2004/05/30

カルヴィーノ先生

冬の夜ひとりの旅人が きのうも今日もあしたにも欲しい本はどんどん出版されているというのに新刊を追いかける体力のない自分がうらめしく、「だけどこれまでに読んだいいものを再読する方がむしろ意義があったりするんじゃないのかな、ホラここにもこんな小説が」とかいって部屋の本棚から取り出したカルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳、ちくま文庫)をめくり、ほんの数ページでうちのめされる。

《出版されたばかりの本があなたに与える楽しみというのは、格別なものだ。それは一冊の本があなたの手にあるということだけでなく、今しがた工場から出荷された品物のみがもつものでもあるその新しさ、蔵書にたちまち訪れる容色の衰えの中で、表紙が黄ばみ、本の切り口にスモッグのヴェールが沈殿し、本の背が角のところですり切れるまでは続く、本にもまた備わった若さの美をも手にしているのだ。(…)
 たぶんあなたは本屋でもその本をめくり始めたことだろう。それともセロファン紙の繭にくるまれているのでそうできなかったのですか? 今あなたはバスの中で、人混みにもまれて、立ったまま、片手で吊り革を握り、あいた方の手で本の包みを開けようとしている、いささか猿みたいなしぐさだ、片手で木の枝につかまり、もう一方の手でバナナの皮を剥こうとしている猿みたいだ。肘が隣の人をこずいていますよ、せめてごめんなさいとぐらいは言いなさい。》P14
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
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2004/05/17

ジョルジュ・ペレック『W あるいは子供の頃の思い出』(1975)

Wあるいは子供の頃の思い出
酒詰治男訳、人文書院(1995)

 フランスの小説なので、タイトルの「W」は「ドゥブルヴェ」と読むそうである。「ドゥブルヴェ、あるいはこどものころのおもいで」とつぶやいてみると、やはりフランス語はずるいと思う。

 ふたつの異なる文章でこの小説は始まる。Ⅰ、Ⅲ、Ⅴ…の奇数章はひとまずフィクションで、第二次大戦中に軍を脱走したフランス人の話。Ⅱ、Ⅳ、Ⅵ…の偶数章では、作者とおぼしき語り手が、ほとんど記憶にない自分の生い立ちを回想しようとしている。
 この繰り返しで90ページほど続く第一部では、後者のほうにより強い思い入れが感じられる。1936年のパリに生まれたユダヤ系の「作者」は、まず戦争で父を失い、アウシュビッツで母を殺された。《ぼくには子供の頃の思い出がない》。
 13歳の時、彼は「W」という島を舞台に物語を構想した。第二部に入ると、ひさしく忘れていたその物語が再構成されて語られる。第一部との断絶は読者が勝手に埋めていいらしいが、それはグロテスクな世界である。

 南米の小島に設定された「W」は、運動選手たちの国家である。
〈スポーツ〉と生活が一体化し、国民は選手かその関係者(コーチや大会の役員)しかいない。大部分の女性は生まれたときに殺され、生き残った者たちも、長じてのち競争に勝った選手に供される。
 22の競技、ひとつの村から選出される競技者の人数、大会ごとに決められている勝者の称号、その他もろもろ〈スポーツ〉のルールは事細かに定められているいっぽうで審査員たちの気まぐれに左右される部分も多く、最悪の場合、敗者は殺され死体は晒される。
 物語といいながらドラマはない。えんえんと、この島の陰惨な設定が説明されるだけだ。しかし、第一部から聞こえてくる「ぼく」の過去をめぐる声によって、語りは異様な迫力を帯びてくる。
《なにも言うべきことがないと言うために書いているのではない。ぼくは書く。ぼくは書く。なぜならぼくたちは一緒に生きたのだから。なぜならぼくは彼らの一員だったのであり、彼らの影のあいだの一つの影、彼らの体のそばの一つの体だったのだから。ぼくは書く。なぜなら、彼らはぼくの中に消し去ることのできない刻印を残したのだし、そして彼らのその痕跡が書くことなのだから。彼らの思い出は書くことにおいて死んだ。書くことは彼らの死の思い出であり、ぼくの生の肯定なのだ。》p61

 歴史上の悪夢は彼にとって歴史でも悪夢でもない。



※(2013/12/15追記:水声社から復刊されてました)

W(ドゥブルヴェ)あるいは子供の頃の思い出 (フィクションの楽しみ)W(ドゥブルヴェ)あるいは子供の頃の思い出 (フィクションの楽しみ)
(2013/11)
ジョルジュ ペレック

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2004/05/16

ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(1984)


工藤幸雄訳、東京創元社(1993)

 9世紀の末、黒海沿岸に住まうハザール民族の王は夢に天使のお告げを聞いた。
〈汝の意図を創造主は嘉納したまう、
 しかし行為は受け容れられない〉

 王はキリスト教・イスラーム教・ユダヤ教から1人ずつ代表者を呼びよせ、もっともすぐれた夢解きをした者の宗教を国教に定めると約束して3人に論争させた。これがハザール論争である。その後、この国は歴史の表舞台から消えたため、どの宗教に改宗したのか、のちの時代の学者たちによる議論が続いた。
 それから8世紀が過ぎた1691年、ハザール論争とそれをめぐる論争について、3つの宗教それぞれによる説を1冊にまとめた書物が刊行されたが、すぐに失われてしまった。
 さらに時は流れて20世紀後半、資料をかき集め、失われた事典初版をできる限り復元し、新発見をもとに増補・再構成を施した改訂版がこの『ハザール事典』なのである…という設定に基づいた、小説。

 本書は、赤色の書(キリスト教)、緑色の書(イスラーム教)、黄色の書(ユダヤ教)の3部から成り、おのおのの立場からハザールにまつわる事物、人物、伝説が事典形式で配列され記述されている。
 もちろん、どの宗教も「ハザール論争の結果、かの国はわれわれの宗教に改宗した」と主張してやまず、同じ出来事についての見解も時には大きく異なり、時には裏側から重なる(しおりヒモはちゃんと3本ついている)。さらにこの本には「男性版」と「女性版」があり、全篇中17行だけ文章が違っているという。自分が読んだのは男性版。
 すごいのは、これだけ凝った形式の中に山ほど詰め込まれているエピソードの数かずが、どれもこれも、その形式がどうでもよくなるほど奇想天外な展開を見せてくれることである。
 朝起きると口の中から一千年前の鍵が出てきた考古学者。失われたハザール語で歌う鸚鵡。「死」という名前をもった人造人間の娘が恋に落ちる。他人の夢の中に現れる夢の狩人とは。そして、この『事典』刊行にまつわる不可解な殺人。エトセトラ。
 それらひとつひとつが、形式から独立して、いわばそれぞれ勝手に面白い――ように見えながら、しかし事実として、どれもがこの形式の中ではじめて命を得たものであり、ひるがえって『事典』の全体を脈打たせている以上(どのエピソードもこの『事典』の一部として読まれるのだ)、形式とエピソードを分離できるものとして考えるのはナンセンスだろう。
 だからこれは、圧倒的な想像力が形式と内容をひとしく満たした傑作、と言うほかない。400ページ足らずで終わってしまう点だけが惜しいが、本を閉じた読者は、『事典』からあふれた想像力にやはり満たされた世界で『事典』を前にしている自分を見つけるのである。

 参考までに、この『事典』本篇を飾る最初の項目、キリスト教のパートから「アテー」の冒頭を引用する。
《九世紀 ハザールの王女。ハザールの改宗に先立つ討論に参加、決定的な役割を果たした。姫の名は「心の四つの状態」―喜怒哀楽の意である。就寝時、姫は両目の瞼[まぶた]に決まった一文字を記したが、その文字は競走馬の出走直前の馬の瞼にも書き記される。禁じられたハザール・アルファベットの中のこの一文字は、読みとる者が即座に絶命する魔の文字である。このため姫の瞼に字を書き入れる役目は盲人に任され、召使らは、姫の朝の身じまいが始まるまでは目を閉じたまま傅[かしず]いた。睡眠時の姫はこうして仇敵から守られた。人間がもっとも隙多いのは睡眠中である、とハザールは考える。アテー姫は娟[あで]やかな美女で信心も篤く、護身のこの文字は姫の身にふさわしかった。姫の食卓にはいつも七種の塩が置かれる習わしで、魚の一切れを食べようとするたびに、姫は指先にいちいち別の塩をつけねばならない。これが彼女流儀の祈りなのであった。
 七種の塩が欠かせないように、姫には七つの顔があったと言われる。言い伝えによれば、朝ごと、鏡を手にすると、姫は化粧にとりかかるのだが、いつもモデルを置いた。男か女かの奴隷が呼びだされ、同じモデルは二度と使わない。こうして姫は毎朝、見たこともない新しい顔を作った。別の言い伝えでは、アテーはおよそ不美人であったが、鏡に向かうと自分の顔を拵えなおし、いかにも麗人の面立ちに仕上げる術を会得していた。そういう擬[まがい]ものの美しさとなるには、絶大な肉体労働を要したから、ひとりきりとなったとたん、姫の緊張はたちまちに解け、美貌も塩のように四散した。それはともかく、九世紀のあるビザンティン皇帝は、かの有名な哲学者でギリシャ正教総大主教フォティオスの容貌を評して〈ハザール顔〉と呼んだ。このことは大主教がハザールと血族関係にあったか、あるいは、為政者だったか――そのいずれかの意味と思われる。[…]》p26

 こういうのに「たまらない」ともだえる嗜好の持ち主は確実に一定数いるはずで、本書がその人たち全員の手に届いているか、大きなお世話ながら気になってならない。
 当然のようにこの本には「第二版に寄せるまえがき」「成立の経緯」「初版に付された緒言の断片」「付属文書」(2種類)も「索引」もついているし、極めつけに、ハザールは実在した民族なのである。


ハザール事典―夢の狩人たちの物語 男性版ハザール事典―夢の狩人たちの物語 男性版
(1993/05)
ミロラド パヴィチ

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ハザール事典―夢の狩人たちの物語 女性版ハザール事典―夢の狩人たちの物語 女性版
(1993/05)
ミロラド パヴィチ

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2004/05/15

『世界の文学のいま』(1991)

福武書店

 今はなき「海燕」に連載の、海外文学の紹介コーナーをまとめた本。だから「いま」は80年代である。持ち回りの執筆者はドイツ・樋口大介、フランス・江中直紀、ロシア・沼野充義、イギリス・富士川義之、アメリカ・青山南。

 上下2段で毎回6ページあるからけっこう読ませる。取りあげられている本の中には、その後翻訳が出たものもあり、それで自分が読んだのもほんの少しあった。しかしほとんどはいまだに名前さえ見覚えのない作家なので、あきない。特に旧ソ連方面は未知の世界である。
 毎回のサブタイトルが妙に面白かったので、以下にその幾つかを。これは担当編集者がつけたんだろうか。

 《この狂乱は大管弦楽にむいている》

 《おれはわかわかしくて不機嫌だ》

 《ボディ・ビルがおもしろくてたまらない》

 《読者の舌打ちなど恐くない》

 《なぜいつもホームスムアの教会なのか》

 《フーコーはなにも知らない》

 《伸びて行け、僕のこぶだらけの本よ》

 《おれは厚かましかったか》

 巻末には執筆者たちの座談会があって、そのタイトル「移住者の文学」は古びようのないテーマである気がする。しかしこの10年あまり、こういうつくりの本は、自分の知る限り出ていないように思う。文芸出版社としての福武書店も今はない。


世界の文学のいま
世界の文学のいま
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青山 南 沼野 充義 樋口 大介 江中 直紀 富士川 義之
福武書店 (1991/11)
2004/05/11

大森望・豊崎由美トークセッション 海外文学メッタ斬り!

ジュンク堂池袋店で開かれた「大森望・豊崎由美トークセッション 海外文学メッタ斬り!」を聞いてきた。
このイベントを教えてくれた友達は来れなかったので、謹んでレポートしてあげようと思ったが、メモもとってないのでこれだけ。ごめん。
(入場料1000円。会場は4階喫茶室で飲み物が1杯つく。客は満員で50人ほど。18:30過ぎに開演)

「タイトルは〈メッタ斬り〉になってますけど、〈ほめ倒し〉ですから」とスタート。

まずはコニー・ウィリス『犬は勘定に入れません』をほめ倒し。この話がいちばん長かった。なんでも、『月長石』のネタばれがあるそうだが、それをネタばれじゃないかと危惧するのは『月長石』を読んでない人だけだから大丈夫、らしい。難しいな。

「SFマガジン」に載るのがSFであるという刷り込みで育った大森望(「文学少年じゃなくてSF少年だったと声を大にして言いたい」)と、好きな海外小説がSFとして紹介・翻訳されるのに恩恵を受けながら抵抗を覚える豊崎由美(「ハヤカワSF文庫に入れたら売れないじゃない!」)。SFと現代文学についての話題もあったが、雑談風トークだから「eとらんす」の大森望インタビュー(あとここ)ほどこだわった話にはならず。
サンリオSF文庫に入ってたアンナ・カヴァンはどこかが復刊しなきゃいけないとか、90年代に較べて70~80年代だってそんなにSFが売れたわけじゃないし、そもそも海外小説が売れなかった(新潮社のジョン・バース『キマイラ』は1500部)とか、そういう出版状況の話をいろいろ。以下、順不同。

「カルヴィーノ、最初に読んだのは『木のぼり男爵』でしたが、SF作家なんだと正しい認識に至ったのは『レ・コスミコミケ』でしたね」
「正しい認識(笑)」
「バーセルミもエリクソンも、ミルハウザーだってSFですよ」
「エリクソンはそうかも。でもミルハウザー?」
「たしかに詰めは甘い(笑)」
「あ、リチャード・パワーズは?人工知能が恋をする『ガラテイア2.2』はもろSFですよね?」
「あれの問題は面白くないってことで」
「読み方の問題じゃないんですか?SFとしてっていう」
「いやあ、作品にあわせて読みますよ」
「そーですかねえ(笑)」

「国書刊行会の〈スタニスワフ・レム コレクション〉はほんと素晴らしいんだけど、いつになったら出るんでしょうね。あと〈未来の文学〉も」
「ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』は傑作ですが、柳下(毅一郎)が遅れているそうです」
「みなさん励ましのお便りを送りましょう」
「(同じシリーズの)イアン・ワトソン『エンベディング』は、先に翻訳が終わって訳者の解説までできてるのに、その解説で山形(浩生)が作品をめちゃめちゃにけなす。珍品ですね」

「ダンセイニは神棚にあげられてましたけど、こんど出る短編集は笑えるんですよ。1/3は面白い」

「殊能さんの日記を見てる人ならもうわかるでしょうが、アヴラム・デイヴィッドスンの短編集が、殊能将之編で出ます」
「それでオビに〈若島正推薦!〉と付ければ」
「二人の名前で6000部は行きますね。いや5000かな」
「私たちの(『文学賞メッタ斬り!』)より少ないんですか!!」

ちなみに河出書房新社〈奇想コレクション〉でいちばん売れた(初速)のは『フェッセンデンの宇宙』だという。
「結局懐かしくて手に取るのか。古いのを出した方が売れるというのもどうかなあ」

「みなさんも読みたいものを読むだけじゃなくて、読みたいものを出してくれそうなシリーズ、出してくれそうな出版社の本も買って読みましょう」

最後に会場からいくつか質問を受けておしまい。
「SFファンの人も手を挙げてね!恥ずかしがらないで!」

だめな翻訳者を斬ってくれというリクエストは軽く流されていた。
ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』は、扶桑社から復刊が決定。
あと『ガラテイア2.2』はじゅうぶん面白いと思うんだけどな。
2004/05/06

大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(2004)

文学賞メッタ斬り!
PARCO出版

 そうそう、おれも読んだんだよ。
大森 (…)著者は十七歳の男子高校生。確かに文章は全然うまくないし、幼いんだけど、思いきり陰湿な兄弟喧嘩の描写には異様なリアリティがある。どっちが正しいかを判定して最終的に勝ち負けを決めるのが母親だったりするのは、なかなか大人の作家には書けない(笑)。》P62
豊崎 でも、受賞作リスト見てると、パッとしない賞ですよねえ。さっきから語るきっかけが見出せなくて(笑)。》P160

 7年か8年前、「リテレール」誌上でその年のベストセラーを読んでみるという企画があり、石原慎太郎(たしか『弟』)の文章をけちょんけちょんにけなしていたライター。自分が豊崎由美を知ったのはおそらくそれが最初。
 文芸誌なんて手に入らない僻地(「リテレール」があったのが奇跡)で生きていたその頃から、新聞の芥川賞発表記事で「選考委員のうち日野啓三氏は病気で欠席」というのを読むたびに、またかよ、なんで辞めないんだろうと不思議に思っていたり、今に至るも「文學界」新人賞の受賞作を読み通せたことは一度もないくせに選評の浅田-奥泉-島田-山田ラインはにぎやかで面白いから(とりわけ山田)毎回チェックしていたり、三島賞にことよせて筒井は同じ選考委員の石原慎太郎を敬して遠ざけているのか茶化しているのか勘繰ってみたり、そういう人間である自分にとって、この『メッタ斬り!』は予想通りたいそうおもしろかった。
 魅惑の北方ボイス「ケンゾー、です」とか、「死者は八人まで」とか、自分のことだけは予想できない角川春樹とか、印象的なエピソードが多々。文学賞は選考委員の値打ちを測るものさしでもあった。「宮本輝に誉められなかっただけでもこの作品は価値がある」なんて物言いが通用してしまう選考委員が他にいるだろうか――って、たくさんいるらしい、とこの本を読むと思えてしまう。なにしろすべては他人事だ。
 両者(間違いなく両者)の口から発される毒舌がすがすがしいのは、文学賞をめぐるあれこれを語りながら、二人とも自分がどれほど小説が好きかを思わず知らず熱く主張してしまっているからだろう。これは、小説を読みたい人のための小説賞案内である。なにしろ、巻末に付いているのは各賞の受賞作一覧ではなく、より実用的なぶんより手間がかかるブックガイドなのである。労作らしい労作。
2004/05/03

筒井康隆・柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』(1988)

河出文庫(1993)

『虚人たち』、『歌と饒舌の戦記』を書いたあとの筒井康隆と、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を翻訳中の柳瀬尚紀による、対談および往復書簡をまとめた本。

 もう日常性からかけ離れた言葉だけしか読みたくないという柳瀬と、非日常的な言葉をあくまで物語をつくるために使いたい筒井。この違いがあるために、よりすごいことをいうのは柳瀬になるが、その彼に刺激を与えてきたのが筒井の実作(「関節話法」とか)だった。お互いが相手を畏れ敬っていていい感じである。

 小説作品は言葉でできている、というのは、誰でも認める前提であるだろう。
 その当たり前の事実にこだわり続け、言葉に執着する二人が「前衛的」となる転倒が、この本では最初から最後まであらわれていて、何度読んでも面白い。出版社は定期的に続編を企画するべきだったんじゃないかと思う。一連の対話の最中に筒井はあの『残像に口紅を』(作中で使える文字が徐々に減っていく長篇)の着想を得ている。
《「饒舌」の反対だから「寡黙」になるかというと、これはいくら考えてもそうはなりません。寡黙な主人公が三人称の中に存在しても、字面が並ぶ以上寡黙な小説というのはありえないからです。》P129

 ほれぼれします。


突然変異幻語対談
突然変異幻語対談
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筒井 康隆 柳瀬 尚紀
河出書房新社 (1993/10)
2004/05/02

筒井康隆『文学部唯野教授』(1990)

岩波書店

《「たとえばこの『文学部唯野教授』って小説を書いているのは筒井康隆だけど、今ぼくが筒井康隆って名を出したとたんに彼はこの小説の中へ引きずりこまれ、メタ物語的になっちまって、おれたちよりは上だけど、語り手としては水準が下がったってわけだよね」》P263

 こういうあからさまな書き方はこの長篇にとって瑕じゃないかとも考える一方で、「こうでなくちゃ」と感じ入る心性はいまだに否定しがたい。いずれにしろ、筒井康隆という職業小説家が、作品で実践する前衛さかげんからすれば不釣合いにみえるくらい読者に親切であろうとしてくれているのは間違いない。ありがたいことだと思う。

 虚構であることを意識して書かれ読まれる小説の方法論をおおっぴらに模索しながら実作を進めていたらしい80年代以降の筒井作品と、それよりも前、まだ一般文芸誌に発見されていなかった頃の作品とでどちらの方が面白いかという問題は、読む人それぞれの立場がからんでくるのでつまんない話である。日本SFなるものに特に思い入れのない自分には、どっちの筒井も同じにみえる。

『唯野教授』の各章は、大学の学内政治を舞台にした三人称パート(唯野が匿名で書いた小説は「芥兀賞」をとる)と、唯野のひとり喋りによる講義部分からなる。講義を饒舌体でまとめる負荷の反動なのかもしれないが、三人称の文章はときどき筆がすべったように軽く流れる。もちろん、そこですべれるとさえなかなか気がつかないすべりかただ。制約を知ることでそれをいじれるということか。そしてこの小説で最も過激なのは、一見さりげないそのような部分ではないかと思う。
《ふらふらしながらベッドに戻ると電話が鳴った。てっきり番場からであろうと思い、唯野は受話器をとった。
 番場ではなかった。「マスコミ各社ですが」》P275

「それはただのギャグだ」といわれるかもしれない。自分だってそういってるつもりなんである。
2004/05/01

筒井康隆「点景論」(1983)

『筒井康隆全集 24』所収、新潮社(1985)

 筒井康隆の小説はあらかた読んだつもりでいても、全集にあたればいろいろ初見のものに出くわすのだった。
 ほんの13ページの「点景論」は、内容からいって「中隊長」に始まりのちに短篇集『エロチック街道』としてまとめられた一連の実験作に繋がるもので、じっさいそれらと同じく中央公論社の文芸誌「海」に発表されたものなのだが、掲載が『エロチック街道』の刊行以後だったので洩れてしまい、いささか毛色が違うために他の単行本にも収められなかったのではないか――と巻末の年譜を見ながら推測する。筒井読者の誰もが知る、あの「おれ」の動き回る様子が、妙に手法に自覚的な文体で描かれる。楽しい。内容というのは手法のことだから、冒頭からしばらく引用して紹介に代えたい。

《あっ。なんということだ。「尾行者」はおれに対する尾行者であった。それに気づいたのはその日彼を四度見かけたからだ。二度なら偶然といえる。三度でもあり得なくはない。「尾行される者」の行動範囲がおれのそれと重なっているのかもしれないからである。しかし四度というのは偶然とはいえない。なぜならここは都市だからだ。イエイ。都市というのはそこに人間がいてこそ都市であり、それゆえに都市内の人間は都市を構成するさまざまな要素を役割として持っていなければならない。たとえそれが都市居住者ではなく田舎者であってもだ。おのぼりさんのひとりもいない都市などというものがあり得ようか。「尾行者」とてひとつの要素である。もしそれが他人に対する「尾行者」であればおれという別人の前へ四度も気になる状態で姿をあらわしたりしてはならぬ筈だ。》
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