2004/04/08

その89 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 第4章冒頭:
 Though she saw Mike Fallopian again, and did trace the text of The Courier's Tragedy a certain distance, these follow-ups were no more disquieting than other revelations which now seemed to come crowding in exponentially, as if the more she collected the more would come to her, until everything she saw, smelled, dreamed, remembered, would somehow come to be woven into The Tristero. (p64)

《マイク・ファローピアンにはまた会ったし、『急使の悲劇』のテクストをある程度までたどりもしたが、こういう追跡調査が胸騒ぎさせるのは、ほかの啓示と同程度で、数々の啓示がいまや指数関数的に殺到し、集めれば集めるほど多くのものがやってくるという感じになり、ついには見るもの、嗅ぐもの、夢みるもの、思い出すもの、一つとしてどこかで〈ザ・トライステロ〉に織りこまれないものはなくなってしまった。》p99/p111

 第3章の冒頭に較べると、この書き出しには、あれほどの強引さは感じない。小説がレールに乗って、あるいはレールに乗ったことにされて、動き出している。何が語られているかといえば、エディパの探求である。
 そんなことしたって意味はないよ、とドリブレットから釘を刺された探求を彼女は進める、すると啓示が次々に到来し、あらゆる事物と現象がトライステロなるものを形成するするようになっていった、と、この冒頭は一息で語る。何もかも「トライステロに織りこまれる」(come to be woven into The Tristero)という言い方が、レメディオス・バロの「大地のマントを織りつむぐ」を踏まえていることもまちがいない。

 こう書いてみて、「やっぱり、この書き出しも強引じゃないか」と考え直した。圧縮することにより、文章を速くする。その速度で一気に「こういうことになった」まで駆け抜けるので、読む側では「そういうことになったのか」と受け入れるしかない。こちらとしても、はやく先に進みたい気持でいることが(だれだってそうだろう)、小説の側からうまく利用されている感じだ。

 ドリブレットからの注意はエディパの好奇心を止めはしない。逆だった。彼の言ったことを彼女なりに咀嚼した結果が、本格的な探求のスタートだったのである。
  For one thing, she read over the will more closely. If it was really Pierce's attempt to leave an organized something behind after his own annihilation, then it was part of her duty, wasn't it, to bestow life on what had persisted, to try to be what Driblette was, the dark machine in the center of the planetarium, to bring the estate into pulsing stelliferous Meaning, all in a soaring dome around her? (p64)

《とりあえずエディパは遺言状をもっと綿密に読み返してみた。みずからが消滅したのち何か組織化されたものを残すというのが本当にピアスの意図したことだとすれば、残存しているものに命を与えること、ドリブレットと同じようなものになろうとすること、プラネタリウムのまんなかの黒い機械になって、ピカピカと脈動する星座のような〈意味〉に遺産を変えてしまうこと、自分を包んでそびえるドームの中のあらゆるものを扱うことこそ自分の義務の一部ではないか。》p99/p111

 ドリブレットと同じように、プラネタリウムの映写機になってみよう。ピアスの遺産にまつわる物事のあいだに何かつながりがあるならば、そのつながりを示す手掛かりを拾いに行く。しかしそれだけでは死んだ証拠を寄せ集めることにしかならないから、それに自分で意味を充填してみよう。おそらく、そこまでしてはじめて、ピアスが残した(かもしれない)ものが、「何か組織化されたもの」(an organized something)としてあらわれる――

 エディパがめざす方向は、このようなものだ。なぜか、あれだけ「よしておきなよ」と言っていたドリブレットに背中を押してもらった格好である。
 そしてこの部分の書かれ方が、“あらかじめ隠されてある何かを、エディパがあとから発見する”、というかたちではなく、“エディパの積極的な関与によって、はじめて「隠された何か」が生まれ、発見が成立する”という、この小説の事情を示していると思う。そこには、“発見からさかのぼって、それに先立つ探求が事後的に構成される”様子も含まれるだろう。

 エディパのやろうとしていることは、夜空に点在する星を見つけるだけでなく、見つけた星を線でつないで星座を創ることに似ている。星は実在するが、見つけられるのは自分の目で見えるぶんだけである。覚悟を決めて、自分の目で見つけられる限りの星に、自分で線を引く。
 彼女は手帳を開き、以前〈ザ・スコープ〉という酒場のトイレで写した謎のマーク→その48の下に、こう書き記す。
Shall I project a world? (p64)

《「私は一つの世界を投射すべきか?」》p100/p112

 いちおうは疑問形であるものの、すでにエディパは歩き出している。
 彼女は一つの世界を投射するつもりだ。つまりこの小説で、“探求-発見”は、“創造”に近くなる。
 ここにはっきり、エディパの筆跡で、そう書いてある。

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2004/04/08

その88 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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She left, and was all the way outside before thinking, I went in there to ask about bones and instead we talked about Trystero thing. (p63)

《その場を去り、ずっと外へ出てしまってから、私は骨のことをききに行ったのに、その代わりにトライステロのことを話していたと思った。》p97/p109

 いやいや、実際のところエディパは、骨の話もしていなければ、トライステロのことも何ひとつ聞き出せなかった。

「骨のこと」とは、『急使の悲劇』中の骨のエピソード(ファッジオの兵士が湖に沈められ、その骨が炭として使われる)と、ピアス・インヴェラリティ絡みの骨のエピソード(イタリアの湖から引き揚げられたアメリカ兵の骨が炭として利用される)が似通っているのには何かつながりがあるのか、という問題だった→その76~
 あれはどの程度まで偶然だったのか(how accidental it had been)と、あらためてエディパは考えている。こんな類似がまったくの偶然だとは思えないでいるのだ。これはエディパの考えすぎではなく、当然の疑いだと思う。

 メツガーは、ケンカしていたにもかかわらず→その81、エディパを待っていてくれた。ここでこの第3章は終わるのだが、最後の最後で、この小説は何かの念を押す。
Metzger had been listening to the car radio. She got in and rode with him for two miles before realizing that the whimsies of nighttime reception were bringing them KCUF down from Kinneret, and that the disk jockey talking was her husband, Mucho. (p63)

《メツガーはカー・ラジオをきいていた。エディパは車に乗り込み、彼といっしょに二マイルほど走ったところで、夜間の受信状態の気まぐれからキナレットのKCUF放送が入っていて、いましゃべっているディスク・ジョッキーは夫のムーチョだと気づいた。》p98/p110

 これもまた、どの程度まで偶然なのか、エディパといっしょに読者も考え込まざるをえない出来事である。
 まったくの偶然にはとても思えない。であれば、つまり偶然ではないつながりがあるならば、そのつながりを仕組んだものがいるはずで、その存在に発する何らかの意図が働いていることになる。それは何か。
 骨の話にしろ、ラジオのムーチョにしろ、偶然ではない、と決めてしまえば推論は確実にそのように進展していくはずだが、当のエディパがどこまで考えているのか、それを明らかにしないうちに章の区切りが来てしまう。

 次回から(やっと)第4章。

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2004/04/08

その87 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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 ドリブレットの考え方には、もうひとつおそろしさがある。

 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ丹念に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめないよ、と彼は言っている。ぼくがプラネタリウムの映写機となって、ぼくの現実を舞台上に映し出す。もしぼくが死んだら、ぼくの現実も消える。
 ここでは芝居『急使の悲劇』の話だったが、これはむしろ、彼の現実認識一般に拡大してとらえるべきだろう。彼は、「ぼくの現実はぼくひとりのものだ」と言っている。

 現実についてのこのような見かた、いわば「人間=映写機」論には見おぼえがある。それはほかならぬエディパの現実認識で、第1章の終わり、レメディオス・バロの絵画になぞらえて語られていたものだ→その9~

大地のマントを織りつむぐ」というバロの絵を見て、そこに描かれている囚われの少女は私だとエディパは感じた。彼女たちと同じように、私が生きている世界、私が見ている現実は、私が自分でそのように織りなしたものであり、私が私である以上、私はそこから出ることができない→その10

 世界も現実も、私が/ぼくが独りで作っているものでしかない。そう思い定めている点で、自分の塔に閉じこもり外の世界を織っているというエディパの現実観と、自分を映写機として外に世界を投影しているというドリブレットの現実観は、双子のようによく似ている。
 ただしエディパが、「私はここから出られない」と悲観的になっているのに対して、ドリブレットはそうではない。彼は逆に、創造する者の特権を感じているようにも見える。というのは、話しぶりを追っていくと、「ぼくの見ているものはほかのだれにもわからないよ」という認識が、彼の場合、エディパのような諦念ではなく、「ほかのだれにも作れないものをぼくは作っているんだ」という自負にどこかで転じているように映るからだ。

 それなのに、あるいは、それだからこそ、ここではドリブレットのほうがより淋しげである。
 もしぼくが消えてしまったら、ぼくの演出した、ぼくの意図を込めた今日の芝居も、消えるだろう。残るのは実在したものだけだから、郵便組織〈テュルーン、タクシス家〉は残るだろうし、その敵(トライステロ!)も、実在したなら残るだろう。でもそんな化石に意味はない――

 こんなふうに、芝居のあと、ドリブレットがシャワーを浴びながらエディパの質問に答える(というか、答えないまま喋る)この短い場面は、自分は孤独であるほかないとなぜか決めつけたふたつの魂が、一瞬だけ交差して、すぐに別れていく味わい深いシーンだが、それと同時に、動きはじめたエディパの探求にいきなり巨大な疑問符がベッタリ貼り付けられる、問題含みのシーンだということを繰り返しておく。

 結局のところ、ドリブレットが「たんなる言葉にぼくは命を吹きこんだ」とか「どれだけ言葉を調べたって、真実には行き着けない」と言うときの「命」や「真実」の内実は、なんにもわからない(彼以外にはわかりようがないと彼が自分で考えている)ということだけが、わかったのだった。

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2004/04/08

その86 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 きみがぼくの恋人になってくれれば、ぼくの内面や無意識をさぐるヒントだって手に入れることができるだろう、とドリブレットはエディパに語りかける。本気ではない。そんなことはやめなよ、と言っているのだ。
"You can put together clues, develop a thesis, or several, about why characters reached to the Trystero possibility the way they did, why the assassins came on, why the black costumes. You could waste your life that way and never touch the truth. Wharfinger supplied words and a yarn. I gave them life. That's it." He fell silent. (pp62-3)

《「手掛かりをつなぎ合わせて論文が一つ、いや、いくつも書ける――なぜ登場人物がトライステロの可能性に対してあんなふうに反応したのか、なぜ刺客が登場したのか、なぜ黒いコスチュームか。そういうことを書いて一生をむだにして、真実に触れることもない、というふうにもなれるわけだ。ウォーフィンガーは言葉と話を提供した。ぼくがそれに生命を吹きこんだ。というわけさ」それきり黙ってしまった。》p97/p109

 こんなふうに考える人間が相手では、これ以上問い詰めても、おだててもなだめても、無駄である。だからエディパは、自分の前に「トライステロ」の影をちらつかせたこの男から退却するしかない。

 徐々に探求に深入りをはじめていたエディパ。○○を見つけたい、という対象を持たず、ただ、目の前に不思議とつながりをもっていそうな事物が次々あらわれるので、好奇心に駆られて動いているだけなのが彼女である。「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」→その81

 2つでも3つでも、複数の物事のあいだに「関連がある」と知るには、手掛かりを探し、積み重ねていく作業が必要だ。エディパはそれをするつもりでいる。実際、これからするだろう。
 しかし、そのような今後の探求の進み行きに対し、ドリブレットはこの時点で、「手掛かりを集め、つなぎ合わせて答えを探す作業に意味なんかないよ(そんなことをしたって真実には触れられないよ)」、と言っている。

 いくらなんでも意地が悪い。そう感じてしまうのは、次々に謎めいた事物が登場するこのLot 49 を読み進むという行為には、どうしても、エディパに自分を重ねていくという部分があるからだ。
 読者に向かってはこの第3章のはじめで予告されていた名前(トライステロ)が、エディパにとっても蠱惑的な謎として耳に届き、いよいよ本格的に話が動いてきたと見えるこの時点で、あっさり「探求に意味はない」と冷や水を浴びせかける登場人物が出てくるのは、端的に、どうかしている。
 エディパに対してではなく、ドリブレットに対してでもなく、この小説に対して、「謎を解く気はあるのか」と言いたくなる。

 もちろん、登場人物のひとりに過ぎないドリブレットの信念を、すべて真に受けて狼狽しないといけない理由はない。しかし、エディパの知識がようやく読者の知識に追いついて、つながりを探すあやふやな探求の核が形成されそうになっている、そんな場面の直後にこの発言が来るのは、なんだか不吉である。

 エディパの探求は、まだスタート地点にいるうちに、あらかじめ無効宣言が下されてしまった。少なくともひとり、鍵を握っていそうな人間が、はっきりそう宣告している。
 これが彼の言葉の持つ、ひとつめのおそろしさである。

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2004/04/08

その85 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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・「トライステロ」を知っている者が、秘密を隠す微笑をする
・「トライステロ」の刺客の姿を、実際に舞台上に出す

 どうしてこのような演出を加えたのか、というエディパの(そして読者の)問いに、ドリブレットは答えない。
 演出の仕方からして、この人は「トライステロ」なるものについて何かを知っているにちがいない。それを教えてもらえれば、自分が巻き込まれている探求の大きなヒントになるはずだ。何の根拠もないままそんな直観を抱くエディパに、ドリブレットは言う。
 きみたちは言葉(words)に取り憑かれているんだ、いいかい、あの芝居が存在するのは、台本のコピーの中でも、もとのペーパーバックの中でもなく、ぼくの中なんだ――
"That's what I'm for. To give the spirit fresh. The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? But the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium, all the closed little universe visible in the circle of that stage is comingout of my mouth, eyes, sometimes other orifices also." (p62)

《「だからぼくの存在の意味があるんだ。精神に肉体を与えること。言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ? だけど、現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ。あの舞台の円形の中に見える閉ざされた小宇宙はぜんぶ、ぼくの口から、目から、ときにはそのほかの穴からも、出てきたものさ」》p96/pp107-8

「言葉なんてどうでもいい」と断言するドリブレットの言葉から、それでも考えていくと、彼が言っているのはこのようなことになるかと思われる。

 ドリブレットが芝居で表現したいのは、台詞(言葉)のひとつひとつではない。それは手段でしかない。
 頭の中に何かがある。その何かを外に出すためには、言葉で書かれた戯曲が必要になる。
 ただしそれは、何かを言葉(役者の台詞)で表現する、ということではない。何かは言葉に翻訳できないものである。
 言葉そのものは(伝達される内容ではなく)伝達手段に過ぎない、とはよく言われることである。言葉を利用することで、頭の中にあるものを外に運び出せる(表現できる)。重要なのは、その外に出される何かであって、何かを外に出す伝達手段のほうではない。
 こういう書き方をすると、何かは言葉というトラック(伝達手段)に載せられて舞台上に運ばれてくる荷物であるかのような即物的な印象を受けるが、ドリブレットじしんの比喩に従えば、何かは「ぼく」の台本を介して、つまり役者の体と言葉を映写機として、プラネタリウムのように舞台上へ投影されるという。言葉が物質なのはきっと間違いないが、伝達される何かは映像に転化される。そんなイメージが広がる。
 プラネタリウムで見るべきなのは、投影された星座であり小宇宙である。映写機をつつきまわしても仕方がないのと同じように、芝居を見て言葉ばかりを云々するのには意味がない。どれだけ細かく言葉をたどっても、何かは見つからないのだから。それで「言葉なんてどうでもいい」。

 では、星座として、小宇宙として投射される何かとはなんのことか。
 ここまで、頭の中にある何か、という言い方をしてきたが、もういちどドリブレットの台詞を(言葉を!)よく見れば、彼はあっさり、頭の中に現実があると言っていた。
the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium
《「現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ」》

 だから、上に書いた説明の何かはすべて、ドリブレットにとっての現実、と置き換えて読むことができるはずである。
 はずではあるのだが、そうやって読み直してみると、これはひどくおそろしい考えだ。ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ精密に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめない、だからそんな意味のないことはやめたほうがいいよ、と、彼はそう言っていることになる。
 おそろしい考え、とさっき書いた。そのおそろしさは2種類ある。

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★長い追記:

 最初に引用したドリブレットの発言の中で、ここがどういう意味なのよくわからない。以下、自分がどのようにわからないかをメモする。
The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? (p62)

志村訳:《言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ?》(p96/p107)

 つながりはたぶんこうなっている。

■ 言葉は機械的な音(rote noises)だ
      ↑ゴール・ラインの小ぜりあい(line bashes)を押さえる(hold)ための
      ↑俳優の記憶を取り囲む骨の障壁を突破する(get past)ための
(to hold... と to get past... は両方とも rote noises にかかる形容詞的用法のto不定詞)

 巻末の解注には《このあたりはアメリカン・フットボールの試合を比喩に使っている。》としか書かれていないが(p270/p300)、ここにある「ゴール・ラインの小ぜりあい(line bashes)」が何をどう喩えているのか、わからない。
 いや、本当はまず、line bashes が「ゴール・ラインの小ぜりあい」という意味になるのかどうかが自分では確認できなかった(手元の電子辞書に入っているなかでいちばん大きい研究社の新英和大辞典第6版でも、名詞bashの意味は「強打」「へこみ」「お祭り騒ぎ」くらいだし、line bash では項目が立っていない)。もし line bashes がアメフトの用語として「ゴール・ラインの小ぜりあい」になるとしても、何と何が争う「小ぜりあい」を、何のために「押さえる」のかはいっそうわからない。
 あるいは、そこまでは考えなくても、何かごたごたして邪魔になる衝突・騒動として頭蓋骨のあたりに「小ぜりあい」があるとする。で、言葉とはふつう考えられているほどたいそうなものではなく、その頭蓋骨まわりの小ぜりあいを抑え、骨の障壁を突破するために使われる機械的な音ぐらいのものでしかない、ということかもしれない。
 すると今度は、「記憶を取り囲む骨の障壁を突破する」際の、突破する方向がどちらなのか、よくわからなくなる。俳優の外から頭蓋骨を突破して記憶の中へ、なのか、頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ、なのか。
 俳優の外から頭蓋骨を突破して記憶の中へ、だとすると、いったい何がその方向で俳優の記憶の中に入るために機械的な音(言葉)を使うのか、どれだけ志村訳を読み直しても考えつかなかった。
 それで、頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ、だとすると、上でずっと書いたような、何かを表現する(外に出す)こととつなげて読めなくもない。
 人間の頭の中に(記憶の中に)何かがある。でもそれは、ふだんはまわりの頭蓋骨が障壁となっているせいで、外には出せない。でも俳優は、劇の台詞という言葉を喋る。言葉じたいにたいした意味はないが、口を動かしてそんな機械的な音を発することが、頭の中と外の障壁を崩し、境界でのごたごた(小ぜりあい)を抑える働きをして、俳優の中にあった何かを外に出すのを助けてくれる、その程度には言葉は役に立つ、でもその程度のものなんだから、言葉にばかり注目するのは愚かだよ――こんなふうにドリブレットは言っていると解すれば、続けて彼の用いる映写機の喩えにつながっていくように読めなくもない。
 仮にこのように読めたとしたら、面白いのは、俳優が喋る言葉(台詞)はもちろん、俳優にとっては他人の言葉であることだ。劇作家が書いた言葉、演出家が喋らせる言葉、そんな他人の言葉(機械的な音)を口にすることが、俳優じしんの中にある何かが障壁を突破して外に出てくるのを、助ける。なるほど、という気がする。
 でも今のは、日本語ばかりをいじって考えたことである。原文の構造を変えずに書き直すと

The words are rote noises to get past the bone barriers around an actor's memory.

こうなるはずだが、これでいま書いたように get past を「頭の中(記憶)から頭蓋骨を突破して俳優の外へ」という方向で読めるかというと、結局、よくわからない。

 さらにさらに、2011年刊行の佐藤良明訳『競売ナンバー49の叫び』(新潮社)は、同じ部分をこう訳している。
The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right?

佐藤訳:《言葉がなんだって言うんだ。そんなもの、繰り返される騒音以上のものではない。セリフを役者の耳に響かせて、骨の内側に記憶させるための念仏さ。》p97

 志村訳とぜんぜんちがう! ……気を取り直してまた最初から考え直してみると、まずはこうじゃないだろうか。

■ 言葉なんてものは line bashes を hold するのに使う rote noises でしかない、それは「役者の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破する」ための rote noises でしかないんだ

 get past the bone barriers around an actor's memory は、逐語的にはおそらく、志村訳のようにしか読めないと思う。さっきは get past する方向を中から外(俳優の頭の中から外へ)と考えた。でも佐藤訳はそうではなく、外から中(俳優の外から、頭蓋骨の中の memory へ)ととっているようだ。それにその前に、 line bashes を「ゴール・ラインの小ぜりあい」とはとらえておらず、だからhold のとり方もちがっている。

■ 言葉なんてものは、line bashes を保持する(hold)ための rote noises でしかない、それは役者の骨という壁を通り抜けてその中の memory に届けるための rote noises でしかないんだ

 これが佐藤訳の原型じゃないかと思う。で、何を memory に届けるのかと考えると、line bashes しかないのではないか。すると

■ 言葉なんてものは、line bashes を保持するための rote noises(繰り返される騒音)でしかない、それは line bashes を役者の骨の中の memory に届けるための rote noises(繰り返される騒音)でしかないんだ

 言葉という騒音によって保持される line bashes、骨の中の記憶に届けられる line bashes とは何なのか。
 役者が言葉でもって保持し、記憶の中に入れる(=記憶する)んだから、それは「セリフ」なんじゃないか。ごちゃごちゃごちゃごちゃ、台本の行の上で大騒ぎする、セリフたち。

■ 言葉なんてものは、ごちゃごちゃしたセリフをおぼえておくために繰り返される騒音でしかない、それは(セリフを)骨の中の記憶に届けるために繰り返される騒音でしかない

 これをまとめて、
《そんなもの、繰り返される騒音以上のものではない。セリフを役者の耳に響かせて、骨の内側に記憶させるための念仏さ。》

 こうなった、というふうに考えてみると、いきなりすっきりする。志村訳を踏み台にしてひねり出していた、「他人の言葉を機械的に発話することで頭蓋骨という障壁が崩れ、頭の中の何かを外に出せる」という大仰なことよりも、ここでドリブレットがシャワーを浴びながら言いそうなのはこっちのほうなんじゃないかという読み方に、ここまで書いてきて、だいぶ傾いてきた。とはいえ、彼は直後にプラネタリウムの比喩を使って大仰なことを口にするのだが……
 どちらにしろ、原文を「訳文に合うように」考え直すというのは、英語が読める人からしたら正反対の読み方だ。そろそろギブアップである。
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2004/04/08

その84 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


“ドリブレットは何かを知っている(ように見える)が、どうも気のないふりをしている(ように見える)。”
 カッコの中はエディパの観察だが、この前後は彼女の視線を通して地の文が書かれていくので、読者の目はこういったエディパの目に重なっていく。
 当たり前でありながら、これはつくづくえらいことだと思う。逆から見れば、ドリブレットがエディパに向かってかける言葉は、エディパに重ねられている読者にも向けられることになるのだから。
 その構図を踏まえて次を読むと面白い。
"Why," Driblette said at last, "is everybody so interested in texts?"
"Who else?" Too quickly. Maybe he had only been talking in general. (p61)

《「どうしてみんな」と、やがてドリブレットは言う――「こんなにテクストに興味をもつんだろう?」
「私のほかにも?」もう少し間を置くべきだった。彼は一般論をしているだけなのかもしれないじゃないか。》p95/p106

 そう、エディパのほかに、読者も台本を気にしている――と口を挟みたくなるが、ドリブレットが言っているのは、もとの戯曲(リチャード・ウォーフィンガー作)をめぐる学問的な論争はうんざりだ、ということであるらしい。そう言って彼は《見憶えのある微笑をした。》(p95/p106)
 その微笑が、劇中で何度も見せられた微笑であることにエディパは気付く。
 つまり、ニコロを追う刺客たちのグループ、すなわち劇の最後になってから〈ザ・トライステロ〉という名前がわかる謎の組織について、舞台上の人間たちが全員、その名前はわかっているのに決して口には出さないまま、秘密を共有する一団として演技を続けていく場面で浮かべていた、意味ありげで思わせぶりで不気味な表情→その72その73を、それを演出した当のドリブレットがいま、芝居が終わったあとの楽屋で観客ならぬエディパひとりに向かい、浮かべている。冷気が忍び寄り、エディパは怖気をふるう。

『急使の悲劇』の登場人物たちは、微笑の裏に「トライステロ」の存在を隠していた。それと同じ表情をしているドリブレットにエディパは、トライステロについてではなく、微笑そのものについて訊ねる。そしてこのようなことがわかる。

・あの「意味ありげな微笑」は、ドリブレットによるオリジナルの演出だった
・また、ニコロが殺される直前、黒衣の刺客が3人姿を見せる(その75)のも、ドリブレットの演出だった
・原作のリチャード・ウォーフィンガーは、微笑の指示はしていないし、刺客の姿も見せないようにしていた

 次の質問は、もちろん「そんな変更を加えた理由は?」ということになる。

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2004/04/08

その83 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ドリブレットはシャワーに入る。エディパは『急使の悲劇』の台本を見せてくれるよう頼むが、そこには複写しかない。
(この楽屋のシャワールームは、背の低い扉で区切られているだけなので、エディパにはドリブレットの首から上だけは見えている)
"Hey," she yelled into the shower. "Where's the original? What did you make these copies from?"
 "A paperback," Driblette yelled back. "Don't ask me the publisher. I found it at Zapf's Used Books over by the freeway. It's an anthology, Jacobean Revenge Plays . There was a skull on the cover."
 "Could I borrow it?"
 "Somebody took it. […]" (pp60-1)

《「ねえ」とシャワーに向かって大声で――「原本はどこにあるの? このコピーを取ったもとのものは?」
「ペーパーバックの本だよ」とドリブレットがどなり返す。「出版社は知らない。ハイウェイのそばのザップフの古本屋で見つけたんだ。戯曲集だよ、『ジェイムズ朝復讐劇集』っていうんだ。表紙に頭蓋骨の画がある」
「お借りしていいですか、それ」
「だれかがもって行ってしまったよ。」》p94/pp105-6

 ぜひともチェックしたい台本は消えている、と、この男は言っている。
 それだけでも小説的には都合がよい(=あやしい)が、続けてドリブレットは、そのザップフという古本屋には同じ本がもう1冊あった、いまもあるかもしれないよ、と述べる。都合がよい=あやしいの2乗。もちろん、エディパの反応は以下のようになる。
Something came to her viscera, danced briefly, and went. "Are you putting me on?" For awhile the furrowed eyes only gazed back. (p61)

《何か腹にこたえる感じがあって、ちょっともやもやしてから消えた。「私をかついでいるんじゃない?」しばらくのあいだ皺に囲まれた目は、じっと見返すだけであった。》p95/p106

 エディパは、まず「ドリブレットは何かを知っている」と感じ取る。そのうえで、たび重なる都合のよさから「私をかついでいるのでは?」と疑いを抱くのだから、ひとりで振り子運動をしているわけだ。メツガーとはじめて対面したとき、あまりにいい男なので「私は騙されているのでは?」と疑った姿が再び思い出される→その21
 メツガーにしてもドリブレットにしても、あるいは夫のムーチョにしても精神科医のヒレリアスにしても、エディパの前に現れる男たちの言動は、みんな芝居がかっている
 しかしそこから発する、うしろに何事かを隠しているのかもしれないうさん臭さと、彼らのふるまいがたんにコミカルである(うしろには何もない)という印象は、おそらく分離しようがない。そんな合わせ技が、男たちの人数分だけ、主人公のエディパ一人にのしかかる。
 それで彼女にできるのは、ただ“疑う”ことだけだ。

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2004/04/08

その82 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 タンク劇場の奥へ奥へと入っていったエディパが見つけたドリブレットは、まだ舞台で演じたジェンナーロの衣装をつけたままだった。
She couldn't stop watching his eyes. They were bright black, surrounded by an incredible network of lines, like a laboratory maze for studying intelligence in tears. They seemed to know what she wanted, even if she didn't. (p60)

《彼の目から視線をそらすことができない。きらきらと黒く、そのまわりは信じられないほどの皺の網目だ。まるで涙の中に入っている情報を研究するための実験室の紛糾した装置の迷路のようだ。彼女が知らなくとも、彼女が知りたいと思っていることを知っているような目であった。》p93/pp104-5

 危ない! と叫びたくなるが、本当はもう遅い。
 自分が何を知りたいのかわかっておらず、ただ「知りたい」という気持に衝き動かされているだけ、そんな状態のエディパの目に、このドリブレットという男は、彼女が何を知りたがっているのか知っていて、それを教えてくれそうな存在として(いきなり)映っている。なぜか。
 ここでそのような「自分の知らないことを知っていそう」な雰囲気を醸し出しているのは、《信じられないほどの皺の網目(an incredible network of lines)》である。

 思えばエディパはこういうものに弱かった。「その18」にあった、丘の上から見たサン・ナルシソの眺めと、そのとき思い出したトランジスターの回路。あるいは「その26」、テレビのCMで見た人造湖の地図。
 そういった神聖文字めいた形象を、エディパは“何らかの意味を秘めているのに、その意味が自分には読み取れないもの”として受け取っていたのだった。

 しかしそのようなときからすでに、「読み取れないけど、意味がある」というのは、「読み取れないんだから、秘密の意味がある」との思い込みから順序が逆になって生まれていたようなものだったのだから、このエディパという人間には意味を求める欲求が過剰にあるように見えていた。そしていまここに至っては、男の目を囲む皺に一撃でハートを射貫かれている。症状は進行しているように思えてならない。

 それに対してドリブレットは、「きみは『急使の悲劇』について聞きに来たんだろうけど、あれに意味なんてないよ」と言う。
 まるで彼女の思い込みを見抜いており、軽くいなすような口ぶりなのが面白い。そして、そんなふうに感じてしまうからには、読んでいるこちらにもいくらかエディパが伝染ってきたのかもしれない。

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2004/04/08

その81 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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『急使の悲劇』は、舞台上で「トライステロ」という語が発されたあたりでほとんど終わりのようで、それからたいしたことは起こらない。
 ジェンナーロに率いられたファッジオの軍勢がスカムリアに攻め入り、一面血の海、死体の山となったところで幕だという。説明までぞんざいだ。

 しかし、アメリカ兵の骨がイタリアの湖に沈められたのちに引き揚げられたという、ピアスの地所にまつわる話→その59が、劇中にあった、ファッジオ近衛兵の骨のエピソードとかぶっていたこと→その76を、放って帰るわけにはいかない――と思い込んでいるのが主人公のエディパである。
 二十年前に戦死したアメリカ兵の骨が煙草のフィルターになっていることなんて今さらどうでもいいじゃないか、きみは傍迷惑な正義感のかたまりになってるぞ、と怒り出すメツガーに、いいえそうじゃない、そんな動機じゃないの、と彼女は抗議する。
She looked around for words, feeling helpless.
 "What then?" Metzger challenged, getting to his feet, looming. "What?"
 "I don't know," she said, a little desperate. "Metzger, don't harass me. Be on my side."
 "Against whom?" inquired Metzger, putting on shades.
 "I want to see if there's a connection. I'm curious." (p59)

《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。
「じゃ何だい?」とメツガーは挑戦しながら立ちあがり、暗がりにぼおっと姿が浮かぶ。「何だよ?」
「わかんない」と、やけ気味になって、「メツガー、苦しめないでよ。私の味方になってよ」
「敵はだれさ?」とメツガーはきいてサングラスをかける。
「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」》p92/pp103-4

 好奇心。読者としてはおそらくそうなんだろうと思っていたが、エディパじしん、自分はただ「知りたい」という内側からの欲求で動いているだけなんだとわかっていることが示されている。それを自覚している姿は“冷静”とも映るし、“わかっているのに止められない”とも映る。それで彼女は、ひとりで劇場の楽屋まで押しかけていく。
 ここでは、前回までしつこく見たような、小説主人公を翻弄している、というような関係はすでに見えなくなっている。知りたがる主人公のおかげで、小説が進んでいる。
 それはまったく当たり前であるはずのことだが、では、あの(いわば)小説主人公が分離しているかのような書きぶりはなんだったのだろう。この小説は、エディパに何をしようとしているのだろう、と、いっそうの警戒心を携えながら読んでいくことになる。

 エディパの訪ねる相手は、『急使の悲劇』の演出家である。名をランドルフ・ドリブレットという彼は、役者として重要人物のジェンナーロ(ひとりだけ「トライステロ」と発話した)を演じた男でもあった。
 役者だからなのかどうか、このドリブレットも、エディパの前でかなりの曲者としてふるまうことになる。弁護士のメツガーをはじめて見たとき、「こんなのは俳優にちがいない」と感じていたのが思い出される→その21
 それは次回以降に見ていくとして、上で引用した部分のあたまには、何とはなしに立ち止まってしまう。
She looked around for words, feeling helpless.
《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。》

「wordsを探す」というのは、たぶんまったく平凡な言い回しなのだろうが、エディパはたとえば、ここサン・ナルシソ市に到着したシーンでも、どこかから何らかの御言葉(words)が発せられたかのようにして、ひとつの啓示を受け取りかけていたのだった→その19
 こちらがその気になれば、つまり、こちらの準備さえ整っていれば、豊穣な意味を汲み出せるはずだった啓示が、ただ目の前を通り過ぎていったと勝手に感じ取ってしまう意識。そこから《関連があるかどうか見たいの。好奇心よ》という台詞は、まっすぐに引き出されてくる。

 そんなエディパに向かって「wordsなんてどうでもいい」と言い放つのが、ほかならぬ演出家ドリブレットなのである。

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2004/04/08

その80 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 もういちど、邦訳だけ再掲する。ここにあるズレは、ほとんどステレオグラムのように立体視できる。
いかに聖なる星の桛といえども護れない――
 ひとたびトライステロとの出会いを定められた者の運命は

 トライステロ。その言葉は第四幕が終わり、すべての照明が一瞬消えたそのとき、宙に漂った。暗闇に漂ってエディパ・マースを当惑させたが、まだ後日にいたって発揮するほどの力をふるいはしなかった。》p90/p101*下線は引用者

 小説を読むという行為の大枠の中で、この部分には、(1)はじめて「トライステロ」の名にぶつかってとまどうエディパと、(2)あらかじめこの名を章の冒頭でサインのように予告され、そのうえでぶつかる読者と、(3)エディパではなく、エディパを見ている読者にだけ向けてさらに次のサイン(下線を引いた部分)を送ってほくそえむ小説、という三者(エディパ読者小説)が、層を別にして、しかし並んで、存在している。

 そして、“三者が、層を別にして、しかし並んで、存在している”と書きながら同時に付け加えないといけないのは、登場人物であるエディパは小説に含まれているのだから、読者にとってはエディパを描いている部分とそうでない部分のどちらも等しく文章という言葉の連なりであって区別のしようがない、ということと、なにより、読者は小説とは別の次元にいる、ということだ。

 最初に書いたこと(三者が並んで存在している)は思い込みが激しく、次に書いたこと(三者はそんなふうに並んだ分かれ方はしていない)は常識的、というわけではないと思う。ふたつの見方は両立する。

 先に書いた段落(エディパ読者小説、と太字を使っている段落)は、小説を読んでいる最中の意識の働き方で、次の段落(エディパ、読者、小説、と太字にしていない段落)はそうではないときの意識、というふうに説明するのでは、あまりに粗雑だしうさんくさいかもしれない。
 だが、「その7」「その17」や「その41」や「その51」、そして今回の冒頭に引用したような部分に繰り返しぶつかるたびに、小説エディパより先の地点から彼女を引っ張り、エディパは彼女を翻弄する小説の中を泳がされているように見えてくるのはまちがいない。
 さらには、読んでいる読者が、地の文がエディパについて語っているときには自分もエディパに寄りそい、地の文がエディパを離れたときには、それはそれで、語られている内容に寄りそっている、つまり、自分が小説の流れに沿って泳いでいる、泳がされているように感じられてくる――たとえば、《まだ後日にいたって発揮するほどの力をふるいはしなかった》と書かれていれば、「後日っていつ?」「発揮される力って?」「気になる!どうなるの!?」と反応を小説の側に返しながら先に進む――のもまた、確かなことである。

 だからどうしても、エディパ小説を分けて並べたところにもう一項として、読んでいる自分という読者も付け足して並べておかないことには、読んでいる最中の実感をこのノートに写し取れないように思うのだ。

 小説を読んでいて見えてくること、感じられることになるべく近い言葉をその都度ひねり出して書きつけるのを、この読書ノートの目的にしようとしていることに、いま自分で気が付いた。
 次回から、小説に戻る――と書くときの「小説」は、太字にしなくてよかったのだろうか?

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