。なんとなればこの小説は、山上に集う裕福な患者たちが営む、「下の世界」とは別物の生活を丹念に描き、そこから現れる意識と時間の関係を扱うからである。
 1日5回の立派な食事や横臥療法(毛布をかぶり昼寝)といったスケジュールを追っていると、時間の感覚がゆるゆるほどけていく。3週間が7年といったらざっと120倍だが、なんだかそれも納得できそうな気持になってくる。最後、ハンス君が第一次大戦に従軍するため山を降りるのには不思議な感慨を覚えた。
 三人称ふうの叙述に割り込む一人称複数の語り手「私たち」の存在も気になったが、何より印象に残るのは、たっぷりした食物の描写と、女性への視線に時おりたいへんな冴えが感じられることだった。極めつけのシーンが後半にある。ハンス君の思慕する女子は、近づきになった直後サナトリアムを去る。残されたのは一枚の写真のみ。療養所だけあって、その写真は胸郭のレントゲンである。

《それは二重封筒に入れて紙入れにしまわれていたが、地面と平行に持って見ただけでは、黒くぴかぴか光るだけで、不透明なガラス板であった。しかし、光線にかざすと明るくなり、人体らしい像があらわれ、人体の透明度、助骨の構成、心臓の形、横隔膜の弓形、肺臓の鞴(ふいご)、鎖骨と上膊骨が見え、それがどれも青白いもうろうとした物質、ハンス・カストルプがカーニヴァルの晩に理性にそむいて味わった肉につつまれていた。》下P83

 自分は、友達の持つ山上の別荘にお邪魔してわざわざこの小説を読んだ。あの夏から1年、憶えているのはここだけだが、ここさえあればいいと思う。
2005/07/06

ジョン・バース『ストーリーを続けよう』(1996)

ストーリーを続けよう
志村正雄訳、みすず書房(2003)

 連作短篇集。作者自身をモデルにしたとおぼしい中年夫婦が主要キャラで、全篇を通すとフラクタル構造が見えてくるという実験性が売り。自分には訳者の入念な解説なしではよくわかりませんでした。
 ただ、表題作「ストーリーを続けよう」には驚いた。

 子供を抱え、離婚調停に頭を悩ませるアリスは、飛行機で移動中に機内誌掲載の小説「静止画像」を読んでいる。この作中作の主人公は《彼女》で示され、それだけならよくあるタマネギ構造小説だが、語り手はアリスと《彼女》の不思議とよく似た状況を区別なく描写していく。
 するとどうなるか。
《アリス自身のライフ・ストーリーの中間休止において、たまたま「静止画像」に出くわし、《彼女》の窮地の叙述を読み進んで、作者が脇道へそれての話が進んでいるとき、ちょうど彼女は高度三万二〇〇〇フィートでDC-10に安全ベルトで固定されミシシピー河を越えつつある。》

 わかりづらくなるのである。
 というのも、この語り手には定位置がない。タマネギのいちばん外側から図式を説明しない。《彼女》の物語とアリスの物語という同心円でできた「ストーリーを続けよう」から、語りは同時に脱線するように見せて、自転する地球・それを含んで回転する太陽系・さらなる銀河系・銀河集団、それぞれがそれぞれの運動を続けるというイメージに、この作品をなぞらえてみせる。自在な語りの内にすべてがぐるぐるとうごめいて、おのずと美しいイメージが読者の中に生まれてしまう(加えて、人生をゼノンの矢に喩え静止画像の連なりとする手際も見事)。職人芸。なにしろ、後段で明かされるのだが、この語り手は「静止画像」を書いた作者でもあり、しかもアリスと現実に出遭うのだ! どうなってんだ。
 バースは小説と人生の両方を「ストーリー」という言葉にかけているみたいだが、こういうのはやはり年を取らないと書けないんだろうか。

 作中で「作者は」と言い出す小説はたいていつまらない。この短篇は、メタフィクションの名に値するほんのわずかな例ではないか。20世紀のディケンズをめざした物語原理主義者ジョン・アーヴィング(『ガープの世界』)は、かつてバースの複雑な小説を「大学院生しか読まない」と非難した。しかし、バースだって希代のストーリーテラーなのである。あとはもうちょっとわかりやすく書いてくれれば。
2005/07/01

2005/07/01

 
 青山ブックセンターのイベントに行ってみた。柴田元幸トークショウ「古典アメリカ文学知ったかぶり」。

「20年近く前に書いた論文を本にするんだから、箸にも棒にもかからなかったらどうしようとおそるおそるゲラを読んだんだけど、なんか、昔の方がアタマよかったんじゃないかな。翻訳するときとは別の筋肉をちゃんと使っているというか」

というふうに、アメリカン・ナルシスの肝は19世紀のアメリカ小説を扱った部分にあるわけだが、その時期の作家たちを勉強していたころに好きで読んでいながら論文にはできなかった、ナサニエル・ホーソーンについて悔しい気持があったとのこと。だからなのか、この人の“The Wives of the Dead”という短篇を訳して朗読。

 ご本人がしばらく喋ったあとで会場から質問を受け付けていたが、おどろくほど話の通じない質問者がいて、なんだかぐったり疲れた(私は人間ができていないので「面白かった」とはとても書けません)。

 メモった「今後の出版予定」:
・ケリー・リンクの短篇をひとつ訳して、「新潮」の8月号か9月号に載せる
・スティーヴ・エリクソンの『アムネジア・スコープ』はもうすぐ出る
・海外文学についての、沼野充義との往復書簡集『200X年文学の旅』が作品社から出る(8月?)
トマス・ピンチョンのMason & Dixon は、ついに、「毎日1ページずつ訳す」体制が確立。いま100ページ弱まで進んだので、訳稿の完成まであと2年。ピンチョンに質問して訳文を直すのにもう1年。たぶん3年後には出る予定。

 ところで、この人の『生半可版 英米小説演習』(研究社)という本は、それこそ古典のホーソーン、メルヴィル、ポーから現代のオースターやミルハウザー、なぜかミロラド・パヴィチまでとりあげて、1作1作さわりの翻訳と解説をつけたすごく面白いつくりなので、今日のイベントに予約までしながら来れなかった某氏とかにはおすすめです(『メイソン&ディクソン』の部分訳もある、というかこの目次を見よ)。

生半可版 英米小説演習生半可版 英米小説演習
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柴田 元幸

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Mason & DixonMason & Dixon
(1998/04)
Thomas Pynchon

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