2004/04/05

その88 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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She left, and was all the way outside before thinking, I went in there to ask about bones and instead we talked about Trystero thing. (p63)

《その場を去り、ずっと外へ出てしまってから、私は骨のことをききに行ったのに、その代わりにトライステロのことを話していたと思った。》p97/p109

 いやいや、実際のところエディパは、骨の話もしていなければ、トライステロのことも何ひとつ聞き出せなかった。
「骨のこと」とは、『急使の悲劇』中の骨のエピソード(ファッジオの兵士が湖に沈められ、その骨が炭として使われる)と、ピアス・インヴェラリティ絡みの骨のエピソード(イタリアの湖から引き揚げられたアメリカ兵の骨が炭として利用される)が似通っているのには何かつながりがあるのか、という問題だった→その76~

 あれはどの程度まで偶然だったのか(how accidental it had been)と、エディパは考えている。こんな類似がまったくの偶然だとは思えないでいるのだ。これはエディパの考えすぎではなく、当然の疑いだと思う。
 メツガーは、喧嘩していたにもかかわらず→その81、エディパを待っていてくれた。ここでこの第3章は終わるのだが、最後の最後で、この小説は何かの念を押す。
Metzger had been listening to the car radio. She got in and rode with him for two miles before realizing that the whimsies of nighttime reception were bringing them KCUF down from Kinneret, and that the disk jockey talking was her husband, Mucho. (p63)

《メツガーはカー・ラジオをきいていた。エディパは車に乗り込み、彼といっしょに二マイルほど走ったところで、夜間の受信状態の気まぐれからキナレットのKCUF放送が入っていて、いましゃべっているディスク・ジョッキーは夫のムーチョだと気づいた。》p98/p110

 これもまた、どの程度まで偶然なのか、エディパといっしょに読者も考え込まざるをえない出来事である。
 まったくの偶然にはとても思えない。であれば、つまり偶然ではないつながりがあるならば、そのつながりを仕組んだものがいるはずで、その存在に発する何らかの意図が働いていることになる。それは何か。
 骨の話にしろ、ラジオのムーチョにしろ、偶然ではない、と決めてしまえば推論は確実にここまで進展していくはずだが、当のエディパがどこまで意識しているのか、それを明らかにしないうちに章の区切りが来てしまう。

 次回から(やっと)第4章。

…続き
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2004/04/05

その87 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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 ドリブレットの考え方には、もうひとつおそろしさがある。

 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ丹念に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめないよ、と彼は言っている。
 ここでは芝居『急使の悲劇』の話だったが、これはむしろ、彼の現実認識一般に拡大してとらえるべきだろう。するとこうなる。
 ぼくの現実はぼくだけのもので、ほかのだれにも見ることはできない。ぼくが映写機になって外部に投影する星空、それがぼくにとっての現実だ。

 現実についてのこのような見かた、いわば「人間=映写機」論には見おぼえがある。それはほかならぬエディパの現実認識で、第1章の終わり、レメディオス・バロの絵画になぞらえて語られていたものだ→その9~

大地のマントを織りつむぐ」というバロの絵を見て、これは私のことだとエディパは感じた。そこに描かれている囚われの少女たちと同じように、私が生きている世界、私が見ている現実は、私が自分でそのように織りなしたものであり、私が私である以上、私はそこから出ることができない→その10

 世界も現実も、私が/ぼくが独りで作っているものでしかない。そう思い定めている点で、自分の塔に閉じこもり外の世界を織っているというエディパの現実観と、自分を映写機として外に世界を投影するというドリブレットの現実観は、双子のようによく似ている。
 ただしエディパが、「私はここから出られない」と悲観的になっているのに対して、ドリブレットはそうではない。彼は逆に、創造の楽しみめいたものを感じているようにも見える。というのは、「ぼくの見てるものは誰にもわからないよ」という認識は、エディパのような諦念ではなく、「ほかの誰にも作れないものをぼくは作っているのさ」という自負に転じているように見えるからだ。
 それなのに、あるいは、それだからこそ、ここではドリブレットのほうがより淋しげに映る。
 もしぼくが消えてしまったら、ぼくの演出した、ぼくの意図を込めた今日の芝居も、消えるだろう。残るのは実在したものだけだから、郵便組織「テュルーン、タクシス家」は残るだろうし、その敵(トライステロ!)も、実在したなら残るだろう。でもそんな化石に意味はない――

 そんなふうに、芝居のあと、ドリブレットがシャワーを浴びながらエディパの質問に答える(つまり、答えない)この短い場面は、自分は孤独であるほかないのだと決めつけたふたつの魂が、一瞬だけ交差して、すぐに別れていく味わい深いシーンであるはずだが、それと同時に、動きはじめたエディパの探求にいきなりベッタリと巨大な疑問符が貼り付けられる、問題含みのシーンだということを繰り返しておく。
 結局のところ、ドリブレットが「単なる言葉にぼくは命を吹きこんだ」とか「どれだけ言葉を調べたって、真実には行き着けない」というときの「命」や「真実」の内実は、なんにもわからない(彼以外にはわかりようがない)ということだけが、わかったのだった。

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2004/04/05

その86 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 きみがぼくの恋人になってくれれば、ぼくの内面や無意識をさぐるヒントだって手に入れることができるだろう、とドリブレットはエディパに語りかける。本気ではない。そんなことはやめなよ、と言っているのだ。
"You can put together clues, develop a thesis, or several, about why characters reached to the Trystero possibility the way they did, why the assassins came on, why the black costumes. You could waste your life that way and never touch the truth. Wharfinger supplied words and a yarn. I gave them life. That's it." He fell silent. (pp62-3)

《「手掛かりをつなぎ合わせて論文が一つ、いや、いくつも書ける――なぜ登場人物がトライステロの可能性に対してあんなふうに反応したのか、なぜ刺客が登場したのか、なぜ黒いコスチュームか。そういうことを書いて一生をむだにして、真実に触れることもない、というふうにもなれるわけだ。ウォーフィンガーは言葉と話を提供した。ぼくがそれに生命を吹きこんだ。というわけさ」それきり黙ってしまった。》p97/p109

 こんなふうに考える人間が相手では、これ以上問い詰めても、おだててもなだめても無駄である。だからエディパは、自分の前に「トライステロ」の影をちらつかせた男から退却するしかない。

 徐々に探求に深入りをはじめていたエディパ。○○を見つけたい、という対象を持たず、ただ、目の前に不思議とつながりをもっていそうな事物が次々あらわれるので、好奇心に駆られて動いているだけなのが彼女である。「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」→その81
 2つでも3つでも、複数の物事のあいだに「関連がある」と知るには、手掛かりを探し、積み重ねていく作業が必要だ。エディパはそれをするつもりである。実際、これからするだろう。
 しかし、そのような今後の探求の進み行きに対し、ドリブレットはこの時点で、「手掛かりを集め、つなぎ合わせて答えを見つけるような行為に意味なんかないよ(そんなことをしたって真実には触れられないよ)」、と言っている。

 いくらなんでも意地が悪い。そう感じてしまうのは、次々に謎めいた事物が登場するこのLot 49 を読み進むという行為には、どうしても、エディパに自分を重ねていくという部分があるからだ。
 読者に向かってはこの第3章のはじめで予告されていた名前(トライステロ)が、エディパにとっても蠱惑的な謎として姿をあらわし、いよいよ本格的に話が動いてきたと見えるこの時点で、あっさり「探求に意味はない」と冷や水を浴びせかける登場人物が出てくるのは、端的に、どうかしている。
 エディパに対してではなく、ドリブレットに対してでもなく、この小説に対して、「謎を解く気はあるのか」と言いたくなる。

 もちろん、脇役のひとりに過ぎないドリブレットの信念を、すべて真に受けないといけない理由はない。しかし、エディパの知識がようやく読者の知識に追いついて、つながりを探すあやふやな探求の核が形成されそうになっている、そんな場面の直後にこの発言が来るのは、なんだか不吉である。
 エディパの探求は、まだスタート地点にいるうちに、あらかじめ無効宣言が下されてしまっている。
 これが彼の台詞のひとつめのおそろしさである。

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2004/04/05

その85 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


・「トライステロ」を知っている者が、秘密を隠す微笑をする
・「トライステロ」の刺客の姿を、実際に舞台上に出す

 どうしてこのような演出を加えたのか、というエディパの(そして読者の)問いに、ドリブレットは答えない。
 演出からして、この人は「トライステロ」なるものについて何かを知っているにちがいない。それを教えてもらえれば、自分が巻き込まれている探求の大きなヒントになるはずだ。何の根拠もないままそんな直観を抱くエディパに、ドリブレットは言う。
 きみたちは言葉(words)に取り憑かれているんだ、あの芝居が存在するのは、台本のコピーの中でも、もとのペーパーバックの中でもなく、ぼくの中なんだ――
"That's what I'm for. To give the spirit fresh. The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? But the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium, all the closed little universe visible in the circle of that stage is comingout of my mouth, eyes, sometimes other orifices also." (p62)

《「だからぼくの存在の意味があるんだ。精神に肉体を与えること。言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ? だけど、現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ。あの舞台の円形の中に見える閉ざされた小宇宙はぜんぶ、ぼくの口から、目から、ときにはそのほかの穴からも、出てきたものさ」》p96/pp107-8

「言葉なんてどうでもいい」と断言するドリブレットの言葉から、それでも考えていくと、彼が言っているのはこのようなことになるかと思われる。

 ドリブレットが芝居で表現したいのは、台詞(言葉)のひとつひとつではない。それは手段でしかない。
 頭の中に何かがある。その何かを外に出すためには、言葉で書かれた戯曲が必要になる。
 ただしそれは、何かを言葉(役者の台詞)で表現する、ということではない。何かは言葉に翻訳できないものである。
 おそらく、言葉というのは道路のようなもので、便宜的にそれを利用することで、頭の中にあるものを外に運び出せる(表現できる)。重要なのは道路を使って外に出される何かであって、道路ではない。
 言葉=道路、というたとえを使うと、何かはトラックの荷台に載せられて舞台上に運ばれてくるかのようなイメージになるが、ドリブレット自身の比喩に従えば、何かは「ぼく」の台本を介して、つまり役者の体と言葉を映写機として、プラネタリウムのように舞台上へ投影される。ドリブレットはそう考えている。
 プラネタリウムで見るべきなのは、投影された星座であり小宇宙である。映写機をつつきまわしても仕方がないのと同じように、芝居を見て言葉ばかりを云々するのには意味がない。
 どれだけ細かく言葉をたどっても、何かは見つからない、ということだ。

 では、星座として、小宇宙として投射される何かとはなんのことか。
 ここまで、頭の中にある何か、という言い方をしてきたが、もう一度ドリブレットの台詞を(言葉を!)見れば、彼はあっさり、頭の中に現実があると言っている。
the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium
《「現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ」》

 だから、上の説明の何かはすべて、ドリブレットにとっての現実、と置き換えて読むことができるはずである。

 そうやって読み直してみると、これはひどくおそろしい考えだ。
 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ精密に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめない。だからそんな意味のないことはやめたほうがいいよ、と、彼はそう言っている。
 おそろしい考え、とさっき書いた。そのおそろしさは2種類ある。

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*上記引用中、ここがどういう意味なのか自信がない。

They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right?
《言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ?》

 人間の頭の中にある(頭蓋骨に囲まれている)記憶は、ふつう、外には出てこない。でも俳優は、自分のものではない言葉(劇の台詞)を喋ることで、じつは自分の記憶を外に表現できる、というようなことだろうか。大事なのは頭の中にあるもの(この場合は「記憶」)のほうで、それを引き出すために使われる台詞ではない、と。
2004/04/05

その84 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


“ドリブレットは何かを知っている(ように見える)が、どうも気のないふりをしている(ように見える)。”
 カッコの中はエディパの観察だが、この前後は彼女の視線を通して地の文が書かれていくので、エディパの目は読者の目にも重ねられていく。
 当たり前でありながら、これはつくづくえらいことだと思う。逆から見れば、ドリブレットがエディパに向かってかける言葉は、エディパに重なっている読者にも向けられることになるのだから。
 その構図を踏まえて次を読むと面白い。
"Why," Driblette said at last, "is everybody so interested in texts?"
"Who else?" Too quickly. Maybe he had only been talking in general. (p61)

《「どうしてみんな」と、やがてドリブレットは言う――「こんなにテクストに興味をもつんだろう?」
「私のほかにも?」もう少し間を置くべきだった。彼は一般論をしているだけなのかもしれないじゃないか。》p95/p106

 そう、エディパのほかに、読者も台本を気にしている――と口を挟みたくなるが、ドリブレットが言っているのは、もとの戯曲(リチャード・ウォーフィンガー作)をめぐる学問的な論争はうんざりだ、ということであるらしい。そう言って彼は《見憶えのある微笑をした。》
 その微笑が、劇中で何度も見せられた微笑であることにエディパは気付く。
 つまり、ニコロを追う刺客、劇の最後になってから〈ザ・トライステロ〉という名前がわかる謎の組織について、舞台上の人間たちが決してその名を出さずに、しかし全員がわかっている状態で、秘密を共有する者として演技を続けていく場面で浮かべていた、意味ありげで思わせぶりで不気味な表情→その72その73を、それを演出した当のドリブレットがいま、芝居が終わったあとの楽屋で観客ならぬエディパひとりに向かい、浮かべている。冷気が忍び寄り、エディパは怖気をふるう。
『急使の悲劇』の登場人物たちは、微笑の裏に「トライステロ」の存在を隠していた。それと同じ表情をしているドリブレットにエディパは、トライステロについてではなく、微笑そのものについて訊ねる。そしてこのようなことがわかる。

・あの「意味ありげな微笑」は、ドリブレットによるオリジナルの演出だった
・また、ニコロが殺される直前、黒衣の刺客が3人姿を見せるのも、ドリブレットの演出だった
・原作のリチャード・ウォーフィンガーは、微笑の指示はしていないし、刺客の姿も見せないようにしていた

 次の質問は、もちろん「その変更の理由は?」ということになる。

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2004/04/05

その83 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 ドリブレットはシャワーに入る。エディパは『急使の悲劇』の台本を見せてくれるよう頼むが、そこには複写しかない。
(この楽屋のシャワールームは、背の低い扉で区切られているだけなので、エディパにはドリブレットの首から上だけは見えている)
"Hey," she yelled into the shower. "Where's the original? What did you make these copies from?"
 "A paperback," Driblette yelled back. "Don't ask me the publisher. I found it at Zapf's Used Books over by the freeway. It's an anthology, Jacobean Revenge Plays . There was a skull on the cover."
 "Could I borrow it?"
 "Somebody took it. […]" (pp60-1)

《「ねえ」とシャワーに向かって大声で――「原本はどこにあるの? このコピーを取ったもとのものは?」
「ペーパーバックの本だよ」とドリブレットがどなり返す。「出版社は知らない。ハイウェイのそばのザップフの古本屋で見つけたんだ。戯曲集だよ、『ジェイムズ朝復讐劇集』っていうんだ。表紙に頭蓋骨の画がある」
「お借りしていいですか、それ」
「だれかがもって行ってしまったよ。」》p94/pp105-6

 ぜひともチェックしたい台本は消えている、と、この男は言っている。
 それだけでも都合がよい(=あやしい)が、続けてドリブレットは、そのザップフという古本屋には同じ本がもう1冊あった、いまもあるかもしれないよと述べる。もちろん、エディパの反応は以下のようになる。
Something came to her viscera, danced briefly, and went. "Are you putting me on?" For awhile the furrowed eyes only gazed back. (p61)

《何か腹にこたえる感じがあって、ちょっともやもやしてから消えた。「私をかついでいるんじゃない?」しばらくのあいだ皺に囲まれた目は、じっと見返すだけであった。》p95/p106

 エディパは、まず「ドリブレットは何かを知っている」と感じている。そのうえで、たび重なる都合のよさから「私をかついでいるのでは?」と疑いを抱くのだから、ひとりで振り子運動をしているわけだ。メツガーとはじめて対面したとき、あまりにいい男なので「私は騙されているのでは?」と疑った姿が再び思い出される→その21
 メツガーにしてもドリブレットにしても、あるいは夫のムーチョにしても精神科医のヒレリアスにしても、エディパの前に現れる男たちの言動は、みんな芝居がかっている
 しかしそこから発する、うしろに何事かを隠しているのかもしれないうさん臭さと、彼らのふるまいがコミカルである(うしろには何もない)という印象は、おそらく分離しようがない。そんな合わせ技が、男たちの人数分だけ、主人公のエディパ一人にのしかかる。彼女にできるのは、ただ“疑う”ことだけだ。

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2004/04/05

その82 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


 タンク劇場の奥へ奥へと入っていったエディパが見つけたドリブレットは、まだ舞台で演じたジェンナーロの衣装をつけたままだった。
She couldn't stop watching his eyes. They were bright black, surrounded by an incredible network of lines, like a laboratory maze for studying intelligence in tears. They seemed to know what she wanted, even if she didn't. (p60)

《彼の目から視線をそらすことができない。きらきらと黒く、そのまわりは信じられないほどの皺の網目だ。まるで涙の中に入っている情報を研究するための実験室の紛糾した装置の迷路のようだ。彼女が知らなくとも、彼女が知りたいと思っていることを知っているような目であった。》p93/pp104-5

 危ない! と叫びたくなるが、本当はもう遅い。
 自分が何を知りたいのかわかっておらず、ただ「知りたい」という気持だけに衝き動かされている、そんな状態のエディパの目に、このドリブレットという男は、彼女が何を知りたがっているのか知っていて、それを教えてくれそうな存在として(いきなり)映っている。なぜか。
 ここでそのような「自分の知らないことを知っていそう」な雰囲気を醸し出しているのは、《信じられないほどの皺の網目(an incredible network of lines)》である。思えばエディパはこういうものに弱かった。

その18」にあった、丘の上から見たサン・ナルシソの眺めと、そのとき思い出したトランジスターの回路。あるいは「その26」、テレビのCMで見た人造湖の地図。そういった神聖文字めいた形象を、エディパは“何らかの意味を秘めているのに、その意味が自分には読み取れないもの”として受け取っていたのだった。

 しかしそれらのときでさえ、「読み取れないけど、意味がある」というのは、「読み取れないんだから、秘密の意味がある」との思い込みが逆さになって生まれていたようなものだったのだから、このエディパという人間は意味を求める欲求が過剰であるように見えたものだが、いまここに至っては、男の目を囲む皺に一撃でハートを射貫かれている。

 それに対してドリブレットは、「きみは『急使の悲劇』について聞きに来たんだろうけど、あれに意味なんてないよ」と言う。
 まるで彼女の思い込みを見抜いており、軽くいなすような口ぶりなのが面白い。そして、そんなふうに感じてしまうからには、読んでいるこちらにもいくらかエディパが伝染ってきたのかもしれない。

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2004/04/05

その81 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


『急使の悲劇』は、舞台上で「トライステロ」という語が発されたあたりでほとんど終わりのようで、それからたいしたことは起こらない。
 ジェンナーロに率いられたファッジオの軍勢がスカムリアに攻め入り、一面血の海、死体の山となったところで幕だという。説明までぞんざいだ。

 しかし、アメリカ兵の骨がイタリアの湖に沈められたのちに引き揚げられたという、ピアスの地所にまつわる話→その59が、劇中にあった、ファッジオ近衛兵の骨のエピソードとかぶっていたこと→その76を、放って帰るわけにはいかない――と思い込んでいるのが主人公のエディパである。
 二十年前に戦死したアメリカ兵の骨が煙草のフィルターになっていることなんて今さらどうでもいいじゃないか、きみは傍迷惑な正義感のかたまりになってるぞ、と怒り出すメツガーに、いいえそうじゃない、そんな動機じゃないの、と彼女は抗議する。
She looked around for words, feeling helpless.
 "What then?" Metzger challenged, getting to his feet, looming. "What?"
 "I don't know," she said, a little desperate. "Metzger, don't harass me. Be on my side."
 "Against whom?" inquired Metzger, putting on shades.
 "I want to see if there's a connection. I'm curious." (p59)

《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。
「じゃ何だい?」とメツガーは挑戦しながら立ちあがり、暗がりにぼおっと姿が浮かぶ。「何だよ?」
「わかんない」と、やけ気味になって、「メツガー、苦しめないでよ。私の味方になってよ」
「敵はだれさ?」とメツガーはきいてサングラスをかける。
「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」》p92/pp103-4

 好奇心。読者としてはおそらくそうなんだろうと思っていたが、エディパ自身、自分はただ「知りたい」という内側からの欲求で動いているだけなんだとわかっていることが示されている。その自覚は“冷静”とも映るし、“わかっているのに止められない”とも映る。それで彼女は、ひとりで劇場の楽屋まで押しかけていく。
 ここでは、前回までしつこく見たような、小説主人公を翻弄している、というような関係はすでに見えなくなっている。知りたがる主人公のおかげで、小説が進んでいる。
 それはまったく当たり前であるはずのことだが、では、あの(いわば)小説主人公が分離しているかのような書きぶりはなんだったのだろう。この小説は、エディパに何をしようとしているのだろう、と、いっそうの警戒心を携えながら読んでいくことになる。

 エディパの訪ねる相手は、『急使の悲劇』の演出家である。名をランドルフ・ドリブレットという彼は、役者として重要人物のジェンナーロ(ひとりだけ「トライステロ」と発話した)を演じた男でもあった。
 役者だからなのかどうか、このドリブレットも、エディパの前でかなりのくせ者としてふるまうことになる。弁護士のメツガーをはじめて見たとき、「こんなのは俳優にちがいない」と感じていたのが思い出される→その21
 それは次回以降に見ていくとして、今回の引用部分のあたまには、何とはなしに立ち止まってしまう。
She looked around for words, feeling helpless.
《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。》

「wordsを探す」というのは、たぶんまったく平凡な言い回しなのだろうが、エディパはたとえば、ここサン・ナルシソ市に到着したシーンでも、どこかから何らかの御言葉(words)が発せられたかのようにして、ひとつの啓示を受け取りかけていたのだった→その19
 こちらがその気になれば、つまり、こちらの準備さえ整っていれば、豊穣な意味を汲み出せるはずだった啓示が、ただ目の前を通り過ぎていったと勝手に感じ取ってしまう意識。そこから《関連があるかどうか見たいの。好奇心よ》という台詞は、まっすぐに引き出されてくる。

 そんなエディパに向かって「wordsなんてどうでもいい」と言い放つのが、ほかならぬ演出家ドリブレットなのである。

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2004/04/05

その59 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 第二次大戦中の1943年、イタリアにある〈憐れみの湖[ラーゴ・ディ・ビエタ]〉で、アメリカ軍の中隊がひとつ、全滅した。
 彼らが追いつめられた湖の岸辺には絶壁がそびえ立ち、その上からドイツ軍が激しい銃撃を浴びせる。通信は届かず、援軍はない。敵の爆撃機までが掃射に飛んでくるし、湖は凍るように冷たかった。逃げ場のないアメリカ兵は、それでも数週間ほど粘ったというが、
But they died, everyone, dumbly, without a trace or a word. (p47)

《しかし、彼らは死んでしまった。一人のこらず、黙って、何の跡もなく、何の言葉も残さずに。》p74/p83

 ドイツ軍は彼らの死体と装備のすべてを湖の底に沈めた。

 この時、ドイツ軍のイタリア部隊としてその場にいたのがトニー・ジャガーで、戦争が終わったのちの50年代になってから、仲間と共に骨を引き揚げることになる。
 動機は複雑で、〈憐れみの湖〉を訪れるアメリカ人観光客の関心を引こうとしたとか、そのころ本土で死者崇拝熱が高まりつつあったとか、政府が死体の回収されない戦死者に注意を向けるかもしれないという期待だとか、種々の思惑からトニー・ジャガーはこの骨が「売れる」と判断、〈コーサ・ノストラ〉を通し、人骨をアメリカに運び出した。
 結局、骨はしばらくのあいだ肥料会社の倉庫に眠っていたのだが、そこに煙草会社が目をつけて、フィルター用に買い取ったらしい。

 遺産を管理するメツガーに言わせると、ピアスが株を所有していたのは煙草会社そのものではなく、フィルターの開発会社なので、人骨への支払いに責任はない。しかし弁護士ふたりの議論が始まる前に、〈ザ・パラノイド〉の連中が後ろから口を挟む。
“this all has a most bizarre resemblance to that ill, ill Jacobean revenge play we went to last week.”
The Courier's Tragedy,” said Miles, “she's right. The same kind of kinky thing, you know. Bones of lost battalion in lake, fished up, turned into charcoal--” (p48)

《「いまの話、先週見に行った、あの、十七世紀はじめの、ビョーキのビョーキの復讐劇に気味の悪いほど似ていない?」
「『急使の悲劇』か」とマイルズが言った――「そのとおり。同じように異常だよな。消えた軍隊の骨が湖に沈んでいるのを引き揚げて、炭にして――」》p76/p85

 こうしてまた、ひとつの話から別の話へと、つながりが発見される。

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2004/04/05

その58 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 ボートが動き出す直前、グレーのスーツとサングラスを身につけた男二人が遠くからディ・プレッソを見つけて向かってくる。間一髪、ディ・プレッソを乗せたボートが岸を離れる頃には、追手の数はさらに増えている。これは映画の撮影ではない。
 彼は事情を説明する。実はここでもピアス・インヴェラリティに結びつく出来事が起こっていた。

 弁護士から俳優になったはずのディ・プレッソは、最近また弁護士の仕事も再開し、トニー・ジャガーなる人物の依頼を受けていた。この男は、〈コーサ・ノストラ〉というイタリア系のマフィア型犯罪組織の大物である。
 ピアスが関係していた煙草会社は、フィルターに高級な骨炭を使用していた→その28。その原料になる骨を提供したのは〈コーサ・ノストラ〉だったのに、ピアスは代金を支払わなかったとしてトニー・ジャガーは訴訟を起こす。
 ディ・プレッソはこのマフィア側の弁護士だったのだが、裁判の雲行きがあやしくなったので逃げ出したという。つまり依頼人に追われているのだ。エディパはあきれる。

 話の途中でボートは湖中央の小島に着いた。日のあたるホールの屋上に毛布を広げて酒を飲みながら、大人3人の情報交換は続き、〈ザ・パラノイド〉の子供たちは子供たちで遊んでいる。
 メツガーの明かすところによれば、フィルターの骨炭は人骨から作られている。高速道路の建設会社が、取り壊した墓地から集めた骨を売りつけるのがどうやら一般的であるらしい。
 ただし、〈コーサ・ノストラ〉のルートは別だった。
 彼らはイタリアにある湖から大量の人骨を引き揚げて、アメリカに持ち込んだ。いまエディパたちのいる湖の底に、ダイバーの目を楽しませる小道具として沈められている骨もじつはその一部なのだとディ・プレッソは語る。

 では、そもそも、そのイタリアの人骨は何なのか。だれの骨で、どうしてそこにあったのか。話は20年ばかり過去にさかのぼる。

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2004/04/05

その57 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 やたらと〈トライステロ〉なるもののイメージを盛り上げ、その登場は演芸のようで、はじまりは歴然としていた――とする地の文。ではそれはどのような登場だったのか。
 読んでみると、お世辞にも「歴然と」はしていないと思うのだがどうか。

 生前のピアス・インヴェラリティがよその州でしていた事業について法的な事務手続きがなされるのを待つあいだ、エディパとメツガーは、マイルズはじめ〈ザ・パラノイド〉の少年たち、および彼らのガールフレンド数名と連れ立ってピクニックへ出かける。
 目的地は〈ファンゴーソ礁湖〉といって、ピアスが亡くなるまえ最後に開発していた造成地である。「礁湖」という言葉は見慣れないが、環礁に囲まれた海面、でいいようだ。
 車を走らせながら、エディパは海のことを考える。人間が海べりで何をしても、太平洋は汚されず完全なものとしてある、とか、人間の行う開発に対して海は救済になる、みたいなことを彼女は信じているらしい。

 それはともかく、到着した湖は「インヴェラリティ湖」と名付けられている。その真ん中には円形の島があって、ホールが建っている。湖の底には、円柱や壁の破片やガリオン船、本物の人骨、貝殻などがダイバーを楽しませるために沈められているのだと、かつてメツガーが説明していた→その26。これは人工の湖なのだ。
 車から降りたエディパたちは、食べ物や飲み物を入れたバスケットを手に湖岸を歩く。〈ザ・パラノイド〉の面々が桟橋につながれているボートを盗もうと提案し、さっそく一台のモーターを回した瞬間、別のボートの中から青いポリエチレンの防水シートをかぶった人物が立ち上がり、発した言葉は「ベイビー・イゴール、助けてくれ」。
 子役をしていた頃の芸名→その22で呼びかけられたメツガーは、嬉しくなさそうに答える。「マニー・ディ・プレッソじゃないか」。

 この名前は、やはりモーテルの場面で一度出ている→その27。メツガーの友人で、子役から弁護士になった彼とは反対に、弁護士から役者に転身したという男だ。
「見張られている」と言うディ・プレッソはこちらにやってきて、今まさに盗もうとしていたボートへいっしょに乗りこむ。また厄介そうな人間が増えてしまった。

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2004/04/05

その56 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


〈トライステロ〉はまだ登場していない、ということを何度でも強調したい。

 まだ登場していない、つまり実体のないものをこんなに思わせぶりに予告して不吉なイメージで描くのは、相当奇妙な書き方にみえる。実体よりもイメージが先行して小説の中に現われているのだ。

 しかし落ち着いて考えると、予告だろうがイメージだろうが、〈トライステロ〉という言葉が記されている以上、まさにここで〈トライステロ〉なる存在が生まれていると見ることもできる。
 だいたい、すべてが言葉でつくられる小説という虚構において、実体を示す文章とイメージだけを示す文章とで、どれほどのちがいがあるだろう。
 そうすると、この〈トライステロ〉の書かれ方は、奇妙でもなんでもない当たり前のものになる。

〈トライステロ〉という名前が置かれた瞬間から、〈トライステロ〉は存在を始めている、という説明がもし意味ありげに見えるとしたら、それはたんにこの書き方がものものしくなってしまっているからでしかなくて、本当は平凡なことだ。
 エディパにしても、ページの上に「エディパ」という名前が置かれた瞬間、このキャラクターが存在を始めているのと同じことだと考えれば、どこまでもふつうの現象のはずである。
「あらかじめ存在しているものを、言葉が記述する」だけでなく、「ものは言葉によって書かれることで存在を始める」とする考え方はべつに珍しくない。それに何より小説では、言葉で書かれるより前から「あらかじめ存在」しているものなんか、ない。
 まだ実体のない何かを、あるイメージを生む言葉の連なりで、つまり文章で、描く。すると、そのようなイメージを持つものとして、その何かが小説の中に(読者の中に?)定着する。

〈トライステロ〉が徐々に姿を見せてくるのは、舞台上の演芸(performance)になぞらえられていた。踊り子が服を脱ぐようにして――というイメージを伝える文章は、それじたいが〈トライステロ〉の存在を生む、文章のパフォーマンスである。
 これからも〈トライステロ〉をめぐる文章は地の文に数多く登場し、噂が語られ、少しずつ「どうやらこういうものらしい」という像がエディパのなかで結ばれる。
 では、その実体はいつ現れるのか
 そこを読みとるのがLot 49 を読むことである。だからこれからも、〈トライステロ〉という語が出るたびに、細かくしつこく引用しながら観察しようと思う。
The beginning of that performance was clear enough. (p40)

《その演芸のはじまりは歴然としていた。》p65/p72

ということで、話は続く。

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2004/04/05

その55 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 前回、長々と引用した、「こうやって〈トライステロ〉は現われてきた」とする語り口を見る。

 エディパが観客になった「演芸」の舞台で、踊り子が特別サービスで衣装を順に取り去り、次第に「凄まじい裸身」をあらわにする、そんなふうにして正体を明かしはじめた〈トライステロ〉は、そのままそっと去って行くのか、それとも、
《ぎらぎらした目をエディパに据え、微笑は悪意に満ちた、非情なものとなり、人のいなくなった席の列に一人座っている彼女に向かって、およそ聞きたいと思わないような言葉を発しはじめるのだろうか?》pp64-5/p72

 何度も繰り返すが、ここまで、〈トライステロ〉が何なのかわかるよう書かれた部分はひとつもない。「これから現われるもの」として予告されただけだ→その40。この文章も同様に、まだ見ぬ〈トライステロ〉がどんなものかを思わせぶりに示すだけである。

 喩えとしてストリッパーのイメージが使われているのは、酔っ払ったエディパとメツガーがしていたストリップごっこからつながっている→その31
 もっとさかのぼれば、そこのモーテルにあったニンフ像のまとっている衣装が送風装置でめくれあがり、体があらわになるのを「reveal」という言葉で描いていた(→その20のも、ここにある《〈ザ・トライステロ〉がその凄まじい裸身となって正体を示す(The Tristero could be revealed in its terrible nakedness)》という表現に類似している。

「revelation(啓示)」は、探求の末に見つけ出されるはずのものとして設定されるいっぽうで、突然あちらから訪れてくるものとしても説明されていた→その19
 エディパが聞きたいと願いながらまだ聞こえない声、神の御言葉、それが「啓示」であるとするならば、いまここで、〈トライステロ〉がもたらすことになるのかもしれないとほのめかされる「言葉」、それこそが彼女の求めるものになるのだが、そこのところのイメージは、いつのまにか不穏なものに成り変わっている。
《彼女に向かって、およそ聞きたいと思わないような言葉を発しはじめるのだろうか?》

 知らないほうがいい真実、そんなものがこれからエディパを襲うことになる――と、疑問形であってもこの文章ははっきり告げている。そして、それを媒介するのが〈トライステロ〉だということになるだろう。
 でも、それは何なのだ。

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2004/04/05

その54 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次

So began, for Oedipa, the languid, sinister blooming of The Tristero. Or rather, her attendance at some unique performance, prolonged as if it were the last of the night, something a little extra for whoever'd stayed this late. As if the breakaway gowns, net bras, jeweled garters and G-strings of historical figuration that would fall away were layered dense as Oedipa's own street clothes in that game with Metzger in front of the Baby Igor movie; as if a plunge toward dawn indefinite black hours long would indeed be necessary before The Tristero could be revealed in its terrible nakedness. Would its smile, then, be coy, and would it flirt away harmlessly backstage, say good night with a Bourbon Street bow and leave her in peace? Or would it instead, the dance ended, come back down the runway, its luminous stare locked to Oedipa's, smile gone malign and pitiless; bend to her alone among the desolate rows of seats and begin to speak words she never wanted to hear? (p39-40)

《このようにして、エディパにとって、〈ザ・トライステロ〉はゆっくりと不吉に花ひらきはじめた。いや、むしろ、エディパがどこかのユニークな演芸を見に行って、それがその夜の最終公演かと思われるほどに長引き、そんな遅い時間まで残っている客のために、ちょっとばかり特別サービスをしてくれたようなものだと言おう。まるで紐を一つ引っぱれば分解して落ちるガウン、網目のブラジャー、宝石をちりばめたガーター、バタフライなど、人間の形をした「歴史」が身につけた、たちまち落ちるような品々は厚く層をなしていて、あの、ベイビー・イゴール映画の前でメツガーとやったゲームの、エディパが着ていた数々の衣裳のようなのだ。まるで暁をめがけて飛びこむようなもの、〈ザ・トライステロ〉がその凄まじい裸身となって正体を示すまでには、いつ明けるとも知れぬ暗闇の時間が必要だというふうである。正体をあらわしたとき、害をなすことなく、たわむれながら舞台裏へ引っこんで行き、ニュー・オーリンズのフレンチ・クォーター、バーボン通りふうのお辞儀をして「おやすみなさい」と、エディパをそっと、そのままにして消えるだろうか? それとも、そうならないで、踊りが終わると、花道を戻ってきて、ぎらぎらした目をエディパに据え、微笑は悪意に満ちた、非情なものとなり、人のいなくなった席の列に一人座っている彼女に向かって、およそ聞きたいと思わないような言葉を発しはじめるのだろうか?》pp64-5/pp71-2

 この文章は何を書いているのだろうか?

〈トライステロ〉という言葉そのものは、以前、「その41」から「その43」までで見た、第3章の冒頭で初登場していた。上記の引用部分が本書2回めの登場である。1回めもいきなりだったが、今度もいきなりだ。
 ここまで何の説明もなかったにもかかわらず、
《このようにして、エディパにとって、〈ザ・トライステロ〉はゆっくりと不吉に花ひらきはじめた。》

ということは、第3章の冒頭からここまでのあいだに〈トライステロ〉について何らかの情報が出ていたことになる。こう書かれてあったら、そう受け取るしかない。
 そしてここまでに出てきた何らかの組織についての情報は、

・〈ピーター・ピングイッド協会〉
・落書きで示される「WASTE

 このふたつしかない。
 では、上に長々と引用した文章は、このどちらかが、あるいは両方が、きっとこのあと出てくるのだろう〈トライステロ〉につながるという、いわば予告の文章なのだろうか。
 しかし3章冒頭と同様、ここでも、この文章じたいがゴテゴテと凝った書き方をされており、この凝り方によって、さらに多くのことをこちらに伝えてくるように見えるのである。

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2004/04/05

その53 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


 前回まで〈ザ・スコープ〉というバーのシーンだった。
 ここでエディパは、ファローピアンたち〈ピーター・ピングイッド協会(PPS)〉という組織が、政府の正規ルートを介さない郵便で通信を行っているのを見た→その49。その合間に彼女は、女子トイレで謎のマークと「WASTE」という言葉も目にしている→その48
カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて。p61/p68

 このメッセージから推測すると、「WASTE」というのも何らかの通信機関や通信手段ではないかという気がする。
 ただし、ファローピアンはこの「WASTE」について何も言及していないし、本文にも、これとPPSとの関係(あるいは無関係)を示すような文章は一切なかった。
〈ザ・スコープ〉はPPSの会員であるヨーヨーダイン工場員のたまり場なのだが、この落書きにファローピアンたちが気付いているのかは不明である。もちろん、PPSのだれかがこれを書いた可能性もある。

 そこから章が変わるわけでもなく、1行分の空白が開くわけでもなく、ただふつうの改行をしただけで、このLot 49 という小説は、不思議な語りを繰り出してくる。第3章の冒頭と同じくらい「仕掛けてきた」感の強いその文章をここに引用したいが、それは非常に長いので、次回にまわすことにする。

 そうだ、この読書ノートは、いつのまにか50回を越えていたのだった。

 はじめた頃は「タイトルが“49”だからちょうど49回で終わったらきれいだろうな」と小賢しく計算していたのだが、いまだに原書で全152ページ中の39ページまでしか進んでいないのだから、自分の性格をまったくわかっていなかったとしか言いようがない(訳書だと229ページ中の64ページまで)。
 内容はともかく、更新それじたいを生存確認としてお使いください。

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2004/04/05

その52 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 ところで、〈ザ・スコープ〉のシーンが始まるときにも、このバーを見つけたのはムーチョから手紙が来たのと同じ日だったかもしれない、などと曖昧な書かれ方がされていた→その45
 できることなら小説内の出来事すべてを起きた時間順に並べ直した一覧表を作ってみたい自分としては、「わざと時系列がわからなくなるようにこんな書き方がされているんだ」と考えるが、店内のシーンが終わるときにもまた、《もっとも、この夜は、そこまで彼女に対して押し進めたことは言わなかったが》と、時間を確定できなくする書き方がされていたことになる。
 このバーは小説の時間を乱す場所なのか。たしかに、酒で時間を乱している人はよく見るけれども。

■ 思いつきをもうひとつ:

〈協会〉の通信活動の背景をなす私設郵便史を研究していることから考えると、エディパたちに気さくに話しかけてきたファローピアンという男は、意外と〈協会〉の中心にいる人物なのかもしれない(そうではないかもしれない。書いていない)。

■ もうひとつ:

 前々回にもリンクを貼った、合衆国郵便のサイトにある歴史のページを眺めていたら、「郵便の再編」というトピックが目についた。もちろん、小説にあった事業の独占化なんてものではなく、南北戦争から100年あまりあとにあった構造改革である。
 その結果、アメリカの「Post Office Department(郵政省)」は1971年に廃止されて、「United States Postal Service(米国郵政公社)」になったという(訳語は辞書から引き写し)
 Lot 49 の出版は1966年だから、小説のなかで「米国の郵便」「政府の郵便」「正規の郵便」とされているのは前者だった。21世紀のいまとは、組織がちがうのだ。
(原書ではたしか「Post Office Department」なんて表記はなしに「US mail」などと書かれていた気がするが、あまり自信はない)

 さっきのページの前段を見て、1971年の大きな改革に至る動きが始まったのがやはり1966年だったというところに勝手な「符合」を見てよろこぶような人間が書いているのだから、このピンチョン読書ノートはほんとうに信用できるものではないと思う。

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2004/04/05

その51 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

前回…] [目次


「権力」「抑圧」「対抗」と、ファローピアンの説明した内容はかなりストレートだが、この説明の示され方にはいくらかのひねりが加えられている。前回引いた部分を含めて、そのひねられ具合を見ておきたい。
He saw it all as a parable of power, its feeding, growth and systematic abuse, though he didn't go into it that far with her, that particular night. (p39)

[ファローピアンは主張する、]それはすべて権力の譬えばなしなのだ、権力が授乳期、成長期を経て組織的濫用にいたるという譬えばなしだと。もっとも、この夜は、そこまで彼女に対して押し進めたことは言わなかったが。》p63/p71

 ということは、読者に伝えられたファローピアンの主張(前回まとめた内容)を、エディパは彼にはじめて会ったこの時点ではまだ知らないのである。
 この晩彼女の記憶に残ったのは、彼の体型とか整った鼻の形とか、そんなことでしかなかった、といって〈ザ・スコープ〉のシーンは終わる。

「作中で示されたこと」と、「作中人物であるエディパが知っていること」に、ずいぶん開きがある、とはこれまでも何度か書いたことだが、繰り返すと、このLot 49 では、エディパと地の文のあいだにあるズレ(どんな小説にだってあるはずのズレ)が、しきりに強調されているように見える。
 言い換えると、作中人物とは別の次元にある「語り」の自己主張が激しいのだ。

「作中で示されたこと=小説が語っていること=書いてあること」をぜんぶ読む読者のわれわれは、それらの情報の限られた一部分しか知らない作中人物・エディパと同じところには立っていない。
 引用部分から、読者はファローピアンの唱えるところの被抑圧史観を知り、同時に、「エディパはこの考え方をまだ知らないんだな、すると彼女はこの後また彼に会って話をし、そのうち教えられるんだな」というふうにズレを意識させられる。
 しかし、「書いてあること」をなるべく取りこぼさないように追いかけながら、並行して「エディパの知っていること/知らないこと」を分類しつつ読み進めるのは、なかなか難しい。そんなことは無理なんじゃないかという気もする。
 なぜなら、「ページの上に書いてあってエディパも知っていること」も「ページの上に書いてはあるけどエディパはまだ知らないこと」も、どちらも等しく文章で書かれている以上、エディパならざる読者は、書かれてあることは、書かれてある順に、なんでも受け取ってしまうものだから。

 ファローピアンの説をエディパはこの夜ではなくいつ知ったのか、それはおそらくどうでもいい。《もっとも、この夜は、そこまで彼女に対して押し進めたことは言わなかったが。》という断り書きがここに付け足されている理由は、ズレの強調以外にはないように思う。

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2004/04/05

その50 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


 そもそもファローピアンは、合衆国における私設郵便の歴史を調べているアマチュア学者なのだった。それについての本まで執筆中だという彼は、エディパとメツガーに簡単なレクチャーをしてくれる。
 まずはこうだ――南北戦争と郵便制度の改革には、つながりがある。

 政府は19世紀の中頃から法律の制定を繰り返し、それまで独自に展開していた多くの私設郵便、つまり民間の郵便組織を破綻に追い込んだ。
「政府」とは、もちろんその後の南北戦争における北部連邦政府で、1861年に南部との戦いが始まると、私設郵便に対する抑圧はいっそう激しさを増したという。
 これはただの偶然ではない、とファローピアンは言う。合衆国を再編する流れのなか、郵便を独占事業にしようともくろんだ政府が、「改革」の名のもとで私設郵便を潰しにかかったのだ。
He saw it all as a parable of power, its feeding, growth and systematic abuse[…] (p39)

《それはすべて権力の譬えばなしなのだ、権力が授乳期、成長期を経て組織的濫用にいたるという譬えばなしだと。》p63/p71

 あるとき突然「違法」とされた私設郵便を、権力から一方的な抑圧を受ける側の典型としてとらえる。虐げられる彼らの歴史は、裏返せば、虐げる権力の歴史である。だからこそ、いま〈協会〉の行っている「合衆国郵便を使わない手紙のやり取り」が、政府への対抗活動になるのだ。

 とはいえ、ピーター・ピングイッドにまつわる史実についても微妙に間違っていた→その46ように、注釈書によれば、この「抑圧の歴史」も大づかみすぎて正確ではないということになる。
 しかしながら、政府による改革が必然的に私設組織の抑圧を伴ったという基本図式に間違いがない以上、〈協会〉のやっていることは(実効性はともかく)意義があるように見えなくもない。

 そう考えてみると、いまさっき行ってみた合衆国郵便のサイトにある、「郵便の歴史」――当然、抑圧についてはひと言もなしに改革を語る、政府の側から見た歴史――が、うしろで暴虐をふるいながらおもて向きはもっともらしい顔をしている「権力」に見えてくるのだから、なんというか、自分はあまりにも人の影響を受けやすいと思った。こういう人間がいちばん危ない。何の話だ。

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