2004/04/09

その99 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次

She opened her mouth to ask, but didn't. It was to be the first of many demurs. (p71)

《口を開いて、そうきこうとして、やめた。それは、これから経験することになる、数多くのためらいの最初のものであった。》p110/p124*太字は引用者

 探求を始めたエディパは、どういうわけか、その最中に不思議な「ためらい」をおぼえて立ち止まる。しかもその「ためらい」は、「これから数多く経験する」ものだとまで書いてある。

 隠された何かがあるなら、それを知りたい。エディパは好奇心で動いている。
 だが、まるで『急使の悲劇』の〈トライステロ〉を思わせる黒衣の集団が実在したことを示している史碑や、『急使の悲劇』の台本のもとになった、17世紀の戯曲を収めているペーパーバックといった手掛かりが実際に集まってくると、なんだかいかにも都合がよすぎるようで、「だれかが私を騙しているのでは?」とあやしみ、しようとした質問を飲み込んでしまう。
 このように考えれば自然なリアクションである気もするが、それに加えてもうひとつ、ここでは、“自分が探すことによって何かがあるとわかってしまう、それがこわいから質問がためらわれる”、という気持も感じられる。

 いまの段階では予想もつかない何かをこれから発見してしまうのが漠然とおそろしい、と書いてしまえば単純なことかもしれない。
 しかしこのあたりで、「隠された何かがある → それを自分が発見する」という順序から、「自分が探すせいで、何かがあることになる」という順序への転倒がエディパの中で起きているように見えてくる。

“知りたい、だけど騙されたくはない”という警戒心と、“探したら、あることになってしまう”という恐怖心。ふたつの気持から、エディパはアクセルとブレーキを同時に踏んでしまう。
She opened her mouth to ask, but didn't. It was to be the first of many demurs. (p71)

《口を開いて、そうきこうとして、やめた。それは、これから経験することになる、数多くのためらいの最初のものであった。》p110/p124

 何より見過ごせないのは、こうやって主人公が「探しながらも、とことんまで突き詰めるのはためらってしまう」反応をするように状況をお膳立てしていくことによって、小説の側では、「見つかった物事のあいだにつながりがあるのかどうかを登場人物にきちんと確認させるという作業をすっ飛ばしたまま、あたらしい事象を次々と作中に加えていく」ことが可能になっている、という点である。
 巧みであると同時に、ずるいと思う。つまり、非常に巧みだと思う。

 そして、エディパの「ためらい」という反応がこちらの心を特別にざわつかせるのは、この部分を読み返すたびに、『急使の悲劇』でもって、終盤でやっと「トライステロ」と名指される集団のことを、まだその名前は出さないまま間接的に存在をほのめかすだけで劇を進めていく中盤で採用されていた、《新しい表現形態》のことを思い出すからだ→その71
 トライステロの名を「呼ばない」ためにドリブレットが導入した、あの演出上の工夫は《一種の儀式化された躊躇》(a kind of ritual reluctance)と説明されていたのだった→その72

『急使の悲劇』で起きたことをいまのエディパになぞらえると、この小説が不思議な見え方をする。
 劇の登場人物たちは、演出により「躊躇する」ことになっているので「トライステロ」と口にできない。そうさせているのはドリブレットだ。
 それに対してエディパのほうは、みずからの意志で質問をやめている――と言えるのかどうか。小説の主人公であるはずの彼女も、ここである程度以上の質問(探求)を「ためらう」ことになっているのではないか。演出家ならぬ、この小説によって。
 小説の中に出てくる劇の登場人物と、小説の主人公とのちがいが不意に消えて、エディパは自分で警戒したり恐怖を感じたりしつつも、役者のように動かされている。読者の目に彼女はそのような二重のあり方で映る。
 Lot 49 のこの手つきは、ほとんど魔法のように見える。こんな書き方って、ありなのか。

 エディパの“発見”はまだまだ続く。

…続き
2004/04/09

その98 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 次々にあたらしい事実が見つかる。
その57」で行っていたファンゴーソ礁湖を再訪すると、湖の向こう岸に青銅の史碑が立っていた。こんな文が彫ってある。
On this site, it read, in 1853, a dozen Wells, Fargo men battled gallantly with a band of masked marauders in mysterious black uniforms. We owe this description to a post rider, the only witness to the massacre, who died shortly after. The only other clue was a cross, traced by one of the victims in the dust. To this day the identities of the slayers remain shrouded in mystery. (p71)

《「この地に於いて一八五三年ウェルズ、ファーゴ社の郵便配達人十二名は謎の黒衣の制服の覆面強盗団と勇敢に闘へり。斯く言ふはこの虐殺事件の唯一の目撃者たりし騎馬郵便配達人の言に依りてなれど、此の配達人、時を経ずして死せり。他に手掛かりとては、被害者の一人が地面に残せし十字の印のみ。今日に至るも虐殺人らが正体は杳として不明なり」》p109-10/p123

ウェルズ、ファーゴ〉社は、1852年、ゴールドラッシュのアメリカ西部で作られた運送会社である。設立の翌年、その郵便配達人を黒衣の集団が襲ったという。
 地面に残された「十字の印」を、エディパは『急使の悲劇』で見た、ニコロ最期の台詞「T・t・t・t・t・・・・・・」ではないかと疑っている。ニコロのほうは、郵便配達〈トゥルーン、タクシス〉の格好をして、黒衣の集団に襲われ殺されたのだった→その75
 演出家ドリブレットに、この事件を知っていたのか確かめようと電話をかけるがつかまらない。そこでエディパは、彼が台本のもとにした本を見つけたと言っていた→その83古本屋に行ってみる。
 その古本屋、ザップフ古書店には、めあての『ジェイムズ朝復讐劇集』がちゃんと置いてあって彼女を待っていた。
 "It's been very much in demand," Zapf told her. The skull on the cover watched them, through the dim light.
 Did he only mean Driblette? She opened her mouth to ask, but didn't. It was to be the first of many demurs. (p71)

《「ずいぶんと需要がありましてね」とザップフは彼女に言った。表紙に印刷された頭蓋骨が、薄暗い光のなかで彼らを見つめていた。このひとはドリブレットのことだけを言っているのかしら? 口を開いて、そうきこうとして、やめた。それは、これから経験することになる、数多くのためらいの最初のものであった。》p110/p124

 ものすごいことを言っている。
 ドリブレットに「電話する」とか古本屋まで「足を運ぶ」のと、店主への「質問をやめる」のは、正反対の行動である。さっきもリンクを貼った「その83」でドリブレットからはじめてこの古本屋のことを聞いたとき、「私をかついでいるんじゃない?」と強い疑いにとらわれたのにも似ているようだ。
 探求を始め、手掛かりらしきものを集めている最中に、エディパは「ためらい」も始めるのである。

…続き

*〈ウェルズ、ファーゴ〉社について:

たいへん有名な映画だけど、ジョン・フォードの「駅馬車(Stagecoach)」(1939)は1880年代の西部を舞台にしており、冒頭、到着する馬車の御者台には「U.S.MAIL」、そこから担ぎ出される荷物の箱には「WELLS FARGO」と書いてあるのが見えて、なるほどこういうものかとわかる。下がそのシーン。

2004/04/09

その97 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次

She'd decided to come tonight to The Scope not only because of the encounter with Stanley Koteks, but also because of other revelations; because it seemed that a pattern was beginning to emerge, having to do with the mail and how it was delivered. (p71)

《エディパが今夜〈ザ・スコープ〉へ来ることにしたのは、スタンレー・コーテックスに会ったからというだけではなく、ほかにもいくつかの啓示があったからだ。つまり一つのパターンが出現しはじめ、それが郵便物と、その配達方法にかかわっているらしいのである。》p109/pp122-3

 ここから急にLot 49 は加速する、のだが、その前にちょっとぐずぐずしておきたい。
 このような文章の運びであれば、エディパがコーテックスと会って話す → その後、ほかにも複数の啓示があって「一つのパターン」が出現したと感じられる → だから〈ザ・スコープ〉へ来ることにした、という順番になるはずだ。
 ファローピアンと話す前に啓示があった。ここに疑問の余地はないと思う。
 それなのに、続きを読んでいくと、どうもそうなっているようには見えない、という細かい抗議である。

《一つのパターンが出現しはじめ》る、とは、似た背景を持っているように感じられる事象がいくつもあらわれるということだろう。たしかにこれから続々と、《郵便物と、その配達方法にかかわっているらしい》事物が並べられていくことになる。
 でもそれらは、エディパがこの夜、ファローピアンと話したあとで次々に出遭うものであるかのように書かれているのだ。次回から実地に見ていくけれども、そう受け取るほうが自然に見える、と、いま先に書いてみた。
 だとすると、上に引用した部分で地の文は、エディパがこれから実際にすすめるいくつかの行動をあらかじめ整理して述べておくにあたり、先走って、そこに啓示のしるしを書き込んでしまったことになる。

 啓示のしるし、とは勿体ぶった言い方だったが、要は、具体的な出来事を並べるまえに「啓示」(revelation)という文字を先に出してしまったということだ。
 これをまず脳内にスタンプされてから続きを読む読者は、このあと列挙される事物のあいだに、エディパと同様、「一つのパターン」を見出してしまう方向に読み方が誘導される。「啓示」という言葉が、読者を主人公に重ね合わせる作用を生むのだ。
 その先取りのために小説の時系列に小さな混乱が生じていると見えるのだが、それはこのあとの急展開によって押し流されるようになっている。だからスルーしてしまってもいいと言えばいいのだが、気になったことは何でも書いておきたい。こと「啓示」に関しては。

 ただし、「啓示」という意味ありげな一語に思い切り寄りかかり、引用した部分の何気ない一節から懸命に意味を汲み出そうとしてしまうのは、大いに偏った姿勢ではある。
 実際に続きを読めばわかるように、ここで「ほかにもいくつかの revelations があった」というときの revelation は、むしろ「意外な発見」「新事実」くらいの意味で通用するはずのものなのだ。
 だが、すぐにもういちど考え直すと、これまでも要所要所で連発されてきた revelation という言葉が、この小説に何やら宗教的な気配をまとわせる鍵言葉となっている事実を、ここでだけ忘れたふりをするわけにもいかない。

 やはり revelation には、すでに大きな意味が込められてしまっている。そこに乗っかって、今後の展開が持つ意味を強引に予示しているのが今回の引用部分であるだろう。
 つまり、この小説じたいが revelation の方へ大いに偏っている。

…続き
2004/04/09

その96 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 エディパが「WASTE印」と呼んでいる例のマークをコーテックスが落書きしていた封筒は、話題にあがっていたジョン・ネファスティス当人から届いたものにちがいない。あるいは似ただれかから。
 彼女はそう決めつける。あのマークを共有する組織があるのだと。
Her suspicions got embellished by, of all people, Mike Fallopian of the Peter Pinguid Society. (p70)

《彼女が疑惑を濃くしたのは、何と、ピーター・ピングイッド協会のマイク・ファローピアンのせいであった。》p108/p121

 そうか、of all peopleで「何と」になるのか(すべての人間の中でいちばん意外、みたいな感じか)、という翻訳上の納得がまずあるが、どうして「何と」なのかというと、ファローピアンじしんが、ここに書いてある通り、〈ピーター・ピングイッド協会〉というこれはこれで1個の秘密組織のメンバーとして登場していた→その46からである。
 政府に対抗する一手段として、政府の独占事業である合衆国郵便を使わず、ヨーヨーダイン社の社内便という一種の私設郵便によって通信を行うのが〈ピーター・ピングイッド協会〉だった→その49
 そして、まさに酒場〈ザ・スコープ〉でそういう話を聞いている最中のことだったのだ、エディパがトイレの壁に「WASTE」の語と問題のマークを見つけたのは→その48
(いま、エディパがコーテックスのことをファローピアンと話し合っている場所も、やはり〈ザ・スコープ〉である)
"Sure this Koteks is part of some underground," he told her a few days later, "an underground of the unbalanced, possibly, […] " (p70)

《「そのコーテックスってのは何かの地下組織に入っているんだ」と彼は二、三日あと、彼女に言った――「ひょっとすると、精神不安定な人間の地下組織かもしれません。[…] 」》p108/p121

 ファローピアンが語るには、幼いころから発明家の神話を聞かされて育った人間も、ヨーヨーダインのような大企業に入ると、特許から何からすべてを会社に奪われ、個人が無名化された状態におかれてしまう。そうなったらどうするか?
"Of course they stick together, they keep in touch. They can always tell when they come on another of their kind.[…] " (p70)

《「もちろん団結するんです、連絡を取り合うんです。いつだって自分と同じ仲間に出会えば、わかりますよ。[…] 」》p109/p122

 蛇の道は蛇なのか、我田引水なのか、ファローピアンは自分のことを語っているようにも見える。団結と通信。自分たちがやっているのだから、コーテックスたちも同じことをやっている。
 これは無茶な推論に聞こえるが、エディパにとっては無茶どころではなく、重要な響きをもって伝わる。
She'd decided to come tonight to The Scope not only because of the encounter with Stanley Koteks, but also because of other revelations; because it seemed that a pattern was beginning to emerge, having to do with the mail and how it was delivered. (p71)

《エディパが今夜〈ザ・スコープ〉へ来ることにしたのは、スタンレー・コーテックスに会ったからというだけではなく、ほかにもいくつかの啓示があったからだ。つまり一つのパターンが出現しはじめ、それが郵便物と、その配達方法にかかわっているらしいのである。》p109/pp122-3

 ここから急にLot 49 は加速する。

…続き
2004/04/09

その95 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ジョン・ネファスティスの連絡先をめぐる、エディパとコーテックスの会話の続き。
 She took a chance: "Then the WASTE address isn't good any more." But she'd pronouced it like a word, waste. His face congealed, a mask of distrust. "It's W.A.S.T.E., lady," he told her, "an acronym, not 'waste,' and we had best not go into it any further." (pp69-70)

《エディパは思い切って言う――「じゃWASTEの宛名ではだめなのね」。しかし彼女はそれを一語のように「ウェイスト」と発音してしまった。彼の顔がこわばり、不信の表情だ。「ダブルユー・エー・エス・ティー・イーだよ、奥さん」と彼は言った――「頭文字の組み合わせだよ、『ウェイスト』じゃないよ、こんな話はこれ以上深入りしないでおこう」》pp107-8/p121

 復習する。
 エディパは、少し前にヨーヨーダイン社近くの酒場〈ザ・スコープ〉で、トイレの壁に謎のマークとメッセージ(“カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて。”)を見ていた→その48。いま、社内でそれと同じマークを封筒に描いていたのがこのコーテックスである。
 彼がエディパに気を許し、〈ネファスティス・マシン〉のことを大いに語ってくれたのは、最初に“カービー”の名を出したおかげだったのだろう。「その90」の時点ではわからなかったが、それであのときコーテックスは、彼女を“通じる人間”だと誤解したのだ。
 ところが、前回見たように、「私書箱五七三」がエディパには通じない。コーテックスとしては、この女は本当に“通じる人間”なのかと――つまり、自分たちの仲間なのかと――疑わしくなってくる。そこにきて、上の言い間違いである。コーテックスの信用を取り戻そうとしたエディパの、痛恨のミスだった。彼は完全に突き放す。
 "I saw it in a ladies' john," she confessed. But Stanley Koteks was no longer about to be sweettalked.
 "Forget it," he advised; opened a book and proceeded to ignore her. (p70)

《「じつは、それ、婦人用トイレで見たのよ」と彼女は告白した。しかしスタンレー・コーテックスはもう甘い言葉に乗ってきそうもない。
「そのことは忘れなよ」と彼は忠告して本を開き彼女を無視する態度に出た。》》p108/p121

 正直に白状しても、(もちろん)だめだった。コーテックスとの会話はここで閉じる。
 それでも、こんなにもきっぱりと彼から拒絶されたことにより、あの輪と三角形と台形でできたマークと「WASTE」なるものに関して秘密を共有する者たちがいるらしいということが、エディパにも読者にも伝わった。収穫と言えないこともない。

…続き
2004/04/09

その94 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


〈ネファスティス・マシン〉の発明者であるジョン・ネファスティス(くどい)は、装置を動かすのに必須の"Sensitives"(高感度人間)はなかなかいないと言っているんだ―― そうコーテックスはエディパに語る。
 退き気味のエディパが、会話を切り上げるための方便として「じゃあ、私は"Sensitives"になれるかしら」と口にすると、意外にもコーテックスは「試してみたければ手紙を書けばいい」と応じ、前のめりにネファスティスの連絡先を教えようとする。
私書箱五七三」、というコーテックスの言葉をメモするためにエディパは手帳を開いた。そのページには、「その89」で触れた、あの奇妙なマークと彼女の決意表明であるフレーズ、「私は一つの世界を投射すべきか?」(Shall I project a world? )が書き記されていた、という記述はあまりに絶妙で、同時にあまりにわざとらしく、読み返すたびにほれぼれしてしまう。
 というのは、まさにいま、2人の会話に生じるズレから別の世界が浮かびあがるのを、エディパも読者も目撃することになるからだ。
 "In Berkeley."
 "No," his voice gone funny, so that she looked up, too sharply, by which time, carried by a certain momentum of thought, he'd also said, "In San Francisco; there's none--" and by then knew he'd made a mistake. "He's living somewhere along Telegraph," he muttered. "I gave you the wrong address." (p69)

《「バークレー市の私書箱ね」
「いや」という彼の声が変なのでエディパは顔をあげたが、その反応は目立ち過ぎた。そのときには、彼も一種の、思考のはずみがついていて「サン・フランシスコ市の私書箱だ。ないんだよ、その――」と、そこまで言ってから間違いを犯していたことに思い当たる。「テレグラフ通りのどこかに住んでいるんだ」と彼はつぶやく。「さっきの宛名は違っていた」》p107/p120

 このやりとりはわかりにくい。大まかには、2人のあいだに齟齬があったということだが、こちらも感度を強化して細かく見る。
 コーテックスは「私書箱五七三」とだけ口にした。エディパとしては、最初にネファスティスの名前が出たとき、彼がバークレーに住んでいると聞いていた→その90から、それは当然「宛先が“バークレー市の私書箱五七三”ってことよね」、と確認している。
 それに対してコーテックスは、会話の勢いがついているため「いや、バークレーじゃなくてサン・フランシスコだよ、だってほら、ないんだから――」とまで言ったところで《間違いを犯していたことに思い当たる》。そして慌てて「私書箱五七三」を取り消した。
 何がないのか、コーテックスは何を間違ったのか。

 おそらく「私書箱五七三」は、話の通じる者たちのあいだでは、市の名前などほかの情報がなくても、それだけで通用する番号なのだろう。コーテックスはエディパを“通じる人間”だと勘違いして(あるいは、ついうっかりして)その番号を伝えてしまった。
 しかし、実際には“通じる人間”ではなかったエディパは、通常の考え方で宛先を確認しようとした。「バークレー市の私書箱ね」
 それでコーテックスは、「そうじゃないだろ、あの番号はあの番号だけ、ほかの情報なんてないんだからさあ」とまで言ってしまってから、そもそも“通じない人間”にはあの番号を教えてはいけなかったと思い当たり、わざとらしくも「さっき言った私書箱五七三ってのは間違いだったよ、うん」と苦しい言い訳をする。

 そう考えてみると、このコーテックスという男、大企業ヨーヨーダイン社で働いている技師の正体は何なのか、という疑問がいっそう大きくなる。
 エディパの知っているふつうの郵便で使われる宛先とは別の番号で連絡をとることができる、“通じる人間たち”。それはいったい何者なのか。
 エディパにはそこをぜひ突っ込んでほしいが、上の引用に続く会話で、今度は彼女が間違いを犯す。

…続き
2004/04/09

その93 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


【あらためて】: ただの空気しかないところから、温度差を作り、エネルギーを取り出してしまう〈マックスウェルの悪魔〉。それを組み込んだ永久機関〈ネファスティス・マシン〉を動かすためには、もうひとつ必要なものがあるという。
 それは何かというと――

 人間が、マシンに貼ったマックスウェルの写真をじっと見つめ、箱の中の悪魔と交信すること。

 ちょっと意味がわからないと思う。だがそのようにコーテックスは説明している。エディパはそっとあたりの様子をうかがい、自分を取り巻く世界のほうがどうかしてしまったのではないかと確認している。
all with Yoyodyne was normal. Except right here, where Oedipa Maas, with a thousand other people to choose from, had had to walk uncoerced into the presence of madness. (p69)

《ヨーヨーダイン社は万事が正常である。正常でないのはここ、エディパ・マースが千人もいる中から選りに選って、強制されたわけでもないのに辿りついて狂気と向かい合っているこの場所だけである。》pp106-7/pp119-20

 マックスウェルの悪魔だったら、自分の基準に従って分子を「選り分ける」ことができるのに、主人公エディパの場合は、無意識的に「選ぶ」相手がたいてい正常ではない人間ばかりになってしまう、彼女にはそんな習性がある、とでも言いたいような書きぶりだ。
 そして当のコーテックスが付け足すには、だれでもマックスウェルの悪魔と意思の疎通ができて、〈ネファスティス・マシン〉を動かすことができるというわけではない
 "Only people with the gift. 'Sensitives,' John calls them." (p69)

《「資質のあるひとだけさ。『霊能者』ってジョンは呼んでるけど」》p107/p120

「霊能者」と言われてしまったらはっきりオカルトの領域だが、原語の "Sensitives" であれば、まだもう少しだけ、こちら側に踏みとどまっている気がする。
 ふつうの人よりも敏感に何かを感じ取る能力を有する人間になら、〈ネファスティス・マシン〉を作動させることができる。少なくとも、発明者ジョン・ネファスティスと支持者コーテックスは、そういう原理を信じているようだ。

 もっとも、この小説でこれまで"sensitiveである"と形容されたことのある人物として思い出されるのは、やはりちょっとどうかした方向に踏み出しかけているエディパの夫、ムーチョ・マースであることからすると、「危ないんじゃないか」という印象はすこしも減ずるものではない。
(小説冒頭近く、「その3」で引用した部分の直前で、ラジオ局から帰ってきたムーチョが仕事の意義について怒濤のように愚痴り出すと、エディパは"You're too sensitive."「あなた、感じすぎよ」となだめていた)

 そしてまた、そのムーチョから届く手紙の誤植が意味ありげに映って気になったり→その45、酒場のトイレの落書きが何か秘密を隠していると直覚したり→その48といった、周囲の出来事から勝手に啓示の気配を感じ取るエディパじしんの姿もまた、"sensitized"(感度が強化された状態)というふうに語られていた→その44ことに思いを致すと、Lot 49 において"sensitive"であるとは、自分で紡いだ妄想の世界にのめり込んだ状態へと限りなく接近していく傾向のことではないかという予感もないではない。
 ムーチョ・・・エディパ・・・〈ネファスティス・マシン〉・・・さらには・・・、とつながっていく"sensitive"の連鎖が大いに気になってきた(sensitized!)が、ここで紹介されたマシンの実物がエディパの前に登場するには、まだもうしばらく待たなくてはならない。

 なお、長篇『逆光』(2006)の翻訳者でもある木原善彦氏のピンチョン論『トマス・ピンチョン 無政府主義的奇跡の宇宙』(2001)では、この〈ネファスティス・マシン〉を鍵としてLot 49 が解読されており、そこで"Sensitives"は「高感度人間」と訳されていた(p48)
「霊能力者」よりずっといいと思うのだが、この木原説を紹介するのも、マシンの実物が出てからのほうがいいだろう。
 いまここでは、“James Clerk Maxwell”で画像検索をした結果を上からずっと眺めていくと、じわじわ怖くなってくる、とだけ書き足しておく。

…続き


トマス・ピンチョン―無政府主義的奇跡の宇宙
木原 善彦
京都大学学術出版会
売り上げランキング: 1,372,004
2004/04/09

その92 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ただの空気しかないところから、温度差を作り、エネルギーを取り出してしまう〈マックスウェルの悪魔〉。それを組み込んだ永久機関〈ネファスティス・マシン〉を動かすためには、もうひとつ必要なものがあるという。

 ……だがその前に書いておくと、このマシンがすごいのは、熱力学の第二法則を堂々と破っているからだと説明されている。いちおう、少しだけメモ。
(これからしばらくのまとめには、これまで以上に多くの間違いが確実に含まれているはずなので、もっと正しく、かつ簡明な説明が見つかったら、どんどん差し替えたい)


■ 熱力学の第一法則
・エネルギーにはさまざまな種類があり、形態が移り変わっていくことはあっても、全体としての量は常に一定である(エネルギー保存則)
・「ない」ところからエネルギーは取り出せない、無から有は作り出せない

 たしかに学校で習ったおぼえがある。これに比べると第二法則は難しい気がする。

■ 熱力学の第二法則
・持っているエネルギーのすべてを何か意味のある作業に使うことはできず、かならずエネルギーの一部を無駄に捨てなくてはならない
 (この本にあった表現)

・分離の状態は、やがて混合という結果に追い込まれる
 (この本にあった表現)

 ネファスティス・マシンはこの第二法則を破る。
 マシンの中では、悪魔が「速い分子」と「遅い分子」を選り分けるだけで熱機関を動かすことができるから、エネルギーが無駄にならず、意味ある作業に使われていることになる。
 それに、「速い分子」と「遅い分子」がごちゃごちゃになっているはじめの状態(混合)から、両者の選り分けられた状態(分離)にすることができるというのは、“分離 → 混合”という、一方通行であるはずの変化に真っ向から逆らっていることになる。
Since the Demon only sat and sorted, you wouldn't have put any real work int the system. So you would be violating the Second Law of Thermodynamics, getting something for nothing, causing perpetual motion. (p68)

《悪魔は坐って選り分けるだけだから、この系に真の仕事を何も加えたことにはならない。ということは、熱力学の第二法則を破って、無から有を生じさせ、永久運動をひきおこしていることになる。》p106/p119

 しかしエディパには、いまひとつそのすごさが伝わっていない。
 "Sorting isn't work?" Oedipa said. "Tell them down at the post office, you'll find yourself in a mailbag headed for Fairbanks, Alaska, without even a FRAGILE sticker going for you."
 "It's mental work," Koteks said, "But not work in the thermodynamic sense." He went on to tell how the Nefastis Machine contained an honest-to-God Maxwell's Demon. (p68)

《「選り分けるのは仕事じゃないの?」とエディパは言った。「そんなことを郵便局で言ってごらんなさい。郵便袋に詰めこまれてアラスカのフェアバンク行きよ、〈こわれもの注意〉の貼り紙もつけてはくれないわ」
「それは頭脳労働だけど」とコーテックス――「熱力学的な意味での仕事じゃないんだ」 彼は話を続けて〈ネファスティス・マシン〉に正真正銘の〈マックスウェルの悪魔〉が入っていることを説明した。》p106/p119

 まだこれだけでは説明は終わらない。あらためて、装置を動かすには、もうひとつ必要なものがあるという。

…続き


科学と神秘のあいだ(双書Zero)
菊池 誠
筑摩書房
売り上げランキング: 516,232


マックスウェルの悪魔―確率から物理学へ (ブルーバックス 152)
都筑 卓司
講談社
売り上げランキング: 630,573

2004/04/09

その91 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 スタンリー・コーテックスは、〈ネファスティス・マシン〉の設計図を取り出して、その原理と働きをエディパに説明する。マシンの実物はこの場にはない。
From a drawer he produced a Xeroxed wad of papers, showing a box with a sketch of a bearded Victorian on its outside, and coming out of the top two pistons attached to a crankshaft and flywheel. (p68)

《引出しからゼロックスで複写した書類の束を出したが、図面には、外側に、顎ひげを生やしたヴィクトリア朝の人物のスケッチのついた箱があり、箱の上部には二つのピストンがクランク軸とはずみ車につながっている。》p105/p118

 説明のほとんどは、エディパとコーテックスの会話を通してではなく、それをまとめた地の文によってなされている。しかし地の文といっても、エディパの理解に寄りそった文章になっているので、マシンの仕組みについて、曖昧なとらえ方、まちがった理解が含まれかねないという点には注意が必要になるはずである。
 逆にいえば、エディパの誤解と、それをそのまま受け取ってしまう読者への誤解の伝播をおそれないという意味で、ピンチョンはずいぶん勇気のいる書き方をしていると思う。
 そのような面もあり、小説に描かれた装置の説明をあらためて説明していくのはややこしく、本当は『急使の悲劇』の内容をまとめる(「その61」から21回かかった)のと同じくらい難しい。とはいえ、自分に読めるように読んだ内容をメモするのがこの読書ノートであるから、読めるように読んでメモするだけである。以上は不要な前置きだった。

 それでネファスティス・マシンだが、上の引用にもあるように、基本的には箱の形状をしている。
 箱の中では、たくさんの分子がそれぞれでたらめなスピードででたらめな方向に飛び交っている。こう書くと何か特別な感じがするが、これは箱の外、ふつうの空間とまったく同じ状態である。
 ただし、この箱の内部には、〈マックスウェルの悪魔〉と呼ばれる極小の知的生命体が鎮座ましましている。悪魔は、なにしろ悪魔なので、自分の周囲を飛び交っている分子を、スピードの「速い分子」と「遅い分子」に選り分ける(sort out)ことができる。
 それがこの悪魔の唯一の能力で、ほかに悪魔らしいことは何もできないのだが、分子の速い/遅いは、エネルギーの多い/少ないの言い換えだから、悪魔が選り分けを続けていくうちに、速い分子だけが集まった区域(=温度が高い)と、遅い分子だけが集まった区域(=温度が低い)ができることになる。
 つまり、装置の内部に温度差が生まれる。
 そして温度差さえあれば、それを利用して熱機関を動かすことができる(=箱から突き出たピストンを上下動させることができる)わけである。

 このとき悪魔は、(1)箱の内部にいて、(2)分子を選り分けている。ここが大事なところで、これだけだと、熱力学的には何の仕事もしていないことになるらしい。
 外部からエネルギーを持ってきているわけでもないのに、ピストンは動き続ける。だからこれは永久機関だ

  ○  ○  ○

 この装置のキモである〈マックスウェルの悪魔〉を考案したのは、実在の科学者、ジェイムズ・クラーク・マックスウェルである。悪魔がどのようにして分子を“選り分ける”のかは、ふつうこのように解説されるようだ:

 箱の内部には、真ん中にしきりの壁があって、空間をふたつの部屋に分けている。しきりには、分子だけが通り抜けられる小さな穴と、それを開閉する扉が付いている。
 悪魔はこの扉のそばにぴったり貼りついており、速い分子が左の部屋から右の部屋に飛び込んできそうになると扉を開けて入れてあげる(右の部屋から左の部屋へ飛び出しそうな場合は閉める)。逆に、遅い分子が右の部屋から左の部屋へ飛び込んできそうなときも扉を開けて入れてあげる(左の部屋から右の部屋へ飛び出しそうなときは閉める)。
 この開閉を続けていくうちに、右の部屋は速い分子だけが集まって温度が上がり、左の部屋には遅い分子だけが集まって温度が下がる。めでたく温度差が生まれ、エネルギーが取り出される(熱機関が運動する)。

  ○  ○  ○

 当然ながらこれは思考実験で、マックスウェルにとって悪魔は仮想上の存在だった。しかし、マックスウェルの顔写真を貼った〈ネファスティス・マシン〉なる装置には、その悪魔が本当に入っているのだという。繰り返すが、いまエディパが目にしているのは設計図だけで、実物はここにはない。

 まだこれだけでは説明は終わらない。装置を動かすには、もうひとつ必要なものがあるという。

…続き
2004/04/09

その90 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 エディパは、ヨーヨーダイン社の株主総会に出かけていく。ヨーヨーダインは、ピアスがサン・ナルシソに誘致した巨大企業だった→その20
 ふざけた社歌・愛唱歌が何曲も斉唱されるのを聞いたあと、工場見学ツアーの最中に、エディパはひとりだけはぐれて迷子になってしまう。
 どの方向にどれだけ歩いても、あたりは白っぽい床と壁が続くばかり、蛍光灯に照らされたオフィスで自分の仕事に取り組む技師たちはこちらを見向きもしない。軽いパニックに襲われかけたエディパがしまいに行き当たったのは、まだこの工場で働くほどの歳には見えない、童顔の男だった。
As it turned out he wasn't working, only doodling with a fat felt pencil this sign: (p67)

《じっさい働いてはいなかった。太いフェルト・ペンでこんな印を落書きしているだけだった――》p103/p116

          lot49

ザ・スコープ〉のトイレで目にしたのと、同じなのである。
 偶然の一致に打たれたエディパは、あのときマークといっしょに書いてあったメッセージ(“カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて。”)も思い出し、落書きをしていた男に、「カービーに言われて来たんだけど」と嘘をついて声をかける。
 彼の名はスタンリー・コーテックス(Stanley Koteks)。落書きしていた封筒は、素早く引き出しに隠してしまった。エディパは当然、マークのことを訊きたい。でも彼が素直に答えてくれるとは(なぜか)思えない。そのため遠回りなやりとりが続く。

 コーテックスの話では、ヨーヨーダイン社は社員が個人で特許を持つのを禁止している。技術者である彼はそこに不満のようで、チームワークなんかで創造力が発揮されるわけがない、と持論をぶつ。「あんなの、責任を逃れる方策でしかないよ」。
 そしてコーテックスは、こんな時代でも独創性を持っている真の発明家として、バークレーに在住のジョン・ネファステス(John Nefastis)なる男の名前を出し、その彼の手になる発明品〈ネファスティス・マシン〉の話をはじめる。

…続き

 ・・・およそどうでもいい話だが、コーテックスが問題のマークをフェルトペンで「落書きしている」引用部分で目にした doodlingという単語の見た目があまりに気に入ったので、このブログをはじめネット上での名前にしたのだった。本当にどうでもいい話であった。