2004/09/30

筒井康隆『虚航船団の逆襲』(1984)

虚航船団の逆襲
中公文庫(1988)

 私の場合、ラテンアメリカ小説への入口は『虚航船団の逆襲』だった。

 そのタイトル通り、『虚航船団の逆襲』の目玉は、長篇『虚航船団』(1984)出版後にあらわわれた(作者から見て)見当違いの批評に向けた反論である。
 しかし「逆襲」部分は分量的に1/5もなく、あとはさまざまなエッセイが入っていて、そのいくつかで筒井は現代ラテンアメリカの小説がいかにすごいかを、ガルシア=マルケスやカルペンティエールといった名前を紹介しつつ、魅力的に書いていた。田舎の本屋に筒井の本はかろうじてあっても海外文学はほとんどなかったから、当時高校生だった自分は「トカイに行ったら絶対買うんだ、この『百年の孤独』という本を」と思ったものだった。

 なんだか悲しくなってきたが、あのころ感じた“売っているはずなのに手の届かない本”への飢えというか、羨望というか、一種の無力感は、実感したことのない人には理解できないだろうと思う。「注文すればいいのに」といっても、その「注文しなければ手に入らない」不自由さから生まれる無力感なのである。
 いまは東京に住む身だが、自分がジュンク堂もあればブックファーストもある世界にいるのが時どき信じがたく思われることがある。いつか何ものかに無理やり「お前はこっちだろ」と言われて、本屋にはごく少数の新刊本しかないあのガランとした土地に引き戻されるんじゃないかと心のどこかでつねに疑っているふしがある。この感覚は一生抜けないんじゃないだろうか。
 なので、子供の頃から紀伊国屋や池袋LIBROが生活圏内にあった人間に対して自分は無意識に(四民平等、と言われた後も多くの人が元華族に対して感じたであろうような)「身分の違い」を感じてしまう。大学1年の夏休み、自分が『百年の孤独』をどれほど面白く読んだか、あなたたちには到底わかるまい。わかるものか。わかられてたまるか。

 こんなことを書くつもりではなかった。

『虚航船団の逆襲』に収録されている「現実と超現実の居心地よい同居」で、筒井はガルシア=マルケスの作品を論じ、中篇「大佐に手紙は来ない」にも触れていた。
 前回感想を書いたこの作品のラスト間際で、ついに生活が立ちゆかなくなった大佐は「あと1ヵ月半もすれば軍鶏が賞金を得る」と老いた妻に語り、最後はこのようにして終わる。
《「そのあいだあたしたちはなにを食べるの?」彼女はそう詰問し、大佐の下着の襟をつかんだ。そして彼を烈しくゆさぶった。
「言ってちょうだい、あたしたちはなにを食べればいいの?」
 大佐は七十五年の歳月――その七十五年の人生の一分、一分を要して、この瞬間に到達したのであった。
「糞でも食うさ」
 そう答えたとき、彼はすっきりとした、すなおな、ゆるぎのない気持ちであった。》

「小説ではない現実世界では起こらないだろうこと」はひとつも起こらない、と前回の自分は書いた。そのように読んだ。
 いっぽう、ガルシア=マルケスに「どうしようもなくリアリティをもつ超現実」を読む筒井の解釈はこうである。
《(…)この場合は逆に、最後の数行で超現実へすっとんでしまう。(…)「糞でも食うさ」
 不幸にも糞くらえという罵倒語を持つわれわれ日本人に対してこのことばは正確に伝わらぬ嫌いがある。大佐は文字通り「これからは大便を食べて生きていこう」と言っているのだ。言い換えればこのたったひとことの超現実性――しかもそれが象徴的な意味で使われたのではなくなまなましくも本来の意味で使われたことが厳然たる事実たらざるを得ないという不条理性を表現するためにのみマルケスはこの中篇をえんえんと書いたのである。(…)》p140

「文字通り大便を食わざるをえない」状況を、自分はあくまで現実と読み、筒井はそれを、そこまでの現実描写によってたどりついた超現実だと読んでいる。
 くだんのエッセイで筒井は、「超現実」である出来事のリアリティを高めに高めて「現実」と並べ置くのが「現実と超現実の居心地よい同居」だと書いている。
 でもそのためには、無茶苦茶なこと・非現実的なこと、つまり現実にはありえないはずのことを、現実でしかありえないものとして描くところまで行かなければいけないのだろうか。不思議なのは、そうなったら超現実が超現実だとはわからないのではないかと思うからだ。達成したあとではどこがゴールだったかわからなくなってしまうような、そんなゴールをめざすのだろうか。

 そんなことはない、とあなたは言うかも知れない――たとえば、どれだけリアリティをもって描いたとしても、「翼の生えた老人」は現実にはありえないのだから、超現実だとわかるでしょう。
――でも、それはまだ「現実ではありえないはずのこと」を「現実でしかありえないこと」に変容させるには至っていないということではないですか?
――それは無茶な注文でしょう。人間に翼はないんだから。
――では、「超現実がまるで現実のように書いてある」というのは言葉の綾ですか? 現実ではないとわかっているくせに「まるで現実」だなんて。逆に言えば、「超現実を現実と並べて描く」という場合、題材になりえるのは「超現実」だけじゃないですか?
――ループしてるように見えるけど、ここでも問題は、「現実にはありえないはずのこと」の「はず」をどこに置くかだと? ていうか何の話だっけ?

 要するに自分は、妻に向かって「糞を食う」と言うのは、言うだけではなく実際に食ったとしてさえ、たとえば「翼の生えた老人」と比べれば、どうあっても現実なんじゃないのかと言いたかった。
 そしてもうひとつ、上とはまったく矛盾するようだが、「糞を食う」のを「あくまで現実である」と読むのと、「現実描写の果てに超現実に飛んだ」と読むのは同じことじゃないかと言いたかったのだが、どうして同じなのかがうまく説明できない。あえて言えばこういうことだろうか。

「だって、糞だから」

 何か見落としている気がする。またいつか考えてみたいが、いつになるかはわからない。
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2004/09/29

ガルシア=マルケス『ママ・グランデの葬儀』(1961,62)

ママ・グランデの葬儀
桑名一博・安藤哲行・内田吉彦訳、集英社文庫(1982)

 中篇「大佐に手紙は来ない」にプラスして、短篇が8作入っている。どれも『百年の孤独』(1967)より前に書かれたもの。『エレンディラ』収録の諸作品は『百年の孤独』のあとなので、あちらの奔放さに比べると、同じ短篇でもこっちの作風はかなり違う。

「大佐に手紙は来ない」では、老いた大佐夫妻が恩給を何十年も待ち続ける生活が克明に描かれる。ひとり息子は反政府運動に関わった咎で殺された。妻は喘息に苦しみ、食べ物はいつも尽きかけている。家の中に売れる物はほとんど残っていない。
《彼はベルトを使わなかった。古いボール紙のような色をしたシャツは、ボール紙のようにごわごわとして、とりはずしのできるカラーを同時に支えている銅の飾りボタンでとめてあった。しかし、そのカラーは破れていたので、大佐はネクタイをあきらめた。》p10

 息子の遺した立派な軍鶏がやがて大金を稼いでくれるだろう、という期待だけで大佐は日々をしのぎ、自分たちの食費を切り詰めて餌を買い、恩給を待つ。そんな貧しい生活が90ページ続く。毎週、船が着くたびに大佐は港まで出かけるが、手紙は来ない。それでも彼は待ち続ける。
「小説ではない現実世界では起こらないだろうこと」はひとつも起こらない。その意味でこれは普通のリアリズム小説である。
 他の短篇の多くも同じで、このようにギチギチな現実描写の蓄積の後に『百年の孤独』が書かれたのは興味深い。かたやひたすら現実的。かたや夢よりも幻想的。それなのに筆致はさほど違わない気がするから不思議に思い、そこからリアリズムの小説と小説のリアリティについてちょっと考えてみたが、自分の手には負えなかった。思いつきだけ下のほうに箇条書きにしてみる。
(しかし実感として思うのは、小説をいろいろ読み続けることによる進歩がもしあるとしたらそれは、なんとなくわかっているつもりでいた“リアリズム”その他の「小説を説明する語句の意味」や「ジャンルの区別」がどんどんわからなくなっていく点ではないかということだった。こういう姿勢は前向きなのか後ろ向きなのか、それもよくわからない)

 書くほどに馬脚が現われるんだけど:

・上に書いたようなリアリズム描写を支えるのは、作者以上に読み手の常識、世界観
・作者は自分に見える現実にきっちり寄り添っているのに、多くの読者には(地理的・時代的に「現実」のズレがあるせいで)ぜんぜんリアリズムをやっているとは見えない、だから「リアリティのない」作品もあるはず

・時代小説はリアルなのか? 判断できるのは誰?

・成功した現実密着描写は(少なくとも作者と現実を共有する読者にとっては)リアルであるはずだが、「それと同じくらいリアルだと感じるのにぜんぜん現実密着描写に頼っていない作品」は、いったいこちらの何に訴えることでリアリティを獲得して(リアリズムたりえて)いるのか?
・その場合のリアリティは錯覚か?

・対象が現実であれ幻想であれ、「密着描写」がリアリズムなのか? 密着って?
・「リアリティを感じさせる方法がリアリズム」とまで拡大解釈したら、「どんなリアリティも錯覚」と同じで何も言っていないに等しい気がする

・ここに“マジック・リアリズム”という語を持ち込むと話は整理されるのか? 混乱するだけじゃないか? (例:時代小説はマジック・リアリズムか?)

2004/09/28

コルタサル『悪魔の涎・追い求める男 他八編』

木村榮一訳、岩波文庫(1992)

 これもまたラテンアメリカ作家の短篇集。ガルシア=マルケスはコロンビアでコルタサルはアルゼンチン、ただしどちらもヨーロッパに「脱出」して、コルタサルに至っては生涯をフランスで暮らしたという。

 なにしろ続けて読んだため素朴な比較になるが、『エレンディラ』の諸作品が現実-幻想の継ぎ目のない接地点をつくる方向にすべての努力を注ぐ印象なのに対し、コルタサルの短篇のいくつかは、作中でその継ぎ目を一旦前提したうえでどれだけ上手にそこを飛び越えられるか実験しているように見受けられる。そのせいか、ファンタジーというより一種のナンセンスに近い設定が多い気がするのだが、難解な感じはぜんぜんないし、「この内容をこんなにすらすら読めていいのか」と思うくらい読みやすい。翻訳者うますぎ。 以下、全部じゃないが感想を。

「続いている公園」
本を読んでいる登場人物がいつの間にか本の中の世界に巻きこまれている。そういうのをメタフィクションというのなら、約2ページという短さからいってもこれが完成形では。

「占拠された屋敷」
正体不明の音のために屋敷を放棄せざるをえない、妙に達観した兄妹。淡白にして濃密な関係。

「夜、あおむけにされて」
夜、あおむけにされる。

「悪魔の涎」
《ものを見る時はそこに嘘がふくまれるとあらかじめ仮定しておけばよい。あとは、見ることと見られることをはっきり区別したうえで、対象にまつわりついているもろもろの衣装を剥ぎとってやればいいのだ。》
かくて写真が動きだす。

「南部高速道路」
高速道路が渋滞してちっとも動かなくなり、ドライバーたちが周囲と連帯し待機状態を耐えしのぐ。食物・水を他のグループと取引し弱った老人を介抱しているうちにいくつも季節が過ぎる。

「ジョン・ハウエルへの指示」
観劇していた主人公が幕間に舞台へ連れて行かれて役を演じさせられることになるが、当惑と反抗心のあまり彼はしてはいけないことをしたくてたまらない。

「すべての火は火」
なんてかっこいいタイトル!

 表題作の「追い求める男」、天才ジャズ奏者が生涯なにものかを追い求める姿と、友人である伝記作家が彼を追い求める姿がダブらされて(ただし重ならず)描かれる長めの作品は、巻末の解説を読まずともこの人にとって重要なテーマを扱っているんだろうと了解されるシリアスな出来で心に残ったが、自分はどうしても「バカバカしさ」の方を求めて小説を読んでしまうのだった。


悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集
コルタサル (1992/07)
岩波書店

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2004/09/27

ガルシア=マルケス『エレンディラ』

鼓直・木村榮一訳、ちくま文庫(1988)

 短篇集。率直に言って、めちゃめちゃ面白い。
「現実と幻想的な出来事が平気で並置される」とか「並置もなにも、両者に区別がない」とかいった聞き伝えのイメージから想像される通りのラテンアメリカ小説で、ただのミーハーである自分にはいわゆる〈マジック・リアリズム〉のなんたるかもよくわかっていないが、収められている7つの短篇のどれをとっても、ひどく奔放なはずの世界にすらすら入っていける驚きの読みやすさだから、長篇『百年の孤独』に尻込みしている人でもこれなら大丈夫だと思う。

 最初に入っている「大きな翼のある、ひどく年取った男」が特に気に入った。ある日突然、平凡な家の中庭で背中から翼が生えた老人が発見される(そこまでで冒頭の9行しか使っていない)。惨めたらしく翼も汚い、言葉も通じないこの男はどうも天使であるらしく、村の神父を困惑させたり病人を治癒したりしながら鶏小屋で暮らして、数年後に再び空へ飛び立つ。こんな話が、終始〈たしかに珍しいけど、まあ、起こりうること〉として描かれているのに痺れた。

「失われた時の海」では、なぜかバラの香りを運んでくる海に潜ってみると海底には沈んだ村があって無数の死者が静かに浮かんでいるし(《女は目を開け、横たわったような姿で漂っていたが、そのあとには帯状につながった花が続いていた》)、首を落とした海亀の心臓だけが跳ねて逃げる。

「愛の彼方の変わることなき死」に出てくる上院議員の部屋では、紙幣もごみ屑もふわふわ宙を舞っている。

 いたいけな少女が娼婦にされたうえで次々とひどい目にあわされ続ける「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を読んでいる途中で自分はうたた寝してしまい、ほんの数秒の間に話の続きを支離滅裂な夢に見たが、目を覚まして読み直した実物の方がよっぽど常軌を踏み外していて夢みたいだった。

 現実と幻想が地続きであるところにリアルの基準が置かれているこういう小説を読んでいると、そのうち、とりたてて派手でもない部分にまで妙な凄みが行き渡っているように感じられ、そこまでいってこそ、ひとつのリアリズムを獲得していることになるのかもしれない。たとえばこんな会話。
《「どうして分かったんです?」とトビーアスはがっかりしたように言った。
「この年になると、ゆっくりものを考える時間があるので、人の考えくらいは見抜けるようになるんですよ」彼女は答えた。》P28

 古本で100円だった本にこれほど楽しませてもらえて満足です。

エレンディラ エレンディラ
G. ガルシア・マルケス、ガブリエル ガルシア・マルケス 他 (1988/12)
筑摩書房

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2004/09/26

バルガス=リョサ他『ラテンアメリカ五人集』

ラテンアメリカ五人集
集英社文庫(1995)

 ラテンアメリカ出身の作家五人の作品集。以下、一作ずつ感想を。

J・E・パーチェコ[メキシコ]
「砂漠の戦い」(安藤哲行訳)

 語り手が、同級生の母親を好きになってしまった小学生の頃を回想する。彼を異常者として扱う周囲の人間たちを通して当時の社会が描かれる。50年代のメキシコじたい珍しいから飽きはしないものの、まあ、普通の話だった。

M・バルガス=リョサ
 (飛びぬけてよかったので後述)

シルビーナ・オカンポ[アルゼンチン]
「鏡の前のコルネリア」(安藤哲行訳)

 狂気をはらんだ対話の連続。でも鏡と分身のモチーフを重ねて使うのは、定型といえば定型だがそれだけに退屈。

オクタビオ・パス[メキシコ]
「白」(鼓直訳)

 詩。詩はわからない。

「青い目の花束」(野谷文昭訳)

 幻想恐怖短篇。密度が高く面白いのでもっと数を読みたい。

「見知らぬふたりへの手紙」(同)

 幻想不思議短篇。以下同上。

M・A・アストゥリアス[メキシコ]
「グアマテラ伝説集」(牛島信明訳)

 タイトルどおり、民間伝承を題材にした奔放な話が6つ。そういうものをはじめに持ち込んできた功績はともかく(ボルヘスと同年生まれのアストゥリアスは〈マジック・リアリズム〉の元祖と言われるらしい)、伝説や神話なら「なんでもあり」で当たり前の気がしてあまり心が躍らない。こちらの問題だろうか。


 一口にラテンアメリカといってもいろいろあるようなので、こういうアンソロジーはもっとほしい。やはり短篇アンソロジーだった『美しい水死人』(福武文庫)は、ちくま文庫あたりで復刊されないだろうか。

 このサイトの管理人たちが、「ラテン・アメリカ文学を代表する作家たちの分布図」を作成してくれていてちょっと便利。
 http://park8.wakwak.com/~w22/nan.htm


バルガス=リョサ[ペルー]
「小犬たち」(鈴木恵子訳)
《その年はまだ、みんな半ズボンをはいていて、ぼくたちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり、やっと〈テラサス・クラブ〉の飛込み台の二番目の板から飛び込めるようになり、腕白で、つるつるした肌をし、好奇心が強くて、ひどくすばしっこく、がつがつしていた。》

 語り手が子供時代を回想する点では、この短篇も上述のパーチェコ「砂漠の戦い」に似ている。語られる話の内容が無茶苦茶に派手なもの(超現実!)ではないのも似ているが、こちらは全篇を通した文体、「文章で書かれた話し言葉」の跳ねまわる様がすばらしい。少年時代は過去形でしか語れない。しかしこの短篇の話し言葉は、過去の場面場面をその都度現在のものとして再現する。
 回想の中心になるのはクエリャルといって、猛犬に局部を噛み切られてしまった少年。さいわい命に別状はなく、となれば子供のことだから、当然のようにからかいの的になる。
《ぼくらは彼の肩を抱き、それにさ、別に怒ることないじゃないか、兄弟、他のいろんな仇名とおんなじことさ、君だって足の悪いペレスのことは、欠け足、っていうし、斜視のロドリゲスのことは、寄り目、とか、呪い目、とか、吃音のリベラのことは、くちきき、っていうだろう? それにあいつは、チョートで、あいつはチンゴロ、あいつはマニューコ、それにあいつはラロって呼ばれているだろう? 怒るなよ、兄弟、さあゲームを続けろよ、君の番だぜ。》

 そういうわけで、最初は嫌がり、怒り、泣いていたクエリャルも、やがてあたらしいニックネームを受け入れるようになる。
《〈ちんこ〉、けちけちせずにボールを回せよ、代数は何点だった、〈ちんこ〉? キャラメルと水飴を取り替えっこしようよ、〈ちんこ〉、あしたはチョーシカへピクニックだ、必ず来いよ、〈ちんこ〉、河で水浴びして、ブラザーたちがグラブを持ってくるからグムシオとボクシングをやれるしさ、〈ちんこ〉、敵を討てるぜ、登山靴は持ってるかい、〈ちんこ〉、山登りもすることになってるんだ、〈ちんこ〉、それに、帰って来てからでも夕方の映画に間に合うしさ、〈ちんこ〉、どうだい、この計画、気に入ったかい?》

 正確には、↑の引用は「ぼくたち」とはまた別の子供たちがクエリャルに投げかける言葉なのだがそれはともかく、ひとりの特別な人間を真ん中に置くことで、たいていの場合「よそでやってくれ」と言いたくもなる男の子同士の友情などというものを正面きって描くことにこの短篇は成功していると思う。

「ぼくら」「ぼくたち」という主語は、普通には「特定の一人(語り手)が自分を仲間たちとひっくるめて使う総称」だが、この短篇ではもしかすると「クエリャルと仲のいい男の子グループ」がはじめから一体化して喋っている〈複数の一人称〉なのかもしれない(うまく書けなくてもどかしい。変な一人称複数の語りにはこういうのもあった)。

 しかしながら時は流れ、具体的には「ぼくたち」が女の子に関心をもつ年頃になると、クエリャルはひとり取り残されていく。外見上はたくましい青年に成長したのに、どれだけ「ぼくたち」が励ましても彼はガールフレンドをつくろうと一歩を踏み出すことができない。生活は荒れていく。
「ぼくたち」とクエリャルとのあいだにひらいていく距離は、そのまま「ぼくたち」の少年時代からの隔たりであるだろう。しかしそんな平凡な解釈を後景に追いやってしまう切実さがクエリャルと「ぼくたち」の関係にはある。溝は埋めようがない。それでも「ぼくたち」は、声をかけるのだ。
《彼はハンドルを抱き締めて、溜息をつき、泣きじゃくり、首を振り、そして声をつまらせて、いや、そうじゃないんだ、誰もいやがらせをいったりしやしないよ、ばかにするなんて、そんな奴なんかいるものか、とハンカチで涙を拭いた。落着けよ、兄弟、それじゃあ、いったいどうしたんだい? 飲みすぎかい? いいや、気分が悪かったのかい? いや、そんなことじゃないんだ、気分はいいよ。ぼくらは彼の肩や背中をたたいて、おまえ、おっさん、兄弟、〈ちんこ〉、と元気づけ、泣くのはやめて笑ってくれよ、馬力のナッシュをふかして、その辺まで行こうぜ。〈エル・トゥルビヨン〉でお名残の一杯をやろうよ、二回目のショウにちょうど間に合うぞ、〈ちんこ〉、さあ行こう、泣かないでさ。》

「〈ちんこ〉、さあ行こう、泣かないでさ。」!

 これほどやさしい呼びかけは聞いたことがなかった。
2004/09/16

04/09/16

あ。岸本佐知子の日記が更新されている。
http://www.hakusuisha.co.jp/kishimoto/kishimoto.html

約6ヵ月ぶりの追加は2002年12月分のみ(+編集者による注釈が少々)。
当然足りないので、またこれまでの分を読み返す。
自由が丘に新しい眼鏡を取りに行く。かけるとまるで別人。というより宇宙人。たぶんグレイタイプ。これでしばらく知り合いを驚かせて遊べそうだ。ここは知る人ぞ知る変な眼鏡屋。店に入ると、遠くからしばらく人の顔をじっと観察していて、一つだけ「これです」と出してくる。それで間違いはない。店主は完璧な眼鏡フェチ。「この人にはこの眼鏡」ではなく、「この眼鏡にはこの人」という考え方。眼鏡屋なんだからそれで良し。

気になる部分
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