趣味は引用
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ヴォネガットのこと その1

 われながらよくわからなくなっているが、わからないまま、即物的にヴォネガットの話を続けてみる。
ヴォネガットのこと その2

 形式についていえば、ヴォネガット作品の特徴とされる「断片的な構成」の始まりは、それこそ初期の『タイタンの妖女』『母なる夜』から見られるが、ここらへんではまだ、断片化は「短いエピソードの積み重ね」以上のものではない。大きな話を小さな章立てで語る、といえば足りる。
ヴォネガットのこと その3

「真面目に書こうとしたって書けやしない」。
 そんな態度は、『猫のゆりかご』で、人びとの幻想をあくまで幻想として見つめるクールな筆致として発現していた。世界中の水を常温で氷にしてしまう新物質という、無邪気な科学者の無邪気な発明であっさり終焉を迎えた人類の姿は、絶望的というよりコミカルに描かれている。
ヴォネガットのこと その4

『猫のゆりかご』から『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』をはさみ、『スローターハウス5』(1969)でヴォネガットは一挙にヴォネガットらしくなる。
 妙な言い方だが、いま現在のわれわれがブックガイドその他でヴォネガットについての情報を得る際に、「断片的な構成」と並べて言及される独特の手法、「断片ごとに作中の時間が前後する」スタイルが確立されたのがこの『スローターハウス5』だった。
ヴォネガット その5

《「メアリ、この本がほんとうに完成するのかどうか、いまのところぼくにはわからない。もう五千ページやそこら書いているのに、みんな気に入らなくて捨ててしまった。しかしもし万一、これが完成するものなら、ぼくは誓うよ。フランク・シナトラやジョン・ウェインが出てくる小説にはしない」》

 そんなわけで、『スローターハウス5』の主人公は、戦地へ赴く前に時間をスキップして戦後の生活を送り、「トラルファマドール星人」の円盤に誘拐され星の彼方の動物園に収監される。
 ひとりの英雄も勇ましい戦闘シーンも描くことなく、珍奇な挿話のパッチワークで飛び石を渡るように進んでいくこの小説が、主人公と読者を連れて終り近くでたどり着くドレスデンの爆撃、第二次大戦における最大規模の空襲として本作の核心になると予告されていたクライマックスは、分量にして文庫本の見開き2ページにも満たない。これがヴォネガットの戦争小説である。
ヴォネガットのこと その6

『チャンピオンたちの朝食』(1973)の舞台は、それが書かれた当時のアメリカになった。主要な登場人物はふたりいて、自動車販売業を営む裕福なドウェイン・フーヴァーと、貧乏小説家のキルゴア・トラウト。
《これは、臨終の近いある惑星で起きた、ふたりの痩せて孤独な、かなり年とった白人の出会いの物語である。》
ヴォネガットのこと その7

『朝食』の登場人物たちが暮らす社会はひどく暗い。
 そこでは金と物だけがむなしく求められている。達成されたはずの繁栄は決して「いいもの」としては描かれない。家族や地域の共同体といったつながりは失われ、生活環境は島宇宙化した。科学の発達も、ものごとから人間を排除する方向に世界を変える技術、公害をたれ流す源泉といった、否定的な見方でしか捉えられていない。
 そんななか、金のある人びとは整然と区分けされた高級住宅地で誰にも干渉せず誰からも干渉されない小ぎれいな生活を送り、そちらに入れない貧しい人びとはみじめな裏町でみじめな生活に身をやつしている。富めるドウェインと売れないトラウトによって代表される両極端の生活を、互いに別物としたまま、まとめてのみこみつつあるのが「均質化」の波である。
ヴォネガットのこと その8

 世界は平らになりつつある、それはいけないことだ、という考え方がヴォネガットの根っこにある。
 ところで『朝食』には、繰り返し繰り返し、プラスチックが登場する。それは科学によって生まれたこの上なく便利な素材であり、それこそ規格化された商品の大量生産を可能にする物質そのものであると同時に、どこまでも続く平面を暗示する。
ヴォネガットのこと その9

『スローターハウス5』では戦場の異常事態だった個人の無名化が、均質化していく世の中で静かに進行している。戦場と普通の社会がつながりつつあるのを描こうとしたのが60年代後半のヴォネガットだったのではないか。構想された作品は結局完成せず、『スローターハウス5』と『朝食』に分かれた。
(再掲・作品年表・人様のものだけど)
ヴォネガットのこと その10

 そもそも、宮沢章夫の演劇を見て気になった「作者と登場人物の関係」について、ヴォネガットが小説で妙なことをやっていたのを思い出し、ちょっと引用してみたかっただけなのだ、私は。
 いまだに本題にさしかかっていない。

 ○ ○ ○

 前回、ヴォネガット(1922年生まれ)とピンチョン(1937年生まれ)が社会の進みゆきについて同じ見方をしている、と書いたが、そこで生きる人間となると両者は違った層を見ている、と付け加えておかないことには2人を並べた意味がなかった。
 ピンチョンが「社会の均質化からこぼれ落ちてしまった者たち」「排除されたアウトサイダー」にこだわるのに対し、ヴォネガットが見ているのは、意思と関わりなく社会に組み込まれた人びと、つまり「普通の人間」である。
『朝食』のこと その1

『チャンピオンたちの朝食』で物語の中心になるのは、各界の芸術家を招いて開かれる華々しいお祭りとして企画された、アート・フェスティバルというイベントである。
 富豪ドウェイン・フーヴァーは、誰も自分を1人の人間として扱ってくれない現状に疲れ果て、徐々に気が狂いつつあるが、短時間よみがえった正気の時間に「新しい人たちから新しいことを聞」くためフェスティバルの会場に行ってみることを思いつく。
 貧乏作家キルゴア・トラウトは、いくつかの偶然と勘違いにより「大作家」として招聘され、やはり会場へ向かう。
『朝食』のこと その2

 それまで語り手だった「わたし」は、作者としてミッドランド・シティの酒場に現われる。
《わたしがそこへきたのは、自分の創りだしたふたりの人間、ドウェイン・フーヴァーとキルゴア・トラウトの対決の場に立ち会いたかったからだ。》
『朝食』のこと その3

《わたしはカクテル・ラウンジの薄暗がりで、宇宙の創造主と互角の地位にあった。わたしは宇宙を縮めて、直径一光年のボールにした。》

 創造主の力を持った1キャラ。
「わたし」は、自分が作り出したというウェイトレスに酒を持ってこさせたり、こちらに不審の目を向ける他のキャラの気を逸らせるため近くの電話を鳴らしたりといった行動を続ける。素直に読むと、無茶苦茶なことが起きているような気がする。
『朝食』の続き その4

「わたし」は(1)自分がこの小説の語り手であり、(2)作り手であるという。
 (1)については、まあそうだろう。しかし(2)は、前にも書いたように、小説の中ではそういうことになっているというだけだ。いわば設定である。
『朝食』のこと その5

「わたし」と、『朝食』を書いているヴォネガットは違う。さらにいえば、『朝食』を書いているヴォネガットと、現実に生活しているヴォネガットも違う。
 けれども、それぞれに重なる部分がある以上、三者をまったく別物とするのも完全に正しいとはいえない。彼らはお互いに干渉しあう。
『朝食』のこと その6

 先日、青山南による90本近くの映画コラムを集めた『レイトショーのしあわせな夜に』(洋泉社)を買ってきてちょっとめくったら、いきなりこんな文章が出てきた。何の映画についてかはひとまず関係ない。
《主人公がいない、というか、バトンタッチされるみたいにしてつぎつぎと主人公がかわっていくスタイルは、ずっと昔に、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』を読んだときに初めて出会い、そのときは、なんだ、これは、と仰天したものだったが、いまはもうめずらしくもなくなった》
『朝食』のこと その7

『朝食』の話。もう即物的に続ける。
 ミッドランド・シティというところで開かれたアート・フェスティバル。主要キャラのドウェインとトラウトがまだ揃っていない時点で、語り手だった「わたし」が他のキャラに混じって姿を現す。ヴォネガットは「わたし」に、自分がこの小説の作り手だと宣言させ、同時にこんなことも言わせる。
《自分が創りだした登場人物に対するわたしの支配力についてひとこと――わたしは彼らの行動をごく大ざっぱにしか誘導できない。彼らがとても大きな動物だからである。慣性にうち勝つのがたいへんだ》

 ふざけてるのか。それとも、いろんな作家がしばしば述懐するところの「キャラが勝手に動き出す」という意味なのか。
『朝食』のこと その8

「わたし」の登場したミッドランド・シティの酒場には、ちょうど芸術家として町に呼ばれた2人の人間が座っている。売れっ子小説家のビアトリス・キーズラーと、抽象画家のラボー・カラベキアン。
 しばらく前に私は、ヴォネガットがこの小説を貫く《理屈・考え方を、「わたし」という語り手を通し直接的に説明してしま》うと書いた(その1)。ようやくその続き。
『朝食』のこと その9

《なぜアメリカ人があんなにしょっちゅう、おたがいを銃で撃ち殺すのか、その理由はここにある――それは、短篇でも一冊の本でも、小説を終わらせるのに便利な文学的手法の一つなのだ。
 なぜこんなに大ぜいのアメリカ人が、政府からまるで使い捨てのティッシュ・ペーパーのような扱いをされているのか? それは、小説家が作り物のお話の中でいつも端役をそんなふうに扱うからである。》

「主役-脇役」の区別が明瞭な、その意味で「旧弊な」物語が、巷間にあふれるフィクションのかたちで世の中に浸透したために、人びとは自らを損うようになったと「わたし」は考える。
『朝食』のこと その10

 小説と社会を重ねる見方を自分でしたうえで、「小説家である以上、世の人びとの自己評価の低下には、自分にも責任がある」とする。
 ヴォネガットの態度は、倫理的というより、どうかしていると思う。このような信念から「わたし」が『朝食』の最後でどういう真似をするかはひとまず措くとして、安易な連想のラインで私が思い出すのは、村上春樹の不思議な責任感である。
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