2004/04/05

その88 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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She left, and was all the way outside before thinking, I went in there to ask about bones and instead we talked about Trystero thing. (p63)

《その場を去り、ずっと外へ出てしまってから、私は骨のことをききに行ったのに、その代わりにトライステロのことを話していたと思った。》p97/p109

 いやいや、実際のところエディパは、骨の話もしていなければ、トライステロのことも何ひとつ聞き出せなかった。
「骨のこと」とは、『急使の悲劇』中の骨のエピソード(ファッジオの兵士が湖に沈められ、その骨が炭として使われる)と、ピアス・インヴェラリティ絡みの骨のエピソード(イタリアの湖から引き揚げられたアメリカ兵の骨が炭として利用される)が似通っているのには何かつながりがあるのか、という問題だった→その76~

 あれはどの程度まで偶然だったのか(how accidental it had been)と、エディパは考えている。こんな類似がまったくの偶然だとは思えないでいるのだ。これはエディパの考えすぎではなく、当然の疑いだと思う。
 メツガーは、喧嘩していたにもかかわらず→その81、エディパを待っていてくれた。ここでこの第3章は終わるのだが、最後の最後で、この小説は何かの念を押す。
Metzger had been listening to the car radio. She got in and rode with him for two miles before realizing that the whimsies of nighttime reception were bringing them KCUF down from Kinneret, and that the disk jockey talking was her husband, Mucho. (p63)

《メツガーはカー・ラジオをきいていた。エディパは車に乗り込み、彼といっしょに二マイルほど走ったところで、夜間の受信状態の気まぐれからキナレットのKCUF放送が入っていて、いましゃべっているディスク・ジョッキーは夫のムーチョだと気づいた。》p98/p110

 これもまた、どの程度まで偶然なのか、エディパといっしょに読者も考え込まざるをえない出来事である。
 まったくの偶然にはとても思えない。であれば、つまり偶然ではないつながりがあるならば、そのつながりを仕組んだものがいるはずで、その存在に発する何らかの意図が働いていることになる。それは何か。
 骨の話にしろ、ラジオのムーチョにしろ、偶然ではない、と決めてしまえば推論は確実にここまで進展していくはずだが、当のエディパがどこまで意識しているのか、それを明らかにしないうちに章の区切りが来てしまう。

 次回から(やっと)第4章。

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2004/04/05

その87 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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 ドリブレットの考え方には、もうひとつおそろしさがある。

 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ丹念に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめないよ、と彼は言っている。
 ここでは芝居『急使の悲劇』の話だったが、これはむしろ、彼の現実認識一般に拡大してとらえるべきだろう。するとこうなる。
 ぼくの現実はぼくだけのもので、ほかのだれにも見ることはできない。ぼくが映写機になって外部に投影する星空、それがぼくにとっての現実だ。

 現実についてのこのような見かた、いわば「人間=映写機」論には見おぼえがある。それはほかならぬエディパの現実認識で、第1章の終わり、レメディオス・バロの絵画になぞらえて語られていたものだ→その9~

大地のマントを織りつむぐ」というバロの絵を見て、これは私のことだとエディパは感じた。そこに描かれている囚われの少女たちと同じように、私が生きている世界、私が見ている現実は、私が自分でそのように織りなしたものであり、私が私である以上、私はそこから出ることができない→その10

 世界も現実も、私が/ぼくが独りで作っているものでしかない。そう思い定めている点で、自分の塔に閉じこもり外の世界を織っているというエディパの現実観と、自分を映写機として外に世界を投影するというドリブレットの現実観は、双子のようによく似ている。
 ただしエディパが、「私はここから出られない」と悲観的になっているのに対して、ドリブレットはそうではない。彼は逆に、創造の楽しみめいたものを感じているようにも見える。というのは、「ぼくの見てるものは誰にもわからないよ」という認識は、エディパのような諦念ではなく、「ほかの誰にも作れないものをぼくは作っているのさ」という自負に転じているように見えるからだ。
 それなのに、あるいは、それだからこそ、ここではドリブレットのほうがより淋しげに映る。
 もしぼくが消えてしまったら、ぼくの演出した、ぼくの意図を込めた今日の芝居も、消えるだろう。残るのは実在したものだけだから、郵便組織「テュルーン、タクシス家」は残るだろうし、その敵(トライステロ!)も、実在したなら残るだろう。でもそんな化石に意味はない――

 そんなふうに、芝居のあと、ドリブレットがシャワーを浴びながらエディパの質問に答える(つまり、答えない)この短い場面は、自分は孤独であるほかないのだと決めつけたふたつの魂が、一瞬だけ交差して、すぐに別れていく味わい深いシーンであるはずだが、それと同時に、動きはじめたエディパの探求にいきなりベッタリと巨大な疑問符が貼り付けられる、問題含みのシーンだということを繰り返しておく。
 結局のところ、ドリブレットが「単なる言葉にぼくは命を吹きこんだ」とか「どれだけ言葉を調べたって、真実には行き着けない」というときの「命」や「真実」の内実は、なんにもわからない(彼以外にはわかりようがない)ということだけが、わかったのだった。

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2004/04/05

その86 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 きみがぼくの恋人になってくれれば、ぼくの内面や無意識をさぐるヒントだって手に入れることができるだろう、とドリブレットはエディパに語りかける。本気ではない。そんなことはやめなよ、と言っているのだ。
"You can put together clues, develop a thesis, or several, about why characters reached to the Trystero possibility the way they did, why the assassins came on, why the black costumes. You could waste your life that way and never touch the truth. Wharfinger supplied words and a yarn. I gave them life. That's it." He fell silent. (pp62-3)

《「手掛かりをつなぎ合わせて論文が一つ、いや、いくつも書ける――なぜ登場人物がトライステロの可能性に対してあんなふうに反応したのか、なぜ刺客が登場したのか、なぜ黒いコスチュームか。そういうことを書いて一生をむだにして、真実に触れることもない、というふうにもなれるわけだ。ウォーフィンガーは言葉と話を提供した。ぼくがそれに生命を吹きこんだ。というわけさ」それきり黙ってしまった。》p97/p109

 こんなふうに考える人間が相手では、これ以上問い詰めても、おだててもなだめても無駄である。だからエディパは、自分の前に「トライステロ」の影をちらつかせた男から退却するしかない。

 徐々に探求に深入りをはじめていたエディパ。○○を見つけたい、という対象を持たず、ただ、目の前に不思議とつながりをもっていそうな事物が次々あらわれるので、好奇心に駆られて動いているだけなのが彼女である。「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」→その81
 2つでも3つでも、複数の物事のあいだに「関連がある」と知るには、手掛かりを探し、積み重ねていく作業が必要だ。エディパはそれをするつもりである。実際、これからするだろう。
 しかし、そのような今後の探求の進み行きに対し、ドリブレットはこの時点で、「手掛かりを集め、つなぎ合わせて答えを見つけるような行為に意味なんかないよ(そんなことをしたって真実には触れられないよ)」、と言っている。

 いくらなんでも意地が悪い。そう感じてしまうのは、次々に謎めいた事物が登場するこのLot 49 を読み進むという行為には、どうしても、エディパに自分を重ねていくという部分があるからだ。
 読者に向かってはこの第3章のはじめで予告されていた名前(トライステロ)が、エディパにとっても蠱惑的な謎として姿をあらわし、いよいよ本格的に話が動いてきたと見えるこの時点で、あっさり「探求に意味はない」と冷や水を浴びせかける登場人物が出てくるのは、端的に、どうかしている。
 エディパに対してではなく、ドリブレットに対してでもなく、この小説に対して、「謎を解く気はあるのか」と言いたくなる。

 もちろん、脇役のひとりに過ぎないドリブレットの信念を、すべて真に受けないといけない理由はない。しかし、エディパの知識がようやく読者の知識に追いついて、つながりを探すあやふやな探求の核が形成されそうになっている、そんな場面の直後にこの発言が来るのは、なんだか不吉である。
 エディパの探求は、まだスタート地点にいるうちに、あらかじめ無効宣言が下されてしまっている。
 これが彼の台詞のひとつめのおそろしさである。

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2004/04/05

その85 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

前回…] [目次


・「トライステロ」を知っている者が、秘密を隠す微笑をする
・「トライステロ」の刺客の姿を、実際に舞台上に出す

 どうしてこのような演出を加えたのか、というエディパの(そして読者の)問いに、ドリブレットは答えない。
 演出からして、この人は「トライステロ」なるものについて何かを知っているにちがいない。それを教えてもらえれば、自分が巻き込まれている探求の大きなヒントになるはずだ。何の根拠もないままそんな直観を抱くエディパに、ドリブレットは言う。
 きみたちは言葉(words)に取り憑かれているんだ、あの芝居が存在するのは、台本のコピーの中でも、もとのペーパーバックの中でもなく、ぼくの中なんだ――
"That's what I'm for. To give the spirit fresh. The words, who cares? They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right? But the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium, all the closed little universe visible in the circle of that stage is comingout of my mouth, eyes, sometimes other orifices also." (p62)

《「だからぼくの存在の意味があるんだ。精神に肉体を与えること。言葉なんてどうでもいい。言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ? だけど、現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ。あの舞台の円形の中に見える閉ざされた小宇宙はぜんぶ、ぼくの口から、目から、ときにはそのほかの穴からも、出てきたものさ」》p96/pp107-8

「言葉なんてどうでもいい」と断言するドリブレットの言葉から、それでも考えていくと、彼が言っているのはこのようなことになるかと思われる。

 ドリブレットが芝居で表現したいのは、台詞(言葉)のひとつひとつではない。それは手段でしかない。
 頭の中に何かがある。その何かを外に出すためには、言葉で書かれた戯曲が必要になる。
 ただしそれは、何かを言葉(役者の台詞)で表現する、ということではない。何かは言葉に翻訳できないものである。
 おそらく、言葉というのは道路のようなもので、便宜的にそれを利用することで、頭の中にあるものを外に運び出せる(表現できる)。重要なのは道路を使って外に出される何かであって、道路ではない。
 言葉=道路、というたとえを使うと、何かはトラックの荷台に載せられて舞台上に運ばれてくるかのようなイメージになるが、ドリブレット自身の比喩に従えば、何かは「ぼく」の台本を介して、つまり役者の体と言葉を映写機として、プラネタリウムのように舞台上へ投影される。ドリブレットはそう考えている。
 プラネタリウムで見るべきなのは、投影された星座であり小宇宙である。映写機をつつきまわしても仕方がないのと同じように、芝居を見て言葉ばかりを云々するのには意味がない。
 どれだけ細かく言葉をたどっても、何かは見つからない、ということだ。

 では、星座として、小宇宙として投射される何かとはなんのことか。
 ここまで、頭の中にある何か、という言い方をしてきたが、もう一度ドリブレットの台詞を(言葉を!)見れば、彼はあっさり、頭の中に現実があると言っている。
the the reality is in this head. Mine. I'm the projector at the planetarium
《「現実はこの頭の中にあるんだ。このぼくの頭の中。ぼくはプラネタリウムの映写機だ」》

 だから、上の説明の何かはすべて、ドリブレットにとっての現実、と置き換えて読むことができるはずである。

 そうやって読み直してみると、これはひどくおそろしい考えだ。
 ぼくの言葉をどれだけ細かく調べても、どれだけ精密に台本を読み解いても、ぼくが見ている現実はつかめない。だからそんな意味のないことはやめたほうがいいよ、と、彼はそう言っている。
 おそろしい考え、とさっき書いた。そのおそろしさは2種類ある。

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*上記引用中、ここがどういう意味なのか自信がない。

They're rote noises to hold line bashes with, to get past the bone barriers around an actor's memory, right?
《言葉ってのは俳優の記憶を取り囲んでいる骨の障壁を突破するための、ゴール・ラインの小ぜりあいを押さえておくための、機械的な音だろ?》

 人間の頭の中にある(頭蓋骨に囲まれている)記憶は、ふつう、外には出てこない。でも俳優は、自分のものではない言葉(劇の台詞)を喋ることで、じつは自分の記憶を外に表現できる、というようなことだろうか。大事なのは頭の中にあるもの(この場合は「記憶」)のほうで、それを引き出すために使われる台詞ではない、と。
2004/04/05

その84 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

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“ドリブレットは何かを知っている(ように見える)が、どうも気のないふりをしている(ように見える)。”
 カッコの中はエディパの観察だが、この前後は彼女の視線を通して地の文が書かれていくので、エディパの目は読者の目にも重ねられていく。
 当たり前でありながら、これはつくづくえらいことだと思う。逆から見れば、ドリブレットがエディパに向かってかける言葉は、エディパに重なっている読者にも向けられることになるのだから。
 その構図を踏まえて次を読むと面白い。
"Why," Driblette said at last, "is everybody so interested in texts?"
"Who else?" Too quickly. Maybe he had only been talking in general. (p61)

《「どうしてみんな」と、やがてドリブレットは言う――「こんなにテクストに興味をもつんだろう?」
「私のほかにも?」もう少し間を置くべきだった。彼は一般論をしているだけなのかもしれないじゃないか。》p95/p106

 そう、エディパのほかに、読者も台本を気にしている――と口を挟みたくなるが、ドリブレットが言っているのは、もとの戯曲(リチャード・ウォーフィンガー作)をめぐる学問的な論争はうんざりだ、ということであるらしい。そう言って彼は《見憶えのある微笑をした。》
 その微笑が、劇中で何度も見せられた微笑であることにエディパは気付く。
 つまり、ニコロを追う刺客、劇の最後になってから〈ザ・トライステロ〉という名前がわかる謎の組織について、舞台上の人間たちが決してその名を出さずに、しかし全員がわかっている状態で、秘密を共有する者として演技を続けていく場面で浮かべていた、意味ありげで思わせぶりで不気味な表情→その72その73を、それを演出した当のドリブレットがいま、芝居が終わったあとの楽屋で観客ならぬエディパひとりに向かい、浮かべている。冷気が忍び寄り、エディパは怖気をふるう。
『急使の悲劇』の登場人物たちは、微笑の裏に「トライステロ」の存在を隠していた。それと同じ表情をしているドリブレットにエディパは、トライステロについてではなく、微笑そのものについて訊ねる。そしてこのようなことがわかる。

・あの「意味ありげな微笑」は、ドリブレットによるオリジナルの演出だった
・また、ニコロが殺される直前、黒衣の刺客が3人姿を見せるのも、ドリブレットの演出だった
・原作のリチャード・ウォーフィンガーは、微笑の指示はしていないし、刺客の姿も見せないようにしていた

 次の質問は、もちろん「その変更の理由は?」ということになる。

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2004/04/05

その83 ― ピンチョン Lot 49

The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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 ドリブレットはシャワーに入る。エディパは『急使の悲劇』の台本を見せてくれるよう頼むが、そこには複写しかない。
(この楽屋のシャワールームは、背の低い扉で区切られているだけなので、エディパにはドリブレットの首から上だけは見えている)
"Hey," she yelled into the shower. "Where's the original? What did you make these copies from?"
 "A paperback," Driblette yelled back. "Don't ask me the publisher. I found it at Zapf's Used Books over by the freeway. It's an anthology, Jacobean Revenge Plays . There was a skull on the cover."
 "Could I borrow it?"
 "Somebody took it. […]" (pp60-1)

《「ねえ」とシャワーに向かって大声で――「原本はどこにあるの? このコピーを取ったもとのものは?」
「ペーパーバックの本だよ」とドリブレットがどなり返す。「出版社は知らない。ハイウェイのそばのザップフの古本屋で見つけたんだ。戯曲集だよ、『ジェイムズ朝復讐劇集』っていうんだ。表紙に頭蓋骨の画がある」
「お借りしていいですか、それ」
「だれかがもって行ってしまったよ。」》p94/pp105-6

 ぜひともチェックしたい台本は消えている、と、この男は言っている。
 それだけでも都合がよい(=あやしい)が、続けてドリブレットは、そのザップフという古本屋には同じ本がもう1冊あった、いまもあるかもしれないよと述べる。もちろん、エディパの反応は以下のようになる。
Something came to her viscera, danced briefly, and went. "Are you putting me on?" For awhile the furrowed eyes only gazed back. (p61)

《何か腹にこたえる感じがあって、ちょっともやもやしてから消えた。「私をかついでいるんじゃない?」しばらくのあいだ皺に囲まれた目は、じっと見返すだけであった。》p95/p106

 エディパは、まず「ドリブレットは何かを知っている」と感じている。そのうえで、たび重なる都合のよさから「私をかついでいるのでは?」と疑いを抱くのだから、ひとりで振り子運動をしているわけだ。メツガーとはじめて対面したとき、あまりにいい男なので「私は騙されているのでは?」と疑った姿が再び思い出される→その21
 メツガーにしてもドリブレットにしても、あるいは夫のムーチョにしても精神科医のヒレリアスにしても、エディパの前に現れる男たちの言動は、みんな芝居がかっている
 しかしそこから発する、うしろに何事かを隠しているのかもしれないうさん臭さと、彼らのふるまいがコミカルである(うしろには何もない)という印象は、おそらく分離しようがない。そんな合わせ技が、男たちの人数分だけ、主人公のエディパ一人にのしかかる。彼女にできるのは、ただ“疑う”ことだけだ。

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2004/04/05

その82 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び (ちくま文庫)

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 タンク劇場の奥へ奥へと入っていったエディパが見つけたドリブレットは、まだ舞台で演じたジェンナーロの衣装をつけたままだった。
She couldn't stop watching his eyes. They were bright black, surrounded by an incredible network of lines, like a laboratory maze for studying intelligence in tears. They seemed to know what she wanted, even if she didn't. (p60)

《彼の目から視線をそらすことができない。きらきらと黒く、そのまわりは信じられないほどの皺の網目だ。まるで涙の中に入っている情報を研究するための実験室の紛糾した装置の迷路のようだ。彼女が知らなくとも、彼女が知りたいと思っていることを知っているような目であった。》p93/pp104-5

 危ない! と叫びたくなるが、本当はもう遅い。
 自分が何を知りたいのかわかっておらず、ただ「知りたい」という気持だけに衝き動かされている、そんな状態のエディパの目に、このドリブレットという男は、彼女が何を知りたがっているのか知っていて、それを教えてくれそうな存在として(いきなり)映っている。なぜか。
 ここでそのような「自分の知らないことを知っていそう」な雰囲気を醸し出しているのは、《信じられないほどの皺の網目(an incredible network of lines)》である。思えばエディパはこういうものに弱かった。

その18」にあった、丘の上から見たサン・ナルシソの眺めと、そのとき思い出したトランジスターの回路。あるいは「その26」、テレビのCMで見た人造湖の地図。そういった神聖文字めいた形象を、エディパは“何らかの意味を秘めているのに、その意味が自分には読み取れないもの”として受け取っていたのだった。

 しかしそれらのときでさえ、「読み取れないけど、意味がある」というのは、「読み取れないんだから、秘密の意味がある」との思い込みが逆さになって生まれていたようなものだったのだから、このエディパという人間は意味を求める欲求が過剰であるように見えたものだが、いまここに至っては、男の目を囲む皺に一撃でハートを射貫かれている。

 それに対してドリブレットは、「きみは『急使の悲劇』について聞きに来たんだろうけど、あれに意味なんてないよ」と言う。
 まるで彼女の思い込みを見抜いており、軽くいなすような口ぶりなのが面白い。そして、そんなふうに感じてしまうからには、読んでいるこちらにもいくらかエディパが伝染ってきたのかもしれない。

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2004/04/05

その81 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


『急使の悲劇』は、舞台上で「トライステロ」という語が発されたあたりでほとんど終わりのようで、それからたいしたことは起こらない。
 ジェンナーロに率いられたファッジオの軍勢がスカムリアに攻め入り、一面血の海、死体の山となったところで幕だという。説明までぞんざいだ。

 しかし、アメリカ兵の骨がイタリアの湖に沈められたのちに引き揚げられたという、ピアスの地所にまつわる話→その59が、劇中にあった、ファッジオ近衛兵の骨のエピソードとかぶっていたこと→その76を、放って帰るわけにはいかない――と思い込んでいるのが主人公のエディパである。
 二十年前に戦死したアメリカ兵の骨が煙草のフィルターになっていることなんて今さらどうでもいいじゃないか、きみは傍迷惑な正義感のかたまりになってるぞ、と怒り出すメツガーに、いいえそうじゃない、そんな動機じゃないの、と彼女は抗議する。
She looked around for words, feeling helpless.
 "What then?" Metzger challenged, getting to his feet, looming. "What?"
 "I don't know," she said, a little desperate. "Metzger, don't harass me. Be on my side."
 "Against whom?" inquired Metzger, putting on shades.
 "I want to see if there's a connection. I'm curious." (p59)

《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。
「じゃ何だい?」とメツガーは挑戦しながら立ちあがり、暗がりにぼおっと姿が浮かぶ。「何だよ?」
「わかんない」と、やけ気味になって、「メツガー、苦しめないでよ。私の味方になってよ」
「敵はだれさ?」とメツガーはきいてサングラスをかける。
「関連があるかどうか見たいの。好奇心よ」》p92/pp103-4

 好奇心。読者としてはおそらくそうなんだろうと思っていたが、エディパ自身、自分はただ「知りたい」という内側からの欲求で動いているだけなんだとわかっていることが示されている。その自覚は“冷静”とも映るし、“わかっているのに止められない”とも映る。それで彼女は、ひとりで劇場の楽屋まで押しかけていく。
 ここでは、前回までしつこく見たような、小説主人公を翻弄している、というような関係はすでに見えなくなっている。知りたがる主人公のおかげで、小説が進んでいる。
 それはまったく当たり前であるはずのことだが、では、あの(いわば)小説主人公が分離しているかのような書きぶりはなんだったのだろう。この小説は、エディパに何をしようとしているのだろう、と、いっそうの警戒心を携えながら読んでいくことになる。

 エディパの訪ねる相手は、『急使の悲劇』の演出家である。名をランドルフ・ドリブレットという彼は、役者として重要人物のジェンナーロ(ひとりだけ「トライステロ」と発話した)を演じた男でもあった。
 役者だからなのかどうか、このドリブレットも、エディパの前でかなりのくせ者としてふるまうことになる。弁護士のメツガーをはじめて見たとき、「こんなのは俳優にちがいない」と感じていたのが思い出される→その21
 それは次回以降に見ていくとして、今回の引用部分のあたまには、何とはなしに立ち止まってしまう。
She looked around for words, feeling helpless.
《彼女はあたりを見まわして言葉を探すが言葉は見つからない。》

「wordsを探す」というのは、たぶんまったく平凡な言い回しなのだろうが、エディパはたとえば、ここサン・ナルシソ市に到着したシーンでも、どこかから何らかの御言葉(words)が発せられたかのようにして、ひとつの啓示を受け取りかけていたのだった→その19
 こちらがその気になれば、つまり、こちらの準備さえ整っていれば、豊穣な意味を汲み出せるはずだった啓示が、ただ目の前を通り過ぎていったと勝手に感じ取ってしまう意識。そこから《関連があるかどうか見たいの。好奇心よ》という台詞は、まっすぐに引き出されてくる。

 そんなエディパに向かって「wordsなんてどうでもいい」と言い放つのが、ほかならぬ演出家ドリブレットなのである。

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