2004/06/29

ナボコフのメモ

 ウラジーミル・ナボコフ。1899年、ロシアの名門貴族の家に生まれ、幼少から英語・フランス語の教育を受ける。革命のため国を追われて、イギリス、ドイツ、フランスとヨーロッパを転々。ロシア語と各国語で創作活動。1953年よりアメリカに移住、教壇に立つかたわら英語で執筆を行う。ロシア語作品の英訳も自分で。『ロリータ』の大ヒット後はスイスに暮らす。1977年没。

『青白い炎』を読んだ頭でふらふらと若島正『乱視読者の冒険』(自由国民社)『乱視読者の帰還』(みすず書房)をめくり、ナボコフ作品の読み方について書いてあるところを拾ってみた。
《まず、最短の直線経路は、つねに疑わしいということを知っておく必要がある。それはたとえば、ナボコフを「故郷喪失」あるいは「失われた少年時代」という言葉ですべて説明しようとする道である。こうした言葉で語られる物語は、読者の共感を誘うだけに、容易に作者との同化をうながすように作用し、いわゆるノスタルジアを歌う作家としてナボコフを理解したような気にさせてしまう。》『冒険』


《 「他人はあずかり知らぬところだし、またもちろんそうであってはならないのだが、私の個人的な悲劇は、二流の英語と引き替えに、生得の言語である豊かなロシア語を捨てねばならなかったことだ」とナボコフは語っている。ナボコフ文学を考えるときに最大の問題は、まさしくこの一点、すなわち彼がロシア語を捨てて英語で書いたという点に集約される。》『帰還』

《ナボコフは、『ロリータ』を書くことによって意識的にアメリカ作家になろうとした。それはけっして、ロシア人としての自己、ロシア語、さらにはロシアの文学遺産を完全に放棄しようとしたわけではない。『ロリータ』に付けた後書きの中で、ナボコフはこう語る。「私のロシア語による作品の読者なら誰でも知っているように、私の旧世界―ロシア、イギリス、ドイツ、フランス―は、新世界とまったく同様に、幻想的で個人的なものである」。要するに、ナボコフの世界はすべて彼が言葉によって再創造した世界であり、そうした創作態度は少年時代のロシアの記憶を綴るときにも変化はない。そこで描かれていたロシアは、文字どおりナボコフのテクストの中にしか存在しない幻想のロシアである。従って、ナボコフ文学とは、時間と空間を超越しようという絶えざる試みとしてまず読まれるべきものとなる。》『帰還』

乱視読者の帰還
乱視読者の帰還
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若島 正
みすず書房 (2001/11)
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2004/06/28

ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(1962)

富士川義之訳、「筑摩世界文学大系81」所収(筑摩書房、1984)

 ページを開くと「目次」がある。
前書き
青白い炎――四篇の詩章
註釈
索引

 アメリカの詩人ジョン・シェイドは、999行の長詩「青白い炎」草稿を完成させた直後に殺された。自称友人の学者チャールズ・キンボートがこの詩を編集し、後ろに大量の註釈をつけて出版したのがこの書物である――小説『青白い炎』はこのようなスタイルをとる。体裁は詩の註釈本だが、内部に渦巻く妄念の密度はちょっと比類がない。

《一行-四行 わたしは……殺された連雀の影だった、など

 これらの冒頭の詩行のイメージは明らかに、完全な飛翔の最中に、窓ガラスの外側の表面にからだごとぶつけた小鳥に触れているが、その窓ガラスには、本物よりもかすかに暗い色合いとかすかに遅い雲の流れる空が映っていて、そのため連続した空間のような錯覚を与えたのだ。》p241

 註釈者キンボートは狂人である。この男は自分が北方のゼンブラなる国の王であり、革命ののち監禁されていたのを逃げ出して今に至る、という妄想に取り憑かれている。彼は生前のシェイドに度々ゼンブラのことを語っており、その打明け話が「青白い炎」の材料になったと信じている。実際の詩はシェイドの自殺した娘が中心で、ゼンブラのゼの字も出てこないのだが、キンボートはそこから勝手に「祖国」への言及を読み取って、狂った記憶を数々の註釈に注ぎ込む(シェイドの妻はキンボートを嫌い原稿を取り戻そうとしているため、註釈作業は山中の隠れ家で行われている)。
 ゼンブラの風土や言葉など細部は常軌を逸し、キンボートの脱出行までが克明に描写されるうえ、彼の考えでは、シェイドを殺した犯人は革命政府の刺客であり、本当は元王の自分を殺すはずだったことになる。この暗殺者が彼を追ってアメリカまで徐々に近づいてくる不気味な様子さえも、詩から読み取られる。さらには、最終目的として、キンボートは失われたゼンブラの宝が詩に埋め込まれていると信じ、それを読み解こうとする――

 これらがみんな、詩行に即した註釈として語られるという事実を前にしては、テクストの過剰解釈行為をまるごと作品化した、とまとめたところで何の意味もない。狂気の産物を装って編まれたこの大作は、長い絶版状態を経て、ちくま文庫に入った。あまりの偏執さに、安心して笑える。深夜、ひとり読み耽るのにうってつけだと思う。

青白い炎

…関連
2004/06/27

ウラジーミル・ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(1941)

セバスチャン・ナイトの真実の生涯
富士川義之訳、講談社文芸文庫(1999)

《ぼくは、六つ年上の少年時代のセバスチャンが、豪華な石油ランプの点った家庭的な雰囲気のなかで、上機嫌で水彩絵具に手を出していたときのことを思い出す。その石油ランプの柔らかなピンクの色合いは、今やぼくの記憶の中に燦然と輝いているので、彼自身がみずから湿った絵筆をとってピンク色に塗ったみたいに思われる。》P23

 この小説は、ロシアで貴族の家に生まれながら革命のためヨーロッパに渡った過去をもつ語り手の「ぼく」が、異母兄で作家になったセバスチャン・ナイトの短い生涯を綴った伝記、という形式をとる。子供時代に祖国を追われてからはほんの数回しか会うことがなかった兄に寄せる語り手の感情は複雑で、伝記は主観的な色彩を帯びてくる。
 記憶と情報を想像力によって繋ぎ合わせ他人の過去を再構成する作業は、実は新たな創造行為にほかならない、しかも事情は自分の過去についても同じである――といったようなことを考えるためには、なにもこの小説でなくてもいいだろう。
 この小説でなきゃだめなのは、セバスチャンの元秘書が「ぼく」に先んじて発表した杜撰な伝記「セバスチャン・ナイトの生涯」への反論や、兄がものした特異な作品の紹介と読解も織り込んだ複雑な形式をなめらかに動かす、語りの素晴らしさのゆえだ。セバスチャンの影を追いかける「ぼく」の筆致は、ときおり感情のままに時間の隔たりを越えてしまう。かつてセバスチャンと一緒だった女性の家を、語り手は探し当てて訪ね、その夫に迎えられる。
《「こんな格好で失礼します」と彼は言った。「ひどい風邪にやられたものですから。ビショップです。あなたは妻に会いたがっておられるそうですね」
 ぼくは突然閃いた奇妙な空想の中で、十二年前にぼくが会ったとき、ピンク色の鼻をして嗄れ声だったクレアが引いていたあの風邪をさては移されたのではあるまいか、と思った。》P112

 過去と現在を繋ぐ筆のすべりを繰り返すうちに、やがて語り手はセバスチャンの事実を飛び越えて真実に届く。「ぼく」はあくまで「ぼく」のまま、実感するにいたる、「ぼくはセバスチャン・ナイトなのだ」と。

 本を閉じてから、このスリリングな変容の後ろにはすべてを演出した作者が控えていると思うと、なにかそらおそろしくなる。『エドウィン・マルハウス』のミルハウザーも、きっとこれが好きだったにちがいない。
2004/06/22

蟻とアリと蟻と蟻とありとアリ

《「すき間に布がつめてある・・・
 中からだ!!」》
『風の谷のナウシカ』第3巻
 
 こんなことで更新したくなかった。
 外も暗くなってきたから窓を閉めようと台所に立つと、蟻。蟻アリあり蟻。
 やっぱり。

 先日は夜中だったので使わなかった掃除機が有効であることを発見。
 さも何でもないように処理しているふうを装いながらも掃除機の中を想像してしまう自分は骨の髄までネガティブ志向の蟻に蝕まれていると思う。

 ところで、今回は困ったことに侵入路がはっきりしない。

 窓はぴったり閉めたが、30分ほどおいてから様子を見ると、またぞろぞろ集まっている。
 流しにある継ぎ目、流しと壁の境目、さらには玄関ドアの新聞口に至るまで、そこにあるすべての「ぴったりしてない部分」にパテでも流し込みたい衝動に駆られるが、いちばんあやしい箇所をガムテープで封鎖するにとどめておく。
 それから数時間、今のところは大丈夫だ。今のところは。

アンドロマキ (…)私、恐ろしい騒動の夢を見たのよ、
         一晩じゅう惨殺された人たちの姿ばかり見ていたのよ。
 カサンドラ それは正夢です。》
シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』(小田島雄志訳)
2004/06/20

蟻と蟻と蟻

 昼間は暑すぎるので水に漬けたままにしておいた食器を洗おうと思い、台所の電気をつけると、流しの三角コーナーに黒山の蟻だかり。蟻。アリ。蟻。
 こんな感じで、もちろん、1匹1匹がわらわらと動く。

                    蟻
   蟻    蟻蟻  蟻  蟻       蟻     蟻
  蟻蟻蟻蟻蟻蟻    蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻   蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻
   蟻蟻蟻蟻蟻   蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻    蟻蟻蟻蟻蟻
  蟻   蟻 蟻  蟻蟻蟻蟻蟻蟻 蟻蟻蟻 蟻蟻蟻蟻  蟻
   蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻蟻    蟻蟻      蟻
  蟻        蟻蟻  蟻蟻蟻蟻   蟻蟻蟻蟻蟻
      蟻蟻蟻蟻蟻蟻  蟻     蟻蟻蟻蟻蟻   蟻
    蟻     蟻         蟻       

 リアルで悲鳴を上げるのは何年ぶりだったか。

 世間で逃げちゃいけないと言われているものごとの大半からは実は逃げてもいいらしいとわかる歳になった自分だが、いま・ここからは逃げちゃだめだと理性が泣く泣くコメントを入れたので、むりやりモードを切り替える。切り替えたふうを装う。
 くわえて、あと3日分のカレーが入った鍋はまったく無事だとわかって(そりゃそうだが)いくらか落ち着く。
 自分が落ち着いても蟻は行列になって蠢き、流しの外にも壁にも、そうこうしているうちに自分のふくらはぎにも侵出しかけているのだが、いろいろこらえているとやがて侵入口は天上の一角にあるのが見えてきたので、まずそこをガムテープで塞ぐ。部屋にあるキンチョールが蟻に効かないことは小学生の時分に学んだ(「だからアリ用キンチョールがあるのか!」と深く納得するに至ったその体験はこのうえ思い出したくない)。

 トイレットペーパーを持ち出して、えんえんと虐殺。
 無言だとやりきれないのでてきとうな合いの手を入れる。汗みずく。
 やはり小学生の時分に、ある男子が異様に自然な動作で蟻を口に入れ、周囲の全員を慄かせながら述べた感想が頭をよぎった。
「しょっぱーい」
 少年、それが蟻酸だ。

《「ぼくは彼らすべてを殺したくはなかった。ぼくは誰も殺したくなんてなかったんだ! ぼくは殺し屋じゃない!(…)だけど、あんたらはぼくにそれをやらせた」》
オーソン・スコット・カード『エンダーのゲーム』

《自分の足元を見ろ
 死者の中にはお前が殺した者も
 まじっているんだ
 とんでもないカマトトだよ
 お前は》
『風の谷のナウシカ』第5巻

 カマトトでもなんでも全滅ならいいんだが、嫌な予感がしてならない。
 この日記のタイトル、意味が変わってしまった。
2004/06/11

2003年の穂村弘


 去年の夏、青土社の「ユリイカ」は8月号で黒田硫黄を特集し、9月の増刊として「川上弘美読本」を出した。
 穂村弘はその両方に呼ばれ、二人と対談している(正確には、黒田の時はアシスタントもまぜた鼎談)。どちらもかなりの分量だが、穂村弘の話題は一貫していた。

  黒田硫黄を読む自分
  川上弘美を読む自分

 結果、「どっちを読んでも、穂村の話はほぼ同じ」ということになる。
 だれの特集か。
 しかしそのおかげで「黒田硫黄」「川上弘美」が裏から浮かんでくるのは怪我の功名かもしれないし、そこが編集者のねらいだったのかもしれないし、あるいはこちらの錯覚なのかもしれない。

穂村 一世代前の、ちょうど僕くらいの年のオタクは、俺がこんなに現実に入れないのはミュータントであるからに違いないとか思うわけです(…)そういう人間が黒田硫黄を読むとショックを受ける。ミュータント度でも負け、現実順応度でも負けたら、あとどこで勝負すればいいのかと。

穂村 そいつら(註・中年のサラリーマンたち)がウェイトレスに、なかなか注文がこないと文句を言ってて、「昨日から待ってるぞ」なんて言うわけ。ださい!と思うんだけど、でも、そのだささのなかにも一抹のピュアさがあって、その人間としてのトータルな存在感が俺を傷付けるんだよね。(…)
黒田 そういう話を聞くと、俺はまったく外界に興味がないなあと思いますね。

穂村 いくつかのやる気と運が重なれば、夢の一体感、永遠の愛が君にも手に入る!というメッセージを受け取るよね。
川上 永遠の愛はないよ。夢の一体感はあるよね。でも、それは普通に恋愛すれば十分あることじゃない?
穂村 すごく短いスパンではそうだけど、あとで恋人の携帯の着信履歴をこっそり覗いたらとんでもなかったとか、死んだあとメールの履歴を見たらぐちゃぐちゃだったとかいろいろ出てくるから(笑)。
川上 そんなの当たり前のことじゃない(笑)。
穂村 当たり前なんだけど、当たり前でありたくないじゃない(笑)。
川上 そんなの無理。なんか穂村君は人間を信じているよね(笑)。万能なものが世の中にはあると思ってない?
穂村 万能かどうかはともかく最高のものはどこかにあるとは思っているよ。
川上 そんなものはないよ(笑)。

 ぐったり疲れてまいりました。



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2004/06/10

穂村弘『もうおうちへかえりましょう』(2004)

もうおうちへかえりましょう
小学館

《「お互いに高めあう恋愛」の国など、本当はどこにも存在しないのでは?
 真っ黒な心の私はGoogleにキーワードを入れて検索をかけてみた。

 「松任谷由美 正隆 浮気」

 四七件!
 だが、その中身をみてゆくと、「作詞作曲:松任谷由美、編曲:松任谷正隆」、
そして「浮気」は歌詞だった。》P69

 穂村弘には都合3回驚かされた。
 最初に歌集『シンジケート』、『ドライ ドライ アイス』(沖積舎)を読み、短歌はこんなことになっているのかとまず驚き、続けて読んだ『短歌という爆弾』(小学館)で、センスの一発勝負に見えた歌がどれほど理詰めで作られているのか舞台裏をあかされ、他人の作品を読み解く分析の鋭さにまた驚いた。

 そして3回めの驚きは、その分析力を自分に向けた散文による。

 穂村弘が何者か考えた場合、上でたどった順序はおそらく逆で、この人は歌人であるより前に批評家であり、それよりも前に「穂村弘の専門家」である。
 たとえば飲み会の最中に何気なく席を替えるような、普通の人なら自然にできるだろうことができない自分とは何なのか。ぐるぐる考えたところでついに「自然」にはなれない男の自己観察は『世界音痴』(小学館)に詳しい――というか、その後も綿々と書きつがれ、先日、続編となるこのエッセイ集として世に出てしまった。

 恋愛にしろライフスタイルにしろ、この人ほど「世間的にあるべきイメージ」に囚われながら、そのイメージとの距離につまづく自分の姿を芸にできる人はめずらしい。視点が冴えれば冴えるほど解脱からは遠ざかり、七転八倒する自分を外から見ている。読んでいて安心して笑えるのは、この距離感があるからだ(もうひとつ理由があるとしたら、それは受け手の問題である)。

『世界音痴』ではもっぱら自分に向けていた分析を、今度は漫画やら時代やらに向けて発揮する(こともある)ので、もう穂村弘を心配することはない。古本を探す人間の心の動きや、本棚に本を並べる際の気配り、あるいは高野文子を読む体験を、これだけ的確に書ける人がいたのか。
 一方で、穂村弘の自己観察をこんなにも夢中になって読んでいるのは自分だけなんじゃないかという不安は増すばかりである。


《「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士》

『手紙魔まみ、夏の引越(ウサギ連れ)』(小学館)
2004/06/01

佐藤亜紀情報(04/06/01)

 いまさっきこういうものを見つけたので報告したい。ご存知の方には申し訳なかった。
《次は一九二〇年頃の内戦時代のウクライナで『ワイルドバンチ』をやります(笑)。
 飛行機は飛ぶし、機関銃はあるし、最高でしょ。》
 最高です。

 佐藤亜紀の『天使』(2002)と『雲雀』(2004)は、第一次大戦前後のヨーロッパを舞台に、特殊な「感覚」を有する間諜たちの攻防を描いている。
《感覚を体に繋ぎ止めておく最後の掛け金を掛けただけの状態で、ジェルジュはカラヴィチを見遣った。それも、いつでも外せるばかりになっていた。裏返しになる一歩手前まで解放した感覚をどこにも向けずにいるのは、剃刀の刃の上に片足で立つようなものだった。長い間試してもいなかったが、それが苦もなくできることを確かめるのは愉快だった。背後にあった硝子の水差しが甲高い音を立て、中の水に波紋が広がった。相手がたじろぐのが判った。ジェルジュは再び感覚を抑えた。
「僕には密偵なんかできません」》

 この者たちは、他人の頭を覗いたり手を触れずに攻撃したりできる力をもちながら、あくまで組織のなかで立ち回る。すみずみまで抑制された文章が、彼らのストイックな姿勢(駒であることを徹底的に自覚しているといおうか)と二重写しになってこちらに迫る。派手な言葉をたくさん重ねるのではなく、起きていることを的確に説明するだけの素っ気なさがひどくかっこいい。読んでいる間、架空の「感覚」が自分にも「わかる」と思う瞬間が何度もあった。印象的な場面を思い浮かべてから本を開くと、それが言葉だけでできているのに改めて驚いてしまう。

『天使』は長篇、『雲雀』はサブストーリーを収めた短篇集。こないだ『雲雀』を読み終えた自分は『天使』を再読し、そのうえでもう一度『雲雀』を読んだ。一瞬も退屈しなかった。この二冊を出した文藝春秋はえらいが、しかし、もう『天使』絶版ですか。(※)こんなに面白い本がなんで売れませんか。
《ジェルジュは目を開き、顎をこじるように銃口を突き付けようとするザヴァチルの手首を、ぎこちないが速い動作で掴んだ。指から伝わる干渉が感覚を揺り起こした。首筋が燃え上がり、頭蓋の底が唸りを上げた。一瞬、体を見失った。感覚が炎の舌のようにザヴァチルを舐め上げ、焼き尽くすに任せた。窓という窓が、割れるというより極小の破片になって崩れ落ちた。》