2005/02/03

ヴォネガットのこと その1


 われながらよくわからなくなっているが、わからないまま、即物的にヴォネガットの話を続けてみる。

 カート・ヴォネガットがこれまでに発表した14の長篇小説は、すべて邦訳されてハヤカワ文庫に入っている(ほんとは長篇というほど長い作品はひとつもないのだが、短篇でもエッセイでもないという意味で「長篇小説」である)。いまではいくつか品切れになってしまったとはいえ、海外の作家にしてはアクセスしやすいといえるだろう。大きめの書店なら古い作品もあたらしめの作品も棚に並んでいて、目についたものから読むことができるのは、作品にとっても読者にとっても望ましい状態であると思う。
 しかし、そうやってつまみ食いみたいに読んでいったらいつのまにか全作を制覇していた、という段階に達した後で、今度はわざわざ「発表順に読み直してみる」と、それまでとはまた別の印象を受けることもあるかもしれない。絶対ないとは言い切れない。ある場合もある。というか、私はそうだった。
 以下はそのような特殊な読み方をした人間が、しかも多くを記憶に頼って書くことなので、どう転んでも偏見である。更新をサボっているあいだ、一応読み返してみようかと思ったものの、むかしあんまり好きだったので気恥ずかしくなり、ちゃんと対面できなかった。『チャンピオンたちの朝食』1冊を除き、文庫はまとめて本棚の奥底にしまいこんだままである。そういうものだ。

 こんな調子ではいけない。即物的。即物的に。続く。

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2005/02/03

ヴォネガットのこと その2


 形式についていえば、ヴォネガット作品の特徴とされる「断片的な構成」の始まりは、それこそ初期の『タイタンの妖女』『母なる夜』から見られるが、ここらへんではまだ、断片化は「短いエピソードの積み重ね」以上のものではない。大きな話を小さな章立てで語る、といえば足りる。

 次作『猫のゆりかご』(1963)は、主たる舞台を南の島に置いて、そこの社会の歴史や成り立ち、信仰されている架空の宗教といったディティールを、無数の断片によって並べている。章と呼べるほどのまとまりはない。本の厚さははむしろ減ったのに、断片の数は一挙に増えた。大きな事件(人類の滅亡!)も、その原因となる科学者のエピソードも、やはり細かい部品の積み重ねで語られる――のだった、たしか。

 このような作品は読者にどんな印象を与えるか。
 ふたつの断片のあいだ、「書かれたこと」と「書かれたこと」のあいだに私は、「書かれなかったこと」の存在を強く感じる(感じた)。この作家は、「書いていないこと」に、「書いたこと」と同じか、それ以上の重さを担わせる書き方を選んでいったように見える(最近復刊された処女長篇『プレイヤー・ピアノ』は、「何でも書こう」としている作品なので全作でいちばん厚い)。

「書かないことで語る」方法を見つけるのは、ヴォネガットにとって最大の課題だった。彼が作家になっていつか書こうとしていた対象、それを書くために作家になったとみずから語っている現実の題材は、しかし、どんなに書いても、どう書いても書ききれない巨大な出来事としてある、自身の戦争体験だったからである。

(発表順についてはこれなんか参照
2005/02/03

ヴォネガットのこと その3


「真面目に書こうとしたって書けやしない」。
 そんな態度は、『猫のゆりかご』で、人びとの幻想をあくまで幻想として見つめるクールな筆致として発現していた。世界中の水を常温で氷にしてしまう新物質という、無邪気な科学者の無邪気な発明であっさり終焉を迎えた人類の姿は、絶望的というよりコミカルに描かれている。

 コミカルに描くしかなかった、と言っていいのかもしれない。真面目・絶望的に書いたら嘘になる、だったらはじめから嘘として書いてしまおう――「猫のゆりかご cat's cradle」とは英語で「あやとり」の意味で、あやとりをする人は複雑に絡み合わされたヒモに動物や建造物の姿を見る。しかし、どんなに複雑でも実はそこにはヒモしかない、とする視線がこの作品を貫いている。おそらくヴォネガットにとっては、小説で何か本当のことが書ける、と信じるのも幻想だったのだ。
 たとえば人間の愚かしさを嘆くなど、率直な意見を表明しながら、自分の書いているそのことからも距離を取る上述のスタンスは、架空の世界を扱う『猫のゆりかご』をすみずみまで統制のとれた傑作にする一方で、現実としてあった戦争を書くのをいっそう難しくした。

 1922年生まれのヴォネガットは第二次世界大戦に一歩兵として従軍し、ドイツ軍の捕虜となった。収容先の都市ドレスデンは、1945年2月13日、連合国軍の激しい空襲に見舞われる。食肉工場(スローターハウス)の地下室に避難した捕虜たちが翌朝外へ出てみると、街は灰になっていた。
 味方が行った無差別爆撃を、敵軍の捕虜として受ける。この体験を『スローターハウス5』として作品に組み入れるまでに、ヴォネガットは24年の年月を要した。


 おかしい。『チャンピオンたちの朝食』から引用するだけのはずだったのに。

2005/02/03

ヴォネガットのこと その4


『猫のゆりかご』から『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』をはさみ、『スローターハウス5』(1969)でヴォネガットは一挙にヴォネガットらしくなる。
 妙な言い方だが、いま現在のわれわれがブックガイドその他でヴォネガットについての情報を得る際に、「断片的な構成」と並べて言及される独特の手法、「断片ごとに作中の時間が前後する」スタイルが確立されたのがこの『スローターハウス5』だった。

 自分の意思と関係なく過去・未来に飛んでしまう性癖を主人公に付与し、加えて、「過去→現在→未来」という地球人の時間概念を持たない宇宙人を登場させる合わせ技によって、『スローターハウス5』は作中の乱れた時間配列に説明をつけようとする。
 もっとあとの作品だとよりスマートに、つまり説明なく時間が行ったり来たりするようになる(たとえば『青ひげ』や『ホーカス・ポーカス』)のだが、見事な建築の外観よりも、それを内部で支える鉄骨に惹かれてしまう人間がいるように、変わった趣向を取り込もうと四苦八苦する姿を隠さない『スローターハウス5』の方が私は好きだった。お前の好みかよって話だが、先にも書いた通り、「ヴォネガット的」として語られることの多い形式面の特徴は、ほとんど『スローターハウス5』一作で完成したのである。

 それらはみんな、苦肉の策だった。ドレスデンでの体験を描くために構想されたはずのこの作品の本篇は、主人公を紹介するより前に、「どうして自分には戦争小説が書けないか」をくどくど語る作者の言い訳から始まる。
 小説で戦争を止められるわけがない(「反戦小説を書くなら反氷河小説を書いたらどうだ?」いう台詞があった)のだから、自分は無駄なものを書こうとしている。どれだけ書いても実体験には追いつかない以上、戦争を経験した人間に戦争は書きえない。そんな逆説を事実として受け入れるところにヴォネガットの倫理の基準はある。
《「サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だがそれは、大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつないからなのだ。今後何もいわせず何も要求させないためには、ひとり残らず死なねばならない。」》

2005/02/03

ヴォネガット その5


《「メアリ、この本がほんとうに完成するのかどうか、いまのところぼくにはわからない。もう五千ページやそこら書いているのに、みんな気に入らなくて捨ててしまった。しかしもし万一、これが完成するものなら、ぼくは誓うよ。フランク・シナトラやジョン・ウェインが出てくる小説にはしない」》

 そんなわけで、『スローターハウス5』の主人公は、戦地へ赴く前に時間をスキップして戦後の生活を送り、「トラルファマドール星人」の円盤に誘拐され星の彼方の動物園に収監される。
 ひとりの英雄も勇ましい戦闘シーンも描くことなく、珍奇な挿話のパッチワークで飛び石を渡るように進んでいくこの小説が、主人公と読者を連れて終り近くでたどり着くドレスデンの爆撃、第二次大戦における最大規模の空襲として本作の核心になると予告されていたクライマックスは、分量にして文庫本の見開き2ページにも満たない。これがヴォネガットの戦争小説である。

 トラルファマドール星人には時間の観念がないという。過去も未来も現在と共にあり、だから何ものも失われることがなく、悲しみもない。悲劇とは、当の出来事が起こった後からふりかえる視線によって「あれは悲劇だった」と解釈され作りだされるものだ――そんな与太を信じたいヴォネガットは、ふりかえらずに『スローターハウス5』を書こうとする。
 それはごく普通の意味でのストーリーテリングを避けることにつながった。ヴォネガットは作中で起こる物事をあらかじめ明かし、時間の経過と無縁な時の一点に小説を置こうとする。もちろん欺瞞だ。小説がページ順にめくられて線的に読まれる以上、『スローターハウス5』には『スローターハウス5』なりの組み立て方があり、『スローターハウス5』なりの伏線の張り方がある。作者が「これは失敗作になる」と認めてスタートした『スローターハウス5』は、戦争小説としては失敗したのかもしれないが(成功ってなんだ?)、小説としてはぜんぜん失敗していない。

 13万の人間を一晩で殺した爆撃を言葉で語りうるという幻想を排し、それでも何事かを語ってみるために、不自然で不恰好な小説をヴォネガットは書いた。そして彼自身がインタビューで答えているところによれば、その『スローターハウス5』に活かすことのできなかった材料を寄せ集めた「残りかす」が、次作『チャンピオンたちの朝食』であるという。
2005/02/03

ヴォネガットのこと その6


『チャンピオンたちの朝食』(1973)の舞台は、それが書かれた当時のアメリカになった。主要な登場人物はふたりいて、自動車販売業を営む裕福なドウェイン・フーヴァーと、貧乏小説家のキルゴア・トラウト。
《これは、臨終の近いある惑星で起きた、ふたりの痩せて孤独な、かなり年とった白人の出会いの物語である。》


 何の接点もないふたりが、「アート・フェスティバル」の会場で遭遇するまでの道筋をひとまずのストーリーラインとして進行する本作は、全篇が382の短い断片で構成され(数えた私も暇である)、ふたりをめぐるエピソードのほかに、この小説を書き進めつつある作者「わたし」のコメントと、大量のイラストが頻繁に挿入される。宇宙人その他のSF的道具は、合間合間に紹介される「トラウトが書いた小説」の中で使われるにとどまる。
 こういうことができるので断片形式は便利だというか、こういう作り方をするから小説が断片化してしまうというか、それはどちらでもいいとして、では『チャンピオンたちの朝食』(以下『朝食』)が普通の現代小説なのかというと、ヴォネガット自身が「もとはひとつの作品だった」というだけあって、この作品にはたしかに『スローターハウス5』と同じ影が落ちている。
『スローターハウス5』の後半で、作者は次のような言葉を洩らす。
《この小説には、性格らしい性格を持つ人物はほとんど現われないし、劇的な対決も皆無に近い。というのは、ここに登場する人びとの大部分が病んでおり、また得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎないからである。いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うことなのだ。》

 典型的には、整列させられたアメリカ兵捕虜のひとりがいきなりドイツ兵に殴り倒される場面があった。彼には、どうして自分がそんな仕打ちを受けたのか理解できない。
《「なぜおれを?」と、男は警備兵にいった。
警備兵は男を列に押しもどした。「なぜお前を? だれだろうと同じだ。」と、その兵はいった。》

 戦争には個人がいないことになっている。一兵士には名前がない。被害者は名前まで奪われる(ドレスデン爆撃の死者が「13万5千人」というのはただの数字であり、しかもカウントには大きな幅がある)。大量殺戮の現場は、人間を究極的に無名化する場所としてあらわれる。
 そして、戦場から遠く離れていながら、同じく個人を無名にする方向へ進んでいるものとして現代社会を描いたのが『朝食』なのである。

2005/02/03

ヴォネガットのこと その7


『朝食』の登場人物たちが暮らす社会はひどく暗い。
 そこでは金と物だけがむなしく求められている。達成されたはずの繁栄は決して「いいもの」としては描かれない。家族や地域の共同体といったつながりは失われ、生活環境は島宇宙化した。科学の発達も、ものごとから人間を排除する方向に世界を変える技術、公害をたれ流す源泉といった、否定的な見方でしか捉えられていない。
 そんななか、金のある人びとは整然と区分けされた高級住宅地で誰にも干渉せず誰からも干渉されない小ぎれいな生活を送り、そちらに入れない貧しい人びとはみじめな裏町でみじめな生活に身をやつしている。富めるドウェインと売れないトラウトによって代表される両極端の生活を、互いに別物としたまま、まとめてのみこみつつあるのが「均質化」の波である。

『朝食』を読む限り、均質化された社会とは、それなりの便利さが行き渡った一方で、誰が誰でもいい社会のことである。政府や巨大企業の前に、個々の人びとは無力であることがはっきりした。ないがしろにされた人びとは、自分でも、自分をとるに足らない人間だと感じるようになる。コマーシャルの声だけがうるさい。
 自分が自分であることが必要とされなくなって、人間は孤独になったとヴォネガットは見る。社会の趨勢としてやってきた「個人の価値の下落」という問題が、『朝食』にのしかかっている。誰からもうらやまれるような羽振りのいい生活を送りながら、ドウェインは静かに狂いつつある。彼の妻は何年も前に洗剤を飲んで死んだ。
《ドウェインの飼犬のスパーキーは、ドウェインがバスルームの中で銃を撃ちまくったときには、地下室に隠れていた。しかし、いまは外に出ている。スパーキーはドウェインのバスケットボールを見物した。
「おまえとおれだけだよな、スパーキー」と、ドウェインはいった。その他いろいろ。彼はこの犬が大好きだった。》

 ところで念のためいっておくと、社会の発展や進歩ともとれるはずの規格化・画一化をあくまで否定的に見る『朝食』のスタンスがそれほど独創的だとは、私には思えない。1973年にこのような視線がどれくらいインパクトを持ちえたか、ぜんぜん知りたくないわけではないが、正直、発表時の評価はどうでもいい気がしている。だって、悲観的になりたくて本を読む人はあまりいないだろう(私は軟弱なのだろうか?)。
 個人的に面白いと思うのは、ヴォネガットが、このような社会の変化を「平面化」として捉えている点である。
2005/02/03

ヴォネガットのこと その8


 世界は平らになりつつある、それはいけないことだ、という考え方がヴォネガットの根っこにある。
 ところで『朝食』には、繰り返し繰り返し、プラスチックが登場する。それは科学によって生まれたこの上なく便利な素材であり、それこそ規格化された商品の大量生産を可能にする物質そのものであると同時に、どこまでも続く平面を暗示する。

 暗示する、と書いたが、これは何も、社会はプラスチックのように平面的になりつつある、というような「もののたとえ」として言及されるだけではない。実際そこらじゅうにあふれているプラスチック製品は、『朝食』の世界でももちろん重宝され、あちこちで公害を引き起こす。
(観光名所だった「聖なる奇跡の洞窟」は、地下水に混じったプラスチックのせいでめちゃめちゃになる。キルゴア・トラウトが汚染された川に入ると、両脚がプラスチックに包まれコーティングされてしまう)
 小説の後半でヴォネガットは、プラスチックの分子式をイラストで示したうえで、どこまでも続くこの構造を小説に取り入れたと述べる。
《このポリマーの連続性を認めるために、わたしはたくさんの文章を「そして」や「そこで」ではじめ、たくさんのパラグラフを「……その他いろいろ」で終わらせることにしたのだ。
 その他いろいろ。
「すべては海のようだ!」とドストエフスキーはさけんだ。わたしにいわせれば、すべてはセロファンのようだ。》

 皮肉なのか自棄なのか、変な人である。ブツ切れの断片を並べて小説をつくるのは何もこれがはじめてではないのだが、このようにして作者が自分で(しかも作中で)述べてしまう意図はともかく、これらの書きぶりから私は自動的に『猫のゆりかご』を思い出してしまう。
『朝食』で世界を画一化する役割を担うプラスチックは、ヴォネガットにとって、『猫のゆりかご』で地球を凍りつかせた化学物質「アイス・ナイン」と同じ捉え方をされているように見える。どちらも社会を平面にしてしまうのだ。ヴォネガットはこういった均質化・画一化・平面化を、止まらない流れとして受けとめている。

2005/02/03

ヴォネガットのこと その9


『スローターハウス5』では戦場の異常事態だった個人の無名化が、均質化していく世の中で静かに進行している。戦場と普通の社会がつながりつつあるのを描こうとしたのが60年代後半のヴォネガットだったのではないか。構想された作品は結局完成せず、『スローターハウス5』と『朝食』に分かれた。
(再掲・作品年表・人様のものだけど)

『猫のゆりかご』より3年あと、『スローターハウス5』よりは3年前にあたる1966年に発表されたトマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』(The Crying of Lot49)は、画一化の方向で整備されていくアメリカに反体制秘密郵便結社〈トライステロ〉なる異物を投げ込むことで多様性を維持できないか、そんな期待を花火にして打ち上げた小説だった(と私は読んだ)。主人公のかつての愛人、一代で莫大な財をなした奇矯な実業家ピアス・インヴェラリティがビジネスのコツとして語っていた信条が、小説の最後半で思わせぶりに示されている。
“Keep it bouncing,” he'd told her once, “that's all the secret, keep it bouncing.”
《「いつもバウンドさせておくんだ」と彼は言ったことがある――「秘訣はそれだけ、ボールのように弾ませておくこと」》

 平面では何もかも死ぬ。ヴォネガットとピンチョンは同じことを問題にしている、というのは、15歳の年齢差があるとはいえ、両者とも同じ国の同じ時代を生きていたのだから当然のことであるだろう。なにしろ私はカウンターカルチャーなるものに無知なので、こういう符号にいちいち感じ入ってしまう。
 画一化から排除された者たちを繋げるネットワークが実在するのか、主人公の妄想に過ぎないのか、明確な解答を出さないところに『競売』の肝はあって、この作品はシステム化された社会を撹乱してくれる〈トライステロ〉の出現を心待ちにする雰囲気を濃厚に孕んでいたが、それから7年後の大作『重力の虹』になると、「システムを撹乱する分子」さえももっと大きなシステムの一部に組み込んでしまう巨大な力が全体を覆うことになる。
 ピンチョンの大長篇が出版された1973年は『朝食』の出た年でもあった。一方のヴォネガットは、平面化する世の中にあって従来の「個人の価値」が否応なしに下落するのなら、価値のとらえ方それ自体を革新できないかと考える。まだ続くのか。

2005/02/03

ヴォネガットのこと その10


 そもそも、宮沢章夫の演劇を見て気になった「作者と登場人物の関係」について、ヴォネガットが小説で妙なことをやっていたのを思い出し、ちょっと引用してみたかっただけなのだ、私は。
 いまだに本題にさしかかっていない。

 ○ ○ ○

 前回、ヴォネガット(1922年生まれ)とピンチョン(1937年生まれ)が社会の進みゆきについて同じ見方をしている、と書いたが、そこで生きる人間となると両者は違った層を見ている、と付け加えておかないことには2人を並べた意味がなかった。
 ピンチョンが「社会の均質化からこぼれ落ちてしまった者たち」「排除されたアウトサイダー」にこだわるのに対し、ヴォネガットが見ているのは、意思と関わりなく社会に組み込まれた人びと、つまり「普通の人間」である。

 個人を個人として見ず、誰とでも取り替えのきく存在として取り扱う方向に世の中が進んでいくと、「普通の人間」の側でも、自分のことを価値がないと思うようになる。
 それはよくないと考えるヴォネガットは、しかし、人が自分の内に「かけがえのない個性」とか「本当の私」とかいったものを探すことで個人の価値が回復されるとは考えていない。ぜんぜん、考えていない。
(まわりから見ても、本人にとっても、事態はむしろ逆である。『母なる夜』[1962]の主人公はアメリカのスパイで、第二次大戦中、ドイツのラジオ局に潜り込み、ナチスの宣伝放送をしながら連合軍に暗号を伝えるなどして活動するのだが、戦争が終わると単にナチスの人間として裁判にかけられてしまう。誰も彼を助けられない。「表向き装っているものこそが実体である」とヴォネガットは断言する)

『朝食』のなかで、作者の「わたし」がうるさいくらい繰り返すのは、人間の言動を説明づけるのは個性でも無意識でもトラウマでもなく、脳内物質の化学反応だけだという見方である。登場人物たちは、ウェイトレスとか運転手といった役割によって認知される。
 内面なんかあるものか、と強調するかのような「わたし」の視線は一見シニカルだが、もちろん、何事も強調しすぎるとかえって怪しいのは事実であって、ヒステリックな「わたし」の声にも何かしらの屈折を感じないわけにはいかない。
 そして実際、小説も半ばを越えた頃になって、そういった即物的な見方はヴォネガットによる人間観の転換に必要な布石だったと判明する。

2005/02/02

『朝食』のこと その1


『チャンピオンたちの朝食』で物語の中心になるのは、各界の芸術家を招いて開かれる華々しいお祭りとして企画された、アート・フェスティバルというイベントである。
 富豪ドウェイン・フーヴァーは、誰も自分を1人の人間として扱ってくれない現状に疲れ果て、徐々に気が狂いつつあるが、短時間よみがえった正気の時間に「新しい人たちから新しいことを聞」くためフェスティバルの会場に行ってみることを思いつく。
 貧乏作家キルゴア・トラウトは、いくつかの偶然と勘違いにより「大作家」として招聘され、やはり会場へ向かう。

 当の開催地ミッドランド・シティは何もない空疎な町で、フェスティバルに協力している地元の人びとにしても、芸術に特別な興味があるわけではない。

 私がここで引用してみたかったのは、『朝食』で示される(1)作者と登場人物の関係についての奇妙な考察だったが、それには、(2)同様に奇妙な人間観を紹介しておくことも必要な気がする。
 長くなるので引用は次回以降だが、このふたつをヴォネガットは、ドウェイン/トラウトという主要キャラの描き方によって実践的に示す一方で、その理屈・考え方を、「わたし」という語り手を通し直接的に説明してしまいもする。
 きっかけになるのは、上記2人の出会いに先立つ一場面、フェスティバルに来賓として呼ばれこの町に滞在している抽象画家と小説家をめぐるシーンである。
 小説のはじめから様々な評言を差し挟んでいた語り手の「わたし」は、ここに至って、1人のキャラとしてミッドランド・シティを訪れ、やはり小説の1キャラである芸術家の演説に立ち会う。

2005/02/02

『朝食』のこと その2


 それまで語り手だった「わたし」は、作者としてミッドランド・シティの酒場に現われる。
《わたしがそこへきたのは、自分の創りだしたふたりの人間、ドウェイン・フーヴァーとキルゴア・トラウトの対決の場に立ち会いたかったからだ。》


 どれほど意味があるかは疑問だが、ちょっと考えてみる。
「わたし」が語り手の位置にとどまっている時点であれば、ヴォネガットと『朝食』にはこのようなレベルの区分があると言えなくもない。

 (a)現実世界のヴォネガット
 (b)『朝食』の作者であるヴォネガット
 (c)『朝食』の語り手である「わたし」のいるところ
 (d)「わたし」によって語られるキャラたちの世界

(a)と(b)の違いにはとりあえず触れない。(c)+(d)がここで読んでいる小説『朝食』である。
 極端に単純化すれば、(c)が『朝食』の語りのレベル、(d)が物語のレベルと言えなくもない。ここまでは(c)と(d)のあいだに距離が保たれていたからである。「わたし」はやたらと口数が多いとはいえ、ドウェインやトラウトやその他の人びとの言動を示しつつ外側からコメントを加える立場にあった。
 それが、上の引用の通り、作品の途中で「わたし」は(d)に入り込む。
「わたし」の語っている世界に当の「わたし」も侵入させることで、ヴォネガットは(c)と(d)の垣根を取り払ったように見えなくもない。登場人物の1人が語り手、というのはごく普通の一人称小説である(突き詰めればおそらくハードボイルドになる)。
 けれども、そのような移行の一方で、「わたし」は自分が作者であるという姿勢を崩さない。すると変なことになる。
《バーテンから追い出しを食うおそれはなかった。なにしろ、彼を創りだしたのはこのわたしなのだ。わたしは彼に名前を与えた――》

(d)に降りてはきたが、本来(c)に属する「わたし」と(d)の住人には明確な差があるのを「わたし」は強調する。この世界の創造主として設定されたキャラクターである語り手「わたし」は、しかも、自分がそのまま(b)のヴォネガットであると言いたげである。

2005/02/02

『朝食』のこと その3


《わたしはカクテル・ラウンジの薄暗がりで、宇宙の創造主と互角の地位にあった。わたしは宇宙を縮めて、直径一光年のボールにした。》

 創造主の力を持った1キャラ。
「わたし」は、自分が作り出したというウェイトレスに酒を持ってこさせたり、こちらに不審の目を向ける他のキャラの気を逸らせるため近くの電話を鳴らしたりといった行動を続ける。素直に読むと、無茶苦茶なことが起きているような気がする。

 とはいえ、これをもって「作者が作中に現われた!」と騒ぐのは何か間違っているとも思う。素直ではなく素朴に考えたい。

 どんなに無茶にふるまっていても、「わたし」を作者だからといって他のキャラと区別する理由はないはずである。「わたし」が他のキャラに名前をつけたり、操ったりできるのは、単にそう書いてあるからそうなったにすぎない。この「そう書いてあるからそうなった」を可能にするのが創造主であるということであり、つまり、「わたし」が語り手であるということである。
 これはレトリックではない。

 どんな文章にも語り手はいる。徹底的に三人称で統一された、「私」も「おれ」も出てこない文章であっても、いわばカッコに入れられた(私)(おれ)を想定することはできるから、三人称は語り手が表に出てこない一人称と言える。
 なんか書き方が回りくどいが、そこに文章があるのなら、それを語った人がいる、というだけの話だ。別に人でなくても構わない。

 どんなにオーソドックスで、実験的なところは何もないごく普通の小説であっても、語り手は創造主である。ただ、そのような小説の語り手は、自分の語った通りにこの小説はできあがるという原理には触れず、また、読者の想定する「小説についての常識」に激しく反する語り方はしないだけである(常識はけっこう強固だし、大事なものだと思う)。
 どんな語り手も『朝食』の「わたし」と同じように、自分を特権的な立場として描いたり、「わたし」にだけ都合のいい展開をくりひろげることはできる。多くの作家がそういう語り手を採用しないのは、書こうとしてる小説が求めるスタイルの問題であって、語り手の持つ力がもとから異なっているわけではない――って、ああ、とことん当たり前のことしか書いてないな。悲しい気持で続く。

2005/02/02

『朝食』の続き その4


「わたし」は(1)自分がこの小説の語り手であり、(2)作り手であるという。
 (1)については、まあそうだろう。しかし(2)は、前にも書いたように、小説の中ではそういうことになっているというだけだ。いわば設定である。

 現実には“「わたし」によって語られたことになっているこの小説”を作った人間がいて、それがカート・ヴォネガットだといえる。ここの表でいけば(a)か。
(ほんとは、「わたし」という語り手に語らせるかたちでこの小説を語っている語り手、という存在を措定するべきかもしれない。それはおそらく、「わたし」と現実の人間ヴォネガットのあいだに位置する(b)になるのだが、それにつけても、自分がよくわかっていないことを表にしてはいけません)

 なんにしろ、語り手と作者は別物である。『吾輩は猫である』の語り手は猫だが、漱石は猫だったと考える人はいないだろう。そこの区別が『朝食』では見えにくいとすれば、それは語り手が「わたし」という人称を使い、自分を作者だと詐称するからにすぎない。本来はそれだけのはずだ。
 以上のことを受け入れてはじめて、小説を小説として読める。

 けれども、そのように考えたうえでなお、「わたし」と書いてあったらそれは書いている人間のことだとする読み方の立ち入る余地も認めておかないことには、ある種の小説はどうも正しく読めない気もするから複雑である。そして『朝食』は、明らかに「その種の小説」なのだ。
 ここまで書いてきたことからすれば、そんなのは杜撰な読み方であるだろう。
 しかしどうやら、杜撰に読まないといけない場合もあるんじゃないかと、私は薄々思っている。

 それがどんな場合かを明確に示せるほどの分析力があれば、私もこんなにぐだぐだ続けてはいない。話がわかりにくいのは私の能力の問題もあるが、でもそれだけじゃないらしいのだ。
 息切れ感が否めないものの、まだ続く。

2005/02/02

『朝食』のこと その5


「わたし」と、『朝食』を書いているヴォネガットは違う。さらにいえば、『朝食』を書いているヴォネガットと、現実に生活しているヴォネガットも違う。
 けれども、それぞれに重なる部分がある以上、三者をまったく別物とするのも完全に正しいとはいえない。彼らはお互いに干渉しあう。

『朝食』のなかで活動する「わたし」は、他のキャラと違いのない一登場人物である。つまり語り手だってキャラの1人である。
 けれども、語り手であるキャラと、語られるだけの他のキャラが完全に同じかというと、これも疑問である。

 書き手について、または登場人物について、いくつかのレベルが折り重なって存在している。私たちは小説を読みながらそれらを認識する。レベルのあいだに違いがあることはわかる。しかし、どんなに目を凝らしても、というか目を凝らすほど、レベルの境目は不分明になり、はっきり線を引くことが難しくなってくる。これをどうしたものだろう?
 どうするもなにも、そういうものであるというのが、イタロ・カルヴィーノの意見である。
 このイタリア人には「文学における現実の諸レベル」という評論がある。そこで彼は、「文字言語のなかで複数の現実レベルを関連させる操作こそが文学作品だと定義できるかもしれない」と語り始め、「小説を書くにあたって、書き手はまず、最初のキャラとしてその小説の作者を創造しなくてはならない」なんてフレーズをさらりと書き流し、同じ文章でも読み方によって語り手と語られる内容がひとつのレベルにあったり別のレベルになったりする事態を例証して、最終的にはこう結論する。

《文学は、現実がどのようなものであるか認識しない。それが認識するのは、現実には様々なレベルの層があるということだけである。現実なるものが存在し、様々なレベルはその一側面にすぎないのか、あるいは、存在しているのはレベルの層だけなのか、それは文学には決定できない。文学は、様々なレベルがあるという現実を知っている。》

 であれば小説の読者は、様々なレベルのあいだでふらふら揺れながら、答えを出さずに読むしかないんじゃないだろうか。
 なんて中途半端で曖昧な。自分でもそう思う。とはいえ、中途半端で曖昧で一貫性がなく、見方によってくるくる姿を変えるルーズな文章の集積が小説なんじゃないだろうかと私は考えている。文字・言葉というまったく同じ素材からできている小説のなかに複数のレベルが見出せるという事実が、私にはいまだに不思議で仕方がない。

2005/02/02

『朝食』のこと その6


 先日、青山南による90本近くの映画コラムを集めた『レイトショーのしあわせな夜に』(洋泉社)を買ってきてちょっとめくったら、いきなりこんな文章が出てきた。何の映画についてかはひとまず関係ない。
《主人公がいない、というか、バトンタッチされるみたいにしてつぎつぎと主人公がかわっていくスタイルは、ずっと昔に、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』を読んだときに初めて出会い、そのときは、なんだ、これは、と仰天したものだったが、いまはもうめずらしくもなくなった》


 自分でも忘れそうになっていたが、何年か前に読んだ『朝食』があらためて気になったのは、宮沢章夫がたびたび言及する「主役と脇役」問題、フィクションの作り手が、作品の都合に合わせてキャラを扱える自分を疑問視するのを見て、「まるでヴォネガットみたいだ」と思ったからだった。
 そう考えて青山南の書いていることを見ると、たしかに『朝食』はそんな小説だった。そこまで忘れていたわけではないが、ここしばらく、小説の一部分ばかり見ていた。
 私は『朝食』の主要なキャラクターをドウェイン・フーヴァーとキルゴア・トラウト、そして途中から彼らと同じ地平で行動する語り手の「わたし」だと思っている。それはこの3人が、他のキャラに比べて出ている時間が長いからだが、登場する他の誰かを使ってもヴォネガットは『朝食』のような作品を書けただろうかといえば、たぶん無理である。この3人は外せない。そこが『朝食』の核心である。あるいは、届かなかった核心。
 この職業小説家は、世間の人間の遇され方と、小説のキャラの扱われ方を同列に見ようとした。そこのところの理屈が中盤で「わたし」の口から語られる。触媒になるのはドウェインでもトラウトでもなく、アート・フェスティバルいうお祭りにやってきた画家と小説家だった――ということもいちど書いていたのか。これ以上忘れたくないので、今度こそ、あとは引用だけにしたい。



 なお、『レイトショーのしあわせな夜に』にはこんな一節もあった。
《「爆弾がおちてる最中になにが芸術だ」
 いやだね、こういうのって。こういうこというやつらって、爆弾がおちてなくても、「なにが芸術だ」っていうんだよな。》
2005/02/02

『朝食』のこと その7


『朝食』の話。もう即物的に続ける。
 ミッドランド・シティというところで開かれたアート・フェスティバル。主要キャラのドウェインとトラウトがまだ揃っていない時点で、語り手だった「わたし」が他のキャラに混じって姿を現す。ヴォネガットは「わたし」に、自分がこの小説の作り手だと宣言させ、同時にこんなことも言わせる。
《自分が創りだした登場人物に対するわたしの支配力についてひとこと――わたしは彼らの行動をごく大ざっぱにしか誘導できない。彼らがとても大きな動物だからである。慣性にうち勝つのがたいへんだ》

 ふざけてるのか。それとも、いろんな作家がしばしば述懐するところの「キャラが勝手に動き出す」という意味なのか。

 ともあれ、ここでどうしてヴォネガットが「わたし」を小説内に侵入させたのかというと、その理由はわりに簡単である。
 自分があるキャラに言わせた台詞があんまり感動的なので、みずからもキャラの1人としてその場に立ち会いたくなったから。
 こう書くと馬鹿みたいだがこれは本当で、しかも切実な話なのだった。

 小説家ヴォネガットは、大部分の小説が嫌いである。敵視していると言ってもいい。
 なぜなら、これまでに数え切れないほど書かれ、これからも書かれるだろう小説の多くは、彼にとって、社会の平面化を原因とする個人の価値の下落を助長するものだと考えられているためである。
 自分の作品を「フランク・シナトラやジョン・ウェインが出てくる小説」とは違ったものにするために小説の結構を一から組み立て直さないといけなかったこの作家が抱き続けてきた問題意識は、『朝食』において、上述のような形で語られる。

2005/02/02

『朝食』のこと その8


「わたし」の登場したミッドランド・シティの酒場には、ちょうど芸術家として町に呼ばれた2人の人間が座っている。売れっ子小説家のビアトリス・キーズラーと、抽象画家のラボー・カラベキアン。
 しばらく前に私は、ヴォネガットがこの小説を貫く《理屈・考え方を、「わたし」という語り手を通し直接的に説明してしま》うと書いた(その1)。ようやくその続き。

 ここまで、『朝食』のヴォネガット視点ではこういうことになっていた:
・自分たちの暮らすこの社会は均質化しつつある
・というのも、政府やら何やら、大きな力に対して個人はまったく無力だし、
・科学の力で世の中が「進歩」するほど、他の誰かと取り替えのきかない特定の個人、は要らなくなるから
 1970年代の話であるのはともかく、こういったことからヴォネガットがいちばん問題だと考えているのは、普通の人間が自分のことを取るにたらない存在だと思うようになってしまった、ということであるらしい。
 ここらへん、『朝食』の副読本として読める『ヴォネガット、大いに語る』(サンリオ文庫)ではっきり言葉にされているが、「わたし」に言わせれば、人びとの自己評価が下がるのにはもうひとつ大きな原因がある。いわく、フィクションの作り手が悪い。
 ヴォネガットが、いや、「わたし」が――おそらくは、「わたし」=ヴォネガットが、上に名前をあげた小説家のキャラに投げつける言葉は相当に手厳しい。というか、無茶苦茶に見える。
《わたしはビアトリス・キーズラーを、人生には主役と傍役、重要なディティールとそうでないディティールがあること、そこには学ばねばならない教訓と通過しなければならないテストがあり、また、発端と中間部と結末があることを、人びとに信じさせるため、ほかの旧弊な物語作者たちと手を組んだ人間だと思う。》

 私はもともと、主役と脇役(傍役)についてのヴォネガットの考え方が気になって『朝食』をつつきまわしているのだが、この人の関心はここから出発していた。あるいは、ここまでたどり着いた。
 作家ヴォネガットの目には、小説におけるキャラの扱いと、世の中での人間の扱われ方が重なって映るのである。

2005/02/02

『朝食』のこと その9


《なぜアメリカ人があんなにしょっちゅう、おたがいを銃で撃ち殺すのか、その理由はここにある――それは、短篇でも一冊の本でも、小説を終わらせるのに便利な文学的手法の一つなのだ。
 なぜこんなに大ぜいのアメリカ人が、政府からまるで使い捨てのティッシュ・ペーパーのような扱いをされているのか? それは、小説家が作り物のお話の中でいつも端役をそんなふうに扱うからである。》

「主役-脇役」の区別が明瞭な、その意味で「旧弊な」物語が、巷間にあふれるフィクションのかたちで世の中に浸透したために、人びとは自らを損うようになったと「わたし」は考える。

 そんな関連が本当にあるのか、証明しようがないんだから詮索しても意味がない。ここで読者は、1人の職業小説家がこんな認識にとらえられてしまった姿を見るだけである。
「わたし」の舌鋒はえらく鋭いが、そのせいで、この作者らしき人物の声がビアトリス・キーズラー的な小説家を非難しているだけではないのが見えてくる。
 実際には、ヴォネガットはヒーローらしいヒーローの出てくる作品をひとつも書かなかった。それでも、登場人物という他人を不当に軽く扱うことのできる作家という立場に自分もいることを、この人は過剰に意識している。何百のビアトリスと同じ力を自分も持っている。だから上の引用のすぐあとでこう言う。
《わたしはストーリーテリングを避けようと決意した。人生について書こう。どの人物にも、ほかの人物とまったく同じ重要性を与えよう。どの事実にも同じ重みを持たせよう。なに一つなおざりにはすまい。ほかの作家たちには、混沌の中に秩序を持ちこませておけ。わたしは逆に、秩序の中へ混沌を持ちこもう。自分ではそうしたと思う。》

 一足飛びにいうと、ヴォネガットは、小説のキャラひとりひとりをまっとうに扱うことで世の中をよくしようとしたのである。
 これは夢見る小説家の他愛ない思い付きだろうか。ウェブの日記で紹介するには恥ずかしい、素朴でナイーブな理想主義だろうか。私は単純に、狂気の沙汰だと思う。

2005/02/02

『朝食』のこと その10


 小説と社会を重ねる見方を自分でしたうえで、「小説家である以上、世の人びとの自己評価の低下には、自分にも責任がある」とする。
 ヴォネガットの態度は、倫理的というより、どうかしていると思う。このような信念から「わたし」が『朝食』の最後でどういう真似をするかはひとまず措くとして、安易な連想のラインで私が思い出すのは、村上春樹の不思議な責任感である。

 10年前、オウム真理教の実態が明るみに出た時にこの作家は、
「教団が信者に与えたジャンクな物語を凌駕するだけの物語を、われわれ小説家は提供することができなかった。その意味で、自分たちはオウム事件に責任がある
といっていたのだった、たしか。
 いまうちの部屋には『アンダーグラウンド』もないのでもうまったくの記憶だけで書いているが、「粗悪な物語」を「良質な物語」で駆逐する、そういうことができる、とするこの作家の考え方は、やはりナイーブというより狂気の側に近いように思えてならない。あるいは私があんまり臆病にすぎるのかもしれないが、こと物語の力が云々、という話に関しては、いつも生活者の立場に身を置いている(と自称する)村上春樹より、おそらくずっとハイブローでアカデミックなウンベルト・エーコの方が地に足がついているように見えて(こことかこことか、そんな話だった、そういえば)、その対照にまたいくらか興味を覚える。『海辺のカフカ』から『アフターダーク』ときて、春樹の次作はどんなお話になってしまうのだろう。

『朝食』の話だった。
 通俗小説家の代表として「わたし」に非難されたのはビアトリス・キーズラーという作家だった。こんな世の中に誰がした、と憤る「わたし」の次なる標的は、キーズラーの隣に座っていた抽象画家のラボー・カラベキアンである。子供でも描けるような幼稚な絵――単色のキャンパスに蛍光テープを貼っただけ――で大金をせしめたこの芸術家を「わたし」はヒステリックに攻撃し、しかし、返り討ちにあうことになる。

[…続く]はずだったのだが。だが。
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