2004/07/19

「be found dead」(2004)


 「秋人の不在」を読んだので、土曜日、池袋で「be found dead」を見てきた。30分前に劇場(シネマ・ロサ)をのぞいてみたら、すでに地階から行列が延びている。立ち見はともかく、映画館の通路が座布団で埋まるのには驚かされたことである。

 もともと宮沢章夫の「遊園地再生事業団」により「トーキョー/不在/ハムレット」という舞台が来年に企画されていて、その原作となるのが小説「秋人の不在」、関連した映像作品がこの「be found dead」。その間にリーディングなんかもあるらしい。

 映画は「死体を発見してしまう誰か」を描く20分程の短篇が5本。オシャレだったらどうしようと思っていたが、どれも面白いので1000円は安い。宮沢章夫は第3話と5話を監督。

 1「欲望の旅の果てに」: 体育教師は間が悪い
 2「2話」: サイフはふたつ持とう
 3「イマニテ」: Webデザイナーは汚い仕事だ
 4「オリエンテ・リング」: DVDはすごい
 5「川」:

 5話めの最後。夏の朝、利根川に浮かぶ女性の死体は「秋人の不在」冒頭につながる。小説からの朗読が入り、それが鳥肌ものの読みかたでよかった。当たり前だけどプロはすごい。
《自分がどうしてこんな場所にいるのかすでに記憶がなかったし、過去の記憶のほとんどが消えてもいて、どこから来たのかも知らず、どこで生まれたのかもわからず、ただ子どものころ父親に手を引かれていたことだけが記憶のなかにぽつんと忘れ去られ置かれているように思うと、すべて消えてしまい忘れてしまった過去のなかに、忘れ去られることすら忘れられて残されたのが父の手だと思い、そのことが言葉の戯れのようだと思って笑いもするが、けれど、自分の口をついて出てくる言葉たちはいったいどんな場所からやってくるのかわからず、どこで覚えたものやらそれだけが不思議で、あの夜、人が大勢集まっていて、火が燃えていた夜のなか、とりどりの、花の飾りに、つつまれて、恋い慕う、涙の雨に、そぼぬれて、辿り行く、墓場の道の、迷い路の、と口にしたこともまた、なぜそんな言葉が口をついて出たか、そんな言葉をどこで知ったのかわからぬが(…)》



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2004/07/17

宮沢章夫「秋人の不在」(2004)


 
 人物表を作りながら読むのにふさわしい小説。
 2004年7月11日、利根川の河川敷に若い女の死体が流れ着く。上流にある北川辺町の渡良瀬川に身を投げたこの女の自殺が「秋人の不在」の始まりであり終わりである。冒頭からすぐに小説は時間をさかのぼり、あらためて死体の発見に向かってゆっくりと進んでいくからだ。

 利根川と渡良瀬川により三角形に区切られる北川辺町は埼玉県で唯一利根川の北に飛び出した土地で、茨城・栃木・群馬と県境を接し関東平野の真ん中に位置する→地図
 有力な土建会社の役員だった牟礼冬一郎が工事現場で変死を遂げた半年後、妻は亡夫の弟と再婚する。やがて河原に幽霊が現われるという噂が流れると、牟礼家の一人息子である秋人は町から消えた。一方、松田鶏介・杜李子の兄妹の父は、町会議員を務めつつ牟礼の土建会社とつながりをもつ。杜李子は秋人と付き合っていた。
 ふたつの家庭の関係はまったくシェイクスピア『ハムレット』からの引き写しで、ただし、中心になる主人公ハムレットにあたる人物だけがいない。いや、いるのだが、小説のなかでは姿が見えない(秋人の不在)。代わりに焦点が合わせられるのは彼の友達だった贄田継司で、秋人が失踪した2004年3月以降に町で連続する大小の事件を仲間と追ううちに、贄田は何ものかに戦いを挑んでいるような「不在の秋人」の影を見る。

 これは何よりも北川辺町という土地の物語だから、やはり「土地の物語」を書いたフォークナーの語り口が援用される。町がふたつの川で挟まれているように、『ハムレット』と『アブサロム、アブサロム!』で囲んだところに小説を設定した作為は、どちらの書名も作品の末尾に「参照」としてあげられている以上見落としようがないし、土建屋の息子が秋人なのも同じくフォークナーを支えにした日本人作家へのサインなんだろう。この「参照」とサインはしかし、先行する彼らとは違って土地の物語を外部から作ろうと試みる意志の表明にみえる。

 北川辺町の若者が憧れる都会は「トーキョー」で、外から来た人間はひどく軽く、また不気味に扱われる。町の住人なら一瞬しか登場しない者にまで名前が付けられ(数え洩らしがなければ36人もいる)、主要な人物ほど読みにくい名になっている一方、少数のよそ者は無名のままだ。
 アメリカ深南部でも紀州の路地でもなく、ノルウェーに怯えるデンマークでもない北関東の退屈な町、ファミレスとコンビニが点在するだけのからっぽな田舎で物語を紡ぐために『ハムレット』とフォークナーをもってくる。あるいは逆に、ニ作品を合成する舞台として、どこでもありうるような町が選ばれる。
 どちらにしろ、そんな人工的な作られ方をこの小説は隠さない。暴力と近親姦のテイストも忘れず入っているし、露骨な「枠」があるおかげなのか、登場人物たちはここぞというときに芝居がかった言葉を口にできる(日常会話はいまいち馴染まない方言で描かれる)。
 そんな作りものくささと、それとはいかにも不釣合いにうねうね屈折する文章が共存しているところが「秋人の不在」の読みどころである。「語りの濃密さ」さえパッチワークの一要素として採用されていることを自分は疑わないが、それはそれとして、濃い文章は登場人物をからめとる呪いのような血縁の愛憎劇を引き寄せる。ひっそり根付く隠れキリシタンの伝説まで掘り起こされて、関東全域の中心にある小さな町に歴史の陰を落とす。
 読後感は奇妙だ。どれも前に見たことのあるような手法の組み合わせでできたこの小説は、本物の「土地の物語」なのか、そのコピーなのか。だいたい、そんな区別があるのか。先人の方法がどんな場所でも応用可能なのを検証するためにこの作品は書かれたかのようだ。

 盛り込まれたプロットのいくつかは消化されない。主な出来事は2004年の2月から7月の間に配置され、それ以前の過去は「設定」としてあるが、それ以後の事件、死体発見の半年後に起きるという「凄惨な事件」も作中で何度となく暗示されながら、実際にはそこまで語られずに終わる。小説の時間はうまく閉じていない。そして、一見平凡な土地からも光の当て方によって相応の物語を浮かばせることができたのを考え合わせれば、「秋人の不在」は、時間も場所も閉じずに開いているということになる。2004年の北川辺町は、いつでも、どこにでもあるのだ。


それから映像作品を見に行った。
半年後に舞台公演があり、また、小説は『不在』として出版された。



不在不在
(2005/01)
宮沢 章夫

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2004/07/16

いとうせいこう・みうらじゅん『見仏記2』(1995)

見仏記〈2〉仏友篇
角川文庫(1999)

《また酒を飲み直しながら、我々は付近のパブで働くフィリピーナの暮らしを想像し始めた。今頃、野球拳をやらされているだろうとか、“やーきゅーうー”の部分は“ヤークーウー”となまるはずだとか、そんな話だ。》

 ひらがなの二人が全国の仏像を見て回るシリーズ。
 この頃はまだ日本にとどまっていて、板垣退助のご当地高知県を訪れる回がある。

《「ねえ、あれ、板垣の銅像かなあ」
 とタクシーの窓に鼻をつけて言った。みうらさんは眠そうな声で答えた。
「ああ、死すとも?」
「あんた、そういう縮め方はないでしょう。『笑っていいとも』じゃないんだから。
板垣死すともって、偉いことを言った人だよ、相手は」
 そう叱ったものの、ついみうらさんに呼びかけてしまう。
「それじゃ明日、死んでくれるかな?」
 すると、みうらさんはかったるそうに両手を上げて答えた。
「死すとも――!」
「よせよ」》

「眠そうなみうらじゅん」はダルさの極地な気がします、とはある知り合いの弁。
2004/07/15

斎藤美奈子『文章読本さん江』(2002)

文章読本さん江
筑摩書房

 古今の各種文章読本を読みまくり、その偏向を観察して蹴りを入れる。
 たしかに面白いし、痛快だが、もっといえば「斎藤美奈子が文章読本について書いたらこうなるだろう」という予想にあまりにぴったりの出来なのだった。
 文章読本の世界では、野口英世の母シカが息子に宛てて書いた手紙が感動的な「達意の文」として賞賛され、お手本としてあちこちで引用される。
「おまイの。しせにわ。みなたまけました。」で始まる、句読点は乱れ誤字だらけの手紙(お前の出世には、みなたまげました。)をながめて斎藤美奈子は云う。
《シカがこのことを知ったら、おそらく恥と感じるはずだ。彼女だって、もっとちゃんとした手紙を書きたかったんだと思うよ、本当は。》

 この人に人気があるのは当然だと思った。
2004/07/14

サイモン・シン『暗号解読』(1999)

暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで
青木薫訳、新潮社(2001)

 たとえば「35文字のアルファベットからなるメッセージの並べ替え方は50000000000000000000000000000000通り以上あり、世界中の人間が1秒に1つずつチェックを続けたとしても、すべての並べ方を調べ終えるまでには宇宙の年齢の千倍の時間がかかる」などと言われると、自分は簡単に陶然としてしまうのだが、これは極端に数字に弱いせいなのか。

 ともあれ、刊行時にやたら評判が良かったのもうなずける話で、ギリシャ・ローマ時代から現代まで、暗号の作成と解読技術の発展を解説してくれるこの本は読み出したら止まらない。
 当然のことなのか驚くべきことなのか、暗号の原理とは、文字を何らかの法則に従って置き換える、というだけであるらしい。
 この手順を暗号作成者たちがどのように複雑化し、解読者たちはどんな方法で対抗してきたか。その仕組みを説明する語り口は、感動的なまでにわかりやすい。
 16世紀末に完成されていた、メッセージを一文字ずつ違った法則で置き換え無敵に見えたヴィジュネル暗号(でも解読される)だとか、第二次大戦直前にできた暗号作成機械(および解読機械)の構造、さらにはどうせ玄妙すぎて魔法と区別がつかないと思っていたコンピューター導入後の暗号から、真に完璧な暗号になると予想される量子暗号の考え方までついていける喜びに、読んでいる間だけは浸れるのだった。
 一方でこの本には、そこかしこに名をもった人間が現れ、数学の天才を含む、暗号作成者たちと解読者たちの偉人伝としても読める。なかでも現代に至ると、先進的な原理を発見しながらも国家機密に直結するため公に出てこれなかったイギリスの暗号専門家チームの話など、面白くてたまらない。

 ところで、例外の扱いながら特に印象に残るのは、第二次大戦中に米海軍で使われたナヴァホ・コードで、先住民族ナヴァホ族の言語をほとんどそのまま適用したこの暗号は、「歴史上解読されなかったきわめて稀な暗号の一つ」だったという。
 というのも、ナヴァホ語の動詞は主語ばかりか目的語によっても活用し、しかも動詞は副詞も取り込み、話者の体験か伝聞かでも変化するから、動詞一つがまるごと一つの文としてさえ働く。発音は難しく、極めつけに、彼らには書き文字がないので用語集を発見されるおそれもなかった。じっさい通信兵になったのはナヴァホ族だけで、同じ情報部でも解読どころか書き取ることさえできなかったという。
2004/07/13

鹿島茂『成功する読書日記』(2002)

成功する読書日記
文藝春秋

 何かの参考になるかと思って読んでみたら、大半は「週刊文春」に掲載の読書日記をまとめたものなのだった。知らなかった。異様に幅の広い書評実践篇ではあるが、いかんせん週刊誌のスペースで「紹介」の域を越えるのは難しい。紹介たりえていることを評価すべきだろう。じゃあ参考になったのか。
 単行本化で付け足した部分にこんなところがあった。
《本筋とは関係なく、自分にとっては妙に気にかかる一節、心に触れる箇所というのがあるはずです。そこを引用すればいいのです。読書日記というのは、客観的な資料を残すためのものではありません。あくまで、自分個人のためのものです。ですから、引用も極私的なものでいいのです。》

 感想よりもまず引用、と。
 そういうわけで、これからも引用していくことにした。
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