趣味は引用
脇役の脇役の続き

 脇役を意識する作り手、というのにひっかかってだらだら書いてきた。
 自分の作ったフィクションに出てくる、自分の作った登場人物の扱いについて倫理的な疑問を感じるというのは、傍から見ると妙な事態だが、宮沢章夫の創作にそういう面があるのはたぶん間違いない。
 これは実作者ならではの感情移入の一種なのか。そういうところに私が興味を覚えるのは、そんなことまで気にしてしまう人もいるんだ、という意味で面白いからであり、また、前にも「自分で作ったフィクションに『脇役』を認めない」(大意)と宣言したアメリカ人を見たことがあるからだと思う。
「作者はそんなにえらいのか」と問いを発し、「作者には、登場人物を拘束するどんな権利もない」(大意)としたその作家は、カート・ヴォネガットという。
さらに脇役の続き

「トーキョー・ボディ」とは違って、「トーキョー/不在/ハムレット」には、劇作家のような「フィクションの作り手である人物」は登場しない。こちらは主人公をその場にいない人間(牟礼秋人)にして、脇役だけの群像劇にした、といえるかもしれない。

 ドラマを作るために登場人物を動かす作者が、自身の作り出した登場人物の1人に仮託して、自分と彼らの不公平なあり方を問題にする。中心にあるべき特定の主人公を不在にして人物を配置し、脇役に注意を払う(ローゼンクランツ+ギルデンスターン、倉津+須田)。
脇役のさらに続き

 宮沢章夫の作・演出になる「トーキョー・ボディ」が公演されたのは2年前で、私はこのときはじめて遊園地再生事業団の舞台を見た。
 本人があちこちのエッセイで述べている意見から想像されるような、「いわゆる劇っぽくない、自然な話し言葉」とはずいぶん違った言葉で「トーキョー・ボディ」はできていた。
脇役の続き

『ハムレット』に基いた宮沢章夫の小説「秋人の不在」(『不在』)にも、ローゼンクランツとギルデンスターンに対応する人物が設定されている。秋人の叔父(北川辺町の有力者)に頼まれて、失踪以後「トーキョー」で目撃情報のあった秋人を探しにゆく、倉津須田の2人である。
 これが舞台「トーキョー/不在/ハムレット」になると、倉津・須田に加えて、そのものずばり「ローゼンクランツ」「ギルデンスターン」というコンビが登場し、倉津・須田とも大量の会話を交わす。
いちおう続き
「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を監督したトム・ストッパードはもともと劇作家で、はじめはこれを戯曲として書いた。それが高い評価を得たので、作者本人の監督のもと映画化された、というのが本来の順序らしい。

 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』という小説がある。東大の入試が中止になった1969年の冬、当然のようにそこへ行くつもりでいた18才の「薫さん」がいろいろ独白を続ける作品で、そのなかに「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」が出てくるのを私が憶えていたのは、徹底的に「いい子」である語り手がこの芝居には文句を連ねていたのが珍しかったからだと思う。
「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(1991)

原作・脚本・監督:トム・ストッパード

 シェイクスピアの『ハムレット』は、デンマークの王室を舞台にしている。
 王子ハムレットの父王が急死すると、王位には彼の叔父がつき、しかも母親と結婚してしまう。父の亡霊から叔父の謀略を知らされたハムレットは復讐を誓って狂気を装う。叔父王は王子が乱心したと見て、彼の幼馴染だった2人の男を呼び寄せ監視役として使い、のちにまとめてイギリスへ追いやるが、ひそかに2人をスパイと決めつけたハムレットは罠を仕掛けて自分だけ帰還する。
 何も事情を知らされないまま、叔父王とハムレットの両サイドから翻弄されるこの2人がローゼンクランツとギルデンスターンであり、イギリスへ出発したあとはどちらも二度と舞台に現われない。劇の終わり間際で彼らのその後を伝えるのは、別の登場人物の素っ気ない台詞だけ。いわく、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」。

 脇役中の脇役みたいな2人。しかし、彼らの視点に立てば『ハムレット』はどのように見えるだろう。それがこの映画「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」で、ここではこの2人が主役になっている。
 ある日突然呼びつけられた彼らからすると、叔父王はなぜかえらい剣幕で怒っているし、ハムレットも意味不明の激情を爆発させる危ない男である。言われるまま、つつがなく任務を果たして帰りたい事なかれ主義の2人は、右顧左眄の右往左往を余儀なくされる。
 いわば裏『ハムレット』だが、この作品はそれだけでは終わらない。
 というか、はじまりからして変なのだ。ローゼンクランツ、ギルデンスターンの2人の会話は一貫して論理的、ただし論理的すぎて不条理に至る言葉遊びの領域で繰り広げられ、確率や運命について論じる彼らは何気なく万有引力や振り子の法則を発見しそうになり、旅の途中でハンバーガーを発明する(それらの細かいギャグは、画面に示すだけで一切スルーという贅沢な使い方)。

 ひたすら問題になっていると見えたのは「役割を演じること」で、たとえば前半、2人はどちらがローゼンクランツでどちらがギルデンスターンかわからないよう描かれている。なにしろ本人たちまで混乱している始末。『ハムレット』では宮廷に旅の一座がやってきて劇中劇を披露するが、この映画でも一座は登場し、座長は2人と密接に絡み合う。

「演じること」について考えると、話は「脇役という存在」につながっていく。それが必然なのかそうでないのかもよくわからないものの、ひとまず、『ハムレット』を読んだ人なら見ないともったいない映画だとは言えると思う。




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「トーキョー/不在/ハムレット」の続き

 劇場の舞台は、スリットの入った壁を境にして前方と後方に分かれていた。前方で芝居が進行したかと思うと後方にスポットが映り、別の場所・時間の芝居が行われる。そっちはスリット越しなので客席からよく見えないのだが、役者のそばにカメラマンもいて、撮られている映像が壁の前面、上の方に設置されたスクリーンにライブで映される。スリットから覗いたりスクリーンを見たり忙しく、ずいぶん凝っていると私には思われた(それとも、演劇ってこれくらい普通なのか?)。
「トーキョー/不在/ハムレット」(2005)
 宮沢章夫の舞台「トーキョー/不在/ハムレット」を見てきたのだった。
 って、日記っぽいことを書くなら書くで、もっと日記の体を装えとわれながら思う。反省した。しかし演劇の感想なんて何をどう書いていいのか。上演時間は夜の7時半から実に2時間40分に及ぶ。よくあんなに台詞が憶えられるなあ、と。
「ベルヴィル・ランデブー」(2002)
 フランス・カナダ・ベルギー合作のアニメ映画。監督はシルヴァン・ショメという人。
 フランス。祖母と二人暮らしの少年シャンピオンは内気というより自閉症に近く、おもちゃにも飼い犬にも関心を示さない。心配する祖母だったが、あるとき彼が自転車に強い興味を抱いているのに気づいて買い与える。
 数年後、なんでそこまでというくらいきびしい祖母のトレーニングによって、シャンピオンは自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスに出場するまでになる。ところがレースの本番中、謎の黒服マフィアが現れて、彼を含む選手たちを誘拐してしまう。孫を連れ戻すため、祖母は飼い犬を連れて追跡を始める。そう、この映画の主人公はおばあちゃんなのだった。
05/01/12
 医療行為の現場において、施術者と患者は絶対的な上下関係にある。

 今年もあいかわらず整体に通うことにして、さっそく今日の帰りに接骨院に寄ってきたのだが、たとえば、揉まれたり曲げられたりしている最中に「実家はどこなの?」などと訊かれた際に、黙秘したり「そんなことは教えたくない」と言って患者の側から回答を拒否することは、ふつう、できない。対抗策として「嘘をつく」という手が考えられるが、ながく通院する場合、自分のついた嘘を管理し続けるのはたいへんむずかしい。嘘をついていたのがばれたら双方気まずくなるに違いなく、私は二度とそこに行けなくなって、腰は痛み続けるだろう(痛むだけならともかく、悪化するかもしれない。おそろしい。もうだめだ)。
 そういうわけで、他に患者もおらずゆっくりした治療のときなど、いくつかの質問に答えた後でふとわれに返ると、診療台の上であっさり丸裸にされてしまっている自分に気がつくのであるが、この文章を書きはじめたとき念頭にあったのは、丸裸は比喩表現であるとか、そういうことではなかった。逆に、施術者(先生)の側には少々の無茶な発言も許される気がしてならない、という話である。

 年末のある日、私は硬いベッドに仰向けにされ、足を片方ずつ持ち上げてゆくとどこらへんから腰に痛みが出るか・痛いのは腰のどのあたりかをチェックされていた。デリケートな作業だ。痛む箇所を伝え損なったばっかりに誤った刺激を加えられたら、痛みが悪化するかもしれない(悪化するだけならともかく、あらたな痛みが発現するかもしれない。おそろしい。もうだめだ)。
 足が上げられた。神経を集中する。すでに痛い気がする――でも痛むのは足ではないか――いや、腰が痛い。どこから痛んでいたんだ。再トライ。場所はもうちょっと上だ――行き過ぎた――下が痛い――でもその横のあたりも痛いじゃないか――というか全面的に痛いのだが、それはどこも痛くないのと同じなのだろうか。もう何もわからない。すみません、もう一度お願いします。先生は一喝した。

「この神経質め」

 納得がいかないまま、私は年を越したのだった。
 同じ先生はまた別の日、私の体を様々に折り曲げては押さえつけ、のしかかり、各所の関節を鳴らし、関節があるとは思えないところも鳴らしてから、充実した表情で述べた。

「ああ、カイロプラクティックしてるって気になるなあ」

 医療行為の現場において、施術者はいつでも言いっ放しである。
05/01/11
翻訳小説の話題をふたつ。話題というか、メモ。