2005/01/29

脇役の脇役の続き


 脇役を意識する作り手、というのにひっかかってだらだら書いてきた。
 自分の作ったフィクションに出てくる、自分の作った登場人物の扱いについて倫理的な疑問を感じるというのは、傍から見ると妙な事態だが、宮沢章夫の創作にそういう面があるのはたぶん間違いない。
 これは実作者ならではの感情移入の一種なのか。そういうところに私が興味を覚えるのは、そんなことまで気にしてしまう人もいるんだ、という意味で面白いからであり、また、前にも「自分で作ったフィクションに『脇役』を認めない」(大意)と宣言したアメリカ人を見たことがあるからだと思う。
「作者はそんなにえらいのか」と問いを発し、「作者には、登場人物を拘束するどんな権利もない」(大意)としたその作家は、カート・ヴォネガットという。

 なんだか書き方がまわりくどくなってきた。このうえヴォネガットの小説を説明しようとするとえらく長くなりそうで、というのも、この人の作品の多くは断片形式を特徴とし、時間は過去・未来を頻繁に行き来する。そのため「あらすじ」をまとめても実物の感触とはずいぶん違ったものにしかならないからである。
 しかし、作品の入り組み具合と対照的に「言いたいこと」はわりと単純なのがこの作家のいいところで、宇宙人を持ち込んだり架空の宗教の教義を設定したり、手を変え品を変えしてヴォネガットが模索したのは、「実生活において、私たちがぱっとしない人間も大事に扱うにはどうすればいいのか」という一大問題だった、とまとめてしまってよいかと思う。

 立派な人物、愛すべき人間なら放っておいてもしかるべき好意を受けるだろう。しかし人類の大多数を占めるのは、憎たらしい小物、ひがみ根性に凝り固まった不平家、そこまでいかなくても平凡でつまらない人間だろう。そういった人間たちを、徳性や美点を探すのではなしに、人間であるという一点において尊重できないか。そのための原理を立ち上げようとしたのがヴォネガットの第7長篇『チャンピオンたちの朝食』(1973)で、いまの言い方では素朴な理想主義めいているが、実際の『朝食』は信念とやけくそと疑いで混乱し、この作家随一の問題作になっている。





チャンピオンたちの朝食
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2005/01/26

さらに脇役の続き


「トーキョー・ボディ」とは違って、「トーキョー/不在/ハムレット」には、劇作家のような「フィクションの作り手である人物」は登場しない。こちらは主人公をその場にいない人間(牟礼秋人)にして、脇役だけの群像劇にした、といえるかもしれない。

 ドラマを作るために登場人物を動かす作者が、自身の作り出した登場人物の1人に仮託して、自分と彼らの不公平なあり方を問題にする。中心にあるべき特定の主人公を不在にして人物を配置し、脇役に注意を払う(ローゼンクランツ+ギルデンスターン、倉津+須田)。

 このような捉え方は一面的なものだし、両者をつないでみた連想も、私ひとりの勝手な思いつきにすぎない。そのうえでさらに牽強付会をしてしまうと、小説「秋人の不在」(『不在』)のなかである女性の発する言葉も、本来の文脈を越えた意味を担っているように思えてくる。
《「人はいつだって、なにかに動かされているようにも思っていたし、お母さんが家を出ていったのにもなにかもっと大きな力が動いているような、そんな不思議な心持ちがしていただけで……、人が聞いたらおかしいと思われるかもしれないけど、なにかが人を動かすの。人にはわからない大きな力」》
《「すべてはなにか大きな力によって動いているのです。私がここにあり、そして死んでゆくのは、すべてなにかによって決められていたことです」》

 上で「本来の文脈」と書いたのは、この発話者が隠れキリシタンの末裔であるという設定のことで、その出自からすればこのように神秘的な台詞も「さもありなん」と一応は納得して受け取れそうな気もするが、そしてそういうものとしてなら一応の納得をしてしまう受け取り方こそいかがなものかと思いもするが、ここでもまた、登場人物を作っては操る作者なるものへの意識が、この女性の信仰の気持とは別に、あるいは重ね合わされて、書き手によって変奏されているように見えてならない。

2005/01/25

脇役のさらに続き


 宮沢章夫の作・演出になる「トーキョー・ボディ」が公演されたのは2年前で、私はこのときはじめて遊園地再生事業団の舞台を見た。
 本人があちこちのエッセイで述べている意見から想像されるような、「いわゆる劇っぽくない、自然な話し言葉」とはずいぶん違った言葉で「トーキョー・ボディ」はできていた。

「私は警備員ではなかった」とか「私は女だった」とか「私は資本主義だった」とか抽象的な台詞を喋る役者たちは、ただの記号としての役名を演じている印象をこちらに与え、しかし演じているのは目の前の舞台に立っている生身の人間なのだから、不思議な違和感が生まれていた。

 で、この作品には「私は劇作家だった」と名乗る男が登場する。たしか彼は、心中ものを書いた近松門左衛門を先祖と仰ぎ、自分も若い男女の心中に材を取って劇を書こうとしていたのだったが、同じ舞台で演じられるその男女の姿を見て悩み、最後半になってひとり、こんな調子で独白する。
《(…)ご先祖様。殺しますか。最後は殺しますか。死ぬしかなかった二人の悲劇を、簡単に、そんな簡単に、死へと向かわせますか。たやすく人の運命を操る。たとえそれが事実を元にした物語だったとしても、作者は人の運命を簡単に作り出す。死ぬな。ばかやろう。死ぬな。死ぬな死ぬな死ぬな。私は劇作家だった。(…)ある日、一人の少女が死んだのです。あっけなくこの世とおさらば。死は静かですね。遺体は棺の中で静かに眠っていた。なにがあったのか私にはわからない。殺しますか。誰が彼女を殺しましたか? 私ですか? 劇作家ですか? それで劇は生まれますか? 一人の少女が死んだのです。》

 劇場で売っていた台本から書き写したこの台詞には、長めの劇のなかでも特別なテンションがかけられていたように記憶している。劇作家が「トーキョー・ボディ」の主人公、というわけではなかった。この作品に明確な主人公はおらず、抽象的な役柄が集まった群像劇のような感じだった。
 奇妙な告白だと思う。このような台詞は、主人公から遠い「一同」や「皆」の言葉ではないだろう。まるで作者の言葉だ。そして、主人公が脇役から遠い以上にどんな「役」からも遠いところにいるのが作者であるはずだが、ここで1人の「役」を借りて語られているのは、「一同」や「皆」を作り出し、「主役」と「脇役」を分け、あらゆる登場人物を思い通りに扱える、作者自身への疑いであるように見える。おれはどうして自分にはそんなことができると思っていたんだよ? みたいな。

2005/01/22

脇役の続き


『ハムレット』に基いた宮沢章夫の小説「秋人の不在」(『不在』)にも、ローゼンクランツとギルデンスターンに対応する人物が設定されている。秋人の叔父(北川辺町の有力者)に頼まれて、失踪以後「トーキョー」で目撃情報のあった秋人を探しにゆく、倉津須田の2人である。
 これが舞台「トーキョー/不在/ハムレット」になると、倉津・須田に加えて、そのものずばり「ローゼンクランツ」「ギルデンスターン」というコンビが登場し、倉津・須田とも大量の会話を交わす。

 劇場で買ったパンフレットには、シェイクスピア学者の河合祥一郎と宮沢章夫の「往復eメール書簡」が掲載されている。上記の点を確認したうえで、宮沢章夫は、ふつう「脇役」として片付けられてしまう存在への興味を語っている。
《ロゼとギルに代表されるのは「主体」の不明確な登場人物ではないでしょうか。「近代劇」やそれ以前の劇では、戯曲の表記としてごく一般的に、「一同」とか「皆」とうい名前の、主体が明確にされない人々が現われます。劇作家はそれを安易に省略し(というか、省略すべきものとして)、「一同、口々にささやく」とか、「皆、驚きの声をあげる」と書くことになっているようです。(…)「一同」は口々になにかを語っているがそれを省略してしまう劇に対して不思議に思う。それはつまり、演劇、あるいは、旧来のドラマツルギーや劇言語への疑いです。九〇年代の私の作品は「一同」しか出てこないことによって、あたかも「なにも起こらない劇」のように見え、そう評されたのだと想像します。(…)この物語に、小説には登場しないローゼンクランツとギルデンスターンを書かずにいられなかったのは、いまでもやはり、「一同」の言葉が書かれない劇への疑問を持っているからでしょう。》

 90年代のこの人の演劇を、私は戯曲としてしか知らない。2冊だけ(『ヒネミ』『14歳の国』)読んだ限りでは、登場人物たちが、「ドラマチックな台詞・書き言葉でしかありえない台詞」をほとんど口にしないのが印象的だった。上の引用にひきつければ、「一同」の言葉で作品をつくることで「一同」を脇役からすくいあげる、ということだろうか。それに比べると、2年前の「トーキョー・ボディ」および今回の「トーキョー/不在/ハムレット」では、やり方が違ってきている。
 ほとんど演劇を見たことのない私が「作者の言ってること」から作品を云々するのはどうかと思うが、作品同様に上のような意見が気になってしまうのだから仕方ない。仕方なくないのかもしれないがもうちょっと続ける。

2005/01/21

いちおう続き

「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を監督したトム・ストッパードはもともと劇作家で、はじめはこれを戯曲として書いた。それが高い評価を得たので、作者本人の監督のもと映画化された、というのが本来の順序らしい。

 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』という小説がある。東大の入試が中止になった1969年の冬、当然のようにそこへ行くつもりでいた18才の「薫さん」がいろいろ独白を続ける作品で、そのなかに「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」が出てくるのを私が憶えていたのは、徹底的に「いい子」である語り手がこの芝居には文句を連ねていたのが珍しかったからだと思う。
《(…)問題は表現なのだ。ぼくたちが見た芝居では、まず第一に主役のローゼンクランツとギルデンスターンを演じる役者と、ハムレットやオフィーリアを演じる役者が文字どおり役者がちがっていた。しかも二人の主人公は実に丹念に一生懸命演じられるのに対し、ハムレットとオフィーリアときたらわざとらしく大袈裟に荒唐無稽な人物として演じられるのだ。つまり、ハムレットやオフィーリアが、主人公であるローゼンクランツとギルデンスターンの前に登場する場面は、台詞から言えばほとんど原作そのままなのだが、なにしろ格の下の役者がそれもわざと実に下手にふざけて演じるのだからたまらない。一見してハムレットは「生か死か」もなにもあったもんじゃない三下奴の道化で、オフィーリアだって見るからに蓮っ葉な馬鹿娘で、とんだりはねたりドタバタやっちゃうのだ。そしてもちろん観客たちは、ハムレットとオフィーリアが出てくるたびにゲラゲラ笑って拍手したりする(だってそうせざるを得ないように、これでもかこれでもかとやってみせるんだ)。そしてぼくはとうとう頭にきて、これはシェイクスピアの足をひっぱって自分を売り込もうとする卑しい芝居だ、すべて優れたものの足をひっぱって喜びたがる人間心理におもねった根性下劣な芝居だなんて口走って(…)》

《(…)『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ!』は、この二人の「端役」の悲劇を強調するために、ハムレットとオフィーリアを極端に矮小化し馬鹿げきった道化にしてしまう。そして観客の野卑な笑いを誘っておいてそのすきに、どうです、こんな二人に比べてわれらがローゼンクランツとギルデンスターンは? と差し出す。これはどう見たって品性下劣だ。闇討ち根性だ。つまり(こんなことを話しているときりがないからやめるけれど)ぼくが思うのは、せめてこういう場合、ハムレットやオフィーリアにはしかるべき役者を立てて本来の演技をさせるのが作品そのもののためでもあるし、そういうパロディの最低のエチケットでもあるのじゃないか、ということなのだ。もっとも考えてみれば、シェイクスピアはこんなことぐらいじゃビクともしないんだから、やはりぼくの憤慨ははしたない少女ファン的なものだったのかもしれないとあとでは思ったのだけれど。それから念のため断っておくけれど、ぼくが軽蔑するのは作者(あるいは演出家かもしれない)であって、たとえばあの惨めなハムレットやオフィーリアを演じた役者ではない。彼らはそれこそ或る意味でローゼンクランツとギルデンスターンそのものみたいな立場だったのかもしれないから。》

 映画版はこういうのとはぜんぜん違ったので安心した。
 オリジナルの戯曲を読んでいない私にいえることではないが、ここで言及されている芝居では、たまたま演出家が勘違いしていたんだと思いたい。『ハムレット』の脇役2人に着目したストッパード自身の意図は「薫さん」に怒られるようなものではなかったと思いたい。
 というのも私は、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という作品を、“演劇や小説、ドラマといった作り事に特有の「脇役」という存在を問題にしたもの”と捉えたいからだった。フィクションの世界ではどうして誰かが「脇役」になってしまうのか? みたいな疑問は、たぶん「品性下劣」な人からは出てこない。
 そういう見方をすれば、上に引用した批判は、こんなやり方では『ハムレット』の主役が「脇役」(「端役」)になるだけで、結局、主役/脇役の区別それ自体を疑問視するまでに至らない、だからこの演出は戯曲を裏切っている、といったふうに読める(いや、だから、戯曲そのものを読んでみないと本当のところはわからないんだけど)。

 ローゼンクランツとギルデンスターンの2人を、では宮沢章夫はどうしたか。




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2005/01/20

「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(1991)


原作・脚本・監督:トム・ストッパード

 シェイクスピアの『ハムレット』は、デンマークの王室を舞台にしている。
 王子ハムレットの父王が急死すると、王位には彼の叔父がつき、しかも母親と結婚してしまう。父の亡霊から叔父の謀略を知らされたハムレットは復讐を誓って狂気を装う。叔父王は王子が乱心したと見て、彼の幼馴染だった2人の男を呼び寄せ監視役として使い、のちにまとめてイギリスへ追いやるが、ひそかに2人をスパイと決めつけたハムレットは罠を仕掛けて自分だけ帰還する。
 何も事情を知らされないまま、叔父王とハムレットの両サイドから翻弄されるこの2人がローゼンクランツとギルデンスターンであり、イギリスへ出発したあとはどちらも二度と舞台に現われない。劇の終わり間際で彼らのその後を伝えるのは、別の登場人物の素っ気ない台詞だけ。いわく、「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」。

 脇役中の脇役みたいな2人。しかし、彼らの視点に立てば『ハムレット』はどのように見えるだろう。それがこの映画「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」で、ここではこの2人が主役になっている。
 ある日突然呼びつけられた彼らからすると、叔父王はなぜかえらい剣幕で怒っているし、ハムレットも意味不明の激情を爆発させる危ない男である。言われるまま、つつがなく任務を果たして帰りたい事なかれ主義の2人は、右顧左眄の右往左往を余儀なくされる。
 いわば裏『ハムレット』だが、この作品はそれだけでは終わらない。
 というか、はじまりからして変なのだ。ローゼンクランツ、ギルデンスターンの2人の会話は一貫して論理的、ただし論理的すぎて不条理に至る言葉遊びの領域で繰り広げられ、確率や運命について論じる彼らは何気なく万有引力や振り子の法則を発見しそうになり、旅の途中でハンバーガーを発明する(それらの細かいギャグは、画面に示すだけで一切スルーという贅沢な使い方)。

 ひたすら問題になっていると見えたのは「役割を演じること」で、たとえば前半、2人はどちらがローゼンクランツでどちらがギルデンスターンかわからないよう描かれている。なにしろ本人たちまで混乱している始末。『ハムレット』では宮廷に旅の一座がやってきて劇中劇を披露するが、この映画でも一座は登場し、座長は2人と密接に絡み合う。

「演じること」について考えると、話は「脇役という存在」につながっていく。それが必然なのかそうでないのかもよくわからないものの、ひとまず、『ハムレット』を読んだ人なら見ないともったいない映画だとは言えると思う。




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「トーキョー/不在/ハムレット」の続き


 劇場の舞台は、スリットの入った壁を境にして前方と後方に分かれていた。前方で芝居が進行したかと思うと後方にスポットが映り、別の場所・時間の芝居が行われる。そっちはスリット越しなので客席からよく見えないのだが、役者のそばにカメラマンもいて、撮られている映像が壁の前面、上の方に設置されたスクリーンにライブで映される。スリットから覗いたりスクリーンを見たり忙しく、ずいぶん凝っていると私には思われた(それとも、演劇ってこれくらい普通なのか?)。

 そんな空間で、体感時間では30分に1回くらいずつ、ストーリーの流れのなか突然、役者たちがめちゃくちゃに体を動かす。
 どうにも表現しようがない。跳び跳ねたり高速で手足を曲げたり、転がったりセットを叩いたり。すごいスピードで走り回る人もいれば、えらくゆっくり歩く人もいる。何人もが急に後ろに倒れて、絶妙のタイミングで支えてもらう。なめらかに動いていた人が今度はがちがちになったり。てんでバラバラな気もするが、揃っているように見える瞬間もたしかにある。

 きのうも貼った宮沢章夫自身の日記で、12月頃からニブロールというグループが演出に参加しダンスの稽古をしている様子を読んではいたものの、ダンスなんて、いわゆる整った、きれいな動きのものしか知らなかったから、このめちゃくちゃさにはたまげた。変な動きを組み合わせ続ける生身の人間が、何人も舞台の上にいた。
 人はそんなふうに動けたのか、というのが第一印象だが、別に普通の人体では無理な動きをするわけではない。機械っぽい要素はあるけどそれだけでもない。繰り返しもただのパターンではないようだった。ただの「好き勝手」ではないのは、だって、自由にふるまうだけでは、人は自分の体をたいして奔放には動かせないに決まっているからだ。目の前のこの人たちは、考えて練習して、不自然に動いている。そう思うと笑えてもくる。

 ダンスが始まると舞台全体に映像が投射され、スリットの壁も床も大きなスクリーンになってしまう。もとからあった上方のスクリーンにはまた別の映像が流れている。音楽も大音量で鳴っていたに違いないが、ぜんぜん憶えていない。なんか、必死で見ていた。若い役者の中にもひとりだけ踊れない男がいて、「あなたも踊ればいいじゃない?」と誘われると、絶望的な声音で「俺にコンテンポラリーは無理だっ」と叫ぶのだった。ものすごく同情した。


――と、下手な感想を書いていたら、あのダンスの記憶が薄らいでしまって激しく後悔した。もう1回見たいなあ。当日券あるらしいけどなあ。

 ずいぶんいろんなシーンが詰め込まれていたので、2時間40分があっというまに過ぎたとは思わない。でも、「実は4時間経っていた」といわれても納得しかねない。時計だけが時間を計るものさしではないなあとロビーをふらふらしていたら、さっきまで舞台の上にいた役者たちが普通の格好に着替えてどんどん帰っていくのだった。
 登場しない主人公・秋人の恋人を演じた「田中夢」という役者がとくに印象深かったので名前を憶えておくことにした。ここの画で浮いている人である。

 ちなみに半年前に小説「秋人の不在」を読んだとき、作中のどこにも出てこないゆえにどこにでも遍在していることになっているらしい「秋人」を私は「アキト」だと思っていたが、今回の本公演を見てはじめて、そうではなかったと知った。この名前は「アキヒト」と読むのだ。物騒じゃないか。
「秋人の不在」は『不在』のタイトルで発売中。



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2005/01/17

「トーキョー/不在/ハムレット」(2005)

 宮沢章夫の舞台「トーキョー/不在/ハムレット」を見てきたのだった。
 って、日記っぽいことを書くなら書くで、もっと日記の体を装えとわれながら思う。反省した。しかし演劇の感想なんて何をどう書いていいのか。上演時間は夜の7時半から実に2時間40分に及ぶ。よくあんなに台詞が憶えられるなあ、と。

 この「トーキョー/不在/ハムレット」は、もう1年も前から続く長い長いプロジェクトの総称になる。ひとつの話をさまざまな角度から作品化した(らしい)実験公演、短編映画制作、リーディング公演etc.を経て、ようやくしめくくりの「本公演」が始まったのだった。
 私は準備公演もリーディングも見ていないけれど、中心になる「ひとつの話」、このプロジェクトの原作である小説「秋人の不在」は出た時に読んでおいた。埼玉県の北川辺町という田舎(からっぽ)を舞台にして、近親間の愛憎や家系の因縁が組み合わされる(濃密)。タイトルにあるように、人間関係はかなりの程度まで『ハムレット』に揃えて配置されている。「田舎、ハムレット、どろどろ、ハムレット」と、そこのところを復習しつつ、乗り慣れない田園都市線で三軒茶屋まで行ったのだったが、たしかに小説で読んだ通りの出来事が時系列を組み替えて演劇化されていたとはいえ、そのように濃かったりからっぽだったりするお話のハムレット関係的登場人物たちが、悩み、怒り、心情を吐露し、殴り、笑い、手紙を書き、酔い、叫び合い、卓球をしつつ見たこともないダンスを踊り狂うとは、到底予想できなかった。

2005/01/14

「ベルヴィル・ランデブー」(2002)

 フランス・カナダ・ベルギー合作のアニメ映画。監督はシルヴァン・ショメという人。
 フランス。祖母と二人暮らしの少年シャンピオンは内気というより自閉症に近く、おもちゃにも飼い犬にも関心を示さない。心配する祖母だったが、あるとき彼が自転車に強い興味を抱いているのに気づいて買い与える。
 数年後、なんでそこまでというくらいきびしい祖母のトレーニングによって、シャンピオンは自転車レースの最高峰ツール・ド・フランスに出場するまでになる。ところがレースの本番中、謎の黒服マフィアが現れて、彼を含む選手たちを誘拐してしまう。孫を連れ戻すため、祖母は飼い犬を連れて追跡を始める。そう、この映画の主人公はおばあちゃんなのだった。

 かわいいアニメだったらどうしようと警戒していたが、なにしろデフォルメの文法が未知の領域にある。人物も動物も建物も徹底的に歪められ、最初のうちこそ「ものすごくグロテスクに見えるけど、むこうの感覚ではこれがかわいかったりするんだろうか」と疑念を覚えたものの、やがて「これはむしろ悪意だ」と確信するにいたる。
 タイトルにある「ベルヴィル」というのは後半の舞台になる国で、マフィアの乗った巨大な船がフランスから大洋を渡ってたどりついた先であり(祖母と犬はボートで追いかける)、物質文明の享楽と退廃に溺れる一方で街の外では老人が貧しい暮らしをしている、そういう世界だが、どう見ても自由の女神にしか見えない像がそびえ立っているのは気にしない方向で。フィクションだから。架空の国だから。
 ストーリーもデフォルメされているというのか、台詞は極端に少なく、じつは映画を見ているだけでは孫の名前もわからない。両親がいない理由も不明である。そういった説明の代わりに、上下の高さをありえないほど強調したマフィア船の造形や、重要な意味を持つ大量のカエルなど、歪みきった見所が盛りだくさん。クライマックスのどたばたも、スピードに頼らずたいへん意地の悪いアクションで構成されている。劇中で歌われる曲は楽しげで、売店ではサウンドトラックが売り切れていた。その歌詞(字幕)を憶えてるところだけ再現すれば、「♪コンスタンティノープルには住みたくない 韻を踏みにくいから / カトマンズになら住んでもいい 韻が踏みやすいから」だそうである。


※公式サイトで音楽の一部が聞けた


ベルヴィル・ランデブー
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2005/01/12

05/01/12

 医療行為の現場において、施術者と患者は絶対的な上下関係にある。

 今年もあいかわらず整体に通うことにして、さっそく今日の帰りに接骨院に寄ってきたのだが、たとえば、揉まれたり曲げられたりしている最中に「実家はどこなの?」などと訊かれた際に、黙秘したり「そんなことは教えたくない」と言って患者の側から回答を拒否することは、ふつう、できない。対抗策として「嘘をつく」という手が考えられるが、ながく通院する場合、自分のついた嘘を管理し続けるのはたいへんむずかしい。嘘をついていたのがばれたら双方気まずくなるに違いなく、私は二度とそこに行けなくなって、腰は痛み続けるだろう(痛むだけならともかく、悪化するかもしれない。おそろしい。もうだめだ)。
 そういうわけで、他に患者もおらずゆっくりした治療のときなど、いくつかの質問に答えた後でふとわれに返ると、診療台の上であっさり丸裸にされてしまっている自分に気がつくのであるが、この文章を書きはじめたとき念頭にあったのは、丸裸は比喩表現であるとか、そういうことではなかった。逆に、施術者(先生)の側には少々の無茶な発言も許される気がしてならない、という話である。

 年末のある日、私は硬いベッドに仰向けにされ、足を片方ずつ持ち上げてゆくとどこらへんから腰に痛みが出るか・痛いのは腰のどのあたりかをチェックされていた。デリケートな作業だ。痛む箇所を伝え損なったばっかりに誤った刺激を加えられたら、痛みが悪化するかもしれない(悪化するだけならともかく、あらたな痛みが発現するかもしれない。おそろしい。もうだめだ)。
 足が上げられた。神経を集中する。すでに痛い気がする――でも痛むのは足ではないか――いや、腰が痛い。どこから痛んでいたんだ。再トライ。場所はもうちょっと上だ――行き過ぎた――下が痛い――でもその横のあたりも痛いじゃないか――というか全面的に痛いのだが、それはどこも痛くないのと同じなのだろうか。もう何もわからない。すみません、もう一度お願いします。先生は一喝した。

「この神経質め」

 納得がいかないまま、私は年を越したのだった。
 同じ先生はまた別の日、私の体を様々に折り曲げては押さえつけ、のしかかり、各所の関節を鳴らし、関節があるとは思えないところも鳴らしてから、充実した表情で述べた。

「ああ、カイロプラクティックしてるって気になるなあ」

 医療行為の現場において、施術者はいつでも言いっ放しである。
2005/01/11

05/01/11

翻訳小説の話題をふたつ。話題というか、メモ。

若島正のHPで日記を見た。
新年恒例(?)で、今年の仕事予定を公開。初詣のつもりで、
「この仕事がなんとか片づくといいな」とお祈りしておきます。
まんまんちゃん、あん!

2005年 我が社の隠し玉(翻訳篇)

(現在進行中)
G・カブレラ=インファンテ『神聖な煙』
ウラジーミル・ナボコフ『XXXX』 [後略]

『XXXX』
これは『ロリータ』じゃないのか?

 ナボコフの最も有名な作品でありながら、新潮文庫の大久保康雄訳『ロリータ』はあちこちで「翻訳が悪い」とけなされ続けている。そのせいで、影響を受けやすい私なんかは読みたいのに手が出せないでいる。原書で読む根性もないんだから翻訳の良しあしなんかわからないくせに傲慢なことである。
 ともあれ若島正は、《これほど驚くようなことが新たに次々と発見できる小説は他に一冊もない》というこの小説について、改訳するよりは徹底的な注釈をつけたい、と語っていたはずである。もしも若島訳『ロリータ』が出るとしたら、きっと日本語での決定版になるんだろう。

●「ユリイカ」の1月号「特集*翻訳入門」を読んだ。目次はこちら
柴田元幸インタビューは、すでにどこかで読んだ話が大半。そうだろうと予想していたのでがっかりもしない。岸本佐知子の「実録・気になる部分」出張版は、若干抑え目だった。
翻訳経験者へのアンケート特集を眺めると、大森望は、印象深い仕事を教えてくれという質問にこう回答していた。
終わった仕事のことはなるべく忘れているようにしているので細かいことは何も覚えていない。その昔、福武書店で翻訳したジョン・クロウリーの『エンジン・サマー』を文庫化したいという奇特な出版社があらわれて、ちょっと読み返しはじめたら、主人公の名前からして誤訳だったんじゃないかという疑念が持ち上がり、途方に暮れているところ。全面改稿して、少しはましになったものをいずれお目にかけられる予定ですが、この調子だといつになるやら。
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