2005/04/16

小さな王国


 当「キッチンに入るな」は、ときどきは日記である。

 去年の暮れから始まった竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」がやたらと面白い。荒俣宏のお人柄からゾンビ映画論など話題は多岐にわたり、それがほんとに多岐なのかはともかく、これまでのベストは、1月の後半から6回かけてアップされたウィンザー・マッケイについての文章だろうと思う。

 ウィンザー・マッケイは、20世紀はじめに活躍したアメリカの漫画家にして「史上最初期のアニメーター」。どれほどすごい人物だったかは読めばわかる。

(1) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/95.html
(2) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/w95.html
(3) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/w.html
(4) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/01/w_1.html
(5) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/02/w.html
(完) http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/02/_.html
[…] したがって作画は徹底した写実的描写に貫かれている。彼はこのわずか9分30秒の作品のために、私財を投じ、丸3年の月日をかけたのだ。
こと作画の労力という点において、筆者はこの作品以上のものを知らない。それはすべての画面が細密なペン画で描かれているのであり、しかも1コマ打ちのフル・アニメーションとして動くのだ。数名のスタッフが雇われたとはいえ、この作品に込められたマッケイの執念はすでに狂気の域に達しているといえよう。》(4)より
《ものの十年もしないうちに、アニメは完全に産業化され、分業化されていた。その中で最後まで家内制手工業的な製作手法を貫いていたマッケイは、あっという間に時代に追い越されていたとも言える。しかも「アニメは芸術であるべき」といった当の本人が、ショービジネスとしてのアニメを世界で最初に成功させた張本人でもあるのは、皮肉なことである。》(完)より

 これを読んで「ああ、自分はこういうのにほんと弱い」と思った人なら、きっとスティーヴン・ミルハウザーを楽しく読める。あるいはすでにミルハウザーの読者かもしれない。

 職人タイプの芸術家を主人公にすることの多いミルハウザーの作品には、定型のようなものがある。
 常軌を逸した想像力とそれを実現させる技術を持って生まれた彼ら主人公たちは、だれの目にも傑作とわかる作品によって商業的な成功を収めたあとも自分の理想を追求し続け、生み出される創作物はやがてほかの人間には理解のできない次元に達して、社会からフェイドアウトしてしまう。
 どの小説の場合でも必ず起こり、それでいていつでもいちばんたまらないのは、創作に没入する主人公たちの姿と、彼らの人生および創作を緻密に描き出す作者ミルハウザーの筆致が、作品の途中からどうにも重なって見える瞬間だ。
 ありえないほど精緻を極めた機械仕掛けの人形や、巨大な建築物の数かずが、自分のいまめくっている小説と等価であるように思えてくるそんなとき、私はいつも「うー」とか「ひー」とか悲鳴みたいな声を漏らしてしまうので部屋の外ではとても読めない。

 そんなミルハウザーの中篇集、『三つの小さな王国』に入っている「J・フランクリン・ペインの小さな王国」は、ずばりウィンザー・マッケイをモデルにしたアニメーターが主人公である。次に引用するこの部分なんて、「たけくまメモ」を違う角度から書いてみたように見える。
[…] 絵の揺れは見逃しようもなかったが、ぜひ修正の必要な短いシークェンスひとつを除けば、それらの揺れは妙に好ましかった。つねに何もかもがかすかに揺らいでいるような雰囲気と、白黒なのに玉虫色の絹布[ショットシルク]のような光沢が、画像全体に夢に似たゆらめきを与えていた。悪夢の地下鉄シーンにはフランクリンも満足だった。次第に大きくなっていく列車が、闇の奥から観客席に向かってぐんぐん近づいてくるように見え、ついにはいまにもスクリーンを突き破って出てくるかと思える。が、菓子屋の変身の場面は、改めて見るとどうも気になった。でもとにかく、全体として思ったほど失望しなかったし、まずい箇所も二、三か月あれば直せそうだった。》
(柴田元幸訳)

 この中篇も定型を離れず、いちどは名声をえたフランクリンも自分の夢の世界を追い求めるあまり、ほかの多くを失う。引用部はその過程のかなりうしろのほうだ。それでも、結局のところ彼が最も大切にしているものによって彼じしんに祝福が与えられるラストシーンは、はっきりハッピーエンドといってよいと思う。私はそう読んだ。この中篇こそは、ミルハウザーがJ・フランクリン・ペインに、ひいてはウィンザー・マッケイに捧げた小さな王国なのである。


 ○ ○ ○


 ミルハウザーを読んでる人が「たけくまメモ」を見たらだれでも似たような感想を抱くだろうから、しばらく前に上記の分を書いたものの、なんとなくアップするのがためらわれていた。
 それでも今日になって貼り付けてみたのは、数時間前に朝日カルチャーセンターの単発イベントで、マッケイの作品上映+竹熊健太郎による解説、というのに行ってきたからである。
 イベント(というか、人数からいってほんとに授業みたいだった)は、ブログで書いた内容を竹熊氏が自分の言葉で語り直し、取りあげられていたマッケイ作品を次々に上映して進んだ。
 朝からコンビニのクッキーひと袋しか食べておらず、ときどき意識が遠のきそうにもなったが私は頑張った。「沈みゆくルシタニア号」「ペット」も見た。そして竹熊氏はぜんぜんあやしい人ではなかった。
 当「キッチンに入るな」は、ときどきは日記である。
《塔の仕事部屋にいてふと顔を上げると、ブラインドを下ろしていない窓ごしに、雪が降り出したのが見えた。分厚いぼたん雪は、蝋燭から削りとった蝋のように見えた。カエデの黒々とした枝の上に、雪は白い線を描いて横たわり、木のブランコの上にも、食パンの表面のように積もっていた。黒い川の、暗いブリキのようにかすかな光を放つ水面だけは、雪も何ら痕跡を残していなかった。アニメーション漫画の世界にもカラーが訪れつつあり、複数のスタジオで試作品が作られ、サウンドトラックも実用の粋に達して効果音を盛り込めるようになっていたが、真実は冬の夜とともにあることをフランクリンは知っていた。世界は音のない、白黒の場なのだ。》


三つの小さな王国三つの小さな王国
(1998/05)
スティーヴン ミルハウザー

商品詳細を見る


三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)三つの小さな王国 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
(2001/07)
スティーヴン ミルハウザー

商品詳細を見る
2005/04/10

柴田元幸『死んでいるかしら』(1997)

死んでいるかしら
新書館

 柴田元幸のエッセイをはじめて読んだのは(←ああまた過去を振り返っている)たしか高校の同級生が『生半可な学者』を貸してくれたときだったと思う。一方、この人が翻訳した小説で最初に読んだのは『Sudden Fiction2 超短篇小説・世界篇』でほぼ間違いないはずだが、当時は訳者の名前なんか気にしてなかったから、エッセイと翻訳のどちらが先だったかは憶えていない。その後いまにいたるまで訳書はいろいろ読んだし書評集も出るたびに買っているのに、2冊目の単独エッセイ集だった本書『死んでいるかしら』はなぜか読んでいなかった。おれはミーハーでさえなかったのか?

 個人的な懐疑は措くとして、感想の書きにくい本だ。いい意味で「立ち読みでもよかった」。「自分を消す」ことが翻訳の基本姿勢だとあちこちで述べる柴田元幸が自分のことを書いたエッセイは印象の薄いものになる――とかまとめるのは相当胡散臭いが、どうしても、本なり音楽なり、何かを紹介した文章の方に気が惹かれる。そんななかで抜群に面白かったのは、ニューヨークに実在したコリヤー兄弟の死にざまを扱ったものだった。
《一九四七年三月下旬、世捨て人同然にひっそり暮らしてきたこの兄弟が、半月あまりにわたって新聞紙上を賑わせることになる。三十八年のあいだ、他人が入ったことはたった二度しかなかったコリヤー邸から、二つの死体と、総計一二〇トンに及ぶ物品が発見されたのである。》

 世を疎んじて引きこもった兄弟の隠された生活。巨万の富を蓄えているという噂。侵入者を防ぐため屋敷じゅうに張りめぐらされたワナ。当時の新聞・雑誌の記事を追いかけて柴田元幸がまとめたこの奇体な物語はせいぜい6ページしかないのだが、ちょっと方向を変えればそれこそミルハウザーでも短篇に書きそうな要素が詰まっている。
《結局二階の窓から屋敷に入った警官が、死後およそ十時間経ったホーマー・コーリヤー(当時六十五歳)の死体を発見した。暴力の形跡はなく、手元にはしなびたリンゴの芯が一個あった。だが、弟のラングリー(六十一)が発見されるには、毎日数百~数千人の野次馬に囲まれながらの、二週間以上にわたる捜索が必要であった。》

 これが実話なんだから、興味をお持ちの方がいらしたら続きは立ち読みしてください。

 もうひとつ引用。
The Guiness Book of Innovationという本によると、開発当初は重さ百キロを優に超え設置に二人がかりで三日かかったという留守番電話がようやく小型・実用化されはじめて、とりわけ喜んだのは正統派ユダヤ教徒たちであったという。なぜか? 敬虔なユダヤ教徒たるもの、安息日(ユダヤ教の場合土曜日)には仕事を休み、体を浄め、掟どおりの食事をし、神をたたえその御業に感謝せねばならない。そしてこの戒律を厳格に遵守するなら、安息日には電話だって出ちゃいけないのである。でも留守電が出るぶんには、「機械のやることだから」OKというわけだ。》

 このほかにもユダヤ教徒にまつわるピソードがいくつかあって、これはおそらく、若き日の柴田元幸がもともとはユダヤ系アメリカ人文学のオーソリティになろうとしていたからだろう――というのは、やはり新書館から出ている三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』に入っていたインタビューから推測されることなのだが、こっちの本こそ立ち読みでよかった。


村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ
三浦 雅士
新書館 (2003/07/10)
売り上げランキング: 96,285
2005/04/05

05/04/05

 健康診断を受けてきた。まったくの健康体。貧弱だが健康、それがモットー。
 半年くらい前には60kg近かった体重は55.5kgまで落ちた。私の体は高校時代に戻りつつある。髪の毛だけがイヤ何でもない。
 血圧が100を切っていて、これは低血圧と呼ばれる部類らしいのだが、
測ってくれた医者によれば「ちょっとくらい低めの方が血管には良い」とのこと。
 つねづね、他人にはともかく自分には非常に甘い人間だと自覚していたが、血管にまで甘いとはわれながら徹底している。
2005/04/04

05/04/04

 実家に帰っていた土日、本に関するテレビ番組をふたつ見た。

 ひとつめはNHK衛星第2の「名作平積み大作戦」
 私は初めて見たが、毎回のテーマに沿った古典的名作を2冊、ゲストの人が紹介し、現役書店員が会場の反応を加味しつつ、どっちを平積みにしたいか決める番組(らしい)。
 で、つけてみたら今回のテーマは「『電車男』に感動した人にすすめたい名作」で、高橋源一郎が武者小路実篤の『友情』を、松尾貴史がスタンダールの『赤と黒』をプレゼンしていた。
 しいて面白かったところをあげるとすれば、こんなテーマのくせにさすがNHK、電車男が思慕するところの、有名ブランド名からとられた女性の名前を放送できず、「××××さん」にせざるをえなかった点だろうか。無理はいけません。

 ふたつめは「情熱大陸」
 日曜の昼に、この何年か顔を見ていない叔父から電話が来て「装丁家の鈴木成一が出るから見るように」と言われた。どうして私が帰省しているとわかったのか。そして、なぜすすめるのか。もう何もわからない。
(思い出せる限りのうちの親類縁者の中に好んで本を読む人間は2人しかおらず、その2人に叔父は入らない)
 番組は、年間600冊の本を装丁するというこの人(こわそうな風貌)に密着し、後半では村上龍の新刊の装丁作業をドキュメント。ゲラの束を持ってるところで「どうですか?」と訊かれ、「うん、厚いね」と答える姿は男だった。「読み終わるかどうか」。
 村上龍とは10年一緒に仕事をしているのに、まだ会ったことはないというエピソードがかっこいい。でもそれはこの本にも書いてあったよ。
2005/04/01

カフカ『失踪者』(1912-14?)

失踪者
池内紀訳、白水社(2000)

 小説を読むのはそこそこ好きだが、引用するのはもっと好きだ。そんな私が「ここを引用しよう」と思うのは、何らかの理由で他より際立っているように見えた部分なのだが、「何らかの理由」がじっさいどんなものなのかははっきりしない。小説はどこだって同じ文章というものでできているのに、どうして「際立つ」なんてことが起こるのか?

 そんなことを思ったのは、この『失踪者』が、「際立ってみえる部分」=「引用したくなる部分」が大部分、という妙な小説に思われたからだ。大部分が際立っている、とはまた変な言い方だが、冒頭、こんな素っ気ない文章で小説が立ちあがるのが早くも不思議で仕方がない。
《女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまった。そこで十七歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカへやられた。速度を落としてニューヨーク港に入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた。剣をもった女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした。像のまわりに爽やかな風が吹いていた。
 「ずいぶん大きいんだな」
 誰にいうともなくつぶやいた。》P7


 最初の数行は、文庫本の裏表紙によくあるあらすじ紹介のようでもある。そういえば、あらすじの文章と小説本文の文章がどうして違って見えるのかも、考えるほど謎である。

 書き割りのように平坦な世界で主人公が淡々とひどい目にあわされるのがカフカの小説だ。内面の独白はあるし、他人に窮状を訴えもする。しかし彼らの緊迫感は、目の前のページから浮かんで離れ、遠くに感じられる。生々しいはずのシーンでも、それを描く文章が変に素朴なために違和感がつきまとう(となると、それは生々しくもないのではないか)。
 カフカの文章は素朴でいてものすごく難解である。素朴な文章だから難解さが生まれるとして、しかし作品は「素朴すぎて意味がとれず難解」というのとも違う。ありえない状況を作中に取り込むには文章は逆に素朴なほうがいい、とまとめられれば話は簡単なのだが、それにしても、いったいこれはどんな世界なのか。
《グリーン氏がずんずん近づいてきたので、カールは壁に背中を押しつけた。グリーン氏は近づくにつれて、ますます大きくなり、カールはふざけて、ポランダー氏を食っちまったのではないかと考えた。
「なんていいかげんな人間なんだ。十二時と決めたのに、クララさんのドアの前をほっついている。しかるべきことを伝えると約束したぞ。だから来たんだ」》P99

《まごまごしているうちに時がたった。ホールの正面に時計があった。タバコの煙がたなびいているので、なかなか時刻が読みとれなかったが、やっと見定めたところでは、もう九時をまわっていた。》P121