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正教会
 こないだの三島賞をとったのはやたらと評判の高い青木淳悟ではなく鹿島田真希だった。
「新潮」7月号に、この人と笙野頼子の受賞記念対談が載っている。私はこの人の小説は読んだことないし、笙野頼子もしばらく追っかけてないが、パラパラみてみると、この作家はクリスチャン、それも正教会という宗派の信者だという話があった。
青山南『英語になったニッポン小説』(1996)
英語になったニッポン小説
集英社

 なにしろ類書がない。これは、英語に翻訳された日本現代小説の書評集である。扱われるのは吉本ばなな、両村上、山田詠美、李良枝、小林恭二、高橋源一郎、島田雅彦、津島佑子、金井美恵子、そして椎名誠の各英訳作品。
T.R. ピアソン『甘美なる来世へ』(1986)
甘美なる来世へ
柴田元幸訳、みすず書房(2003)


 舞台はアメリカ南部に設定された架空の町。
《たまたま十八日金曜から二十一日月曜までは勤務日であったため二十二日火曜は前日までの激務の疲れをとるべく休養が必要であるとブリッジャー氏は考えたがニーリーの町における消防士の任務とは食べて卓球に興じて食べてカナスタに興じて食べてテレビを見て食べてから再度腹をすかせて二階の宿舎で眠りやがてまたポールを滑り降りることであった。》

 書けることはぜんぶ書いてみようとでもいうのか、話は脱線を続け、誠実な語り口でバカバカしいディティールに踏み込んでいく。しかし読み進めながらやがて納得することになるのは、このうねうね続くひねくれまくった文体が、田舎町をページの上に描き出すうえでたいへん適切なやり方だということだった。

 人間関係だけは嫌になるほど濃密で、行き場がないくせにすかすかの、充足しながらすべてが足りない土地に生きる感覚は、自分には非常にくっきり思い当たる。書きようによってはどんなに退屈にもなるものを、アクロバティックにして自然な手法を見つけて「笑えるだけじゃないんだけど、結局は笑っていればいい」作品にした力量にはつくづく驚いた。言葉を集め、書くことによって書かれる対象をつくりあげるという、文章表現一般のもつ不思議にいつものことながらめまいがする。ここには確かに田舎の町がある。
《さて周囲の隣人たちはみなそれぞれレースのカーテンの向こうからアスキュー夫人とブリッジャー氏が屋敷の表の庭に立って何を議論しているかはわからないがとにかく何か議論しているのを見守っていたものの彼らのなかの誰一人としてその議論が痔に関連したものであるなどとは夢想だにせぬままおのおの首をひねり想像を逞しくしていくうち一人残らず切ないほどの好奇心でもってほぼ全面的に胸を焦がす状態に行きついていた。》

 かたちのない語り手が「私たち」という人称を使うのには何の説明もなく、実際、要らない。町ぜんたいが語るこの小説の空気は、ラスト近くである人物の口から発せられる(誰の口から出たところで何の変わりもない)、
《「唾吐かせてあいつにかなう奴見たことないね」》

というものすごいセリフに集約されていると思う。
 こんな文体を舞台に、比較的普通の調子で進む後半の展開は、どういうつもりだと言いたくなるほど切ないのだった。

 ○ ○ ○

 さてところで、ピアソンの生真面目饒舌文体がとりわけすさまじい効果をあげるのには二種類の場合があり――というような視点の合わせ方はたぶん本末転倒で、というのも、大きな事件も日常の些事も、眼前の出来事も過去の思い出も、すべてをひとしく脱線しまくる無駄だらけの文体で通すがために、逆に無駄な文章はひとつもなくなっているという詐欺みたいな達成のなされてしまうさまがこの小説いちばんの読みどころだと思うからで、だから効果をあげるといえば、それこそ老女たちがサラダドレッシングにおける胡麻の意義について繰りひろげる他愛なくとめどもない井戸端会議を過剰な的確さでつくりあげたシーンなどでこそ、この文体は効果をあげていると言えるのかもしれないけれども、それでも実直に「迫力のある場面」を二種類あげるとすれば、まずひとつめは暴力の振るわれる瞬間とその結果をコマ送りで描いたようなシーンで、それはなんだか当然な気がした。
《そもそも見る前からほんのちょっと痛いかなという気はしていたところへ現にそれを見てしまったいま鋭い痛みと焼けるような熱さとすさまじい苦しさがどっと一挙に襲ってきて、指を持ち上げて傷口に触れまた離してみると指先もぐっしょり血まみれになっており氏はあんぐり口を開けてそれを眺めた。それから氏はくずれおれていった――沼にはまった人間のように床板に向かってくずれおれていき当初はくずれおれていくだけに甘んじて自分の背がずるずる低くなっていくのを傍観しているばかりであったがやがてやっぱりくずれおれていくだけに安んじてはおれぬと思いあたり[…]

 そしてもうひとつが、《衣服が破られ丸められ部屋中に投げ散らかされ情熱に駆られるなか[…]二人は共にのたうち回り腰をくねらせソファから硬い床に落ちた》りしながら進行する場面になるのもやはり当然のことなのかもしれず、これ以上の引用は控えるから詳細は自分で確かめていただきたい。すごいことになっています。

 ところで、訳者あとがきで柴田氏は、ほかのピアソン作品の紹介もしてくれている。Polar (『極地』)という長篇では、「ケーブルTVのポルノチャンネルを朝から晩まで見ている男に、スコット大佐とともに南極に達したのち行方不明になった人物の霊が乗り移る」らしい。
05/06/10
「では締め切りがなければ、気持ちよく劇画が描けますか」
「誰が描くか。」

実際、「たけくまメモ」みんな見てると思うから私がいまさら紹介しなくてもいいんだろうが、これもやはり自分用のメモとして。いつでも読み返せるように。

「平田弘史先生訪問記」
みすず「理想の教室」
 メモ。みすず書房「理想の教室」なるものを始めるらしい。
 各国文学(含む日本)の専門家が、名作・古典を1冊ずつ読み解く書き下ろしシリーズのようで、「若い人たちに」「自ら考える力を」とか言われても「ふーん」ってなもんだが、ラインナップを見ればいろいろ興味を惹かれるのだった。自分用に覚書。
別役実とベケットと
 メモしておきたかったのは、別役実『「ベケット」といじめ』の復刊である。例によって「富士日記2」、5/23分で知った。

「ゴドーを待ちながら」のベケットに、「行ったり来たり」という作品がある。手元の戯曲集だと7ページしかない。題、公演記録、人物表にそれぞれ1ページ、演出に2ページで、戯曲部分は見開き2ページに収まる。
柴田元幸『アメリカン・ナルシス』(2005)
アメリカン・ナルシス―メルヴィルからミルハウザーまで
東京大学出版会

《つまり、自律の神話は二つの相矛盾する命令を発している。人は変わることを欲望しなくてはいけない、なぜなら人は自律を希求し自らの神とならなくてはいけないから。人は変わることを欲望してはいけない、なぜなら欲望をもつことは他者への依存のしるしであり自律を欠くしるしだから。「変われ/変わるな」というダブルバインドは、自我の神話の帰結にほかならない》p78

 3年か4年まえ、青山ブックセンターを会場に開かれたトークショーのなかで“今後の仕事”を訊ねられた柴田元幸は、翻訳の予定がある数々の作品名をあげたあと、「固めの論文を1冊にまとめて研究社から出そうと計画しています」と付け加えた。
 その「計画」が出版社を変えて生きのび、本書『アメリカン・ナルシス』になったんだと思われる。ずいぶん待ちました。

 全体は3つのパートに分かれる。パワーズやエリクソン、ダイベックといった、自分で訳書を出してもいる現代作家についての論考が並ぶ第Ⅲ部はもちろん面白いが、いかんせんそれらのほとんどを初出誌で読んでいた私が(ミーハーなんです)圧倒的にスリリングだと感じたのは第Ⅰ部で、そこには、15年ほど前に翻訳家として活動を始める前、この人が大学の紀要に書いていた、地味めの論文が集められている。
 そこで扱われるのは、19世紀アメリカのメルヴィルやポオ、トウェインといった「正典」で、それらが文学史的スタンダードであることまではわかっても、展開されている論旨がどれほどスタンダードに近いのかまでは私にはわからない。
 それでもおそらく、堅実な論の運びとは裏腹に、目のつけどころはけっこう特異なのではないかと思う。というのは、それぞれ単発のものとして発表されたはずのこれら第Ⅰ部の論文は、いままとめて読むと、ひたすらひとつの問題をめぐり(手を変えず品を変えて)書き継がれたように見えるからだ。一言で抜き出せばこれである。
《自己自身であることの不可能性》p63
 個々の論文はみんなここに発し、執拗にこのことを論じて、結局はここに帰ってくる。
 大作『白鯨』は、自己に対する異和から逃れられないダイナミックな自意識を突き詰めた悲劇として生け捕りにされ、「ウィリアム・ウィルソン」、「アッシャー家の崩壊」の作品世界は、《自己の他者性と他者の自己性》が相互に浸透する空間としてあらわれる。ハックルベリー・フィンが体現するのも《自己自身であるためには自己自身であってはならないという逆説》だ、とまとめられて、『シスター・キャリー』で自己実現がつねに/絶対に完成しないのはなぜなのかが丁寧に説明される。

 作家たちがくんずほぐれつ戦ってきた相手が、水面の鏡に自分の姿を見たナルシスの物語である、と柴田元幸は読んでいる。神話に呪縛されたアメリカ人の作品は、しかし、神話の成立を拒む。この国の小説で《水を凝視するナルシスは、水の中に何の像も見出しえずに終わる(p53)

 ナルシスをなんとか片付けようともがく作家たちによって、当のナルシスはアメリカ文学を貫いている――といった洞察の射程は、第Ⅱ部・第Ⅲ部で、かるがると現代に及ぶ。本書のサブタイトル「メルヴィルからミルハウザーまで」は伊達ではない。そして小説の読解は、ときおりアメリカの国家像を分析するまでに広げられていく。読みながら私は何度か本を閉じたが、一見して落書きのようなこの表紙の絵は、見るたびにどんどん的確であるように思えてきた。

 第Ⅰ部の19世紀アメリカ文学論のあと、柴田元幸は教師稼業の合間をぬって次々と現代小説を訳す翻訳者として有名になった。雑誌「鳩よ!」の2001年8月号によると、刊行した訳書の冊数は47冊をかぞえる(それからの4年間で何十冊増えたのか)。翻訳についてのエッセイも無数にあるが、一人の人間の言うことがそんなに変わるはずはない。「翻訳とはどういう作業なのか、訳すうえで大事なのはどんなことか」と訊かれたこの人が、
「それは、自分を消すことです」
と答えているのを、私たちは雑誌で、単行本で、新書で、いったい何度目にしたことだろう。
 たとえば今年(2005年)の「ユリイカ」1月号、「特集*翻訳作法」のロングインタビューでもやはり同じ話になっていて、上の答えの流れからこんな感慨が洩らされていた。
《作家にひたすら尽くそうとする奴隷根性が翻訳には必要だと思う。[…]今の世の中、「本当の自分を見つけよう」とか、「真の自分を探そう」というような「個性神話」がますます強くなってきて、いったいどうなっているんでしょうかねえ。八〇年代には「自己とは虚構にすぎない」とかみんな言ってたじゃない。あの学習成果、どこへ行っちゃったのかな?》

 変な言いかただが、この人の通過した「八〇年代」はただの八〇年代ではなく、100年前のアメリカ小説を通して、歪んだナルシス神話に骨まで浸かった八〇年代である。であれば本書の、とりわけ第Ⅰ部の一貫性が指し示すのは、実はこういうことでもあるだろう。
 ――失効するナルシスの神話は、何よりも、柴田元幸を呪縛していた。
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