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その95 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ジョン・ネファスティスの連絡先をめぐる、エディパとコーテックスの会話の続き。
 She took a chance: "Then the WASTE address isn't good any more." But she'd pronouced it like a word, waste. His face congealed, a mask of distrust. "It's W.A.S.T.E., lady," he told her, "an acronym, not 'waste,' and we had best not go into it any further." (pp69-70)

《エディパは思い切って言う――「じゃWASTEの宛名ではだめなのね」。しかし彼女はそれを一語のように「ウェイスト」と発音してしまった。彼の顔がこわばり、不信の表情だ。「ダブルユー・エー・エス・ティー・イーだよ、奥さん」と彼は言った――「頭文字の組み合わせだよ、『ウェイスト』じゃないよ、こんな話はこれ以上深入りしないでおこう」》pp107-8/p121

 復習する。
 エディパは、少し前にヨーヨーダイン社近くの酒場〈ザ・スコープ〉で、トイレの壁に謎のマークとメッセージ(“カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて。”)を見ていた→その48。いま、社内でそれと同じマークを封筒に描いていたのがこのコーテックスである。
 彼がエディパに気を許し、〈ネファスティス・マシン〉のことを大いに語ってくれたのは、最初に“カービー”の名を出したおかげだっただろう。「その90」の時点ではわからなかったが、コーテックスはあのとき彼女を“通じる人間”だと誤解したのだ。
 ところが、前回見たように、「私書箱五七三」がエディパには通じない。コーテックスとしては、この女は本当に“通じる人間”なのかと――つまり、自分たちの仲間なのかと――疑わしくなってくる。そこにきて、上の言い間違いである。コーテックスの信用を取り戻そうとしたエディパの、痛恨のミスだった。彼は完全に突き放す。
 "I saw it in a ladies' john," she confessed. But Stanley Koteks was no longer about to be sweettalked.
 "Forget it," he advised; opened a book and proceeded to ignore her.

《「じつは、それ、婦人用トイレで見たのよ」と彼女は告白した。しかしスタンレー・コーテックスはもう甘い言葉に乗ってきそうもない。
「そのことは忘れなよ」と彼は忠告して本を開き彼女を無視する態度に出た。》

 正直に白状しても、(もちろん)だめだった。コーテックスとの会話はここで閉じる。それでも、こんなにもきっぱりと彼から拒絶されたことにより、あの輪と三角形と台形でできたマークと「WASTE」なるものに関して秘密を共有する者たちがいるらしいということが、エディパにも読者にも伝わった。

…続き
その94 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


〈ネファスティス・マシン〉の発明者であるジョン・ネファスティス(←くどい)は、装置を動かすのに必須の"Sensitives"(高感度人間)はなかなかいないと言っているんだ―― そうコーテックスはエディパに語る。
 引き気味のエディパが、会話を切り上げるための方便として「じゃあ、私は"Sensitives"になれるかしら」と口にすると、意外にもコーテックスは「試してみたければ手紙を書けばいい」と応じ、前のめりにネファスティスの連絡先を教えようとする。
私書箱五七三」、というコーテックスの言葉をメモするためにエディパは手帳を開いた。そのページには、「その89」で触れた、あの奇妙なマークと彼女の決意表明、「私は一つの世界を投射すべきか?」(Shall I project a world? )が書き記されていた、という記述はあまりに絶妙であまりにわざとらしく、読み返すたびにほれぼれしてしまう。
 まさにいま、2人の会話に生じるズレから別の世界が浮かびあがるのを、エディパも読者も目撃することになるからだ。
 "In Berkeley."
 "No," his voice gone funny, so that she looked up, too sharply, by which time, carried by a certain momentum of thought, he'd also said, "In San Francisco; there's none--" and by then knew he'd made a mistake. "He's living somewhere along Telegraph," he muttered. "I gave you the wrong address." (p69)

《「バークレー市の私書箱ね」
「いや」という彼の声が変なのでエディパは顔をあげたが、その反応は目立ち過ぎた。そのときには、彼も一種の、思考のはずみがついていて「サン・フランシスコ市の私書箱だ。ないんだよ、その――」と、そこまで言ってから間違いを犯していたことに思い当たる。「テレグラフ通りのどこかに住んでいるんだ」と彼はつぶやく。「さっきの宛名は違っていた」》p107/p120

 このやりとりはわかりにくい。大まかには、2人のあいだに齟齬があったということだが、感度を強化して細かく見る。
 コーテックスは「私書箱五七三」とだけ口にした。エディパとしては、最初にネファスティスの名前が出たとき、彼がバークレーに住んでいると聞いていたから、それは当然、「宛先が“バークレー市の私書箱五七三”ってことね」、と確認している。
 それに対してコーテックスは、会話の勢いがついているため「いや、バークレーじゃなくてサン・フランシスコだよ、だってほら、ないんだから――」とまで言ったところで《間違いを犯していたことに思い当たる》。そして慌てて「私書箱五七三」を取り消した。
 何がないのか、コーテックスは何を間違ったのか。

 おそらく「私書箱五七三」は、通じる者たちのあいだでは、市の名前などを示すほかの情報がなくても、それだけで通用する番号なのではないか。コーテックスはエディパを“通じる人間”だと勘違いして(あるいは、ついうっかりして)その番号を伝えてしまった。
 しかし、実際には“通じる人間”ではなかったエディパは、通常の考え方で宛先を確認しようとした。それでコーテックスは、「そうじゃないだろ、あの番号はあの番号だけ、ほかに余計な情報はないんだからさあ」とまで言ってしまってから、そもそも“通じない人間”にはあの番号を教えてはいけなかったと思い当たり、わざとらしくも「さっき言った私書箱五七三ってのは間違いだったよ、うん」と苦しい言い訳をしたのである。

 そう考えてみてすぐに出てくる疑問は、このコーテックスという男、大企業ヨーヨーダイン社で働いている技師の正体は何なのか、ということだ。エディパの知っているふつうの郵便で使われる宛先とは別の番号で連絡をとることができる、“通じる人間たち”。それはいったい何者なのか。
 エディパにはそこをぜひ突っ込んでほしいが、上の引用に続く会話で、今度は彼女が間違いを犯す。

…続き
その93 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


(再び): ただの空気しかないところから、温度差を作りエネルギーを取り出してしまう〈マックスウェルの悪魔〉。それを組み込んだ永久機関〈ネファスティス・マシン〉を動かすためには、もうひとつ必要なものがあるという。

 人間が、マシンに貼ったマックスウェルの写真をじっと見つめ、箱の中の悪魔と交信すること。

 ちょっと意味がわからないと思う。だがそのようにコーテックスは説明している。エディパはそっとあたりの様子をうかがい、自分を取り巻く世界のほうがどうかしてしまったのではないことを確認している。
all with Yoyodyne was normal. Except right here, where Oedipa Maas, with a thousand other people to choose from, had had to walk uncoerced into the presence of madness. (p69)

《ヨーヨーダイン社は万事が正常である。正常でないのはここ、エディパ・マースが千人もいる中から選りに選って、強制されたわけでもないのに辿りついて狂気と向かい合っているこの場所だけである。》p107/p120

 マックスウェルの悪魔だったら、自分で基準を持って分子を「選り分ける」ことができるのに、主人公エディパの場合は、無意識的に「選ぶ」相手がたいてい正常ではない人間ばかりになってしまう、彼女にはそんな習性がある、とでも言いたいような書きぶりだ。
 そして当のコーテックスが付け足すには、だれでもマックスウェルの悪魔と意思の疎通ができて、〈ネファスティス・マシン〉を動かすことができるというわけではない
 "Only people with the gift. 'Sensitives,' John calls them."

《「資質のあるひとだけさ。『霊能者』ってジョンは呼んでるけど」》

「霊能者」と言われてしまったらはっきりオカルトの領域だが、原語の "Sensitives" であれば、まだもう少しだけ、こちら側に踏みとどまっている気がする。ふつうの人よりも敏感に何かを感じ取る能力を有する人間になら、〈ネファスティス・マシン〉を作動させることができる。少なくとも、発明者ジョン・ネファスティスと支持者コーテックスは、そういう原理を信じているようだ。
 もっとも、この小説でこれまで"sensitiveである"と形容されたことのある人物として思い出されるのは、やはりちょっとどうかした方向に半歩踏み出しかけているエディパの夫、ムーチョ・マースであることからすると、「危ないんじゃないか」という印象はいささかも減ずるものではない。
(小説冒頭近く、「その3」で引用した部分の直前で、ラジオ局の仕事から帰ってきたムーチョが仕事の意義について怒濤のように愚痴り出すと、エディパは"You're too sensitive."「あなた、感じすぎよ」となだめていた)

 そしてまた、そのムーチョから届く手紙の誤植が意味ありげに映って気になったり、酒場のトイレの落書きが何か秘密を隠していると直覚したりといった、周囲の出来事から勝手に啓示の気配を感じ取るエディパ自身の姿もまた、"sensitized"(感度が強化された状態)というふうに語られていたことに思いを致すと、Lot 49 において"sensitive"であるとは、自分で紡いだ妄想の世界にのめり込んだ状態へと限りなく接近していく傾向のことではないかという予感もないではない。
 ムーチョ・・・エディパ・・・〈ネファスティス・マシン〉・・・さらには・・・、とつながっていく"sensitive"の連鎖が大いに気になってきた(sensitized!)が、ここで紹介されたマシンの実物がエディパの前に登場するには、まだもうしばらく待たなくてはならない。

 なお、『逆光(2006)の翻訳者である木原善彦氏のピンチョン論『トマス・ピンチョン 無政府主義的奇跡の宇宙』(2001)では、この〈ネファスティス・マシン〉を鍵としてLot 49 が解読されており、そこでは"Sensitives"は、「高感度人間」と訳されていた(p48)。「霊能力者」よりずっといいと思うのだが、この木原説を紹介するのも、マシンの実物が出てからのほうがいいだろう。
 今ここでは、“James Clerk Maxwell”で画像検索をした結果を上からずっと眺めていくと、じわじわ怖くなってくる、とだけ書き足しておく。

…続き


トマス・ピンチョン―無政府主義的奇跡の宇宙
木原 善彦
京都大学学術出版会
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その92 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ただの空気しかないところから、温度差を作りエネルギーを取り出してしまう〈マックスウェルの悪魔〉。それを組み込んだ永久機関〈ネファスティス・マシン〉を動かすためには、もうひとつ必要なものがあるという。
 ・・・だがその前に書いておくと、このマシンがすごいのは、熱力学の第二法則を堂々と破っているからだと説明されている。いちおう、少しだけメモ。
(以下のまとめ方には確実に間違いが含まれているので、もっと正しく、かつ簡明な説明が見つかったら、どんどん差し替えたい)


■ 熱力学の第一法則
・エネルギーには様々な種類があり、形態が移り変わっていくことはあっても、全体としての量は常に一定である(エネルギー保存則)
・「ない」ところからエネルギーは取り出せない、無から有は作り出せない

 たしかに学校で習ったおぼえがある。これに比べると第二法則は難しい気がする。


■ 熱力学の第二法則
・持っているエネルギーのすべてを何か意味のある作業に使うことはできず、かならずエネルギーの一部を無駄に捨てなくてはならない
 (この本にあった表現)
・分離の状態は、やがて混合という結果に追い込まれる
 (この本にあった表現)

 ネファスティス・マシンの中では、悪魔が「速い分子」と「遅い分子」を選り分けるだけで熱機関を動かすことができるから、エネルギーが無駄にならず、意味ある作業に使われていることになる。
 それに、「速い分子」と「遅い分子」がごちゃごちゃになっているはじめの状態(混合)から、両者の選り分けられた状態(分離)にすることができるというのは、“分離 → 混合”という、一方通行であるはずの変化に真っ向から逆らっていることになる。
Since the Demon only sat and sorted, you wouldn't have put any real work int the system. So you would be violating the Second Law of Thermodynamics, getting something for nothing, causing perpetual motion. (p68)

《悪魔は坐って選り分けるだけだから、この系に真の仕事を何も加えたことにはならない。ということは、熱力学の第二法則を破って、無から有を生じさせ、永久運動をひきおこしていることになる。》p106/p119

 しかしエディパには、いまひとつそのすごさが伝わっていない。
 "Sorting isn't work?" Oedipa said. "Tell them down at the post office, you'll find yourself in a mailbag headed for Fairbanks, Alaska, without even a FRAGILE sticker going for you."
 "It's mental work," Koteks said, "But not work in the thermodynamic sense." He went on to tell how the Nefastis Machine contained an honest-to-God Maxwell's Demon.

《「選り分けるのは仕事じゃないの?」とエディパは言った。「そんなことを郵便局で言ってごらんなさい。郵便袋に詰めこまれてアラスカのフェアバンク行きよ、〈こわれもの注意〉の貼り紙もつけてはくれないわ」
「それは頭脳労働だけど」とコーテックス――「熱力学的な意味での仕事じゃないんだ」 彼は話を続けて〈ネファスティス・マシン〉に正真正銘の〈マックスウェルの悪魔〉が入っていることを説明した。》

 まだこれだけでは説明は終わらない。あらためて、装置を動かすには、もうひとつ必要なものがあるという。

…続き
その91 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 スタンリー・コーテックスは、〈ネファスティス・マシン〉の設計図を取り出して、その原理と働きをエディパに説明する。マシンの実物はこの場にはない。
From a drawer he produced a Xeroxed wad of papers, showing a box with a sketch of a bearded Victorian on its outside, and coming out of the top two pistons attached to a crankshaft and flywheel. (p68)

《引出しからゼロックスで複写した書類の束を出したが、図面には、外側に、顎ひげを生やしたヴィクトリア朝の人物のスケッチのついた箱があり、箱の上部には二つのピストンがクランク軸とはずみ車につながっている。》p105/p118

 説明のほとんどは、エディパとコーテックスの会話を通してではなく、それをまとめた地の文によってなされている。しかし地の文といっても、エディパの理解に寄りそった文章になっているので、マシンの仕組みについて、曖昧なとらえ方、間違った理解が含まれかねないという点には注意が必要になるはずである。
 逆にいえば、エディパの誤解と、それをそのまま受け取ってしまう読者への誤解の伝播をおそれないという意味で、ピンチョンはずいぶん勇気のいる書き方をしていると思う。
 そのような面もあり、小説に描かれた装置の説明をあらためて説明していくのはややこしく、本当は『急使の悲劇』の内容をまとめる(「その61」から21回かかった)のと同じくらい難しい。とはいえ、自分に読めるように読んだ内容をメモするのがこの読書ノートであるから、読めるように読んでメモするだけである。以上は不要な前置きだった。

 それでネファスティス・マシンだが、上の引用にもあるように、基本的には箱の形状をしている。
 箱の中では、たくさんの分子がそれぞれでたらめなスピードででたらめな方向に飛び交っている。こう書くと何か特別な感じがするが、これは箱の外、ふつうの空間とまったく同じ状態である。
 ただし、この箱の内部には、〈マックスウェルの悪魔〉と呼ばれる極小の知的生命体が鎮座ましましている。悪魔は、なにしろ悪魔であるから、自分の周囲を飛び交っている分子を、スピードの「速い分子」と「遅い分子」に選り分ける(sort out)ことができる。
 それがこの悪魔の唯一の能力で、ほかに悪魔らしいことは何もできないのだが、分子の速い/遅いは、エネルギーの多い/少ないの言い換えであるから、悪魔が選り分けを続けていくうちに、速い分子だけが集まった区域(=温度が高い)と、遅い分子だけが集まった区域(=温度が低い)ができることになる。つまり、装置の内部に温度差が生まれる。
 そして温度差さえあれば、それを利用して熱機関を動かすことができる(=箱から突き出たピストンを上下動させることができる)わけである。

 このとき悪魔は、(1)箱の内部にいて、(2)分子を選り分けている。ここが大事なところで、これだけだと、熱力学的には何の仕事もしていないことになるらしい。外部からエネルギーを持ってきているわけでもないのに、ピストンは動き続ける。だからこれは永久機関だ

  ○  ○  ○

 この装置のキモである〈マックスウェルの悪魔〉を考案したのは、実在の科学者、ジェイムズ・クラーク・マックスウェルである。悪魔がどのようにして分子を“選り分ける”のかは、ふつうこのように解説される:

 箱の内部には、真ん中にしきりの壁があって、空間をふたつの部屋に分けている。しきりには、分子だけが通り抜けられる小さな穴と、それを開閉する扉が付いている。
 悪魔はこの扉のそばにぴったり貼りついており、速い分子が左の部屋から右の部屋に入ろうとすると扉を開ける(右から左に入りそうな場合は閉める)。逆に、遅い分子が右の部屋から左の部屋へ入りそうなときも扉を開ける(左から右へ入ろうとする場合は閉める)。
 この開閉を続けていくうちに、右の部屋は速い分子だけが集まって温度が上がり、左の部屋には遅い分子だけが集まって温度が下がる。めでたく温度差が生まれ、エネルギーが取り出される(熱機関が運動する)。

  ○  ○  ○

 当然のことながら、マックスウェルにとって悪魔は仮想上の存在だった。しかし、その悪魔が本当に入っているのが〈ネファスティス・マシン〉で、装置の外側には、このマックスウェルの顔写真が貼ってあるという。繰り返すが、いまエディパが目にしているのは設計図だけで、実物はここにはない。

 まだこれだけでは説明は終わらない。装置を動かすには、もうひとつ必要なものがあるという。

…続き
その90 ― ピンチョン Lot 49
競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 エディパは、ヨーヨーダイン社の株主総会に出かけていく。ヨーヨーダインは、ピアスがサン・ナルシソに誘致した巨大企業だった→その20
 ふざけた社歌・愛唱歌が何曲も斉唱されるのを聞いたあと、工場見学ツアーの最中に、エディパはひとりだけはぐれて迷子になってしまう。
 どの方向にどれだけ歩いても、あたりは白っぽい床と壁が続くばかり、蛍光灯に照らされたオフィスで自分の仕事に取り組む技師たちはこちらを見向きもしない。軽いパニックに襲われかけたエディパがしまいに行き当たったのは、まだこの工場で働くほどの歳には見えない、童顔の男だった。
As it turned out he wasn't working, only doodling with a fat felt pencil this sign: (p67)

《じっさい働いてはいなかった。太いフェルト・ペンでこんな印を落書きしているだけだった――》p103/p116

          lot49

ザ・スコープ〉のトイレで目にしたのと同じなのである。
 偶然の一致に打たれたエディパは、あのときマークといっしょに書いてあったメッセージ(“カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて。”)も思い出し、落書きをしていた男に、「カービーに言われて来たんだけど」と嘘をついて声をかける。
 彼の名はスタンリー・コーテックス(Stanley Koteks)。落書きしていた封筒は、素早く引き出しに隠してしまった。エディパは当然、マークのことを訊きたい。でも彼が素直に答えてくれるとは(なぜか)思えない。そのため遠回りなやりとりが続く。

 コーテックスの話では、ヨーヨーダイン社は社員が個人で特許を持つのを禁止している。技術者である彼はそこに不満のようで、チームワークなんかで創造力が発揮されるわけがない、と持論をぶつ。「あんなの、責任を逃れる方策でしかないよ」。
 そしてコーテックスは、こんな時代でも独創性を持っている真の発明家として、バークレーに在住のジョン・ネファステスなる男の名前を口に出し、その彼の手になる発明品〈ネファスティス・マシン〉の話をはじめる。

…続き


 ・・・およそどうでもいい話だが、コーテックスが問題のマークをフェルト・ペンで「落書きしている」引用部分で目にした単語、doodlingという語の見た目があまりに気に入ったので、それをこのブログでの名前にしている。本当にどうでもいい話であった。
その89 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 第4章冒頭:
 Though she saw Mike Fallopian again, and did trace the text of The Courier's Tragedy a certain distance, these follow-ups were no more disquieting than other revelations which now seemed to come crowding in exponentially, as if the more she collected the more would come to her, until everything she saw, smelled, dreamed, remembered, would somehow come to be woven into The Tristero. (p64)

《マイク・ファローピアンにはまた会ったし、『急使の悲劇』のテクストをある程度までたどりもしたが、こういう追跡調査が胸騒ぎさせるのは、ほかの啓示と同程度で、数々の啓示がいまや指数関数的に殺到し、集めれば集めるほど多くのものがやってくるという感じになり、ついには見るもの、嗅ぐもの、夢みるもの、思い出すもの、一つとしてどこかで〈ザ・トライステロ〉に織りこまれないものはなくなってしまった。》p99/p111

 第3章の冒頭に較べると、この書き出しには、あれほどの強引さは感じない。小説がレールに乗って、あるいはレールに乗ったことにされて、動き出している。何が語られているかといえば、エディパの探求である。
 そんなことしたって意味はないよ、とドリブレットから釘を刺された探求を彼女は進める、すると啓示が次々に到来し、あらゆる事物と現象がトライステロなるものを形成するするようになっていった、と、この冒頭は一息に語る。何もかも「トライステロに織りこまれる」(come to be woven into The Tristero)という言い方が、レメディオス・バロの「大地のマントを織りつむぐ」を踏まえていることもまちがいない。
 ――こう書いてみて、「やっぱり、この書き出しも強引じゃないか」と考え直した。圧縮することにより、文章を速くする。その速度で一気に「こういうことになった」まで駆け抜けるので、読む側では「そういうことになったのか」と受け入れるしかない。こちらとしても、はやく先に進みたいという気持でいることが(だれだってそうだろう)、小説の側からうまく利用されている感じだ。

 ドリブレットからの注意はエディパの好奇心を止めはしない。逆だった。彼の言ったことを彼女なりに咀嚼した結果が、本格的な探求のスタートだったのである。
  For one thing, she read over the will more closely. If it was really Pierce's attempt to leave an organized something behind after his own annihilation, then it was part of her duty, wasn't it, to bestow life on what had persisted, to try to be what Driblette was, the dark machine in the center of the planetarium, to bring the estate into pulsing stelliferous Meaning, all in a soaring dome around her?

《とりあえずエディパは遺言状をもっと綿密に読み返してみた。みずからが消滅したのち何か組織化されたものを残すというのが本当にピアスの意図したことだとすれば、残存しているものに命を与えること、ドリブレットと同じようなものになろうとすること、プラネタリウムのまんなかの黒い機械になって、ピカピカと脈動する星座のような〈意味〉に遺産を変えてしまうこと、自分を包んでそびえるドームの中のあらゆるものを扱うことこそ自分の義務の一部ではないか。》

 ドリブレットと同じように、プラネタリウムの映写機になってみよう。ピアスの遺産にまつわる物事のあいだに何かつながりがあるならば、そのつながりを示す手掛かりを拾いに行く。しかしそれだけでは死んだ証拠を寄せ集めることにしかならないから、それに自分で意味を充填してみよう。おそらく、そこまでしてはじめて、ピアスが残した(かもしれない)ものが、「何か組織化されたもの」(an organized something)としてあらわれる。

 エディパがめざす方向は、このようなものだ。なぜか、あれだけ「よしておきなよ」と言っていたドリブレットに背中を押してもらった格好である。そしてこの部分の書かれ方が、“あらかじめ隠されてある何かを、エディパがあとから発見する”、というかたちではなく、“エディパの積極的な関与によって、はじめて「隠された何か」が生まれ、発見が成立する”という、この小説の事情を示していると思う。そこには、“発見からさかのぼって、それに先立つ探求が事後的に構成される”様子も含まれるだろう。

 エディパのやろうとしていることは、夜空に点在する星を見つけるだけでなく、見つけた星を線でつないで星座を創ることに似ている。星は実在する。線は自分で引くものだ。そして星にしたって、見つけられるのは自分の目で見えるぶんだけである。
 彼女は手帳を開き、以前〈ザ・スコープ〉という酒場のトイレで写した謎のマーク→その48の下に、こう書き記す。
Shall I project a world?

《「私は一つの世界を投射すべきか?」》

 いちおうは疑問形であるものの、すでにエディパは歩き出している。彼女は一つの世界を投射するつもりだ。つまりこの小説で、“探求-発見”は、“創造”に近くなる。ここにはっきり、エディパの筆跡で、そう書いてある。

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